「今日の社会運動と「欲望の断念」について」(id:Arisan)
素晴らしい。 まさに「御意」。
欲望を断念すべきなのは、むしろわれわれ、「通常の社会」に属する者たちの方なのだ。
「汝の欲望を断念してはならない」はラカン派の倫理綱領で、それは想像的なものではなく象徴的なものに関わると思う。 つまり、「欲望を諦めない」ことが「去勢」。 去勢は症候的=受動的に体験された道行きであり、ラカン派はそれを「諦めるな」という*1。 去勢の道行きは欲望の道行きである。 ▼上記引用部分で id:Arisan がおっしゃっている「欲望」は、イマジネールな固執や情念(ナルシスティックな自己確証)のことではないか。 先日のエントリでも触れたが、既存社会がイマジネールな関係(愛憎のるつぼ)を基本としているなら、その場が耐え難くなることは「症候的に体験された倫理」であり得る。
「お前も働け」=「お前も苦しめ」というのは、愛憎のるつぼへの誘い文句か。
社会復帰のロジックが、想像的であっては話にならない*2。 「去勢=欲望」を、想像的ではなく、症候のロジックで語れないか。 そのための環境整備をできないか。
レポート:「ジュディス・バトラー講演会 ―Undoing Gender―」(chikiさん)
「ジェンダー」「セクシュアリティ」の話が、これほど参考になるとは・・・。
背景にあるのは、「承認」は社会的現実の一部をなしているということ。
自己同一性が仮に語りえないものだとしても、別のシステム、別の動作で表現されることはないと考える理由はない。この要求がなされたとき、恐怖、羞恥は明確な申し立てに変容する。
「主張すべき権限は何であるか」ということ。 当事者がみずからを無条件的なメタとして行なう異議申し立て*1は、ベタなチンピラみたいな存在になってしまうのではないか。
このような混乱が生ずるのは、ラカン理論のファルス中心主義を超越的立場ととらえるか、超越論的立場として理解するかが定まっていないためではないか。もちろんラカン理論の価値は、厳密に後者において極まっている。それゆえラカンをモダニストとみなす言説は、ラカン理論が「実体化された欠如」をあたかも神と見なすかのような神学的体系と(意図的に?)曲解することによって成立しているのだ。
ベタなメタ(超越的)ではなく、遡及的に自分の身を切りながら分析する「超越論的」視点が、「当事者」にはどうしても必要なのではないか。 ▼「超越的」と「超越論的」が、《当事者》論の一つの鍵。
*1:去勢なき、無際限な利己主義。 リベラルな断念のない「当事者主権」。