「当事者・経験者ゆえにできる言語化」?

ひきこもりの当事者・経験者によるサイトやBLOGがたくさんありますが(うちもその一つ)、それらの意義というのは、どういうところにあるんでしょうか。
先日からのエントリなどを参照して言えば、当事者の言葉は、まずは「葛藤に満ちた内面をこねくり返す独り言」みたいなものでしかないのだと思います。これはこれで、本人にとってのささやかな「言語努力」であり、他者との回路をまさぐるリハビリ作業になっているのかもしれないし、そういう作業をひそかに読んで、慰めや励みを得ている読者も多いのだと思います。 これはまさしく「当事者・経験者にしかできない言語化の作業」であり、本人にとっても、あるいは一部の読者にとっても、「必要な言語化」なのだと思う*1。――しかし、政治的・社会的展開については、かなり孤立したものと言わざるを得ないのではないか。単純に言って、そうした独り言に「共感できない人たち」にしてみれば、それら「共感の共同体」の存在は無に等しいし、極めつきの社会的弱者の漏らす独り言は、孤立した単発の共感者を生み出すに終わり、「何か状況を変える」動きにはならない。状況を放置しても私たちの生が安泰ならばそれでいいのだが、放置すれば私たちが追い詰められる一方だとすれば、そして再復帰にチャンスも見込めなさそうだとすれば、「何かを変えなければ」ならないのだが、どうも「当事者の独り言」からは、そうした手がかりは見えてこない。「苦しい」といううめき声と、「でもやっぱり仕事しなきゃ」*2という単純素朴な思い込みを、往復するだけ・・・・。
そこで、当事者発言のもう一つの要因、「共有できる事業を目指す社会的言語活動」という側面が問題になる。 → 「独り言」から「社会活動」への移行は、漸進的なもの、あるいはグラデーション的なものだと思うのだが、当事者・経験者としての表現行為に、≪社会活動≫という要因が伴い得ることを自覚している人は、どの程度いるのだろうか。私としては、そのような自覚をもつ方々と、何か努力を共有できれば、と思うのだが・・・・。





*1:拙著の前半部分はそういう試みだったと思います。

*2:それは、単に過酷な労働条件に苦しむ底辺労働者を再生産するだけでしょう。