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2005-04-30

東京シューレによる「見解」への、貴戸理恵氏からのコメント(PDF) 東京シューレによる「見解」への、貴戸理恵氏からのコメント(PDF)を含むブックマーク

ご本人のHPより。

あくまで一読者としての感想だが、この「コメント」は見事だと思う。*1

シューレ側が、やみくもに貴戸氏を潰しにかかろうとするのではなく、対話的な協力関係を模索してくれることを期待するが・・・・。

【追記:今日は時間が取れませんが、後日あらためて私の考えを書いてみます。】


*1:『不登校は終わらない』初版「あとがき」にはかなりゲンナリきたが。

2005-04-28  情報

27日、梅田で、岸政彦さん、「かなりあしょっぷ」の皆さん、樋口明彦さんと、6月26日のイベントの打ち合わせ。

楽しかった・・・・。



言説化 言説化を含むブックマーク

自分でも途方に暮れているのだが、僕はみずからを当事者的にできない、はっきり言えば「ひきこもり」に関連付けることのできない話題をそれ自体として論じる能力が、ほとんどまったくない。 政治や経済の「テーマそのもの」を抽象的に論じようとして、異様にくだらない言説を出してしまったことが何度かあって・・・・。


ネット上(MLなど)でも何度かあるし、いちばん痛恨なのは、『教育』という雑誌(図書館などにあります)に提出してしまった原稿。 3年ほど前だが、体調をひどく崩し、1文字も書けないまま迎えた〆切り当日に必死で書き上げて送信した原稿を、体力回復後に読み直して頭を抱えた・・・・。*1

それ以後、何かを論じようとする時に、いつもこの時のことを思い出す。 「体調が悪かったから」というのは、自分自身への言い訳でもあって、本当は体調が良くても、「抽象的には」書けない人間ではないか。

問題を考えたり取り組んだりする時の入り口に、理念的なものを設定することがどうしてもできなくて、自分の体験情報、それも最悪の傷口みたいなものを問題にするところでしか、あるいはそれを通過させるところでしかものを考えることができない。


他者の言説と絡むことの難しさも、なんかこの辺にあるような気がするのだが・・・・。



正当化の手続き 正当化の手続きを含むブックマーク

研究者が踏襲すべき「発言の作法」と、当事者の踏襲すべきそれとは、もちろん違っている。

研究者言説が評価されるときの基準と、当事者言説が評価されるときの基準は違う。

ちがうけれども、「当事者だから」何を言っても評価され尊重されるべきだ、とは全く思わない。 当事者であることにあぐらをかくだけのくだらない言説には全く興味がない。 → 自分自身をも追い詰める。

6月のイベントで、僕は「当事者」として、樋口明彦さんは「研究者」として招かれる。 参加させていただくにあたってのパスポートが違う。 「ひきこもり経験者」という視点からは、樋口さんには資格がない。 「研究者」という視点からは、僕に資格がない。 求められている情報価値が違う。


樋口さんは、僕の当事者的な――内面吐露的な――発言についても、明確に反論をくれる。 それはいつも示唆的で、僕にとっては非常に貴重な体験になっているのだが、そもそもお互いの公的なポジションを考えれば、これはとても重要なことに思える。


当事者が自分の実存を賭けて喋ったことに、「研究者」は≪反論≫してはならないのだろうか。

当事者が勉強すべき学問もあれば、研究者が賭けている実存もあるはず。

その対話構造を探るところで、なにか硬直的な役割意識を打破できないか。




*1:以後、『教育』関係者の方からは一度もご連絡いただけませんが、あれでは当然です・・・・。 申し訳ありませんでした。 ▼〆切り当日、原稿が書けていないことを担当の方に申し上げると、「大丈夫です、今回は見送りましょう。体調のことなのだからしょうがないですよ」と優しく言っていただいたというのに、無理に1日で書き上げ、かえってご迷惑を・・・・。

2005-04-26

JR福知山線脱線事故 JR福知山線脱線事故 を含むブックマーク

 死者・犠牲者・被害者が掠め取られている。*1

当事者以外に許されることとは。

いや、むしろしなければならないことは。

2005-04-25  メモ

すでに書いたことが多いけど、『ビートたけしのTVタックル』という番組を観ていてあらためて痛感したので。

「当事者として発言するということ」あるいは「当事者学」が、たぶんここに関係する。

いただいている原稿依頼との関係もあるので、ひとまずこの辺を整理する。

どうしても避けて通れないはず。



「属性当事者」と「政治主体」の峻別 「属性当事者」と「政治主体」の峻別を含むブックマーク

ひきこもり支援というのは、当事者を政治主体にすること。*1

主体化の結果、支援者に歯向かうことは当然ある。

  • 歯向かう権利はあるが、歯向かっている内容が馬鹿げていれば今度は支援者に反論の権利がある。これまでは、「当事者は支援者に反論してはならない」と、「支援者は当事者に反論してはならない」の両極であって、どちらも不毛。「当事者か支援者か」は属性レベルの峻別だが、議論というのは、そこで解明されるべき課題との関係において言説が生産されるのであり、そこでは属性は無意味。実際に提起された言説レベルで評価されるべき。*2
    • この際には、当事者は「当事者であるという属性がゆえに」尊重されたり馬鹿にされたりするのではなく、一定の見解の表明主体としてそのようにされる。発言内容が正しければ評価され、駄目ならば蹴られる。 → これは非常に厳しい状況だが、当事者として活動や発言を試みるのであれば当然その試練が課せられる。
    • ひきこもり状態の当事者は、やむにやまれず「降りてしまった」人であり、それはまるで重要会議に参加せずに権利主張するような状態・・・・。「出たいのに出られない」は、通用するのか。この悩ましさ。というかそもそも、権利主張したがっているのか。――どんどん悩ましい。

斎藤環氏が「治療」という言葉を使って一部から批判されているが、それが氏の言う通り「精神の自由度を高める」ためのものであるなら、「治療を受けた結果、斎藤環を批判できる生活力・政治力を身につけた」となれば慶賀すべきということであり、これは「当事者支援」というレベルではたしかに成功している。支援者への批判の是非そのものは、「当事者であるか否か」(属性)とは別のレベル(課題)で評価すべきことだ。「当事者であるから主張見解はすべて傾聴すべきだ」というのは完全に間違っている。当事者のほとんどは、一般生活者と同じく、聞くに値する見解を持ってはいない(ニーズは持っているが)。



弱者ゆえの権力? 弱者ゆえの権力?を含むブックマーク

社会学の調査倫理に関連し、「調査主体が当事者を蹂躙した」という話をされることがあり、それは容易に想像できる状況だが、一方で、「そういう態度を取るならもう取材に協力しないよ」という言い方で、当事者が調査者を恫喝することだってあるはず。社会の権力は複層的だから、その程度の弱者による恫喝がどの程度意味があるかはわからんが、「当事者は常に一方的かつ絶対的な弱者だ」というのは間違っている。

「権力だから間違っている」のではない。私たちの一人一人は権力を獲得せねばならない。

ここで奇妙なよじれが生じる。

「絶対的弱者の味方をしている」ことを標榜する者の発言力が強くなり、その者はいくら抑圧的な権力を獲得しようとも、「弱者のためだから」を理由に免罪されてしまう。逆に、体制内にもぐりこんだ(とされる)人間は、どんなに正しいことを言っていても、「体制側だから」と非難される。自分の正当性を温存するための、児戯的な非難(属性による非難であって主張による非難ではない)。しかしこんな硬直性が現場では支配的ではないのか。



時限弱者? 時限弱者?を含むブックマーク

ひきこもり当事者の当事者性は生涯続くのではない、ということについて、岸政彦氏のブログにコメントしてみたのだが、「当事者の属性深刻度によって当事者性にランク付けがされる」、というのは多くの社会的弱者が経験することだろうし、おそらく典型的には、「ブルジョア←→プロレタリア」という図式で徹底的に体験されたのではないか。太宰治にあったが、左翼運動に取り組んでいても、「自分はブルジョア出身だから」という属性による引け目を負わされる。だがこれは間違っている。当事者としての深刻さの低さ、つまり「恵まれている」ということが糾弾されるべきであるとすれば、それは「それゆえに、最深刻の問題を剔抉できない」「口にする言葉がいちいち深刻な当事者の問題を外している」という、その活動手腕との関係において糾弾されるべきなのであって、「出自がどうであるから」とか、「いま恵まれているから」などという属性そのものにおいて糾弾されるなどというのは、これは嫉妬以外の何なのか。

  • 当然だが、私だって嫉妬はする。しかしそのことと、活動課題とは分けて考えるべきだ。



稲葉振一郎氏による『不登校は終わらない』評(2004年12月8日)より(強調は引用者): 稲葉振一郎氏による『不登校は終わらない』評(2004年12月8日)より(強調は引用者):を含むブックマーク

しかしながらそれは結局のところ「不登校」もまた一つのエスタブリッシュメントとなり、今以上にはっきりとした抑圧を生み、そこからの脱落者を生むことを受け入れる、ということだ。つまりそれは貴戸が警戒する「明るい不登校」のヘゲモニーを許すことによってしかありえないのではないか。(今でさえ「フリースクール不登校」があるというではないか。)もちろんそれもまた仕方がない。ただしここで厄介なのは、「不登校」運動はどちらかというとラディカリズムであり、ただ単に「学校という場所がいやだから他の場所を求める」という運動であるというよりは、「学校社会は体制=全体社会レベルのヘゲモニーであり、そのヘゲモニーに反抗する」という運動である、ということだ。つまり、それ自体エスタブリッシュメントとなった「不登校」運動がそこから脱落者を生んだとき、その脱落者を回収する運動はどこからやってくるのか、ということだ。「不登校」の更なる下層に積極的に自らを位置づける何かが登場してくるのか、それともむしろ「不登校」の敵側がそこでてぐすね引くことになるのか。

私はまさに「下層=ひきこもり」を問題にしている。

と同時に、「不登校の敵側」を単に敵とするような方針は間違っていると思う。

貴戸理恵氏を「東大大学院にいるから」と叩いたり、「資本主義社会への復帰を勧める者はすべて悪だ」などと言い張るのは、対案なきウサ晴らしでしかないのではないか。



≪代表≫――属性として/政治主体として ≪代表≫――属性として/政治主体としてを含むブックマーク

自分が弱者であることによって聞いてもらう権利が発生するのは「ニーズの所在」に関しての調査であって、実際に自分で政治活動をできないのであれば、それは誰かに代弁してもらうしかない。その代弁=代表機能を負うことになった人間に文句を言う際には、あくまで≪課題≫との関連において代替案を探るべきではないのか。陳情団の一人一人はみなバラバラに自分の要望を言うのだ。自分の要望が、他の当事者たちの要望と一緒に羅列された時にどのような位置づけになるのか、そのような陳情地政学のような自己反省は、追い詰められ何もできなくなっている当事者には期待できない。

「イメージ」など、属性レベルでの代表機能と、政治的主張における代表機能を混同してはならない。(が、完全に分けるのはおそらく不可能)



「ニートという単語を使うべきでない」という声が id:svnseeds氏ほかから出ている「ニートという単語を使うべきでない」という声が id:svnseeds氏ほかから出ている。を含むブックマーク

まだよくわからないが、ひとまずメモ。

  • 「ニート」を単に「不況によって生まれただけのもの」とするなら、その存在が刺激する我々の規範意識の問題は問われなくなるのではないか。「ニート」という単語が、弱者バッシングの用語としてのみ機能するのであれば駄目だが、この呼称とともに「働かねばならない」という規範をめぐる葛藤が生じ、激論が起こる、そこからあらためて社会規範に関する Consciousness-Raising が生じ、そこから具体的な意識や制度の改革が生まれるのであれば、トラブル含みの単語が採用されたことには意味がないか。単語そのものを社会資源のように扱う、という以前からの話。
    • 「社会的脱落は容認されるべきではない」という強固な規範――それゆえに再復帰を阻んでもいる――については、不問にされるべきだろうか。▼以前、内藤朝雄氏の「お前もニートだ」について、「ニート焦点の議論は引きこもりの深刻さを掬えない」と書いたのだが、規範レベルを徹底的に問題にすることは、それ自体として引きこもりにも好影響のはずだ。ここはうかつだった。
  • 「ひきこもり」という単語の流通では予算がつかなかった。「ニート」の流通によって政治的に扱われる可能性が出てきたわけだが、この呼称そのものを拒否し、問題を「経済」にのみ限定するということは、「ニート予算」の枠組み自体の意義を否定するということだろうか。そうすると、「ニート予算」の中の「最深刻部門」として成立するかもしれない「ひきこもり」対策費も、社会的には「意味のないもの」となるのではないか。



続報 続報を含むブックマーク

こちらの事件の判決ですが、ネット上に記事が見つからなかったので、日本経済新聞の25日付夕刊より転載します。

  • 引きこもり男に16年判決 東大阪の両親殺害事件で地裁
    • 自宅に二十年間引きこもった末、両親を殺害したとして殺人罪に問われた大阪府東大阪市の無職、伊東健一被告(37)に対する判決公判が二十五日、大阪地裁であった。 上垣猛裁判長は「一人で悩み自分自身を追い込んでいった心情は理解できるが、殺害を正当化する理由にはならない」などとして懲役十六年(求刑懲役二十年)を言い渡した。



兵法 兵法を含むブックマーク

自分の人生を全体のまとまりとして考えてしまうと、「どうして自分の人生には恋愛がないのか」と欠落部分が気になる。自分の人生を機能に還元して考えるといいのではないか。




*1:「生活主体=政治主体」と考えた。

*2:実はそこに、属性に関連する利害が絡むからややこしいのであるが。 → 匿名による批判について論じた、「発言と利害」参照(もとの黒木玄氏の文章もぜひ)。ただしその際にも、「属性ゆえに」無条件に非難されるのはおかしい。発言内容と属性とを比較検討しないと・・・。

2005-04-24  京都の研究会 このエントリーを含むブックマーク

23日、こちらのイベントにお邪魔。

合田正人氏の講演、ツボがたくさんあり、非常に熱心に聴く。

会場からの質問も熱い。

「病院環境の思想」というタイトルの研究会なのだが、ルーマンの話が出たり、「ゲシュタルトの動態化」とか、あるいは精神科医の方もいて――つまり僕なりに言えば、「理論的成果の最先端と、臨床現場との対話」を試みる場所と思えた。

個人的には、講演のほか、会場からの三脇康生氏の発言(「理論的な話を現場にどう伝えるか」「震災後の現地の立ち上がり」)と、立木康介氏の「対象a」についての説明(「スタティックな『穴』ではなく、直視の形式の中に割って入ってくる異なるもの」)が印象深かった。

2005-04-23  交渉

「貴戸理恵×東京シューレ」の件は、政治的に非常にややこしい。

さらに時間をかけて取り組むつもり。

今日は関連する引用をいくつか。



☆ ARTIST MEETS ARTIST ☆ 宮台真司×K DUB SHINE*1より 「☆ ARTIST MEETS ARTIST ☆ 宮台真司×K DUB SHINE」*1よりを含むブックマーク

音楽については何も分からないが、「取引」「脱社会」について。(強調は引用者)

宮台氏:

確かに単純な図式に押し込みがちだね。「断固戦う」か「言いなりになるしかない」しかみたいな。

でも重要なのは「取引」でしょ。国際関係でも人間関係でも同じ。単に従うのもダメ。勇ましく噴き上がるのもダメ。

将棋指しみたいに先まで読んだタフな交渉で相手を操縦する。それしかない。さもないと大損する。

日本は第2次大戦でも「交渉の席を蹴って」幾度も失敗してきた。

勇ましい奴は格好よく見えて、実際は宙づりに耐えられないへたれなの。

交渉には宙づりに耐えるタフネスが不可欠なんだよ。

(中略)

ケンカも交渉。やられてやり返さなかったら、へたれ扱いされる。だから当然やり返す。でもそれだと復讐の連鎖になる。

だから落としどころを考えながらケンカする。ケンカ慣れすると、殴るときも五段階ぐらいの本気の度合いがある。

経験が無いとこれらが身に付かない。シラフかキレているかだけになっちゃう。

僕は「へたれの二項図式」と呼んでるけど。

(中略)

要はトラブル慣れしていない。トラブル回避を第一とする親が駄目だね。

昔は良かった。エラぶったやつがトラブルになるとオロオロするだけだったりするのを目撃できたし。

今どきの若者はそこが不幸。粋がってる割には、神経質だし、キレちゃうし、仲間がいないとへたれだし。

些細なトラブルでへこんじゃう。

(中略)

夢を抱かない若者はダメだと言うだけなら、夢を抱けなくなった社会システムが隠蔽(いんぺい)されちゃう。

引きこもる若者は臆病だと言うだけなら、かかわっても実りがない社会システムが隠蔽されちゃう。

腐りきってる回復の望みが無い社会に関わろうとしないのはひとつの知恵だよ。

その意味で「脱社会的」であることは、場合によって良いことでもある。

ストレスに耐える力。トラブルをやりすごす力。負けても生きていける力。

これらの力は、社会にベタに内属しない人間にこそ、宿るものだからね。

K DUB SHINE氏:

僕もラップをやり始めた時、精神的な引きこもり状態だった。

一見、外でケンカしてるばかりに見えるみたいだけど。

脱社会的なよりどころを持っていないとだめという気がする。


自分の意志の力によるのではなく受動的に「脱社会的な何か」に取り憑かれ、脱落し、しかし「取引」の力がなく、「へたれの二項図式」でしか生きられない状態に陥っているのが多くの不登校・ひきこもり。

先日は「原理主義」と書いたが、不登校・ひきこもりの当事者心性に関連して「脱社会的な拠り所」などというものを主張できるか。その辺で考えている。

実はこれは、自尊心とも関係するはず。



堀江貴文のお仕事相談Blog』より: 『堀江貴文のお仕事相談Blog』より:を含むブックマーク

私は学校には行っていなかったですし、いく必要もあまりないと感じていました。まあ、ちょっとまじめすぎな感じですね。

まじめな人は、ずる賢い人に騙されてしまいますよ。

既存社会のゲームと、「新しいゲーム」?

自分の戦闘能力はルールによって変わる。

でも「このゲームが出来ない奴は次のステージへ上がれない」ということもある。

ゲームルールを変えるなんてとんでもない政治力。

既存ゲームで勝ち上がれない奴がルールに口を出せるか。機会として。



16日のイベント、玄田有史氏の発言より 16日のイベント、玄田有史氏の発言よりを含むブックマーク

若者を支援する若者を支援するべき。 「100人の若者を支援する」より、「100人を支援する若者を10人支援する」ほうがいい。

先日のイベントで「中間人材」と言っていた話だが、あらためて重要だと思った。



内側の文脈と外側の文脈 内側の文脈と外側の文脈を含むブックマーク

自分の内面の文脈と、外的世界(現実社会・他者たち)の文脈と。

今お前が見ているものは本当に重要な焦点なのか。




2005-04-22  動機と自尊

16日のイベントについて、細切れに報告してみる(今後も折に触れ)。


斎藤環氏: 斎藤環氏:を含むブックマーク

 動機づけ(モチベーション)と自尊心(プライド)は密接に結びついてる。 プライドを破壊してモチベーションに向かわせることは不可能。 カルトでもない限り無理。 当事者のプライドに配慮した支援策が必要。

徹底的に反論が出そう(山形浩生氏など)。

反対派としては、「働いている人はみんなプライドがズタズタなのが当たり前」ということか。


2005-04-21  原理主義の是非

貴戸理恵さんというと、東京シューレや社会学研究者からのクレームにばかり目が行ってしまいますが、id:snusmumrik さんによる、本の主張そのものに即した疑問:

この時期にこのエントリーは、頭の整理をするのに本当にありがたいです。*1



以下、ご指摘についてメモ。 以下、ご指摘についてメモ。を含むブックマーク

  • 「『当事者の語りのあり方』は、同じ個人の中でも揺れ動くことがままある」
    • おおまかに個人を分類することはできると思いますが、自分のことを考えても、おっしゃる通りだと思います。 むしろ貴戸さんの指摘は、各個人が「自分は今どのように考えてしまっているか」を整理するのに役立つのでは。
  • 「本来さらに考察を加えなくてはいけないのは、『調査の対象になってくれない人たち』のことなのではないか」
    • これこそまさに「ひきこもり」の問題だと思います。 樋口明彦氏なども指摘していることですが、就学年齢の間は、「学校に行っているか否か」ということで調査やケアの対象に引っかかるのですが、高齢化と共に、「どこにいるのか」さえ分からなくなる(統計調査は事実上不可能でしょう)。
  • 「『病者としての自己受容』を言う必要があったのか」
    • 真意はご本人に聞くしかありませんが、読者としての私は、「一生抱え続けねばならない“何か”が自分を制度から追い出してしまう」、その“何か”を生きざるを得ない存在として、みずからを「病者」と呼んだのではないか――と理解し、それは個人的には非常に納得のいくものでした。 私自身、自分を社会から追い出す“何か”については、途方に暮れているところがあります。


これに関連し、次のご指摘が決定的です。 これに関連し、次のご指摘が決定的です。を含むブックマーク

  • 「『無関心』がもっとも乗り越える方法に近いのでは」

以前、次のように書いたことがあります

  • 「当事者」というポジション設定。
    • 葛藤を置き去りにしてきた、という罪悪感。 わたしは葛藤を徹底して生きるだけ。 「当事者」とは「葛藤を生きます」「葛藤を我がものとして引き受けます」という諦めに満ちた指針表明というぐらい。 というか、それしかできないのだ。この葛藤は一生の問題だ。私の意志的選択に関わらず私は葛藤し続ける。その葛藤がなんらかの成果を生み出せば慶賀すべき。それだけだ。

「忘れようと思ったら忘れられる」ものなのか。

社会的な訓練を重ねれば、私を社会から追い出した私の中の何かは、消え去ってくれるのか。 あるいはまた、消してしまってよいものか。

これについて、拙著*2に記した子供時代のジョークを思い出します。

 忘れようと思っても、思い出せない。

自分がなぜ不登校になり、ひきこもり状態になったか。 忘れたいのに忘れられない、でも描こうとすると思い出せない、言葉に出来ない


自分が社会に入っていけない理由を、自分個人に還元してはいけないと思います(これは貴戸氏も指摘しています)。 しかし、同じような社会的条件にありながら、そして同じような学力を持ちながら、「元気に過ごせる人」と「そうではない人」がいるのはどうしてか。 自分の心をロボトミーできれば、自分も元気に過ごせたかもしれないのに。


「忘れられない」と執着した方がいいのでしょうか、それとも自己洗脳してでも、「無関心」に向かうべきなのでしょうか――と悩んでいるということは、忘れられていないのですが。

僕のこのブログは、自分の体質と一体化した社会的不適応の資質に、執着し続けるところから生まれている。 → 多くの人が、「あなたはもっと他の仕事ができるのに」と言ってくれます。 でも本当にそうなのか。 いや、そもそも三島由紀夫が太宰治に言ったように、「ラジオ体操」や軍事訓練によって、自分の精神的体質を改善すべきなのか。

黙って不健康をやればいいとは、絶対に思わない。 今の自分のままでは絶対に嫌です。 ただ、自分の中の「何をいじくるべきで、何を死守すべきなのか」、というか「死守せざるを得ない何かなんて本当にあるのか」は、難しい。――「壊しようのないものを死守する」という表現と、「守っても必ず消えてゆくもの」の間*3



「特権」――拒否と活用 「特権」――拒否と活用を含むブックマーク

不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』末尾より(強調は引用者)。

 これらの実践を通して彼ら*4が提示するのは、「不登校後の進路」ではなく「不登校という進路」の存在である。 このようなライフコースを今後も示し続けてゆくことは、<当事者>自身による「不登校対策」として有効であろう。

 不登校は、学校からの排除ではなく、そこへの囲い込みに対する<当事者>からの批判という側面を持っていた。 学校という「特権」への包摂を、あえて拒否する。 「不登校の選択」とは、その初発の動機において、そうした意図と効果を孕んでいたはずだ。 そうだとすれば、「選択」の先にあるのは不登校からの「一抜け」としての「不登校エリート」ではなく、いつまでもつづく、終わることのない不登校でなければならないだろう。 そうした「終わらない不登校」へと回路づけられたとき、<「居場所」関係者>の「選択」の物語は、「大人になったらどうするつもり」という「常識」的な人びとの強迫に抗して、真に<当事者>のための物語となるのではないだろうか。

「不登校が終わらない」のは、「意図的選択」によるものなのだろうか。

「消せない体質であって、そうするしかない」という諦めでもあるなら、「特権をあえて拒否する」などと言わないで、利用できるものは利用すればいいのに。 特権的な場所を利用しつつ、特権構造そのものを掘り崩すとか、あるいは特権的な場所を自分なりに換骨奪胎するとか。 以前も触れたが、活動家本人が社会的に排除されていては話にならない


この点については、遍歴や真情吐露が貴戸氏本人に重なる*5「Nさん」は、次のように述べている*6

 ・・・・いわば学歴の側に「居直る」Nさんだが、「学校の中から制度を変えたい」という高学歴者としての使命感や責任感は持たない。 「自分に世の中を変えてゆく責任や義務や能力があるってあんまり信じてない」。 「告発していれば良かったわたしが、『大学にいるもの』として告発される立場になった」と学歴を持つ「痛み」を表明する一方で、「いかに適当にいかに楽しくいかに向き合うか」が課題だと話すNさんは、みずからの位置性をめぐる権力構造については、戦略的な思考停止を決め込んでいた。

いっぽう『不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)』の貴戸氏は*7

 わたしがいま、大学をやめて、無所属になれば、「学歴信仰」から逃れたことになるんだろうか? 学歴を捨て、エラぶった学術用語を使わなければ(っていうか使えてないけど……)、まだしもウソが少ないってことになるんだろうか?

 わたしひとりがそこから降りても、ひとにぎりの人を優遇する構造自体は変わらないのだ。 それよりも、今ここにこうしているってことが持つ意味があるんじゃないだろうか。 学校の内側から、学校を破って、大学が独占していた「知」を、少しでも学校の外に開いてゆくことが、

 ――もしかしたら、がんばれば、できるんじゃないだろうか。

 今はまだ、わからない。 わたしの得た知は、わたし自身を居心地よくすることでぎりぎりせいいっぱいだから、「責任」なんて大きいこと、ぜんぜん考えられない。 でもそんなふうに、自分を心地よくするために、たくさんの人が「知」を使っていけたらいいと思う。 そういう環境が整ってほしいと思う。

 わたしは、今いるわたしの場所から、わたしの中の「学校信仰」を見つめつづけていく。 それがどんなに逃れがたいものかを見きわめるために。 自分の得た「知」や「学歴」という特権が、どのようなくり返しの中で特定の人に独占されているかを知り、その構造に亀裂を呼び込むために。

 それがわたしの「迷い込んでしまった」位置からできるせいいっぱいのこと、わたしにこそ、できることだと思っている。

特権を、「自分のために」利用するという側面と、「活動のために」という側面と。

前者なしに後者だけを要求するのは変だし、前者だけなら、注目に値しない*8



「学校」と「社会」――改革・補完・選択肢 「学校」と「社会」――改革・補完・選択肢を含むブックマーク

あらためて、id:snusmumrik さんより。

 著者は、論文の最後に「終わらない不登校」を提案する。 不登校経験者に対し風当たりの強い社会には「出ていかない」。 そして不登校者たちによるサブ社会(?)の構築をするのだ。 それは「選択の物語」のさらなる延長、補足。 フリースクールならぬ「フリーソサエティ」。

核心的だと思います。

教育に関しては、「学校を拒否して、フリースクールに行く」と言えるのですが、労働に関しては、「社会を拒否して、フリーソサエティ(Society)に行く」とは言えない。 教育にはオルタナティヴがあるが、社会にはそれがない*9。 学校を拒否しても、別の形で社会に出てゆくことはできますが、社会を拒否してしまったら*10、出て行ける場所は「あの世」しかない。 → 学校では「辞める」で良かったのですが、社会に関しては、「辞める」ではなく、≪変える≫か、あるいは≪別の選択肢≫を自分で作り出さないと、どうしようもない*11


こうした一連の活動にとって、不登校・ひきこもりならではの「壊せない・忘れられない」メンタルな特質は、役立ち得るものなのか。 あるいは「忘れた上で」、当事者性には無関心なままに取り組むべきなのか。



ニーズの正当性――「消滅する媒介者」? ニーズの正当性――「消滅する媒介者」?を含むブックマーク

当事者が、「ニーズを抱えたもの」*12であるとすれば、当事者が原理主義的に活動するとすれば、それは「みずからのような苦痛に満ちた存在が社会的に再生産されないために」、「自分のニーズが消え去るために」活動することになる。

先日の日韓会議の際、知人に「≪ひきこもり原理主義≫だね」と言われた、その意味を、あらためて考えている・・・・。




*1id:snusmumrik さんは、拙著についても言及くださっています。 ありがとうございます。

*2:p.30

*3:ここで宮台真司氏の、「天皇」と「流動性」を思い出す。

*4:当事者たち

*5:本人かどうかは不明。

*6:p.174

*7:p.86‐7

*8:学問に没頭する人のように、ひたすら自分の趣味に没頭しているだけの人が、結果的に公共的な役に立っている、という状態もあって、これは本当に、・・・。

*9:だからこそ、このような対比にならざるを得ないのだと思います。

*10:「選択」か「アレルギー反応」かを問わず

*11:既存のものでしっくりくれば(そういう環境に出会えれば)、「忘れられる」のでしょうが・・・。

*12:『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』p.2 「ニーズを持ったとき、人は誰でも当事者になる」

2005-04-20  論点

精神科医のミッション:≪精神の自由度を高める≫? 精神科医のミッション:≪精神の自由度を高める≫?を含むブックマーク

先日、ひきこもりに対して≪治療≫という言葉を口にする斎藤環氏に疑義を呈したのだが、それに直接関係するような発言が16日のイベント中にあったので、ここに記しておく。(ただし記憶とメモに頼った記録でありで、逐語的ではない。あくまで「一聴衆の受け取った大意」としてご理解いただきたい。*1


◆斎藤環氏:

 メンタルな健康は、「働いている人」と「働いていない人」の差は大きくない。 しかし、「対人関係を長期にわたって完全に失っている人」と、「対人関係のある人」とでは、はっきり差がある。 (孤立は、精神的苦痛を増幅する。)

 精神科医にとっては、「働いているか否か」はどうでもいい。 「働くか否か」は、≪趣味の問題≫である。 「健康」であればいい。 ところで精神科医にとって「健康である」とは、≪精神的な自由度が高い≫ということである(それは、脳髄に器質的な問題のない人にとっての課題である)。

 ひきこもりという深刻な状態においては、精神的な自由度が低い状態に追い詰められており、考え方が不自由になる。

 「なぜ生きなくてはならないのか」「なぜ働かなくてはならないのか」といった(ひきこもり当事者に典型的な)問い詰めは、普通「アノミー状態」、「思想の自由の結果」と見なされるが、実はそうではなく、「思想の不自由さの結果」ではないか。 それは、精神的な自由度の低い状態における、典型的なパターンではないか。 精神的な自由度が高まれば、自然と問わなくなるのではないか。


もう4年ほど、斎藤環氏の講演を繰り返し聞いているが、これは新規情報に思えた*2

≪治療≫は、「社会復帰」や「就労」のためではなく、≪精神の自由度を高める≫という目的に尽くすのみであるという。

人を「自由にする」要因は、もちろん個人的なレベルにのみあるわけではない。 だから斎藤氏の発言は、≪人を不自由にし、生きる意欲を失わせる「労働環境」その他の要因≫をまるで見ていないが、「臨床精神科医」という立場にある人間としては、これが倫理性の MAX ではないか。

反論し得るとしたら、「人は必ずしも、精神の自由度を求めない」云々や、「精神の自由度を高めた結果絶望し、自殺することもあり得る」といった話だろうが、これはまた入り組んだ議論であり、少なくとも論点のステージは、「無理矢理社会復帰させるのか!」「引き出し屋!」云々からは、切り替わっている。

「精神科医・斎藤環」氏に反論するのであれば、せめて議論をこのレベルに限定すべきだ。

そして斎藤氏の側も、ご自分のミッションをめぐる議論焦点を、≪精神の自由度を高める≫に限定されてみてはいかがだろう。 読者として、「すれ違い」感が少なくなる気がするのだが。




*1:イベントレポの是非について、議論が起こっているようです。 これは、いくつものイベントレポートをこのブログで公表している私にとっても他人事ではありません。 不正確なレポートが公表されることにより、発言者に迷惑がかかったり、公的にも悪影響が出たりする懸念はもちろんあるのですが、流通によるメリットもあると思われ・・・(現に私は、id:kwkt 氏のいくつかのレポートが大変参考になっています)。 ▼私自身は、ひとまず「不正確であるという留保つきのレポート」として、しかし可能なかぎり責任を引き受けた上で、公開し続けることにします。 ▼私も、自身の講演記録の公開を打診されたことが何度かありますが、講演記録の講演者本人による校閲は、(少なくとも私にとっては)原稿執筆に匹敵するほどの重労働です。 今の私は、「講演者校閲を経ていない記録である」という趣旨の断り書きを必ず入れていただく前提で、配布や公表に同意しています(しかし、まだ悩み中)。

*2:あるいは以前からされていた話に、私の意識文脈が反応しただけかも。

2005-04-19  原点

「意味のない体験の当事者」 「意味のない体験の当事者」を含むブックマーク

「エリート」に関し、私は昨日次のように書いた。

「エリートであること」が悪い意味で問題になる局面があるとすれば、「それゆえに有効な課題を析出できない」ケースのみ。

これには重要な補足が要る。


「当事者としての内面事情を言語化する」という事業では、やはり体験に応じた仕事しかできない*1

積極的な生活体験に関する、取り返しのつかない長期脱落(一方的に自己滅却的な意識状態のキツさ)*2、事実上回復不可能の絶望――こうしたことがどのような内面事情を当人に与えるか、・・・・・経験のない人に想像できるとは思いにくいし*3、逆に言えば、「理解された」として、だからどうだというのか。 仮にかつては深刻な状態を経験していようとも、生活体験のなかで新しいチャンスに恵まれてゆけば、かつての限界的な精神状態を(いい意味で)忘れてゆく。

「脱落による傷」は――いやどんな傷であれ――、それ自体としては、何の意味も持たない。 誰の役にも立たない、単にないほうがよかった、本当に何の意味もない。 「そんな傷より、働いて生きていく傷の方がはるかに深い」 「恋愛なんてしないほうが楽だよ」――お互いに共感できない傷の中で、「ひきこもり」の生んだ傷の政治力は、小さい。 もっと言えば、本当の脱落者はすでにこの世にいない。

あれほど苦しかったのに、「意味がない」。 いや「意味がない」どころか、健康に社会生活や性愛生活を送った連中のほうが人間として優れた成長を遂げている、そのこと自体が許せない。とつぶやくこと自体に意味がない。 その「意味がない」が耐えられず、今も時間が耐えられず、「この世にいたくない」と思う。 使い道のない理不尽な傷は居残っても化膿して、そのまま悲惨にひからびてゆく。 残された時間には、もう楽しみはない。 → 本当にそう言いきれないところで、生き延びているはず。


当事者経由の内面仕事と、そうではない内面仕事に、ちがいはあるだろうか。

当事者を楽にするために、「当事者学」は必要なのか。

それだけが剔抉できるニーズなんてあるのか。



情報 情報を含むブックマーク

今夏、ガタリの勤務したクリニック院長のジャン・ウリ氏が来日講演予定で、その準備として、「制度論的精神療法」に関する研究会/講演会があるとのこと*4

私はお邪魔してみようと思っています。

  • 日時: 4月23日(土)16時〜19時
  • 場所: 京都大学 吉田南キャンパス総合館北棟3階共北31教室
  • 講演者: 合田正人(明治大学教授)
  • 講演題目: 「ラボルド・クリニックと三人の精神科医: トスケル、ウリ、ガタリ ――ゲシュタルト概念の転成」



「焼け野が原」から(拙著について、id:matsuiismさんより) 「焼け野が原」から(拙著について、id:matsuiismさんより)を含むブックマーク

単にうれしいだけでなく、「原点を裏切るな」と叱られた気もします・・・。




*1:もちろん、例外的な人物の出現を私は常に待っている。こうした能力はひょっとすると、小説家的な想像力の問題なのだろうか。よくわからない。

*2:このあたりは、どう説明してもし足りない感じが残る

*3:「理解されない」という事情は、あらゆるつらい体験について言い得ると思う。 「ひきこもり当事者」同士についてさえ。

*4:三脇康生氏よりの情報

2005-04-18  『不登校は終わらない』の周辺メモ

一読者としての感想 一読者としての感想を含むブックマーク

貴戸理恵氏の『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』には、不登校当事者としては当たり前のことしか書かれていない。

だから価値がない、楽な仕事だ、というのでは断じてない。 その「当たり前のこと」をきちんと言語化する作業は、実はかなり危険で(内面的にも社会的にも)、重要な作業だと思うし*1、多くの当事者にとっては新規情報はなくとも、それが正規の手続きをとって「修士論文」や「公刊図書」として流通する運びになっている、そのこと自体に政治的な意味があるのだと思う。

なのに、東京シューレからは262箇所の修正要求

社会学者たちからは「調査倫理」が問題にされているようだが、仮に実際に貴戸氏の手続きに、調査倫理上の“問題”があったとして*2、しかしでは貴戸氏が「“正当な”調査・公刊手続き」を取っていたとしたら、今回の本は公刊可能だったのだろうか。 現実的に言って、お蔵入りだったのではないか*3


今回の件で、実は「社会学者のフィールドワーク」なるものに、興味を失いつつある。

今回、貴戸氏が東京シューレの訂正要求をすべて受け入れて本を公刊したとしたら、それは「シューレの広告本」以外の何なのだろう。

そのような本に興味を持ち得るとしたら、「『社会学のフィールドワーク』そのものをフィールドワークする」という形においてだ。

あるいは今回の貴戸本に関して言えば、単純に貴戸氏本人への判断だけでなく、「この本がなぜ一部の当事者・親たちから支持されているのか」、あるいは「なぜ一部の当事者は、嫉妬に満ちた品性下劣な罵倒を貴戸氏に投げつけるのか」、そもそも「なぜ当事者同士の見解が対立するのか」といった事実そのものを、社会的事実としてフィールドワークするべきではないのか。


貴戸氏の本が、本当に「東京シューレを中傷している」のなら、こんな感想にはならない。

「シューレをはじめとしたフリースクールの業績をしっかりと評価しつつ、当事者的な視点と問題意識を口にした」だけに思えるこの本が、非常に影響力のある支援団体から潰されようとしている、その事実に異様なものを感じている。


私も繰り返し経験しているが、当事者が、支援者の「支援の前提」に抵触するようなことを口にすると、異様なまでに徹底的に叩かれる(ことがある)。 黙って「可哀想な当事者」をやっている間は友好的・支援的に振る舞ってくれても、違和感を表明した途端、あるいは支援方法論に意見をした途端、その「違和感を表明した」「意見した」という事実そのものを、「この世でいちばん許し難いこと」のように恫喝的に糾弾される(ことがある)。

支援者の解釈手続きに乗っかる形でしか支援されない(ことがある)のだ。*4


私自身、当事者や業界関係者と本当に重要な話をする時には、やはりオフレコになる。 利害を共有しない聞き手に対しては、何も言えないか、表層的な情報しか教えられない。

となると、本当にエグイ情報については、自分も業界の住人になって、実際の利害関係に巻き込まれてしまうか、あるいは2ちゃんねる*5を見るぐらいしかないのではないか。 そしてそこで「真実の情報」を掴んだとして、それをトラブルなしに論文や本にできるのだろうか。

「共に戦ってくれる調査者」以外を相手に、何を語れるというのだろうか。



なぜ なぜを含むブックマーク

あまり知られていないことかもしれないが、「不登校」の業界と「ひきこもり」の業界は、はっきりと別のものだ。

問題としては、確実に連続性があるのに。*6

「年齢」以外にも、理由があるのではないか。



仕切り直し 仕切り直しを含むブックマーク

「フリースクールにいる不登校当事者」は、フリースクールという場において社会参加しているため、そこにすら出て行けない「ひきこもり当事者」とは、全く事情が違う*7。 逆に言えばフリースクールは、不登校者が引きこもり状態*8に落ち込まないために、一定の役割を果たしている。

本当の問題は、「フリースクールを認めるか否か」ではなく、また「当事者の違和感を認めるか否か」だけでもなく、≪将来継続的に、経済的な社会参加ができるのか否か≫*9ということ。

→ 「当事者の違和感」も、「継続的社会参加において重要なファクターである」という意味において、尊重すべきである、ということではないか。


フリースクールは、不登校当事者の社会参加に一定のチャンスを提供しているが、そのことが一部当事者の違和感をあらためて排除している可能性がある(それを貴戸氏は言語化した)。 そこで考えるべきは、当事者の違和感を潰すことでも、逆に当事者の違和感を絶対視して終わることでもなく、「当事者の違和感を尊重しつつ、獲得できる社会参加はあり得るのか、その道筋は」という模索ではないか。

貴戸氏が報告しているとおり、その違和感を抱く人は当事者の全てではないのだから、それは「違和感を感じている当事者」限定のニーズなのだが。



「エリート」 「エリート」を含むブックマーク

今回のネット上の論争では、「貴戸は学歴エリートだ」という話が繰り返し出てくる。 あろうことか貴戸氏自身が、(「痛いところを突かれた」という意味で)「心臓ひとつき」*10などと言っている。

これについては、「属性と課題の峻別」ということで、当ブログではもう繰り返し論じてきた。

「学校に行っているか否か」は、属性レベルの話。 → 「当事者益のある事業(課題)について貢献できる」なら、属性は何でもいい。 そこで問われるべきは「貢献できるか否か」であって、「当事者としてより深刻か否か」云々ではない。 「エリートであること」が悪い意味で問題になる局面があるとすれば、「それゆえに有効な課題を析出できない」ケースのみ。 課題に取り組むに当たっては、むしろエリートであってほしいに決まっている。 【「エリートであること」は、属性との関係ではなく、課題との関係において重要なのだ。 このことは何度強調されてもいい。】


またしても、「逆向きの権威化*11だ。 「あいつは俺よりもポジションがいいから、あいつはダメだ」。

嫉妬とルサンチマンの塊。

この状況で「でも自分はエリートだし・・・」などと悩むのは、単に有害でしかない。

属性レベルでの不幸自慢競争を、一体いつまでやったら気が済むのか。



世間を説得するとき 世間を説得するときを含むブックマーク

    • 不登校: 「行ないんじゃない、行ないのだ」
    • ひきこもり: 「働ないんじゃない、働ないのだ」

真逆。

なんでだ。




*1:私が「ひきこもり」についてやっているのも、部分的にはそういう作業のつもりだ。

*2:私は事実については何も知らない。 ここではあくまで仮定の話をしているのみ。

*3:貴戸氏が「意図的にトラブルを起こした」などという詮索では全くないので念のため。 私は、貴戸本を巡るいきさつについては何も知らない一般読者であり、ここで述べているのは、「不登校以後ひきこもりに至った経験者」としての一感想にすぎない。

*4:逆に言えばこれは、私が「信頼できる支援者」を識別する基準でもある。 ▼当事者との間で、本当に課題共有できる人かどうか。 (共有できないなら、一緒にいるべきではない。 それはもちろん、相性の問題でもある。)

*5:「嘘を嘘と見抜ける人でないと」・・・

*6:ちなみに管轄官庁としては、18歳までは文部科学省、それ以後は厚生労働省になる。 しかし業界が違ってしまっている理由は、これとは別の問題だろう。

*7:貴戸氏は、「調査の現場に立ち現れない」という言い方で、こうした問題に何度が触れている(p.261など)。

*8:社会参加も対人関係もなし

*9:貴戸氏のいう「長期的な社会的自立」(p.280)

*10:p.235

*11:「逆ベクトルの権威化」としていたのですが、なんか意味が変なので、「逆向きの権威化」に変えました。

2005-04-15  作業現場の焦点

16日のイベントにお邪魔する*1前に、現時点で気になっていることをいくつか箇条書きメモ。

【斎藤環氏への疑義も提示されていますが、記憶が曖昧な点もありますし、あくまで暫定的なメモです。】



「当時の意識」と「現時点での言語化」 「当時の意識」と「現時点での言語化」を含むブックマーク

3月6日のイベント時、私は中学時代の不登校について、「学校に行けなかったら死ぬと思って、心身症が出ても必死に抵抗してギリギリまで行き続けた」というニュアンスのことを言った(大意)。

貴戸本のこともあり、1984年6月(15歳時)の自分の日記を読み直したが、当時の自分の意識はこんな明白な言語化をしていない*2。 もっと幼稚で魯鈍。 「抵抗できない規範意識に苦しめられていて、『レールを外れたらどうなるのだろう』という恐怖に怯えていた」・・・・など、もう少し精確な言語化ができたはず。 「死ぬと思って」云々というのは、不登校当時そのものに即した描写というよりも、現在の私の意識がそう考えないと持たないからそう言語化した、という意味合いがどうやら強い。

これはさらに後年の、「ひきこもり現役時」の心理を現在の私が言語化する際にも起こるもんだいだと思う。

  • 規範レベルにおいて、現在の私の意識がまだ不登校や引きこもりを承認しきれていない、いや他者との価値観駆け引きの中で、言い訳的な意識動向に堕してしまっている。 負けている。
  • 「現役当事者の心情を代弁する」という社会的役割から、「当事者としての社会活動(事業)」へ、主観的にも社会的にもシフトしてゆくべきかもしれない。 「ひきこもり」そのものを抽象的に考察する中から、具体的なアイデアへ向かうこと*3。 「このようにつらい!」という話は、それ自体としては嗜虐的な言語行為にしかならない。
  • 「学校に行けない」「人と付き合えない」「働けない」というその impossibility(不能性)の内実については、たぶんいちばん語りにくいところだと思う。 それを語ろうと試みることは私にとって自傷行為に近いが、しかし為すべきなのか。
  • 不登校・ひきこもりを「選んだ」のであれば、すぐさま自己責任論が回帰する。



≪治療≫ ≪治療≫を含むブックマーク

斎藤環氏は、「ひきこもりは『治療』の対象で、ニートは『支援』の対象である」という言い方をしている。 『「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論 (中公新書ラクレ)』p.244 と先日の発言を参照するに、どうやら斎藤氏は「支援には価値観提示が入るが、治療にはそれがない」と考えているらしい。

しかし実は斎藤氏は、≪治療≫という単語の使用において最も価値観的に糾弾を受けている。 常野雄次郎(id:toled)氏からは「ブルジョア精神科医」と呼ばれていて(この呼称を素で使うことはさすがにどうかと思うが)、これはつまり「搾取を前提とした資本主義社会の労働現場に不登校・ひきこもり当事者を復帰させることだけを考える体制順応者・御用精神医学者」とでもいう意味だろう。

「社会に復帰すべきだ」というその考え方自体が価値選択だといえる。 (私が安楽死の話をするのはまさにそのこと。 「生き延びない」という選択肢もある。)

貴戸理恵氏が「明るい不登校」イデオロギーを批判するのは、「明るくなれず暗いままに終わる不登校」を示唆しているが、私は斎藤環氏の「治療」概念も同じ懸念文脈にあると考える。 しかし斎藤氏には、「生き延びるべき」がイコール価値選択であるという自覚がないのではないか。 貴戸氏と斎藤氏に共通している価値選択は、当事者にとっての「苦痛軽減」「破綻回避」であり、「放置すればまずい」という判断をしている点において、私はお2人は危機意識を共有しているものと考える*4

斎藤氏自身は、規範レベルでは「働かなくて良い」「ひきこもっていて良い」という立場をかなり過激にとっているかただと思う。 「放置すれば個人として経済的に破綻する、だから介入的に振る舞ってでも社会参加の道を模索してもらうべきだ」という、その価値判断の部分が「医師」としては当たり前すぎるので、だからそれは本人にとっては無自覚的であり、「価値観提示ではない」とされ、それゆえに≪治療≫という単語の提示に集中するアレルギー反応にあまり拘泥しなくなっているのではないか。 そこに決定的なすれ違いがあるように感じる。

「治療選択自体が価値観的選択だ」 「治療への誘導は価値観提示だ」というところで、斎藤環氏にもう少し言説生産していただきたいと思うのだが、いかがだろうか。



情熱 情熱を含むブックマーク

斎藤環氏は「ロボットになる」(共感や同情の方法論的排除)をご自分の臨床指針にしておられると思う。 そして「仲間ができれば自然に就労に向かう」。 そこでは、雇用環境の現状や、「仲間内の承認関係以上に実存を動機づけるもの(熱情)」のあり方については(臨床上は)問われない。 それは当事者各人に任されるのだが、これはむしろ「精神科医」としてのストイシズムと言える。

しかし、実は「この世で生き延びようとする」という価値選択自体が、雇用環境や実存の熱情と根深く相関するのではないか。 斎藤氏は「生き延びる」という選択肢を自明にするので(医師としては当然といえる)、その延命選択と濃厚な関係にあるはずの「雇用環境の厳しさ」や「熱情の困難さ」が問いにくいのではないか。 → そこの部分は、斎藤氏は「惰性」という言葉で乗り切っているように思われる。 (氏の「生きる動機づけ」は「惰性と忙しさ」だという。)

宮台真司氏は「政策と実存」というから、環境と内面が結婚することの困難を問題にしているように見える。

生き延びる努力はする、しかし単に迎合的な順応主義ではない、そこにおける情熱――そういうところで考える必要があるわけだが、それが斎藤環氏の指針には欠けているように見えていて、そこに批判が集中しているように思われる。



傷と熱意 傷と熱意を含むブックマーク

「熱くなる」ためには、自分の傷に関係する必要がないか。



努力焦点 努力焦点を含むブックマーク

このへんに尽きないか。



『夢耕場』2005.3号、無料配布中(郵送は500円)。 『夢耕場』2005.3号、無料配布中(郵送は500円)。を含むブックマーク

森田俊彦(A’ワーク創造館)、樋口明彦、金城隆一、永冨奈津恵の各氏と、座談会でご一緒しています。ぜひ。



「雇用事業」 「雇用事業」を含むブックマーク

メチャクチャ。

以前にも触れたが、「雇用・能力開発機構」というのは一体どうなってるのか。

行政系雇用事業のトチ狂いぶりというのは、何かものすごく症候的ではないか。 事情はよく分からないが、問題体質が集約的に表現されている気がするのだが、気のせいですか。



*1:800人の定員が10日以上前に満杯になったとのことなので、東京イベントへのお申し込みはお早めに・・・。

*2:気がついてかなり冷汗をかいた

*3「支援対象」から「活動主体」への比重の移行。

*4【追記: この指摘はいささか勇み足だった。 お2人の今後の発言に注目しつつ、時間をかけてゆっくり考えてみたい。

*5:この項目はエントリー翌日に追加しました

2005-04-14  GJ!!

『不登校は終わらない』は終わらない(常野雄次郎) 『不登校は終わらない』は終わらない(常野雄次郎)を含むブックマーク

言いたいことは山ほどあるが、とにかく読んでくれ。

素晴らしい。

2005-04-13  「当事者学」周辺メモ

id:about-h さんのバランスある大事な指摘(必読):

に付け加えて。

僕は社会学やフィールドワーク方法論については素人なのですけど、実際に取材をしたりされたりする現場の人間として気付いたことをいくつか。(今後も順次追加予定)



素材と解釈 素材と解釈を含むブックマーク

フィールドワークに端を発するトラブルにおいては、次の2点を分けて考えるべきだと思う。

 (1)オフレコ素材や改変素材を無断公表した 【オブジェクト】

 (2)解釈レベルにおいて取材対象と見解が対立した 【メタ】

取材対象による素材提出時にも、一定の解釈に基づいた情報選択は働いていると思う。(意識的であれ、無意識的であれ)



当事者の二重性――「支援対象」と「活動主体」 当事者の二重性――「支援対象」と「活動主体」を含むブックマーク

「不登校・ひきこもり問題」の、支援対象としての当事者*1と、活動主体としての当事者*2

  • 「支援対象当事者」にインタビューを行なうかぎりにおいて、フィールドワークを行なう社会学者は、この当事者の言い分をまずは絶対的に(素材として)尊重しなければならないのだと思う。 「内容」ゆえにではなく、「発言者は当事者である」というポジション(属性)ゆえの尊重。
  • 「活動主体当事者」は、ポジションによってではなく、言動の内容によって、その都度真偽や意義を批判的に検討されるべき。

シューレの「見解」に寄稿した2名の当事者は、自他に想定された属性としては前者のポジションにいながら、発言は政治的に機能しており、言動はすでに「活動主体」レベルにある。 貴戸理恵氏は、自覚的に「活動主体当事者」として発言を試みたわけだが、シューレからは、「(ニーズを抱える)支援対象当事者」とは見なされていないらしい(徹底的糾弾の対象になっている)。


≪当事者学≫においては、「当事者の語り」が尊重されるのだが、一人一人の当事者は、「支援対象当事者」であると同時に、多かれ少なかれ「活動主体当事者」でもある。

「支援対象」としても、「活動主体」としても、当事者同士の主張見解が一致するとは限らない。



*1:単なるオブジェクト。

*2:オブジェクトでありつつメタの要因を抱え込む。 メタとオブジェクトを往復。

2005-04-12  私的雑感メモ

「学校に行かない/行けない」の周辺 「学校に行かない/行けない」の周辺を含むブックマーク

「不登校」の話を20年間スルーしてきた。 「登校拒否」で少し見ただけ。

不登校に関連する話というのは、独特の事情を持った≪傷≫の話ではないだろうか。*1


貴戸理恵氏の本を読もうとして、全身が熱くなり、息が乱れ、メガネが曇った。 思い出したくない何かに触れる、記憶がダバダバ出てきて収拾がつかなくなる話題。 何か、おぞましい事情があるのだ、あの「学校に行けない」周辺には。

「その事情はどういうものか?」という問いは、(まさに貴戸氏が書いているとおり、)うかつにするのは暴力。 それをそれ自体として問うても、回答しようとする作業自体が自傷(の形を取った他傷)行為にしかならない。 僕はこの問いを封印し、「生き延びるための対策案」の析出に議論を限定したかもしれない。 「あの時どうだったか?」の心理探索より、「放っておいたらどうなるか」の最悪想定と、それへの対処模索に終始するようになった。 「不登校の時どうだったか」は、それほど耐えられない問いであり探索だった*2。 具体的な対策案(教育制度改革への素案等)の模索とセットでなければ、とてもそれ自体として話題にできない(今の私は)。


それは傷なのだから、

過剰にロマンチックな肯定物語をオブラートにして、傷そのものを包み込んで納得してしまおう、という(自分や周囲への)欺瞞的姿勢があっても不思議ではない。 その痛々しい、作り笑い・・・。 しかしその作り笑いは、その否認的姿勢において、周囲への暴力になり得る。 そしておそらくそれゆえに持つ、政治的機能がある。


私は1968年生まれだが、登校拒否状態に苦しんだ1982〜3年当時に知り、苦しんだエピソードがある。↓

 俺と同い年の登校拒否の中学生が、家庭内暴力もあって強制的に精神病院に入院させられ、そこでも抵抗して暴れたため、手足を拘束具でベッドに固定され、強いクスリを注射されて監禁された。

情報源が何だったか覚えていないし、ひょっとすると私の誤認かもしれない。 しかし私は当時この話に真剣に怯えた: 「俺も捕まって収容されクスリ打たれるんじゃないか」。 「登校拒否は悪ではない」という対抗言説が勢力を得る前夜の、完全に孤立した中学生。

1980年代前半のこの状況に対して、東京シューレ的な言説は登場していたと思う。 精神科医や文部省と戦えない無力な中学生だった私は、素朴に快哉を叫んだ*3


1982年(中学2年)秋に心身症発症1983年度不登校84年3月、現役で中学卒業、高校入学84年4月に理不尽な体罰で不登校*4、退学84年度の1年間ひきこもり85年4月から1年遅れで自宅から離れた高校で寮生活87年3月に中退87年4月〜7月フリースクール在籍87年秋、大検取得88年4月大学入学不登校、休学7年かかって無理して大学卒業バイトに挫折するうち引きこもり

という経歴の私は、80年代半ば〜後半、「東京シューレ」という名前は知っていたが、あくまで「どこかでやっているらしい、登校拒否擁護の対抗言説と実践」というぐらいの認識で、ありがたい気持ちは持ちつつも、「それだけじゃなぁ・・・」と思っていた。 政治的機運としては登校拒否を擁護してもらわなければ絶対困るが、「学校に行かないことの容認」は、それ自体としては、自分が生き延びていく保証も指針も生み出さない。 そこの部分は、自分で切り開かないとどうしようもない――その悩ましさの中で、どんどんドツボにはまっていった。 そもそも、学校に行けなかったことをずっと悔やんでいたし(「取り返しのつかない時間と青春が失われた」)、不登校を「自分で選んだ」という言説には、無理があった。 いや、「選んだ」と思おうとした、しかし失敗した。


信仰の世界に安住できる/しようとする人と、自分の内側に抱えた狂暴な傷のような疑惑が猛威をふるい、「約束の地」に安住することがどうしても出来ず、その王国を食い破る「言葉の酵母」にならざるを得ない人と。 (僕は明らかに後者だ。)

「傷に取り組む、傷そのもののような知性」なのか、「傷を優しく包み込む物語」なのか。 前者にとって後者は欺瞞と抑圧であり、後者にとって前者は傷そのものとなる。




*1:ここで「トラウマ」という言葉はひとまず避けた。 いわゆる「トラウマ語り」とは微妙に違うと思うし・・・・。

*2:たぶんそこには、「無力な自分の馬鹿さ加減」も透けて見えるからではないか。

*3:東京シューレの発足は1985年6月とのこと(同じ年の4月に自由の森学園が開校されている)。 しかし私が中学生だった1984年3月までにも、ぽつりぽつりと「登校拒否擁護」の言説はあったように思う(新聞記事を読みながら安堵した記憶がある)。 ただしこれはもちろんおぼろげな記憶。 言説状況がどうだったか、興味あります。

*4:この高校には1日しか通っていない。

2005-04-11  当事者と言語

頂いている原稿依頼(当事者発言について)、石川良子氏の論文、支援団体の勉強会、「東京シューレの見解」、自分の窮状、などを通じ、次のようないくつかの焦点を再確認。(まったくの個人的メモ)



言語化の事業 言語化の事業を含むブックマーク

  • 私的事業として
    • 「いまの自分はこんなふうに苦しい」「自分の状態は○○だ」云々
  • 公的事業として
    • 「脱落すると復帰できない社会をいかにして」「労働環境の規範意識」云々

いずれも、(私で言えば)「ひきこもり」という語彙を獲得する以前と以後とでは事情が変わった。

言語化されるまでは現実にならない現実。

語彙がないと事業が起動しない。



日記とメモ 日記とメモを含むブックマーク

私は、15歳〜30歳で大学ノート200冊以上に及ぶ日記を書いた。 同時期、「外出中、歩きながらつけるメモ」というのもあって、やはり200冊以上。 時期と年齢に応じて書き付ける内容や心情は激変したが、「書かずには居られない」衝動だけはあった。 公開する意図はまったくなかったし、現に公開していない。

それらは心の致命的恥部となっていて、ほとんど読み返すことができない。



社会化――言語の「習得と創造」 社会化――言語の「習得と創造」を含むブックマーク

  • 既存言語の習得による居場所獲得 と、
  • 既存言語には存在しない「自分だけの事情」を言語化する創造作業、その作品を通じて社会に居場所を得ること

べつの作業。



言葉の事業 言葉の事業を含むブックマーク

  • 以下の2つは何が違うか。
    • 当事者による言語化
    • アカデミズムによる言語化


当事者による言語化の仕事が足らなさすぎる。 当事者による言語化の仕事が足らなさすぎる。を含むブックマーク

しかし、闇雲に語ればいいわけでもない。

必要な言語化とは何か。



社会学は格闘技だ」(id:about-h さん) 「社会学は格闘技だ」(id:about-h さん)を含むブックマーク

 社会学が社会「改良」学であるには「憤り」が必要だ。

 「憤り」がなければ、技磨きに終始してしまう。

 社会学は憤りの表現であるべきなのだ。



教育と労働 教育と労働を含むブックマーク

規範がどう機能するか。

「自由奔放」というのはあり得ない。



2005-04-09  14歳の自分に向かって語れるか

論点整理 論点整理を含むブックマーク

  • しかし、「閉じこもる(降りる)しか出来ない」は経済的に致命的*2。 「働いてでも生き続ける」(なんとしても参加する)という選択へのモチベート(自発性喚起)が必要。 それによって、生き延びるための「能力向上」に動員される(それを「洗脳」というべきか?)。 (cf. 樋口明彦「事後的フィクションとしての就労意欲」)
    • 必要なこと: 「イレギュラーな出会いによって動機づけられる(魅惑される*3)」こと。 → まったくの偶然を待つのか、強制的要因を導入してでも「偶然の出会い」の確率を高めるのか。
    • 強制的「就労体験」*4に、「洗脳」を見るのか、「出会いの契機」を見るのか。 (内藤朝雄 ←→ 玄田有史)*5
  • 「能力がない」がゆえの雇用機会逸失を「雇用差別」とすり替えることはできない*6。 動機づけられたあとでは、問答無用の能力訓練が必要。
    • 「履歴に空白がある」という属性による差別は禁止。 しかし、就労や経営の現場には課題があるのだから、その課題設定との関連においては優秀さが要求される。
    • ひきこもりと福祉の関係については別の論考が必要。
  • ようやく出てきて就労しても労働環境がこれでは。 環境整備努力は要る。



「フリーター漂流」について 「フリーター漂流」についてを含むブックマーク

職場の人権」MLより、許可を得て転載する。(要旨のみにしようかと思ったが、労働問題に暗い私が恣意的に引用する以上の意味があると思うので)

強調は引用者。

ビデオの感想:

私は映画ファンであり、また、社会の問題は個人の受難として現れる、と思っていますので、3人の体験を描いたあの番組は、2度目なのにとても感動しました。重い荷物をもって雪を踏んで愛知に向かう「はしかけさん」の姿が忘れられません。


ビデオから確認した状況の認識:

漂流する工場フリーターは、次の3つの要因の相互作用のうちに構造化されている。

(1)手先の器用さ(これはよく誤解されますが決して熟練ではありません)や握力だけが必要な単純労働に職業的生涯を終始させる「ハンズ」 を、キャリアー展開の社員とは峻別される階層として拾い捨てる現段階の企業の労務管理。なおここには、製品の寿命の短期化に促された生産の「セル方式」化が、ひとまとまりの作業の委託化を可能にしている関係も認められる。

(2)そのような労働力の調達も含めて、およそ「人材」の売買をビジネスチャンスとすることを許すようになった新自由主義の労働政策。派遣する労働力を「タマ」とよんではばかりない「ベンチャー」経営者の台頭。

(3)そして私の持論、所属企業や雇用形態の違う労働者の労働条件には全く無関心な、労組を労組たらしめる「労働条件決定に関する規範性」の意識を著しく欠いたユニオンリーダーたち。


討論の視点:

こう考えると、ビデオのなかの人びとの問題をなんらかの法律から見た「違法」の問題と考えるならば、それはいささか的はずれであり、対策をもっぱら法の整備に求めるとすれば、それはきわめて不十分になる。問題は「違法か否か」ではない。現実に「偽装派遣」や「不法な派遣」はあるにせよ、あのような人の使い方は合法でも告発されるべきなのだ。また、有期雇用の限定とか均等待遇とか法的に整備されねばならない領域はなお大きい(拙著『リストラとワークシェアリング (岩波新書)』参照)にせよ、賃金水準、作業ノルマ、要員などの問題は、ひっきょう労務管理対組合機能の間で決まる。そこに注目し、かつ上述の「構造的な状況認識」を考慮すると、問題はやはり許されぬことを撃つ「正義」の労働運動の可能性にかえってくると思う。若者の組合離れは必然的とはいえ、だから泰山おじさんの呼びかけにどうしても共感せざるをえない。


組合の戦略のひとつとして最後に提起したかったこと:

組合の可能性を、いまビデオに見る状況だけに限って考えるなら、私が提起したかったことは、古来から港湾など非熟練・一般労働者の組合運動の一角にあった「組合が労働供給事業」を営むということだ。労組のナショナルセンターや、電機連合などの産業別組織が、人材請負企業が行っているような事業を営む。組合に登録した労働者を、規定された労働条件で派遣し、職場で不当な扱いを受けることはないかチェックを続ける。苦情も組合が聞く。観光労連が添乗員についてこれに似た機能を営んでいる。もちろんいくつかの困難はあるが、夢を描こう。もし山端さん、はしかけさん、當野くんらがそうした組合員であったら! そうは考えられないか?


 熊沢誠


  • 「キャリアを積む形で仕事をしている」のか「消費されている」だけなのか
  • 労働組合が、(雇用機会提供は無理にしても)労働供給事業をできないか
  • 「労働条件決定に関する規範性」意識の欠如


R30氏:「労働組合のマーケティングR30氏:「労働組合のマーケティング」を含むブックマーク

強調は引用者。

 僕は、労働組合は自らを「従業員相手の社内サービス業」と位置づけ直すべきだと思う。 賃金闘争や条件闘争は、経営者があからさまな不当労働行為をした時には必要だが、平時にそんなことを言っても従業員はもはや関心など持たない。 それよりは、今目の前にいる従業員(正社員、パート、契約、派遣も含めて)が皆必要としているサービスを提供し、その代価として「組合費」を受け取ることにすればいいのではないか。

労組は「固定的理念を追求する」に終始しがちだが、それが「流動的需要に対応する」話と結合している。

規範意識とサービス業の結婚。



暫定的で個人的な整理 暫定的で個人的な整理を含むブックマーク

  • 社会運動とは、正義を提供するサービス業
    • 「あなたの闘争を支援します」
    • 様々なレベルで。(個人・制度)
    • → マーケティングの必要(正義に関する需要と供給)
  • 正義サービス ―― ≪消費者の意識に選択されるもの/消費者に自覚されないが必要なもの≫
  • 「社内労組」と、「産業別労組による労働供給事業」




*1:貴戸理恵・内藤朝雄・東京シューレ

*2:cf. 貴戸理恵VS東京シューレ (リンク先 id:hikilink さんも)

*3: → 「魅惑する」という支援(「転移」の問題系)。 フェティッシュ(あるいはウンコ)として、プロジェクトとして、魅惑する。

*4:『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』 p.101〜

*5:内藤朝雄 「おまえもニートだ

*6:【参照】。 ただ、実質的な雇用差別を「能力のなさゆえ」にすり替える論法はよく見られるとも聞くが、実際のところはどうなのだろう。

2005-04-07 このエントリーを含むブックマーク

ソファで眠る母の顔が、親族の遺体の顔に重なる。

擬似的な通夜の席で、激しく後悔している。

自分はいったい、何をしてきたのか。

2005-04-06  気付いたら渦中にいた

仕事に必要な議論 仕事に必要な議論を含むブックマーク

『ノンラベル』世話人代表の田井みゆき氏と長時間 電話でお話させていただく。 現場で責任を引き受けておられる方ならではの、きわめて有意義なお話。

現場実務との関係における議論は本当に重要だ。


素案 素案を含むブックマーク

「ひきこもり支援者連絡会議」のような場の設定が必要ではないか。

【追記:「ひきこもり当事者連絡会議」は無理だろうか。】

「ネットワーク」でもいいが、「足並みを揃える」のではなく、「議題(課題)・経験・情報などを共有できる」というニュアンスを前面に出すために。(言葉の問題だけど)


いましめ いましめを含むブックマーク

絶望しきらないこと。 かといって、安易な希望を気休めにしないこと。

このバランスが本当に難しい。


お詫び お詫びを含むブックマーク

お電話・メール・お手紙・BLOGにてご連絡いただいている皆さんに、お返事できていません。

関係各位の皆さん、ごめんなさい。 しばらくお待ちください。


2005-04-05  寝る前にすこしだけ

同時並行的にいくつかの企画を検討中。 同時並行的にいくつかの企画を検討中。を含むブックマーク

長電話したり、メールしたり。

疲れたし、体調悪くて今日は無理だけど、また順次報告します。


草稿 草稿を含むブックマーク

『ユリイカ』座談会で驚いたのは、あれだけ読まれていて、論争的な話もある(と思われる)blog(id:solarさんとか)なのに、エントリー時に編集画面直書き、しかも推敲しないということ。

僕はアウトルックのHTMLメールに書くんだけど、ある程度まとまったエントリーでは10時間以上かかるのが普通。で、これを書いている間は時間があっという間に流れる。

昨日は火種になりそうな論点がたくさんあって、ほんとなら一つ一つに何時間もかけないといけないところ――というわけで、少しだけおさらい。


私怨と公憤「私怨と公憤」を含むブックマーク

知人の示唆は、「公共的正義は、本来は良心に基づくべきであるが、今はそうなっていない」ということではなく、「そもそも正義の基盤というものは、良心ではなく、嫉妬やルサンチマンである」ということらしい。 で、それはすでにいろんな人の議論に出ている見解だ、と。

疑問大有りだが、なんか少し整理できたような気が(答えではなく問いが)。

議論が膨大すぎてどこから手をつけていいかさっぱりわからなかった正義論だが、とっかかりをもらった、のかな。わからん。

うあー、しかし、「正義論」の森の中に迷い込むべきなんだろうか・・・。


俗物と貴族「俗物と貴族」を含むブックマーク

「ナチズムの温床」云々の段落は、僕の意見というよりは内田樹氏の発言を僕なりにまとめただけですが、わざわざこうやって書いたのですから興味を持ったわけです、この意見に。


2005-04-04  経過報告

うー うーを含むブックマーク

クリティカルな情報・意見・仕事がたくさん入ってきて、うれしいやら苦しむやら。

とても数日では整理しきれない。

以下、簡単にメモを羅列しておく。



「当事者として発言する」という問題についての原稿依頼を頂く。 「当事者として発言する」という問題についての原稿依頼を頂く。を含むブックマーク

悩んだ末、チャレンジしてみることに決め、承諾のお返事。



相談実務 相談実務を含むブックマーク

実は、非常に深刻な相談メールやお手紙(出版社経由)を何通も頂いているのだが、ほとんど対応できていない。もちろん、以前に頂いていたご依頼もある。

本当にすみません。

早急に態勢を整え直す必要がある。



正義と嫉妬 正義と嫉妬を含むブックマーク

「いまの社会では、公正的正義の基盤が、良心ではなく、ルサンチマンや嫉妬になっている」*1という趣旨のメール(あまりにもビンゴ)を、同じ日に2人の知人から受け取った。本当に感謝。

 「個人としてどう生きるか」という話と、「どのような社会を目指すべきか」という話を混同してはならない。

御意。



「参加したら負けかなと思ってる」 「参加したら負けかなと思ってる」を含むブックマーク

内田樹氏「階層化=大衆社会の到来」より(強調は上山)。

「インセンティヴが見えにくくなることは、学校での成功から降りてしまう、相対的に階層の低いグループの子どもたちにとって、あえて降りることが自己の有能感を高めるはたらきをももつようになっている」(210頁)*2からである。

不思議なことだが、「勉強しない」という事実から自己有能感を得る人間が増えているのである。 (中略)

「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」(199頁)

これ読んでニート君(「働いたら負けかなと思ってる」)思い出したの僕だけですか。



「エリート」=「炭鉱のカナリア」? 「エリート」=「炭鉱のカナリア」?を含むブックマーク

内田樹氏「ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」」より。

彼らにとって「選ばれてあること」の特権とは、他の人々よりも少なく受け取ること、他の人々よりも先に傷つくこと、他の人々よりも多くを失うこと、という「犠牲となる順序の優先権」というかたちをとる。

貴戸理恵氏の本をめぐって起きているバトルを思い出す。

僕も他人事でない。



私信より 私信よりを含むブックマーク

友人たちへのメールの一部を修正し、ここに転載して途中経過の報告とする。

 「格差社会」や「エリート」については、以下のようなものを参照 しつつ考えていました。

 「貴族/大衆」と、「勝ち組/負け組」の図式の交錯が難しい。 「大衆的勝ち組」(自分のことを疑わない富裕層)もいるし、「貴族的負け組」(自己懐疑的な貧困層)もいる。

 そこに、「ひきこもり」の自意識(「我こそエリートだ」と「自分は最低だ」の両極往復)と、社会存在としての実状(経済的には庇護されているが政治的には最底辺)、という軸がさらに交錯。


 「○○である自分をありのままに肯定する」という俗物根性(大衆的意識)と、「自分を肯定できる者こそが貴族だ」という エリート意識。この結合こそがまさにナチズムの温床になった。


 「諦めきった素朴なゲーマー」たる一般市民の嫉妬やルサンチマンに訴える、「憂さ晴らしエンタテインメント」である『そこまで言って委員会』。 ニート糾弾の差別ゲームだけでなく、天下りや税金無駄遣いなども扱い、すべて「正義」の体裁を持つ。

 絶望し、社会設計の大局的なビジョンを描けない人間(「努力してもどうせ変わらない」)は、自分の鬱憤を「悪いことをする個人」に投げつける。



大切な記憶 大切な記憶を含むブックマーク

こちらのイベント時、私は当ブログのアップ原稿について「1日に原稿用紙7〜80枚分になったことがある」云々と発言したのだが、よく考えるとその計算はブログ草稿についてではなく、ある人へのメールを調べた時のものだった(すみません)。

1通でそれほど長いメールを、毎日のように送り付けていた。

――「この人に言葉を贈りたい」という情熱をあれほど強烈に持てる相手には、もう二度と出会えないと思う。

あと何十年生きようとも。



似顔絵 似顔絵を含むブックマーク

id:kijiq さんが描いてくれた

ありがとう。



「正当な評価」 「正当な評価」を含むブックマーク

『ユリイカ』の原稿については、「どのブログを選んだか」よりも、評価軸の設定のあり方を問題にしてほしい。あれでよかったのか、まずかったのか。

あの番組の「成果主義」においても、「どう評価するか」、その方法論がクリティカルな問題になっていたはず。



ひきこもりとニート ひきこもりとニートを含むブックマーク

ネット上で目にしたご意見*3。 (強調は引用者)

この本読むまでひきこもりってニートの一部だと思ってたんだけど、医学用語social withdrawalの直訳としての社会的ひきこもりに関して言えば必ずしもそうではないんですね。学籍があろうと、職場に席が残っていようと、他人とコミュニケーションできなくなってしまえばひきこもりなのね。もちろん何にもしてなくても友達と遊んでればひきこもりといわないって言うのは前から知ってたけど。斉藤氏の定義に従う限りにおいて、ひきこもりというのはココロの病気の一種であって、主に労働力状態によって定義されるニートとは、たまたまかぶる部分が多いだけで関係ない話なんですね

この本は、現役精神科医が書いただけあって、ひきこもりの原因についてほとんど触れていない代わりに、具体的な症状や対処法はすごくきちんと書いてある。完璧に個人のレベルの話ね。ただ最後にちょっとだけ、「去勢を否認する」社会、みたいな話が書いてあって、本当にちょっとしか書いてないけど、これは『ニート』『大衆教育社会』みたいな話と通じるなあとは思った。

学べるところと突っ込みたいところと両方。




*1:もらったメールをあらためて読んでみると、「公的正義の基盤はルサンチマンや嫉妬である」という可能性も示唆されているように感じる。

*2:『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ

*3:ご本人のご希望により、リンクを外しました。

2005-04-02

NHK総合 新番組『日本の、これから』 「特集:格差社会」 4月2日(土)19:30〜22:30 NHK総合 新番組『日本の、これから』 「特集:格差社会」 4月2日(土)19:30〜22:30を含むブックマーク

 「一億総中流社会」と言われてきた日本。そこで今、貧富の格差をめぐる論議が高まっています。

 ITや金融の分野で巨額の資産を築く人々が注目される一方、生活保護の受給者は過去最高の124万人、実に国民の100人に1人に達しています。

 景気回復の影でリストラされる中高年や、パートや派遣などの非正規雇用にしか就けない若者たちも急増。格差の拡大が、人々の希望を奪っているという指摘もあります。

 その一方で、こうした格差が広がることはやむを得ないという意見も少なくありません。規制緩和を始めとする構造改革によって、自由な競争を促進し、新たなビジネスや技術を育てなければ、国際的競争の中で日本は生き残れないといいます。

 私たちは、こうした「格差」とどう向き合っていけばいいのか。

 番組では、視聴者参加の徹底討論や、リアルタイムのアンケート調査をもとに、3時間に渡って考えていきます。




面会 面会を含むブックマーク

4月1日、ユースサポートネット・リロード事務局長・岩田充功*1と、同リロード・大沢浩子氏のお二人が「神戸自立支援情報センター」の見学に来神。 対応された「神戸オレンジの会」の理事長・松井勝也氏のお誘いもあり、同席。

岩田氏には仲介(というかご紹介)を感謝いただいたものの、私からすれば松井さんとお会いするのも久しぶりだし、皆さんとお話する機会をもらえたのがうれしく、こちらこそ感謝。

大事な話をいくつかできた。そこから派生的に考えたことも含め、簡単に整理しておく。



「ひきこもり」3態*2 「ひきこもり」3態*2を含むブックマーク

この3つでは、それぞれ対応が違っていなければならない。しかし見極めはきわめて難しい。

樋口明彦氏の発表にあったと思うが、精神保健福祉センターなど、行政系窓口の担当者にとっては、「ひきこもり」の多くは(2)に思えるとのこと。



窓口による違い 窓口による違いを含むブックマーク

上記と関係するが、こちらのイベント時の永冨奈津恵氏によると、次のような事情があるらしい(大意)。

 各々の支援団体や相談窓口にいる人は、自分のところに相談に来た人しか見ていない。ところで、それぞれの窓口には特色があるのだから、「その窓口を選んで来ている」という時点ですでにふるいに掛けられており、窓口や団体によって、来訪者の特徴が違っている。

このことに気付かないまま支援者同士が議論を始めると、食い違うことになる。

さまざまな支援者・当事者を取材している永冨氏ならではの指摘。



「居場所」3態 「居場所」3態を含むブックマーク

  • (1)精神的、(2)社会的、(3)経済的
    • (3)なしに(1)はない。
    • (1)ばかりが強調されすぎ。


達成感の区切り 達成感の区切りを含むブックマーク

ひきこもり支援は、対人サービスだし、成果は出にくいし、自分の仕事として「これでいい」と思える達成ポイントを自分なりに決めておかないと、精神衛生上非常にまずい。自分にできる仕事は極めて限られている、と自他共に認めること。

というか、「仕事ができる」とは、「自己限定がうまい」ということだろう



現実 現実を含むブックマーク

市職員の平均給与1人分で、支援NPO1団体に必要な助成金がほぼまかなえる。




「ペルーに学校を作ろう」チャリティーコンサート 「ペルーに学校を作ろう」チャリティーコンサートを含むブックマーク

お邪魔してきました。

「150万円〜200万円で学校が1棟建つ」とのこと。

人間の足の骨でできたケーナ*3の音色が印象的。

演奏と歌を聞かせてくれたセサル・ラ・トーレ氏が手撮りしたと思われるビデオ映像が会場に上映されたのだが、非常に刺激的。牧歌的で貧しい人々の暮らし。

たどたどしいがしっかりした日本語で説明。

 「村の人々が作った野菜などを、ものすごく安く買い、高価く都会で売る人がいる」

経済。政治力。



「みんなで楽しむ」

という場がダメだ、ということにあらためて気付く。

僕がカラオケが駄目な理由もこれ。

イベントで講演するよりたくさん汗かいたり、肩凝りや頭痛でめまいがして吐きそうになったり。

なんでふつうに楽しめんか。


「オタク方面へは行けない」

とあらためておもった。メンタリティというか、体質的に。

といって自然崇拝のイデオロギーもうんざりだが。

なにか、素朴なものにホッとする。

欺瞞ですか。


このイベントの情報は、

神戸市会議員・井坂信彦氏の複数同時送信メールから得たのだが、この井坂氏は、拙著p.119に登場する「 I 市議」。 個人的にお付き合いがあるわけではないし、今後仕事でご一緒できるかどうかもわからないのだけど、そういうこととは別に、政治家として非常に信頼しています。

理由はわからないのだが、彼のもとで以前出会ったインターンの学生さんたちは、素晴らしい人ばかりだった。




訂正 訂正を含むブックマーク

こちらの注について、永冨奈津恵氏ご本人よりご指摘が。

【誤】 後になって数万円の請求書

【正】 後になって数万円の請求書

僕の耳には「千万円」の響きがショッキングに残っているのですが、ショックすぎて聞き間違えたのかもしれません。

すみません・・・。




*1こちらのイベントでパネラーとしてご一緒した方です。

*2:【参照:「ひきこもり」の概念(厚生労働省)

*3:【参照

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