本田由紀氏:「問いかけ第2弾」

現在、「フリーター」や無業者(学生・主婦以外で働いていない)の方にお願いしたいのですが、現在のような状態になった「きっかけ」、「事情」を簡潔に教えていただけないでしょうか。

「ひきこもり」については、「なぜこうなってしまったのか分からない」という人がとても多い。それゆえに、無力感や非常に激しい自責の念に苦しみがち。▼無業や引きこもりの状態に突入した「入り口」のきっかけと、そこから抜け出せた「出口」のきっかけについて、ある程度の人数を集めた統計的調査は存在するのだろうか。*1 ▼最近気になるのは、「大学や職場でパワハラに遭って精神的に失調をきたし、そのまま閉じこもって(無業になって)しまった」というケース。僕の情報の集め方が偏っているのかもしれないが、なんともやりきれない事例を立て続けにいくつも聞いている。▼「きっかけ」自体が、偶然的・個人的な現象ばかりではなく、社会的・制度的にもたらされているのではないか。




*1:参照

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』みてきた。

観終わってすぐ、映画館近くの魚市場に繰り出したのだが、僕のあれほど苦手な「へいらっしゃい!」「安いよ!」という掛け声や大声での商談が、さほど恐くなくて驚く。道を行く高齢者たちも掛け声も、しなびた看板も、すべてが昭和30年代の光景に見える。僕の同世代や20代の人々が、「新しく生まれてきた世代」に見える。▼昭和33年当時にあの映画があって上映しても、それは娯楽作品としては別の種類のものだろうし、当時の「売れ筋映画」をいま観ても面白くないが*1、50年近く経って当時の「日常」を回顧的に観ることには、嗜癖性すらある。▼公式サイトで紹介されている声は「あの時代に大切なものを置いてきてしまった」系のものばかりで少々うんざりだが*2、「いま生きている現実」も50年たてばあのようにかけがえのないものに見えるかもしれない*3。▼稲垣足穂の、「地上とは思い出ならずや」を思い出す。いま生きている自分を、自分の死後の時代から眺めてみる。現代から、自分が生まれる前の昭和33年を見るように。▼意識の動きが、「外界から遮断されている」ように思える2005年(昭和80年)の現在。 自然的プロセスとしては脳髄の動きでしかないだろうに。 【「物質の身体」と「言葉の身体」】


現象を経験すること自体が、まるごと誰かの命(order)に服している状態。この経験は誰のものなのか。現象経験がそのままで「疎外された労働」になっている。労働過程であり生産物であるこの現象経験は誰のものか。私は経験しているのか、経験させられているのか。「そのように」経験する指針は誰が立てたか。▼経験における他者と自己の交じり合い。「自分のもの」として手に入れるものは「所有」の区切りにおいて他者を排除していなければ許せない。いや他者に対して、強迫観念的に激しい嫌悪がある。超自然的ウイルスのように穢れて見える《他者の痕跡》(指紋など)。

  • 新刊本を買うとき、「キレイなもの」を探して延々平積みの下のほうまでチェックしたくなる強迫観念の苦痛。選ぼうとしている本よりも選んでいる自分の方がはるかに汚い。肉の塊。▼購入後、書き込みや携行で本が汚れてくるとやっと安心して読めるようになってくる。
  • 図書館や古本屋に行ったときの奇妙な安堵感。わたしは他者の言葉にまみれていてよい。
  • 「本を読む」という行為。他者の言葉と自分の言葉の絡まりの難しさ。他者の言葉に無理やり我慢して付き合う労働。▼「夢中になって読む」ときの嗜癖感。
  • 内発的持続が破産すると自分が保てなくなる。自分を隔離しないと他者がなだれ込んできて支配される。

お金(経済)が、人間の活動を、規範を、意識のあり方を変えていかざるを得ないダイナミズムを痛感。

【以下、ちょっとだけ映画のネタバレ。観終えた方のみどうぞ・・・。】

*1:「面白がる」ことはできる

*2:価値観の面など、50年経って改善された点もあるはず。本当に当時にタイムスリップしたら耐えられないのではないか。

*3:47年も経っているはずなのに、人間の生活は何も変わっていなかった。もちろんフィクションだけど。そのことに絶望した。と同時に少し元気になった。【参照

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