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[語句説明]

2008-01-31

誰もディテール分析をしない 誰もディテール分析をしないを含むブックマーク

  • 専門性は、難解な本を読むことそのものより、一般向けの分かりやすい本を分析的に検討できるところにある。
  • 「君は医者だね」「君は学者だね」「君は当事者だね」という相互の承認ナルシシズムに閉じているときには、そのナルシシズム自体によるトラブルを分析する努力は、徹底して無視される。 (お互いの関係性自体への分析を行わない集団ナルシシズムの中では、自分たちの条件をきちんと対象化して分析する態度そのものが「傲慢」と見なされる。*1)  ▼自分たち自身が役割意識に閉じるナルシストだからそういうふうにしか見えないのだ、というふうにはどうしても理解してもらえない。 リアルな分析を排除することが、その場の和合を維持している。



*1:「ちょっと哲学を知ってるからと思って」とか、「自分のことを有名人と勘違いしてるんじゃないの?w」とか。 当事者的な分析努力は、この手の自意識系のロジックに徹底して落とし込まれる。 「当事者」をキーワードに自分語りしかしない人たちが、この状況にますます拍車をかけてしまう。

2008-01-30 《制度》

メルロ=ポンティの《制度化》について(強調は全て引用者)。

【追記】

ひきこもりにおいて問題になっているのが《順応》であるなら、ここで記されているような「制度」理解が、政治的-臨床的に必須です。制度の問題をていねいに考えなければ、社会復帰は、自分をモノ化する狂暴な順応主義に支配されてしまう。




金田耕一 『メルロ=ポンティの政治哲学―政治の現象学 (政治思想研究叢書)』(1996) 金田耕一 『メルロ=ポンティの政治哲学―政治の現象学 (政治思想研究叢書)』(1996)を含むブックマーク

 メルロ=ポンティの言語概念のきわめて独創的な点は、身体のもつ表現機能の延長線上に言語が捉えられていることである。「身体的志向性」(intentionnalité corporelle)が知覚野を形成している諸要素を構造化することによってゲシュタルトとして現出せしめ、暗黙のうちに自然的空間を意味づけられた空間へと変えるのと同じように、意味志向はひとりでに語や言い廻しを組織化しながらその内的配置によってある意味を分泌する表現にまで導かれる。換言すれば、言語表現はいかなる主題化も表象も必要としないままにある「スタイル」(style)を呼び起こすのである。あるいは知覚もまた、世界の諸要素に力線・ヴェクトル・水準を与えることによって一つのスタイルを与える表現にほかならない。知覚と言語のみならず身体を使用する一切の行動にはあるスタイルが住みついているのであって、実存はすべて表現なのである(『知覚の現象学 2』p.374)。

 したがって、表現はけっして無から(ex nihilo)おこなわれる絶対的「創造」ではないし、また、表現によって獲得された意味も主観性に閉じ込められたものではない。メルロ=ポンティは、表現行為を、意味を創造する「構成」(constitution)としてではなく、意味を沈殿してゆく「制度化」(institution)として捉えることによって、主観的なものと客観的なもの、個人的なものと社会的なもの、過去と現在とが互いに包摂し交流しあう弁証法として描き出す。知覚の主体は、過去の投企が沈殿して状況となった意味(=「世界の土着の意味」)の世界に位置づけられている。それと同様に、語る主体もまた、過去になされた表現行為によって獲得された意味が沈殿して「すでに意味しつつある用具、またはすでに語りつつある意味(形態論的・統辞論的・語彙論的用具、文学ジャンル、物語の類型、出来事の提示の様式など)」として制度化された世界を生きている。意味志向が受肉された表現にまでもたらされるのは、「私の語っている言語体系、私の継承している文書や文化の総体が表している自由に使用しうる意味の体系」に、みずからに身体を与えてくれ象徴へと変容してくれるような「ある等価物」(équivalent)を探り当てたときである(『シーニュ〈1〉』p.423)。つまり表現とは、既存の意味体系の諸要素に「首尾一貫した変形」(déformation cohérente)(マルロー)を加えることによってそれを再組織化し、制度化された意味体系の〈地〉の上に新しい意味作用を〈図〉として描き出す作業である。 (p.183-4)

 歴史とは、人間と人間の相互関係および人間が自然と取り結ぶ関係とその組織化から生み出された〈意味〉が沈殿し、制度となった場である。この〈意味〉は、単なる〈観念〉でも〈物質〉でもない一つの象徴体系を形成している。この意味は、われわれの「共存の論理」となって、さまざまな社会的・文化的空間のみならず物理的空間にまで転調されながら浸透し、一切の制度や人間的交渉の様式(政治的・宗教的諸制度、血縁関係、施設、風景、生産など)を貫いている。その一方で、われわれはそれを自分自身の活動のスタイル、「行動の論理」として暗黙のうちに受けとり、それをつうじて自分自身を諸制度のなかに組み入れるのである。 (p.185-6)

 ところで、知覚、歴史、表現の問題を結びつけるメルロ=ポンティの「新しい歴史哲学」の構想において鍵概念となっているのが「制度化」の概念であることは言うまでもないだろう。この概念が、後期フッサールの「創設」(Urstiftung)を転用したものであることはよく知られているが、注目すべきことは、メルロ=ポンティが「沈殿、つまり後で気づきうる(nachvollsichtbar)ような意味の Stiftung の事実」(『世界の散文』p.63)と述べていること、したがって institution をむしろ Stiftung*1 と等置していることである。 「幾何学の起源」において、幾何学のような、その最初の「創設」においては個人の意識領域で産出された文化的形成体がいかにして相互主観的存在となるのかという問題をみずから提出したフッサールは、それを、同じ言語共同体に属する他の主観が「追理解する」(nachverstehen)ことをとおして、精神的形成体が同一であるという明証的意識が生じるがゆえにであると説明する。ここでフッサールが強調するのは、「追理解」が単なる受動的理解ではなく、「以前の産出活動の沈殿物」を意のままにして新たな意味形成作用を遂行する能動的で生産的な活動であることである。もしも「沈殿した伝統に繰り返し働きかける」ことによってそれを再活性化する働きかけがないとすれば、幾何学は「意味のない伝統」になるだろう。それゆえ「歴史」(Geschichte)とは、「根源的な意味形成と意味沈殿が相互に共存し合い、相互に含み合う生き生きした運動」にほかならない。メルロ=ポンティが Stiftung=institution として概念化しようとしたのは、歴史の起源にある最初の意味の「創設」よりも、むしろ能動的「追理解」が孕む再創造と意味沈殿であった。

 この点でメルロ=ポンティは、制度化の概念が、意味構成に拘泥する「意識哲学」の治療薬になると考えている。すなわち、構成された意味は私の主観性と現在に閉じ込められた意味であり、そこには私と他者、現在の私と過去の私とが共に帰入しうるような共通の意味は存在しえない。これに対して、制度化された意味は、主体の活動を直接に反映する意味ではなく、後になってその主体自身によってであれ他者によってであれ捉え直され「追理解」されうるものである。 制度化の概念を導入するとき、過去の経験は、意識の意味付与によってはじめて思考可能になるようなそれ自体では無意味な出来事の系列ではなくなり、一連の諸事実を思考可能にするような意味を沈殿させてゆく出来事の系列であることになる。それは、過去の出来事のなかにすでに沈殿している意味を捉え直し、変形することによって新たな意味を設立するが、この意味もまた沈殿して、後続する世代によってふたたび捉え直されることになるのである。歴史とは、このような意味の設立、「ある後続への呼びかけ、ある未来への希求としての一つの意味の沈殿」*2としての出来事の秩序にほかならない。そして制度化された意味は、私と他者、現在の私と過去の私の間を結びつけている「蝶番」(charnière)であり、われわれが世界へと内属しており、歴史のなかで共存していることの「帰結」でありまた「保証」なのである。 (p.186-8)

 歴史的・人間的・文化的世界を形成する行動がヘーゲル的意味での《労働》としてではなく《表現》として捉え返されるとき、歴史はさまざまな表現の意味が物によって媒介され制度化された場、つまり「象徴的環境」として考えられることになる。 (p.192)

 言語行為が原テクストを翻訳するのではなくみずからテクストを書きつける行為であるように、《合理化》とは、隠された意味の「顕現」ではなくして、まさしく意味の「到来」であると言わねばならない。 そして、生活の場に到来した《合理化》という意味がひとたび制度化されるや、以後それは、生活の諸要素を組織化する体系的原理、歴史のあらゆる次元に見出される構造の「象徴的母型」(matrice symbolique)となって、さまざまな領域における人間行動にその刻印を押し続けることになる。すなわち、生活の諸領域の隅々にまで《合理化》の原理が浸透し、それに適合しない生活態度を淘汰するようになるのである。 (p.201)




木田元『メルロ=ポンティの思想』(1984) 木田元『メルロ=ポンティの思想』(1984)を含むブックマーク

 彼が、言語行為(parole)と言語体系(langue)、共時態(synchrony)と通時態(diachrony)とを単純に区別し並置するソシュールの考え方に反対するのも、このゆえである。 先に触れた「意識と言語の習得」において彼が、「言語行為 parole をおこなうそのたびに私は言語体系 langue をその全体において目指している」のであるから、「言語行為と言語体系の境界を区切ることは困難である」と述べていたのも、言語行為をすでに制度化された言語体系にのっとっておこなわれる単なる二次的な個人的行為としてではなく、言語体系を創造し、支え、変革してゆく創造的な社会的行為と見ているからである。 (p.214)

言語と精神の営みを、動態的なプロセスにおいてみること。


 メルロ=ポンティは、いわゆる精神物理的事象は世界内部的な因果性によって律されるものではなく、脳はまさしく一つの「形態化 Gestaltung の場」だと見る。

形式そのものというより、自然過程とは別の動態化が問題になる。


 「親子の情のような、人間の身体にすでに刻みこまれてしまっているように見える感情でさえも、本当は制度なのである」(『知覚の現象学 1』p.310)

単に「家族制度」というだけでなく、心の動きのパターンまで問題になっている。


 われわれがその存在のもっとも根源的な次元において間主観的であり、いわば社会的であるからこそ、われわれにとって《社会的なもの》が存在しうるのである。われわれが知覚する対象からしてすでに他者と共有し合う間主観的な物であった。してみれば、デュルケームのように社会的な事象を「物」として、即自的な客体として扱うことの不当さは明らかであろう。 (p.264)

ちょっとこれは・・・要考察。 社会学をやる人たちが、みずからの主体の編成を自明視するなら、そこには「見る主体」のメタの帝国がある。見る主体そのもののプロセスと当事者性を共に問題化するとき(論点化)、メタ的な居直りは、見る主体そのものの「(欺瞞的な)起源の忘却」に見える。


 マルクス主義的弁証法が「唯物論的」と言われるのは、ほかでもない、そこでは人間関係が単なる個々人の行為や決意の総和としてではなく、「物を経由し」物によって媒介されたものとして捉えられるからなのである。つまり、個々人がみずからをある階級的役割や制度へと企投することによって、彼らの行為は必然的に「物象化され」(sich versachlichen)「疎外され」(sich entfremden)るが、それと同時に、それらの役割や制度が一個の独立した力として、個人なしにも存続することになる。 人間関係は必然的にそれらの役割や制度を経由せざるをえなくなるし、その結果、個々人の運命も彼らの手をはなれてそこで決せられることになる、というわけである。 (p.297-8)

役割へのパラノイアックな同一化を分析し、適切に組み直す。 そこに「制度を使った方法論」(参照)の取り組みがある。


 資本主義のもとで「社会の社会化」(vergesellschaftung der Gesellschaft)、つまり社会の社会への生成が実現される (p.299)

「社会の社会への生成」・・・・「再帰性」という言葉を思い出した。


 すでにお気づきであろうが、彼がここで「制度」という概念に与えている規定はそのまま、やがて彼が「構造」という概念に与えることになる規定なのである。 (p.310)

そうだろうか。 「構造」は静態的で、「制度」には動態的な換骨奪胎の含みがある、と理解しているのだが。




メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの(原著は1964年、この訳本は1989年) メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』(原著は1964年、この訳本は1989年)を含むブックマーク

 言語学者にとっての言語体系(ラング)は、一個の理念的体系であり、可知的世界の一断片である。 しかし、私が物を見るためには、私のまなざしがXにとっても見えるというだけでは十分ではなく、私のまなざしが一種のねじれ、逆転、ないし鏡像の現象――それは、私が生まれたというその一事によって与えられているのだが――によって、まなざし自身にも見えるものとならなければならぬように、もし私のパロールがある意味を持っているとすれば、それは、私の言葉が言語学者によって露呈示されるような体系的組織化を提供するからではなく、その組織化が、まなざしと同様に、自分自身に関係するからである。 身体の身体自身への無言の反省が、われわれが自然の光と呼んでいるものであるように、作動するパロール(la parole opérante)こそは、そこから制度化された光が生まれてくる暗い領域なのだ。 (p.213)

声は、人間個体を離れては存在しない。


 主題化作用そのものがもっと高次の行動として理解されねばならないのだ、――主題化作用の行動に対する関係は弁証法的関係である。 言語は沈黙を破ることによって、沈黙が手に入れようと望んで果たしえなかったものを手に入れる。 沈黙は言語を包囲し続ける。 絶対的言語の、思考する言語の沈黙。――だが、弁証法的関係に関するこうした敷衍は、それが Weltanschauung 〔世界観〕の哲学になるまいとしたら、つまり不幸なる意識ではあるまいとしたら、実践の精神とも言うべき野生の精神についての一つの理説にゆきつくにちがいない。 あらゆる実践と同様に言語活動(ランガージュ)もまた或る selbstverstandlich 〔自明〕なもの、Endstiftung 〔最終的設立〕を準備する Stiftung 〔設立〕であるところの或る制度化されたものを前提にしている。――必要なことは、語る主体の継時的かつ同時的共同体を通して欲し、語り、そしてついには思考しているものを捉えることである。 (p.248-9)

この考察が、ミクロな臨床的-政治的含蓄を持つ。(「ミクロな」とは、主体プロセスの方針の問題であるということ。)


 「自然の制度化」――デカルトの用語。 デカルトは一方で心身分離の立場に立ちながら、他方では心身合一を「自然の制度化(定め)」による原事実として認めた。 『屈折光学』においてもデカルトは、「心が、肢体の位置の認識を介さずに、直接、対象の位置を認識する」ことを認め、それは「自然によって制度化され(定められ)ている(...est instituée de la Nature...)」と述べている。 メルロ=ポンティはこれを institution de la nature と名詞化して使い、しかもこの institution(制度化)という言葉を独自の概念に仕立てあげている。 (p.464)



*1:(1)基金・財団、 (2)設立・創設、 (3)寄付・寄贈

*2:『言語と自然―コレージュ・ドゥ・フランス講義要録 1952ー60』p.44

2008-01-29

精神医療、教育学だけでなく、人間のあらゆる活動に関わる「制度を使った方法論」*1を検討するために、《制度》という概念を勉強し、検討しておきます(こういう作業は今後もつねに継続します)。

【追記】

構造でもシステムでもなく、「制度」という言葉にこだわって分析や検討を重ねること、そこで具体的に訓練や組み直しを行うことが、ひきこもりの臨床にとって決定的に有効であるというのが私の理解になりつつあります。――「精神分析」ではなく、「制度分析」に注目すること。その「制度分析」は、経済学にいうものではなく*2、場所としての自己を論点化すること(参照)、場所としての関係を批判的に検証すること。当ブログがこれまで取り組んできた「当事者」論や、「終わりなき事後的分析」を、この文脈の中で再整理するつもりです。




筒井淳也『制度と再帰性の社会学 (リベラ・シリーズ (8))』より 筒井淳也『制度と再帰性の社会学 (リベラ・シリーズ (8))』よりを含むブックマーク

強調は引用者。

 筆者は「社会学ってそもそも何なのですか?」と聞いてくるとりあえず学生にこう教えている。 「社会学は制度の実態・成り立ち・影響について調べる学問だ」と。 もちろんこう応えても学生はすぐには理解できないだろうが、数年間社会学の講義を行ってきて、少なくとも1時間をかけて「制度」について話せば、たいていの学生には現在の社会学の全体のイメージが伝わるまでになった。 経済階層、ジェンダー、家族を含めた社会学の代表的なトピックを統一的に説明する際に、筆者は制度という言葉以上に便利な言葉を知らない。(p.14)

 新聞のなかで制度という言葉が比較的ひんぱんに使われる文脈は、主に次のようなものである。 「司法制度」「社会保障制度」「医療制度」「会計制度」「休暇制度」「助成制度」など、あるいは「○○制度創設」「○○制度改革」「○○制度廃止」なども多い。 まずこれらから分かることは、制度とは公式的な決まり事=ルールのもとで成り立っている仕組みである、ということである。 (略)

 もう一つ、新聞紙上の「制度」ということばを眺めていて気づくことがある。 それは、制度が「市場」の周りを巡っているように思えることである。 小難しく言えば、市場に任せておけないと人々が考えるところに制度がある(市場を補完するために制度がある)、といえる。 実はこれは経済学が採用している定義である。 (p.23-4)

 前章までで説明してきたのは、主に公式的な制度であった。 制度を市場の補完物としてとらえる以上、これは自然なことである。 では非公式的な制度はどうだろうか。 そもそも非公式的な制度というものがあるのだろうか。

 先に断わっておくと、少なくとも日本語の「制度」という言葉に関しては、非公式的な制度という表現は少々なじみが悪いように思える。 これに対して英語の「institution」は、非公式的なルールや習慣・慣例といった意味を含んでいる。 この本は日本語で書いているのでやはり少し違和感はあるだろうが、ここでは institution の訳語として制度という言葉を使うことにする。 その方がいろんなことを説明する際に便利だからである。

 新制度学派経済学は制度を「公式・非公式のルール」として考えている。 しかし非公式的な制度の意味を考える場合、もう少し定義を緩やかにしてもよいだろう。 たとえば「言語」を非公式の制度として考えると様々なことが説明できる。 公式的な制度はその効力を根本的には強制装置から得ているといえるが、占領下の土地などといった特殊な条件をのぞけば、言語はそういった強制装置を伴っていない。 別に日本の土地でかたくなに英語を話しても、法律で罰せられることはない。 それでも人々は「周囲と同じ言語」を使う。 なぜだろうか? (p.56)

 市場からはじめて制度を説明する経済学的モデルと、そもそも制度から出発して市場や組織を論じようとする社会学的モデルの二つの制度論 (後略) (p.73)


著者のブログ: id:jtsutsui



*1:三脇康生による命名。【参照

*2:とはいえ、無関係ではあり得ないので、逆に既存の「制度」論にも興味が向かうとともに、その興味自体がすでに “臨床的な” 意義を持ちます。

2008-01-27

慨嘆 慨嘆を含むブックマーク

ナルシストの集合においては、本当にていねいな分析をした人間ではなく、ナルシシズムに取り入った人間が勝利する。




「単に理論をやり、単に当事者をやる」の覇権主義 「単に理論をやり、単に当事者をやる」の覇権主義を含むブックマーク

運動体、アカデミズム、当事者(参照)。 この3つを単に対立させるのは不毛だ。 それぞれにおいて、すでに生きている前提の分析が要る。

アカデミシャンは、みずからを現場として分析することを拒否する。支援現場は、みずからがすでに理論を生きていることを否認する。当事者は、「自分は当事者なんだ」のナルシシズムに淫し、差別的な自己優遇と自己嫌悪を往復する。――いずれも、「単に理論をやり、単に現場をやり、単に当事者をやる」でしかない。


ここで必要なのは、理論が現場におもむき、現場に理論をもたらすことではない。それは、無反省な理論的態勢がみずからの目線を疑うことなく、対象領域を広げることにすぎない。 立場がどうあれ、単に「理論を勉強すること」は、アリバイにならない*1。 それは、覇権的な目線の制度を体現し、自分と周囲を支配しようとすること。

    • ひきこもる人の「理論的勉強」は、多くの場合「メタな傲慢さを手に入れること」でしかない(一部の学者と同じように)。 順応主義のナルシシズム。 再帰性の元凶でもある。
    • 「メタな目線の獲得」は、現場や当事者に対して一定の臨床的効果をもたらすし、アカデミックな言説には、政治との関係で機能がある。 しかし、視線の制度的安定化は、またしてもそこに嗜癖的な順応主義の拘禁状態をもたらす。


臨床哲学」や「臨床社会学」が、みずからの目線のディシプリンを疑うことをしないのであれば、「現場的試行錯誤をメタから観察している」だけになる。 現場の試行錯誤から、「メタな収穫を得てくるだけ」であれば、それは現場のディテールに即したリアルタイムの自己解体にならない。



【追記】

はてブ」にいただいた、tokyocat さんからのコメント(ありがとうございます)。

id:tokyocat: 「誰が間違っているわけでもない」のではない、「3者がそれぞれに間違っている」ということ。

まさにその話です。

ひきこもりでは、不毛な「犯人探し」を避けるために、「誰が悪いわけでもない、でもこうなってしまった」という話に落ち着くことが多い。 しかし、それでは自分たちの状況を何も変えられない。 誰か一人だけを悪者にして切断操作するのではなく*2、全員が自分の事情を検証し、お互いに学び、批判する*3。 自己検証の風通しをつねに残し、「当事者尊重」すらもルーチンワークにしない。 具体的改善の作業においては、全員がつねに検証に晒されているはずです。



*1:私がここで語っているのは、「勉強は必要ない」などということではない。むしろ、専門性を知った上での分析や風通しをこそ問題にしている。▼順応することでかろうじて社会復帰した人は、異様に強迫的な順応主義で周囲を威圧することがある。逆に、ものすごく優秀で勤勉な人が、順応主義的でないことがある。

*2:仮に誰かが圧倒的に悪いとしても、その指摘構図そのものを固定化しては安住してしまう。結論としてではなく、プロセスとしての「○○が悪い」。 また改善すべきなのは、制度全体なのかもしれない。

*3:この「全員が」には、社会のほかの人たちや、政治・行政の関係者も含まれます。それは、「社会のせいにする」というのとは違う話であり、自己検証の構図こそが問題になっています。

2008-01-26

「あれは良いですよ。ぼーとした隙間がありますから。」 「あれは良いですよ。ぼーとした隙間がありますから。」を含むブックマーク

ドゥルーズ/ガタリの現在』p.222より*1

 最近、テレビは見ないですね、料理や旅行やお笑いや、騒がし過ぎるんです。見ていると自分が流されていく気がして恐い。代わりにラジオをよく聴きます。あれは良いですよ。ぼーとした隙間がありますから。

これは統合失調症患者の言葉とのことだが、私が10代から苦しんできた「自分をうまく構成できない」苦しさの感じが、見事に表現されている。 風景も何もかも、「自分が流されていく気がして恐い」。 必死に自分で歯止めをかける*2、それが再帰性という自傷行為になる。

「隙間がある」。 その「すきま」が、主体がものを作り始める居場所となる*3。 (「空気を読め」という場合の「空気」には、隙間がない。)


関係に対する、制作的態度

人間関係も仕事も、「順応」や「操作」ではなく、「制作する」という過程的発想がふさわしい。 その制作はプロセスにあって、ひとつの終着点は、それも素材にすぎない。



*1:三脇康生 「いつも「新しい」精神医療のために」冒頭

*2:鏡像の同一性に歯止めることかもしれない。試行錯誤そのものを、自分のアリバイにすること。

*3:先日触れた「凪(なぎ)」は、この「すきま」のことだ。

2008-01-25

受動と能動――「思考の真の敵」 受動と能動――「思考の真の敵」を含むブックマーク

ドゥルーズ『差異と反復』について、『Arisanのノート』より(強調は引用者)。

 なんというか、この本では(書かれた年代から言って当然かもしれないが)、主張が非常にストレートであるという印象を受けるのだ。 (略) 本書の第3章を読むと、とくにその思いが強い。 ここに書かれてるような主張は、すべて「今こそ」読まれるべきものだ。

 その第3章だが、普段の表象的な思考のなかで、それが引き裂かれるようにして、本当の「思考すること」が(強制されて、非意志的に)はじまるというモチーフは、なんとなくだが分かる。

 ブログに何か書こうと思うときは、そういう感じであることが多いからだ。

 何がそれを引き裂くのか(強いるのか)ということが、この本で問われていること(同時に、この本が問うことを強いていること)の全てであろう。

Arisan ご自身が、メタへの居直りではなく、制作動機の部分で語られている。

ひきこもりに取り組むための環境整備として、学問的な(正義論的な)メタ語りも必要だ。しかし、ひきこもりの主体の困難を問題にするときには、主体の制作プロセスを問題にしなければダメだ。


ドゥルーズ『差異と反復』アメリカ版への序文*1より(強調は引用者):

 わたしたちは方法*2にしたがって思考するだけなのではないと、私は言いたい。他方、程度に多少はあっても、暗々裏の、暗黙の、そして前提された「思考のイメージ」が存在するのであって、わたしたちが思考しようと努めるとき、まさにこのイメージがわたしたちの目的と手段を決定するのである。たとえば、思考はよき本性を所有し、そして思考者はよき意志(「自然的に」真理を欲すること)を所有しているということを、ひとは前提にしている。ひとがモデルにしているのは、再認であり、つまり共通感覚〔常識〕であり、同じものと仮定されたひとつの対象にもとづくすべての認識能力の行使である。人が指し示すのは、戦うべき敵であり、誤りである。そう、人が指し示すのは、誤りでしかないのだ。そして、真なるものは、解に、すなわち答えとして役立ちうる命題に関わっているということを、ひとは前提にしているのだ。以上が、思考の古典的イメージである。

 そして、このようなイメージの核心に批判の矛先を向けたというのでなければ、命題的様相をはみ出る諸問題にまで思考を導いていくことは困難であるし、あらゆる再認を免れるいくつもの出会いに思考を及ぼすことは困難であるし、誤りとはまったく別の敵に、つまり思考の真の敵に、その思考を立ち向かわせることは困難であるし、思考を強いるものに到達すること、あるいは思考をその自然的な麻痺から、またその札付きの悪しき意志から引き離すものに到達することは、困難なのである。


医学・心理学・社会学などの既存学問の専門性は、それ自体としていくら “専門的” になっても、ひきこもりを内在的に考察したことにならない。 制度化された専門性は、それ自身に「思考を強いるもの」を、まったく扱わないから。 制作プロセスがまったく扱われない。

むしろそうした専門性を素材に、専門性そのものを対象化(論点化)する考察が必要だ。 「専門性の対象化」*3、その共有にこそ、決定的な臨床的要因がある。 それは単に専門性を無視することではない。

東京シューレは「医療化(病気扱い)」のみを敵対視したが(参照)、さらに言えば、「思考の古典的イメージ」こそが問題だった。そしてこのことは、東京シューレだけの問題ではない。


 まさに『差異と反復』第三章こそが、いま私にもっとも必要でありもっとも具体的であると思われる。 そして、わたしたちが、樹木のモデルとは対照的なリゾームの植物的モデルを思考のために援用するときには、その第三章こそが、『差異と反復』以降のもろもろの書物にまで、しかもガタリとの共同研究にまでも、樹木的思考ではなく<リゾーム-思考>を導入しているように思われるのである。

 (ドゥルーズ『狂人の二つの体制 1983-1995』p.162)

Arisan のいう第三章を、ドゥルーズ自身が名指している。



*1:『狂人の二つの体制 1983-1995』p.161-2

*2:【上山注】: ここでいう「方法」とは、学問や実務の手続き(ディシプリン)や、運動体のイデオロギーのことだろう。

*3:これは、労働環境の対象化でもあるはず。

2008-01-23

思考するとは 思考するとはを含むブックマーク

フーコーについて語るドゥルーズ。

 けっきょく、彼にとって思考するとは、耐えがたいこと、生きられた耐えがたいことに反応することなのです。

 (『狂人の二つの体制 1983-1995』p.118)



意識自体がすでにゲーム制度 意識自体がすでにゲーム制度を含むブックマーク

ゲームに参加する主人公の自意識*1でありつつ、それを考える自分の意識自体がすでにゲーム制度を生きている。ゲームを降りても、意識はすでに制度を生きる。

他者とのあいだで営まれるゲームに参加しつつ、ゲーム・ルールを改編しつつ。

それだけのことをして、もうあんまり時間はない。



社会参加を、表象としてではなく、プロセスとして論じること。 社会参加を、表象としてではなく、プロセスとして論じること。を含むブックマーク

ドイツ語の「Prozess」*2には、 (1)過程 (2)訴訟 (3)手続き という意味があるが、まさに社会参加をそのような相において見ること。 支援には、その「Prozess」に付き合う批評性=臨床性が要る。





プロセスの危機」 3主題の一致 「プロセスの危機」 3主題の一致を含むブックマーク

以下の3つは、同時に遂行される。 ふつうはバラバラに論じられるが、分解しては臨床的に意味がない。 さまざまな要因が、同時に一致して遂行されるという理解が必要。 ▼論じて組み直す創作が労働過程であり、同時に臨床過程でありつつ、交渉・契約の過程でもある。 生きることは Prozess として営まれる。


  • 契約外労働としての《分析労働》 【労働過程論】
    • 「役割」にパラノイアックに固着することを避けるために、単にそれを降りるのではなく、いわば役割分析をおこない、具体的にそれを組み替える。役割を「交代する」だけでなく、その役割をもたらしているゲーム制度そのものを論点化(対象化・分析)し、換骨奪胎する。
    • 斎藤環は、(東京シューレなどと同じく、)「当事者」「支援者」という役割固定で語りすぎる。 役割固定自体が、臨床上の害悪になり得る。
    • このことは、社会生活や国の制度のさまざまなレベルで語り得る。


  • プロセスとしての《フレーム形成》 【精神病理学】
    • 「自分の現実を構成できない」*3、「去勢のフレーム問題」。
    • 講演「ゲシュタルト概念の転成」で合田正人は、動的生成過程にあるフレームの話をされていた。 分析労働と関係の組み直し自体が、フレーム形成の内発的プロセスになる*4
    • 斎藤環は、メタに去勢を語るだけで、現場と理論が分離されている。 「制度と実存の関係を論じ、作業場のフレーム自体をリアルタイムに組み直す」という視点がない。 それは臨床に必須なのに。 斎藤自身が、あくまで「観客席」にいる。 作業場そのものに、批評的・内在的に付き合っていない。


  • 現実とのつながり方、リアリティを問題にする《創作》 【美術や文芸の批評】
    • 自分のリアリティを問題にすることは、やり方を間違うとたいへん危険。 ひきこもりで問題になる「再帰性」や「主体の実体化」(斎藤環)は、それ自体、本人が自分のリアリティに縛り付けられた状態。 それは自分のリアリティでありつつ、そのリアリティに自由を奪われている。
    • いわゆる「当事者語り」は、その語る努力自身が、自傷行為のようになる危険がある*5。 本人が自分の現実にどう取り組むのか、その作法や手続きが分析・批評され、危険についてはアドバイスが必要になる。やみくもに「とにかく自分のリアリティを追求すればいい」*6というのでは、自滅的なだけの路線もOKという話になる。
    • 斎藤環の臨床論には、ポイエーシス(制作)の契機が決定的に欠けている。



*1:ゲーム的ナルシシズム

*2:カフカの小説『審判』の原題

*3:【参照1】、【参照2】。 字面だけを見ていれば、これは統合失調症患者の訴える苦痛と似ている。

*4:今の私が理解するドゥルーズの《強度》は、この内発的に形成された分析の強度だ。

*5:永冨奈津恵の警告(参照)や、『こころの科学 (2005年 9月号) 123号 ひきこもり』掲載の拙稿など

*6:斎藤環がラカン派を参照して言う「欲望において譲歩してはならない」(参照)だけでは、「とにかく没頭していればいい」という自己満足的な、また危険な話になってしまう。 ▼そこで目指される《強度》は、嗜癖的なものでしかない(これは宮台真司にもいえる)。

2008-01-22

凪(なぎ)だけがもたらす分析の勤勉なしには、主体の構成も連接もない 凪(なぎ)だけがもたらす分析の勤勉なしには、主体の構成も連接もないを含むブックマーク

三脇康生 「ラカンはラカン派である――ルイ・アルチュセール『フロイトとラカン―精神分析論集』を読む(上)」*1より(強調は上山)。

 ラカンはなるほど主体に深い穴や「分裂」があることを明示した。 しかし「その深淵は主体ではなく、主体のわき、『我』のわきにぽっかり口を開けるなにものかである。 (中略) 『分裂』とは、むしろ種差的な関係ないしは連接の一種で」あるのに「ラカンは、つまるところ、主体の分裂という概念のもとに、なんらかの深淵ないし欠如を主体として設定しているだけではないのか」(p.183)。 引き裂かれた主体があるのではなく、我々のわきに連接としての開かれがあるということこそが問題であるのだとアルチュセールは明言する。

欠如としての、「孔(あな)=亀裂」としての主体という理解は、ラカン派では繰り返されるし*2、私自身も臨床的な恩恵を得てきた*3。 しかし逆にそれは、「孔としての主体」という解釈枠にみずからを閉じ込めることでもある。


 イデオロギー的主体よりも無意識的主体のほうがましであるとか上等であるなどと言っても仕方ないのだとアルチュセールは言っているのである。 おそらく彼の結論は次の一節に尽きる。 「言説も現実対象に実効力を行使しうる。ただ、それはもっぱら当該の実践のなかに割り込み、連接をおこなうことを通じてであり、その時、当該の実践は言説を、実践上の『作業過程』における道具として使用する」(p.185)。 連接の空間を確保せよ! これである。 精神分析はルーティンワーク化する前には、この連接の空間をかろうじて見せてくれるものである。


「連接」は、単に横断的な直接行動ではなく(80年代にはそんなのばっかりだ*4)、場所としての自分を論点化する分析のみがなし得る仕事であり、ラカンの理論は、主体をそうした大事な仕事から免責してしまっている。 その免責は、ほとんど拘禁に等しい*5


「連接の空間」は、三脇自身は「凪(なぎ)」という言葉で繰り返し語っている。 それは、主体構成の困難の苦しみと関係している。 凪がないなら、連接も分析も起きない。 流されるまま持っていかれて、疎外されたまま途方に暮れる。 ここでは主体が、制作過程そのものとして構成されることが問題になっている。

 このような病状の悪化と改善の間で、事後的な見直しの中に患者さん自身が入り込んできてくれる場合がある。それで病状の悪化と改善の間で「凪」のような地点が見いだされることがある。そのような場合には、必ず上記の事後的な見直しの中に、患者さんの居心地の良さを確保しようとする力が働いている。それは若い力のあるケースワーカーさんのやる気であったり、患者の家族の人の病気を正面から受け止める勇気であったり、それらを受けてもちろん患者自身のリズムの獲得する力が機能している。

 私はこの「凪」の状態で機能しているものこそが80年代に日本に紹介された「機械」と名付けられるものではないかと実は思っている。それぞれの機械に接続してくれるように次の主治医へ伝えなければならない。

 (「三脇康生のフィールドワーク」 第3回 2007. 6. 11 「病院を変わるということ」)


ドゥルーズ/ガタリのいう 《機械 machine》 を、凪において遂行された分析と、それによってのみ生じる越境的な連接の話だと紹介している人は他にいるのだろうか*6。 80年代以来、そんな話だとは理解できずに来たことがひどく悔やまれる。

社会であれ、専門性であれ、いたずらに「順応」を目指すのは、収奪された主体構成を目指すことであり*7、それは臨床的にもみずからの構成を破綻させてしまう。 凪における分析*8は、実際にやってみると戸惑うほどしんどいが、流されたまま破綻して途方に暮れるか、現象学的還元のように向こうから襲ってくる凪に逆らわずしんどい分析で連接を試みるのか。 とにかくしんどいが、後者しかやりようがないのではないか。(無理に順応しようとして、破綻してばかりではないか。) ▼セクシュアリティについて言えば、自意識を温存してナンパ道に邁進しても(参照)、歯を食いしばった順応主義でしかない*9。 そこでは、《凪》が徹底して拒絶されている*10


浅田彰をはじめとするドゥルーズ/ガタリ紹介者には、物語で肩を組む “連接” はあったかもしれないが(そこでイメージされる「機械」はなんと幼稚なのだろう*11)、凪だけがもたらす分析の勤勉なしには連接もないとする、事象の最底辺にまで降りてくる分析の政治性*12はない。 前衛党はみずからを分析しない。 機械にならない。


 宇野邦一氏が『ドゥルーズ 流動の哲学 (講談社選書メチエ)』の中で、いかさまなドゥルーズ=ガタリ紹介者が『アンチ・オイディプス』は精神分析を破壊したなどとデタラメを書いてきた*13ことを修正し、精神分析の可能性を極限まで到達させたと書いていることに注目せよ。 あるいは精神分析抜きのガタリはサルトルであることを理解し得ないガタリの翻訳者が大きな顔をして活動家ガタリを語る姿を注視せよ。 80年代の言葉の盗用が終われば遺影を商売にするという訳だろうか? 今こそガタリが「制度を使った精神療法(psychothérapie institutionnelle)」の方法論から持ちこんだ、いわばサルトルを進化させた形での「場の分裂性」の分析(制度分析)をドゥルーズが受けて「自分」が分裂性をもった者になるための分析(スキゾ分析schizoanalyse)をドゥルーズ=ガタリが主張するという経緯があったことの理解を、何年遅れでも深められるかどうかがかかっている。

 (三脇康生 「ラカンはラカン派である――ルイ・アルチュセール『フロイトとラカン』を読む(下)」*14

怒りに貫かれた分かりにくい文章になっているが*15、要点を編集すると:

 ガタリが「制度を使った精神療法」の方法論から持ちこんだ、場の分裂性の分析(制度分析)をドゥルーズが受けて、「自分」が分裂性をもった者になるための分析(スキゾ分析schizoanalyse)をドゥルーズ=ガタリが主張した


これは、主体構成が分からなくなった者のために凪(なぎ)を用意する分析であって、ラカン的に《孔(あな)》に居直るのでもないし、メタ的内容の王国でふんぞり返るアカデミズムの分析でもない。 凪の場所は、ニヒリズムと酷似しつつ、別の取り組みを準備する土壌や空隙となっている。



*1:『図書新聞』2001年9月8日(第2548号)掲載

*2:ジジェクでは、欠如して斜線を引かれた主体(S)が、同じく斜線を引かれた他者(A)と隣接され(SAのそれぞれに斜線)、それが絶対知(Savoir Absolu)のダジャレ的図像になる。

*3:私はアルコールを完全にやめて2年以上経つのだが、その「形式的禁止」において絶大な効果を持ったのがラカンの《孔》の理解だった。

*4:「マルチチュード」は、そういうもの以上であり得るのだろうか。

*5:このことは、ひきこもり臨床論に直結する。

*6:三脇自身の文章では、宇野邦一だけがその例外的な一人だとされている。

*7:労働時間を問題にする「搾取」ではなく、「主体そのものが構成できない」という話。 所有と管理が全面に行き渡った社会において、主体は24時間疎外されている。 それに対して “道徳的に” 怒ってみても仕方がない。 ▼教条的左翼運動は、それ自体が慢性的に主体を収奪する。

*8:ガタリの先達にあたるジャン・ウリは、それを「役割にこだわらないための役割の分析」「ただ働き」と呼んでいる(参照)。

*9:今の私は、いまだセクシュアリティとうまく付き合えないでいる。 でも目指すべきは、ナンパではなく、「凪と分析」の方向としか思えない。 それはたぶん、震災時のコミュニケーションに通じている(システムダウンという凪)。

*10:宮台真司に限らず、アカデミシャンには凪(なぎ)への恐怖を感じる。

*11:ナルシシズムの温存でしかない。 それは「表象としての機械」であって、表象を分析するプロセスとしての機械ではない。

*12:貧困は、分析も正当性も保証しない。 富裕者や権力者の具体的言動を批判するべきではあっても、相対的な「金持ち」云々の属性を攻撃することは、攻撃している者自身のアリバイ作りでしかない(そもそも差別だ)。 ▼単に社会的に排除された支援者には、何の力もない。 ここでは、「プチブル的」な自分の現状を恥じる相対的な自意識ではなく、「自分がすでに居るところ」での分析と換骨奪胎が問題になっている。 カテゴリー化された状態像への居直りや差別は、分析の拒否でしかない。――苦しんでいる本人自身が、そのような居直りをやってしまう(cf.斎藤環『「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論 (中公新書ラクレ)』)。

*13:ここには丸括弧があり、三脇自身による次の一文が入る: 「関西ではこのような誤解のせいで単純で軽妙な美術ムーブメントが作り出された。リビドー身体は器官なき身体と同じであると昔、書いたその責任者は今では美術を離れ、知らぬ存ぜぬを通そうとしている」

*14:『図書新聞』2001年9月15日(第2549号)掲載。▼原文の誤植(丸カッコの位置)を修正し、理解のために「場の分裂性」を鉤カッコに入れさせていただいた。また、原文では「psychothérapie institutionnelle」の訳語として「制度論的精神療法」となっていたところを、最近の三脇自身の訳語提案を参照して、「制度を使った精神療法」とした。

*15:三脇の文体は、既存のアカデミズムや流行言説とは体質ごと異なって感じられる。 そのアレルギー的リアクションは、凪=分析を拒否する「居直り」への怒りに満ちている。 私はここに、不登校や引きこもりにならざるを得なかった自分のアレルギー体質と同じものを見ている。 私の必死の分析は、メタな「知的好奇心」などではない。

2008-01-19

引きこもり:東京都がセーフティネット 予防に特化し支援」(毎日新聞) 「引きこもり:東京都がセーフティネット 予防に特化し支援」(毎日新聞)を含むブックマーク

 東京都は08年度から、不登校経験者や中退者など引きこもりになる可能性がある若者の情報を基に、本人や保護者を支援する「ひきこもりセーフティネット」を始める。予防に特化した支援に行政が乗り出すのは全国初。

《予防》という発想は、それ自体がひきこもりを悪化させる環境因になることが懸念されます*1

制度順応させることを自分のミッションにした人が、“勤勉に” 職務を果たそうとする。 その支援者自身が、自分の制度順応のあり方を分析的に疑ってくれないかぎり*2、「体制順応派」の全体主義みたいなイメージが湧いてきます*3

セーフティネットのプログラムに参加しつつ、単なる役割順応とは別の役割意識を機能させること――そうした作業がないと、「閉じこもる奴はあぶりだせ」になりそうで怖いのですが・・・。(記事の最後で、「育て上げネット」の工藤啓氏のコメントが曖昧で歯切れが悪いのは、そうした戸惑いもあるように感じます。*4

    • とはいえ、この東京都の動きを単に攻撃するのも、教条的な左翼みたいになってしまう*5。 どう転んでも、インフラ整備は必要だし、すでにある社会にどこかで合流しないとどうしようもない(死んでしまう)。 順応=合流をつねに論点化(分析)しつつ、「自分は批判的目線を維持できている」というメタ正義のナルシシズムを卒業しなければ*6

ここで提示された事業を活かしつつ、それを単なる全体主義にしない手作業の分析や交渉が、どうしても必要です*7



*1:場所は失念しましたが、斎藤環氏がどこかで「予防」という発想のまずさをすでに指摘されていたと思います。▼人的ネットワークが道徳の担い手になり、逸脱者を監視しようとする発想は、システム設計そのもののレベルで社会を生きやすくしようとすることとは別です。

*2:当ブログで「制度分析」とか「論点化」と呼んでいるのはその話です。

*3:第二次大戦中の「隣組(となりぐみ)」、映画だと『未来世紀ブラジル [DVD]』などを思い出します。

*4:記事に編集されたコメントは、ご本人の意向がほとんど出ていないこともあるので、工藤啓氏の意向を判断するには留保が必要です。

*5:そういう左翼は、自分たち自身が全体主義であることを見ようとしません。 それは、「反体制であること」における順応主義です。

*6:左翼だけでなくて、ひきこもっているご本人も、こういう「メタ正義」で満足していないでしょうか。

*7:【参照】:斎藤環によるアイデアメモ:「セーフティネットの構築(1)

2008-01-18

自意識が疎外であることと、システムダウン 自意識が疎外であることと、システムダウンを含むブックマーク

震災直後の、日常が機能しない状況でのコミュニケーションは、非モテ談義や、自意識修行系のナンパごっことは違っている。 あの状況を理想化するのは変だけど、自意識とは違うロジックでやらざるを得ない。 システムは壊れているから、「自分は○○だ」「君は○○だよ」というナルシシズムが機能しにくい(「これは非日常なんだ」というナルシシズムはあり得るけど*1)。

文化や言説のすべてが、《自意識》でゆがめられている。 自意識という疎外こそが苦しいのに。

学問であれ、制度であれ、単なる順応主義がまずいと思うのは、自意識強化の方向でしかないからだ。



*1:避難場所から帰宅して直後、懐中電灯を持ったおじさんが、全壊したわけでもない人の家にずかずかと上がり込んできたのは、なんだか微妙だった。あの人は、べつにそういう役割でもなかったと思うんだが・・・。▼逆に言うと、人の住んでる箱を「うち」と呼んでいる異様さを強烈に意識した。 マンションは、コンクリートの箱を区切ってるだけだ。 売られているのは、空間の使用権限。

2008-01-16

ひきこもり支援とWEBデザインの脱カテゴリー指向について(「アンカテ(Uncategorizable Blog)」) 【はてぶ 「ひきこもり支援とWEBデザインの脱カテゴリー指向について」(「アンカテ(Uncategorizable Blog)」) 【はてぶ】を含むブックマーク

思いもよらない角度からいただいた言及でした。

 業界の専門家に圧倒されて、クライアントが自分の問題の核心をうまく言語化できない状況が「ミクロの政治性」ということではないかと思います。

 あらゆる専門知識が内部に微妙な政治性を持っていて、背後にある制度と不可分の関係にある。全ての専門家は、そのような自分の足元を常時掘り起こすことを求められ

ひきこもりの場合、クライアント自身が「してもらう」だけでなく、みずからの思い込み*1の政治性をも掘り崩す必要があり、それがすでに “臨床的な” プロセスになっているのだと思います。

ただしそうした分析は、孤立していると本当に難しい・・・



【追記】

支援者や研究者など、“ひきこもりの専門家” にはいくら説明しても理解されない話が、essa さんには通じています。 本当に意外でうれしい切り口でした。

ひきこもりは、「硬直した労働」*2として成り立っている。支援する側も、硬直した労働ではどうしようもない。支援する側もされる側も、「より風通しの良い交渉や労働はどのように構成されるのか(営めるのか)」と検討したほうが、臨床的にも、政治的含意から言っても、適切なはずです。(そうでないと、硬直した順応主義になってしまう。)

ある目的を満たそうとするのに、すでにある道具立てで直接それを目指そうとする発想自体が間違っている*3

ひきこもっていた本人の言う言葉自体が、古いカテゴリーへの順応主義でしかないかもしれない*4。 ひきこもりは、支援する側もされる側も、追い詰められて、すぐに「順応主義」か「教条的反体制」*5に流れてしまう。必要なのは、置かれた状況の事情に精通しつつ、そこに分析と組み直しを咬ませることです。これは何も大げさなことではなくて、現場で仕事をされている方なら、いつの間にかこなしておられることでもあるのだと思います。――むしろそのような、「単なる順応ではこなせない、しかし単なる怠慢や逸脱でもない」という契機こそが、社会参加には重要なのではないでしょうか。



*1:それ自体が制度

*2:「抑圧」「否認」とほぼ同義に見える。▼他者との関係で換骨奪胎されない労働。それは他者から見れば、何もしていないに等しい。独りよがり。

*3:制度と付き合おうとするときなど、目的限定的には「カテゴリー」が使える。

*4:「当事者」神格化の誤り

*5:教条的反体制は、それ自体が硬直した順応主義です。

2008-01-14

引きこもり百万人、親亡き後どうなるのか!?」(KHJ親の会) 「引きこもり百万人、親亡き後どうなるのか!?」(KHJ親の会)を含むブックマーク

 「もう、引きこもり問題を一元的に扱う課を造る必要があるのではないか」

 昨年4月24日参議院議員の櫻井充医師は、参議院厚生労働委員会にて厚生労働省援護局長と厚生労働省大臣にこの質問を提起し、糾す。

 中村社会援護局長は「引きこもり問題は重要な案件、現在対策検討中」と答弁

18歳まで*1を扱う文部科学省と、18歳以後を扱う厚生労働省が分かれていて、連携が全くないこともおかしすぎます。 苦しみや問題枠としては連続性があるのに。

具体的にこういう動きがあることに注目したいですが*2、気になるのは、そこで機能する「考え方」です。



*1:「不登校」という位置づけ

*2:上記のやり取り以後も、展開があるようです。

2008-01-12

今日老人ホームという名の地獄を見てきた(【2ch】ニュース速報アワーズ) 【はてブ 「今日老人ホームという名の地獄を見てきた」(【2ch】ニュース速報アワーズ) 【はてブ】を含むブックマーク

労働のプログラムと、それがぜんぜん機能しない裸の現実と。

これも《過労》の問題系だと思う。

 キーワードは、“企業” よりも “仕事” である。 企業批判として過労死・過労自殺裁判に取り組んでいた者が、自分自身過労から倒れてしまうという事実 (後略) (大野正和『過労死・過労自殺の心理と職場 (青弓社ライブラリー)』p.15)

みずからが巻き込まれてある場所の、自分自身を含む「制度分析」は、切れば血の出るリアリティを持つ。



映画『青い棘映画『青い棘』を含むブックマーク

衛星放送でやっててたまたま視聴。

にんげんは「なまもの」だ。



なんだろと思ったら」(finalventの日記) 「なんだろと思ったら」(finalventの日記)を含むブックマーク

 実際には、人生は無意識の大海を小舟にのってたゆとうようなもので、ちょっとトンデモな言い方になるが、向う側の自分の声を聴きながらどう生きるかということだろう。(意志というのは、また少し違った必要性はあるが、がんばるものではない。)

 あと、無意識というか身体的な臨界では、ゆったりとした愉悦みたいなものの時空があるといいと思う。身体を解放するような感じとか、美味しいたべものとか、やさしいふれあいとか。

生き延びても、救いがないと感じる。 逆に言うと、期待しないこと。

工夫して交渉して。


2008-01-08

三脇康生 「「表現を持続させる環境に身を曝す」とはいかなることなのかPDF、2ページ目) 三脇康生 「「表現を持続させる環境に身を曝す」とはいかなることなのか」(PDF、2ページ目)を含むブックマーク

 本当は、自分の表現を見直し、展開するべき方向性を自分と話し合い、考え直す空間と時間と言葉を自分に用意することが必須なのである。それでもって、表現を持続させざるをえないような方向へ、自分をさらし続ける身振りが重要である。

ここだけ見ていると、まるで「生活に付け加えて、そのうえで作品を創る」というふうに見える。

批評家にそんなことを言われるまでもなく、すでに生活に「晒されている」。 表現を持続させるために晒すというのでは、表現自体を自己目的化する最悪のナルシシズムであり、それこそ “現代美術” がくだらなく見える理由ではないか。

しかしここで問題になっている「表現」は、むしろ「生きること」そのものと一つになっている。


 狙いはあくまでも単純である。各作家には制作の何を問題化し、何を解決したのか明らかにしてもらう。さらにその結果が、今後、各作家の表現行為を支える足場になる、あるいは新たな足場にとって代わられることが、この企画の意義となるだろう。この意味では、この企画は、各々の作家にとって「中仕切り」となる活動を目指している。しかし作家活動の時間軸で見た「中間」で行う反省会ではあるまい、それには彼等は若すぎる。とすれば空間的な「中」だろうか。とすれば、何の「中」だろうか。ここでは、ひとり一人の表現行為の「中」と言っておく。各々の「中」が各々により仕切られる。むしろ逆に、仕切られることで、「中」が生じるのである。

取り組みの単なる惰性の中に、分析の場所(中仕切り)が制作的に維持されること。 生きてあることがルーチンワークになることへの、分析による抵抗。 ディシプリンや労働環境への「単なる順応」では、使い捨てにされ、投げやりになってゆく。

「順応している」を嗜癖的な言い訳にしないこと。 かといって、単なるワガママや教条的な反抗では、それ自体が不当な惰性でしかない*1。 ここでは、我慢強く分析を維持することが提唱されている。


 しかし表現者の調子は突如として狂う。そういうリスクを背負ってしか表現はなし得ない。調子が狂った時、その時、言葉は、作家の内面へと入り込みセラピーするべきであると私は言おうとしているのではない。美術を巡る言葉の様態が、現在目の前において作られる作品への単なるキャッチコピーではなく、表現活動の環境因子の一つと成れたならば、作家達が何かを見直そうとするプロセスに寄与できる。今や、そのような環境因子になるような言葉が用意されるべきなのだ。その際、当然、日本の美術批評言語の歴史分析が必須の作業となろう。しかし、二つほどの、歴史分析と言いながら自分のサークルへの我田引水的な分析しか今のところ日本には存在していない。また歴史分析のそのうえさらに、美術を巡る言語環境の改善運動が持続される必要がある。私の行うべきはこの二つである。

これはひきこもりに取り組むこと、それを論じることに直接当てはまる。 各人の取り組みを、「制作」のプロセスと見ること。 それをめぐる言葉の様態が、環境因子の一つとなること。 ダメな言葉の環境は、取り組みをダメにしてしまう。

「ひきこもりを巡る言語環境の改善運動」が、「自分のサークルへの我田引水的な分析」*2でしかないなら、それは論じている本人がみずからを論点化できていない。 「批評言語の歴史分析が必須の作業」となる。


 私が教えている大学2年生のゼミでは自作のプレゼンテーションを要求すると、「言葉で言えないものを私は表現しているのですから、そんなことは興味ない」と答えるものがいる。逆に院生になると、言葉で言い切らないと作品に売りが出ないと焦るものもいる。もちろん人によれば、2つの間を行ったり来たりすることもある。この2つの態度の間で引き裂かれるのではなく、この躁状態とこのうつ状態(もちろん躁とうつの入れ換えは頻繁に起こる)の「あいだ」にこそ本来切り開かれるべき場所がある。それを切り開く活動を、それこそ仕切って「中」を作り出す活動を持続していかねばならない。

これは、ひきこもりからの脱出がうまくいくケースとそうでないケースの話にそのまま当てはまる。 まったく “感性” で乗り切ろうとすることと、理詰めで「説明しよう」とすることと。 生活への取り組みは、その両者の「あいだ」を作り出す活動でのみ維持される。 目に見えない分析労働の場所のみが、活動を維持させる。 プロセスに生じる疎外を、されるがままに放置しないこと。


三脇康生においては、精神科医であることと、美術批評家であることは、単にバラバラに「二足のわらじ」であるのではない。内在的にひとつの活動であり、ここで三脇が「作家」について語っていることは、そのまま「精神科医」である三脇自身や、支援従事者全般、また「支援される側」についても言える*3。 各人の取り組む批評なしには臨床は成り立たず、臨床性なしに批評を語ることもできない。

三脇においては、「出会って仲良くする」という意味での「横断性」*4ではなく、関係者の各々がみずからの場所を分析する、その「分析同士の出会い」こそが問題になっている*5。 理論と臨床とを切り分けるのではなく、理論自身を現場として考える分析と、臨床自身がみずからを現場として考える分析*6とが出会うこと。 理論は往々にしてみずからのメタ言説の場所(大学や学会)を分析しないし、現場は現場であることでみずからの制度を分析しない。 お互いに、ただベタに自らのルーチンを(信仰のように)こなしてしまう。 これでは “交流” があっても、和合のナルシシズムがあるだけで、分析同士の出会いがない*7



*1:不当な惰性は、それ自体が教条的であり、順応主義だ。 ▼何が惰性で何が分析なのかは、そのつど判断するしかない。

*2:特定の学問フィールドや政治イデオロギーの自己宣伝

*3:たとえば三脇にあっては、彼自身の分析の共有者や媒介者は、制度上は相手が「患者」であっても、むしろ三脇自身が患者となる。 これは、ふんぞり返った精神科医が「僕こそが患者だけどねぇ」などと笑う尊大な謙遜とは何の関係もない。 分析が遂行されることの臨床的な意義であり、「制度を使った精神療法(psychothérapie institutionnelle)」のプロセスが賭けられている。

*4:ガタリ紹介の文脈で、「transversalité(トランスヴェリサリテ)」の訳語として「横断性」が繰り返し話題になるが、三脇はこの「transversalité」の解釈を重視している。 【参照】:雑誌『思想』2007年6月号 三脇康生 「精神科医ジャン・ウリの仕事――制度分析とは何か」 pp.53-7

*5:本人自身が繰り返しそう述べている。

*6:それらは各々、「制度分析(analyse institutionnelle)」と呼ばれる。

*7:80年代から90年代にかけて喧伝されたドゥルーズ=ガタリは、私にとってそういうものでしかなかった。 ただベタに肩を組む、教条主義的左翼のナルシシズム。

2008-01-07

ueyamakzk2008-01-07

映画『ある朝スウプは映画『ある朝スウプは』を含むブックマーク


【以下、ネタバレ注意】


元気な人にとっては、社会で暮らす一部の人が「宗教に走る」と見える。 しかしひきこもる側からすれば、この社会で働くこと自体がすでに「入信状態」だ。

今は信仰がないが、これから実社会という宗教に入らねばならない*1。――そう考えているかぎり、自分自身への操作主義=再帰性は解除できない*2。 素朴な順応主義は、強迫的な超自我になる(→パニック、自律神経失調、対人恐怖)。

ひきこもっている人は、実社会という宗教に入信できずにいるが、「信仰できない」という形式において信仰状態(アリバイ)を生きている。 真っ白な状態があって、それが「入信する」のではない。 すでに誤解と信仰を生きている*3


作品の最後、繰り返し見た。 「台風が近づいてるのに、北川君と熱海に行った」。 おかしいことが分かっているはずなのに、その行動をやめることができなかった。 「なんでキャンセルしなかったんだろう」。 どうして、北川君の信仰をやめさせられないのだろう。 なんでその彼と付き合い続けたんだろう。 なんでこういうのから、自由になれないのか。 思い込みを解除できない彼と、その彼とつながり続ける自分と。 泣き崩れて、「他人なんだね」と言った瞬間、風通しがよくなる。 うしろのふすまに当たる日光の質感まで、治癒的に機能した。 お互いの思い込みは絶対に重ならない。そのうえで関係をつなぎ、切り、工夫する。 自分と他人の思い込みに無力を装うのではなく、かといって意識的に支配できるとも思わず(それではまた操作主義だ)、ただ分析しながら改編を続けてゆくこと。

監督は「100%の純愛映画」と言っているが、それではまるで「愛」への嗜癖を語っただけに見える。 お互いの信仰と愛着は、嗜癖するしかないなら救いがない。おぼれてゆくしかない。 この映画は、愛の表象というより、分析の必要を痛みとともに教えてくれるものだ。




【参照】:「『ある朝スウプは』の高橋泉監督とのトークです」(宮台真司)

 「やはり性愛よりも宗教が強いのか…」と終わる映画ではありません。 「性愛よりも宗教が強いかもしれないからこそ、むしろ性愛だ」と、全く逆の印象を与えるところが、この映画の「100%純愛映画」というキャッチコピーに相当する部分かな、と僕は思っています。

まったくおかしい。 性愛と宗教を分離するのではなく、「性愛まで含めて宗教」だ*4

 性愛も宗教も、そもそも不完全な存在であるしかない人間に、包括的全体的な承認を与える、数少ないコミュニケーションです。

宮台はここでも、話を「自意識への承認」問題に還元してしまっている。その自意識自体が宗教的に成り立っており、それをこそ解体的に分析しながら関係をつむいでゆくという制作的モチーフがない。 そこから出てくるのは、自意識の朋輩関係のみ*5

宮台は、世界に相対する自意識だけは信仰的ではないと思っている。それが意識的に「選択する」ものだけが宗教だと思い込んでいる。だから「あえて」の話になり、あえて選択する自分自身は分析されない。 「あえて」も何も、すでに信仰を生きているというのに。

宮台の努力は、自意識維持のためになされている。 自意識の、自意識による、自意識のための戦術論。 事後的には、「勝ったか負けたか」のみがある。 戦術は分析されても、自意識は分析されない。




【追記】:

  • 予算3万円の自主制作だというが(参照)、何億円もかけた映画より貴重な視聴体験だった。
  • 「志津」役の並木愛枝(なみき・あきえ)の演技が素晴らしかった。
  • 監督の高橋泉は、トークショーではあまり大したことはおっしゃらないのに、作品のほうがすごい。 「作品で思考する」人だと感じる。
  • 「自意識が丸ごと承認される」のではなく、「分析が承認される」必要がある。分析への承認だから、反論も受ける。しかし、順応競争としての知識比べや点数比べ(ナルシシズムの承認ごっこ)ではなく、凡庸な承認を「認めない」こと、その認めない理由を説明できることが必要。これはしかし、お互いに過酷な分析労働を強いることになる。単なる承認のし合いっこではなく(それでは鏡像=ナルシシズムを慰撫し合ってるだけ)、分析努力の方向を共有する必要がある。お互いは、単に素材を提供する。みずからも素材となる。 ▼自意識が孤立することよりも、分析が孤立することが深刻。政治的にも、臨床的にも。孤立した分析はテロリストみたいな扱いを受ける。



*1:ひとつひとつの会社・学校・思想・学問などは、宗教団体に見える。

*2再帰性というのは、「意識すればするほど出来なくなる」という事情のことだ。 たとえば自転車に乗るときには、操作方法を意識してしまってはうまく運転できない。 自転車に乗るというのは、あれほど細い車輪でバランスを取り、よく考えるとものすごく高度なことをしているのだが、それは「意識しないから」できている。

*3:それをみずから制度と見なして、分析と改編に取り組んでみること。

*4:性愛経験がないという自意識に傷つくことに、私はやはり自分の“信仰”を感じる。 私は、「やらなきゃいけない」というファンタジーに取り憑かれている。――そのように気づくことは、すでに「霧が晴れる」体験になる。▼分析とは、幻想をなくすことではなくて(できるわけがない)、幻想であると知りながら、それを換骨奪胎しながら、それと付き合ってゆくことだ。 自分の意識自体が、制度的・幻想的に成り立っていると知ること。 「あえて」選び取る前に、信仰はすでに成り立っている。

*5:「俺たち、エリートだよな」

2008-01-03

「アリバイ」と「泣き寝入り」――社会生活では、この2つが問題になっている。 「アリバイ」と「泣き寝入り」――社会生活では、この2つが問題になっている。を含むブックマーク

ひきこもっている人には、アリバイがない(24時間オン)。 「働いている人」に制御不能の畏敬(恐怖)の念をもつ。 一方で、アリバイを作る人を「欺瞞だ」と見ている(太宰治的なもの)。


先日メモに書き付けた言葉:「どいつもこいつも、アリバイ作りを生きている。誰も分析を考えない」。 社会生活を成り立たせるとは、アリバイを成り立たせて見せることだ。 自意識とはアリバイ強迫。 ▼「すべて話してしまう」*1のは、むしろアリバイ確保に見える*2


ゲームをする(アイテムを取る・点数を稼ぐ)ことは、アリバイ作り。 鍵を手に入れること。 「受容の理由」にありつくこと。 ▼自分の状態への正当化は、心理だけでなく、関係や社会において成り立つ。 目の前のゲームは、歴史的ないきさつを持つ。

正義(ロールズ)を論じることは、すぐれて「アリバイ作り」になる*3。 アリバイ作りしか考えない自意識(ゲーム的ナルシシズム)は、関係の分析や組み替えをしない。最初に設定されたルールで、「成功すること」しか考えない。ナンパ師の発想。


存在のアリバイ・ゲーム。 労働は、アリバイ。 お金は、解除の鍵。


生まれてきた個人として、何をどうすれば決済したことになるのか*4。 「お金さえ払えばいいことにしておいてくれ」は、当事者性の忌避。 共同体的な責任を免除されること。 責任の近代的な、そしてポストモダン的なあり方。 ドゥルーズ=ガタリが副題を「資本主義と分裂症(capitalisme et schizophrénie)」にしたこと。 ポストモダンにおける思春期と、思春期のポストモダン性(斎藤環)*5。 ▼ジャン・ウリ=ガタリらの「制度を使った精神療法」が、統合失調症の人が耐えられるように場の分析や改編をする政治的臨床であること(三脇康生)*6。 アリバイ作りをモダン的に順応主義のみで考えるのではなく、制度順応自体を分析と組み直しにおいて考えること。 そこでは、アリバイが組み直され、泣き寝入りが組み直される。 アリバイと泣き寝入りの双方が、硬直してはまずい。


「自分はアリバイゲームをしていない」という自意識は、それ自体がアリバイになってしまう。それがひきこもりの再帰性。 「アリバイゲームをしていないぞ」というアリバイに淫すること。 ベタにアリバイゲームを始めると、専門性に淫してしまう(順応への嗜癖)*7


アリバイ作りで成り立つ社会において、いつの間にか「我慢する側」に回っている。他人のアリバイのために煮え湯を飲まされること。それでトラブルを回避してきた。 きちんと交渉しなければ駄目だ。  ひきこもることは、自分が他人に言うべきことを言えないために、家族に煮え湯を飲ませることになってしまう。 「泣き寝入り」以外の生き方ができないこと。


「とにかく順応しろ」というのは、アリバイのナルシシズムに淫しろという命令。 定型的なアリバイは、何かを泣き寝入りさせている。 調達すべきアリバイを間違い、誤魔化してはいけないポイントを取り違えている。 ▼アリバイ調達を無視することは、メタに居直る傲慢だし、かえって周囲に迷惑をかける。そもそも社会生活にならない。しかし、アリバイを固定するのは変(それはまた超然と居直ることだ)*8。 また、アリバイを堅持するために泣き寝入りを固着させてもいけない。 誤魔化しのアリバイと泣き寝入りは、本人自身においてもセットになっている。


メタに居直るだけのアカデミズムや、全体性の自意識に淫するエリート論は、自分のかこつアリバイの細部を見ない。それは、ひきこもって身動きできない自意識と似通う。自分の足元で、アリバイと泣き寝入りの関係を検証していない。――私のアリバイは、誰かに迷惑をかけている。私の泣き寝入りは、誰かに不当な自己満足を与えている。いずれも調整せねばならない。





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ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は副題を「Capitalisme et schizophrénie」といい、2006年に出た新訳でも「資本主義と分裂症」と訳されているが、「schizophrénie(schizophrenia)」は2002年以降、「統合失調症」と呼び名が変わっている(参照)。

「分裂症」の語をあえて採用した理由を、訳者の宇野邦一は次のように記している。

 近年、日本の医学界は、〈分裂症〉に替えて〈統合失調症〉という名称を採用するようになったが、この本は〈分裂症〉をいかに肯定的な「過程」として理解するかを本質的な課題としている。〈統合失調症〉という、それ自体あらかじめ否定性を含んだ命名によっては、この本の主旨をよく表現することができないと考える。

 (『アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)』p.394)


ジジェクは、ドゥルーズ=ガタリが「schizophrenia」を賞賛しているのではないかと批判している。

 今日の資本主義は――これは思ったほどばかばかしい見解ではないように思えますが――、臨床的な意味においてですら、文字通り私たちを狂気に駆り立てているという意味で、心的限界となっているとまで考える社会心理学者も何人かいるのです。

   ――(質問者)これは一種捻れたかたちのドゥルーズ/ガタリなのでしょうか。

 実質的にはドゥルーズ/ガタリの反対だと言ってよいでしょう。なぜなら彼らには資本主義の分裂症、悪いパラノイアという観念があり、それが良い革命的な分裂症へ爆発すると考えているからです。しかし、思うにドゥルーズとガタリは、狂気を、ある種の疑似−精神医学的に称賛することに危険なまでに近づいているのではないでしょうか。狂気とは人々が苦しむひどく恐ろしいものであり、そしていつも思うのですが、狂気のなかに解放的次元を試したり、見出したりするのは間違っているのです。いずれにせよ、社会心理学者が言及している限界は、それよりずっとわかりやすいものです。例えば、アメリカの概算によれば、少なくとも70%の研究者や教授がプロザック、その他の向精神薬のたぐいを服用しているのだそうです。これはもはや例外ではありません。文字通り、働くために私たちはかねてから精神薬剤を必要としているのです。ですからこれが限界なのです。つまり私たちは単純に気違いになり始めているのでしょう。

 (『ジジェク自身によるジジェク』pp.212-213)


三脇康生がこのジジェクに反論している。 以下、「ジャン・ウリとドゥルーズ=ガタリの比較を行ないながら、ラボルド病院の病院環境を巡る思想について考える」*9より(引用にあたり、略された人名等をわずかに付け足した)

 内海健は統合失調症の患者から求めるべきは精神分析家が考えるような転移 transfert ではなく「信頼」であるとしている。

 惚れ込みとは我々神経症者の生が枯渇しないために必要な妄動である。分析治療の枠組みのなかでは、転移という特異な現れ方をする、恋愛に限らず、それは世界を色づかせ、われわれを行動へと駆り立てる。こうした観点からみれば、惚れ込むことのない統合失調症者の世界は、平板で無味乾燥なものに映るだろう。……しかし関係性とは、転移の系に限られるのだろうか。むしろこうした限定が、統合失調症に対して精神療法の可能性を閉ざす元凶になってきたのではないだろうか。彼らは決して妄動しない。またむやみに人を魅きつけることもしない。とはいえ、いかなる関係も持ちえないのではない。ここで「彼らにはもう一つの関係を造る能力があるのだ」という Balint(1968)*10の言葉を思い起こすべきである。……この関係性は、「惚れ込み」のような怪しげなものではなく、端的に言うなら「信頼」である。

 (内海健「統合失調症の精神療法可能性について」、『精神療法』 Vol.31 No.1「統合失調症の精神療法」、10−11項)

(中略) ジャン・ウリはこの内海の論とは反対に、「信頼」という言葉のかわりにまさに転移という言葉を使う。内海=中安のような医者から患者へのすばらしく倫理的なかかわりがあったとしても、それが治療の前提であると認めることにやぶさかではないにしても、週一回の外来診療ではなく長期の入院ともなれば、その医者のいる病院の雰囲気、スタッフの関係性が大きく患者に影響を与え始めるだろう。


「病院の雰囲気、スタッフの関係性」までもが《制度》として論点化され、みずからを含むその環境への分析と組み直しが臨床に活かされる。――ここで三脇が内海を批判しながら論じている「制度を使った精神療法(psychothérapie institutionnelle)」は、ひきこもり支援に「応用される」のではなく、それ自体が内在的にひきこもり臨床の形をしている。そこでは、理論と臨床は(斎藤環のように)分けられるのではなく、具体的に理解して分析することが、そのまま臨床行為になっている。 「心理」を分析するのではなく、すでに生きている制度(関係や心の態勢)を分析する――そういう意味での「場の自己分析」が、「制度分析」と呼ばれる。 心と関係性は分離されないし、メタなアリバイで逃げることもできない。関係も態勢もすでに生きられている。具体的な関係のなかにいる以上、制度分析は全員で問題になる。その意味で、弱者だけでなく全員に当事者性がある。


以下、三脇康生の同論考(p.147)より。(ここでの注は引用者による)

統合失調症についての議論だが、ひきこもり支援にとっても示唆的。

超自我」については、「支配的な制度」と理解できないか。ここでは、その場その場での権威性(課せられた去勢恐怖)の組み直しが問題になっている。 ひきこもる人は、むしろ過剰な去勢恐怖に萎縮している*11

 統合失調症の患者の転移を治療に用いることを否定する(内海健の)論では、超自我は社会に一つしかないかのように語られている。病院も社会の一部だからそれでもよいのかもしれない。転移を治療に用いたといえば、治療共同体の運営がそうかもしれないが、内海はこのような共同体のあいまいなありかた(がゆえに患者を「共同体」に飼い殺しにし、今度は社会復帰ブームに乗ってSST(social skills training)のプログラムの重要性を繰り返し喧伝するだけの左派たち)に怒りを持って、(研修医らを含む若手の医師の)啓蒙に力を入れ始めているのかもしれない。

 いずれにしても神経症圏内の転移をそのまま統合失調症の治療の際も禁忌として内海は呼び出している。しかしウリは患者のいる場の超自我を、社会で流通しているものとは変質させようとしているところがある。そうでなければ患者は居場所を持たない。もちろん、それは患者の囲い込みに繋がるというラボルド病院批判も存在している。しかしそれに対して、ウリは来日した際に*12、「患者はラボルド病院を中心にしてゆっくり社会には出ていくのだ」と主張していた。もちろん、社会の超自我を解体してしまうつもりはウリにはない。

    • このような目論見はフェリックス・ガタリにはあるだろう。超自我を改編していくことを社会革命と捉えていた節がガタリにはある。この意味では、精神分裂病をモデル化したのはドゥルーズ=ガタリの間違いであったというジジェクらの指摘は間違っている。ガタリは分裂病に鍛えられることになったラボルドのシステムを自ら社会運動家として社会へ、組織へ、そしてついにはドゥルーズと共に個人へ(といっても既に個人はドゥルーズ=ガタリという形の二人で)持ち出そうとしたのだ。

 場において超自我をアドホックに構築すること。これがウリの戦略であり、ウリにとっては、場が重要だった。それが病院でも学校でもエッセンスであった*13。 資本主義とある程度の折り合いをつけながら、その場の超自我を再構成する。すると想像界で生じる出来事が幅を利かしはじめる。しかしそこで生じることを享楽jouissanceのレベルにとどめないようにしなければならない。 そうしないための仕組みをラボルドに作り出そうとするのである。 それがラボルドに存在するクラブやアトリエの機能である。


統合失調症は、病いの問題として「自己の成立」が難しくなっている。 ひきこもりにおいては、病気とは別のかたちで「自己の成立」が難しくなっており、それが再帰性や自己の実体化に落ち込んでいる*14

斎藤環のように、ひきこもっている人を「そーっと」大事にするだけでは、「戦場」という比喩で語られる実社会との連続性が扱えない(参照)。 ひきこもり臨床そのものを《交渉》の一元論で捉え、「個人の政治化」の為される政治的現場として捉えるべきだと思う。 自己の成立とその弱体化を、政治的に――つまり、アリバイや泣き寝入りの場で起こっている事態として――捉えること。 支援・臨床の場を《政治化=交渉化》し、そのための分析と関係の組み替えを行なうこと。 臨床の取り組み自身が、間違ったアリバイや泣き寝入りにならないように。




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本年も、よろしくお願い申し上げます。



*1:統合失調症では「秘密を持てない」というが、病気ではない「ひきこもり」とのメンタリティの類似が気になる。

*2:ひきこもりは、アリバイ戦術におけるお馬鹿さんとして現れる。 【参照:「戦術計算におけるバカ」】

*3:女性、障害、部落、生命倫理、云々。 そこでなされる「当事者」論は、往々にしてそれ自体が差別的だ(参照)。

*4:【参照】:拙論「ひきこもりにとっての、別種の決済システムの重要性」(『ひきこもり文化論』p.169-175掲載)

*5:『思春期ポストモダン―成熟はいかにして可能か (幻冬舎新書)』「あとがき」より。 ▼同書で斎藤環は、「制度を使った精神療法(psychothérapie institutionnelle)」を、ガタリの主張が生み出した実践であるかのように書いているが(p.227)、これは端的に間違っている。ガタリは制度論をトスケル(François Tosquelles)やジャン・ウリから受け継ぎ、そのエッセンスを病院外の社会運動に持ち出した(あるいはドゥルーズに伝えた)。

*6:『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』掲載「精神医療の再政治化のために」、あるいは会話での三脇氏からのご教示。

*7:【参照:「“専門性”の踏襲と、分析の維持」】

*8:ラカン派の理論と技法にはこれを感じる。 ジジェクは、ラカン派の分析家を『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターになぞらえていた(『汝の症候を楽しめ』)。

*9:掲載は、平成15-17年度 科学研究費補助金(基盤研究(B)(2)) 研究成果報告書 『病院環境をめぐる思想――フランス精神医学制度の歴史と現状から見えてくるもの』(研究代表者:多賀茂) pp.139-157 ▼この引用箇所とほぼ同趣旨の文章が、雑誌『思想』2007年6月号 三脇康生 「精神科医ジャン・ウリの仕事――制度分析とは何か」で読める。

*10:『The Basic Fault: Therapeutic Aspects of Regression』。 邦訳は バリント『治療論から見た退行――基底欠損の精神分析』、中井久夫訳、金剛出版、1978(絶版)。

*11:それが「発達障害」に見える可能性が気になる。

*12:ジャン・ウリは2005年に来日している。 【参照1】、【参照2】、【参照3

*13:「制度を使った精神療法」とまったく同じ趣旨を持った、「制度を使った教育学(pédagogie institutionnelle)」の運動もある。こちらは、ジャン・ウリの兄であるフェルナン・ウリ(Fernand Oury)が唱導者。 ▼同教育学に取り組むジャック・パン氏が2006年に来日した際、私はひきこもりについて質問した(講演レポート)。

*14:【参照1】、【参照2】、【参照3】、【参照4

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