「働いてくれ」――具体的有用労働と、抽象的一般的労働

「働け!」という説教においては、一般的抽象的な《労働》を実現することが求められている。 働けと言っている本人にとって意味のある具体的有用労働ではなくて、「何か働いたことになるようなことをしろ」と言われている。 端的に言えば、お金を稼いで、税金を納めること。 ▼いっぽう、「ひきこもり問題について労働をしてほしい」という要請においては、カネや抽象的労働ではなく、具体的有用労働として「ひきこもりについて何かしてくれ」と言われている。
既存の労働ルーチンに乗らない社会問題に取り組むときには、「何をすれば仕事をしたことになるか」は、それ自体が論争の焦点になる。 やっている本人はいくら労働のつもりで頑張っても、「そんなものは働いたことになっていない」と言われたりする。 ▼「何がひきこもりにとっての有用労働なのか」(何をすればひきこもり問題に役立てたことになるのか)は、まだホットな論争点*1。 一般の労働行為と同じく、「ひきこもりのために努力しました」は、何のアリバイにも言い訳にもならない。
抽象的労働は、目の前の文脈や問題のディテールを見ずとも語り得るが、具体的有用労働は、文脈やディテールへの理解なしには語られないし、そこでしか(局所的にしか)評価されない。*2


ひきこもりに関連して、「履歴書の空白」(働かない期間)の権理は、正当に主張するべきだと思う。 しかし私は、「何をすればひきこもり問題について仕事をしたことになるのか」をつねに考え、そこに従事しようと身構えている。 ひきこもりの経験当事者には、抽象的一般的にではなく、ひきこもりに関する仕事をしてほしいと思っているし*3、どうやら経験当事者とも、そういう形でしか関係を作れない。
ひきこもりには、人間的なエネルギーの投下があり、激しい苦痛を伴い得ることは理解されるべきだとしても、それは他者との関係に置かれていないし*4、そもそも人間の経験する苦痛は、それ自体では労働でもなんでもない(事故・病気・犯罪被害・災害など)。 にもかかわらず、ひきこもりの苦痛には最初から「社会的葛藤である」という性格があり、かつ「働かない」ことが非難の焦点にあるため、「ひきこもっていた間、あなたは仕事をしていたんだよ」という慰めやジョークが、繰り返し話題にされる*5


勤労の義務」は、一般的抽象的労働を問題にしている。 24時間ずっと、私は抽象的な労働の義務に晒されていると感じる(「お前はいま、働いているのか?」)。 いっぽう、身近な人間関係における対人評価は、「あれをやってくれた」という具体的な仕事への評価の形をとっている。 ひきこもり当事者も、つねに他者を仕事との関係で評価しているし、その評価をやめようとしない(cf.「グッジョブ!」「あの会社はダメだ」云々)。 他者への評価について、具体的有用労働への評価から自由になれる人など居ない。
抽象的労働による「義務・公正さ」を要求しつつ、取材もせずに先入観を押しつけるだけの安易な説教それ自体は、ひきこもりについて具体的な仕事をしたことになっていない。 【実はそれは、無条件に全面肯定する立場とあまり変わらない。 いずれも、大文字の前提を押し付けているにすぎない。 ディテールへの労働を放棄している。】







*1:それぞれの方が、ご自分の立場で試行錯誤されている。

*2:ひきこもっている人間に必要であり恐れられているのは、具体的な文脈への復帰。 そこで時間化(斎藤環)が起こり、個人が有限化され、具体的に承認される。

*3:対人支援者になれば良いということではなく、「そもそも何をすればひきこもりについて仕事をしたことになるのか」というところから、議論と仕事を共有してほしい。

*4:仏教者のように「人々のために代わりに修行している」ではない

*5:2000年当時にすでに言われた記憶がある

「作家」の機能

私にとっては、「作家」というのは、「フィクションを作る人」のことではなくて、「世界の引き受け方を提示して実演して見せてくれる人」のこと。 言葉の生産者以外にも、「作家」として学びたい人があり得る。(というか、人物に興味を持つときにはそういうふうに持っている)
生きている時間の多くは、「どうでもいい」という投げやりな態度で満ちている。 そんな中、責任と義務、必然性の感覚について描写し、実演すること。 いわば、「ひきうけて生きる」ことの困難さそのものを引き受けてみること。







バフチン「応答責任の構築学」

ミハイール・バフチーンの世界』 p.89-94 より(強調は引用者)

 1918年から1924年の間に、こうした主題をめぐるメモが、どれひとつとして完成していない一連のテクストの中に示されることとなった。 これらのテクストはそれぞれ違った著作の断片ではない。 むしろ、ある一冊の本を書くためのさまざまな試みを示している。 バフチーン自身はその本に題名を与えていないが、ここではそれを『責任の構築学』〔あるいはバフチーン流の語源意識で言えば「応答責任の構築学」〕と呼ぶことにする。
 この著作は明らかに哲学的ではあるが、ふつうの哲学論文の範疇にはうまくあてはまらない。 これは日常体験の世界における倫理を扱った論文であり、いわば実用主義的価値論である。 倫理的活動は行為として捉えられる。 ここで強調されるのは、行為がいかなる結果を生むかということ、すなわち行為の最終的産物ではなく、生成過程にある倫理的行為、つまり行為と呼びうるような出来事を創造あるいは創作しつつある行為である。 (中略)
 自己というものは、特定の環境にたいする生命体全体の特定の反応として捉えてみると――反射のような、脳が単純な刺激に反応するというレベルから、社会的交流のなかで精神がほかの自己たちに応答するというレベルにいたるまで――定義からしてそれ自体ではけっして完結していない。 未進化の原生動物が、泳いで栄養をとりにいくための溶液を必要とするのとまったく同じように、より高度なレベルにおいては、自己は自分の責任を支えるために社会の他性からの刺激を必要とする

意識が孤立に向けて解離すれば、責任は見えなくなる。(ひきこもり)
むしろ、責任という概念自体に耐えられなくなっている、それに益があると思えなくなっている、でもどこかで罪悪感におびえている、・・・・というあたりのこと。