メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』(原著は1964年、この訳本は1989年)

 言語学者にとっての言語体系(ラング)は、一個の理念的体系であり、可知的世界の一断片である。 しかし、私が物を見るためには、私のまなざしがXにとっても見えるというだけでは十分ではなく、私のまなざしが一種のねじれ、逆転、ないし鏡像の現象――それは、私が生まれたというその一事によって与えられているのだが――によって、まなざし自身にも見えるものとならなければならぬように、もし私のパロールがある意味を持っているとすれば、それは、私の言葉が言語学者によって露呈示されるような体系的組織化を提供するからではなく、その組織化が、まなざしと同様に、自分自身に関係するからである。 身体の身体自身への無言の反省が、われわれが自然の光と呼んでいるものであるように、作動するパロール(la parole opérante)こそは、そこから制度化された光が生まれてくる暗い領域なのだ。 (p.213)

声は、人間個体を離れては存在しない。

 主題化作用そのものがもっと高次の行動として理解されねばならないのだ、――主題化作用の行動に対する関係は弁証法的関係である。 言語は沈黙を破ることによって、沈黙が手に入れようと望んで果たしえなかったものを手に入れる。 沈黙は言語を包囲し続ける。 絶対的言語の、思考する言語の沈黙。――だが、弁証法的関係に関するこうした敷衍は、それが Weltanschauung 〔世界観〕の哲学になるまいとしたら、つまり不幸なる意識ではあるまいとしたら、実践の精神とも言うべき野生の精神についての一つの理説にゆきつくにちがいない。 あらゆる実践と同様に言語活動(ランガージュ)もまた或る selbstverstandlich 〔自明〕なもの、Endstiftung 〔最終的設立〕を準備する Stiftung 〔設立〕であるところの或る制度化されたものを前提にしている。――必要なことは、語る主体の継時的かつ同時的共同体を通して欲し、語り、そしてついには思考しているものを捉えることである。 (p.248-9)

この考察が、ミクロな臨床的-政治的含蓄を持つ。(「ミクロな」とは、主体プロセスの方針の問題であるということ。)

 「自然の制度化」――デカルトの用語。 デカルトは一方で心身分離の立場に立ちながら、他方では心身合一を「自然の制度化(定め)」による原事実として認めた。 『屈折光学』においてもデカルトは、「心が、肢体の位置の認識を介さずに、直接、対象の位置を認識する」ことを認め、それは「自然によって制度化され(定められ)ている(...est instituée de la Nature...)」と述べている。 メルロ=ポンティはこれを institution de la nature と名詞化して使い、しかもこの institution(制度化)という言葉を独自の概念に仕立てあげている。 (p.464)