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[語句説明]

2005-11-30

『論点ひきこもり』:「二流チャット企画:本田由紀さん講演会から『論点ひきこもり』:「二流チャット企画:本田由紀さん講演会から」を含むブックマーク

先日から予告してあったチャット企画です。

今回は、「講演会概要」と「求職型ニート」について。

続編も編集中。

2005-11-29  取り組みと情報の価値

Matisse, Naked blue IV, 1952

「制度的整備」と、相談面接における「即物的アドバイス*1「制度的整備」と、相談面接における「即物的アドバイス*1」を含むブックマーク

本田由紀さんのブログ・コメント欄に長文の書き込みをしました*2

労働力に関して、需要サイド(雇う側)と供給サイド(各人)の双方が、≪動機付け≫のできなさに頭を抱えている、ということでしょうか。▼「学校教育の職業的意義」(教育)、「景気回復を」(経済学)、「雇用環境改善を」(労働問題)など。



永冨奈津恵さんによる、 永冨奈津恵さんによる、を含むブックマーク

もう10年近くもこの問題に取り組んできている永冨さんの逡巡・・・。



職業別、「○○だけど何か質問ある? まとめのまとめ職業別、「○○だけど何か質問ある? まとめのまとめ」を含むブックマーク

これ、あらゆる職業について聞きたい・・・。



*1:「会話のきっかけレシピ」のような「情報断片」として。 「道徳的説教」では、勿論どうしようもない。【ごく個別的に観れば、「説教」ですら役に立つ場合があるからややこしいのですが・・・。】

*2:憶測含みの発言をしてしまったことを反省しています。 「玄田有史さんがどうであるか」ではなく、「現場の相談スタッフの問題」として、「自分の(体験している)問題」として語るべきでした。

2005-11-28  思い出としての現在

『ALWAYS 三丁目の夕日』

本田由紀氏:「問いかけ第2弾本田由紀氏:「問いかけ第2弾」を含むブックマーク

現在、「フリーター」や無業者(学生・主婦以外で働いていない)の方にお願いしたいのですが、現在のような状態になった「きっかけ」、「事情」を簡潔に教えていただけないでしょうか。

「ひきこもり」については、「なぜこうなってしまったのか分からない」という人がとても多い。それゆえに、無力感や非常に激しい自責の念に苦しみがち。▼無業や引きこもりの状態に突入した「入り口」のきっかけと、そこから抜け出せた「出口」のきっかけについて、ある程度の人数を集めた統計的調査は存在するのだろうか。*1 ▼最近気になるのは、「大学や職場でパワハラに遭って精神的に失調をきたし、そのまま閉じこもって(無業になって)しまった」というケース。僕の情報の集め方が偏っているのかもしれないが、なんともやりきれない事例を立て続けにいくつも聞いている。▼「きっかけ」自体が、偶然的・個人的な現象ばかりではなく、社会的・制度的にもたらされているのではないか。



ネパールの「釈迦の化身」少年、今も瞑想続く「ネパールの「釈迦の化身」少年、今も瞑想続く」を含むブックマーク

釈迦の化身かどうかはともかく、「6カ月間、食べ物や飲み物を一切口にせず」って、あり得るんですか。【以前も紹介されていたけど。】 ▼本当なら、働けなくても何とか生きていけ



「大学が、中国で通用する即戦力を育て始めた」 「大学が、中国で通用する即戦力を育て始めた」を含むブックマーク

ワールドビジネスサテライト」で、「立命館孔子学院」などが紹介されていた。

思うこといろいろ。



映画『ALWAYS 三丁目の夕日』みてきた。 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』みてきた。を含むブックマーク

観終わってすぐ、映画館近くの魚市場に繰り出したのだが、僕のあれほど苦手な「へいらっしゃい!」「安いよ!」という掛け声や大声での商談が、さほど恐くなくて驚く。道を行く高齢者たちも掛け声も、しなびた看板も、すべてが昭和30年代の光景に見える。僕の同世代や20代の人々が、「新しく生まれてきた世代」に見える。▼昭和33年当時にあの映画があって上映しても、それは娯楽作品としては別の種類のものだろうし、当時の「売れ筋映画」をいま観ても面白くないが*2、50年近く経って当時の「日常」を回顧的に観ることには、嗜癖性すらある。▼公式サイトで紹介されている声は「あの時代に大切なものを置いてきてしまった」系のものばかりで少々うんざりだが*3、「いま生きている現実」も50年たてばあのようにかけがえのないものに見えるかもしれない*4。▼稲垣足穂の、「地上とは思い出ならずや」を思い出す。いま生きている自分を、自分の死後の時代から眺めてみる。現代から、自分が生まれる前の昭和33年を見るように。▼意識の動きが、「外界から遮断されている」ように思える2005年(昭和80年)の現在。 自然的プロセスとしては脳髄の動きでしかないだろうに。 【「物質の身体」と「言葉の身体」】


現象を経験すること自体が、まるごと誰かの命(order)に服している状態。この経験は誰のものなのか。現象経験がそのままで「疎外された労働」になっている。労働過程であり生産物であるこの現象経験は誰のものか。私は経験しているのか、経験させられているのか。「そのように」経験する指針は誰が立てたか。▼経験における他者と自己の交じり合い。「自分のもの」として手に入れるものは「所有」の区切りにおいて他者を排除していなければ許せない。いや他者に対して、強迫観念的に激しい嫌悪がある。超自然的ウイルスのように穢れて見える《他者の痕跡》(指紋など)。

  • 新刊本を買うとき、「キレイなもの」を探して延々平積みの下のほうまでチェックしたくなる強迫観念の苦痛。選ぼうとしている本よりも選んでいる自分の方がはるかに汚い。肉の塊。▼購入後、書き込みや携行で本が汚れてくるとやっと安心して読めるようになってくる。
  • 図書館や古本屋に行ったときの奇妙な安堵感。わたしは他者の言葉にまみれていてよい。
  • 「本を読む」という行為。他者の言葉と自分の言葉の絡まりの難しさ。他者の言葉に無理やり我慢して付き合う労働。▼「夢中になって読む」ときの嗜癖感。
  • 内発的持続が破産すると自分が保てなくなる。自分を隔離しないと他者がなだれ込んできて支配される。

お金(経済)が、人間の活動を、規範を、意識のあり方を変えていかざるを得ないダイナミズムを痛感。


【以下、ちょっとだけ映画のネタバレ。観終えた方のみどうぞ・・・。】

続きを読む

*1:【参照

*2:「面白がる」ことはできる

*3:価値観の面など、50年経って改善された点もあるはず。本当に当時にタイムスリップしたら耐えられないのではないか。

*4:47年も経っているはずなのに、人間の生活は何も変わっていなかった。もちろんフィクションだけど。そのことに絶望した。と同時に少し元気になった。【参照

2005-11-27  「巻き込まれてあること」の存在論

Matisse “Dance”

大野正和氏:「過労児だった私*1 大野正和氏:「過労児だった私」*1を含むブックマーク

ひきこもりをテーマとする当ブログで、大野氏のこの文章を紹介するのは冒涜だろうか。 「まったく働けない人間」と、「働きすぎて死んでしまう人」。 ▼私自身を含め、大野氏のような経歴を持つ「ひきこもり当事者」の話はよく聞く*2

閉じこもっている人の多くは、「自分のことは自分で決めなければならない」という強迫観念に支配されており、それゆえに逆に身動きできなくなっている*3。 どうしたいかが自分でもよく分かっていないくせに――というよりもだからこそ――、他者と関わることで自分が過剰に他者に支配されてしまうことを恐れる。 「他者の色に染まりすぎること」を怖がる。 「生き甲斐」や「仕事の指針」は、「自発性をもって自分で決めねばならない」と頑なに思い込んでいる――恐怖心ゆえに。 ▼他者との関係に巻き込まれることは、そのまま「周囲の人間関係に支配されること」を意味する。 《交渉》ができないから。 自分はどうしたいのかが分からないから、「こうしなければならない」で人生が支配される。 トラブルのすべてを自分が吸収する羽目になる。 自分の人生が状況に支配されるのがこわくて他者と交われない*4

その揺らぎに耐えられない人間が他者に立ち交じって働こうと思えば、ワーカホリックになるしかないのではないか。▼「僕はニートでした」と語るある男性は、なんとかアルバイトを再開して以後、複数のバイトを自主的に掛け持ち、「自分の時間をなくしてしまった」らしい。 働き始めてしまったら、仕事に人生を支配される以外の生き方ができないように見える*5



自律と他律のマネジメントの関係 自律と他律のマネジメントの関係を含むブックマーク

他者に支配される形の依存症的没頭と、あくまで自律を保った形の没頭とでは何が違うだろうか。▼「依存症が悪い」というのではなく、私が一定の優秀さと活力を手にするには、何がしかの依存症を必要とするのではないだろうか(普通に言えば「夢中になる」だが)。



権力論と労働現場 権力論と労働現場を含むブックマーク

フーコーやドゥルーズなど、現代フランス思想の権力論は、労務管理やピア・プレッシャーなど、「労働」との関係で問われるべきではないか。――この話が、大野正和氏を交えた会話と、先日の研究会の双方で出ていた。▼不思議なのだが、逆に今までは問われていなかったのだろうか。*6



権力と協働 権力と協働を含むブックマーク

友人から、「企業」のとらえ方として、次の2通りあることを教わった。

 ・「権力関係=労使関係」

 ・「協働システム」

頭の固いダメな左翼は、前者の関係しか考えないように思える。

  • 疑問などいくつか:
    • 【ダメな左翼の典型的な集会】:「経営者」や「資本主義」がいかに悪辣かを語り、その批判に頷きあう。「ひどいよな」「だよな」。「自分たちは資本主義批判をしているのだ」というナルシシズムを慰撫し合うだけの、儀式のようなコミュニケーション。▼しかし本当にこれを語るしかない人は、やはり切羽詰まって、恐怖心ゆえにそうするしかなくなっているのか。
    • 「経営者」を糾弾している人たちは、では自分自身が会社の舵取りを任されたら、労働者に文句を言われない労務管理を遂行できるのだろうか。そんなことをしていたら、会社はすぐに潰れてしまうのではないか。▼権利要求はもちろん重要だが、「こうすれば労使ともに益になる」というような「対案」を出すことが最善ではないか。(それができないから、ひとまず権利要求をするしかないのか。) ▼というか、経営者の現状が本当にひどすぎるのか。だとすれば、どうして労組系の運動はこれほど説得力を失っているのか。


猶予 猶予を含むブックマーク

いったん生まれ落ちてしまったら、死ぬまで「避難所」はない。




村上龍:「自分の中の受容体みたいなものが反応して、必然的なものとして捉えられるかどうか村上龍:「自分の中の受容体みたいなものが反応して、必然的なものとして捉えられるかどうか」を含むブックマーク

あのくらい集中して書いた作品、他の作品でもそうですが、「きっかけ」とかないんですよ。「きっかけ」って、すごく簡単なイメージがあるでしょ。お二人が知り合ったきっかけは? って結婚式で司会者が口にする馬鹿な質問があるけど、小説家が、この対象を小説のモチーフとして使おうとか、本場で勝負するために海外に出るアスリートとか、そういうのは「きっかけ」じゃないんですよ。決定的な出会いとしか言いようがないものです。

必ず聞かれるんですよね。『13歳のハローワーク』を書いたきっかけは、とか。きっかけなんてないよ、というと話は終わっちゃうから、ま、いろいろ話はしますけどね。でも、僕は、そんなもんじゃないと思うんですよ。たとえば、ソニーのウォークマンを作った人に、「ウォークマン作ったきっかけは?」と聞いても答えられないはずですよ。殴られるかもしれない。イチローに、大リーグに行ったきっかけは、と尋ねても答えられないでしょう。自分の中の必然性に従っただけでしょうから。僕らの小説もそうなんです。

いまの世の中、きっかけさえあれば誰だってできる、というバックグラウンドに支えられている。やらなかった人は、「自分にはきっかけがなかっただけ」と思いたいわけですよ。でもね、出会いはすべての人にあるんです。それを自分の中の受容体みたいなものが反応して、必然的なものとして捉えられるかどうか。捉えた後に、シビアで科学的な努力ができるかどうか。そういうことなんです。だから、「きっかけ」という言葉にはなんの意味もないんですが、その言葉が非常によく流通する日本社会って何なんだろうとよく思います。

「ひきこもり状態の経験者」である僕が、最もよく受ける質問の一つが、「元気になれたきっかけは何ですか?」*7

「出会い」の要素は絶対に重要だけど、それが「出会い」になるのは、こちらに相応の必然性が準備されていたからであり、それを「出会い」として受け止める開放的な態度と、必然性の星のもとに努力を続ける執着心があったからだ――そういうことか。

  • 気になること3つ:
    • 執着心は合理的なものではなく非合理(デモーニッシュ)なもの。 説教や精神論の問題とは考えにくい。 むしろ、出会いによって「自分で気付く」こと。 自分にインストールされた異常な執着に気付けなければ、内発的な努力が持続するはずはない。 ▼「自意識過剰」から、「無意識過剰」に向かう必要がある。
    • 「リスクを選んで努力する」という要因を重視することにはぜひ同意したいが*8、それだけでは、自己責任論「だけ」になる。 ▼ただ個人レベルの指針としては、そう言うしかないか。
    • カギは、おそらく≪禁止の導入≫にかかってくるのではないか。 「無際限な自由」は、かえって極めて不自由だ。 ▼「自由をもたらす出会い」ではなく、「納得できる禁止をもたらす出会い」が必要であるように思われる。 ▼内的な必然性に基づいた禁止と没頭。


*1:via id:Z99さん

*2:『ひきこもりカレンダー』の勝山実氏もそうだっけ。

*3:大野氏ご自身より示唆をいただいた。

*4:もちろん「いじめ」は重要な要因だ。

*5:雇用環境の問題と、本人の性格の問題と。ここでは後者を問題にしている。

*6:「ポスト・フォーディズム」の話はまさにそれか。

*7:質問者が親御さんの場合、この問いには鬼気迫る切迫感がある。

*8:どういう思想を選ぶにせよ、≪賭けと努力≫は絶対に必要なファクターだ。▼「ひきこもり」においては、それにまつわるインポテンツが問題になっている。

2005-11-26

立命館大学で、ある研究会に参加。 立命館大学で、ある研究会に参加。を含むブックマーク

とても刺激的だった。僕は日頃きわどいことを言っているはずなのに勉強が足りなさすぎる。

自分なりの現場(問題・苦しみ)を持ちながら考える意義は再確認。

自分を含むいろんな方の発言をランダムにメモ。

  • 「transversalité」を「横断性」ではなく「分流」「既存の流れを変えること」と理解してみる。▼働きかける側と働きかけられる側が両方とも変わる。「固定的な両者を横断する(手を結ぶ)」ということではない。双方のあり方が変わること。
  • ガタリが無資格(薬学部中退)であることに驚く。
  • 日本の精神病院は85%が私立。
  • ラボルドの実践(制度論的精神療法)とは、「転移の生じやすい環境を作ること」?▼孤立し閉じた妄想世界を違う活動に転移させ、アクセスさせてゆく。▼「症状を持ったまま、別の活動をできるかどうか」▼「動いていなかったものを動くようにする分析」というモチーフ▼「分析」とは、自分のポジションをベタに固定化してそれと一体になって考えることではなく、自分自身をもメタ的に眺め、風通しよく対応すること?*1
  • 現場の最もクリティカルな苦しみが、最高の知的営みと切り結ぶ必要がある。苦しくなっている人を楽にするのでなければ何の知性か。
  • 「強制された自発性」*2というモチーフは、統合失調症に特徴的である「自分と他人の区別がつかない」*3とどう関わるか。
  • 帰宅後、TVで認知症の高齢者に関する番組を観る。≪不活性≫という根本的なモチーフ。「不活性であること」は、「苦しい」からまずい。「規範に照らして良くないことだから」ではない。


*1:→「分析主体」との比較。

*2:「過労死」にも関係。 【cf.:大野正和『過労死・過労自殺の心理と職場 (青弓社ライブラリー)』p.55】、【参照

*3:「語らされる」という訴え

2005-11-25

「分析主体(analysand)」 「分析主体(analysand)」を含むブックマーク

ジジェク『為すところを知らざればなり』p.5

しかしながら、本書に「独特の色香」を醸しだしているのは、本書の内容よりむしろ本書が発表された〔=発話作用 enunciation の〕場所である。ユーゴスラヴィアのリュブリャナで1989−90年にかけての冬学期に月曜日毎に行なわれた6回の連続講義を収録しているのが本書である。講義はラカンへの入門コースとなった。これを組織したのはスロヴェニア精神分析理論協会であったが、ターゲットは民主化を目指す運動の勢力である「寛容的中立」の知識人大衆であった。言い換えれば、「知っていると想定される」大文字の主人の立場を引き受けるどころでなく、本講義の張本人たる私は自分の聴衆を分析者としてこれに話しかける被分析者として振る舞ったということである。講義全体はあの月日の独特な雰囲気の中でなされた。あらゆる選択が依然として開かれているように見えた「自由選挙」をほんの数週間後にひかえた厳しい政治的発行の時、政治的行動主義と「高尚な」理論(ヘーゲルとラカン)と「低俗な」民衆文化の拘束されざる享楽とをかきまぜる「ショート〔=短絡〕」の時――そのようなまたとないユートピア的瞬間も、民族主義−民衆主義の連合が選挙に勝利し、「ならず者の時」が到来した今となっては、終わっているばかりでなく、「消え行く媒介者」のように記憶から消され、ますます見えないものとなっている。

太字部分の原文は次の通り。

…far from assuming the position of a Master “supposed to know”, the lecture acted as the analysand addressing the analyst composed of his public.

analysand」は普通に英和辞書に載っているし、こちらなどでも「A person who is being psychoanalyzed(精神分析を受けている人)」つまり「被分析者」となっているけど、ジジェクの依拠するラカン派では「分析主体」と訳されていて、一方的な受動的状態にあるのではなく、能動的要因もそこには含意されていたはず。

≪当事者≫を考える上での参照事項として引用しておく。ちょうど上記のジジェクの叙述は、社会-政治的な環境の中に置かれた「分析主体」の話をしている。

2005-11-24

ゴッホ 「星月夜」

丸山眞男『日本政治思想史研究丸山眞男『日本政治思想史研究』を含むブックマーク

知人のメールに引用してあって感銘を受けた一節。(そのまま転載)

なんらかの社会的変動によって支配的立場にあった社会層が自らの生活的基盤が揺るがされたとき、はじめて敏感な頭脳に危機の意識が胚胎し、ここに「政治的なもの」が思惟の前景に現れ来る。しかるに他方社会が救い難い程度にまで混乱し腐敗するや、政治的思惟は再び姿を消すに至る。それに代わって蔓延するものは逃避であり退廃であり隠蔽である。この中間の限界状況にのみ、現実を直視する真摯な政治的思惟は存立し得る。

2005-11-23

Heidegger Heideggerを含むブックマーク

 進歩というものがあるのは、結局は実存にとって重要ではないものの領域に限られる。*1

2005-11-22  労働政策

ueyamakzk2005-11-22

本田由紀氏講演会:「若年労働市場の現状と改革への展望 〜フリーター・ニートのゆくえ*1 本田由紀氏講演会:「若年労働市場の現状と改革への展望 〜フリーター・ニートのゆくえ」*1を含むブックマーク

行ってきました

簡にして要を得た見事な講演でした。身近に本田氏が講演に来る機会があれば、ぜひ行くことをお奨めします。「システム的に支援の環境を整えるべきだ」という本田氏の主張は、本当に説得的でした。▼気になった点もあるのですが(特に「ひきこもり」に関して)、今日は疲れすぎているので、また数日中にあらためてエントリーします。



先日ご紹介した議論がさらに展開 先日ご紹介した議論がさらに展開を含むブックマーク

参加者: 内藤朝雄、山形浩生、id:dojin、稲葉振一郎、本田由紀、田中秀臣、飯田泰之、の各氏など。

核心的な論点が満載では。(リンク先も是非)



明日(23日)は、こちらの例会にお邪魔する予定。 明日(23日)は、こちらの例会にお邪魔する予定。を含むブックマーク



*1:辻大介(id:dice-x)氏による告知より

2005-11-21  内発的構造化

ueyamakzk2005-11-21

憑依の必要 憑依の必要を含むブックマーク

援交から天皇へ―COMMENTARIES:1995‐2002 (朝日文庫)』p.367-370

ここで重要なのは、確かにチョムスキーは驚くべき数理的業績をあげましたが、そのベースにあるのは一貫して自由を求める実存的希求だった、という点です。そしてその実存的希求が、彼自身のとった政治的行動と極めて緊密に結びついていました。

私はこういう人が大好きです。ノーム・チョムスキーに私はメチャクチャハマりました。変形生成文法もメチャクチャ勉強しまくりました。それは数理的な関心からと言うのでなく、繰り返しますが、実存的な関心からです

私が小室直樹や廣松渉に惹かれたのも全く同じ理由です。小室にも廣松にも信じられないほどの教養があります。そしてその信じられないほどの知識量が、彼らの頭の中では主観的に構造化されています。 【中略】

彼らが過剰な教養を持っているのは実存的な核があるからだと私には直感的に分かりました。そういう私自身の直感・実存的インスピレーションから彼らに内在してものを見る――私の身につけた教養はすべてが、チョムスキー型の人間に憑依されて、彼ならどう見るかとつねにシミュレーションして物を見ていた結果です。 【中略】

私は偶然そういう経緯をたどりましたが、そういう知識・教養の身につけ方があることを、多分今の若い人たちは知らないと思います。だから知識の断片だけが集積されがちなのです。私のような憑依を通じた集積があれば、知識は完璧に主観的に構造化されます。

個々の知識は全く問題ではなく、その知識の集積が意味する実存に私の注意は向いています。それは私の今の社会学者としての資質ないし能力を全て決定したと言えます。 【中略】

はっきり言います。内発性がなければ、知識はクズです。何の役にも立ちません。今やそのことは誰にでも直感されているはずです。

最初は誰かにのりうつられることが大切です。この時、個々の知識が間違っている/正しいは全く重要ではありません。(1)かなりの複雑性をもった視線にのりうつられた後、(2)徹底的に内在的に理解し、(3)それを卒業して今度は別の何かに憑依される――。

この(1)→(2)→(3)を数回反復すると、既にその時にはその人自身が、それこそ誰かに憑依される価値のある、かなり複雑な構造体になっていると思うのです。

不安ベースから内発性ベースへ」。

一回のりうつられてメロメロになることで吸収する。そういう対象を欠いている不幸。「のりうつられなければならない」などと考えている間は不幸な自己意識にとどまっている。

ずいぶん前、くだらない馬鹿メールをあるMLに投稿したのを思い出した。転移感情というのは自分と世界とのリアルな紐帯の最後の命綱であって、そこで必死に世界と繋がろうとするのだけれど、言葉はあまりにメロメロで、単に社会的信用を失って終わりだったりする。チープな戯言を乱発して破綻する。「次なる勤勉」に向かわない言説はたぶんその場でラリッてるだけだ。



良師とは「良師とは」を含むブックマーク

隆慶一郎の「時代小説の愉しみ (講談社文庫)」を読んでいたら、小林秀雄が辰野隆の最終講義に弟子代表としてあいさつするくだりがあり、ソクラテスの言葉を引用し「真の良師とは弟子に何物かを教えるものではない、弟子をして弟子自身にめぐり会わせる者である」と。



id:kwktさんと梅田で面会 id:kwktさんと梅田で面会を含むブックマーク

opti c@fe」で見せてもらったこちらのエントリーが非常に面白い。

隆慶一郎の作品には「道々の輩(ともがら)」「道々の者」「公界人(くかいにん)」と呼ばれる非定住民が登場する。彼等は一所に定住せず、世間一般との縁を切り、己の才覚だけで世を渡り歩いた。彼等は「上ナシ」「主ヲ持タジ」という意識があり、侍身分からの支配を否定した。課税や補足されそうになると漂流する。逃散(日本史のこの単語を誰か憶えてます?)する。彼等は「無縁」の場所へ行く。それは河原であり、港であり、国境=境(「堺=サカイ」という中世の自由都市はここから生まれる)であり、寺院でもあり(中世期に寺院には土地が寄進され荘園(課税できない、無理やり入ることが許されない私有地)になっていた)、つまり「誰のものでもない」場所=公界であった。よく考えると祭もこの場所で行われる。

歴史にifはないが、仮に侍身分が一向一揆あるいは「道々の輩」ら非定住民との戦いに敗れ、各地に「百姓ノ持チタル国(何度も言うがどう間違っても「農民」だけの国ではない)」が出現したのであれば、日本の歴史上に「共和国」というものが誕生していたかもしれない。

僕は引きこもりについて考えるのに、日本の歴史性を全く無視して考えていた。反省。

    • 追記: 上記の隆慶一郎・網野善彦さんの件について、id:kwktさんは「面白い説ではあるが、中世のユートピア幻想には注意が必要だ」という趣旨のことをおっしゃていました。】

2005-11-19  分離と原点

Paul Klee 「さえずり機械」

釜ヶ崎: むかしと今 釜ヶ崎: むかしと今を含むブックマーク

19日、こちらのイベントに聴衆としてお邪魔した。イベント中もたいへん勉強になったが、今日いちばん印象的だったのは、終了後に聞いた次のお話(大意)。

 むかしの釜ヶ崎の人間は、貧しくはあったが、精神的に健康だった。仕事が終わったら「ガハハハハ」、と笑いあう感じ*1。しかし最近では、釜ヶ崎にいる人間の半分以上が精神的にヤバくなってる。

なんだこれは。

「資本主義が爛熟したからだ」などと言っても何も説明したことにならない。

昔は、「貧困問題」として考えていればことが済んだ。 今は、それでは事態の一部分しか考えられていない。



議論の出発点 議論の出発点を含むブックマーク

「ひきこもりは、その状態像に対する依存症的な状態である」と言ったとして、それは「答え」ではない。いわば「議論にアタリをつけてみた」ということであり、そこは議論の出発点であって、「では依存症とはそもそも何なのか」ということは、よくわからない。「依存症である」と言ったところで、それによって「依存症治療プログラム」的言説が自動的に作動するわけではないし、そんなことを許してはならない。「よくわからないままに考えてみる」、その思考作業の「アタリ」として、とりあえず「依存症に関係があるのではないか」と言ってみる。そこで自分が何を意味しているのか、そこからどんな議論の源泉を突き止めることができるのかは、それ以後の課題であって、そこは出発点なのだ。▼ことほどさように、「医療的カテゴリ」およびそこから自動的に出てくる「治療プログラムの連鎖」は、≪私の試行錯誤を滅殺するトラウマ的暴力≫として受け止められている。コミュニケーションを阻害=疎外するものとしての医療主義。当たり前の会話の中にすら「医療主義」がちらつき、私の発する言葉のすべては「診断」の対象でしかなくなる。「あなたには〜〜の症状があるから、○○だ」――身体ではなく、心の問題にこれが言われてしまうこと。▼答えを共有するのではなく、出発点を共有し、一緒に穴を掘り下げてゆくこと。答えを共有するのではなく、よくわからないままの試行錯誤を共有すること。相手の断定を、「答え」としてではなく、「出発点の再措定」と受け止めること。

ナマのままの剥き出しの苦痛と傷つきの言葉を、ではそのままで生きればいいだろうか。当事者の多くは、「知的な会話」を嫌悪する。知性は、「ナマの感情」に対する冒涜と映る。ではしかし、「診断」や「知性」という社会的な枠組みは、運用価値がないのだろうか。「答え」としてではなく、「出発点」としてなら*2、議論と活動を共有するための枠組み(あるいはテーブル)として、そこには分節価値があるのではないか。



メモ:『SAPIO(11/23)』(イベントの配布資料*3より) メモ:『SAPIO(11/23)』(イベントの配布資料*3より)を含むブックマーク

04年7月に厚労省は、労働者を正社員と非正社員に分けて就業実態の統計をとった「就業形態の多様化に関する総合実態調査結果」という調査結果を出したが、ここには恐るべき現実が記されている。契約や派遣、嘱託、パートなど非正社員として働いている人々の比率は、99年の調査では27・5%だったのが、03年には34・6%と約7ポイントも増加したのである。近年の日本でこれほど劇的に非正社員の比率が上がったのは初めてのことだ。

この就業実態調査では、非正社員の月給の調査も行なっているが、月収10万円未満の人々がなんと37・2%に達している。10万〜20万円未満の人々は40・8%である。平均値は公表されていないが、年収にしておそらく120万〜130万円ほどであろう。

非正社員には若年層のフリーターが多く含まれているからだと考えるかもしれないが、決してそんなことはない。年代別の比率で言えば、40代が24・3%でもっとも多く、次いで20代が23・2%、50代が20・4%となっている。親子でフリーターをしているケースも十分にありうる。

すでに現時点で就業者全体に占める非正社員が3人に1人となり、そのうち年収100万円台が4割に達しそうな勢いで、凄まじい速度で階級社会への移行が進んでいる。

細かいチェックと考察はまたの機会に。



*1:即座に思い出したのは宮崎駿の世界観。 「共同体内における、労働者同士の哄笑」というモチーフ。(『風の谷のナウシカ』、『もののけ姫』など)

*2:あるいはその「出発」を可能にする「二次的な症状の緩和」のためなら

*3:森永卓郎氏の文章

2005-11-18  論争・勉強・必要

Der Goldene Fisch

絵画の著作権「絵画の著作権」を含むブックマーク

某ブログにて、ある絵画作品を発見して感銘を受けたのですが、「絵に関しては、著作権ってあるのかな…?」ということが気になり、検索。▼著作権は「死後50年で消滅する」とのことなので、逆に今後は古くて好きなものをどんどん載せてみようと。

右は、パウル・クレー「金色の魚」(1925)。



「生き生き」をめぐって≪「生き生き」をめぐって≫を含むブックマーク

  • 仲正氏の「生き生き」批判は僕にとってどうしても必要なものだったが、『諸君!』は読んでいないし、事情がまだよく見えていない。 【追記:「双風舎からのお知らせ」】
    • 細かい議論は今後の課題にしたいが、ひとまず、「生き生き」のディテールを細かく分析する必要はあると思う。 たとえば右翼的な「生き生き」と、左翼的な「生き生き」はスタイルが違うはず。 ▼ジジェクがどこかで、自分の著作のモチベーションについて、「ナチズムとスターリニズムとが同じ《全体主義》として混同されたまま使われていて、それがすごいストレスだった」と語っていた(大意)。 同様の作業が必要と思われる。

先日触れたとおり、僕が「生き生き」に辟易するのは主にフリースクール系の文脈だが、かといってそのような「生き生き」言説の需要が尽きたわけではない。

この事件では、どうやら「どうしても学校に行かせなければならない」という親の切迫感が悪く作用したように読める。だとすれば、一時的にでも「不登校は選択するもの」という説得が必要かもしれない。

最近の不況と「ニート・ひきこもり」といった現象、若年者の就労不安などから、子供を抱える親たちの「脱落不安」が、以前より高まっている気配はないだろうか。価値規範としていくら「閉じこもっていてもいい」と言っても、現実にそれが「優勝劣敗社会の中での野垂れ死に」をしか意味しないとしたら、「大丈夫ですよ」は気休めにもならない…。*1

「生き生き」がどのように必要でどのように批判されるべきかは、個別ケースごとに是々非々で判断してゆくしかないのではないか。何よりも、そうした言説の歴史的位置付けに敏感であるべきではないか*2。 【主に、不登校・ひきこもり業界内に向けたメッセージ】



現状で企業に「いわゆるネオリベ」的方針をやめろというのは、多くの企業にとってつぶれろというに等しい」(山形浩生氏) 「現状で企業に「いわゆるネオリベ」的方針をやめろというのは、多くの企業にとってつぶれろというに等しい」(山形浩生氏)を含むブックマーク

内藤朝雄、山形浩生、id:dojin、稲葉振一郎の各氏が、非常に興味深い議論をしています。 ここをきっかけにもう少し勉強を進めねば…。



田中康夫×浅田彰×宮台真司:「『不安』の時代から『自律』の時代へ田中康夫×浅田彰×宮台真司:「『不安』の時代から『自律』の時代へ」を含むブックマーク

浅田氏の「自分自身を芸術作品として作り上げていく」という指針は興味深いが、「禁止のないところで欲望が自分を律する自律」というのは、本当に厳しい倫理だと思う。▼私はそのような倫理を生きるためにも、いちど非合理で無条件的な禁止を自分の中に措定する必要を感じるし、じっさい現在はそのようにして生き延びている。その禁止ゆえに、内面バランスと「欲望の道をゆく」ことをかろうじて継続している。

  • このトークに関連する宮台氏のエントリー「小泉自民党大勝に見る「バカの壁」」は、勉強を進める上で必読だと思う。
    • 「不安な者が縋る乗り物こそが不安を再生産する」逆説、「幸せになろうとしてアーキテクチュラルな権力を翼賛する」逆説。▼ポストフォーディズム下での「憤怒による憤怒原因の強化」というジレンマは、しかしそれではどうしたらいいのやら…。


「残りの人生を賭けることへの投資」 「残りの人生を賭けることへの投資」を含むブックマーク

エステサロンや飲食のためになら何十万円も払う文化があるのに、「ひきこもりのため」には、「お金が回って当然」という感覚がまだ育っていない。人の一生、あるいは人の生き死ににすら関係する話なのに。 ▼需要は確実にある。しかし、それを満たすに足るサービスが何であるのか、業界全体がまだ暗中模索である…。



宮台真司×内藤朝雄:「精神的売春を強いる社会宮台真司×内藤朝雄:「精神的売春を強いる社会」を含むブックマーク

自分自身が、「リアルな論じ手」を目指したいと思う。

そのためには、まだまだ勉強が足りない・・・。



最も幸せな日本人像は 30代、都会暮らし、専業主婦」【元記事(PDF)*3「最も幸せな日本人像は 30代、都会暮らし、専業主婦」【元記事(PDF)*3】を含むブックマーク

 アンケートでは、幸福感について、「非常に幸福」を十点、「非常に不幸」を〇点として、「あなたは何点になると思うか」という「幸福度」をたずねた。この結果、五点が最も多く25%。続いて七点が20%、八点が18%、十点も5・5%おり、全体としては幸福と考えている人が多いことが分かった。一方で、四点以下は13%にとどまった。

 この結果を約三十項目にわたって分析したところ、性別では、女性の「幸福度」の平均値が六・五一点に対し、男性は六・二七点で、女性の方がより幸せと考えている人が多かった。

 年齢別では三十代(平均値六・六点)が最も高く、次に二十代(六・四)が続いたが、四十代以降は加齢とともに不幸になり、六十代では六・二点に落ち込んだ。この結果は、海外の大学が行った調査と比べると逆の現象。アメリカやイギリス、ドイツでは三十歳代が最低で加齢とともに幸福度が増しており、若者に甘く高齢者に厳しい日本社会の傾向を表したともいえる。

「8点以上」が4人に一人もいる…。 「4点以下」は7人に一人より少ない。

性別や年齢別の結果については、「有意の差」と言っていいんでしょうか。



アイフル被害対策全国会議*4 「アイフル被害対策全国会議」*4を含むブックマーク

少しは順位上がるかな。


Windows95再現Flash*5 「Windows95再現Flash」*5を含むブックマーク

当時の僕はまだPCを持っていなくて、電器屋の店先で触るだけだったけど、たしかにこんな感じだったかな。

10年か…。



*1:しつこく付言すれば、斎藤環氏は「ひきこもる権利」を、過激なまでに肯定している(インタビュー時)。 それは、「いつか社会復帰してくれる」という留保すらないものであり、東京シューレよりもはるかに過激な「離脱肯定」であると言えるのではないか(価値規範として)。

*2:「歴史性」の重要さについては、知人からの示唆が大きい。

*3:『 sociologic

*4:via 『sociologbook』(岸政彦さん)

*5:via 『Everything Is Gone

2005-11-16  議論の位相を《複雑=怪奇》化

ueyamakzk2005-11-16

コメント許可設定に「凍結」を追加しました「コメント許可設定に「凍結」を追加しました」を含むブックマーク

かねてから要望していた設定が可能になったようで、さっそく導入しました。▼ということで、当ブログでは新しいコメントを書き込むことはできませんが、これまでに書き込まれたコメントは表示されています。【過去には、コメント欄が盛り上がったこともあります】


会話のきっかけレシピ展」 11月19日〜12月3日開催 「会話のきっかけレシピ展」 11月19日〜12月3日開催を含むブックマーク

開催間近。 【右写真*1参照】


西宮保健所 西宮保健所を含むブックマーク

15日、発表にお邪魔してきました。

あらためて、考える課題多数。



仲正昌樹×北田暁大トークセッション」(id:hazama-hazamaさん) 「仲正昌樹×北田暁大トークセッション」(id:hazama-hazamaさん)を含むブックマーク

北田 「「生き生き」している人は保守に多いのに、なぜ『デリダの遺言』では左翼の生き生きした人を批判しているのか?」

仲正 「左翼が保守と同じ「生き生き」によるポピュリズムをやっても負けるに決まっている。「わかりやすさ」を競うポピュリズムも同様に保守が勝つ。向こうは権力があり、数も多いのだから。これは全共闘の敗北からの教訓。保守への対抗軸として、左翼はオープンな議論の場を提供すべき。朝日や岩波は「わかりやすさ」に走るべきではなかった」

ひきこもりに関して、こういう事業はできるだろうか。――いや、必要だ。

少なくとも、「議論全体の底上げ」が要る。

レベルの高い論者が、どんどん出てきてほしい。



仲正昌樹×北田暁大トークについて、双風舎からのお知らせ「仲正昌樹×北田暁大トークについて、双風舎からのお知らせ」を含むブックマーク

12月11日に予定されていた第3回が中止になったとのことで、その件について仲正氏と北田氏ご本人がそれぞれコメントを書き込んでいるのですが、『デリダの遺言』を読み中の僕には、どちらの書き込みもとても納得できる判断に見えます。

以下、北田氏のコメントから引用。

 「サヨクって硬直してて自己目的化してて、楽しそうで困ったやつらだ」という認識は、私も共有しますし、既に色んなところで表明してきました。しかし、「サヨク=自己目的的享楽の人々」という批判図式は、そろそろ賞味期限切れであるように思います。重要なのは、そういう「スタイル」批判ではなく、実質的にサヨクの議論空間へと切り込んでいって、議論の位相を複雑化していくことではないでしょうか(まさしくふだん仲正さんがされているように、です!)。「語り口」批判は重要ですが、問題なのは「語り口」批判そのものが目的化してしまうと、サヨク的「いきいき」ロマン主義以上にやっかいな、シニカルなロマン主義に帰着してしまう、ということです。

サヨク=「東京シューレ(不登校業界)」、仲正昌樹=「斎藤環(ひきこもり業界)」とすると、そのまま私自身が口にしたいような文面です。

ただし、不登校・ひきこもり業界にはびこる「自己決定論」のロマン主義*2は本当に強烈なので、「自己目的的享楽の人々」という批判図式が――こと業界内に限っては――「賞味期限切れ」かどうかは怪しい。

「不登校は選択の結果だ」「本人の自己決定に任せていればいつか必ず自分から動き始めてくれるんだ」という、「サヨク的《いきいき》ロマン主義」は、「ひきこもり」という状態がいかに厄介であり、そこから考える必要のある、いや考えることのできるモチーフがいかに複雑怪奇であるか*3、見ようとしない。 「自己決定!」というロマン主義に酔っていて、その心酔自体が罪深いかもしれない、という可能性には思い至らない。 ▼不登校業界と引きこもり業界の仲が悪い理由――さらに、ひきこもり業界そのものの中にある亀裂の理由――の核心部分が、こここにある。 「離脱肯定」(不登校業界)と「再復帰支援」(ひきこもり業界)が両立し協調すべきだとして*4、その双方が、「議論の位相を複雑化」する必要がある。



*1こちらより、許可を得て掲載

*2:すでに何度も指摘しているが、そのようなロマン主義が歴史的には一定の役割を担ったことは否定できないし、私自身、その恩恵をこうむった不登校経験者の一人である。

*3ひきこもりに関する思索が「複雑怪奇」であり得る、という表現は、斎藤環氏によるものである(インタビュー時)。

*4:→『こころの科学 (2005年 9月号) 123号 ひきこもり』掲載の拙稿

2005-11-14  他者でいることと競争に勝つこと

バックラッシュの火に油を注ぐ「当事者運動」 バックラッシュの火に油を注ぐ「当事者運動」を含むブックマーク

「当事者であること」は、「他者性を抹消しても構わない」という免罪符ではない。

複数の友人たちと議論になったんだけど*1、あの大峰山の事件が当事者運動として「どうしようもない」として、では「他者のリベラリズム*2」(多様性の確保)に向けて、僕らはどのような理論と手続きを踏襲すればいいのか。▼あの事件は、まったく他人事でない…。



「仲正昌樹×北田暁大トークセッション」 【レポート:id:kwktさん「仲正昌樹×北田暁大トークセッション」 【レポート:id:kwktさん】を含むブックマーク

左翼の疎外論的で本質主義的な問題設定*3は自己目的化されていく危険性が常にある。被害者・正義の立場に立っているという想いが暴走するメカニズムは全体主義とあまり変わらない。思想の実践の場に潜むロマン主義的な危険性・陥穽を考慮しなければならない。

疎外を糾弾するロマン主義自体が、生身の人間の「亀裂としての声」を疎外してゆく。

不登校の業界には、「当事者の自己決定の瞬間まで、永遠に《待つ》」というロマン主義がしつこくはびこっていて、こういう人が「ひきこもり」の支援者を叩くんだけど*4、そういうものはたぶん理論的なレベルで間違っている。

そういえば仲正氏は、『「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)』というのも書いてたっけ…。



社会的弱者は死ぬことも許されませんか?」(id:bluedeさん) 「社会的弱者は死ぬことも許されませんか?」(id:bluedeさん)を含むブックマーク

誤解を恐れずにいえば、最近の自殺者を減らそうとする政府の活動にはどこか違和感があるんですよね。厳しい増税・自己負担を国民に課し、賃金を大幅にカットして過酷な労働を強制する一方、そういった雇用環境で受けた被雇用者の苦痛や疲労をメンタルヘルスや精神安定剤などの処方で和らげようとすることは本質的な問題の解決ではなく、ごまかしでしかないでしょう。

いじめ、モテ・非モテ問題などでも同様でしょう。人によっては・・・侮蔑・虐待・搾取の対象には死んでもらっては困るわけです。

先日紹介した生田武志氏の「カフカの階段」は、あくまで「いす取りゲーム」とセットになってのものだった*5。 つまり、決死の思いで「階段」を上り「復帰」しても、そこに待っているのは以前と同じ過酷な「いす取りゲーム」、つまり優勝劣敗の生き残り戦争。 ▼ひとたび「ひきこもり」に落ち込んだ者は、もう死ぬまで「侮蔑・虐待・搾取」の対象として社会に必要とされている――そういうことか。 現実的に言って、スキルのない引きこもり経験者が“社会復帰”したとて、それは冷遇と放置の対象でしかないのではないか。

何度でも繰り返し言うべきだ。 「社会を変えてゆく」必要はあるし、そのためにできることもしたい。しかし、それは僕やあなたのために「間に合わない」かもしれない。 どんな社会でも、「全員を救う」ことはできない。 ▼生き延びるためには――生き延びなければ活動もできない――、既存社会のルールのままで自分を専門特化し、「勝ち残る」必要がある、少なくともそういう要因を無視して生き延びられると夢想するのは、命取りだと思う。 生き延びるための努力と、環境を改善するための努力は、並行する必要がある。*6



*1:こういう友人たちの存在が僕のバランス感覚にとって非常に重要だ。

*2:内藤朝雄

*3:【id:kwktさんによる注】:人間の本来的な姿を暗黙に措定してそこから疎外されている、現在人々を苦しめ「生き生き」できないのは何かがそれを疎外しているからだ

*4この冊子に掲載されている座談会は、それで物議を醸したわけだ

*5:生田武志氏よりのご指摘

*6:このことも、もう何度も論じている。 要するに、これは僕が自分に言い聞かせている。

2005-11-13  死の自由

Keep in Touch with Death Keep in Touch with Deathを含むブックマーク

合理的な自己管理の核には死に接する非合理な禁止が必要だ。

その死の周囲に健全な肉体を囲もうとする。

合理性の連鎖のみで自己管理しようとするとその総体が死になだれ込む。 合理的管理の全体を抹消したくなる。

今の僕は、非合理な死に問い合わせることで自己管理している。



≪楽観≫+≪決死の努力≫ ≪楽観≫+≪決死の努力≫を含むブックマーク

≪「なんとかなるさ」というベーシックな楽観≫+≪不可能を突き抜ける決死の努力≫。

「努力すれば報われる」とか、何もしないで「ぜったい大丈夫」とか、逆に「絶対ムリ」も間違ってる。

――村上龍氏が『ハバナ・モード (Men are expendable (Vol.8))』冒頭で語っていたことの大意、だったと思う*1



焼死体: 旧火葬場の焼却炉内に 老夫婦、自殺か*2 「焼死体: 旧火葬場の焼却炉内に 老夫婦、自殺か」*2を含むブックマーク

 福井県大野市七板の旧火葬場の焼却炉内で7日、白骨化した2人の焼死体が見つかった。県警大野署の調べで、歯の治療痕などから1人は近くに住む無職の男性(80)と断定。もう1人は行方不明になっている男性の妻(82)とみて身元の確認を急いでいるが、同署は状況から自殺とみている。

 調べでは、7日午後2時ごろ、近所の人が、火葬場横に、エンジンがかかったままの乗用車が止まっているのを不審に思い通報。駆けつけた署員が焼死体を発見した。

 車は男性の所有で、車内にあった給油伝票7枚の裏面には、「午後8時ごろ、妻とともに家を出る。火葬場で1時間待つ。炭、たきぎの準備をする」などと書かれていた。また、男性の自宅からは日記帳も見つかり、11月7日の欄には「午前0時40分ごろ点火する」などの記述があった。さらに8日になって、男性から同市役所に郵送の手紙が届き、中には「遺産はすべて市に寄付します」などと書かれていたという。

 近所の人によると、男性は妻と2人暮らし。子どもはおらず、妻が数年前から糖尿病を患い足が不自由だが、男性が一人で介護を続けていた。旧火葬場は平屋のブロック造り。地区の共同墓地近くにあり、30年ほど前まで地区住民が使っていたが、現在は使われていないという。 【大久保陽一】


なるだけ迷惑の少ない形を選んだということか。

自逝センター」を「残酷だ」と言っていた人は、この事件は「残酷だ」と思わないんだろうか。

「生きなければならない」という至上命題のもとでは、死は抑圧され、僕らは全員が断末魔におびえなければならない。 「死にたければ首でもくくれ」というが、そう言っているあなただって、死にたくなくても苦しんで死ぬんだ。 必ずやって来る死を、どうして「苦しむ形」以外認めない? ▼全員かならず、もうすぐ死ぬ。 「楽に死ねる形」を社会的に用意しておくのが、どうして「人道的」とは見なされないんだろう。*3


老夫婦火葬場心中、遺言状送っていた」(『月刊シニアビジネスマーケット』、玉置泰史)

 福井県大野市の使われていない火葬場の焼却炉で焼身自殺した老夫婦が、大野市役所に「遺産はすべて市に寄付します」との遺言状を郵送していたことが9日、分かった。遺言状は約1年前に作成されており、自宅や1万平方メートル以上の田畑など不動産が列挙されていた。大野署では、子や孫など身寄りがなく、認知症の症状が出た妻の介護生活に疲れた夫の覚悟の心中だったのではないかとみている。

 大野市役所に届いた遺言状は、住居、土地、農地など不動産が、個条書きで並べられ「遺産はすべて市に寄付します」と書き添えられていた。市情報公開課によると、作成された日付は約1年前。旧火葬場内の焼却炉で白骨化した遺体で発見された無職沢田定栄さん(80)の署名が入っていた。

 沢田さんは妻貞江さん(82)と2人暮らしで、子や孫はいなかった。2階建ての自宅、そしてニシキゴイが泳ぐ池のある大きな庭もあった。1町歩(1万平方メートル)以上の水田も所有していた。

 貞江さんは数年前から認知症の症状が表れ、沢田さんが介護していたという。近所の住民は「おじいちゃんが車で家から15分ほど離れた病院におばあちゃんを連れて行っていたね。80歳になって、掃除や洗濯、おばあちゃんのオムツをするのは大変だ、と言ってました。おばあちゃんが大好きでいつも2人で一緒だった」と思い起こした。

 大野署の調べでは、旧火葬場近くの住人が7日、大音量のクラシック音楽を流してエンジンをかけたままの無人の車がとまっているのを不審に思い通報。駆けつけた署員が焼却炉の中から白骨化した2人の遺体を発見した。自宅から旧火葬場までは数百メートルだった。

 6日午後から7日未明まで、自宅を出てから焼却炉に点火するまでの行動が淡々と記されたガソリンの給油伝票7枚が車中に散らばっていた。「午後4時半、車の中に妻を待たせている」「午後8時、妻とともに家を出る」。車で兄弟宅や思い出の場所を回って焼却炉にたどり着いた。「妻は一言も言わず待っている」「炭、薪で荼毘(だび)の準備をする」「午前0時45分をもって点火する。さようなら」。車からクラシック音楽を流しながら一緒に焼却炉に入った2人は同日午後、見つかった。




漫画『銃夢』第7巻p.73 漫画『銃夢』第7巻p.73を含むブックマーク

Somewhere he must find  どこかで彼は

A better reason than I   僕より上等の理由を探さなくてはならない

サイボーグになれば、生きる苦痛も死の苦痛も、ちがった形に…



*1:立ち読みなのでうろ覚え

*2:【詳細】、【動画

*3:何度も語っていることではあるけど、どうしてもここから離れられない。 【参照:「想定された意志へのコスト?」】

2005-11-12  経済行為

ueyamakzk2005-11-12

今日のエントリーも、全体で一つです。


ビッグイシュー』編集部訪問 『ビッグイシュー』編集部訪問を含むブックマーク

11月11日、梅田にある編集部にお邪魔し*1、代表の佐野章二さんと13時半〜20時半(!)、ずっとお話させていただきました(企画に関して)。 「中間集団」についての歴史的な話や、雑誌立ち上げ時のエピソードなども聞けて(道交法に関する警察との交渉など)、とにかく興味深かった。

2005年9月11日は、「9.11」四周年、衆議院選挙とともに、『ビッグイシュー日本版』創刊2周年の日だった。



雑誌の背景いくつか 雑誌の背景いくつかを含むブックマーク

佐野さんによると、『ビッグイシュー』立ち上げ時には相談したすべての人に「失敗するからやめとけ」と言われたという。

理由は主に3つ。

  1. 無料の冊子(フリーペーパー)が当たり前の時代なのに、有料
  2. 街頭での立ち売りしかしない
  3. 販売人がホームレスだけ

一時は8万部ほどになった実売部数が今は3〜4万部になり、赤字も出ているらしいが、上記3つの「理由」は実はプラスにも機能しているという。

  • 【データ】
    • 『ビッグイシュー』は毎月1日・15日発売。販売人は1冊90円で冊子を仕入れ、200円で販売する(110円が販売人の実収入)。
    • 販売人は、全部で120人(京阪神60、東京50、仙台10)。
    • ホームレス全体の平均年齢は56歳だが、販売人では50歳。


「購買者の4分の1が20代の女性」 「購買者の4分の1が20代の女性」を含むブックマーク

頂いたパンフレットにあった情報より。

  • 男女別購買層比較 【購買層ランキング順】
    • 20代女性 26% ▽30代女性 13% ▽20代男性、40代女性、50代女性 11% ▽50代男性、30代男性 8% ▽40代男性 6% ▽60代女性、60代男性 3% ▽10代女性 2% ▽10代男性 0・2%
  • 購買者男女比
    • 女性 64%、男性 36%
  • 購買者年代比
    • ▽10代 2% ▽20代 37% ▽30代 21% ▽40代 17% ▽50代 19% ▽60代 5%

ここから見えてくるものは・・・?



アルミ缶350個 = 1kg = 100円 アルミ缶350個 = 1kg = 100円を含むブックマーク

ホームレス状態にある人は、真夜中にアルミ缶を集めて仕事をし、昼間は寝ている(だから近隣住民から「仕事をしないで寝てばかりいる」などと言われる)。 ところでその「アルミ缶集め」だが、1kg集めて100円の収入になる。 「アルミ缶1kg」とは何個分か。――350個だそうだ。 ▼『ビッグイシュー』は1冊売れると110円の収入になる。僕は以前大阪で買ったとき、ためらいつつ「がんばってください」と言ったら*2僕の親と言ってもおかしくないほどの年齢の方が「ありがとうございます!」と、信じがたいほどの最高の笑顔で最敬礼してくださって、ものを買ってあんなメチャクチャな感謝をされたの初めてで、歩きながら少し泣いてしまったんだが(思い出してもヤバイ)、あのかたにしてみれば、「アルミ缶350個分以上の経済行為をした」「建設的に社会につながった」という充実感もあったのではないか(勝手な想像)。▼コンビニで200円を払ってもヴァーチャルな感じしかないが、『ビッグイシュー』を買うのに100円玉2個を手渡すと、本当に「経済的な交換行為をしているのだ!」という生々しい実感がある。

    • 「アルミ缶350個=100円」のお話を聞いた後、本屋(旭屋本店)に入ったんだけど、自分の金銭感覚がまるで違っていた…。


行動規範 行動規範を含むブックマーク

『ビッグイシュー』には、「行動規範」の一つとして次のように書かれている。

  • ビッグイシューのIDカード*3をつけて『ビッグイシュー』の販売中に、金品などの無心をしません。

たとえば、次のようなことがあったらしい。

お金のありそうな男性が1冊(200円)を購入しようとしたが、お札と500円玉しかなく、販売員もちょうど100円玉を切らせていた。 男性は500円玉を一つ渡し、

男性:「お釣りはええわ、取っといて」

販売員:「いえ、そういうわけにはいきません」

男性:「ほな、2冊もらおか」

販売員:「いや、それでも100円多くもらうことになります。今日は、販売を控えさせていただきます。ほんまにすみません」

    • 【追記(14日午後2時前)】: 事実誤認でした(『ビッグイシュー日本版』代表の佐野章二さんからメールをいただきました)。▼「今日は販売をやめます」ではなく、500円で3冊目を渡したそうです。▼100円少ないけど、「お知り合いの方に差し上げてください」と申し上げることで、積極的な意味を目指した、と。



目標(自立への階段) 目標(自立への階段)を含むブックマーク

以前、生田武志さんの「カフカの階段」を紹介したが、『ビッグイシュー』では「自立への階段」として以下の3ステップを目標にしている。

  • 路上からの脱出
    • ドヤ(簡易宿泊所)では二畳なら一泊600円から、三畳なら1000円からある。1冊で110円の収入になるから、1日30冊ほど売れれば食事代込みで少しお釣りがくる。
  • 住所を持つ
    • 毎日の稼ぎから少しずつ貯金をして、自分でアパートを借りる。【ただし、敷金礼金だけで大金だし、「保証人」という鬼門がある。また、「前の住所がなければ新しく賃貸住宅に入れない」という問題も。】
  • 生活保護申請・職探し・就職
    • 住所ができた段階で、ハローワークに通う、など。【住所がなければそもそも生活保護を受けられないし、就職もできない。】

販売員は「登録」であって、「雇用」されているわけではない。▼登録時に10冊を無料で受け取り、完売すると2000円の収入になる。これを元手に次からは1冊90円で「仕入れ」てもらい、1冊200円で売ってもらう(都合110円の儲け)。



パンフより パンフよりを含むブックマーク

雑誌の理念を説明する文章に次のような一節が。

ホームレスと若者に共通性? それは、ともに仕事がないこと。大卒者の就職率は55・8%(2004年)、しかも3年後に30%が離職しています。若者にとっての仕事は、具体的な社会参加の機会でもあります。若者に社会参加の機会を与えられない社会に未来はあるのでしょうか。しなやかな社会、敗者が復活しやすい社会の創造に貢献したいと思います。

おお、あのモチーフが!



「ホームレス対策予算:31億9700万円「ホームレス対策予算:31億9700万円」を含むブックマーク

これを予算案として細かに検討する能力は僕にはないけど、「脱落しても復帰しやすいような規範やインフラの整備をする」ほうが、「脱落して復帰不可能な人に援助する」というよりも長期的には経済効率がいいのではないか。



しかし。 しかし。を含むブックマーク

「雇用・能力開発機構」の信じがたい実態については以前取り上げたが、今回『ビッグイシュー』訪問であらためてハラワタがどうにかなりそうだったので再録。

「私のしごと館」の不思議】より。

独立行政法人「雇用・能力開発機構」が、おもに

中学、高校生の職業意識向上のために建設した「私のしごと館」の

昨年度収入が1億1000万円にとどまる一方、

同館に常駐している機構職員27人の年間給与だけで

2億4000万円かかっていたことが分かった。

全体の維持管理費は収入の20倍の約21億円に達し、

差額は民間企業が支払う雇用保険料で穴埋めされるそうです。

「私のしごと館」は、様々な仕事の内容を子どもたちに知ってもらうための

施設として、1993年に建設が決まり、土地代を含め、費用は約580億円かかっています。

支出面では、同機構から派遣されている職員27人の給与

計2億4726万円で、1人当たりの平均年収は915万円に上り

民間企業からの出向職員や臨時職員分も含めると人件費は6億円を超え、

(#゚д゚) ・・・・・・・・。

アルミ缶何個分だ。

「私の仕事館」じゃなくて、「私達(同機構職員)」の為の仕事館だというのが、ばれちゃいました。*4

それでも、「ないよりはあったほうがいい」のだろうか。

実際に制度などをいじるには、こういう既得権益の中にもぐりこまなければ無理なんだろうか。

    • 機構職員27人の雇用先(存在価値疑問)を創出するために「580億円+毎年20億円」が承認されたということ。 ホームレス2万5000人の支援対策費は、毎年31億9700万円。


*1:『論点ひきこもり』スタッフの井出草平さんも同行しました

*2:イヤな言い方だ

*3:販売員は、必ず首からこのカード・タグを提げている。▼ちなみに、バック・ナンバーも携行している。

*4:『Day by day』より

2005-11-11  常態としてのコンフリクト

岸政彦さん:「社会に関する初歩の初歩岸政彦さん:「社会に関する初歩の初歩」を含むブックマーク

科学者たちのミクロな実践を科学という社会現象と同一視してしまえば、「初歩的な数学や物理学もわからん文系の連中が何を偉そうに」という反発を食らうのは当然なのだが、他方で理系の人が社会についてものすごく素朴なイメージをもって語っているのをみると、からかいたくもなる。どちらも不毛だ。

「科学のミクロな実践」と、「社会現象としての科学」とを分けて考えること。

これは見れていなかった。

下の方で書いた、日本摂食障害学会のシンポジウムは、まあ頭から否定・批判するつもりもないけど、いろいろ勉強になった。シンポジウムのテーマは、いやひょっとしたら学会そのもののテーマも、医学にはできないこともあるから、心理やソーシャルワーカーや行政や親や、そして当事者たちが、ゆるやかなネットワークを作ってこの問題に立ち向かっていきましょう、そういうものだったはずなんだが、当事者に発言の機会を設けたまではよかったが、そこで医者への反発が出るとは計算外だったようだ。ネットワークは必ずコンフリクト*1を含む。社会に関するこうした初歩の初歩を、どうもまったく予測していなかったみたいだ。結果としてどうだったかというと、あっという間にそこは非常にソフトで柔らかくて温かい抑圧空間に変わってしまって、大人しい当事者、協力的な当事者、発言しない当事者、治療のことだけを考える当事者、ココロとカラダ以外のことに興味を持たない当事者だけが、受容され歓迎され評価されていた。

なるほど…。 【関連:「トラブルのない仕事はない」】


科学、この場合は医学だけど、科学という名のもとにソフトで抑圧的な空間が形成され維持されたり、あるいは逆に、当事者の立場をよく理解するお医者さんもいたりして、誰がどの立場から行動し語るか、結果的にその「場」がどのように構築されていくか、この社会的ゲームに巻き込まれたプレイヤーたちは、各々の手札や資本を駆使してどうやってポイントを勝ち取っていくか、そこから排除された者たちはどのように抵抗していくのか、ゲームを支配する者たちは、どのようにして自らの地位を維持していくのか。

  • ≪当事者=プレイヤー≫
    • 「当事者意識を持て!」と言うときのニュアンス。「お前もすでに巻き込まれているんだぞ!」 ▼「巻き込まれ方」の創意工夫。



ひきこもりは精神障害という誤解が根強い「ひきこもりは精神障害という誤解が根強い」を含むブックマーク

精神障害から連想されることを選ぶ質問では、「ストレス」(77・0%)が1位だったが▽「ひきこもり者」(58・7%、4位)▽「事件や事故」(53・1%、5位)▽「虐待や暴力」(51・9%、6位)も上位に入った。

すでに何度か論じてきたことだが、重要なので繰り返しておく。

上記記事の引用者である井出さんは「ひきこもりは精神障害ではないのだから、誤解を解く啓蒙活動が必要だ」と言っていて、これはたしかにその通りなのだけど、これは同時に「精神障害じゃないんだったら、働けよ」という動きをも生む。【ドキュメンタリー番組に出演していた長田百合子氏の口癖が「不登校・ひきこもりは病気じゃない! 甘ったれるな!」だったことに注意。】 ▼医学的には「病気ではない」という診断になるにもかかわらず、現実的には「障害を抱えた状態」であるというジレンマ。▼社会的に≪病気とみなされる≫ことには、「治療の対象となる」という(稲村博-東京シューレ的な)意味と、「休むことが許される」という(義務解除的な)意味と、両方がある。

国民の6割近くもが精神障害との関連で見ているということは、引きこもりを社会保障の対象として検討し得るということだろうか。――ちがうと思う(世論としても財源としても)。

  • 現実的には、「ひきこもり」特有の障害(不能状態)に対する独特の「訓練プログラム」を創出する必要があるのかもしれない。▼不況下で社会保障費が膨張している中、数十万人規模の予備軍を受容することは不可能なはずだ。「家族」という最後のセーフティーネットが崩れたとき、ひきこもりは「ストリート化」するのではないか。
    • ホームレスは現在「約2万5000人」というのだが、数十万人の「自立困難者」がその予備軍となっている。



岸政彦さん:「会話のきっかけレシピ展」について 岸政彦さん:「会話のきっかけレシピ展」についてを含むブックマーク

まあ確かに会話って苦痛だよな、確かに。それが極端になるとひきこもりとかになっていくんだろうか。

俺はしたくない会話は、無理してしないなあ。無言はさすがに気まずいので、見え透いた嘘をついてその場を離れるかな。いや、堂々と「じゃ、私はこれで。」と言ってすたすたとその場を離れるかな。美容院や床屋で話すのはぜんぜん苦痛じゃない。タクシーの運転手さんともよく喋るし。学生さんともよく喋る。隣近所の人とか、仲良いし。あれ、別に苦痛じゃないわ。

(笑)。

その極意って、方法化して伝授することって不可能なんかなぁ。

斎藤環さんが、「雑談の達人とは、意味のないことを話し続けられる人だ」って言ってたけど。なんかもう少し違うニュアンスがある気がする。

きわどい波乗りのような「雑談サーフ」時は、既存の常識とか規範とかをどこまでいじくっていいのかとか、自分の固執でどこまで暴走していいのかがわからん…。問題そのものに即して一所懸命 話してればいい、というわけでもないし。相手を楽しませるのが優先で、自分が率先して自発的に楽しむ感じでもない。――逆に言うと、暴走していい相手との会話は何を話してても楽しいし、それは「雑談」だとは思ってない。そういう相手とは逆に何も話さなくていい。

    • 岸さんは、「徹底的にやり合わないのはおかしい」「コンフリクトが起きるのが当然」という姿勢で人間関係を持っておられる。ここが決定的なのではないか。▼雑談は明らかに「トラブル抑圧的」で、だからこそ要請されている…。



*1:「conflict」:衝突、闘争、葛藤

2005-11-10  「他者のリベラリズム」と、「開かれた場所としての当事者」

内藤朝雄氏とのメールのやり取りの一部を、許可を得てここに転載する。*1

 わたしは「当事者主義」ではなく「他者のリベラリズム」の立場をとっています。

という内藤氏からのメッセージに対し、私はこちらのエントリーを提出した。

それへのお返事より。



内藤 → 上山 (11月9日) 内藤 → 上山 (11月9日)を含むブックマーク

上山和樹さま


拝見いたしました。

わたしは議論になると同じ点よりも、違う点に興味が集中するタイプなので、まず、

9割方賛成と前振りをして、おもむろに楽しい方をはじめます。


わたしは不平等を、さまざまな個別の領域ごとに、許容できる範囲内のものと、許容

できないものとに分ける必要があると思います。

言論のアリーナでの論理的思考能力に起因する不平等は、保持しなければならないと

思います。

論理的な矛盾を突くとか、統計データを示してでたらめな憎悪キャンペーンを論駁す

るとかいった、言論のアリーナは、

論理的に矛盾だらけの言明をする人や、統計を無視して自分の体験だけで世の中全般

を呪うタイプの「当事者」には、不利になるべきなのです。

それを保持しないと文化大革命のつるしあげのようになります。

文化大革命的アリーナでは、罵倒と断片論理をデザインするのに長けた最悪の策士が

生き残ります。

わたしがブログで常野氏に示してしまったかもしれない嫌悪感は、そういうところに

あります。

コミュニケーション・メディアが「真理」であるというルールを取っ払って、「当事

者」らしさのムードであるということにすると、

「ニセひき=ニセ当事者=ニセプロレタリアプチブルインテリ反動」といった憎悪を

効果的に組織する者が勝つのです。


それから他者の海は、単数ではなく、複数で考えればよいと思います。他者の海は言

論のアリーナがすべてではありません。

海が一つしかなければおぼれますが、複数あれば別のコミュニケーション・メディア

でぷかぷか浮いているでしょう。


内藤朝雄





上山 → 内藤 (11月10日)*2 上山 → 内藤 (11月10日)*2を含むブックマーク

内藤朝雄様


『Freezing Point』の上山和樹です。

お忙しい中、お返事ありがとうございます。


わたしは議論になると同じ点よりも、違う点に興味が集中するタイプなので、まず、9割方賛成と前振りをして、おもむろに楽しい方をはじめます。

私はこれまで、仕事や発言を「否定」されることは多くても、傾聴に値すると思える真摯な「批判」にはなかなか出会えずにいたので、内藤さんのご指摘は、うれしい限りです。 とりわけまず次の箇所を引用します。

コミュニケーション・メディアが「真理」であるというルールを取っ払って、「当事者」らしさのムードであるということにすると、「ニセひき=ニセ当事者=ニセプロレタリアプチブルインテリ反動」といった憎悪を効果的に組織する者が勝つのです。

まったくです。

実を言うと、いわゆる「当事者たち」に「当事者風」を吹かされることでいちばん困惑、というか迷惑していたのも、私だったのでした。この点については、私は内藤さんと嫌悪感を共有しているように思います。▼この辺は、私自身が「当事者(経験者)」を名乗っていることもあり、泥沼のようなどうしようもなさがあります。


コミュニケーション・メディアは「ムード(雰囲気)」ではなく「真理」であるべきだ、という言い方に感銘を受けました。 ≪真理というコミュニケーション・メディア≫。

そう、お互いに真理をまさぐろうと試行錯誤すること、そこにコミュニケーションの掛け金があること。「勝敗」ではなく、「双方が真理を目指している」こと。完全にオープンな場所で為される、「議論」という共同事業。▼「真理を目指した共同事業」ではなく、「無条件に俺の言い分を聞け!」あるいはそのコインの裏側である、完全な黙殺――では、どうしようもない。「俺の言い分を聞け!」というエゴイズムの口実として「俺は当事者だ!」と言われては、こちらの合理的な反論は非合理に弾圧されるばかりで、議論のしようがない。「公正なジャッジのもとにおける議論と交渉」が、粘り強く試される必要があると思います。【それが不可能であるなら、「棲み分け」を模索するしかないと思います。】


論理的な矛盾を突くとか、統計データを示してでたらめな憎悪キャンペーンを論駁するとかいった、言論のアリーナは、論理的に矛盾だらけの言明をする人や、統計を無視して自分の体験だけで世の中全般を呪うタイプの「当事者」には、不利になるべきなのです。

まったくその通りです。

「私は当事者だ」「私はあなたより不幸だ」という主観的印象論――あるいは仮に「本当に」より不幸であるとしても――を免罪符に、論理的に矛盾しまくったことを言われる理不尽さ。絶対に認められません(私も何度も激怒してきました)。 ▼私が経験した自己矛盾は、たとえば次のようなものです。 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050205#p1 【全部が「“当事者”による自己矛盾」というわけではありませんが。】


それを保持しないと文化大革命のつるしあげのようになります。文化大革命的アリーナでは、罵倒と断片論理をデザインするのに長けた最悪の策士が生き残ります。わたしがブログで常野氏に示してしまったかもしれない嫌悪感は、そういうところにあります。

これもほぼ同意です。

最近の常野氏自身はまだ揺れているようですが…、内藤さんと議論していたころの常野氏において、倫理性を問い詰める最終審級が《当事者》にあったとすれば、それは「属性としてのポジション(当事者であること)」と、検証されるべき「表明された見解内容そのもの」とを混同しています(「存在」と「内容」のショート)。【このあたりについては、ぜひ『こころの科学 (2005年 9月号) 123号 ひきこもり』に掲載された拙稿をご参照いただきたいです。よければ、ぜひコピーして送らせていただきます。】


不登校に関する歴史的な文脈上、「東京シューレ」あるいはフリースクールという集まりが果たした社会的機能があり、そこで「当事者」という《存在》が一定の機能を果たしたとしても、それが現在以降にどのように機能するかは新たに検証しなければならないし、現時点におけるシューレが、「存在としての当事者」を口実に「言葉としての当事者(貴戸さん)」を弾圧しているとしたら、これはそれそのものとして、「運動体」が孕み得る暴力として、指摘しなければならない。(その際、指摘主体が「不登校当事者」である必要はない。)


◆◆◆


――つまり、私が「当事者性」という事情にこだわっているとしても、それは合理性や事実確認といったチェックをクリアした上でのことです。(どんなに深刻な「当事者」であっても、論理破綻があったり、データを無視するようでは話にならない。)


「差別や排除の現実を無視しないためにも、いったんは一定の当事者性をカテゴライズして切り分けるべきである」という戦略上・あるいは保護的ケアの要請をひとまず措くとすれば、「当事者」ということで問われるべきポイントは――とりわけ「不登校」「ひきこもり」のような問題においては――、≪内的不調和≫の体験に存すると思います。


不登校や引きこもりにおいては、当事者の多くは「言葉を失っている」。それは単に「弱い」ということではなくて、何か異様な《不調和》が内的に経験されていて、それが本人の社会行動を不可能に、あるいは非常に困難にしている。→ 「あの異様な《不調和感》とは、何だったのか?」――ここに、「当事者感情」を構成する最も核心的な要素があるかもしれません。「体験した人にしか分からない」という、よく聞かれる呟きは、その異様な内面感覚の「理解されがたさ」において、一部説得的ではある。【ただし「当事者」は一枚岩ではなく、不登校経験者のすべてが内的不調和を問題化するわけではない。】 ▼それに比して、明白な「外的不自由さ」がある場合には、制度的設計に関する議論のみでよいし、そこで《内的不調和》を主題化する必要はない。【しかし、おそらくはこれも内的不調和に連動している。】 ▼最もクリティカルな要因が《内的不調和》にある場合には、その不調和の内実に関する報告なしには、苦痛緩和のための真理追求や、それに基づいた政策実現のための交渉も、難しいのではないか。――「当事者の証言」が必要なのは、そういう局面かもしれません。


すぐに気付くのは、「そのような《内的不調和》をことさらに《尊重すべきもの》として持ち出し権利主張するのは、単なる個人的なエゴイズム、わがままではないのか」ということです。そのように個人的な不調和感に固執している時点でその者の人格には「問題がある」のであり、社会性のなさを物語る、と。


◆◆◆


思うに、ここにはさらに厄介な問題が関わるように思います。私がお話を伺ったあるいじめ被害の経験者は、「納得するためには、加害者の奴らを殺すしかない」と冷静に打ち明けてくれました。そのかたの数年間におよぶ被害体験を聞いているうちに吐き気を催すほどひどい感情に襲われた私は、「殺すしかない」というつぶやきに深く同意していました:「殺すしかない」。 しかし、加害者を殺害することはこの社会では許されない。彼の被害体験は中学・高校時代であり、加害者は少年法に保護され、民事的にも時効であり、いっさいお咎めなしです。加害者連中は当たり前のように成人して「健全な社会人」として暮らしており、いっぽう被害者である彼は、重度のPTSDにより社会生活が送れない。この圧倒的な理不尽感・無力感――これが彼を二次的に、かつ継続的に傷つけている。「あまりに理不尽な状態に居留まる」ことは、その状態自体が傷を再生産する。▼《自分の体験だけで世の中全般を呪うタイプの「当事者」》――たしかにそのように言えると思います。この解消不可能の理不尽感が、「当事者=被害者」の主観を恐ろしく狭隘化し、融通の利かないものにしている。そしてこの要因が、論争を繰り返し阻害すると思うのです。合理的・客観的な反論が、理不尽感を増大することにしかならない。


重要なのは、怒りに狂う“当事者”が論争に参加する際、目の前の論敵は「かつての(あるいは現在進行形の)凶暴な理不尽感を再活性化させる契機(トリガー)」なのではないか、ということです。▼今の私は、たしかに目の前の人物に怒っている。しかしそれは、かつて経験した“あのアレ”の再体験でしかない(だから《現在》の論敵にとっては、「何を過激に怒ってるんだ?」と感じられる)。――精神分析で言う「転移」の問題です。かつての理不尽感の「代理体験」というよりも、その理不尽感が目の前でそのままリアルに再体験されている、そこで導火線に火がつき、激昂している。(釈迦に説法とは思いますが、確認のため説明を続けます。)


「トラウマ」という問題系に悩ましく付きまとうモチーフとして、「被害当事者の《証言》の信用ならなさ」があると思います。虚偽記憶症候群と疑われもする、「被害者の証言が論理的にも物証的にも支離滅裂」という状態のことで、これはダメージを負った人間の証言としては、原理的に避けられないものとなる。【私は、虚偽記憶の可能性を否定するわけではありません。「実際にあったかどうか」を決定する神様のような視点は、生身の人間にはあり得ない…。】


現状において様々な仕方で「当事者」と呼ばれる人のすべてが、犯罪・事故・災害・差別などの被害者と同質・同レベルの「傷」を受けているわけではない。しかし、ここでいう「当事者」というものが、何らかの仕方で社会的脱落・内的不調和・「承認の不在」をこうむり、そのことへの処遇をめぐって激烈な理不尽感に苦しむとすれば、《激怒の再体験》は、容易に人を狂わせ、たった1点に凝集した怒りの狭隘さに全人格を支配されてしまい得るのではないか(論理矛盾や客観データを無視させるほどに)――そういう要因があるのだと思います。(そして繰り返せば、そのようなものを認めるわけにはいかない。) ▼被害当事者の理不尽感(怒り)は、本人の「リアリティ」に基づいているのですが(それが「体験者以外には共有されにくい」とされる)、問題はそれがどの程度「合理性・客観性」――あるいは「公正・正義」――に照らし、社会的な権限を主張し得るか、だと思います。【「当事者である」と認めることは、「全面的にニーズを聞いてあげよう」ということではない。単に1交渉主体として承認するということであり、その限りにおいては「八百屋のにーちゃん」と変わらない。差別と排除において問題になるのは、「交渉主体として認められない」ということ。】


内藤さんのおっしゃる「他者のリベラリズム」は、“当事者”と呼ばれる人々の「理不尽感」を、制度的設計等において――「公正・正義」に基づいて――救済する努力(その方針)だ、と言えるでしょうか。だとしたら、私は内藤さんに全面的に同意できます。厄介なのはそのディテールです。▼社会的救済の対象となるべき理不尽感は、どこまで「個人的」なものであっていいのか。たとえば「不登校」は、それが単に「個人的な選択」でしかないならば、社会的ケアの対象とするべきではなく、当事者の抱く理不尽感や怒りは、社会的には遺棄されざるを得ない――というかそもそも、それは「当事者」としてはカテゴライズされない。あるいは内面的に抱えられた「違和感」は、それ自体としてはやはり「プライベートな経験」として、社会的救済の対象ではないのではないか。


誰かをあるカテゴリーにおいて「当事者」として認定しない、とは、「お前の抱えている理不尽感には傾聴に値するような情報がない」という政治的判断なのだと思います。一般の他者尊重のスタイル――傾聴の技法――だけで、お前の話はじゅうぶんに聞けるのだよ、と。


貴戸理恵さんから、面白い話を聞きました。「べてるの家」に行ったそうなのですが、そこから得た着想なのか、「一人ひとりが、個別の《自己病名》をつけてみる」、という試みです。「不登校の当事者」というと、これは大文字の《不登校》という問題設定に当事者性を収奪され、もって逆規定として自分は「不登校当事者である」という権限を手に入れるのですが、貴戸さんが言うのは、「大文字の当事者性とは離れたところで、自分ひとりだけの当事者性を(自分で)問題にする」という姿勢なのだと思います。――ここにこそ、内藤さん的な「他者のリベラリズム」との接点があり得るのではないか。大文字の「○○の当事者」という言い方は、さし当たっての政治的運動と、あとはそれに関連する鏡像的自己確認において一時的な安堵が手に入れられればいい。それである程度の居場所を確保した後は、《自己病名》における単独的・個別的な当事者性を生きればよく、そこには「○○当事者だから」という括りは必要ない(つまり精神分析でいう「自己分析」の手法です)。各人は、そういう完全に孤立した「単独的な当事者性」を生きると同時に、孤立状態では解消不可能の理不尽感について、ほかの他者たちに呼びかける。でき得れば、共同作業においてその理不尽感の解消に努める(たまさかにはその理不尽感を共有できる相手もいるかもしれない)…。


「他者のリベラリズム」も、「当事者主義」も、それぞれの仕方で《理不尽感》と闘っているのだと思うのです。ただその場合、「当事者である」ことのみで権限主張が越権的に増長したり、逆に当事者的特権化が機能しないために、「君の理不尽感は傾聴に値しない」と切り捨てられたりする。▼よって問題は、各人が「自分の理不尽感」を単独的に問題化し、そこから「私たちが共有的に問題化すべき理不尽感は何だろう」と呼びかけること、これではないでしょうか(そのためのツールとしての「真理」観であり、「合理・客観」観なのではないか)。


このように見ることは不可能でしょうか。つまり、《当事者主義》のうち、「自分自身を他者と見ることのできる当事者主義」と、「自己の他者性を抹消し、もって他者の他者性をも抹消する当事者主義」と。▼悪しき当事者主義(後者)においては、他者の他者性は抹消され、無条件的な自己肯定が他者に押し付けられ、権限濫用の思考停止が蔓延しますが、自分自身をも他者と見る当事者主義(前者)においては、《当事者》(自分を含む)とは、ものを考えるための開かれた場所、のようなものだと思います。 その場が確保されているからこそ、問いが深化され、自他の共存の問題が考え抜かれる。それは無条件的な受容の対象ではなく、自他が立ち止まってものを考える《場所》である。【語っている本人が「当事者である」ことが社会的機能を持つとしたら、それは全面的受容の対象としてではなく、《ものを考えるための場所》としてではないか。それは「一緒に考える」ということであり、「言っていることを無批判に聞け」ということではない。▼当事者以外が発言しているときには、考察すべき《場所》は発言者とは別のところにある。】 ▼こう考えれば、「他者のリベラリズム」と、「当事者のリベラリズム」は、踵を接する、というよりは表裏一体のように思うのですが…。そのために喫緊に重要なのは、「当事者の作法」を考案し、設定することのように思います。【暫定的に言えば、「当事者批評」という言葉で私が考えていたのは、このようなことでした。当事者自身の言動が、批評の対象となる必要がある。】


◆◆◆


わたしは不平等を、さまざまな個別の領域ごとに、許容できる範囲内のものと、許容できないものとに分ける必要があると思います。

なるほど。

言論のアリーナでの論理的思考能力に起因する不平等は、保持しなければならないと思います。

仮に論理的思考能力の低い人が参入するとしても、「能力が低いから間違ったことを言っていい」ではない。真理は真理として探究すべきで、間違った言説を甘やかすべきではない。――という意味であれば、全面的に賛成です。

難しいのは、「真理」のレイヤー(層)がちがう場合ではないか、とは思うのですが(すれ違いの多くはここで起こっている気もします)。たとえば最近ですと、『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を出した杉田俊介さんが稲葉振一郎さんに「激怒」したのですが、どうもそこには、「政治哲学」について抽象的真理を追究している稲葉さんと、「介護の現場」で呻吟する杉田さんで、「真理のレイヤー」が違っている気がしたのですが…。【これはまったく暫定的な意見です。】


それから他者の海は、単数ではなく、複数で考えればよいと思います。他者の海は言論のアリーナがすべてではありません。海が一つしかなければおぼれますが、複数あれば別のコミュニケーション・メディアでぷかぷか浮いているでしょう。

それはそうなのですが、やはり決定的には、「経済的なコミュニケーション」の唯一性においてなんとか生き延びないと、ほかの海で浮いていても、けっきょくは溺れてしまうのではないか、ということです…。【私が地域通貨に興味を寄せ、実際にこれを試みたのは、「経済のアリーナを複数にする」という目論見ゆえでした。】


【以下、私的なメッセージゆえ略】


上山和樹



内藤 → 上山 (11月11日) 内藤 → 上山 (11月11日)を含むブックマーク

上山様


上山さん。こんにちは。今、追いつめられていて、よく練った長い文章をかけないこ

とをお許しください。走り書きになります。


上山さんの文章を読んで、こんなふうに「当事者」概念を鍛え上げることができるも

のだと、敬意を覚えました。

実をいえば、上野千鶴子氏の「当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))」のくだらなさと水準の低さに辟易し、 い

ろいろ下劣な人たちにつき合わされて、「当事者」という切り口をはなから馬鹿にし

ていたところがあります。

でも上山さんの「当事者」倫理学は、深みがあり、他の論者に比べて比較的整合的

で、さらに高貴ですらあります。

このようなすばらしい考えに出会えたことを感謝しています。


何とでも言えるがゆえに無意味な「ニーズをもつ」うんぬんでもなく、文化大革命風

のゴロツキが因縁をつけてすごむスキルでもなく、「内的不調和の刻印」を原理的基

底とした当事者概念は、狭くて深いある一定の守備範囲をみごとに描き出すものであ

ると確信します。


これは倫理の書として出版すべきであると思われます。わたしは、わがことよりもさ

きに上山さんの倫理学を世に出すべきことをアピールしたいと思います。


わたし自信もこの「内的不調和」に苦しんで生きてきましたし、上山さんが挙げるい

じめ被害者の話しは、対象が違うだけで同じ体験をしてきたといってもまちがいあり

ません(わたしは生徒同士のいじめの被害者ではありませんが、「納得するために

は、父親を殺すしかない」というリアリティを深いところで生きてきました。最近

やっと薄れてきましたが……)。


ただし、倫理の水準と、公的な領域での正当性の争いの判定基準の問題は、まったく

べつです。

でもそれも上山さんがすでに指摘なさっていることですから、着目して声を大にして

文章にして発信したい強調点の違いに過ぎないような気がします。


上山さんの内的不調和に着目した当事者への着目と、わたしの他者のリベラリズムへ

の着目は、裏表で貼り合わせるべきものだと思います。


〈他者〉性に着目し、それが倫理の方向に展開すれば上山さんの当事者論になるし、

それがリベラリズムの方向に展開すればわたしの他者のリベラリズム論になるのだと

思います。


杉田俊介氏が稲葉振一郎氏にかみつくのは、悪しき当事者主義の例のように思いま

す。あの憎み方と攻撃のしかたはいけません。倫理的には杉田氏は稲葉氏に「すくな

くとも」無関心であるべきです。つまり砂場で遊んでいる池田小学校の児童をナイフ

で刺してはいけない、ということです。わたしは「たまたま」恵まれない「内的不調

和」の徒ですが、恵まれた子どもが恵まれない子どもと無縁に無邪気に遊んでいるの

もまた美しいと思います。恵まれない者も恵まれた者を、きちんと〈他者〉として遇

するべきです。


ここで、特定の倫理的スタイルが、そのまま公的な正しさをめぐる非難の基準になっ

てはならない、というリベラリズムの基本が生きてきます。もちろん、もとより公的

な正しさの基準で稲葉氏を非難しているのではなく、怒りをぶつけているのだとすれ

ば、さらにそれは下種な「内的不調和者」の呪いになってしまいます。それは「内的

不調和」の徒の最悪の姿です。呪いは真理ともっともかけ離れた行為です。


わたしがアメリカ・スタイルではなく欧州スタイルにこだわり、脱ア入欧を叫ぶの

は、まさに経済の領域という柱でささえないと、多元的な他者の海を維持できないか

らです。上山さんが地域通貨に興味を寄せるのと、わたしが欧州スタイルに興味を寄

せるのは、同じ動機に基づいているのですね。


上山さんと出会えたことをこころからうれしく思います。これからもよろしくお願い

いたします。


実はわたしも、このやりとりをブログに載せようと思っていました。上山さんの方で

も、どうぞよろしく公表なさってください。


内藤朝雄




掲載についてのやり取り*3 (11月12日) 掲載についてのやり取り*3 (11月12日)を含むブックマーク

上山より。

10日までのやり取りについて、一部を転載しました。

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20051110

【昨日いただいたお返事もぜひ掲載したかったのですが、内藤さん

の私的な情報もございましたし、これについては掲載許可を頂いて

おりませんでしたので、控えました。】

お返事↓

内藤です。私的な事情に関してですが、心的現実としてはすでに殺害しており、 物

理的に実行することは(タイムマシンが発明されて内藤某50代と出くわすことがな

い限りは)100パーセントありえませんので、載せてもかまいません。仮にタイム

マシンが発明されても今のわたしなら殺さないでしょうね。それよりも、これからど

うやって楽しく生きていこうか考えているところです。1945年の焼け跡の希望み

たいな、というか、なんだか単身船から上陸する二十歳の移民の若者のような気分で

す……


「共同体の常連」←→「移民」 【確かに僕も、「入っていけない」人間の一人だと言える。】

阪神大震災時の原体験のような記憶を両義的に生きることはできないか。

異常時にのみ出現する、異様に自由な互助関係。(それは「コミュニティ」と言えるか?)

「災害を肯定する」というのとはまったく別の、ヒントをまさぐるような視線。



*1:内藤氏のメールは、改行部分まで含め原文のまま。 私からのメールはブログ・エントリー用に体裁を変えたが、文章はそのまま。

*2:このメールに対し、11日に再度お返事を頂いた(掲載許可とともに)。▼当エントリーは、12日の朝に行なっている。

*3:一部

2005-11-08  「非合理な飛躍」 と 「合理性の連鎖」

いくつかの要因がつながったので、途中経過としてメモしておく。*1

今日のエントリーは全体でひとつ。



≪「当事者主義」から「他者のリベラリズム」へ≫ ≪「当事者主義」から「他者のリベラリズム」へ≫を含むブックマーク

メールによる内藤朝雄氏(id:suuuuhi)のご指摘から、「他者のリベラリズム」というテーマを得る(ありがとうございます)。 あらためて氏のブログを見直してみると、以下のような記述が

わたしが関わってきたいじめ問題で例を出せば、いじめの被害者は、「みんながもっとおたがいとこころの距離を縮めておもいやりを持つようになればいじめはなくなる」と絶唱することがある。わたしは「ちがう」と言い放つ。被害者がそういう信念をもつことと、わたしが「ちがう」と言うことはまったく矛盾しない。両方ともそれぞれの主導性(個人がその人生において自己をその発動の中心点として自己の信念を生きる権利)が確保されていればよいのである。戦争で肉親を失った被害者の組織である遺族会が、当の戦争を引き起こした戦前の日本の体質を擁護・復活しようとするメッセージを発する組織であったことを考えてみよう。当事者崇拝をしていたら、右翼勢力の思うつぼである。大切なことは、遺族の主導性(個人がその人生において自己をその発動の中心点として自己の信念を生きる権利)を確保しつつ、さまざまな異なる他者の意見がぶつかりあえる、リベラルな言説のアリーナを確保することである。このあたりの、当事者主義から他者のリベラリズムへという論理は、このブログに載せた『不登校は終わらない』への書評論文を参照されたい。

読んでいたはずなのに、問題の構造が見えていなかった。


当該書評を探してみると、次の文章が見つかった。

内藤朝雄:「不当な労働分配構造こそ不登校問題に関し非難されるべき」(貴戸理恵著『不登校は終わらない』への書評)*2

 著者は、フリースクールと親の会のツテにより、15人の不登校経験者にインタビューを行った。この事例集がすばらしい。彼らは特殊なツテで接触した人々であるにもかかわらず、じつに多彩である。

 彼らは、不登校をめぐるさまざまな不利益に加えて、「不登校を語ることを通して自己を語れ」という「物語を紡がせる強迫」に巻き込まれる。実際には当の本人にもよくわからないことが多い。さまざまな非当事者とのコミュニケーションにおいて、「再び学校に行けるように治療されるべき病者である」とか、「不登校を明るく選択した」といった自己物語を生きるよう促される。そしてしばしば「語らされた」物語とのズレに苦しむ

 自己を物語る要求に対して役を演じ分ける人もいる。ある不登校者は、シンポジウムや著作では、苦しんでいる他の不登校者のために「明るい選択」の物語を語る。しかし、私生活用の自己物語としては「ほんとかよ」と違和を感じる。著者は、東京シューレ的なフリースクールを「『選択』の物語の解釈共同体」と呼んでいる。

 著者によれば「選択」の物語には、不登校による不利益をその「選択の結果」として個人的に引き受けざるをえなくさせる効果がある。

 筆者は「当事者学」の立場をとる。非当事者による距離のある分析や代表・代弁ではなく、「『〈当事者〉にとっての不登校』を明らかにすること」が本書の目的であるとする。〈当事者〉の立場から現在の不登校政策を批判し、今後を展望」しようとする。

 批判的な検討に入る前に、この本は読むに値すると断言しておく。紙幅の半分近くを占めるインタビューがあまりにもすばらしいのである。本書はインタビューが売りの本であり、その輝きはいかなる批判に対しても色あせない。

 以下、疑問点を述べる。

 筆者は15人の量的分布を根拠にして、不登校者は一般に○○の傾向があるほど○○であるといった学説や、不登校者の類型論を提出する。しかし量的研究の観点からは15人は代表性に欠けるし、人数も少なすぎる。類型を立てるにしても、例示による仮説構成的な研究になるはずだ。

 著者に限らず多くの自己決定批判論者は、選択肢構造が正当なものと不当なものを一緒くたにして、「選択の物語」の限界を批判する傾向がある。不当な選択肢構造に対する批判になるべきところが、「選択」や「自由」や「自己決定」の物語に対するシニカルな批判になってしまいがちである。もちろん選択肢構造が不当な場合は、緊急避難的な選択の自由はあるが、その結果の不利益を背負う責任はない(たとえば、ピストルを突きつけられてカネを出すか撃たれるか「自由に選択しろ」と脅された場合、選択の自由はあっても結果に対する責任はない)。この重要ポイントを看過して、もっぱら「選択の物語」によって個人が責任を背負わされると強調すると、個人の自己決定権そのものをシニカルに掘り崩しつつ、不当な選択肢構造を強いる仕組みから目を逸らしてしまいかねない。このことは本書のみならず、近ごろよく言われている「自由な選択の限界」論の多くにあてはまる。不登校問題に関して非難されるべきは、業務内容と関係がない場合であっても学歴がないと不利になる、不当な労働分配構造である(ほとんどの職業においては、学校カリキュラムと業務内容にたいした関係はない)。

 当事者主義は、多様な立場の他者たちが多様なパースペクティヴによって当事者の像を切り取る語りを批判し、当事者による語りを特権化する。「当事者『として』語ろう」「当事者『の立場(あるいは視点)から』語らなければ意味がない」といった物語は、「あなたは選択した」「あなたは病気だ」という物語と同様、強迫的でありうる。本書の最後で筆者は、「当事者の立場から」を錦の御旗として、「地域共同体を制度的に復元することが急務」といった特定の政策提言を、当事者一般のニーズを代表・代弁するものとして打ち出している。当事者主義は、他人の代表・代弁を批判しながら、自分は代表・代弁するといった恣意的な線引き gerrymandering*3 の手段となっている。

 それよりは、本書で批判された矢島正見のような、「様々にありうる他者の視点のうち、私はあなたには縁遠いかもしれない社会学研究者の視点で像を切り取りますが、インタビューさせていただけませんか」*4といったやり方の方がよい。当事者主義よりも、他者性を前提としたリベラルな多元的パースペクティヴ(の交錯)主義の方がよい。

 多彩なパースペクティヴが散乱する他者の海のなかで、各人は自己を試行錯誤し、生に馴染む旅を続ける。この進化の条件がリベラルである必要がある。問われるべきは、自由な社会の条件だ。


内藤朝雄氏の最新エントリー

考えてみればわたしは「当事者」だった。

http://web.archive.org/web/20011123103054/park.itc.u-tokyo.ac.jp/kiss-sr/~naito/newpage8.htm

でも、

学校制度を問題にする文章をたくさん書いてきたけど、「当事者性」を正当化や重みづけに使ったことは一度もない。

それをやると、大切な作品の完成度が低くなるから。

モノ書く人間としてのプライドが許さないから。

自分がたまたま「当事者」であったことではなくて、作品で勝負している。

自分の仕事についても、「当事者など、知ったことか」。

内藤氏は発話内容においては、「発話している私は当事者である」とは言わない。けれども、その発話行為が成立している理由、その粘り強さを駆動する原動力は、「知性」ではなく、「当事者性」に存していないか。学校制度への当事者としての怒りなしに、あの文体は可能だろうか。

→ 当事者の文体、研究者の文体


当事者であるからといって、傾聴に値する発話内容が作れるわけではない。まったくない。いや、レイヤー(層)を分ける必要がある。フィールドワークの対象となるべき発話内容と、分析や政策提案レベルの発話内容と。

→ 研究動機と研究内容を分けよ。




「戦術的アイデンティティ」(岸政彦氏の指摘より) 「戦術的アイデンティティ」(岸政彦氏の指摘より)を含むブックマーク

当事者性を「降りる/降りない」について。

たしかに従来の民族的アイデンティティが、個を抑圧する機能をもちあわせていたこともまた事実であり、そこからの脱却は重要なことである。しかし、集団的アイデンティティの「必要性」までも否定することはできないはずである。否定されるべきは、必然的(所与的)アイデンティティであり、必要に迫られた「戦術的アイデンティティ」は、むしろ積極的に擁護すべきではないのだろうか。*5

「必然的(所与的)アイデンティティ」は非合理な偶有性(当事者性)であり、「戦術的アイデンティティ」は合理的選択(他者のリベラリズム)。▼ここでは、合理的な選択(戦術策定)の結果、偶有的な当事者性(属性の主張)が選択されている。




長所短所 長所短所を含むブックマーク

  • 【他者のリベラリズム】
    • 「圧倒的な弱者」あるいは「被差別者」は、「多彩なパースペクティヴが散乱する他者の海のなか」で、溺れるしかない。そのような者は、「対話と交渉の相手」としての他者であると同時に、「保護と支援の相手」としての他者である。▼「当事者」という特権性を設定されることでしか居場所と承認を得られない個人は、「多彩なパースペクティヴが散乱するリベラルな言説のアリーナ」の中では、「悲惨の中に放置される」以外ないのではないか。つまり「言説の自由競争」においては、各人の初期条件がちがうために、それは「多彩なパースペクティヴが散乱する」形にならず、「勝者の言説の乱舞する」アリーナにならないか。
  • 【当事者主義】
    • しかし一方、「当事者主義」(偶有的個別性の絶対化)においては、みずからの特殊事情を社会的に尊重することを無条件に求めるのみで、その尊重がほかの他者たちやマクロレベルにおいてどのような影響を生むか、あるいは自分の苦痛を解消するためには自分を尊重させるだけではダメで、他者たちとのバランスにおける総合的なインフラ整備が必要なのだ、といったことにはなかなか思い至らない。そうした観点を導入するためには、やはり「他者のリベラリズム」の姿勢が有益ではないか。(「複数の他者たちが散乱できるアリーナの設計図」の必要。)*6

あまりにも当たり前の結論かもしれないが、現時点では「どちらも必要だ」と思える。




「受苦者と連帯」 「受苦者と連帯」を含むブックマーク

大澤真幸氏が山之内靖氏にあてた手紙*7に紹介されていたエピソード:

あるシンポジウムの冒頭、姜尚中氏が石原慎太郎氏の「三国人」発言に「怒髪天を衝く」勢いで激怒する発言をし、会場が一気に緊張する。ところがその後の参加者たちの発言はグダグダだった。それについて大澤氏:

シンポジウムの後半が弛緩したものに堕してしまった理由を理解するのはそれほど難しいことではありません。シンポジウムでは、沖縄や在日朝鮮人が、グローバル化した資本主義の世界システムの中にあって、周辺的なポジションに置かれた犠牲者として言及され、さらにその犠牲者たちに、こうしたシステムを革命する潜勢力が託されました。しかし、こうしたことを語っていたのは、言うまでもなく、主として、日本の大学の中で安定した地位を得ている研究者たちです。要するに、自分自身は、安全な場所に立って、犠牲者たちに同情し、彼らに理想を投影することの欺瞞性が、議論を弛緩しきったものに見せていたのです。言語行為論の用語を使えば、これは執行的矛盾の一種と見なすことができるかもしれません。言い表された内容と、言表行為そのものの発話内効力(の含意)の間に、矛盾があったわけです。このように考えると、姜さんの発言にのみ、「アウラ」が宿っていた理由も容易に理解できます。

ただしこの手紙の最後では、「《当事者にしか分からない》という主張は孤立化を招く」(大意)という危惧が表明されている。*8

→ 当事者論に、言語行為論を導入する可能性。




飛躍と継続 飛躍と継続を含むブックマーク

ひきこもり:「社会への信仰を失うことによる社会的行為の消失」(非合理な信仰の喪失による、合理的行為の消失)

合理性の連鎖の中には、人を動機付けるものはない。人が動機付けられるときには、必ず非合理な飛躍がある。


当事者性(属性)による連帯と、理念・政策(課題)による連帯。 【参照:「属性共有と課題共有」】

属性共有(当事者性)は非合理な偶有性であり、課題共有(理念・政策)は合理的な必然性である。


非合理な飛躍合理性の連鎖
当事者主義他者のリベラリズム
相談・保護政策・立案
個別性・単独性普遍性
賭け・勝負分配
信仰設計
内的な不調和外的な不自由
断酒節酒・禁酒
動機内容
偶有必然



単独的な当事者性*9、「名付けられていない問題の当事者*10単独的な当事者性*9、「名付けられていない問題の当事者*10」を含むブックマーク

  • みずからの当事者性を、社会的に流通し得るカテゴリーに明け渡さない、つまりみずからの個別特殊性(どんどん変化する)に即した当事者性をそのつど構築する必要もある。▼「不登校」「ひきこもり」など、当事者性を構成する大きなカテゴリーは政治的なものが動くために必要だが、各人の「当事者性」のディテールは、つねに「大文字の不登校」「大文字の引きこもり」からズレている【誰かがマスコミ等に登場し、「代表」として振る舞うときの違和感もここにある】。▼焦点の変動はあるが、各人は複数の問題に「当事者」的に帰属している。しかし、「自分は○○の当事者なんだ」という鏡像的自己確認(緊急避難)は、一時的にしか機能しない(慢性化すれば単なるナルシシズム)。
  • 「既存の文脈でカテゴライズされていはいないが、モチーフとしてみずからの切実さを核に据えている」という研究(取り組み)はあるはず。つまり「○○の当事者」と名指すことはできないが、「名付けられていない問題の当事者」ということがあり得る。▼語り手(書き手)が言葉を組織するときのスタイルの問題。



*1:引用箇所の強調はすべて引用者

*2:『図書新聞』2005年2月5日号

*3:「不当に区分する」▼誰が当事者で誰は当事者でないのか。――その確定にも「名付けの暴力」がある?

*4:貴戸理恵氏の『不登校は終わらない』において焦点となった、「当事者が当事者にフィールドワークする」という要因については、今回のエントリーでは扱えなかった。

*5:金泰泳『アイデンティティ・ポリティクスを超えて―在日朝鮮人のエスニシティ (SEKAISHISO SEMINAR)

*6:「ニート」概念を策定する玄田有史氏と、それを忌避し、「教育に職業訓練機会を」と主張する本田由紀氏のちがい。 玄田氏は「当事者主義」的で、本田氏は「他者のリベラリズム」的と言ったら、大雑把すぎるだろうか。

*7:『再魔術化する世界―総力戦・“帝国”・グローバリゼーション』内

*8:現場に分け入り、そこで人間関係を築いた研究者が、当事者的な怒りを抱くことはあり得るのではないか。 だとすればそれは、「執行的矛盾」とは言えないのではないか。

*9:この認識は、インタビュー時に貴戸理恵さんから得た。▼まだ時間はかかると思うが、このインタビューは後日『論点ひきこもり』にて公開予定である。

*10:このモチーフは、井出草平さんとの議論から得た。

2005-11-06

『論点ひきこもり』:≪「“会話のきっかけ”レシピ」展 箱(ばこ)さんインタビュー『論点ひきこもり』:≪「“会話のきっかけ”レシピ」展 箱(ばこ)さんインタビュー≫を含むブックマーク

ひきこもり系の多くの人たちにとって、就労において「最もつらい」と思う瞬間は、「仕事をしている最中」ではなく、《休憩時間》だという*1。 つまり、その場の「雑談」に加わらなければならない、あの不確定な揺らぎの恐怖・・・・うまく「雑談サーフ」できるだろうか・・・・。

箱(ばこ)さんの提供する「会話のきっかけレシピ」展は、こうした不安に対処するための、ちょっとしたヒントを提示しようとする試みだ。*2

  • 美容院で、髪を切ってもらっている間・・・
  • 5人で集まる待ち合わせ場所に、あまり親しくない人と2人だけ先に来てしまったとき・・・
  • 立食パーティで会話を始めたが、信じられないほど「接点がない」ことに気付いたとき・・・
  • 「それでは!」とお別れの挨拶をした後、帰る方向が同じであることに気付いたとき・・・

あなたなら、どうしますか?


*1:これは僕もじゅうぶん思い当たる

*2:【詳しい地図

2005-11-05  訓練・義体化・チューニング

立花隆 最前線報告 サイボーグ技術が人類を変える*1 「立花隆 最前線報告 サイボーグ技術が人類を変える」*1を含むブックマーク

アニメ『攻殻機動隊』の「義体」の基礎技術が成立しつつある印象。(「100年後には草薙素子がいるだろう」とかなり本気で思えた。)

  • 「悲しい」という感情は、脳髄の「Cg25」と呼ばれる部位【参照】が関係しているらしい。うつ病患者に対しこの部位を刺激したところ、状態が劇的に改善した。
  • 手足の激しい震えが止まらず、支えてもらわなければ歩けないパーキンソン病の患者さん。脳髄に直接電極を差し込み、ある部位を電気的に刺激することで劇的に症状改善(顔の表情まで激変)、当たり前のように日常生活を送る。言われなければ病気に苦しんでいるように見えない。「脳深部刺激療法」という【体験談】。 同様にジストニアの症状も劇的に改善。
  • 感電により両腕を肩から失った人が、腕のある頃と同じように頭に念じるだけでそのとおりに義手(ロボットアーム)が動く。脳から腕に向かう神経を大胸筋付近に「配線」し、その電気的信号を拾ってコンピュータで解析することでリアルタイムの義手動作に転換している。
  • 大学の研究に協力している、事故で右腕を失った女性。ロボットアームの5本指を自分の手と同じように使える。指先に取り付けられた圧力センサーで、「さわられている」ことすら感知できる。▼腕をはずしても、「脳から右腕への神経」から電気信号を拾って腕まで送信できれば、遠隔地から「自分の右腕」を動かすことができる。もちろん「触覚」も伝わってくる。 【横井浩史助教授(筋電義手)】
  • 手足の動きを、神経内の電気信号を読み取ることでリアルタイムに補強できる全身装着型スーツのようなシステム。体の動きに合わせ、筋力を10倍にまで増強できる。筋力の弱い肢体不自由者、災害地での瓦礫撤去などに威力を発揮しそう。 【山海嘉之教授研究室
  • 仕事中の事故により完全失明した男性が、カメラ映像の電気的情報を直接脳髄に送って映像(光)を「見る」*2
  • 生まれつきまったく耳が聞こえなかった男児。3歳時に「人工内耳」の手術を受け、6年後の今では普通に会話ができ、蝉の声を聞きながら生活している。
  • 記憶に深く関係する「海馬」と呼ばれる部分の機能を代替する「海馬チップ」の開発により、情報を溜めたり交換したりする可能性。
  • 頚椎損傷で、首から下がまったく動かない男性が、頭蓋骨から脳髄に直接埋め込んだ機器で電気信号を送り、頭で念じるだけでそのとおりにパソコンやTVを操作する【動画(クリックで再生)*3。 ▼「脳コンピューター・インターフェイス*4と呼ばれる。
  • DARPA(米国防総省国防高等研究事業局)では、このようなサイボーグ技術を使って兵士の戦闘能力を高める研究がなされている(たとえば「脳コンピューター・インターフェイス」を使えば、兵器を瞬時に操作できる)。 アメリカは、サイボーグ技術を巨大なビジネスチャンスと見ている。
  • ネズミの脳髄に電極を差し込み、「右に曲がるように指令を出す → うまく曲がれたら快感中枢を電気的に刺激して快感を与える」という状態を続けると、生きたネズミをほぼ完全に思い通りに動かせる(高所が苦手なネズミが当たり前のようにハシゴをどんどん登っていく)。 ▼同じことを兵士にやったらどうなるか。



本田由紀さんの「問いかけ本田由紀さんの「問いかけ」を含むブックマーク

あのー、まじで問いたいのだが、みんな(若い人たちを念頭に置いてます)、高校とか大学とかで、生活や将来の仕事に直結しそうなことを教わるというのは、あまり望まないのだろうか? (中略)

よかったらどなたでも意見をください。

書き込み、すでに多数。



名言集「名言集」を含むブックマーク

なにやら気になるのがいっぱい。

「人間の目的は、生まれた本人が、本人自身につくったものでなければならない。」(夏目漱石)

「幸福の秘訣はしたいことをすることの中にはない。むしろ、なすべきことをしたくなることの中にある。」*5

必然性の発掘が恍惚への導線。



東京シューレの≪貴戸理恵著『不登校は終わらない』に対する見解東京シューレの≪貴戸理恵著『不登校は終わらない』に対する見解≫を含むブックマーク

削除されているようです。



*1:11月8日(火)午前0:15〜1:29(7日深夜)、総合テレビにて再放送らしい

*2:頭蓋骨に直接金属製の端子が取り付けてあって、そこに配線をつなぐことに驚いた。「首の後ろに差込口ができるのも時間の問題では…」と。

*3:Windows Media Player あるいは RealPlayer が必要

*4《Brain Machine Interface(“neuromics”)》、あるいは《BrainGate米Cyberkinetics社)》。 ▼ネット上には、次の文章がたくさんヒットする。「DARPA researchers are also at work on the "Brain Machine Interface" ("neuromics") project, designed as a mind/machine interface, allowing mechanical devices to be controlled via thought-power.」

*5:ジェイムズ・マシュー・バリー(James Matthew Barrie)、『ピーターパン』原作者

2005-11-04  両義性――《断片》として

《両義性》――籠絡と協働 《両義性》――籠絡と協働を含むブックマーク

時間的にも空間的にも社会全体が労働のもとにおかれている」というエントリーで文章を引用させていただいた廣瀬純さんより、メールを頂きました(ありがとうございます)。

許可を得て、一部を転載させていただきます。(強調引用者)

ぼくが「闘争の最小回路」と呼びたいのは、まさに、上山さんが下のように書かれるときの、社会的個人という存在様態の両義性です。

 僕としては「時間的にも空間的にも社会全体が労働のもとにおかれている」という事情を、「だから私は孤立しているようでも、生きているだけで社会に巻き込まれているのだ、すでにして他者との関係の中にあるのだ」と肯定的にも読み取りたい。

否定的なものにはすぐさま肯定的なものになる潜勢力があり、その逆もまた真であり、この意味で、否定的なものと肯定的なものとは、ひとりひとりの社会的個人において、小さな回路を形成しているということです。ぼくが、「闘争の最小回路」という文章のなかで書きたかったことは、ポストフォーディズム的マルチチュードの闘争というものがあるとすれば、この最小回路から出発する以外に他にないということです。

それへの私のお返事。

ああ、そうでしたか!

「労働中も私生活も、生活時間のすべてが労働のもとにおかれている」という認識は、往々にして単に「資本(帝国)への批判」としてのみ語られる。でも私はそこで、「逆に言えば、つねにすでに《孤独でない回路が準備されている》ということではないか」と思ったのでした。▼「自己管理は労働である」というテーゼを思いついて、それは「私生活までが侵されている」であると同時に、さまざまな心身症系の苦しみにあえぐ人たちの孤立感が緩和される要因でもあるのではないか、つまり「自己管理する」というのは、あくまで孤立した任務としてイメージされるが、実は同時に「他人とのつながりの中」にある営みなのではないか――そのように考えて、慰撫されていたのでした。

ひきこもりは、社会的行為の消失点といえる*1

しかしそれがいかに非社会的実存になろうとも、その者の生活は、物質的には社会成員の経済活動(労働と交換)の成果であり、住居・食物・衣服等は、世界中の他者たちによる労働の成果*2。 私は自室にこもったまま、世界中の物質を享受している(僕が目の前にしているパソコンだってそうだ)。状態像としての「ひきこもり」および主観的隠遁(社会行為の消失)は、物質レベルの籠絡を否定できない。

私が自室で自己管理することは、主観的な課題設定のレベルにおいては完全に孤立している(誰も私を気にしない、見捨てられている)。しかし、私の物質的実存がつねにすでに社会‐経済的実存であるならば、私の自己管理の破綻は「社会的な破綻」の最小単位となる。つまり私の自己管理は、それ自体として社会行為であり、経済社会を維持するための労働行為であり得る。――と考えれば、「私の生活時間のすべてが労働のもとにある」ということについては、「資本(帝国)が私の人生を支配している!」と怒ることもできれば、逆に、「私はどんな瞬間にも他者との協働関係にある」と安堵することもできる。【両義性】



《両義性》――腐敗と抵抗 《両義性》――腐敗と抵抗を含むブックマーク

女性ホームレスを扱った丸山里美氏の論考「数々の脱出(エクソダス)をつなぎあわせて」(『現代思想』2005年11月号p.206〜)より。(強調引用者)

軽い知的障害のある女性ホームレス、Aさん(36歳)。東京のとある公園で2人目の夫と暮らしている。そのつどの事情から、施設*3・ホテル・公園生活を行き来し、実家に帰ることもほのめかす。

このようなAさんの実践は、ヴィルノがマルチチュードの存在様態について、両義的であると述べていることを想起させる。両義的であるがゆえに、「腐敗の基盤にも抵抗の基盤にも、つねに、偶発的な可能性への感受性がある*4」と。

ホームレスの抵抗の動きをすくいあげていこうとする人々が、その抵抗の可能性を信じようとするあまり、路上における実践ばかりに注目することになり、その結果Aさんのような両義的な生のあり方が見落とされてしまったのではないだろうか。Aさんのような腐敗と抵抗が偶発的なものとしてあるような実践のうち、路上にとどまることだけを切り取ってきて見てきたのではないだろうかと。飛躍を承知で敢えていうなら、マルチチュードの抵抗を容易に信じることには、もしかすると、両義的な生を生きざるをえない人の生の片方だけを切り落とし、サバルタン的存在にしてしまう力が潜んでいるのではないだろうかと。

ヴィルノは、善と悪という両義性の核にあるマルチチュードの存在様態として、便宜主義とシニシズムをあげている。そして便宜主義について、「便宜主義者とは、つねに相互交換可能な様々な可能性からなる流れに直面している者のことであり、またいちばん身近な可能性に従ったかと思うと素早く次の可能性へと赴きながら、これらの可能性を最大限に活用する人のこと」であると定義づけている。

このときAさんは、まさにヴィルノのいうように、施設で生活保護を受けること、公園で暮らすこと、実家に帰ることなど、さまざまな可能性からなる流れに直面していた。しかし彼女がこれらの可能性を最大限活用しているとは、私にはどうしても思えないのだった。

このように彼女たちの語りや行動は、まさに「断片」 *5とでも呼べるようなものだった。こうして一貫性なく語られるひとつひとつの断片や、長期的な視野もないまま、ただ目の前の状況に翻弄されて繰り返される脱出(エクソダス)のひとつひとつの断片が、縫いあわされることなく、まさに断片のままで存在しているのだった。


断片として翻弄されているだけの自分や経験。それを両義的な「最小の回路」としつつ、取り組めることは。▼「排除ゆえの悲惨」という要因があるのは確かだが、そういう一義的解釈のみに基づいた「反社会的存在」という理解は、古色蒼然としていて、それだけではもはや人は説得できない。



気になっていること 気になっていることを含むブックマーク

ジョルジョ・アガンベンの「剥き出しの生」という概念。

それから、稲葉振一郎さんのこちらの書評が、勉強の指針として役立ちそう。




*1:『論点ひきこもり』スタッフ井出草平さんの示唆

*2:10代の僕がマルクス主義の議論を知って最も感銘を受けた認識のひとつがこれだった。

*3:丸山氏の注によれば、「一般的に福祉制度は女性を保護的に扱うため、女性ホームレスは本人が望めば一時的にせよ路上を脱出して施設に入れることが多く、男性より生活保護も受給しやすい」とのこと。

*4:パオロ・ヴィルノ『マルチチュードの文法―現代的な生活形式を分析するために』(訳・廣瀬純)、p.235

*5:丸山氏による注:≪「断片」という言葉は、チャクラバルティがサバルタンの歴史を指して「必然的に断片化されていて挿話的である」と述べていることから着想をえている。≫

2005-11-03  自己維持

倫理的地位 倫理的地位を含むブックマーク

当事者性とは、開放性の拠点としての権威であり(理論化の核)、閉鎖的サークルの特権ではない。 当事者性は、ナルシスティックな自己確認や、無条件の崇拝のためにあるのではない。

だからこそ、細心の自衛が必要だ。



犠牲は対象を価値づける」(id:knotさん) 「犠牲は対象を価値づける」(id:knotさん)を含むブックマーク

 犠牲は所有の放棄というよりも、所有への執着に近いように思える。

「車に轢かれそうな子供を救う」のような、咄嗟の自己犠牲(考える前に体が動いている)と、慢性的で持続的な「理念化された自己犠牲」のちがい。――いや、そんなに簡単には分けられないか。理念化された自己犠牲が脊髄反射として起こる、ということも?

「単に自己否定的」な自己犠牲(「どうせ自分なんか」)もあると思う・・・――でも、そこまで考えても、やっぱり「自己犠牲」というのは、鏡像的(ラカン)な営みではないだろうか。

    • という感じで、考えているうちに「自己犠牲」がわからなくなってきた。▼自分自身を「所有」するのか、他者に「分配」するのか。▼何かへの忘我的没入は「自己犠牲」か*1。▼「労働」というモチーフにも関係するかもしれない。



「病気したら自己破産」 「病気したら自己破産」を含むブックマーク

ゾッとして、「病気したら終わり・・・」と書いたところ、井出さんよりコメント。

 アメリカでの自己破産の半分が医療費だそうです。破産の代表例みたいに言われるクレジットカード破産は1%以下。 国営の医療保険がないと貯金が多少あっても自己破産してしまうみたいですね。。。

「自己破産しても、ホームレスになってもやり直せる」というインフラ整備がないと、「いったん脱落したら終わり」という絶望感ばかりが蔓延し、これはどう考えても人々の投機的行動をも制限するのではないか。それはマクロ的に見てもまずくないか。



*1:グレン・グールドが自らの演奏について、「陶酔感・浮遊感」を恍惚と語っていた(ジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』を挙げつつ)のを繰り返し思い出す…(あるいは記憶違い? NHKの番組だったと思う)。

2005-11-02

以前からお会いしたかったある方にインタビュー+討論。 以前からお会いしたかったある方にインタビュー+討論。を含むブックマーク

4時間半ほど話したはずなのだが、信じられないほどあっという間に時間が過ぎる。


ヴェイユの言葉 (大人の本棚)』pp.13-14より 『ヴェイユの言葉 (大人の本棚)』pp.13-14よりを含むブックマーク

 時間の流れの前で怖気づくな。 しようと決意したことを延期するな。

 現実に遭遇する困難以外にはかかわるな。

 悪を増大させるような反応をもって悪に対処するな。


自分固有の怠惰が問題だ。(「世間では○○が怠惰とされている」ではなく)

時間という、ものすごく耐えにくいもの。


2005-11-01

「第三の場所」と《常連さん》 「第三の場所」と《常連さん》を含むブックマーク

昨日(31日)、渡邊太(id:knot)さんのお誘いで、【「社会学*カフェ→それから」vol.2】に参加。

渡邊さんの社会学的知見を通じたお話、山納洋さんや参加者の方々の体験談・議論。日頃僕が関わっている人たちとはまったく違ったジャンルの皆さん。非常に刺激的だった。

話題としては、レイ・オルデンバーグの「第三の場所」という考え方、そこをめぐる社会的緊張感のありかたが新風の印象。「身内の馴れ合い談義」ではなく、「異質なものに出会う」という要素について。▼ひきこもり当事者およびその家族は、「家」と「仕事場」のことばかり考えているが、これはそれぞれ「第一」「第二」の場所に当たり、そこでは「インフォーマルな公的生活」*1という開放的な契機が、まったく見えてこない。

 適切な用語を求めて、我々は独自の用語を設定することにした――第三の場所という言葉は、「インフォーマル・パブリック・ライフ*2の中心となる装置」と我々が呼ぶものを指し示すために用いられる。第三の場所という言葉は、家庭と仕事の領域を超えた諸個人の、定常的・自発的で、インフォーマルかつ楽しげな集まりをもたらす、多様性に富んだ公的な場所を総称的に指し示すものである。*3

これは、「溜まり場」というフリースペースの機能にとっても重要な参考になるはず。

ただ、懸念もある。

ひきこもっている本人の生活空間は、「自宅(あるいは自室)」に局限されている。そこにおける問題意識は、「自宅 → 職場」に視野狭窄的に限定されている。これは実は、「カフェ的・サロン的な、《雑談》的トークの要求される場所」への忌避が関係している。【たとえば引きこもり当事者にとって、仕事上の最悪の苦痛は「仕事そのもの」ではなかったりする。多くの場合、最悪の苦痛は「休憩時間」にある。あの、「雑談しなければならない」時間の恐怖…。】

あるカフェには、地域住民の常連客が多いとする。するとそこには「常連の文化」が根付いていて、店に入っていけば、そこに「巻き込まれる」ことになる。――もっと言えば、「地域住民」とは、その全体が《その地域における常連さん》なのだ。だから引きこもりについて相談しようとする人の一部は、自分の地元の窓口ではなく、たとえば2つ向こうの街にわざわざ足を運ぶ。「相談しているところを見られたくない」からだ。

「インフォーマルな公的生活」において、「ネガティブな要素を身に帯びた(と自意識的に考えてしまう)人」の存在は、どのように受容され、あるいは(場合によっては自主的に)排除されるのだろうか。この社会の「常連さんたち」への負い目は、単なる「自意識過剰」だろうか。

追記

ほかにも、「仕事をする」「人間関係を作る」「一緒にやってみる」といったことについて、いくつもの示唆をいただいた。とりわけ、お金の絡んだ「経営」の問題意識を含む体験談(とそれをめぐるノウハウ)は、きわめて貴重だった。いますぐにすべてをフォローすることはできないが、追い追い取り上げてゆきたい。



*1:「インフォーマル」=「非公式な、普段着の」

*2:informal public life

*3:R.Oldenburg, “The Great Good Place”, Marlowe & Company, 1997, p.16。(渡邊太さん作成の資料より)

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