『中央公論』2006年1月号 甲野善紀×内田樹 p.56-7

内田樹氏の発言より。(強調は引用者)

「これこれを教えてください」と言ってくる人って、学ぶ前の自分と、学びのプロセスが終わったあとの自分が同一人物だと思っているんです。学ぶ前と後で自分自身が主観的には少しも変化しないと思っている。知識や技術は付加価値として「同じ自分」に加算されるものとして考えている。でも、それは“学び”ではないです。それは商品を買っているのと同じですから。消費者は商品を買う前と買った後で別人にはなりません。コンビニで買い物をする前とした後で別人になるはずがない。でも、本当の意味での学びのプロセスでは、学ぶ前と後では別人になっているのが当然なんです。

《教育行為の契約主体》は、「どの時点」での「誰」なのか。*1
学ぶ前の私が契約主体であり、「学んだ後は別人になっている」のが本当なら、私は学びが終わった後に、「こんな教育に意味はない!」と叫ぶこともあり得る。内田氏はそれも含めて、「別人になる」と言っているだろうか。ひょっとすると、「思い通りではなかった、でも事前に考えていたよりも良かった」と素直に認めなければならない、そういう自己になることが決められているのではないか。つまりここでは、「労働過程」としての「教育過程」において、「約束通りに変化する」責務は《教えられる側》にあり、《教える側》にはない。▼この契約行為においては、「教育過程後の果実(生産物)」である自分自身(能動性と人的資本)について、「教育後の私」が文句を言わないよう、「事前の私」が契約に同意している。 ▼そもそも「教育の契約」においては、《教えられる側》が《教える側》を「労働力商品」として「購入する」のではないのか。



*1:この観点については、教育行為の契約に「時間のズレ」が関係するという樋口明彦氏の(私的な会話における)示唆がヒントになった。 【cf. 樋口氏:「就労意欲とは、事後的なフィクションである」】