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2005-05-26  レポート 『不登校は終わらない』 (3)

承前 承前を含むブックマーク

今回取り上げた諸問題については、今後も継続的に考えてゆきたいと思っています。*1

レポートの最後に、報告者である私の簡単な覚え書きと、リンク集を作ってみます。



メモ メモを含むブックマーク

  • 「当事者の言葉」は、いわば《原典》として扱われる。しかし、そこにはすでにズレが生じている。体験情報の原典性と、本人の意識による解釈。後者については、批判される可能性があり得る。(「アカデミック・サークルに居るかいないか」は、アリバイとして関係ない。)
  • 一定の解釈を紡ぎだす調査者は、いわば「翻訳者」として非難される。「翻訳を間違った」こともあれば、「実際に言ったのだが、オフレコだった」こともある。「口にしていい言葉」は、社会的・心理的な力関係の中で決められる。
  • 当事者発言の原典性は、その言語としての脆弱性や、言葉のコードに乗らない「言葉以前の何か」に淵源を持つ、独特の「オリジナリティ」に求められる。しかし当事者の体験や言葉は、それ自体としては基本的に陳腐であり、「サンプルのひとつ」にすぎない。「体験の深刻さ」と、「文化的オリジナリティ」は別の基準。
  • 「当事者」という言葉の強調には、傷ついた人間についてうかつな口をきいている連中への怒りがある。言葉の脆弱性を原理的要因とするタイプの当事者と、そうではない当事者に対しては、調査倫理が(少なくとも量的に)違ってしかるべき。
  • 運動体は、体験情報の解釈権を独占しようとする。それは、「体験を守る」ために一定の役割を果たしつつ、既存の解釈枠に掬われていない新しい体験情報の可能性を抑圧する。弱い存在である当事者が、強者たち(既存アカデミズムや運動体)と解釈権で争うためには、アカデミズムの手続きを必要とするのではないか。
  • 当事者は、原典としての体験情報を持ってはいるが、それは解釈者やアイデアマンとして優秀であるための条件の一部に過ぎない。体験としての真摯さは、解釈やアイデアの優秀さを保証しない。
  • 《当事者による研究》(当事者学)が、モチベーション・レベルで格別の強度を持つのは当然だとしても、取材プロセスや解釈結果について、「当事者ならでは」のクオリティや差異を主張できるだろうか。できるとすれば何か。
  • すべての原典(体験情報)が尊重されるわけではない。尊重は社会的決定事項であり、政治的に優先順位が決められる。*2



リンク集(一部) リンク集(一部)を含むブックマーク

今回の案件に関連し、参考にさせていただいた記事のリンク集です(敬称略)。

見落としもあると思いますし、随時追加しようと思います。

ほぼ時系列順です。


資料:


不登校は終わらない』書評:




*1:取材に協力くださった貴戸理恵さんと常野雄次郎さんに、感謝申し上げます。ありがとうございました。

*2:東京シューレは、貴戸氏の研究を「フリースクール運動の成果」と捉えることはできなかったのだろうか・・・・。「不登校擁護運動ゆえに、このようなたくましい当事者も登場し得たのだ」と。

2005-05-25  レポート 『不登校は終わらない』 (2)

承前 承前を含むブックマーク

貴戸理恵氏と東京シューレのやり取りをめぐっては、≪当事者≫というポジションが独特の役割を果たしており、これがお互いの主張する倫理性の参照項になっている。この問題は非常に広く複雑な射程を持ち、慎重な論考を必要とするが、ひとまずここでは、今回の案件に関連するいくつかの指摘のみを試みる。

【追記:当ブログでは、「現役の引きこもり」を≪当事者≫と呼び、「かつてそういう経験がある人」を≪経験者≫と呼んで分ける努力をしているが、貴戸氏の著作においては、「不登校経験を持つ者」がすべて≪当事者≫と呼ばれている。また貴戸氏の師事する上野千鶴子氏が共著者である『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』では、「ニーズを持ったとき、人はだれでも当事者になる」と定義されており(p.2)、「ニーズの有無」が鍵とされている。▼以下では、≪当事者≫と呼ばれるポジションが持つ機能そのものを考察している。】



「ニーズの主体」と「主張の主体」 「ニーズの主体」と「主張の主体」を含むブックマーク

双方の主張のすれ違いは、≪ニーズの主体≫としての当事者と、≪主張の主体≫としての当事者の混同に基づく。 ▼東京シューレ(奥地圭子氏)は、不登校擁護の運動において「自分たちこそが当事者益を代弁している」という自負において語り、それゆえシューレに批判的な者を「不登校当事者の敵」と見なす。いっぽう貴戸氏は、不登校当事者の一人である自分自身の「必要=ニーズ」に応じて、あるいはフィールドワークから読み取れた「当事者たちの声=ニーズ」に応じて*1、みずからの主張を形成している。それぞれが、「当事者のニーズ」にこだわっている。 ▼『不登校は終わらない』に登場する当事者の一人である「Nさん」は、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)』を参照すれば、貴戸理恵氏本人であることが明らかである。ここでは、≪ニーズの主体≫としての貴戸氏と、≪主張の主体(論文執筆者)≫としての貴戸氏が、手続き上ショートしている。「当事者の声」を取材すべき貴戸氏が、「自分自身」を取材対象の一つにし、主張を形成している。これは、既存の論文作法上疑問視されると思われるが、逆に言えば、「当事者による当事者研究」の一環として、「自分の経験を動因とし、自分自身を分析の対象にする」*2という作業の可能性にあえて打って出たものであり、≪当事者学≫という立場からの「調査倫理」上の挑戦とも考えられる。貴戸氏ご本人にこの点を確認したところ、「Nさん」が貴戸氏ご本人であるかどうかについての明言は避け、「この点については、これから時間をかけて自分で取り組んでゆきたい」とのこと。*3 ▼貴戸理恵氏は、東京シューレにも奥地圭子氏にも取材を行なっておらず、出版前には取材対象者全員から出版許可を取っている。東京シューレは、自分が取材対象ではないのに、取材対象者たちの発言内容およびそれへの解釈について検閲権を主張しているのであり、これについて貴戸氏に非があるとは思えない。貴戸氏の論文の「調査倫理」において真に問題とすべきなのは、「東京シューレとの関係」ではなく、むしろ「自分自身との関係」ではないだろうか。逆に言えば、期待されるべき可能性の焦点もそこにあるように思われる*4



運動体のイデオロギーと、「当事者の声」 運動体のイデオロギーと、「当事者の声」を含むブックマーク

「当事者の語り」のみを取材対象とする貴戸氏においても、「見解」に「当事者の手記」を掲載する東京シューレにおいても、≪当事者の声≫は、不可侵の尊重対象とみなされている。▼『不登校は終わらない』は、貴戸氏自身の不登校経験の記憶を出発点としており、そのフィールドワークは、「他の当事者たちの声」を収集している。貴戸氏が「東京シューレ」や「奥地圭子」に取材しなかったのは、単なる忘却ではなく、「当事者」にターゲットを絞ったゆえの原理的選択といえる。シューレからの修正要求に対する修正基準と修正結果(重版時)を見る限り、貴戸氏は奥地圭子氏について、「不登校当事者の発言を修正する検閲権限はない」と考えている。▼『不登校は終わらない』が、作品創造の起動因においてのみならず、主張内容においても≪当事者たちのニーズ≫を抱えており、それが「暗い不登校」や「ひきこもり」の指摘につながっているとすれば*5、東京シューレは、貴戸氏の解釈を検閲する振る舞い*6によって、みずからのイデオロギーからこぼれ落ちる≪当事者の声≫を消しにかかっていることになる。その際にシューレが持ち出す正当化の論理は、あくまで「当事者の利益」であり、そのために2名の手記(「当事者の声」)が援用された。いわば、「ある当事者の声を消すために、別の当事者の声を利用する」構図がある。



《存在》 と 《言葉》 《存在》 と 《言葉》を含むブックマーク

再度確認したいのは、これは「ニーズの主体」と「主張の主体」を混同する問題ということ*7。シューレの振る舞いは、「《主張の主体》としての当事者の声を消すために、《ニーズの主体》としての当事者を持ち出す」という構図を持つ。あるいはこう言い換えてもいい。「《言葉》を打ち消すために、《存在》としての当事者を持ち出した」。ここでは「当事者の言葉」は、対等な対話相手としての《言葉》ではなく、言葉を黙らせる《存在》として機能してしまっている。当事者発言はあくまで《存在》であって、ということは、対等な関係を求めて当事者が反論を試みれば*8、その解釈は「正しい解釈」の保持者としてのシューレに批判されることになる。(「理論」と「当事者の言葉」は別の水準にあって、後者は前者に奉仕する形でしか存在を許されない。) 「当事者の体験」は、解釈権をもつ東京シューレに牛耳られてしまう*9

今回のケースでは、貴戸氏が「東大大学院生」ということで、貴戸氏の言葉には《存在》としての価値が与えられなかった。しかし貴戸氏自身は、みずからに巣食う「不登校の記憶」を、あくまで《存在》のレベルで評価しているように思われる。



「当事者」の主張責任 「当事者」の主張責任を含むブックマーク

「見解」中の2名の手記は、「取材手続きへの抗議」ではなく、「貴戸氏の解釈への反論」なのだから、お互いに対等な《言葉》のレベルにある。ところがこの2名が「当事者」であることによって、その主張は《存在》、つまり≪反論してはならない絶対的声明≫とされ、シューレの「見解」(《言葉》)を補強している。ここで≪当事者の声≫という存在は、「解釈レベルの反論」を、「手続きレベルの抗議」にすり替えるマジック・ポジションとして援用されている*10。「見解」に手記を寄せた2名が、こうした事情を知った上で寄稿に同意したのであれば、この2名は「当事者」というみずからのポジション(存在)を、シューレに政治的に利用させることを政治的に決断したことになる。ここには当然、主張責任が発生する。東京シューレは、この2人をこうした責任の場に連れ出した。

同様にして貴戸理恵氏は、「ニーズの主体」として、みずからの声を「主張の主体」としての自分自身(論文執筆者)に利用させている。これは、「当事者として発言する」という社会行為を試みる者すべてに問われる責任構造である。



「弱者の声」と、抗議倫理 「弱者の声」と、抗議倫理を含むブックマーク

東京シューレ「見解」に掲載された「手記」を読む限り、彼ら2名は、事前に貴戸氏から出版原稿の全体を渡されながら、読まないままに出版にGOサインを出しており、「解釈」に取り組むことへの極端な脆弱性が見て取れる。またこの2名は現在、「シューレ大学」に籍を置いて不登校の研究をしているのだが、支援団体内部の力関係を考えれば、被支援者が団体内部の見解に抵抗するのは困難であることが容易に想像される。

ここでは、「判断主体の独立性」と、現実的な力関係が問われている。

シューレは、みずからの団体内部の「当事者」を、あのような政治的見解表明の場に登場させてよかったのだろうか。しかもその抗議行動は、貴戸氏が手続き上の対処を終えた後にまで継続されている。

「調査倫理」と同様に、「抗議倫理」が問われるべきではないか。



既存解釈と、そこからの脱落 既存解釈と、そこからの脱落を含むブックマーク

「力関係の差」については、当然ながら「アカデミズム」の強力な解釈権が問題となる。

運動体としての東京シューレは、不登校に否定的なアカデミズム(既存解釈権)と戦い、弱者たる不登校当事者を守ってきた。「フリースクールにすら救済されない体験や存在」に拘泥する貴戸氏は、いわばそのシューレの素振りを繰り返しているのだが、今回は東京シューレ自身が、「脱落者を糾弾する解釈権力」として振る舞っているように見える。

不登校を擁護したからといって、既存の学校教育という社会機能自体が否定されるわけではないように、フリースクールからの脱落者を擁護しても、フリースクールや「不登校擁護運動」の社会機能自体が否定されるわけではない。

既存の枠組みから離脱するあり方を規範として肯定する素振りと、その「離脱肯定」からすら脱落してしまう存在への社会的処遇を検討する作業とは、同時に成立すべきである。離脱を肯定する陣営と、復帰を模索する陣営が対立してしまうこれまでの文脈は、不毛すぎる*11。規範としての「離脱肯定」と、具体的救済努力としての「再復帰模索」は、同時に追求されてしかるべきものだ



「前衛党」と「反革命」? 「前衛党」と「反革命」?を含むブックマーク

東京シューレによる貴戸批判は、「見解」に不登校当事者の手記が登場していることからも分かるとおり、「当事者益」を根拠としている。しかし奇妙なことに、貴戸理恵氏自身が不登校経験の当事者であるから、シューレは、「不登校当事者の一人を徹底的に追い詰め、糾弾している」ことになる。また、「見解」に登場した2名と同じく貴戸氏の取材対象であり、ブログ上や共著内で貴戸氏の発言を支持している常野雄次郎(id:toled)氏については、シューレや奥地圭子氏はいまだ言及していない*12。つまり東京シューレにとっては、たとえ相手が「当事者」であっても、当事者全体の利益を代表しているとされるシューレに敵対している時点で、「当事者の敵」であると見なされることになる。▼ここで、「労働者の利益を代表する前衛党」と、その党による労働者への「“自己批判”の強要」*13という歴史を思い出さずにいることは難しい。≪当事者≫という理念的参照項は、運動遂行と糾弾の構図において、かつての≪労働者(プロレタリア)≫という理念的ポジションに重なっている。

貴戸氏を攻撃する多くの人々(当事者を含む)は、貴戸氏が「東大院生である」という事実に執拗に絡む。「不登校こそ正しい」というイデオロギー下では、既存の教育制度に、しかもその牙城と目される「東京大学」に首尾よく帰属している時点で、「裏切り者」扱いされる。▼やはりここでも、「資本主義の犬」という古典的左翼用語を思い出す。貴戸氏は、東京シューレやそれに同意する人たちによって、事実上「反革命」扱いされている。しかしもちろん、貴戸氏が掬い上げている「当事者益」は、貴戸氏ひとりのものではない。*14



解釈権の拮抗 解釈権の拮抗を含むブックマーク

今回の案件においては、解釈権に関する3つの権威が絡み合い、拮抗している。その3つとは、

《運動体》  《アカデミズム》  《当事者》

である。とりわけ今回は「不登校」、すなわち既存の教育制度からの離脱・脱落がテーマゆえに、その論争は「既存解釈が掬えないものを黙殺・抑圧する暴力」をめぐって戦われている。

    • 東京シューレは、弱者たる不登校当事者を擁護し、その利益を代弁すべく発言する。シューレから見れば、貴戸理恵氏は「アカデミック・サークルの慣習で当事者の利益を侵害する者」であり、そこで抗議を行なうシューレ自身は、《運動体》として権威付けられる。
    • 貴戸理恵氏は、「自分の必要」があって今回の論文を書いたという。また調査者としての彼女は、支援者や親たちではなく、あくまで「当事者たちの声」そのものに照準を合わせ、それが結果的に「奥地圭子氏には取材も許可も取らない」出版に結びついている。つまり貴戸氏は、「不登校当事者たち」のニーズと利害にどこまでも忠実になろうとしたのであり*15、「アカデミズム」という舞台や手続きは、その当事者益に「奉仕するもの」としか考えられていない*16
    • 貴戸氏にあっては、みずからの不登校経験への「こだわり」に執筆動機の核心があるのだが、東京シューレ側(奥地圭子氏およびその賛同者たち)には、そのモチベーション(言説ではなく存在)の核がまったく見えておらず、貴戸氏の論文が「アカデミズム」あるいは「不登校を否定する既存社会の言説」のみに基づくように見えている。
    • 「不登校当事者」としての貴戸理恵氏は、《運動体》としての東京シューレの成果から恩恵をこうむっていることを、『不登校は終わらない』、シューレへの「コメント」、私からの取材において、再三強調している。

不幸なすれ違いとしか思えない。

3つの解釈権威は、対立すべきものではなく、協力すべきものだと思うのだが・・・・。



*1:そこには、「調査現場に立ち現れない者」への想像力もあった(p.106,261など)。 このことは、「脱落・離脱」を本義とする不登校の研究においては、重要なセンスだと思われる。(これは当然、「フリースクールからすら脱落してしまう人たち」の問題であり、「ひきこもり」の話に通じている。)

*2:私はここに、精神分析の歴史や方法論を思い出さずにはいられない。

*3:明言を避けたことからも「Nさん」が貴戸氏であることは間違いないと思われるが、以下をお読みいただければお分かりのとおり、報告者である私(上山)自身は、貴戸氏のこの試みを積極的・肯定的に検証したいと思っている。これは当然、「ひきこもり経験」を出発点とした私自身の試みの再検証でもある。▼ただ、私はこの問題について、既存の学説の蓄積を何も知らない。ぜひ、識者諸氏の教えを乞いたい。

*4:『不登校は終わらない』が、「当事者による研究ゆえの情報クオリティ」に成功しているか否か自身は、もちろんまた別個に検証されるべき事柄である。今回の貴戸氏の試みが失敗していたとしても、そのこと自体は、≪当事者学≫の可能性を検証する必要自体を否定するものではない。貴戸氏は単に一挑戦例にすぎない。

*5:報告者である私自身はそのように考えている。

*6:「反論」はぜひとも肯定されるべきなのだが、ここではシューレの行なった「260箇所以上の修正要求」を「検閲する振る舞い」と表現した。しつこいようだが、貴戸氏の解釈の成否そのものについては、まったく別の検証課題として残っている。

*7:これは、「客観的なポジション」から峻別することのできない解消不可能のジレンマであり(しかし峻別の努力は常に繰り返されるべきだ)、だから論争が続いてゆく・・・。重要かつやりきれないのは、論争に関わっている全員が、「不登校当事者にとっての利益」を目指していることだ。

*8:貴戸氏の行為はそれにあたる

*9:不登校擁護の運動を進めるためには、そのような暴力性にも果たすべき役割があったことがじゅうぶん想像できる。

*10:「取材対象となった当事者の発言を無条件に尊重すべきである」という東京シューレの態度は、実は常野雄次郎氏の存在によって、すでに破綻している。

*11:「奥地圭子vs斎藤環」、「高岡健vs斎藤環」といった構図も、これで話が済んでしまう・・・・

*12:貴戸氏が「相手にされ」、常野氏がそうならないのは、貴戸氏がアカデミズム(の牙城と目される東大)にいるからだろう。同じことを「弱い当事者」が主張しても、それは単に黙殺される。▼貴戸氏の主張に意義を感じる私のような者にとっては、彼女がアカデミズム(東大)にいるのはたいへん喜ばしいことだ。(くだらないことを主張されたらたまらないが。)

*13:最悪形は「粛清」

*14:ここで思い出すのは「内ゲバ」だ。ああ・・・

*15:繰り返すが、その「当事者たちのニーズ」に貴戸氏本人のニーズがどの程度、どのようなメカニズムで繰り込まれたかが、今後の重要な検討課題になる。▼当然ながら、「当事者」各人が同定する主観的ニーズは、バラバラであり得る。

*16:貴戸氏は、「理論“そのもの”に興味はなく、自分の問題に関係することしか勉強する気にならない」という。

2005-05-15  レポート 『不登校は終わらない』 (1)

ueyamakzk2005-05-15

おことわり おことわりを含むブックマーク

貴戸理恵氏の著作『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』について、「見解」を発表した*1東京シューレ、及びそれに対する「コメント」を公表した貴戸理恵氏の双方に対し、メールにて取材を申し込んだ。

東京シューレからは、貴戸氏に関する言及を一切いただけず、「多忙」を理由に取材を受けていただけなかった。 貴戸理恵氏からは、電話・メールにより、数回お話を伺うことができた。

私見に基づいて、簡単にご報告する。



前提 前提を含むブックマーク

東京シューレの「見解」については、「調査・出版の≪手続き≫への抗議」と、「不登校の≪解釈≫への反論」とを混同すべきではない。 ≪解釈≫については、今後も議論を続けてゆけばよいのであり、出版物に介入する「修正要求」自体がおかしい*2。 貴戸氏に問題があり得るとすれば、≪手続き(調査倫理)≫に関してであって、事実確認と検証の緊急性はそちらにのみある。



事実確認 事実確認を含むブックマーク

「何があったか」をわかりやすく検証するために、時系列箇条書きのフォーマットを貴戸理恵氏にメールでお送りし、ご自身に執筆していただいた*3。 以下、貴戸氏による校正済みの文章をそのまま転載する。 ただし、争点に関係する重要な事実確認については、貴戸氏から最終稿を受け取った後、報告者である私が勝手に強調した。


■2002年7月〜

インタビュー調査を開始する。 情報提供者(インタビューに協力してくれた<当事者>たち)へのアクセスは、 (1)横浜市の「親の会」を通じてその息子・娘を紹介してもらう、 (2)東京シューレ関係のイベントに参加し、東京シューレ出身の不登校経験者と知り合う、 (3)そのようにして知り合った人にさらに知人を紹介してもらう、 という方法で行う。 その際、貴戸自身が不登校経験を持ち自分の問題としてこの領域に関心を寄せていること、大学に提出する論文の取材であることを、事前に手紙・Eメールあるいは口頭で全員に告げている


■2003年9月〜11月

情報提供者全員に作成中の論文のケースレポート部分を郵送あるいは対面にて渡し、論文に掲載してよいかどうか許可を得る。 訂正・削除の要求は全面的に受け入れる。


■2003年12月

修士論文『不登校経験の意味付けとその変容』を東京大学大学院総合文化研究科に提出。 提出後に届いた情報提供者からのケースレポートの訂正・削除の要求を同様に受け入れる。 また、連絡がつかず「掲載可」の返信が得られなかった情報提供者のケースレポートを削除する。 結果的に2名のケースレポートを削除したものが修士論文として承認される。


■2004年1月〜4月

ケースレポートを含む修士論文全体を、情報提供者に郵送あるいは対面にて渡す。 東京シューレによる「見解」手記を寄せたシューレ大学に所属する二人の情報提供者については、対面にて二人に一冊を寄託し、二人および関係者が閲覧できるよう依頼する。 また、シューレ大学のスタッフにも修士論文全体を一冊手渡す。


■2004年4月〜7月

論文が単行本として出版されることについて、対面・電話あるいはメールで、情報提供者全員に許可を取る。要望に応じて、3名の情報提供者についてはこのときにさらにケースレポートを修正する。

なお、東京シューレに関する記述は公刊物からの引用に基づいており、東京シューレでのフィールドワークや奥地圭子氏へのインタビューなどは行っていないことから、団体としての東京シューレおよびその代表である奥地圭子氏には許可を得る必要を認めなかった(貴戸「コメント」参照)。 ただし、シューレ大学のスタッフには、出版の予定がある事実を報告している。


■2004年11月

不登校は終わらない』出版。


■2004年12月〜2005年1月

奥地圭子氏から電話連絡を受け、シューレ大学にて貴戸と東京シューレ関係者10名弱で『不登校は終わらない』の内容について話し合う。 話し合いは2度行われる。


■2005年2月

初旬、重版が決定する。 貴戸から東京シューレに「できるだけ対応するので訂正を希望する箇所を示してほしい」と要望する。 2月14日に貴戸がシューレ大学を訪問し、260箇所あまりの修正要求書を受け取る。 1)情報提供者個人から要求のあった発言内容の削除・修正および匿名性への配慮、 2)事実誤認や誤字脱字の修正、 3)より誤解を少なくする表現への改訂を中心に50箇所あまりを修正し、第2版を出版する。

東京シューレの「見解」に手記を寄せた情報提供者の一人が違和感を表明している「フリースクール批判にも関心を持っている」「フリースクールに一〇年以上所属し、そのなかで学び育った人物によって担われるとき、(中略)<「居場所」関係者>にとってもっとも核心を突く、手痛いものとなるに違いない」という箇所についても、このときの希望によりすでに削除している(貴戸「コメント」参照)。


■2005年4月8日

東京シューレ、「見解」をシューレHP上にて公表。


■2005年4月26日

貴戸理恵、シューレ「見解」への「コメント」をHP上に公表。(HTML版


* その他

・現在のところ、 出版後に発言部分の削除・修正の要求のあった情報提供者は、東京シューレの「見解」に手記を寄せた二人。




要点 要点を含むブックマーク

双方のネット上文書、貴戸氏への取材、それに『不登校は終わらない』の再読から、次のような事実が確認できる。 これは私がまとめ、事実関係のみを貴戸氏にチェックいただいた。 強調は、貴戸氏によるチェック後に私がおこなった。

  • 貴戸理恵氏は、シューレ経験者8名を含め、取材対象者15名全員から出版許可を得た上で、初版を出版している。
  • 初版出版後の削除・修正要求は、「見解」に手記を寄せた2名からのみ。 取材対象者中この2名のみが「シューレ大学」に在籍中で、不登校を研究している
  • 貴戸氏は、東京シューレや奥地圭子氏には取材を行なっておらず、言及や引用は公刊物のみを参照したため、奥地圭子氏に出版許可を取る必要はないと判断した。
  • 貴戸氏は初版出版後、第2版出版前にシューレ側と話し合いを持ち、260箇所あまりの修正要求書を受け取っていたが、「取材対象者からの削除・修正要求」と、「誤字脱字・事実誤認の修正」のみに応じ、≪解釈≫レベルで意見を一致させる修正要求には応じなかった。
  • シューレ「見解」に手記を寄せた取材対象者2名は、初版出版後に出版許可をひるがえしている。 貴戸氏は第2版で彼らの削除・修正要求に全面的に応じたが、「見解」に掲載された手記は、削除・修正の完遂を踏まえた上で提出されている



調査倫理について 調査倫理についてを含むブックマーク

貴戸氏の手続き上唯一疑問が残るのは、「初版出版前に奥地圭子氏に直接許可を取らなかった」ということだが、取材対象者の発言内容について、奥地圭子氏に検閲権限があるのだろうか。

貴戸氏は、第2版出版前には東京シューレから修正要求表を受け取っており、その上で現状の重版に踏み切っている。 つまり第2版の問題は、「許可を取ったか否か」ではなく、「シューレ側が同意できない解釈を主張している」ことである*4

貴戸氏が削除・修正に応じて以後に当事者2名がおこなったクレームは、「手続きへの抗議」ではなく、「解釈レベルへの反論」でしかあり得ない。


以上を踏まえた上で、なお貴戸氏の「調査倫理」に問題があるとする者は、次のように主張していることになる。 (これは私によるまとめで、貴戸氏の見解ではない。)

    • 取材対象者(インフォーマント)*5から得た情報については、取材対象者本人のみならず、その人物の所属団体トップにも出版・公開許可を取らねばならない。 取材対象者本人には、自分の情報について許可を与える最終権限がない。
    • 公刊物に基づく言及・引用についても、当該団体や発言者に直接許可を取らねばならない*6
    • 取材対象者および関係団体トップ全員から、≪解釈≫レベルでの同意を取り付けねばならない。
    • 事前に出版許可を得ていても、出版後にその許可をひるがえされれば、著者が道義的に責任を負う。 重版時に削除・修正要求に全面的に応じても、さらに非難され続ける義務がある。

「シューレ大学」の2名がどうして出版後に許可をひるがえしたか、その理由について本人たちに取材したかったが、今回はシューレ側に取材に応じていただけなかったため*7、断念した。



疑問 疑問を含むブックマーク

取材対象者の一人であり、東京シューレに所属経験のある常野雄次郎(id:toled)氏によれば、実は奥地圭子氏の著作自身が、手続きに疑問を抱えている

なお、同じような危うさは東京シューレ主宰者の奥地圭子さんも抱えています。 彼女はこれまで、著書の中で僕を含む複数のシューレ出身者のことを本人に無断で書いてきました。 僕自身は決して傷つくことはありませんでしたが。

解釈結果の問題と、手続き上の倫理の問題とは、分けて考える必要がある。

奥地圭子氏は、結果から遡って手続きの正当性を判断しているように思われる。 解釈が正しければ手続きを間違っていても構わないが、解釈が間違っていれば、手続きはさかのぼって糾弾される。

貴戸理恵氏は、手続きを踏まえる努力をした後で、自由に解釈を模索している*8。 手続きについては、どこまでも譲歩して修正に応じているが、模索中の解釈については、修正要求に応じていない。



≪当事者≫について ≪当事者≫についてを含むブックマーク

不登校は終わらない』の調査倫理については、「当事者が当事者を取材する」という、≪当事者学≫独特の事情も絡んでいる。 またシューレ「見解」が、「当事者の手記」掲載に独自の政治的意味を込めているのも明らかである*9

今回の私のレポート作成にあたっては、できれば「見解」に手記を寄せた2名にも取材を試みたかったが、「ここで当事者本人を取材対象にしてもよいのか」という非難すらあり得る。

これについては、項を改める。 → レポート(2)




*1:【追記】: 2005年11月4日現在、削除されている。

*2:今回の場合、明白な中傷や差別表現等があったわけではない。

*3:さらに詳しくは、もちろん貴戸理恵氏「コメント」を参照していただきたい。

*4:念のため繰り返せば、取材対象者15名中7名は、シューレとは無関係である(所属経験がない)。

*5informant、情報提供者

*6:「当事者」の場合には、インタビューにあってすら「発言者本人」に許可権限がないが、それ以外の発言者の場合には、公刊物への言及に対してすら検閲権限がある、と主張していることになる。

*7:あくまで感情レベルの要因としてだが、今回の案件がシューレの「20周年」の時期にちょうど重なってしまったのは、いかにも間が悪い・・・・。

*8:解釈そのものの正しさは、ここではまた別に検討すべき問題である。 貴戸氏の解釈が間違っている可能性は、もちろんあり得る。

*9:「貴戸氏に取材を受けたシューレ関係の当事者」という意味で、「見解」に手記を寄せた2名と同じ立場にある常野雄次郎氏は、『不登校は終わらない』を支持している。 東京シューレ側は、常野氏のこの発言をどう考えるのだろうか。

2005-05-10  レポート 『不登校は終わらない』 (0)

ueyamakzk2005-05-10

やり取り: こちらの件について やり取り: こちらの件についてを含むブックマーク

5月6日早朝、東京シューレに取材申し込みのメールを出し、9日お昼すぎ、確認のためシューレNPO事務局にお電話しました。 「担当者不在」とのことで(何も悪意は感じませんでした)、私の電話番号をお伝えしましたが、当日深夜にメールでお返事を頂きました。



私からのメール 私からのメールを含むブックマーク

改行部分まで含め、すべて原文のままです。

To: <info@shure.or.jp>
Sent: Friday, May 06, 2005 5:17 AM
Subject: 取材のお願い


東京シューレ様


突然のメールで失礼致します。


私は、『「ひきこもり」だった僕から』(講談社)という本の著者

であり、現在はブログ『Freezing Point』

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/ の管理をしている、

上山和樹(うえやま・かずき)と申します。

神戸在住の、36歳の男です。


さて、今日メール申し上げましたのは、先日から貴「東京シュー

レ」様および貴戸理恵氏の間で懸案になっております、『不登校

は終わらない』について、私なりの立場から、双方に取材させて

いただきたい、と思ってのことです。

私は、「ひきこもり状態の経験者」として、個人的な発言や、支援

の活動を試みているのですが、そのような立場から、あるいは

そもそも「不登校の経験者」であるという立場から、今回の件に

は並々ならぬ関心を持ってまいりました。


私は貴「東京シューレ」様による、

≪貴戸理恵著『不登校は終わらない』に対する見解≫

http://www.shure.or.jp/info/kenkai.html

を拝読し、また同時に貴戸理恵氏による、

≪東京シューレによる「貴戸理恵著『不登校は終わらない』

に対する見解」へのコメント≫

http://www.riekido.com/comments.pdf

を読みました。


私が貴戸理恵氏の著作を拝見する限り、どうやら貴戸氏は東京

シューレ的なものに――私などよりはるかに――愛着を持って

いる方のように見受けられたため、今回のすれ違い――としか

思えぬもの――には、第三者ながら、残念な気持ちを持ってお

ります。ですから、私としては、何か対話の回路を探れないか、

というのが、今回ご連絡した最大の目的になります。


つまり私自身は、「貴戸理恵氏は東京シューレや不登校を

頭から否定してなどいない」という立場であることになります。

また当然ですが、東京シューレ様の活動には重要な意義が

あると考えております。


私は現在、上記ブログ『Freezing Point』において、今回の件

についての簡単な私見をまとめたエントリーを準備しているの

ですが(1回とは言わず、継続的に考えてゆくつもりです)、それ

にあたって、ぜひ東京シューレ様のご見解を、お聞かせいただ

くわけには参りませんでしょうか。


――――――――――――――――――――――――――――


お聞かせいただきたいのは、次のような点についてです。


▼貴戸理恵氏の「コメント」を受けられて、受容的な展開はあり

得ないのでしょうか。東京シューレ様が「見解」にて挙げられた

苦情は、貴戸氏の≪手続き≫に関する面と、≪解釈≫に関する

面とに分けられると思います。

→ 現在でも、奥地圭子様をはじめとするスタッフの皆様は、貴戸

理恵氏の取材から出版にいたる≪手続き≫には、問題があった

とお考えでしょうか。


――――――――――――――――――――――――――――



なお、可能であれば東京にお邪魔しますが、電話のみの取材

でも結構です。できれば、奥地圭子様ご本人のご見解を賜れれ

ば幸いです。(あらためてこちらからお電話でご連絡申し上げます

が、もしよければ、ご都合のよい日時をお知らせくださいませ。)



突然の差し出がましいお願いで、申し訳ありません。

ぜひご検討いただけますよう、よろしくお願い申し上げます。


東京シューレの今後のご発展を、心よりお祈り申し上げます。



上山和樹




東京シューレからのお返事 東京シューレからのお返事を含むブックマーク

From: "Tokyo Shure" <info@shure.or.jp>
Sent: Tuesday, May 10, 2005 1:20 AM
Subject: Re: 取材のお願い

私が恣意的・部分的にお返事を引用するほうがまずいと思い、許可を得ないままいったんここにメール全文を転載したのですが(5月11日早朝)、やはり掲載許可について万全を期すため、直後に取り下げました。

5月11日の午前8時頃に転載許可を求めるメールを出し、12日午前9時すぎに電話 → 担当者不在。 あらためて13日午後1時すぎに電話し、メール送信者の NK氏と直接お話できました。 ▼「公開を前提にしたメールではない」とのことで、転載許可をいただけませんでした。

メールと電話での、お返事の要旨:

「6月25日開催の20周年記念イベントの準備・制作」で、「子ども・親・スタッフ等」すべて多忙のため、取材は「遠慮」する、とのことです*1。 メール名義は奥地圭子氏ではありませんが、電話で送信者ご本人(NK氏)に確認したところ、「奥地圭子と相談して」このような判断になった、とのことです。

「では、イベント終了後の取材は可能でしょうか」と申し上げたところ、「それはまたその時に」とのことでした。

(お返事は全て大意)



以上の転載について 以上の転載についてを含むブックマーク

これは、やり取りそのものを資料として公開し、取材を断わったことによる東京シューレの不利益をできるだけ回避するためのものです。(私の申し込みメールに不備や失礼がある可能性もありますので。)

貴戸理恵氏には取材申し込みを受諾いただき、電話とメールでのインタビューが実現しているため、このような公開は必要ないと考えます。


細かい報告については、現在作成中です。

→ レポート(1)




*1:お返事メールの文面は、ほとんどこれに尽きています。 あとは、取材を打診した私への感謝の言葉が書かれているだけです。

2005-05-08  メモ

取材 取材を含むブックマーク

「東京シューレ」と貴戸理恵氏に、メールで取材を申し込んだ。

貴戸氏とは電話でお話でき、シューレからはお返事待ちの状態。

追ってご報告します。



「当事者」 「当事者」を含むブックマーク

    • 『ユリイカ』編集長・郡淳一郎氏の「それは社会学だから」という発言をめぐって、≪当事者意識≫が問題になっている

自分が当事者であることを考慮しない議論と、自分が当事者であることに居直る議論と、どちらも避ける必要があると思う*1



≪当事者批評≫ ≪当事者批評≫を含むブックマーク

個人的に、「当事者」という言葉への違和感が強くなっている。というか、『「ひきこもり」だった僕から』などという著書のある私は、まさしくこの問題の当事者*2なのだが。

「当事者」という言葉は、ある社会的尊重のために必要だと思うが、それが菊の御紋のように無条件的権威として機能することに奇妙さを感じる。それは実は、「相手にされない」ことの裏返しではないか。

    • 英訳して「person concerned」というときの社会的機能とは、差異があるのだろうか。▼「女性学」等の個別当事者学はあっても、「当事者であること」そのものを分析するいわば「メタ当事者学」はないのだろうか。それは、フィールドワーク論との関係にないのだろうか。

「当事者批評する」と同時に、「当事者批評する」必要があると思う。≪当事者主権≫というのは、「意思決定の権利」であると同時に、「批評的に批判される権利」でもあると思うのだが。 → そこで発揮されるべき「批評的な厳しさ」は、権威主義的な説教(パターナリズム)とは違ったものになると思うのだが、どうだろうか。*3

    • 事情を知らない「当事者にあらざる者」の発言はたいてい頓珍漢だが、属性レベルでの当事者性は、発言レベルの正しさを保証しないはず。
    • 「説教」とは、「拙劣な批評行為」ではないか。
    • 「当事者であるがゆえ」の、情報生産における質的差異はあるか。「当事者」とはどのように機能すべき権威性なのか。私たちは「当事者」という言葉で実は何を意味しているか。




*1:あくまで一般論として。▼「社会学」がどうであって、「文学」がどうであるか、といった議論は、今の私にはわかりません。

*2:「当事者問題の当事者」という意味です。

*3:実は『ユリイカ』6月号「われ発見せり」に書かせていただいた原稿では、この件に少しだけ触れた。

2005-05-03  当事者性の動態化

樋口明彦氏:「当事者=研究者=媒介者のトリレンマ樋口明彦氏:「当事者=研究者=媒介者のトリレンマ」を含むブックマーク

私の話にツッコんでくださってる。

重要なのでメモ。(強調は引用者)

「当事者であることは政治的なことだ」という見解を耳にするが、それは言わずもがなの当り前だと思う。本当に重要なのは、誰に対して、どのような影響力を与えるかを見極めることにあると、わたしは感じる。

 (中略)

したがって、わたしは「自由な研究者」というイメージが嫌いだ。というのも、えてして研究者の単なるナルシシズムの発露にすぎないからだ。

いま必要とされているのは、このような硬直化した既存の役割を踏襲することではない。むしろ、その社会的機能を問い直すことにある。つまり、研究者という当事者として考えることなのだ。

 (中略)

何らかの価値にコミットすることから撤退するのではなく、価値へのコミットを慎重に吟味して、選ぶ作業こそが重要だと思える。その際、もっとも重要な判断基準が、「利害をもつ他者」にほかならない。

 (中略)

わたしが想定している研究者は社会制度の「媒介者」である。媒介者の社会的機能を考えた場合、研究者の役割とは、自身が属する資格に基づくのではない。むしろ、その役割は、社会制度や他者との関係性のうちから派生するのだ。そこにこそ、研究者という当事者が立ち上がるのだと思う。

言い換えれば、あらゆる人は、何かの「当事者」なのだ。重要なのは、当事者というカテゴリー、資格、地位ではない。自らがよって立つ具体的な場所を問い直す社会的機能にほかならない。

最後の段落などは何度も反芻したい。

支援団体とか家族とかについても言える。

樋口さんも示唆されているが、「制度論的精神療法」というのは、組織・スタッフ・活動対象者などをすべて「当事者」として問題化する方法論だ、と言ったら単純すぎるだろうか。



経時変化 経時変化を含むブックマーク

創作童話 博士(はくし)が100にんいるむら*1より。

 100にんのはくしがうまれたら、8人がゆくえふめいしぼうしています。

 はくしをもちながら、あすへのきぼうをうしなったのです。

 (中略)

 にほんのじさつりつは10まんにんあたり24にんていどです。

 でもでも、はくしたちは100にんのうち8にんがふめいまたはしぼうです。

 10まんにんあたり8000にんです。

 とうきょうとだったら、人口1200万人ですから、960000にんです。

 (中略)

 じっさいにまいとし1000にんのはくしが

 しんだりゆくえふめいになっています。

私に、「大学院に入って研究者になったらいいのに」と言ってくださる方は何人かいらっしゃいます。

今の私は全くの無所属で、しかしそれでも関係性の中で≪当事者性≫を生きている。 それは「不登校・ひきこもりの当事者です」というのみではなく、関係性の中を生きている以上、私はそれに応じた流動的な当事者性を生きている。

私がこれから何らかの機関や組織に属することになったら、それは「ひきこもり当事者が仕事をしている」というのみではなく、そういう経歴を持つ人間がリアルタイムの新たな当事者性の中に巻き込まれていく、ということでしょう。



貴戸理恵氏「コメント」より 貴戸理恵氏「コメント」よりを含むブックマーク

上記樋口明彦氏の見解と関連。

「都合により自分が当事者であるかどうかを使い分けている」(P.1 L.25)とのご指摘について、私は情報提供者の方がたに研究の主題を説明する上で、自分が不登校の当事者であることを語りました。同時に、拙著の中には「自分は当事者とは言えない」とする内容と読者に受け取られうる記述があったことと思います。しかしそれは、当事者というものを「何らかの本質や実態を共有する集合としてではなく、あくまでも行為者相互の関係におけるひとつの位置」(拙著、P.23)と考えているためです。「確固とした当事者が存在する」というのではなく、その人が当事者であるかどうかは、どのような状況のもとで、誰と向き合うかによって、その都度はかられるものと捉えています。




2005-05-01 Take it easy.

HIKIKOMORI again HIKIKOMORI againを含むブックマーク

ものすごく意外な(と言っては失礼かもしれないけど)国の記者のかたから取材のご依頼があり*1、ネット上でその国のことをまじまじと・・・・。

以前と同じく「hikikomori」で検索してみたら32,600件

興味深かったのが以下。

日本人が英語で日本を紹介していらっしゃる。 コメント欄も興味深い。

英語でヒキコモリをちゃんと論じている人は、いないんですよね・・・。 翻訳もないし。

英語で引きこもりの話を濃密にやるのはものすごく難しい気がするのは、僕の英語力のせいでしょうか。 「日本語」の粘着力は関係ないかな。

というか、「英語で Hikikomori 論」て考えただけで、いつもながら精神的に楽になるのはなんで。



EUREKA again EUREKA againを含むブックマーク

雑誌『ユリイカ』6月号の巻末「われ発見せり」に、拙文が掲載されます。

1日早朝、原稿を送信しました・・・。

ほっ。




*1:いろいろ未定なので、実現したらまたご報告します。

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