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[語句説明]

2005-10-31  自分の目で

村山敏勝(id:toshim)『(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話』帯より*1村山敏勝(id:toshim)『(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話』帯より*1:を含むブックマーク

  他人を感じたいという性的欲望がなければ、

  そもそもなぜ書物など読むのか。

  めんどうな理論を学ぶのも、

  他者の思考を追体験したいという欲望のため以外、

  なにがあるのか。

読書の励みのために。



自民党とつくる会のジェンダーフリーバッシングに関するソース「自民党とつくる会のジェンダーフリーバッシングに関するソース」を含むブックマーク

chiki(id:seijotcp)さんが、ものすごい一次資料(PDF)を公開されています。

8割を男性が占める引きこもりにあっては、「男たるものは○○せねばならない」「男のくせにそんなこともできないのか!」といった無条件の「オトコ」信仰は、たぶん不愉快な押し付けでしかない(自分で選ぶのならご自由に)。やっかいなのは、ひきこもり当事者自身の内面が、こうしたバイアスに徹底して従順だということ。「男たるもの、女房子供を養ってこそ一人前なのに、俺ときたら…」という価値観的自傷行為*2



本田由紀氏インタビュー:≪働く意欲のない「ニート」は10年前から増えていない本田由紀氏インタビュー:≪働く意欲のない「ニート」は10年前から増えていない≫を含むブックマーク

ものすごく話題になっているようです

玄田有史さん、本田由紀さんの著書を読みこなした上で考えたいのですが、勉強がなかなか追いつかん…。



*1:本屋(大阪・梅田の旭屋書店本店)でメモしました。ごめんなさい…

*2:こうした言い方は、ひきこもり業界の中のマイノリティである「女性のひきこもり」を、さらに追い詰める危惧もある。ただ、やはり女性の事情については、できるだけ女性の当事者に語ってもらいたい。セクシュアリティの問題も含め、男性である僕にはよくわからない…。

2005-10-30  交渉権

《当事者》における、「権威性=自由」の限界設定・・・・の難しさ 《当事者》における、「権威性=自由」の限界設定・・・・の難しさを含むブックマーク

以下は、そこから連想して私が勝手に考えたこと。


「当事者」を、「不自由」との関係において考察すること。

当事者のためになることをする、とは、不自由にあえぐ人に、自由をもたらすことである。

医師がもたらす自由も、たしかにあり得るだろう。

《当事者》の権威性が嫌われたり恐れられたりするのは、そこに限界設定が見えないからではないか。 *1

各ジャンルの事情によっては、「自由」は当事者本人の命に関わることもあるだろう。おそらくこの場合、「生き延びなければならない」という医師の職務上の絶対命題のもと、「当事者の自由」は「なかったこと」になり、「いかにして生き延びさせるか」の“治療プログラム”だけが進行するのではないか*2。 【そこでは「当事者の発言」は、治療プログラムを阻害するノイズでしかない。当事者に対する権威性の付与は、治療プログラムと、それに従事する者の職業的専門性を破綻させる。おそらくはそこにカオスへの恐怖が生まれる。】

「自分は当事者だから何を言ってもいいのだ」、「自分の自由はどこまでも無際限に追求されるべきなのだ(たとえそこに死が掛かろうとも)」といった状態が予想されては、おそらく受容されることは難しい。*3

    • ただし、「死を求める自由」については、それ自体としては(理念としては)、その権利を確保すべきではないか。 そこでのみ可能になる、そして必要でもある議論がある。

むしろ、「そのジャンルの当事者」としてはどこまでどのような内容において「自由」が認められ得るのか、追求され得るのか、その限界設定が、協議の上で検討されるべきではないか。▼しかし現状では、当事者側の発言権は極端に弱い。そもそも「交渉相手」ではあり得ないほどに。

    • 当事者自身の実力不足も、もちろんその理由として挙げていい。ただしこれまでは、「当事者として発言する」という課題設定自体があり得なかった、だから能力養成自体がなかったのだ。「できない」のは、環境によって能力育成を阻まれてきたせいでもある。▼発言権の獲得には、やはり「闘い取る」という要素がある。ただし、そのような権限を主張する以上は、たいへんな責任が生じる*4。――当然ながらこの話を、私は自分のこととして語っている。

「治す」だけでなく、《交渉》という要素を入れられないだろうか、「当事者」という問題において。

そこには、《自由》に関する政治哲学は関係しないのだろうか。



誰かの自由は、ほかの誰かにとっての不自由。 誰かの自由は、ほかの誰かにとっての不自由。を含むブックマーク

しかし、「《自由》には、他者が要る」*5



『論点ひきこもり』:「二流チャット企画――政治哲学事始め『論点ひきこもり』:「二流チャット企画――政治哲学事始め」を含むブックマーク

社会学の専門家であるスタッフ、井出草平さんに、「ネオリベラリズム」「リバタリアニズム」などについて、僕がレクチャーを受けています。



「ケア」とは 「ケア」とはを含むブックマーク

保育園の屋上駐車場から、男性(当時75)の運転するワゴン車が手摺りを突き破って転落、下にいた3歳の園児が亡くなった。 【新聞記事

以下は、事件関係者に向けたお母様の言葉。*6

 “私たちにとっての心のケアは、あなた達の誠意ではないでしょうか。”

「カウンセラー」にはできない、ほかの誰にもできない「ケア」…




*1:しつこいようだが、これは私が《当事者》というポジションの果たす機能について一般的に考察しているのであって、岸さんのレポートにある個々の発言について論評しているのではない。私は、摂食障害をめぐる事情について、ほとんど何も知らない。

*2:この箇所をはじめ、このエントリーにおける私の見解表明のいくつかは、某所での斎藤環さんの発言を参照している。これについては、いつか『論点ひきこもり』のほうで発表予定。

*3「当事者」には、たとえば「免許」に相当するような、発言をめぐる制度的制限がない。岸政彦さんが指摘するように、当事者は「当事者であること」のみを根拠に語る。これは社会的な発言ポジションとしてはきわめて特異なのではないか。

*4:そのような責任を担いたくないために、全権委譲を選択する人もいるだろう。もちろん、それも選択肢の一つではある。

*5:この発想は、杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何か』に対する生田武志さんの書評から得た。バフチンのことなども思い出す。

*6:『愛する樹里へ・・・』(2002年 9/23)より

2005-10-29  なにもしない

ひとりごと ひとりごとを含むブックマーク

僕のような状態に陥った者が読書行為に一定の強度を回復できる――「何が書いてあるか」を理解しながら文字を目で追える――こんな状態がまたやってくるとは。ってナルシシズムだし、まだ大して動機付けがうまくいっているわけでもないんだが(だから読むのが苦しい)、呻吟して取り組んでいるうちに内的に情報が組織されてもっと動機付けが得られるんじゃないか、といやらしく期待しながら何も考えずとにかく脳みそに汗をかくぐらいは(古)取り組んでみようと思う。読んでいるうちに視界が開けてきて、そうするとやればやるほど自分がいかに勉強不足かが「見えて」くるのだが、そういう状態が回復しただけでも吉としたい。しょうがないよ、何もできない状態が続いたんだ、やらないよりマシだ。「ひどく遅れている、だが手遅れではない」とか説教くさく自分に言い聞かせて。いや手遅れかもしれないがやらないで焦って苦しんでるだけよりはやっててそこで指針こねくり回してたほうがまだいられる。何もできない自分に向き合ってるよりマシ。そのていどの動機付けを与えてくれるぐらいには、いま抱えている思い付きに意味があると思いたい。というか、そういう勘違いがなければ苦労して本なんか読まん…。「議論を追いかけてる」感じ。ビジネス書とか自己啓発本を利用してでもいいやんか、とにかくもう少しやってみる。


底を含むブックマーク

食事のときTV観てたら、「交通事故に遭って死んだ息子の部屋を18年間当時のままに放置している」ご家族が出ていた。事故当時息子さんが着ていた血のついたシャツを彼のベッドの上に無造作に放置したまま、部屋のすべてをそのまんま、18年。ご両親の苦しみを再現フィルムにしていたが、1987年当時のままに放置された部屋のリアルな存在感がすごくて*1、何もできずに18年が経ってしまったご家族の苦痛が…

「死にたい」と安易に口にしていた自分が…


ウブ ウブを含むブックマーク

ある情報を知ってショックを受ける。

カネと謝罪の絡んだ理不尽感がチンケな自意識を吹き飛ばしてくれる。

怒りに狂って事情を知りたいと思ってる間は「死にたい」なんて思わない。

怒りが激し過ぎて、無力感がひどすぎると死にたくなるが。

漠然と「この世のすべて」に怒るのではなく、「これがむかつく」という怒りの回路に着手すれば*2、「働かなければ」云々と自分を奮い立たせる必要もない。自意識が消し飛んだところで何かやり始めてる。

「やりがいの鉱脈」ではなく、「怒りの鉱脈」を探せ。(自分に向けて)




統制的理念としての 統制的理念としてのを含むブックマーク

    • 「社会からの自由」と、「社会への自由」

論点ひきこもり』サイトスタッフの井出草平さんと企画案を練っていて思いついた。

降りる自由と、参加する自由」のことだが、ウェーバーの言葉だという≪「価値からの自由」と、「価値への自由」≫から。

理想:「閉じこもっていても構わない、そして再度参加しようと思えばいつでもアクセス・チャンネルはある。」 ▼柄谷行人氏などが言っていた、カントで言う「統制的理念」――実現不可能だが、それを理念として掲げなければいつまでたっても現状を変えてゆけない――として、スローガン的に掲げる意義はあるかもしれない。

【追記】

あるかたから、『ised@glocom(情報社会の倫理と設計についての学際的研究)』のキーワードにある、積極的自由/消極的自由を教えていただきました。ありがとうございます。▼すでに「自由」に関する政治哲学の中に、「ひきこもり」に関連する考察が含まれていたんですね。今後の重大な参照項目です。▼この概念を提唱したアイザイア・バーリンについてのページから、引用:

「人間を他の自然物と区別するのは理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験する自由である」




*1:いつもながら思う。1987年のことは生々しく覚えている(19歳だ)。あれから18年たっているわけか、それであの当時のままに放置された部屋は、あのようにおぞましいことになるのか。そんなにも時間がたっているのか。記憶の中にある自分の10代を覗き込んだ気分。僕が内的に確認できる自己像は今でも10代なのに、その内に秘められた僕の存在はあのようにおぞましい。すえ腐った80年代。悪夢系映画の1シーンだ。――「もう終わりだ」そう言いそうになって、あわてて口を両手でふさぐ。言ったらたぶん終わる。気付かない振りをして何かに没頭し続ける振りを続けること。そういう意図的にだまされた状態を続けることでしか現状は打開できない。ていうか騙され続けないと破綻する。

*2:cf. 廣瀬純:《最小回路

*3:via『切込隊長BLOG

2005-10-28  存在と生命の総動員

若者の人間力を高めるための国民運動  若者トークセッション2005≪若者の人間力を高めるための国民運動  若者トークセッション2005≫を含むブックマーク

古谷徹って…

『ガンダム』のアムロの声優さんやんか…



「時間的にも空間的にも社会全体が労働のもとにおかれている」 「時間的にも空間的にも社会全体が労働のもとにおかれている」を含むブックマーク

『現代思想』2005年11月号、廣瀬純「現実主義的革命家とマルチチュード、そして闘争の最小回路」、p.134-5より引用(強調は引用者)。 少々長いが、「ポストフォーディズム的マルチチュード」という話の要約として。


ネグリが「新たなプロレタリアート」と呼ぶもの、すなわち、ポストフォーディズム的マルチチュードについて、簡潔におさらいしておこう。ポストフォーディズムは、工場や事務所などで雇用されている賃労働者だけでなく、社会全体を剰余価値生産に総動員させる体制のことである。社会では、人々が、ネットワーク形成の様々な技術を集団的に創造し、そうした技術にしたがって様々なネットワークを実際に創造し、また、そうしたネットワークを通じて新たな知識や新たな情動を集団的に創造している。ポストフォーディズム体制において、資本は、これらすべてを剰余価値生産に総動員する、すなわち、これらすべてを労働のもとにおくのである。しかし、ここで重要なことは、ネットワーク形成技術の集団的創造、ネットワークそのもの、そして、ネットワークを通じて集団的に創造される知識や情動といったものは、その本性において政治的なもの、すなわち「生-政治的なもの」だということである。したがって、ポストフォーディズム体制下で資本がこれらすべてを労働に専念させるとき、資本はまた、それと同時に、これらすべてのものを脱政治化してもいるのである。要するに、社会全体は、資本によって労働のもとにおかれると同時に、政治から切り離されるということである。やや粗雑なイメージをここで喚起しておくならば、フォーディズム時代において資本によって労働のもとにおかれていたのは、午前九時から午後五時までのあいだ工場に閉じ込められている範囲での賃金労働者たちの生であり、また、そうした賃金労働者を資本のために再生産する役割を担わされていた人々(賃金労働者の家族など)の生であったが、例えば、こうしたフォーディズム体制下の賃金労働者たちは、午後五時になって工場の外に出ることをひとたび許されれば、翌日の労働力の再生産のための時間(労働のための休息や睡眠)を資本からかすめ取りつつ、政治的な様々な活動に残りの時間を使うことができた(「プロレタリアートの夜」)。すなわち、フォーディズム体制下では、少なくとも、午後時から翌日午前九時までの賃金労働者たちの生を、先に挙げたような社会的諸要素の政治家に当てることができたわけである。ところが、賃金労働が時間的フレキシビリティと空間的モビリティとによって規定されるポストフォーディズム体制下にあっては、かつての賃金労働者たちがもっていたこの僅かなチャンスも奪われることになる。社会全体が資本によって労働のもとにまるごとおかれ、それによって、社会全体が政治から切り離されるというのは、例えば、そういうようなことである。このことによって導かれる帰結はどのようなものか。それは、政治が一部のエリートのみによって独占されるということである。資本によって、社会全体において集団的に創造されるすべてのものが商品化され、また、社会全体がひとつの巨大な商品取引ネットワークに還元される一方で、一部の政治エリートが、こうして脱政治化させられた社会に代わって、政治をまるごと独占するのである。ネグリの言うような、資本主義者たちとテクノクラートたちとの「同盟」というものがあるとすれば、それはまさにこうして結ばれるのだ。すなわち、社会をまるごと労働に専念させる資本主義者たちと、これに応じて政治のすべてを独占するテクノクラートとのあいだの「同盟」である。

「社会のすべてが商品に還元される」、「エリートが政治を独占する」という事情については、単に批判的な姿勢を保てばいいとは思わないし*1、今は詳しく論じる力がない。僕としては「時間的にも空間的にも社会全体が労働のもとにおかれている」という事情を、「だから私は孤立しているようでも、生きているだけで社会に巻き込まれているのだ、すでにして他者との関係の中にあるのだ」と肯定的にも読み取りたい。あなたは生きているだけですでに巻き込まれている。――しかし、巻き込まれる回路が一つしかないからこそ、ひとたび排除されたら二度と復帰できないわけだが。

    • 「社会」という言い方と「資本」という言い方が限りなく近づいているわけか?


ネグリは、マルチチュードの革命的主観性を「現実主義的に」規定しようとするときに、必ずこれを「〈帝国〉に抗する」という《闘争の最大回路》のなかで把握しようとするために、マルチチュードを構成する私たちひとりひとりが労働に縛り付けられている自らの知力あるいは生をひとつひとつの具体的シチュエイションのなかで政治的に有効なものへと反転させようと欲望する際の《闘争の最小回路》を、とことんまで弛緩させてしまうのである。闘争というものは、その《最大回路》に基づいてグローバルに組織され得るようなものではなく、また同じことであるが、「グローカルに」組織される(「グローバルに思考してローカルに行動する」)ものでももちろんなく、むしろ、つねにその《最小回路》に基づいてシチュエイショナルに組織されるものなのだ。*2

ネグリの《最大回路》がロマンティシズムに見えるのはいいとして、しかし《最小回路》と言ってみても、よくわからない(それは各人が自分の現場で自分で探せ、ということか)。

「われわれは、プライベートな時間まで含めて資本にすっかり包摂されていて、メタな批判的視点を許されず、ただベタに隷属するしかない、そのことにすら気付けないまま」という批判的視点はたしかに重要だとして、しかしその視点自身は「どうすればいいか」という指針を与えてくれるものではない。そもそも、僕らは資本に巻き込まれ、その中でうまく立ち回ることなしには、生きていることすらできない。

ひとまず、一個一個の「トラブル」を《最小回路》と見なすしかないのではないか。 トラブルが遡及的に教えてくれる諸々の事情がある。



*1:それだけじゃ単に左翼的に「自分の正しさのアリバイ作り」をしているだけで退屈だ

*2:同、廣瀬純、p.138

2005-10-27  時間

着想 着想を含むブックマーク

個人的にかなりしんどい体験と、あるかたとの対話を通じて一つの着想を得、それに関連して勉強を続けている。それが実を結ぶかどうかまだわからない(ので、詳細は明かさずにもう少し進めてみる)。

これからこのブログには、自分の文章を出すというより、勉強に関連した抜き書きやメモが増えると思う。(何を考えようとしているか憶測しながら、付き合っていただけると本当にうれしい。)

これまで僕が耐えにくいと思っていた、何かと何かの「あいだの時間*1」とか、「投げ捨てられた一人の時間」とか、一人で苦しまねばならない心身症とか、ひきこもりという現象から何が析出できるのかとか、それも「組織された犠牲の恒常的な実行」*2により成り立っているとか、――とにかく取り組むきっかけになればと思う。



労働への参入と拒否――家事労働 労働への参入と拒否――家事労働を含むブックマーク

どのような場所にあっても女がいて、女が移動をしながら再生産をしている。 (中略)

移民をめぐって活力ある議論を展開したのは、イタリアのマルクス主義者のひとり、マリアローザ・ダラ・コスタである。翻訳されている数少ない著書のなかでもとくに『家事労働に賃金を』と題された論集は、移民と再生産を立体的に考察する画期的な論考が収められている。マリアローザ・ダラ・コスタは、女たちの賃労働への参入が、労働の拒否の一形態であることを指摘した。女が賃労働に参入するのは、ある職業に対する積極的な関心や、企業の世界に参入しようとする積極的な動機付けがあるからではない。女たちは、見返りが少なく際限のない家庭内無償労働から脱出し、自分が自由に使う現金と休日を手に入れるために、賃労働に加わるのである。女が賃労働に甘んじるのは、それが家事労働よりもわりがよいかぎりにおいてであって、賃労働か家事労働かという苦々しい選択を迫られながら、どうせ働きづめの人生ならばどちらがよりましであろうかということを女は考えている。「女性の社会進出」の源泉には、女たちの労働の拒否がある。資本と国家がつくりあげる勤労道徳が労働の中心性を訴え、男性労働者がその求心力を信じ込もうとしているのに対して、女たちはそれとはまったく逆のベクトルで、労働からの脱出という遠心的な力につき動かされているのである。 (中略)

こうした女たちにとって、自分の時間をつくることと、自由な恋愛をすることと、子供に充分な教育を与えることは、分割することができない。すべての要求は不可分で、それぞれがそれぞれの条件になっている。女がラディカルであるのは、自由な生を全的に要求し、要求を分割したり部分的に譲歩したりできないようなしかたで欲望を構成するからである。もちろんここでいう「女」というのは、比喩だ。私が言いたいのは、労働と恋愛と教育を一体としてとらえ、それらの分割に対してはっきりと対決しようとする人々がいるということだ。ネグリが「労働者の女性化」と言うとき、それを私たちはこう読むべきだ。*3


ひきこもっている人間が「働きなさい」と言われるとき、それはふつう「家の外の賃労働に従事せよ」という意味だが、なぜみんな「家事労働」を忘れているのか。ひきこもっている人間が労働を探すとき、家事労働はその選択肢に入り得ないだろうか。自分の家だけでなく、他の家の家事労働との契約関係は無理だろうか。家事労働が賃労働になり、そこが就労の現場になり得ないか。



奥山貴宏『33歳ガン漂流ラスト・イグジット奥山貴宏『33歳ガン漂流ラスト・イグジット』を含むブックマーク

4月、『ヴァニシングポイント』という自伝的小説を出版した数日後に亡くなったという。

文章にすべてを賭けるという本人の熱さと、母親の記す「最後の日」の素っ気なさと。

死を視界に入れながら取り組み考えること。



「特異な目撃者」 「特異な目撃者」を含むブックマーク

小林秀雄がどこかで、「芸術家とは、みんなが忘れていることに気がつく人間だ」みたいなことを言ってた。

理論家は、特異な目撃者とは言えまいか。

その報告がひょっとしたら人を楽にするかもしれない。



箴言:スーザン・ソンタグ 箴言:スーザン・ソンタグを含むブックマーク

本屋でメモ。出展はわすれた。*4

Comfort isolates.

安寧は人を孤立化させる

「日常的安寧は」だろうか。

震災時の非日常空間のあの信じられないほど《自由》な感じは、たしかに危機意識と結びついていたか。「ひきこもりと言っても甘えているだけで、要するに命のかかった緊急事態になれば家を出て働くんだろ」と言われたことがあったが。微妙にちがう。重要なのは《非日常》であるように思う。死者が続出し、ライフラインの破綻した非日常が恒常化すればいいだろうか。世界にいくつもある戦闘地域に向けて排除しろと。――ほかの方途はないか。


Solitude limits solidarity ; solidarity corrupts solitude.

孤独は連帯を制限する   連帯は孤独を堕落させる

孤高の孤立、なんてほぼ嘘だと思う。

本当に孤立した人間は、空疎なプライドを保つ以外ほとんど何もできない。*5

ただ、孤立した状態への解釈を変えることで、賦活と苦痛軽減があり得るかもしれない。

いま考えているのはそういうことだ。

自分を支えるだけで、一種の公共的貢献であり得るのではないか、など。



「労働」 「労働」を含むブックマーク

あるかたが、僕のこのブログこそが「労働」なのだ、と言ってくれた。

金銭的対価は発生しないが「労働」なのだ、と。

いっぽう、収入にはなるが「労働」ではなく「犠牲」でしかないような労役もある、と。

半分納得してうれしく、半分疑問が残る(社会の多くは「犠牲」で成り立っている)。

多くの人は、「労働」によってではなく「犠牲」によってプライドを保っているのではないか。

だから引きこもりが許せないのではないか。




*1:移動の列車の中とか、目的地までの歩きの時間とか

*2:高橋哲哉氏(『国家と犠牲 (NHKブックス)』)が引用していたデリダ。数億人の子供たちの犠牲の上に成り立っている私たちの日常生活。

*3:『現代思想』2005年11月号、矢部史郎「移動と再生産と戦争機械」、p.190

*4:来日時の、田中康夫氏や浅田彰氏の同席した会議だったと思う。

*5:「何もできなくてもかまわないのではないか」という問題設定がもちろんここには木霊(こだま)している。

2005-10-26

「脱自分化」 「脱自分化」を含むブックマーク

「大人になる」ということは、偶然性の世界を受け入れ、自分が特別でないことを受け入れていくことである。これは、つらいことである。 (中略) 彼らは単に無気力なのではなく、「特別でありたいが、どのように特別であるのか、どのように頑張ればよいかわからない」のである。彼らは、脱社会してでも脱自分化したくないのだ。

引きこもりホリック(中毒)*1

だから引きこもりをやめろといわれても、新たな居場所がない、ということは、私の消失を意味するために、命をかけて死守する

「脱自分化できない」「引きこもり中毒」*2というのは、重要な視点だと思う。

他者の渦の中に巻き込まれると、あっという間に《自分》がなくなる…。

社会的な《文脈》の中に、自分を位置づけることができない。(内的要因ばかりではない。不安定就労の問題。)

「文脈」と「自己」とのマネジメント的な交渉関係が結べなければ、持続的な人間関係を結ぶのも無理だろう。関係性に時間軸が入ってこれない。これが就労をもきわめて困難にする。



*1:ひきこもり状態の「嗜癖性」については、すでに斎藤環氏が指摘している。

*2:中毒性(依存症)というと、その没頭において「自分を自分でなくする」ところにキモがある気がするのだが…(アルコール依存等)。▼「自己消失型」の依存と、「自己死守型」の依存があるということだろうか。

2005-10-25  規範と保障

思考実験:≪「義憤vs権利」とマクロ政策的視点≫ 思考実験:≪「義憤vs権利」とマクロ政策的視点≫を含むブックマーク

「ベヴァリッジ報告」を中心に、友人からレクチャーを受ける。めちゃくちゃ勉強になる。

やはり社会保障について政治的に説得するには、「弱者を救済せよ!」ではなく、「社会保障があったほうがマクロ政策的にいい」というスタイルが必要なのだと思う。


★内田樹「勝者の非情・弱者の瀰漫」より:

 「弱者を守れ」という政治的言説はいままったくインパクトを失っている。その声を「既得権益」を手放そうとしない「抵抗勢力」の悲鳴として解釈せよと教えたのが小泉構造改革のもたらした知られざる心理的実績である。

「弱者は醜い」という小泉首相の「勝者の美意識」はこの大衆的な倦厭感を先取りして劇的な成功を収めた。

 こうるさく権利請求する「負け組」どもを、非難の声も異議申し立てのクレームも告げられないほど徹底した「ボロ負け組」に叩き込むことに国民の大多数が同意したのである。


官僚の不正や無駄使いを「許せない」という層と、ニート・ひきこもりを「許せない」という層は同じだと思う。*1

どちらも、「義憤」の対象になっている。

しかし、社会的権力をもって税金を無駄遣いする人たちと、親の個人的資金で家に蟄居*2するだけの人を、どうして同列に論じられるのか。無能力によって家に閉じこもることは、「国家反逆罪」なのか。個人的資金で家に閉じこもるのは、個人の権利としては容認できないということか。

要は、「無能力によって」閉じこもる、という部分だろう。「労働の能力はあるが自覚的選択によって蟄居する」というのであれば、公的援助の対象であり得ないのはもちろん、勤労の義務に逆らってまで「働かない」という選択をしていることへの政治的自己弁明が必要になる*3

ましてや内田氏が指摘するように、いまの政治の流れは「無能力による蟄居」すら見捨てる方向だ。「能力はあるが自覚的選択によって蟄居する」のが、自己責任論にならないはずがあろうか。「われから望んで閉じこもったのだから、その帰結がいかに悲惨であろうが甘受せよ」。

「無能力ゆえに閉じこもらざるを得ない」という説得の段階から進んで、「蟄居は国民の権利」とまで言い得るだろうか。前者であっても非難されるのだから、後者を主張する困難は筆舌に余る。

ここで話が最初に戻る。「蟄居の権利を保障することが、マクロ政策的に有益である」という説得が、はたして可能かどうか。いやそれとも、マクロ的視点を度外視してでも、「国民の蟄居権」を認めるべきなのか。

本物の無能力から「純粋ひきこもり*4」状態にある人のことを考えれば、以上の考察は贅沢に見える。しかし、「蟄居してもいいんだよ」「それはあなたの権利だよ」ということが認められる状況であれば、逆に家を出て来やすいのではないか、労働の現場にも復帰しやすいのではないか――そういうことは考える。これは、「生活の最低限保障があれば、安心した人々はむしろ積極的に働くのではないか」という、僕のベーシック・インカムへの夢想的興味と重なっている。「一度の脱落もなく、延々と出ずっぱりで居なければならない社会」は、むしろ人を閉じこもらせるのではないか。「閉じこもっても構わない社会」は、むしろ安心して人を外に繰り出させるのではないか。【考えてみれば、蟄居は現在でも違法ではないのだから、その権利を認めることは、法の課題ではなく、むしろ市民的な規範のレベルにある…。】

まだまったくの思考実験だが、末端における国民の権利を認めることが、長期的にはマクロ政策的にも有効なのではないか、という視点は――まだまったく幼稚だけど――、問題意識や説得の姿勢として、持っておきたいと思う。【ただしこの場合、繰り返し注意せねばならないのは、「蟄居権を保障すべきだ」という話と、「本当に無能力(障害)ゆえに家を出られない人には保障が必要だ」という話とは、並行はしつつ別個に論じなければならない、という点だ。もう一度言う。「閉じこもる権利の保障」と、「最低限生活の保障」は、別個に考えなければならない。】


現状では、生活保護は条件付の給付であり、自覚的選択によって蟄居したのであれば給付の対象になり得ようはずもない。規範として「蟄居容認」を追求する運動に参加すれば、「ああ、あなたはみずから望んで閉じこもったのね」となって、生活保障を得る可能性を減ずる。いっぽう、自分が閉じこもっているのは「無能力」ゆえであることを強調すれば、「本来は外出して労働すべきである」という規範を補強することになる*5。蟄居容認の規範を追求しつつ、無能力者への生活保障を追求するという姿勢は、これほどまでにアクロバティックになってしまう。

ベーシック・インカムであれば、一定額の給付は「国民全員に対して無条件に」だから、「蟄居容認」の規範追求は何らの不都合をも生まない。給付があった上で、「閉じこもってもいいではないか」という規範を追求できるわけだ。【現実的に言って、無条件給付を前提にする以外、「蟄居容認の規範」を追求するのは不可能ではないか。自覚的に蟄居を求めるのであれば、それへの保障など求めようがないわけだが(自己責任論によって)、「本物の無能力」と、「自覚的選択による蟄居」は、合理的に判別する方法が存在しない。】


私は最近、ひどく心身の調子を崩したが、かくのごとく社会生活を送れている私が生活保護等の給付対象になり得ようはずもない。しかしある人が私に、あくまで厚意で、「上山さん、あなたは精神障害者かもしれないよ」と言ってくれたとき、本当に救われた。「できなくていいんだ」と思えた。▼人を精神障害者として扱うとき、それは「治すべき対象である」という強圧的な視点と同時に、「できなくていいんだ」という解除をももたらす。僕の思考は、つねに何かを為そうと緊張しつつ、そのような解除の周囲を回っている。能力向上と同時に、「できなくていい」という解除を望んでいる。そしてそのような解除があるときにのみ、何かが為せるように感じている。

このような論点はしかし、「競争に勝って、国を富ませなければならない」という国家レベルの課題からすれば*6、やはり黙殺されるべきなのだろうか。そういう視点も、僕はどうしても忘れられない。――だからこそ、個人レベルでの権利追求を、マクロ政策的なレベルとの関連で考えたくなる…。



本上まもるブログ:「『社会的ひきこもり』斎藤環 PHP新書*7 本上まもるブログ:「『社会的ひきこもり』斎藤環 PHP新書」*7を含むブックマーク

つくづく「ひきこもり」は、論者の試金石となるテーマだと思う。

肯定するにしろ否定するにしろ、その人の思想のエッセンスをたくさん露わにしてくれる。



茂木健一郎 クオリア日記: 「日本のクリエィティヴにダメ出し。*8 茂木健一郎 クオリア日記: 「日本のクリエィティヴにダメ出し。」*8を含むブックマーク

日本の「クリエーター」たちは、自分たち

の世界を他者に対して語る言葉を持たない

である。

 そこにあるのは、仲間うちの

なれ合いだけで、外からの水が入り込んで

きてきゅんと緊張する場面がない。

 つまり、日本のクリエィティヴシーンに

おいては、「おれたちクリエーター仲間

だから」というクラブに属することが

何よりも重要なのであり

 会場を埋めた若いクリエーターたち

も、

 「いつかはあっち側に行きたい!」

と憧れるという構図がそこにあって、

 異質な他者と向き合ってコミュニケーション

するなんて話は、最初からないのだ。

 コミュニケーションのスタイルが

仲間内のそれになっていることが、

決定的にダメなところで、

 作品は知らないが、言葉には、

それだけでキックが効いているものは

ほとんど皆無だった。

 つまり、商品にならねえんだよ。

 そりゃそうだ。他者に向き合わなければ、

キックの効いた言葉なんて出るわけないじゃん

 怒るのは愛の表現です。

 すばらしい新しいものを、本気で他者に向き合って

つくろうじゃねえか。

 居心地の良いぬるま湯につかっているやつらの

ことは、オレは知らない。

ひきこもり業界について、自戒を込めて。



自死 自死を含むブックマーク

事情は何も知らないが、あまりに…



寺山修司&谷川俊太郎 ビデオレター 1982〜1983「寺山修司&谷川俊太郎 ビデオレター 1982〜1983」を含むブックマーク

寺山修司から谷川俊太郎へ

しかし

“意味”と“無意味”とが

きっぱり区別できない時代に生きているからこそ

ぼくたちは言葉にこだわって生きているのではないだろうか

ぼくにはどうも生きるってことは“意味”でも“無意味”でもなく“意味ありげ”なことなんだ、っていう気がするんです。

“意味ありげ”なこと

体はこの“意味ありげ”なことに遅れていく




*1:たとえばニート・バッシングを行なった『そこまで言って委員会』は、同時に繰り返し「官僚の不正・無駄遣い」を告発する。

*2:ちっきょ。家の中に閉じこもって外出しないこと。

*3:ひきこもりを非難する人は、つねに「拘禁して労役を課せ」「自衛隊に入れろ」といった話をする。日本の憲法と刑法では、国家が国民の自由を奪っていいのは国民が犯罪を犯したときのみであるはずだから、拘禁論者たちは、要するに「ひきこもり」を犯罪行為と見なしていることになる。

*4:工藤定次氏の言葉。ひきこもり状態の極限。

*5:不登校・ひきこもりについて、長田百合子氏と奥地圭子氏はともに「病気ではない」と主張し、それがともに「働けるはずだ」という規範に結びついている。

*6:競争に負けて国自体が没落すれば、社会保障もへったくれもない。

*7:コメント欄に「斎藤環」と名乗る書き込みがある。申告されている「tamaki@sofu.or.jp」というメアドはこちらなどに見られるが、現時点では本人確認不能。

*8:強調引用者

2005-10-24  政治と経済

「ベーシック・インカム」について 「ベーシック・インカム」についてを含むブックマーク

昨日紹介した雑誌『大航海』No.56掲載の対談「インターネット・カーニヴァル」(斎藤環×鈴木謙介)には、次のような斎藤さんの指摘が出てくる。

鈴木 それでもこの格差を容認できないとして、「働け」と言うほうがいいのか、それとも「そこまでわかっているんだったら、何もしなくていい」「死にたきゃ死ね」と合意して彼らを見捨てていくのか、どちらかの選択を迫られていくことになる。

斎藤 それだけしかないのかなあ。たとえばひきこもり研究者の上山和樹さんなんかはベーシックインカムみたいな制度を保障して、働かない人でも最低限の収入を与えましょうという提案をしている。問題は多いですが。 (p.153)

当ブログでは確かにベーシック・インカムを扱ったが*1、僕自身は、この制度に強い関心を持ちつつ、まだ「提案をしている」というような疑いのない態度は取り得ずにいる。あまりに勉強不足でリアリティが測れずにいるのだが、ひとまず次のような疑問が消えずにいる。*2

  • ベーシック・インカムは、単なる「全員に分配を!」ではなく、「全員に一定額は保障する、しかし爾余の全ての社会保障を撤廃し、弱者支援を打ち切る」という仕組みではないか。
    • たとえば国民1人につき月額数万円が保障されるとして、健康保険等ほかの保障がいっさいなくなってしまうのだから、それだけでは歯医者にすら行けない(支払いはあっという間に10万円を超えるだろう)。健康体ですらそれなのだから、長期にわたって高額の医療が必要な大病をした場合はどうすればいいのか。あるいは、24時間の全面的な生活介護が必要で、現状では毎月数十万円かけなければ生きていくことすらできない身体障害者は、どうすればいいのか。*3

ベーシック・インカムの基本書すらよく読みこなせないままの暫定的メモです。

政治やら経済やらが絡んでひどく難しいのですが、以上の点に注意しながら、もう少し勉強してみます…



*1:上の検索ボックスで検索してみてください

*2:この考えは、ほぼある友人から教導してもらったものだ。

*3:「ベーシック・インカムの導入によって最低限生活が保障されることにより、人々の心理状態が激変し、相互扶助の風潮が…」といった可能性は、いちおう考察余地として残したいが。これは、地域通貨についても言える。

2005-10-23  「生まれてきてしまった」

僕は、どんな言葉を手元に手繰り寄せなければならないか。

「何を勉強しなければならないか」を考えながら、よくわからなくなってくる。

気になった言葉を抜き書きながら、その中で自分の言葉を手探りしてみる。

存在の価値と経済的価値は等価ではない。ぼくたちが今後、徐々にくつがえしてゆきたいのは、まずそんな社会的な通念や圧力、当事者自身の魂をこそ根ぶかく強いる自傷的な思い込み(もう駄目だ、という生自体への諦念や侮蔑)だ。(杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何か』p.15)

「自分はもう駄目だ」と思いながら、「生まれてこなければよかった」と強く思う。

「ここは自分の生きる場所ではない」という違和感。*1

中島義道が「いつかは死ぬんだ、それは不条理だ」みたいなことを言っていたが、それは真逆だ。「なんでこんな場所に生まれているのか、あまりに不条理だ」。世界はなんでこんなに残虐にできている必要があるのか。人間はなんでこんなに無残な肉なのか。人間を設計した奴は嗜虐趣味だ。なんでこんな場所にこんな肉体で生きているのか。

「そりゃ君失礼だぞ、おい。 この現実はな、私の現実でもあるんだよ! 君がないがしろにする権利なんか、ないんだよ、ばか者!*2


でも、そんなケイジジョウの問いに取り憑かれることは、じつは俗世的には弱い立場に回ることを意味する。いや脆弱で弱い立場だからそんなこと考えるのか。どっちでもいいがとにかく考えれば考えるほど弱いところに追いやられてゆく。余計なこと考えるのは戦略上よろしくない。地上の制度と他者に苦しむなら、そこに意識を集中すること。「こんな場所でこんな肉体で生きている自分」という自意識は、哲学的自虐ではなく、俗世的な戦略意識であること。俗世の何かへの怒りであること。造物主への怒りは、自分を傷つけ、現世での立場を悪くする。

ひきこもっているから、働いていないって? 一生働かないで居られるなら、それでいい。どこかで金が尽きることが明らかなのに閉じこもることしかできないで5年10年と年をとる悲惨さにまみれているなら、自分の状況をメタに考えて「どうにもならない」とため息をつかずにいられるか? 君はどこかで、死ぬか、過酷な労働に巻き込まれるかしかない。


俗世の資力と労働条件で追い詰められた。→ そこからある程度自由になれたとき、どんな自意識が待っているか。労働条件に苦しんだ間は、「働く生活者」という自分のほかに、「このような労働状況で働く自分」という苦しい自意識に意味があった。「自分はどのような労働条件で働いているのか」という状況そのものへのメタな問題意識に、何かを賭けることができた。しかし、自分の服すべき労働条件が我慢可能であったり、あるいはそういう状況を変えることに絶望すれば(絶望そのものを忘れてしまえば)、僕はただ状況に従い、一生活者としてベタに生きるのみになる。状況への問題意識は霧消し、「このような状況で生きる自分」という自意識は、状況への怒りではなく、自分への不甲斐なさと、絶望していることにすら気付かない諦念となる。

――いや、生きていられればいいじゃないか。それ以上なにを望む。


「この世の希望」って、何かあるのか? こんな場所に生まれているのに?

形而上的に問うべき諦念と、形而下的に問うべき怒りと。その辺でたぶん分節が必要だ。

ひとまずいくつか引用してみる。




対談:斎藤環×鈴木謙介 「インターネット・カーニヴァル」 雑誌『大航海』No.56 対談:斎藤環×鈴木謙介 「インターネット・カーニヴァル」 雑誌『大航海』No.56を含むブックマーク

鈴木 身体性みたいなものも含めて、あるいは世界に空いてしまう穴のようなものも含めてすべて折り込み済み。穴は空くだろう。「で?」となる。(笑) 「で?」っていうところで開き直るとニーチェの超人になるわけですが、そこで開き直らない。なかなか厄介。

斎藤 厄介ですね。 (中略) でも本当にどうすればいいんだろう。ぼくにしては切実な話ですよ。だって「二十代」のひきこもりは、かなりの部分がそれですよ。(笑) そりゃあぼくらもとりあえず言いますよ。「デイケアで仲間と知り合おう」とか「バイトでも何でもいいから体験してみよう」とか。でも言っているこっちが信じていなければやっぱりそれは伝わるわけですよ。「あ、こいつ真面目に言ってないな」って。

鈴木 テンプレで言っているなって。(笑)

斎藤 そうそう。(笑) そういう無気力感が現場にも漂ってしまう。これはニートもそうで、ニートの現場はもっと遅れている印象がある。それこそ東大が「希望学講座」とかやるらしいけれども、ちょっと「うわあ」という感じで。

鈴木 ぼくは概論を見ただけでひっくり返りました。希望も願望も全部いっしょくたにしてますしね。(笑)

斎藤 何かやって見せるパフォーマンスかと思ってしまいましたけどね。信じている振りをするパフォーマンスみたいな。(笑) いや、関わっている方々の善意は露ほども疑ってないんですが。

斎藤 ひきこもりの現場で起こっているのは動機の押しつけによる失敗ですからね、ほとんどの場合。

斎藤 だけど、たぶん続かないだろうというのがある。働けばそれなりに充実するし、それなりに喜びもあるだろう。そういうの全部見越しちゃってる感じがする。働いたことで何か新たなものが付け加わるとか、新たな学習をするとか、そういう感じがまったくない。能力としては全然働けるんだけれども、継続的に働いて何かにコミットしていることに意義を感じる人なのだろうかと、疑問を感じざるを得ない。

鈴木 バイト人生というか、ちょっとバイトしてお金ためてひきこもってを二十代の間に繰り返して、「もう就職ねえぞ、どうすんべ」となったときにはとき遅しというパターン。これはひきこもりよりむしろフリーター、ニート問題に近い。

斎藤 これははっきり明文化しないと、当事者たちは思いつかないんですよ。余裕がないんで。(中略) 何とか働かないでも生き延びる方法を提案し続けるのは重要だと思っています。 だけど、社会的に人々が受け入れるのは玄田さん的な「そうは言っても働こうよ」という行き方で、そのほうが大人も、当事者も動員できる。それはやむを得ないことです。

鈴木 いや、色々分かった上で「あえて」そういう道を選ぶという話ですよね。「もちろんそんなことはわかっているが、そんな脱社会的存在は見捨てつつ、戸塚ヨットスクールでフォローできるところまでを救済の対象とするしかない」という。

斎藤 そこですよね。もちろん象徴としての戸塚ヨットでしょうが、若者自立塾もそういう部分があるのは否定できない

鈴木 思考の言葉と現実の間にできている距離のせいで、現実にすり寄ろうとするとそういう言葉しかない。

斎藤 韓国の事例を見てもね、徴兵制があれだけ徹底されていても、ひきこもり、ニートはどんどん増えているわけだから、もはや身体性では集団的なシニシズムは救えないのは分かりきっている


「シニシズム」と「労働条件」の間で苦しんでるわけか、僕らは。



*1:「だったらさっさと死ね、このフリーライダー」という陰の声。

*2:映画『アカルイミライ』より

2005-10-22  不確実なもの

ueyamakzk2005-10-22

小冊子『「待つ」をやめるとき小冊子『「待つ」をやめるとき』を含むブックマーク

ひきこもっている人には、なるだけ安心して、いつまででも閉じこもっていてほしい。

しかし、そのような「永遠の待ち」の姿勢は、状況を硬直させ、10年の時をあっという間に過ぎさせる。失われた不本意な時間は、無力感をいや増し、心と経済の事情を悪化させる。

ではかといって、強引に引き出せばいいのか?――否。無理をしたって、ぜったいに長続きはしない。

「待つ」のでもない、かといって「強引に引き出す」のでもない、そんな支援努力のあり方とは…?


僕は、1冊購入して読破、すぐに地方の親の会に紹介し、さらに自費で20冊購入した。これから、講演会などでお招きいただくたびに何冊か持参し、実費で販売するつもりだ。

「待つ」のか、それともそれを「やめる」のか、いやでもそれでは……。ひきこもりをめぐる最も核心的かつ悩ましい論点について、支援現場のベテラン3人がすべてをさらけ出して語っている。試行錯誤の中での、指針の変更、そこに起こったトラブル…。

ひきこもりについて、とくにその直接的な対人支援や家族の対応について考えるのであれば――そしてまた、当事者として、「支援者が何を考えるのか」を知りたいのであれば――、必読の小冊子だと思う。



サイト『論点ひきこもり』:★二流チャット企画:「出会い」 サイト『論点ひきこもり』:★二流チャット企画:「出会い」を含むブックマーク

スタッフの井出さんとぼんやりチャット。

なんかいろいろ恥ずかしいこと語ってます。


2005-10-21  痛みとしてのメタ

「メタ-当事者-学」? 「メタ-当事者-学」?を含むブックマーク

ある社会運動に関わっている方とお話しする機会があったのですが、ひきこもりに関する活動で僕が直面する諸問題と、驚くほど同じ問題に直面しておられました。学問的ラディカリズムと現場のプラグマティズムとの齟齬(各々における戦略的無自覚さ)、当事者がみずからの「当事者性」に居直ること(当事者として批評されることがあり得るという事実への拒絶)、など。

(1)学問(2)現場(3)当事者、の3者が、それぞれにおいてベタにみずからの属性ミッションを生きることしかせず、痛みを伴う「メタ視点の導入」というチャレンジをしない。そこには、魯鈍な自己肯定(アリバイ主張)しかない。「私は○○なんだから、ちゃんとやってるじゃないか」。


私は以前、「メタ当事者学」という言い方をした。このときには、「当事者学」とは何であるかを考える、というだけの意味だったが、お話を通じ、さらにいくつかの示唆を頂いた。暫定的に整理してみる。

  • メタ的な当事者学
    • 当事者であるとはどういうことか、またそこから発生する「当事者学」とは何か。
  • メタ当事者の学
    • 属性的には明白な紛争当事者であるわけではないが、問題の性質を考察することを通じて(つまりメタ的に)、紛争の当事者になる(私の言い方で言うと「課題当事者」にあたる)。そういう現象について考察する。
  • メタ的であることの当事者学
    • どんなジャンルの活動であれ、その活動そのものをメタ的に考察することを試みる人が、ごくわずかにピンポイントで存在する。そのような人々同士は、具体的に取り組んでいる問題はまったく違うのに、なぜか多くの問題意識を――異様なほど――共有する。これは何か。



痛みとしての「メタの維持」 痛みとしての「メタの維持」を含むブックマーク

「メタ」とは、「高みに立って見下ろす」、「雲の上から小便*1」というような、安全圏の視点設定ではない。トラブルの渦中にあって、みずからを含むすべてを括弧に入れ、その「問題化視点」という痛みの実存そのものを我慢強く維持しようと努める、その危うい宙吊りプロセスそのもののことだ。メタとは痛みの実存だ。さもなければ、「分析の consistency」(三脇康生)は維持できない。



内側から 内側からを含むブックマーク

人間は外的な自然に対して脆弱であるばかりでなく、内的な自然に対してさらに脆弱である。情念を放置すれば、たちまちそれは人間をのみつくす。人間が人間存在であるためには、この自然をたえず加工する「精神の錬金術」が不可欠である。これと闘うのではなく加工するのでなければならない。*2

僕は最近、とある加工を精神にほどこした、かなり効果覿面だ。

顛末についてはもう少ししてからご報告する。



黒沢清『アカルイミライ黒沢清『アカルイミライ』を含むブックマーク

映画論的なことは何も分からないが、

有田家のリサイクルショップ店内で藤竜也とオダギリジョーが言い争うシーンを観てから、興奮してしまって、あとのシーンをあまり覚えてない。(正直に告白すれば、部屋で観ながら独り言で関係ないことを怒鳴ったりしてしまった、深夜なのに。)

【※ネタバレの困る人は以下の記述注意。シナリオ引用もあります。】


・有田の親父(有田):藤竜也

・井村:オダギリジョー

有田: クラゲ、きれいだった。 でも、それでどうなる? 何か現実が変わるの? 少しでも自分の思い通りに、なるの?

井村: 知らないよ! ほっとけよ!

有田: ほっといたら君はこれから、どうなるんだよ!

井村: ほっとけよ!

有田: ほっとけないんだよ! もう、じれったくてしょうがないんだよ。 ね。 どうして君はこの、目の前を見ようとしないの? え? どうしてこの現実をさ、見ようとしないんだよ。 薄汚くて不潔だからか? そりゃ君失礼だぞ、おい。 この現実はな、私の現実でもあるんだよ! 君がないがしろにする権利なんか、ないんだよ、ばか者!

(逃げる井村)

有田: 逃げるのか、よし、逃げろ! 逃げろ逃げろ! どこに逃げるんだそれで。 え、井村君、どこに逃げる! 君が逃げ込める先はな、2つしかないんだ。 一つは夢の中! 二つ目は刑務所の中だ! いいか!

僕は上記のやり取りは、そのまま引きこもりの家の中のやり取りとして聞いて、泣いてしまった。

単なる説教に見えて、ギリギリでそうじゃない気がするんだが。

「どうして君はこの、目の前を見ようとしないの? え? どうしてこの現実をさ、見ようとしないんだよ。 薄汚くて不潔だからか? そりゃ君失礼だぞ、おい。 この現実はな、私の現実でもあるんだよ! 君がないがしろにする権利なんか、ないんだよ、ばか者!

なんで泣いたんだ。 なんか俺の罪悪感に抵触した。



*1:太宰治

*2:『現代という時代の気質 (晶文選書)』p.148、柄谷行人によるあとがき「E・ホッファーについて」より

2005-10-18  必要に駆られて

語句の流通について 語句の流通についてを含むブックマーク

新サイト『論点ひきこもり』のブログのほうに、サイトの趣旨に関連した小タイトルと引用を作ったんだけど、レジュメ作者である本田由紀(id:yukihonda)さんの趣旨、あるいはパネリスト報告の趣旨とあまりにかけ離れてしまうので、こっちのほうに長文でエントリしちゃいます*1。本田由紀さんの「私自身のスタンス」からです。

当サイトは「ひきこもり」をメインテーマにしていますので、関連する部分を赤字、興味深いと思った部分を太字にしますね。

    • ニートの中には、失業者やフリーターに近い人々と、何らかの客観的な個別事情から働かない・働けない人々、「社会的ひきこもり」に近い人々、などが混在している。こうした雑多なグループの寄せ集めに対して「ニート」という「ひきこもり」に近いイメージを帯びた定義を与えることによって、実態の把握や対策はむしろ困難になり、若者に対する社会の見方には重大な歪みが生じる。それゆえ「ニート」という言葉はできるだけ使うべきでない*2
    • 若年就労問題(失業者・フリーター)は、経済システム(企業)と教育システム(学校)の接続のあり方から生じている。社会的ひきこもりは、これらに他の要因が加わってより複雑な背景をもつ
    • 若年就労問題への対策は、若者の意識や内面への働きかけではなく、「端的な職業能力」および「職自体」を提供することにある社会的ひきこもりはまた異なる対応が必要

本当に興味深いです。

ただ、「支援現場の必要」「政治」云々で、ちょっと気になるのですが…*3

これについてはまた考えます。



≪「論点ニート」と「論点ひきこもり」のちがい?≫(こういうタイトルでエントリしていた) ≪「論点ニート」と「論点ひきこもり」のちがい?≫(こういうタイトルでエントリしていた)を含むブックマーク

最初に新サイト『論点ひきこもり』ブログに引用したのは、石川良子氏の次の部分だった。これは、本田由紀氏の上記レジュメ『ニートをめぐる様々な「問題」』末尾<引用2>にある。

 「ニート」論は「働くのは当然だ」という前提から出発するのに対し、「ひきこもり」論ではその前提自体を疑い、さらにはそうした前提がまかり通っている社会のあり方までを問おうとする姿勢がある。



たぶん たぶんを含むブックマーク

僕はいま、「過渡期」的な状態にあるのだと思う。

言い訳みたいですが。



コメント欄を コメント欄をを含むブックマーク

停止しますね。

もう長期にわたって公開していたので、必要な方には届いたと思うので…。



*1:というきっかけで久々にエントリ

*2:ここだけ、「語句の運用」の問題で「ひきこもり」にも関連する重要さがあるので太赤

*3:まだよくわからないが。▼雑多である「ひきこもり」が一枚岩的に語られているのが気になるが、これはニートのシンポだから、仕方ないだろう。

2005-10-05  出発の話

新サイト『論点ひきこもり*1スタート 新サイト『論点ひきこもり』*1スタートを含むブックマーク

ひきこもりに関する新サイトのスタッフに参加させていただくことになりました。

サイトの理念については、ぜひ「このサイトについて」をご覧ください。

各記事に対しては、トラックバックを送ることもできます。(試みに、こちらのページに送ってみました)*2

いろいろ不手際もあると存じますが、どうかよろしくお願い申し上げます。


【2007年8月24日の追記】

共同サイト『論点ひきこもり』は、ドメインを新しくし、新規体制で再出発することになりました。 新しいURLは、 http://ronten.net/ です。 よろしくお願い申し上げます。





当事者によるフリーター論:『フリーターにとって「自由」とは何か』(杉田俊介) 当事者によるフリーター論:『フリーターにとって「自由」とは何か』(杉田俊介)を含むブックマーク

杉田俊介さんは、さいきん稲葉振一郎氏への苛烈な怒りを表明されたのですが*3、考えてみれば稲葉氏は、政治哲学等を論じる「学者(専門家)」であり、貴戸理恵さんの件に際し「当事者なんぞ知るか。」と明白に表明していたのだった。→ 杉田さんとのやり取りの件は、「学者vs当事者」という構図、あるいは「当事者学」「当事者批評」の問題を、少なくとも部分的には含むのではないか。(稲葉氏が無条件に悪いというのではなく、重要な論点として)

私自身は稲葉氏の本を未読なのだが、今後も動向に注目したい。


*1:このドメインは、以前「Hiki-Link」というサイトだったものです。サイト編集長だった五条さん(id:gojopost)は新サイトのスタッフでもあるのですが、「論点ひきこもり」では、現行スタッフ4名の位置づけは同等です。さまざまに話し合いを重ねた結果、このような形で新しくスタートすることになりました。

*2:余談ながら、この私へのインタビューは、私がスタッフとして参加する話が出る前に収録されました。なのでこのインタビューは、まったく「外部のゲスト」という扱いです。

*3:「本の宣伝のための無理な演出」みたいなお決まりの陰口はどうせ出るのだろうけど、それはいくらなんでも皮相すぎる。

きしきし 2005/10/06 07:58 やっほう。毎度。しばらく更新がないなあと思ってたら……「論点」の方でコメント書こうと思ったけどやり方がわからんかった(笑)から、こちらで。新サイトおめでとう、これからの展開を楽しみにしてます。

yoshi1962yoshi1962 2005/10/06 09:24 更新していないかと毎日覗いていましたが、忙しくされていたんですね。
新しいサイトは情報が多すぎてとても分かりづらいです。覗いてたら疲れてしまいました。僕にはこのブログで日々のことを読む程度がいいかな。とにかく、元気でよかったです。

ueyamakzkueyamakzk 2005/10/16 04:33 ▼岸さん、いつも励ましありがとうございます。岸さんの存在には本当に感謝しています。ちょっと、心身の建て直しが必要な状態で…。お返事遅れてすみません。
▼yoshi1962 さん、お返事遅れました。更新できなくてごめんなさい。励ましありがとう…。

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