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[語句説明]

2005-12-31

Klee 無題(最後の静物画)

ご挨拶 22:14 ご挨拶を含むブックマーク

こんばんは。 もうすぐ今年も終わりですね。

いま、年内締め切りの原稿を書いております。


本年中は、いろいろありがとうございました。

来年も、よろしくお願い申し上げます。


どうか、良いお年を!


上山和樹


2005-12-30 このエントリーを含むブックマーク

「大きな物語の喪失」等から、「話題がいちいちネタでしかあり得ない」というが、《苦痛》はネタではなくベタにマジである。 つまり何らかの形でその者が苦痛当事者であれば、というか《当事者》のみが、ネタではない。 ▼「何のために議論や行動をするの?」というが、「楽になるから」であり、楽にならなければ価値はない。 ▼受動的な苦痛当事者は陳腐に苦しんでいるだけであり、その陳腐さが苦痛をいや増す。

「苦痛への従事」はすでに《仕事》であり、苦痛軽減はオリジナリティ以上の価値を持つ。 「オリジナリティ」は、本質的な苦痛軽減のプロセスにこそある。 ▼問題は、社会的公正さに照らしてのバランス調整。

2005-12-29  わかりにくい

Klee “Ancient Sound”

メモより メモよりを含むブックマーク

「当事者とシステム設計」に関する友人の示唆からの連想。

 ある女の人に振られた。彼女は申し訳なさそうにしている。でも、彼女が「申し訳なさそうにする」必要はない。振られた僕の苦しみと彼女の義務は関係ない。彼女の能動性は自由に維持されるべきであり、僕へのケアはそれとは別に存在するべき。

これは当事者批評の問題ではないか。


「リベラリズムと当事者運動」――当事者批評の問題 「リベラリズムと当事者運動」――当事者批評の問題を含むブックマーク

ある属性において苦しんでいる当事者は、その問題における抵抗運動が死活問題になっている。 だからその限りにおいて、自己の活動の相対化は(場合によっては)死を意味する。 ▼リベラリズムが「価値観の相対化」(自己絶対化の断念)を含むとして、「当事者運動」と「リベラリズム」は拮抗するだろうか。 ▼「社会的公正さ」は、「当事者の絶対化」とは違う道を歩むはずだが・・・。


問いの不気味化 問いの不気味化を含むブックマーク

ある「問題」に関わろうとするときに、問いの設定の仕方を安易にしないこと。 安易な問いは、粗暴な答えをすでに含んでいる。 ▼当事者自身の側にも、安易な理解はある。


2005-12-28

Klee “Signes pour bateaux”

利害当事者になれば、必ずトラブルに巻き込まれる。 利害当事者になれば、必ずトラブルに巻き込まれる。を含むブックマーク

ひきこもっている人は、《利害当事者》になりたくないから引きこもっているのではないか。 なのに、ひきこもっていることそのものによって、またしても《当事者》になってしまう。


事後性 事後性を含むブックマーク

トラブルに巻き込まれ――「巻き込まれ」という受動性が大事だと思う――怒りを感じるたびごとに、自分の価値観が明らかになる。 「自分は、こういうふうに考える人だったんだ」

2005-12-26  欲望と分析――動機付け

Klee “Hermitage”

石川良子:「年末ですが。石川良子:「年末ですが。」を含むブックマーク

 当事者にとって「ひきこもり」とはこれまで依拠していた価値観の書き換えを余儀なくされる経験であり、彼らは自己を語るための語彙として「ひきこもり」を取り入れることにより、いったん見失ってしまった人生の展望を再構築する過程にある人々ではないか。

ちなみに私の言う「当事者」とは「ひきこもりを自己語りの資源として取り入れた人たち」といったようなところです。

むしろ、深刻な現役当事者の多くは、「ひきこもり」という語彙を拒絶している(耐えられない)のですが・・・。*1


石川氏が対象にしているのは、「ひきこもり」を自覚的に引き受ける《当事者語り》の問題だと思うが、これについて永冨奈津恵氏は批判的だ

 「ひきこもりとは働くことの意味を問い直すことだ」とし、

 ニート対策は「問い直し」という

 ひきこもりからの回復作業を妨害するという研究者もいる。

 まぁ、私は研究しているわけでもないから、

 問い直すことでひきこもりから回復していった人のことを知らないけれど、

 (「問い直し」をしたせいで、さらに状態が悪くなった人のことは

 たくさん知っているけど)こんな問題意識を訴える人もいた。

就労支援のみが問題となってしまう「ニート」よりも、「ひきこもり」の方が論点としてはより《不気味》だと思う。しかし、その意味の過剰性ゆえに、悩んでいる本人が「ひきこもり」という自意識や問題構制自体に自閉してゆくまずさ・・・。▼重要なのは、具体的な出会いなどを通じ*2、「ひきこもり」という問題の枠組みから自分なりの論点に気付き(動機付けられ)、それに取り組むことを通じて既存の自分をくぐり抜け(「超越し」ではない)、未知のステージに「いつの間にか立っている」(社会化される)ということではないか。▼しかし、「ひきこもり」というモチーフにあえて直面すべきかどうかについては、相対化して考えるべきではないか。つまり、「価値観を等閑視してとにかく働けばいい」という一方的指針が乱暴すぎるように*3、「ひきこもりというモチーフに断固として直面しなければならない」というのも、一方的すぎるのではないか。「ひきこもり」という言葉で名指されるような体験(その周辺の苦しみ)を、単に「忘れる」ことで社会参加する――そういう人がいてもいいのではないか*4。▼私自身はそのような器用なことはできそうにないから、これは石川氏に対する反論になっているのかどうか、わからないが・・・。

 (1)お金を稼いで生計を立てていくこと

 (2)より良い生を実現していくこと

・・・・とにかく、私が「ひきこもり」を通して見ようとしているのは(2)の話だ、ということです。

「より良き生」という、古代ギリシア的モチーフ・・・。▼その模索の各人におけるあり方と、その環境としてのマクロ要因(社会や経済)があるとして、――「現代における倫理的模索の生態」? 【それはもちろん、自己言及的に逡巡をもたらしますよね?・・・】




「リアルタイム・レスポンス」と、「スタティックな現状認識」との関係・・・。 「リアルタイム・レスポンス」と、「スタティックな現状認識」との関係・・・。を含むブックマーク

社会学は、経済学のようには「問題解決」を求められないのだろうか。▼リアルタイムの反応を要求される現場的アクチュアリティと、社会学的な「コミットしなさ」の関係が興味深い。「コミットしない議論」*5であるがゆえの臨床的効果、もあるのではないか。

これは、私の経験してきた論争とも関係ある。揉め事になりかかると、私はすぐに自分を含む論者双方の議論の前提(あるいは議論できなさの前提)をメタに問うんだけど(でないとベタにヒートアップするだけなので)、それは常に「逃げだ」と言われた。 ▼これは個人間の問題にとどまらず、「左翼運動と社会学」や「転移関係と精神分析」に関係する、普遍的な問題構図ではないか。

【ここに、「設計と倫理」という「ised」のモチーフを持ってくることはできるか。】




トークセッション「ゼロ年代の批評の地平」【東浩紀/北田暁大/斎藤環/山本一郎(切込隊長)】*6 トークセッション「ゼロ年代の批評の地平」【東浩紀/北田暁大/斎藤環/山本一郎(切込隊長)】*6を含むブックマーク

id:bulletさん

 セッションを通したテーマは「分析してそれでどうするのか」(東浩紀)。 どこにおいてもこの命題が閉塞感をともなって議論の場を覆うということを再確認。


id:shin777さん:「ちなみにこんな質問をしてみたかった

「斉藤先生にうかがいます。

 今回のセッションでは東さんと北田さん、お二人の知識人の方が、自分達の世代の知識人は現状の分析は行えるけれども、特定の政治的立場や思想的立場にはコミットしない、と言うよりもできないんだということをおっしゃられたわけですが、それを聞いて僕は「ニート、ひきこもり」のことを思い浮かべました。

 僕もそうなのですが、そういった人達の中には、読書などで知識を得ることによって、ニートやひきこもりといった自分をとりまく状況について、ある程度ですが、またあくまで自分なりにですが、分析できている人もかなるいると思うんです。

 しかしそれがなんらかのアクションに結びつくかといえば、なかなかそうはならない。もちろんアクションに至るにたるだけの、知識があるいは知恵、明晰さが足りないだけなのかもしれません。

 しかしやはりそれでも「ひきこもり、ニート」にとっては、認識あるいは分析と行為との間に深い断絶のようなものがあるような気がしてなりません。どうしてもアクションすることにたじろぎ、立ちすくんでしまいます。

 「引きこもりやニート」にとって、読書すること、あるいは認識・分析すること、さらに言えば「言葉の力」は、現状から抜け出すための動機付けあるいはツールとしてはあまり役に立たないものなのでしょうか?

 そして斉藤先生がお考えになられている動機付け、ツールはどういったものになるのでしょうか?やはり「出会い」であるとか「異性」とかそういうものになるのでしょうか?」

上記の永冨奈津恵さんの問題意識とモロに通底。

じゅうぶんな素養と明晰さに到達すれば、《動機付け》はおのずと成立するだろうか。




「当事者批評」――苦痛=欲望原因 「当事者批評」――苦痛=欲望原因を含むブックマーク

苦痛を抱える《当事者》と、その存在を分析する《論者》の関係。

《当事者》にはリアルタイムの行動が必要になっているが、《論者》はメタにとどまれる。 メタにとどまる論者に対し、当事者はつねに苛立つ。【「労働者と資本家」、「クライアントと分析家」】

苦痛に動機付けられた学的探求――自己自身をも対象化するそれ――に、「当事者批評」の作業がある。 当事者性が起動因となりつつ、学的言説が生産される。




東浩紀=「欲望の当事者」? 東浩紀=「欲望の当事者」?を含むブックマーク

id:sakstyleさん

 というよりも、斎藤が指摘し、東自身も認めているように、東の仕事とそれに対する他人の評価というのは、いつもそのことを巡って動いている

 「結局東は何がしたいのか」

東浩紀氏は、「分析欲望の《当事者》」であり、彼のデリダ論は僕にとって「当事者語り」に満ちていた*7。 そこにあったのは、見たこともないような論述スタイル=文体であり、それは見たこともないような欲望に駆動されていた。 「このような《知への欲望》があり得るのか」の驚き。 ▼彼はみずからの欲望を、《当事者》として生きている。 彼はその当事者性=「不気味な欲望の実存」が何を意味するのか分からぬまま「欲望の当事者」を生きているが、学者としてはこういう人は珍しいということか?

    • 「何をやりたいかは分かるが、語らせてもつまらない」人は多いが、「何をやりたいか分からないのに、語らせると面白い」というのは珍しい。 ▼こういう知性や欲望のあり方を、実務家である切込隊長氏と比べると見えてくるものはあるだろうか。*8

気になるのは、ではその東氏の欲望にとってリベラルな「自己相対化」はどのように成立するのか、だ。 相対化を伴わない「当事者の欲望=ニーズ」は、つねに傍若無人の暴力に堕する危険を伴っている*9。 ▼いや、思考の欲望にそのような相対化は必要ないのか? 「自分の思考活動において満たされるべきニーズ」と、「他者との関係において満たされるべきニーズ」のちがい・・・。




「intéressé de désir」? 「intéressé de désir」?を含むブックマーク

ふつうフランス現代思想では、「欲望の主体」と言うと思う(sujet de désir)。 「欲望の当事者」っていう言い方は変なのか。 ▼「当事者」は社会的に構成される。欲望も社会的に構成される。云々。

なんかこの辺で考えられることないですか。

フランス語では「当事者」を「intéressé」といい、形容詞としては「(1)興味を示した(2)利己的な(3)関係のある」という意味。 ▼「利害関係に置かれた者」ということか。



*1:私自身、斎藤環『社会的ひきこもり』を読んだのは、自覚的な活動(2000年後半)を始めて以後。 本の存在は発売(1998年末)直後から知っていたが、「ひきこもり」という語彙で自己規定することは、現役最中にはどうしても耐えられなかった。

*2:言うまでもなく、具体的な支援においてはここまでに物凄いハードルがある。

*3:しかし、それですら一部の人には有効だろう。とにかく「現実は変えられない」のだから。

*4:これはおそらく、「ロボトミー」「マインド・コントロール」といった問題系を呼び寄せる。

*5:井出草平さんのご教示

*6:via id:seijotcpさん

*7:以前も少し触れたが、彼は『存在論的、郵便的』のあとがきで、「僕のつぎの哲学的な仕事は、・・・・「この私」とは徹底して無関係なものになるべきだ」と語っている。

*8:最近の僕は、切込隊長氏をはじめとする実務家の文体から、よく元気をもらっている。

*9:まさに「当事者批評」――当事者「が」批評すると同時に、当事者「を」批評する――の問題。

2005-12-24

Klee “Destroyed Labyrinth”

永冨奈津恵:『ひきこもり支援にとって都合がよかった「ニート」永冨奈津恵:『ひきこもり支援にとって都合がよかった「ニート」』を含むブックマーク

「社会とのギャップ」は、「埋める」ものではなく、「取り組む」ものではないか(有限の生の範囲内で、終わりようがない)。 「ひきこもり」は「入口」で、その周辺で自分の取り組みを模索する。 「治る」のではなくて、「自分の取り組みが始まる」。

順応という形で社会とのギャップを埋める人はそれで頑張る。 自分なりの極端なチャレンジを始めた人は、取り組み始めた新しいフィールドなりの試練が待っている。

ひきこもりについて考えることが自閉していくなら、考えることは社会から離脱することでしかない。 取り組みが社会化される必要があるが、それは一人では無理だ。 自分は黙ってやってみるしかない。

この永冨さんの文章には、僕への批判も含まれていると思う。

僕にも反論はあるが、彼女の記述する逡巡そのものが理解できない人は、ひきこもりやニートに関する議論から撤退してほしい。

2005-12-22

Kandinsky “Composition 8”

「非人間的」 「非人間的」を含むブックマーク

一つはっきりした指針を得られたように思うので、備忘録的にメモしておく。 これはまだ最初の着手段階のメモ。


イベント「「人生にYesNo枕!」〜摂食障害・ひきこもり・ニートの人間関係学〜」で同席した際、樋口明彦氏がおっしゃっていたこと(大意):

 僕が抽象芸術が好きなのは、それが「非人間的」だからです。

その場では何も言わなかったが、実は横で聞いていてシビレていた。


三脇康生氏の発言で僕が最も感銘を受けたもの:

 「分析の consistency

この遂行は、人間的な《交流》と相容れず、それゆえ「人間味がない」「アタマがおかしいんじゃないか」などと非難されがち。 ▼《交流》が《交渉》より優先すると、抑圧が発生する。


斎藤環氏の臨床面接の方法:

 「親切な宇宙人」 「味方のロボット」


ある教育社会学者*1(大意):

 教育が、甘ったるいヒューマニズムばかりで語られる。 社会的な視点がない。 いわば「マクロ教育学」が要る。


教育は、教員側から見れば労働行為。教育には、「資本主義社会における労働力商品の生産」という側面があるが、教育論争はこういうドラスティックな視点を嫌うのか? ▼「教育過程は、労働過程である」という観点からのドライな分析が必要。 ▼それは必ずしも「資本主義のために」云々ではなく、“人間主義”によって曇らされない目で冷徹に現状を分析する、ということ。【マルクスによる資本主義の分析(『資本論』)にヒューマニズムは関係ないはず】


関係性の中に巻き込まれてあることが「人間的」であり、関係の埒外であることが「怪物」であるならば*2、社会行為の消失した「ひきこもり」は「怪物=非人間的」であるだろうか。


不登校は、まずは社会復帰に向けての「治療行為」の対象と見られた(稲村博)。そこにあったのはいわば「非人間的な医療主義(治療主義)」であり、1980年代に始まった不登校肯定論(「不登校は病気じゃない」「選択されたものとしての不登校」)は、「人間主義(ヒューマニズム)による不登校の擁護」であり、一種の「人間復興(ルネサンス Renaissance)」と言える。

私が「不登校→ひきこもり」という経験と当事者としての活動において繰り返し直面したのは、いわば「人間主義のアリバイを得た暴力」だった。*3

あいだをつなぐロジックを、私はまだ手にしていない。 しかし今の時点での私は、自分の新しい指針をひとまず「非人間的」と名付けてみた。*4

東浩紀氏はご自分の「動物的」という概念に対比させ、ひきこもりを「人間的」と評しているが、これは「不登校・ひきこもり」支援が「人間的」に成立してきた事情とも関係あるはず。 不登校・ひきこもり当事者の多くは、「思いやり」や「ふれあい」といった《人間的》要素をことらさらに求めたがるし、それは一面では――少なくとも初期段階では――不可避とも言える。 ▼しかし――今にして思えば――私はこの「人間的」の暴力性に激しく怒っている。


単なる医療主義や差別主義としての「非人間的」ではなく、フロイト派のいう「死の欲動」「反復強迫」に基づいた形での、「終わりなき分析」の冷酷な遂行としての「非人間的」。 ▼安直な感動を強要する安っぽい「人間主義」が、思考停止を誘う暴力となっている。 「感動」への禁欲と、「非人間的」の維持が、ものを考えるときに必須なのではないか。 ▼感情に負けて「人間的に」振る舞ってしまうことは、私にとって《譲歩》でしかない。


こうした話は、「人間力」と関係するだろうか? 【まだよくわからん】


*1:苅谷剛彦氏だったはずだが立ち読みだったのでうろ覚え

*2:『The COOL! 小説新潮別冊 桐野夏生スペシャル (Shincho mook)』所収の、斎藤環氏による桐野夏生論より。

*3:最近では、東京シューレによる貴戸理恵氏への糾弾が記憶に新しい。 かといって、貴戸氏自身が「人間主義」を捨て切れているかは疑問。――で、僕も他人事でない。

*4:宮台真司氏の分類を持ち出せば、「自主性」は《人間的》、「内発性」は《非人間的》と言えるだろうか。 ▼僕はもちろん「内発性」を選びたい。

2005-12-19  原点と、《交渉》の自由

Matisse “Red Interior”

和歌山県田辺市――先駆的モデルケース? 和歌山県田辺市――先駆的モデルケース?を含むブックマーク

17日が斎藤環氏の講演、夜に打ち上げ的な食事会。 18日は自助会と親の会にゲストとして参加。 両日とも、自分の原点を見つめなおすような時間(特に18日)。 ▼相談窓口担当の目良宣子氏をはじめ、「ひきこもり検討委員会*1の皆さんの雰囲気が非常に印象的。 田辺市の市長が斎藤環氏の講演を最後まで聞かれていたが、これも珍しいのではないか。 ▼ひきこもり支援の政策的側面に興味のある方にとって、田辺市は必須の研究対象ではないだろうか。



斎藤環氏の講演より(情報ピックアップ) 斎藤環氏の講演より(情報ピックアップ)を含むブックマーク

私のメモに基づくもので、もちろん発言者校閲はないし、文脈によって意味も変わってしまうので注意。【黒太字の「カギ括弧内」が斎藤氏の発言】

  • 斎藤氏がブリーフ・セラピー(短期療法)*2を紹介していたのは意外。
  • 「ひきこもりは、家族対応が50%以上。本人が動き出したらあとは方向付けはしない」
    • ひとまずこのように言うしかない。▼当事者本人としては、自由な倫理的選択の環境整備をされてしまうわけで、かえって厳しくもあるはず。
  • 「放置や放任につながるので、《わかったつもりになる》のはまずい」
    • 三脇康生氏はガタリ、斎藤環氏はラカンを理論的参照項にしており立場が違うはずだが、お二人とも《分析の継続》を重視する方向であり、「無限の愛による全面受容」とか「永遠に待つだけ」とかの姿勢とは一線を画している。▼「無限の愛」とか「永遠に待てばいい」とかいうのは、そのアドバイスをしている者自身のイデオロギー的自己温存に過ぎない。もし事態が悪くなっても、自分は「無条件の正しさ」の中に鎮座し、すべての責任を親などに押し付けることができる。要するにアドバイザー本人のための「アリバイ作り」だ。▼ややこしいのは、そういう提言にすら意味のある局面があることだが・・・。
  • 家族によるコミュニケーション回復のための提案として、「《挨拶・誘いかけ》、《お願い事》、《相談事》」
    • 当事者は、見下すべき存在ではなく、「親が相談事を持ちかける相手である」ということ。
  • 「当事者による親への感情は、《恨み半分、感謝半分》」
    • ここは補足が必要だと思う。▼親に感じてしまった「感謝の念」は、100%そのまま「罪悪感」に転化してしまうのだが、これが非常に支えにくい。親に感謝を感じても、自分が元気に社会生活を送っていれば「給料でプレゼントを買う」などの行動が起こせるが、ひきこもっている現状では、まったく何もできない。→ 完全な無力の中での感謝の念は、自動的に罪悪感になる。 そこで親の顔が見れなくなるのだが、それは親からすれば「無視された」となる。



「就労しない自由」 「就労しない自由」を含むブックマーク

講演の質問時間に、学校教員になることを志望している学生から、「ニート増加などが言われているが、教師としてどうすればよいか」という趣旨の質問があった。それへの斎藤環氏の返答。(大意)

 「人間は就労しない自由もある」ことを、教育現場で伝える必要がある。

さらに続けて、「就労しないで生き延びる方法を考える」云々。

次のような実例が紹介された。

 ある家庭では、ひきこもっている子供にマンションを買い与え、「毎年100万円×30年間」の提供を親が約束した。

経済事情も違うし、契約の細部はもちろん各家庭で違って当然だが、これが親子間での《交渉》の実践であることに注目したい。▼実際にこんな金額を提供できる家庭ばかりではないわけだが*3、宿泊型の支援団体を利用すれば、(たとえばある団体では)年間300万円かかるから、あり得る選択肢の一つとしてはじゅうぶん検討可能だと思う。▼現実問題として、「一生働けない」という人は多いはずだ。



核心部分――《自発性》と《交渉》 核心部分――《自発性》と《交渉》を含むブックマーク

《自発性》をめぐる攻防に、教育・医療・労働などの、すべての掛け金があると思う。これは、はっきり政治的な問題だ。 自発性をめぐる意見のあり方に、その者の思想が端的に表れる。 ▼ひきこもり周辺で交わされている議論は、歴史的にはどのような位置づけになるのだろう。



*1:「検討委員会」であって「対策委員会」ではないところに注意。

*2:(1)今、うまくいってる時は何もしない。 (2)かつてうまくいったことがあれば、またそれをしてみる。 (3)今、うまくいってなければ、やめてみる。

*3:貧しい家も多い

2005-12-15  《交流》 と 《交渉》

Klee “Legend of the Nile”

最近、生活の管理の仕方が変わってきました。

仁愛大学 仁愛大学を含むブックマーク

13日に福井入り、14日に授業ゲスト出演(学部と大学院)。なんと記録的な豪雪でJRが運休、14日に帰れず、急遽もう一泊(宿をご用意いただいた)。このイレギュラーな宿泊も含め、きわめて実りの多い時間。▼お招きくださった三脇康生さん、お世話いただいた田中茂樹さん、僕と同じくゲストだった樋口明彦さん、それから授業でご一緒した先生方、学生の皆さん、ありがとうございました。【学生さんの質問にまで元気付けられた。】

気になった争点は、私が提出した《交渉》というモチーフに対し、心理学の先生方から(交渉の前段階としての)《交流》という要因を強調されたことでした。▼「ふれあい」といったモチーフが苦手な私は、やはり社会行為としての《交渉》を家庭内に導入したいし、そもそも「交流」というあり方自体が、一種の《交渉》成立ではないでしょうか。【カウンセリング行為は、それ自体が経済的な支払いを伴う交渉関係です。】

ひきこもりと依存症を絡めつつ、「疾病利得(しっぺい・りとく)」について話せたのも収穫。


『論点ひきこもり』:「田中俊英さんインタビュー『論点ひきこもり』:「田中俊英さんインタビュー」を含むブックマーク

淡路プラッツ」代表で、もう10年以上も引きこもりの訪問活動をされている田中さん。

ネット上や言論界には、ニートや引きこもりの実情をまったく知らないまま意見表明をしている人が多いですが、覚悟を決めて現場に関わっている方のお言葉は、本当に貴重です。


2005-12-13  教育――契約と自発

『中央公論』2006年1月号 甲野善紀×内田樹 p.56-7 『中央公論』2006年1月号 甲野善紀×内田樹 p.56-7を含むブックマーク

内田樹氏の発言より。(強調は引用者)

「これこれを教えてください」と言ってくる人って、学ぶ前の自分と、学びのプロセスが終わったあとの自分が同一人物だと思っているんです。学ぶ前と後で自分自身が主観的には少しも変化しないと思っている。知識や技術は付加価値として「同じ自分」に加算されるものとして考えている。でも、それは“学び”ではないです。それは商品を買っているのと同じですから。消費者は商品を買う前と買った後で別人にはなりません。コンビニで買い物をする前とした後で別人になるはずがない。でも、本当の意味での学びのプロセスでは、学ぶ前と後では別人になっているのが当然なんです。

《教育行為の契約主体》は、「どの時点」での「誰」なのか。*1

学ぶ前の私が契約主体であり、「学んだ後は別人になっている」のが本当なら、私は学びが終わった後に、「こんな教育に意味はない!」と叫ぶこともあり得る。内田氏はそれも含めて、「別人になる」と言っているだろうか。ひょっとすると、「思い通りではなかった、でも事前に考えていたよりも良かった」と素直に認めなければならない、そういう自己になることが決められているのではないか。つまりここでは、「労働過程」としての「教育過程」において、「約束通りに変化する」責務は《教えられる側》にあり、《教える側》にはない。▼この契約行為においては、「教育過程後の果実(生産物)」である自分自身(能動性と人的資本)について、「教育後の私」が文句を言わないよう、「事前の私」が契約に同意している。 ▼そもそも「教育の契約」においては、《教えられる側》が《教える側》を「労働力商品」として「購入する」のではないのか。



NAM生成』(太田出版) 柄谷行人×村上龍 p.69-70 『NAM生成』(太田出版) 柄谷行人×村上龍 p.69-70を含むブックマーク

柄谷氏の発言より。(強調は引用者)

不登校というのは、一種のボイコットだと思うんですよ。僕が二年ぐらい前に突然考えたのは、労働者の運動を生産点を中心に考えるから間違っているということです。労働者が生産点でストライキをすることは難しいのです。労働運動が弱体化してくると、消費者運動や市民運動が盛んになりました。しかし、「消費者」や「市民」などという抽象物は存在しない。彼らは、広い意味で労働者なのです。消費者とは、労働者が、自分たちがつくったものを買う場所に立つときに出てくる姿です。労働者が買わなければ、剰余価値は実現されない。生産点での闘争は困難だけれども、この買う場所での闘争は容易です。ボイコット、不買運動には、資本は勝てない。だから、消費者運動とはかたちを変えた労働者の運動であり、それは、ストライキのかわりに、ボイコットを武器とすることによって、資本に対抗できる。ボイコットには、買わないというだけでなく、売らないというものもある。つまり、労働力を売らない(賃労働をしない)で、非資本制企業で働くということもボイコットです。

 その意味で、不登校というのはボイコットですね。全共闘はストライキだった。それから、「校内暴力」はサボタージュですね。いまは大学生の間に、学生運動がないけど、それは社会的矛盾に面する段階が早期化して、中学や小学校の段階に下降しているからでね。そこに、ボイコットが大量に発生している。実際はともかくとして、君がそこに、新たな闘争のカギを見いだそうとしたことは、重要なヒントだと思う。

自覚的な合理性に基づいた「選択」ではないはずだが・・・。

僕は本の余白に、「症候的ボイコット」と書いている。 【cf.「症候的徴兵拒否」】

症候的自発」(Symptomatic Voluntary)

このあたりはもっと彫琢が必要だ。



*1:この観点については、教育行為の契約に「時間のズレ」が関係するという樋口明彦氏の(私的な会話における)示唆がヒントになった。 【cf. 樋口氏:「就労意欲とは、事後的なフィクションである」】

2005-12-10  症候的自発性

Paul Klee  “新しい天使”

「耐えられそうなトラブル」=「無意識的な怒り」 「耐えられそうなトラブル」=「無意識的な怒り」を含むブックマーク

教科書の一行目から読んでいく作業は、たとえ強制であっても成り立つなら、子供に新しい動機付けの芽を生成させるチャンスになり得る。しかしそれがうまくいかず、拒絶反応の強烈さのみが「症候的自発性」*1として経験されるなら、無理やりの従順さは、自分の中の(取り憑かれたような)自発性の芽をかえって殺すことになる。 ▼知識と技能は、怒りの酵母の客体的労働条件となり得る。


死にたくなっている人に、「それでも《死にたくない》と思う理由は?」と訊くと、たいてい次の2点が出てくる。

  1. 自分が死ぬと、自分を痛めつけた人間たちが喜ぶ。 自分が死ぬのは彼らの「思うツボ」。 死んでいくのが屈辱だから生き延びる。
  2. 自分が大切に思い、自分を愛してくれている人が悲しむ。 悲しませたくないから生き延びる。

それよりも、自分の苦痛のほうが上回ったと判断すれば、いや判断自体が成り立たないほど錯乱すれば――


存在の片鱗として生活圏に巻き込まれ、現実を「生きてしまっている」ことですでにインストールされている怒りがある*2。 ▼誰かへの怒りではなく、自己に内在的でよく理解し尽くせない《怒り》を基点に、自分の生活世界を形作ること。

 「ποιησιs(ポイエーシス)は、あなたも知っているように、広い意味の言葉です。 言うまでもありませんが、存在していないものから存在しているものへと移る場合、その原因となるものは、すべてποιησιsです。 したがって、およそ技術のなしとげる仕事はすべてποιησιsであり、それに従事する者はποιητηs(ポイエーテース)です」*3

「すでに自分が感じている怒り」をもとに、自己検証すること。

「怒りの社会化」を行なうこと。

「怒るために仕事をする*4」こと。


「教科書から入る」より、「トラブルから入る」こと*5

耐えられそうなトラブル」とは、自分の「無意識的な怒り」に近いのではないか。



熱心な教育関係者は、よく次のように言う。 熱心な教育関係者は、よく次のように言う。を含むブックマーク

 若者に、《社会性》を身につけさせなくてはならない。

その《社会性》が恣意的すぎませんか。


 知識を教えるだけではなく、《人間として》育てなければならない。 「教える」と「育てる」は違う。

その言い方では、私の自発性のロジックが、あなた(教育者)の支配下にあるのではないか。 ▼自発性は、あくまであなたに(全体に)順応的に発揮しなければならないのか。 そのような自発性を、「みずから望んで」発揮せねばならないのか。*6



アカロフ「Economics And Identityアカロフ「Economics And Identity」を含むブックマーク

「Abstract」を訳してみた。

この論文は、「アイデンティティ(個人の自己感覚)」がどのように経済結果に影響するかを考察する。私たちは、振る舞いの経済モデルに、「アイデンティティ」に関する心理学と社会学とを組み入れる。私たちが提案する効用関数では、「アイデンティティ」は異なる社会的カテゴリーと、これらのカテゴリーに属する人々がどのように振る舞うべきかに関係する。さらに私たちは、アイデンティティがどのように個々の相互作用に影響できるかを示す、単純なゲーム理論モデルを構築する。この論文はこれらのモデルを、職場における性差別、貧困と社会的排除の経済学、家事分担などに適用する。「アイデンティティ」の考慮は、それぞれのケースにおいて、それまでの経済分析の結論を実質的に変化させる。

人々の「動機付け」の生態を、よりリアルにモデル化しようということらしい。

とっても興味深いが、まだ実態がわからない・・・



*1:反復強迫 ← 「死の欲動」(快感原則の彼岸)

*2:怒りはたぶん愛と関わる。

*3:「プロトリテラ:「文学」の出自」より

*4横浜でのイベント時の玄田有史氏

*5:興味を持てそうなトラブルを探り当て、そこから業界や文脈に習熟してゆく。

*6:cf.「自発と強制

2005-12-09  《交渉と契約》――「動機付け」と「不能」

出発点:「兄が引きこもり、リアルで氏んでほしい*1 出発点:「兄が引きこもり、リアルで氏んでほしい」*1を含むブックマーク

1 :さやか :2005/11/18(金) 08:40:51 ID:TIxiS8Q30

  夜中にこそこそ冷蔵庫漁るなカスが

18 :(-_-)さん :2005/11/18(金) 09:06:43 ID:???O

  ホントは冷たくされるのが怖いから

  夜中にコソコソ起きたりするんだ。

  このまま突き放し続けたら

  対人恐怖症とか、精神病になると思うぞ。

45 :さやか :2005/11/18(金) 20:14:58 ID:???0

  はぁ?家族だからって最低限の義務も果たさないやつがいつまでも暖かくされると思ってんの?

  あんたらおかしいでしょ、父も23になったら放り出すって言ってたよ

  死のうがどうなろうがしったこっちゃないって

48 :(-_-)さん :2005/11/18(金) 20:17:38 ID:???0

  1さん、うちの兄も25にもなってヒキコモリです

  気持ちわかります、ほんと消えてほしいですよねゴミ人間

61 :(-_-)さん :2005/11/18(金) 20:38:23 ID:???0

  うちの兄もひきこもりです。冷蔵庫は漁りませんがよく親に飯作れとか命令するし。

  早く死ねばいいと思う。

65 :(-_-)さん :2005/11/18(金) 20:55:13 ID:vXhWoizE0

  ヒキコモリ本人にはわからないだろうけど

  身の回りにヒキコモリが居る家の人間はみんな1みたいに思ってます

  本音を言われてうざいと言うようじゃ社会じゃやってけないよ

95 :(-_-)さん :2005/11/20(日) 07:48:15 ID:0ARI2cg2O

  ウチにも引きこもりいる

  いっそのこと自殺でもしてくれってみんな思ってる

  家族だから暖かくしろって身近に引きこもりが居ない

  人のきれいごとだと思う

102 :(-_-)さん :2005/11/20(日) 13:33:29 ID:???0

  姪がひきこもり

  中卒18歳でデブでオタク 体重は0.1トン位

  いわゆるゴスロリ服愛好者でリスカ馬鹿

  掃除洗濯料理はまったくしない。

  義姉が長生きするか

  死ぬ時はデブを道づれにしてくれる事を夫婦で切望。

129 :(-_-)さん :2005/11/28(月) 00:04:30 ID:???0

  ごめん。マジレスで長文スマソ

  2年ひきこもっているのは自分のせいだとという遺書があったよ。

  親父は泣いてたな・・・。警察とかもきて色々聞かれたけどよく覚えてない。

  親戚や学校の担任もきて慰めの言葉だったようだけど頭に入らなかった。

  俺が母さんを殺したようようなもんだ。いまから自殺する。

  ここに書き込んだのはこれが一種の遺書になると思うから。

  2chに出会ってよかった。いろいろ話ができて幸せだった。



《交渉》と動機付け――「教育」と「労働」を駆動するもの 《交渉》と動機付け――「教育」と「労働」を駆動するものを含むブックマーク

ひきこもりの話は、「抽象的規範としての閉じこもる権利」*2を確保したあとは、教育と労働における《動機付け》*3および《交渉》の話だ。 ▼動機付けを極限的に(生をあきらめるほどに)失敗しているが、その失敗において、貧しい形ではあるが「閉じこもる」という状態像に向けて動機付けられている(最後の自衛手段として)。 その状態は、家族との交換関係において成り立っている――いや、多くの場合において、実は「成り立って」いない。


斎藤環は「数人の仲間ができればあとは自分で動いてゆく」というのだが、これは「動機付け」要素を「仲間関係」に限定している*4。 私自身や周囲の様子を見ていると、これはどうもあまりうまくいかない。 「仲間ができる」までは行っても、「就労する」ための動機付けにはなりにくい。 要するに「生命」がかかった状態において初めて「就労するか否か」が根源的に問われ、仲間関係はそこにおける重要な支援要素(動機付け)となる。 問題はその前段階にある、家族との交渉関係だ。 ▼賃労働は耐え難い。 生きなくてすむなら働きたくない。 「生き延びなくてはならない」という狂信的確信があるからこそ、軋轢が生じる。 ▼「働きたくないが生き延びたい」という人間は、必然的に周囲に扶養を強制している。 その願いも、もちろん交渉関係において、等価交換的に成立し得る。 《交渉》が成立しなければ、それは当事者側から家族に向けた強制行為になる。 「親の意図せざる扶養行為を無理やり継続させている」。 ▼「本当に死にたい(殺したい)のか?」という動機付けが、たぶん最終的な交渉テーマになる。【自分自身との交渉も含め。】


当事者が発言権を得る(上野千鶴子『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』)とは、当事者自身が教育的機能を周囲に発揮することを意味しないか。 医療や支援の関係を、労働における「される」ことと考えれば、当事者主権とは当事者による周囲への労働(「する」こと)と言える。 ▼当事者における、「される」「順応する」ばかりではなく、「する」「教育する」の側面が重視されるべき。――だとすれば、それは無際限な権利であっていいはずはない。 当事者による権限濫用もあり得る。 つまり「当事者主権」とは、「教育者の権限」を参照する必要を内在的に持つ。*5


過労児」に典型的なように、ひきこもりというのは、順応労役の破綻と言える。 つまり受動性の破綻において自分が動機付けられなくなった状態。 だから立ち直りとは、「順応の再興」ではなく、「能動性の再興」にあたる。


社会参加には訓練=教育を必要とする。 「教育される」モチベーションは何だろう。 ▼社会参加に向けて動機付けられないのであれば、「教育される」動機付けは生まれない。 【「自己を教育する労働」への取り組み】

「教育される」動機付けが生まれないまま、「消費主体+苦悩実存+加害者」としての時間が延々続く。 昔は共同体的な生活環境が「教育」的=「労働への急き立て」的に機能したが現在はそれがなく、個人関係は経済的交渉関係(労使・顧客)以外には影響力を無視できる。→ クレームをつける家族自身が孤立している。 ▼上記のような「当事者主権」の見地に立てば、ひきこもり当事者が周囲に漏らす鬱憤は「権力のない教師の愚痴」だ。 「どうして理解してくれないのか!」云々。 ▼繰り返すが、教師に職権濫用があるように、当事者権限にも濫用がある。 無際限に権力=権限=権利が使えるわけではない。 権利は有限なものだ。 その限界確定に、自己言及的な《批評=教育》がある。それは同時に人的資本蓄積のプロセスになっている。 ▼個人の自己管理力や規範意識も「人的資本」の一環となる。(ハイデガーにとって「存在論ができる」ことは彼の人的資本だった。→ 何をもって「人的資本」とみなすかは、時代的・政治的な判断。)

厄介なことに、《交渉》こそが、ひきこもり当事者の最も苦手な社会スキルだったりする。 逆に言えば、《交渉》の契機の中に、育むべき社会スキルと「動機付け」の萌芽がないか

    • ★《交渉=契約》の階層性。 家族レベルから、国家レベルまで。



稲葉振一郎氏の発言から引用 稲葉振一郎氏の発言から引用を含むブックマーク

論点を(また)整理するよ。

ところがここから、つまり労働需要をいかに喚起するか、をめぐってひとつ対立が生じる。リフレ派としては基本的にマクロ的総需要を喚起して、そこから派生的に労働需要を喚起するという提案をするのみであるが、内藤、そして本田由紀の場合には(どうも不分明なところが多いが)、労働需要の直接的主体たる雇用者、企業の構造改革を望んでいるように思われる。更に本田の場合は、そして最近では内藤の発言においても、これに加えて学校教育における職業教育的側面の見直しを含めて、労働市場構造の総体的な改革が展望されている。

 そうなるとリフレ派には、逆説的にも、内藤や本田と玄田有史との区別がうまくできなくなってしまうのではないか。少なくとも私はそうである。ことに労働市場改革を強調されると、それもまた一種の「エンパワメント」としか理解できない。そして玄田に対する批判も一種の近親憎悪に見えてくる。つまり無反省に(あるいは確信犯的に)エンパワメントを高唱する玄田に対して「恥を知れ」と言っているだけであり、自らは恥を知りつつつつましく別様の「エンパワメント」を構想している――と。

 たしかに、時にニート層の人々自身の「責任」を問う方向にぶれる玄田に対して、あくまでもそれを否定しようとする内藤、本田の気分には共感できるし、それは健全だと思う。しかし代わりに企業や学校の「責任」を問い、そこに問題の核心を見出すのであれば、筋違いではないか、とリフレ派としては考えざるを得ない。仮にそうした不毛な「悪者探し」をするのではなく、誰も責任を取らない/取れない隙間に落っこちてしまった人々のエンパワメントを目指すのだとしても、それは要するに再分配であり、そのための財源を十分にとりたいのであれば、やはり先立つものは金であり、景気総体の回復である。

 そうした「隙間」をなくし、不景気などのショックに対してロバストな経済・社会構造を考える、という課題はそれ自体としては興味深いが、それは今さしあたっての問題ではない。それはまさに長期的な課題としてしかありえない。(おそらくはいかなる意味での「隙間」もまったく無い社会などありえず、そのような「隙間」に対して我々に、究極的には、小手先の対症療法しかなしえない。もちろん「隙間」のできにくい社会を創る、ということの意義を否定するものではまったく無いが。)個人的には、不況をしのぎやすい経済社会は、逆に好景気の恩恵を受けにくい社会なんではないか、とも危惧する。(『教養』第8章参照。)これは多分平等主義とも関係しそうだ。


縮尺1分の1の地図は使い物にならない

もちろんもっとリアルな、現実に近いモデルを求める努力は必要ですが、それはモデルの簡便性を犠牲にしない限りでのことでしょう。もっとも詳しい地図は縮尺1分の1の地図です。そんなものはつかいものになりません。そうではなくて、ツボを抑えることが大事なのです。「リアルじゃない」じゃなく「ツボを外してる」が理論モデルへの批判の基本でしょう。

よりリアルな(かつツボを心得た)人間モデルの探究者の中でも大物と言えばノーベル賞のアカロフですが、最近梶谷さんがレポートしてくれている講演などは、本田さんの期待に応えてくれるんじゃないかな。彼の最近のテーマは「アイデンティティの経済学」ですしね。講演本体がhttp://www.econ.yale.edu/~shiller/behmacro/2005-11/akerlof.pdfで、梶谷さんのレポートがhttp://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20051118#p2からその続きね。




「経済主体の行動原理」の《モデル化》について 「経済主体の行動原理」の《モデル化》についてを含むブックマーク

ケインズ経済学の逆襲!」(梶谷懐id:kaikaji 氏)

さて、マクロ経済学における'the Missing Motivation'というのは何のことだろうか。これは、70年代においてそれまでのケインズ経済学にかわって学界の主流となったミクロ的な基礎付けを持つとされる(新古典派)マクロ経済学が、実は個々の経済主体の行動に関する「モチベーション」に関する基礎付けを欠いているのじゃないか、ということを指摘したものである。


アカロフ先生講演メモ――「動機付け」と「規範」」(同氏)

その批判の理論的コアとなっている、経済主体の行動原理を考える際の「動機付け」の必要性について述べておこう。

 マクロ経済学の「ミクロ的基礎付け」という時、とりもなおさずモデルが個人(あるいは企業)の効用最大化原理に基づいている、ということを意味する。しかし、その際の「効用」とはなにか、という点に関してはそれほど深い考察と議論がなされてきたとは言えず、結局のところそれは金銭的な利得によって代替されてきたといってよい。しかし、実際には個人の「効用」には金銭的な利得であらわされないものも含まれているはずである。したがって経済主体の行動を「効用最大化」として理解するには、そこに働く金銭的なもの以外の「動機付け」に注目することが必要となる

 その「動機付け」の具体例として、アカロフ氏は「登山家がなぜ山に登るか」「教師はなぜ教えるか」「Milgromによるアイヒマン実験」などをあげるが、中でも興味深いのはアメリカの社会学者・ゴフマンによるメリーゴーラウンドで遊ぶ子供の例である。言うまでもないことだが、メリーゴーラウンドで楽しく遊べるのはある一定の年齢以下の子供であり、ある程度大きくなると面白くなくなる(効用を得られなくなる)。なぜか。自分にとってあまりに容易すぎる行為を行うことに対する動機付けが働かなくなるからである。これは大人になってからの仕事にも言えることであり、一定の能力があるにもかかわらずあまりに簡単な仕事ばかりを与えられるとやる気が失われる。これは、個人をしてある行為(経済的な行為を含む)を選択せしめる「動機付け」は、必ずしも金銭的なものに限られない、という一つの例である。

 このような金銭的なものではない行為の「動機付け」を与えるものとして、「規範(norm)」の存在を考えることの重要性をアカロフ氏は強調する。そしてこれまでの経済学における効用理論には、このような「規範」に関する考察が欠けていたと指摘する。

社会に出ることが異様に困難だとして、その困難さを乗り越えてでも就労する「動機付け」はどこにあるか。「侮辱・排除されるから」 「家族に迷惑がかかるから」。 説教派はそのどちらかに向けて動機付けようとするが失敗する。 動機付けがうまくいかなければ《強制》しかなくなる。 ▼本人にはそこで「死ぬ」という選択肢が登場する。【彼(女)が死ぬことを嫌がる人は現実にはいないかもしれない。】



厳密に言えば、 厳密に言えば、を含むブックマーク

実は「動機付け」には成功している場合が多い。

そういう場合には「動機付け」の問題ではなく、要するに「できない」。


整備 整備を含むブックマーク

この執筆作業自体は、私の動機付けを整備するために為された。

何かに取り組んで成果を出すとは、次なる動機付けを準備する作業になっている*6



*1:このようなものを取り上げたからといって、私は自分の家族に言及したつもりはない。 私は、私の家族への侮辱を許すつもりはない。

*2:「生活費の捻出」という経済的要請とは別に要請される、《マトモな人間たるものは働かねばならない》といった一方的規範の無効化。▼経済的要請と、規範的要請は峻別すべきだ。

*3:「人間たるもの働くベシ」という一方的規範を無効化したあとにも、「生き延びる」という課題が残り続けるのであれば、「働くこと・能力を高めること」に向けて動機付けられる必要がある。 その動機付けをあきらめるとは、「死ぬ」ということ。 死に向けて動機付けられる、ということ。

*4:彼は精神科医としての自分のミッションを「仲間ができるまで」に限定している。 「就労に向けての規範注入」などは、斎藤環の臨床思想から最も遠い。――ただ彼は、臨床家としては「過激な折衷派」とのことで、臨床実践においてはいろいろ言うのだろう(このレベルで絡まれている話は不毛すぎる)。

*5:やみくもな権限主張をする当事者に、「教師になる」覚悟はあるのか。 教える側に回って影響力を行使する恐ろしさ。

*6:ひきこもりとは、次なる動機付けを滅却する作業になっている。

2005-12-08  途中経過

フェルメール 「真珠の首飾の少女」

合流と歴史性 合流と歴史性を含むブックマーク

これまではずっと「一人で穴を掘っている」感じだったが、最近、いつの間にか「横穴」が通じているような気がすることがある。 ようやくそういう状態になってきた、それぐらいには掘れるようになってきた、ということか。 ▼そうなってみると、自分のしている議論の「歴史性」というものがひどく気になってくる。 自分は今こんな議論をしているが、それは歴史的にはどんないきさつの上に乗っかっているんだろう。 「ひきこもり」についてまともな議論をしている人はほとんどいない気がするけど、個別論点についてはすでに膨大な歴史がある。 ほかの人たちがしてきた議論の成果や焦点が、自分の議論をさらにクリティカルにしてくれるかもしれない。 ▼「議論の歴史性」に注意すること。 そのうえで、ほかの人たちの議論に「合流できる」ようにすること。 【「勉強する」とは、「文脈を知る」ということだし、そこで「合流する」ということだ。】

そんなわけでいろいろ読み散らしているが、読書行為への没頭と、自分の《焦点鮮度》とのバランスが難しい。 読む行為を優先すると「なんで俺こんな本読んでんだ?」ってなるし、自分の鮮度だけを優先すると文脈への合流ができなくなって、独りよがりのナルシスト思考になる。 ▼この辺はでも、アクチュアルな読書行為、《行動としての読書》の難しさなんだろうな。

反省的自意識ばかりになると何も書けなくなってしまう。

ここは少し、勢いに任せてメモ的に書いてしまおう。 反復もいとわず。



斎藤孝『教育欲を取り戻せ! (生活人新書)斎藤孝『教育欲を取り戻せ! (生活人新書)』を含むブックマーク

図書館の帰りに見つけ、本屋の店先であっという間にほとんど読んでしまう。 主張内容には文句があるが、資料として購入。 ▼ひきこもったりニートだったりへの「説教」は、《教育欲》だと考えればわかりやすい。 大人から若者への、若者間での、国家から個人への、《教育欲》。 本田由紀氏は教育が内面をいじることへの強い嫌悪を表明しているが、これは「規律訓練型 → 環境管理型」(東浩紀)をむしろ積極的な提言として、「システム的支援」として遂行することか。 ▼客観的能力としての職能(スキル)と、それを構成するための必然的要件としての内面的自発性*1。 教育における《能動性》という致命的モチーフ。 強引すぎる「内面への介入」を斎藤孝氏は「教育レイプ」と書いている。 ▼過剰すぎる「教育への情熱」という論点において、システムと能動性の関係がクリティカルに問われる【→ そこにおいて中間集団が果たす機能】。 ▼自分の自分への教育熱。 オタクの人が漫画世界に習熟するような、即自的没頭による人的資本蓄積*2と、自己を対象化して為される苦行のような自己教育(人的資本蓄積)。



規範と人命――「教育的介入」と「環境改善」 規範と人命――「教育的介入」と「環境改善」を含むブックマーク

摂食障害や不登校・ひきこもりへの医療的介入には、「医療の形を取った教育的介入」という要素がないだろうか。▼だからといって単にそれを悪者視はできないのが難しい。現実に人の命が懸かっているのだから。放置は事実上の「見殺し」を意味する【→「人権か人命か」】。 ▼たとえば引きこもりについて、「いつまでも好きなだけ閉じこもっていればいい」というのは、《規範》としてはぜひ確保すべきだが、現実の経済生活の問題としてはそれは「見殺し」を、つまり「悲惨の中に放置すること」を意味する。▼だから、「いつまでも閉じこもればいい」とのみ言う人は、最終的には当事者の扶養責任を引き受けるべきではないか。――ただしややこしいのは、そのような盲目的な規範ですら、個人を支えるに当たって役に立つ場合がある、ということだ(想像的誤解が個人を支える)。 ▼たとえば「不登校」は、実際にそのような状態に立ち至ったメカニズムは、「選択した」などというわかりやすいものではない。 しかし「選択したんだ」という想像的(imaginaire)な誤解が、短期的には、そして「社会的居場所を獲得するためには」、重要だったりする。 ▼マルクスに倣って言えば、「選択したんだ」という惨めな思い込みを解除するには、そういう思い込みを必要とするような、つまり登校する以外に選択肢がないような貧困な現実を改善するしかないのではないか。「選択したんだ」という思い込みは「不登校者のアヘン」かもしれないが、そういう思い込みを必要とするほどに現実の境遇は困難なのだ。



小田中直樹氏:「本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』小田中直樹氏:「本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』」を含むブックマーク

 「ポスト近代型能力」は「近代型能力」を身に付けるために必要な能力であり、したがって後者のメタ次元に立つと考えるべきではないだろうか。

 年内は「主体性を教育する」という営みの可能性について書いて(正確には「書きなおして」)いるところだし、年明けからは「知識量と興味関心と思考力の関係」について書く予定なので

今日の僕のエントリーの霊感源の一つ。



「当事者」と「こども」 「当事者」と「こども」を含むブックマーク

一部のロマン主義者にとっては、「こども」というのは、「絶対的な《当事者》」ではないだろうか。 天使であり、不可侵であり、崇拝の対象なのだ。 ▼「《当事者》というポジションの無際限な絶対化」と、「オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)」とは、論点として関係しないか。 ▼そうはいっても、当然ながら、「当事者」や「こども」は尊重の対象なのだ。

→ ここにおいて、「当事者を批評する」*3というテーマと、「子供を教育する」というテーマとが、その困難さにおいて並行しないか。 ▼「教育すること」と、批評的侵襲と。



リスク管理、セーフティーネット リスク管理、セーフティーネットを含むブックマーク

TV番組「犯罪被害者 どう補償するのか」を部分的に観たが、犯罪被害について民事的に損害賠償を求めようにも、加害者に賠償能力がなければ「泣き寝入り」するしかない。 リアルに想像すると愕然とする。 ▼最近、建築士による構造計算書偽造が問題になっていて、公的に補償するか否か、という話が出ている。 すでに何人もの論者が指摘しているが、被害が軽微か少数者である場合には、まだしも直接的補償が検討されるが、極端に大規模な被害の場合、損害は放置される*4【善悪云々の前に、まずどうしようもない事実として】。 ▼社会参加の困難さの一端は、セーフティーネットの難しさに関連すると思う。 「お互いを支え合う」のではなく、自分を犠牲にして「巻き込まれる」という感覚。 過労死もそうだが、「わけのわからない論理で完全に手綱を握られる」恐怖。 それでも、脱落すれば死ぬしかなくなる。

僕の知人の何人かは殺人的なスケジュールで働いているが、それは事実上、偶然的事故の重なりによってそういう状況に「追い込まれて」いる。 精神はトチ狂っているが、マトモに物を考えている時間や余裕はなくなり、冷静に考えればあり得ないような判断を重ねて「こなす」だけの毎日が延々と続く。 ▼危機管理の問題が、自己責任になりすぎていないか。 社会に「踊り場」がない。 順調にのぼるか、転落するかしかない。 ▼「責任なき偶然の被害」は、この社会ではどう扱われているのだろう。



景気と引きこもり 景気と引きこもりを含むブックマーク

景気浮揚すればニート(若年就労)問題は改善する、という意見が経済学の専門家から出ているようで、確かに現在社会参加できずにいる人の一部はそれで大丈夫なのだと思う。 ▼しかし、バブル絶頂期に20歳前後を過ごした私(1968年生)は、景気が良かったにもかかわらず、社会参加できない状態に陥った。【80年代的な消費文化を楽しむ同世代からは完全に孤立した。】 ▼経済学者の議論においては、「景気が良くても社会参加できない」存在は(社会保障の対象として考慮する以外は)政策対象として黙殺してよいのだと思う(良い悪いではなく事実として)。



柄谷行人『定本 柄谷行人集〈4〉ネーションと美学』 p.4-5 柄谷行人『定本 柄谷行人集〈4〉ネーションと美学』 p.4-5を含むブックマーク

マルクスは、商品交換は共同体と共同体の間ではじまり、その結果、共同体の中でも個人間でもなされるようになる、といっている。しかし、当然だが、共同体や家族の中にも広義の「交換」がある。それは、贈与とお返しという互酬制である。これはマルセル・モース以来の人類学者によって強調されるようになった概念だが、未開社会あるいは共同体に限られるものではない。身近な例をとれば、親と子供の関係は互酬的=相互的 reciprocal である。親が子供の面倒を見るとき、それは贈与である。子供がそれに対してお返しをするかどうかはわからない。ただ、親にとってはたんに子供がいてくれるだけで十分に報われたと思うかもしれないし、また、親に対して何もしなかった子供は負債感情をもつかもしれない。こうした事柄は通常、交換とは考えられていない。実際、商品交換から見ると、これは等価交換とはいえないが、当事者たちにとっては等価交換なのである。

親子関係を「公正な交換」の目線で見ること。

「一方的に扶養してもらっている」わけだが、しかし本人としては「生まれたくなかった」。→ 親からすれば、「もう死んでくれてもいいから、扶養することをやめる」という選択肢もあるはず。 子供側からすれば、「扶養をやめてくれていいから、楽に死なせてほしい」があり得る。 命を天秤にかけた交換行為がそこで問われる。 ▼「こんな残酷な世界に産み落とした責任として、死ぬまで養ってほしい」という要求を親に突きつけたとして*5、そこに《交渉》が始まる。 しかし現実問題として、親に扶養能力がない場合、あるいは死亡した場合には、ひきこもり当事者は単に路上に投げ出される。 これは価値観論ではない。 ▼臨床的事実として、長期間閉じこもった人はそれだけ社会復帰しにくくなる。 「なるだけ社会復帰しやすい社会にしよう」という運動はぜひ私も続けたいが、もちろん一部の人にとってそれは間に合わない。 閉じこもることは単に自殺行為になる。 ▼閉じこもることをロマン主義的に語る人は、こうした冷酷な事情を考えていない。



読み手の当事者性を賦活する議論がある。 読み手の当事者性を賦活する議論がある。を含むブックマーク

「論じ手が当事者であれば当事者性を賦活できる」というわけではない。

賦活能力があるのは「より現実的な」議論。

最悪の方法は「説教」だ。



*1:これは哲学や思想史では「主体 subject」とか「志向性」とかの伝統に連なるの?

*2:【参照

*3:【参照

*4:極端な事例は、阪神大震災やスマトラ島沖地震。

*5:現実には、当事者の多くは激しい罪悪感に苦しみ続けている。 「これだけしてもらったのに、こんなことにしかならなかった・・・」

2005-12-07  リアルの遺伝子

パソコンテレビ『GyaO』で、『リング』『らせん』観る パソコンテレビ『GyaO』で、『リング』『らせん』観るを含むブックマーク

【ネタバレ注意】

続きを読む

『論点ひきこもり』:「二流チャット企画――玄田有史氏について『論点ひきこもり』:「二流チャット企画――玄田有史氏について」を含むブックマーク

「ニート」問題をあえてクローズアップした玄田有史氏に対しては、本田由紀氏*1や、経済学者*2などによる批判が存在している。 ▼それを知った上で、あらためて玄田氏の果たしている役割、あるいはその周辺事情について考えてみます。



関西で長時間できるイベントスペースを、どなたかご存知ないですか?「関西で長時間できるイベントスペースを、どなたかご存知ないですか?」を含むブックマーク

以前原稿でお世話になった、黒猫房主(id:kuronekobousyu)さんの呼びかけです。

うまくいけば、稲葉振一郎さんと立岩真也さんの対談が関西で実現するかな。

ほかにも情報をお持ちの方、おられませんか?

  • 【エントリー6時間後(8日13時すぎ)の追記】:
    • 考えてみれば、稲葉さんご本人はまだ「行く」とも何ともお返事されてないわけで、この時点で「会場さえ決まれば!」みたいな話をした僕は押し付け的な先走りかも・・・。 ▼関西(というか地方)にトークイベントが少ないことをずっと残念に思ってきた僕は、実は自分でもひそかに暖めている企画があって(現在は踏み切れずにいますが)、「少しでもお話が動けば」と前のめりになってしまいました。 ▼今回の黒猫房主さんの呼びかけが実現しなくても、これをきっかけに「地方でもトークイベントを」の流れを作れれば、と思うのですが。 ▼あまりに身も蓋もない話をすれば、仮に関西でトークイベントがあっても、僕はお金の事情でなかなか参加できないと思う・・・。 かといって、主催者側の立場で考えれば、参加費を集めなければ活動を継続していけない。
    • 「ひきこもり」に限定した問題としては、そもそも「人を集められる論者・論点」が、登場していない・・・。(ひきこもりの関連書籍は、情報ニーズは高いはずなのに、あまり売れていないようだ・・・。) ▼当事者やご家族の「苦しい!」という事情は、「何らかの対応」を求めてはいるが、ニーズ(需要)として明確な形を取って主張されにくい(「どうしてほしいか」は、本人たちにもよく分かっていない)。 むしろ、「需要に気付かせてくれる」ような切り込みが必要になる。 ▼「すでにある需要に応える」という供給活動ではなく、「需要そのものを開発する」ような供給活動が要る*3。 ▼需要を開発することができるような言論活動。 気合だけじゃどうにもならない。 ▼「解決策を出す」ようなイベントではなく、「どのような需要があり得るか、どのような需要であるべきか」を試行(思考)錯誤する徹底トーク・イベントがあってもいいかもしれない・・・。


*1:【参照1】、【参照2

*2:若田部昌澄『改革の経済学』p.147〜など。【参照

*3:この発想は、僕は『STUDY UNION』代表の関浩成氏から得た。

2005-12-04

自殺:「樹の海自殺:「樹の海」を含むブックマーク

「各界からコメントをいただきました」のところを読んでいたら、今年9月に自死した見沢知廉氏の言葉が。

 人間死んでしまえば、それまでの苦労や未来もなくなってしまう。

 それを無駄にすることだけは嫌だな、と痛切に思い、

 且つそれは無責任な逃避ではないか、と自責した。

今読むと、お一人だけ、「実は死にたいと思っている」ことを吐露してしまっている・・・。

2005-12-02  継続

Klee

論点ひきこもり』:「二流チャット企画:本田由紀さん講演会から (下)」 『論点ひきこもり』:「二流チャット企画:本田由紀さん講演会から (下)」を含むブックマーク

本田さんの講演を通じて、非常に重要な論点に触れられたように思います。



お願いとお詫び お願いとお詫びを含むブックマーク

「年賀状を出したいので、送り先を教えてほしい」というお問い合わせを複数いただいているのですが(ありがとうございます)、現在、公的な位置づけを持つ事務所を開いておりませんので、私的な住所ということになってしまい、お伝えすることができません。

また、さらに多くの方から、mixi のマイミク申請をいただいているのですが(これも喜んでいます)、すべてを受理していると際限がなくなってしまうため、現在はごく身近な友人のみに限定しています(数人だけ)。

ごめんなさい。 でも、ぜひこれからもよろしく!



嘆き 嘆きを含むブックマーク

読まなきゃいけない本がたくさんあって、

勉強が追いつかない・・・


2005-12-01  scream

Munch

関西大学 関西大学を含むブックマーク

12月1日、岸政彦さんの授業にお招きいただき、2コマ参加。

授業後の飲み会も含め、あっという間に時間が過ぎる。

反省点と刺激多数。

【それにしても、「雑談」に苦しむ人があんなに多いとは。】



会話のきっかけレシピ」で使えないかな。 「会話のきっかけレシピ」で使えないかな。を含むブックマーク

雑談をしようとするとき、相手をセクシャルに意識している場合とそうでない場合の違いは何か。

――飲み会で出た提案。



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何年か前の記憶。*1

飲み会後、女性と2人で同方向に帰ることになった。深夜で心配なので、少し遠回りして送っていく。帰宅後、その女性からメール。

 私、彼氏いますから。

読んだ瞬間、台所に突っ走ってコップ酒3杯一気飲み。さらに泥酔して翌日は嘔吐5時間。

「誘ってないってば・・・」

しかし、女性からすればそれは「変な気を持たせないように」という礼儀のつもりだったのかも知れず。これはもうどうしようもない。

女性の男性恐怖は「被害者にさせられる恐怖」だと思うが、男性の女性恐怖は「加害者にさせられる恐怖」ではないだろうか。

加害者になるのが嫌なら、女性とは同行しないこと。どうしても相手が心配なら、疑われる前提でいること。(「わたし彼氏いますから」ってメールが来たら、「あ、無事に帰れたのね」で済ますこと。)



*1:このエピソードは、上記の飲み会の席上で聞いたある男性のエピソードをきっかけに思い出したのだが(女性に言われたフレーズがまさにそのままだった)、ojahum3さんをはじめ、オフラインも含めすでに複数から「僕も・・・」という話を聞いている。▼こういう話題につきものだが、体験している本人はオリジナルに苦しむのに、現象としては極めて陳腐。▼経験はどう考えても陳腐極まりない(まさに永劫回帰)。 創造活動をしてもその取り組みも作品も陳腐な反復。▼ありうべき賭けとしては、「社会的意義」と、創造過程そのものをプロセスとして生き切る、自分の力で試みに生き直してみる――という以外ない。

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