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[語句説明]

2008-06-30

制度と実存の解離 制度と実存の解離を含むブックマーク

慣習・学問・法人など、制度的なものが既に営まれているとして、そこに入っていくことができない。 先方の拒絶によって、また自分を絡ませられないことによって。本を読もうとしても、拒絶の力のほうが強い。


ひきこもるとは、政治的格闘から撤退すること。 再度社会参加するとは、闘争に復帰することだが、撤退するしかなかった人の多くはただ「順応」する以外の参加スタイルを知らない。 支援者の多くもそれしかできないと思っている。 それでうまくいく人がいるのはいいとして(共同体主義)、順応させようとするしかない方法論が、かえって風通しを悪くしていたら。 敵対的感情も鬱屈するしかない。 それは政治性を抑圧すること*1


再帰性は、脱埋め込みとして営まれる(参照)。 ところが、脱埋め込みの営みが強迫化すると、その自己検証そのものに埋め込まれてしまう。 批判的に見えて、実は極端に順応的な意識。 周囲の世界への「検証」が言い訳になる、息を詰めるような意識。 自分は居留まっているだけで、極端な自己卑下と極端な自己正当化を往復している。 現実との関係を換骨奪胎できないがゆえの、妄想的自我肥大。 「これではまずい」「できない」の意識だけが硬直してループする。 復帰しようとしたら、ただ順応する以外の作法がない。 制度と実存の関係の持たせ方が、極端に貧しい選択肢しか持たない。 検証スタイル自身が硬直している、非常に傲慢な意識状態。 単なる順応は、倒錯的な自己愛の推奨でしかない。 ▼制度との関係そのものへの換骨奪胎が要る。 単に「ありのままに」と弛緩させればいいのではない。 それでは、(80年代ポストモダンのような)多様性礼賛のナルシシズムでしかない。


美術批評に関するこちらのイベントでは、岡崎乾二郎から斎藤環に対して、「アウトサイダーとインサイダーを安易に分けるな」という批判があったらしい。 これはそのまま、ひきこもり論に当てはめられる。 斎藤環の議論は、「ひきこもり」というアウトサイダーをまず設定して、それからその枠内の人たちを別格で評価し、インサイダーにしようとする。これでは、「自分はアウトサイダーなんだ」というナルシシズムを固定してしまう。 イン/アウトを論じる自分を考え直すところから始めなければならないのに(それは単に知的な要請ではなく、臨床的な要請だ)、斎藤はラカン的な「フレーム」をいきなり導入してそれだけで論じてしまう*2。 「論じる」という行為の歴史性が忘れられている、その自分の解離的体質を無視する。 解離したまま論じていて、その解離的な知的ゲームが受けている。 知的解離そのものによって生じている臨床的苦痛には無力。 みずからが解離したままで、解離の悪を論じている。




交渉の体質 交渉の体質を含むブックマーク

秋葉原の事件で、犯人が「派遣労働者」ではなく「ひきこもり」でしかなかったら、世間や政治はどう動いただろう(参照)。 既存の問題構図に事件が利用される*3

本当に弱い立場にいる人間にとって、声を届かせる方法は「人を殺す」しかないのか。 ぜんぜん動かなかった政治が、事件でいきなり動く。 桶川ストーカー殺人事件がなければ、ストーカー法もなかった。 「完全な黙殺と拒絶が、人の死で変わる」という根本体質は、変えられないのか。 関係者が当事者意識を持つのに、「スキャンダル」と「人の死」しかない。

――ひきこもる意識は、「当事者意識の拒絶」であり、こうした事情と相同。



*1:ただし、たいていの怒りはありきたりの政治構図に落とし込まれて利用される。 柔軟な政治を考えるためにも、制度と実存の関係を技法として考えなければ。それは臨床的な問題。

*2:cf.『フレーム憑き―視ることと症候

*3:ホームレスまで行ってしまうと、いくら死んでも議題にすらならない。 完全に排除された人間は、問題設定からすら排除される。

2008-06-29

《居場所》の政治と、解離的な知性 《居場所》の政治と、解離的な知性を含むブックマーク

どうやって孤立を回避するか。その方法論で、立場が分岐している。なのに、そこを誰も語らない。

「社会的包摂」というが、自己を対象化する分析を試みれば、たいていの共同体からは排除される*1。 むしろ、分析の努力を通じて孤立が回避されなければ。つまり、ふつうの共同体では孤立の原因になる努力が、つながりの理由になる。

《居場所》というどうしようもない言葉やモチーフが、ミクロな政治にまみれていることを無視してはならない。ところが既存のアカデミズムや知識人は、現場レベルの技法や工夫について、何も当事者的な試行錯誤を語れない*2。 臨床家も、一対一の技法は話題にしても、《居場所》そのものの政治は語らない。しかし、居場所の政治は、職場の政治につながっているし、家の中にも政治がある。


宮台真司の言説においては、「act locally」は、「フレンドリーに世話を焼く」というぐらいの意味で、「俺もローカルに頑張ったんだ」というアリバイ作りでしかない。その「act locally」そのものにおける分析や技法が必要なのに。 メタに語ればアリバイの作れる知識人は、具体的な技法を検討しない。 それは、「理論は過激に、臨床は素朴に」と語る斎藤環も同じ。 知識人が、みずからの当事者性を解離させる知性を推進している。




みずからの当事者性こそが拒絶されている みずからの当事者性こそが拒絶されているを含むブックマーク

  • アントナン・アルトー、ジャン・ジュネ、中上健次などが、80年代の「当事者」言説として持ち上げられた。そのいきさつに問題はなかっただろうか。
  • 「当事者性をアリバイにするメタ言説」と、「メタであることをアリバイにするメタ言説」があるだけで、自分のことを検証する当事者言説は誰もしていない。(岡崎乾二郎、三脇康生という例外)
  • 自分のことを「当事者」と名乗る人間は、「私は弱者です」と自己をカテゴリー化すれば、加害責任を逃れられると思っている。 「当事者」というのは、そもそもが紛争用語であるはずなのに、むしろ責任を回避するためのメタ的自己弁護として、「当事者」が名乗られる。 「当事者」と名乗る人間ほど、責任レベルでのみずからの当事者性を無視する。
  • 「支援者」と名乗った人間は、「当事者」カテゴリーにある人間にひどいことをされても、泣き寝入りする暗黙のルールがある。 基本的には、「我慢しろ」としか言われない*3。 被害は放置され、黙殺される。 こうした支援業界の事情において、自己愛系やボーダー系の人間は、きわめて狡猾な政治を展開する*4。 政治性の廃棄された現場(参照)を、ボーダー系の政治が支配する。何年もかけて築かれた信頼関係は、たった一人の迷惑行為によっていとも簡単に崩壊する。自分たちの状況を検証する政治的取り組みがないために、カウンターの政治を醸成できない。このことは、支援者側を極端な政治弱者にしてしまう。
  • 思想の左右を問わず、「弱者=当事者」支援をしていれば、みずからの当事者性を忘却できると思っている。 「弱者のためにやっている」というナルシシズムが、支援される側のナルシシズムと連携し、差別や暴力が容認される。 紛争ゲームにおいて一度設定された役割は、その後は分析されない。 「役割」が、お互いのナルシシズムのアリバイになっている。
  • 天皇制は、当事者性の分配装置だろうか。
  • 社会性とは、「我慢すること」だと思われている。自分の経験を対象化する自己検証(自己の当事者化)は、むしろ「社会性のなさ」と思われる。周囲がごまかしを生きている時には、ていねいな自己検証を始めた人間こそが異常者として排除される。私は、分析をあきらめ、自分を周囲に埋め込むことを要求される*5。 ▼埋め込みの作法として、いくつかのパターンがあり、それによって所属できる共同体がちがう。



*1:左翼は、自分たちの「排除の政治」を当事者的に話題にできない。それが彼らの政治。

*2:彼らにも、自分たち自身の関係性の作り方があるだろうに。それを自己分析することもない。

*3:人を役割に還元してしか考えないから、こんなバカな話になる。

*4:「ボーダー系」云々という用語は、医療系というよりは政治系の言葉だろう。支援業界周辺にあるこのあたりの事情は、現状ではほとんどタブー視され、隠蔽されている。

*5:「埋め込み」は、ギデンズが再帰性を説明するときに持ち出した言葉(『近代とはいかなる時代か? ─モダニティの帰結─』参照)。 ひきこもり支援は、再帰性の暴走を止め、「埋め込み」に落ち着かせることを目的としているように見える。しかし必要なのは、自己検証そのものの継続において社会参加を継続させることだ。そこに政治性が生まれる。

2008-06-28

「脱政治化する言説戦略」 「脱政治化する言説戦略」を含むブックマーク

酒井隆史『暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)』p.103-4

 ここで、ランシエール(Jacques Rancière)にならって、〈政治的なもの〉を中和し、脱政治化する複数の言説戦略をみてみましょう。

  • アルシ・ポリティクス
    • 共同体主義タイプの脱政治化。閉じられて有機的に組織された同質的な共同体に人は帰属するがゆえに、そこでは政治的な出来事は生じえない。 【上山注:すべてが「仲直り」に落とし込まれるような言説方針でしょう。】
  • パラ・ポリティクス
    • リベラリズム・タイプの脱政治化。政治的抗争を受け入れはするが、それを認知された党派/代表間の競争へと再定式化する。ホッブズから、現代ではロールズ、ハーバーマスにいたる潮流。
  • メタ・ポリティクス
    • マルクス主義タイプの脱政治化。階級闘争のような政治的抗争は肯定されるものの、それは別の場面(つまり経済的過程)の影にすぎず、さらに究極の目標は、政治の消去にある。

そして、スラヴォイ・ジジェクはこのランシエールの区分にもう一つ、つけ加えています。それはカール・シュミットの友/敵理論です。シュミットは、政治的なものを友/敵を分割する振るまいである、という点で敵対性の次元に位置づけますが、しかしそれもやはり政治的なものを否認しているというのです。

  • ウルトラ・ポリティクス
    • 政治の直接の軍事化を介して抗争を極端にまで押し上げることで、抗争を脱政治化させる。


こうやって「脱政治化」を並べるのはいいとして、それを語る自分自身は、どうみずからを政治化するのか。――それを考えないのであれば、この分類表自体が「脱政治化の言説戦略」になってしまう。

「友と敵を単純に分けてはいけない」というのが脱構築だとしても、それを言うだけでは、語っている本人はメタに居直ってしまう。必要なのは、自分自身を含みこんだ事情のディテールを描き出す努力だが、そのような分節の努力こそが排除される。

政治化とは、《交渉》という努力のラディカル化であり、交渉のフォーマットまで含めて考え直そうとすることだ。▼動物化とは、「交渉の安易化」にあたる。安易化した交渉は、フォーマットへの再考察や換骨奪胎を許さない。


2008-06-25

『文化系トークラジオ Life』 「秋葉原無差別殺傷事件」聴取 『文化系トークラジオ Life』 「秋葉原無差別殺傷事件」聴取を含むブックマーク

    • 番組の新聞記事*1
    • 事件だけでなく、この番組についてもいろんなとらえ方があると思いますが、私は「メタ語り」と「当事者性」の緊張関係が、決定的な焦点だと思いました(参照)。 私の問題意識に引き寄せすぎかもしれませんが、以下、そういう視点から書いてみます。

「わかんないことはわかんない、だからみんなで考えていこうぜ、っていうふうにするしかない」*2と語る鈴木謙介は、メタ言説への居直りをやめている。 メタ言説を拒否した結果、放送では「自分語り」をしきりに反省していたが、これは単に当事者性に居直ることではなく、「自分の体験を素材にしながら、分析=分節を生きてみる」作業であり、語り手のアリバイ作りとは別の政治が試みられている。 メタ語りの権威ごっこに逃げるのでも、当事者ナルシシズムに浸るのでもなく、「自分の言葉を探す」*3作業を、ほかの誰かと共有すること。

この模索は、「体験当事者が、メタに語る」ことでもない。 自分の場所を対象化しつつ、体に刻まれたものを内側から分節してみることであり、結果的なテーゼよりは、協働での分節プロセスにこそ臨床性がある。 適切な分析のために、最深の実存が賭けられる*4。 きな臭い利害やメタ言説との緊張は、この地点から再組織される。

これは、単なる脚本順応(演劇的な“あえて”)でも、実存的な放言でもない。共同で試みられる内側からの創造であり、各人が自分の持ち分で取り組むしかない。ここからしか、政治的な交渉が始められない。虚無感とも戦えない。

八方手づまりの人には、こういう共同作業こそが必要なのだが、当事者責任が避けられる現状では、呼びかけを行なった人間こそが孤立してしまう。 単なる掛け声ではなくて、具体的な技法が要る。 【参照:「場所を変えることと、場所を替わること」】


以下、メモ的に。


  • 単にメタに語る知識人だけでなく、単に当事者性を強調する人たちにも、強い暴力性を感じる。 彼らは、自他の当事者性を嗜癖的にアリバイ化するだけで、自身のリアルタイムの当事者性はまったく分析しない。 ありきたりな支援イデオロギーに従っているだけで、じつは当事者性を強調すればするほど、当事者性を失っている
  • 実存が内側から問題になっているところでは、単なるメタ言説や一般論は、語っている本人の当事者性を放棄している。 アリバイを作るためだけに語られるような言説。 自分のヤバい部分はまったく持ち出さない、だから処方箋もまったく書けない。
  • 固定された規範や役割(属性)に寄りかからず、かといってそれを無視するのでもなく、取り組み方の試行錯誤そのものとして引き受けを遂行するようなやり方が要る(「読み合わせ」)。
  • 番組パネラーの方々は、人のつながりのリソースをたくさん持っている(仕事・性愛・趣味など)。 それに依拠するだけの雑談は聞いていてつらいが、ご自分の現場性(当事者性)を分析的に語ってくださる語りには、こちらの分析を持ち分にして参加できる。 私は、そういう参加しかできない。 ▼体験や話題を共有できたからといって、連帯はできない。 私は、「同じ当事者なんだ」という属性レベルでの連帯を、もはや信じていない。
  • 自己責任を語る柳瀬博一のほうが、ある意味で自分の “当事者性” を問題にしている。 いきなり一般化する語りは、自分が目の前で何ができるかを無視する。 とはいえ、自己責任しか語らないとしたら、それは自分が体験できた条件への分析を欠いている。――自らの当事者性を問題にすることが、同時にみずからを第三者的に対象化することでなければ。(被害者意識や、弱者支援のイデオロギーのみの人は、それを語る自分自身を対象化しない。)
  • 赤木智弘は「希望は戦争」というが、必要なのは大文字の戦争ではなくて、「目の前での自分の戦い方」だ。
  • 「交渉能力の極端な低さ」という、基本となるフォーマット。 自滅的な暴力は、交渉能力の低さから起こっている。 逆にいえば、交渉の問題であるかぎりにおいて、特権化する必要もない。
  • 「なぜ人を殺してはいけないのか」は、問いとしてはどうでもいい。 大事なのは、「なぜ自分は殺さずに済んできたか」だ。 学者的なアリバイ作りではなく、自己検証の問題。
  • 宮台真司は、期待された規範を内面化しない「脱社会」「非社会」について語っているが(参照)、むしろ問題はまったく逆で、「既存の規範に対してあまりに無力で、それに従う以外の交渉スタイルを知らない」ことが問題なのだ。 インストールされた規範に従う以外の精神活動を知らず、それが結果的に「非社会的」振る舞いに落ち込むしかなくなっている。 システムへの順応しか考えない「動物化」を言祝いで(ことほいで)いる場合ではない。


放送より:

 「文芸の言葉は遅れて来るが、彼に届く文芸の言葉はなかった」(仲俣暁生)

 「表現者の怠慢だ」(鈴木謙介)

言われてみて気付いたが、今の私は、文芸の言葉にほとんど何も期待していない。

《文学》を言い訳にした分析拒否のナルシシズムに、強い怒りと軽蔑の念を持っている。


 「赤木智弘は政治じゃなくて実存の言葉。実存の言葉を政治利用する奴が多すぎる」(鈴木)

 「それに無自覚であることに責任はないの?」(津田大介)

津田氏を支持する。 実存の言葉だから許されるということではないし、実存への居直りはむしろベタな制度的硬直を生きている。 ここで、「実存」を「弱者=当事者」に置き換えても、ほぼ同じ話になる(参照)。



*1:この記事を書いた塩倉裕(しおくら・ゆたか)氏は、名著『引きこもる若者たち (朝日文庫)』等の著者。

*2:【参照

*3:鈴木自身の表現

*4:メタとベタを往復する分節の努力がなければ、実存は孤立した叫び声で終わるし、協働作業にもつながらない。 下手をすると、「共同での実存ごっこ」になってしまう。

2008-06-24

メタ的正当化の暴力性 メタ的正当化の暴力性を含むブックマーク

理論と現場とが対立するのではなく、現場・理論のそれぞれが、ベタな指針(メタな権利を主張する指針)に居直っている。 硬直したメタ言説への居直りは、共同での試行錯誤である「読み合わせ」のデリケートさを押しつぶす。 【資本、アカデミズム、弱者擁護、文学、「カテゴリー当事者」などが、居直りのパターンにあたる。 「居直り=正当化」のジャンルが、解離的に乱立している。】


メタ的正当化に居直り、自分の暴力性を認めないのは、自分の当事者責任を回避するためだ。 自分の暴力性を一切認めない否認は、キレて不当な暴力をふるうことと裏表。 私たちは、適切に自らの暴力を組織しなければならない。 「自分だけは暴力ではない」というメタ的な正当化は、最悪の欺瞞*1

国家権力は、私的トラブルから私たちを守ってくれない。にもかかわらず、私たちから暴力の権利を奪う。 身近な悪意から身を守るためには、自前の戦術や強制力が要る。 つまり、誰もが交渉や暴力の当事者性から逃げられない。

「まじめに努力しているから、自分は承認される」と思い込む人は、メタ的正義に(妄想的に)浸っている。 「クソ真面目」であることは、たいへん暴力的だ。 ▼自分を他者と見る当事者主義(参照)は、いわば「分析の正義」であり、マジョリティの正義(まじめさ)とは相容れない。 脱政治化された生活*2の中では、誠実に努力すればするほど、「狼藉者」の扱いを受けかねない。


弱者擁護のイデオロギーに居直る「正義の味方」たちは、自分の属する強者カテゴリーで “当事者的に” 反省してみせるが、自分の個人的加害経験はまったく素材化しない。 【たとえば、「俺は男だから女に加害性がある」と言いつつ、自分個人が女性にやってしまったことは分析しない。 これは、「日本人」「プチブル」という自分のカテゴリー責任をひたすら言うくせに、自分個人の現在の言動は反省しない政治言説に重なる。】 ▼政治性が、どこまで行っても「カテゴリー当事者」の拮抗関係に終始し、反差別のためのメタ的な理解がない。 だから、政治的抗議そのものが差別発言のオンパレードになる*3。 ヘゲモニー争いは、当事者性の「相互疎外競争」であり、政治とは「どちらが首尾よく相手を疎外できたか」になる*4

正しい批判精神を持つ者は、必ずにこやかに共闘できることになっている(内ゲバを誘発する同調圧力)。 絶対的正義を標榜する「運動体のイデオロギー」は、相手を屈服させながら、相手が疎外を口にすることを許さない(スターリニズムにおける“自己批判”の強要)。――ここでは、分析なき「運動体のイデオロギー」と、そこに介入するリアルタイムの分析とが拮抗する*5


硬直した政治イデオロギーにおいては、「当事者」枠は、アリバイとナルシシズムのためだけに利用される*6。 自分の失態を分析するには、「当事者」という枠は使われない。 メタ的アリバイに居直るかぎり、自分の当事者性は抑圧される。 彼らはそれを「成熟」「社会性」と呼び、どこまでも逃げ回る。 じつは、みずからの当事者性こそが最も忌避されている*7

メタ言説のアリバイに居直る人たちで充満する社会環境は、そこへの参加をたいへん困難にする。 ベタな制度順応しか許されず、現場的試行錯誤は見下され、敵対視される。――再帰性に居直るひきこもりの傲慢さは、メタ言説に居直る社会環境の傲慢さと、実は同形をしている。



*1:『ヒューマニズムとテロル (メルロ=ポンティ・コレクション 6)』に付された、合田正人の解説を参照。

*2:酒井隆史『暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)』p.103を参照

*3:「医者のくせに」「童貞・ひきこもりのくせに」云々。 あるいはまた、わざわざ差別用語でレッテルが貼られる(ex.「あいつはトーシツだ」)。 ▼差別主義者は、「○○のくせに」「見るからに○○」など、属性カテゴリーに落とし込む発言をしきりに行う。それは、言動の矛盾を指摘する「〜したくせに」とは別ものであり、他者の存在は「属性=カテゴリー」で処理される。 ▼カテゴリー差別で《他者》として受け入れられた存在は、みずから行う分析的発言で他者として承認されることがない。知的には、あくまで「下」の存在として囲われている。――これが、Be動詞による「多様性の肯定」であり、「当事者の多様性」を承認する運動体言説の欺瞞にあたる(参照)。

*4:「ベタなメタ言説」と「ベタな当事者言説」の敵対関係や、「“当事者”同士でどっちが弱いか」など。

*5:ドゥルーズ/ガタリ的にいえば、「領土化を目指す運動」と、「絶対的脱領土化の運動」が対立している。

*6:「学者」でありながら「当事者」でもある者は、両方のカテゴリーにおいてアリバイとナルシシズムを手に入れる。それぞれの当事者性こそが分析されるべきなのに、それが為されない。 メタ言説のアリバイと、ベタな当事者性のアリバイとが解離的に同居する。

*7:そのことに気付くのに、たいへん時間がかかった。 私の “当事者発言” を支持していた支援者たちは、自分自身の「関係者としての当事者性」を見ない。 また、自分のことを「ひきこもり当事者」と考える人たちは、かえってみずからの当事者性を分析せず、運動体のイデオロギーに居直って被害者面する。 誰もが正当性のナルシシズムに居直っており、その現状を当事者的に分析しなおすことは拒否される(防衛・否認)。

2008-06-23

「格差社会」を生きる日韓の若者事情 〜日韓NPO交流事業報告会〜「「格差社会」を生きる日韓の若者事情 〜日韓NPO交流事業報告会〜」を含むブックマーク

  • 【訪韓期間】
    • 平成20年3月3日(月)〜3月8日(土)
  • 【訪問団体】
    • 失業克服国民財団、希望庁、クムト学校、WE CANセンター、延世大学江西自活後見機関青少年自活支援館、ハジャセンター、ノリダン、ソウル代案教育センター

20〜30代の側から出ている動きとして。


2008-06-22

「個人の社会化」にまつわる、疎外と物象化 「個人の社会化」にまつわる、疎外と物象化を含むブックマーク



「型」――マクロとミクロ

 雑駁な言い方をすればこれは「型」の問題だ。人は「型」なしでは生きられない。世の中を「型」にはめてみることによってはじめてそこに有意味な秩序を見出し、「型」に合わせてふるまうことによって、有意味な結果を生み出せる。もちろん「型」にはいろいろあり、人がどの「型」に従って生きていくか、については実はそれなりの自由度がある。だから一つ一つの「型」は決して必然的な運命ではなく、それに完全に縛られて生きることは不自由で、時に不幸かもしれない。しかしながら、人は一つ一つの、特定の「型」からならば自由にはなりえても、全くいかなる「型」をも持たずに生きることは、おそらくできない――「物象化論」の含意を、穏健に通俗人生論風に敷衍すれば、ラディカルな人間解放論よりも、むしろこんなところに落ち着くはずだ。


その「型」は、マクロな政策や主義として設定されるとともに、それぞれの現場でミクロに編み直されるべきもので*1、そうでなければミクロな自己検証もなしに大味の「型」が疎外を生み続ける。 単に「型」を批判すればいいのではなくて*2、何がどういけないのかをその都度自分の場所で分析しなければ、適切な疎外回避はできない。 硬直していては、自分が疎外されると同時に、自分が周囲を疎外する。

疎外を回避させるような適切な分析と改編は、その営み自体が本人にとって疎外回避のプロセスになっている。――とはいえ、硬直した自他の疎外*3で自分の居場所を固定し、自他の物神化に陶酔する者もいる*4。 「学者」「当事者」といった役割にそのつど解離的に同一化し、都合よく「役割を演じ分ける」だけで、それぞれを演じることについては何の分析もない。 「私は○○だから、お前より偉いんだ」。 ▼(秋葉原事件で「居場所」がキーワードになっているが、)苦しんでいる本人の “居場所” を固定すれば、それを維持するために周囲が疎外されるし、実は本人もそこに幽閉される。 その幽閉の固定的権威化は、「倒錯的な物神化」を社会化のスタイルとして固定することだ*5

「自分は社会化されているんだ」という自意識を、達成された状態として固定しようとするところに、幼児化がある(疎外、再帰性)。 何をどうすれば社会化された状態になるのかは、リアルタイムにどんどん移り変わっている。 社会性は、むしろその臨機応変の活動形にある。



状態と、活動形(プロセス)

 キャッチーで分かりやすかったのは見田宗介=真木悠介の「からの疎外/への疎外」の対概念をもちいたレトリックである。乱暴に言えば「お金がなくて辛い(お金からの疎外)のは、お金がないと辛い世の中に生きている(お金への疎外)からだ」というわけだ。この伝で言えば「人間性を疎外されて辛いのは、人間性が疎外されていると辛い世の中に生きているからだ」ということになる。より根底的であるのは後者の「への疎外」の方であり、その前提の上に初めて「からの疎外」が成り立ちうる。そしてここでは、疎外を克服するよりラディカルな仕方は当然、「お金」だの「人間性」だのといった欲望の対象(フェティッシュ=物神)を十分に獲得することよりも、そうした欲望そのものから脱却することだ、ということになる。 (略)

 このような「物象化論」解釈では、批判の対象であったはずの「疎外論」から帰結する解放戦略と五十歩百歩のものしか出てこなくなる。どういうことかといえば、こういう「物象化論」解釈では結局、あらゆる疎外から解放された「無の境地」――ドゥルーズ&ガタリ流に言えば「器官なき身体」が「疎外論」的な「人間性」と言葉は違えど実質的に同じ意味を持ってしまうからだ。


「器官なき身体」は、それがスタティックな「状態」として描かれれば、また疎外態の硬直*6になってしまう。 むしろ、みずからの落ち込む「型=器官」を対象化しつつ、分析と改編を続ける《活動=プロセス》に、疎外回避の焦点がある。 静止画像として所属できる「無の境地」ではなく、活動形の所属としての「脱領土化」が必要であり、それを生きる分節プロセスが「器官なき身体」だ――というのが、今の私の理解だ*7

疎外を回避するには、一定時間はある「型」を受け入れて埋め込まれるのが、むしろ必要かもしれない。 重要なのは、その是非を判断する緊張がリアルタイムに続いていること。 単に静止画像が続くのも、単に活動形が強要されるのも疎外にあたる。

何が疎外であるのかは、孤立して経験されるのではなく、複数で「場所の事情」として経験される。 場所の事情は、その場にいる人の考え方によって変わる。 私たちはお互いに、環境「として」生きている。



*1:ここでいう「型」こそが、制度を使った方法論における《制度》にあたる(参照)。

*2:それでは、批判自体が「型」にはまっている

*3:ベタな制度順応、内容のない権威的威圧、役割固定

*4:カテゴリーで物神化された者同士で連合を組む。 「学歴」は、その最たるものの一つだ。

*5:物神としての “当事者”。 弱者としての「当事者役割」の固定。

*6:「型=器官」

*7:稲葉氏の記述に、日本の「80年代型ポストモダン」の誤りが集約されているように見える。

2008-06-20

秋葉原事件・関連メモ 秋葉原事件・関連メモを含むブックマーク

自滅的な殺意や自殺願望については、《取り組む》という要因の破綻が決定的。 手続きが見えないまま無力であり、アクセスの方法が極端に狭められている。 主観的・客観的な「アクセスポイントのなさ」そのものに取り組む必要がある。 政治的-臨床的な、具体的な技法が要る。


自他の真剣さへのアクセスの仕方が分からない。 真剣さはそれ自体ではアリバイにならないのに、「本当に真剣だから承認されるべきだ」では何の批評もない。 自分の真剣さを主張するのに、極端な行為しか思いつけなくなっている*1

いっさいを真剣に受け止めない「80年代→社会学」のあと、真剣でありさえすれば何でもかんでも受け止める現在*2。 幼稚というよりは解離的。

その真剣さは、「自分のこと」か「メタ理論」しか語らない。 「それをやっている自分自身の事情」への分析がない。単に自分のことを語るのはそれがメタに承認されているからだし、単にメタ理論を語る人は、その自分の真剣さに誰の批評も介入させない。そして、80年代的に「真剣ではないあり方を承認しろ」というのも、実はメタレベルではアリバイの真剣さを承認させようとしている。そのスタイルが2000年ごろに破綻して、当事者本とメタ理論という「単なるベタな真剣さ」に解体したように見える(そこでしか恒常性を担保できない*3)。

いずれも、自分の真剣さのナルシシズムに酔うばかりで、真剣さのスタイルについての分析がない。誰の言うことも真に受けないシニシズムと、どんな叫びも真に受ける心情主義が支え合い、全員の「独りよがり」が共同で支えられている。世代論は、ルーチン化した真剣さのスタイルを描いているが、むしろ必要なのは、ルーチン化の打破を検討することだ。メタに居直って現場を見下すのではなく、また現場的であることに居直るのでもなく、自分の取り組み方を検証すること。 メタに居直ったつもりになっている人も、すでに現場を生きている*4


以下、識者コメントへの違和感。



東浩紀 http://tinyurl.com/6k4aco (魚拓)

事件が起ろうがどうしようが、何も考えないのが動物化した社会のはず。 幼稚さをたしなめ、人間的対応を勧める東浩紀は、キャラクター化とヤンキー文化を肯定していた彼と解離している。

「真剣に考えるべきだ」というのは、治安強化には反論していても、臨床的には何も言っていない。 「真剣さ」は、むしろメタ批評に淫する人たちの防衛機制になっている。 自分たちの営みや関係の作り方については、何の分析もない。

東は、ベタな当事者性に対してメタ理論をぶつけているが*5、単なるメタ理論は、それ自体が「真剣さ」の党派であり、解離的に「単なる当事者主義」と同席できる。 メタ理論自体が、ベタな真剣さという当事者性を生きている。

真剣さのスタイルが、周囲と具体的にどうつながっているのか、ローカルでリアルタイムな分析が要る。 メタ理論を語れば、それで「真剣に考えた」ことになるのか?



宮台真司 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=651

「若者文化の変質」というが、若者文化がどうであろうがそこに入っていけない人はいる。そういう者にとって、「同世代の若者の街」は居場所などではなく、激しい疎外を感じる「異教徒たちの世界」でしかない。わざわざ大文字の「若者文化」を語ることに、牽強付会を感じる。

「最大の問題は社会的包摂性」というが、包摂性というのは、単に受容的な態度をとっていてもどうにもならない*6。 包摂の問題をマクロな文化やシステムの問題として語るだけでは、本人が内側から《取り組む》要因と、周囲のそれとがどう出会うのかという現場的なモチーフを扱えない。

宮台の臨床的アドバイスは、「自意識を自意識で克服する」という孤立したスタイルであり、成功は事後的に神秘化される(ミメーシス)。 身近な関係性は分析対象ではなく、自意識は一気に全体性に接続する(エリート)。 ▼宮台自身は、みずからの推奨するナンパで空しくしかなっておらず、救済をもたらす出会いは “偶然に” やってくるしかない(参照)。 よく考えると、ここでは「修行」と「救済」は解離している。

ひたすら自意識を目指すこうした文化は、それになじめない人間にとって極端に非寛容であることに、宮台自身がまったく気付いていない。そこで「あえてやっている」と言ったところで、その発言自体がまた自意識に還帰している。 自意識以外の社会性(アクセスや連帯の仕方)をぜんぜん扱えていない。




Be動詞の「当事者」から、活動形の分析へ Be動詞の「当事者」から、活動形の分析へを含むブックマーク

私が活動のチャンスをいただいたのは、「当事者」という枠組みによってだった。 しかし、実は当事者という言葉で私を受け入れた人たちは、ご自分についての分析、という意味での当事者性を拒否する*7

「○○の当事者なんです」と自分の弱者性を名乗り出る人は、自分のことを分析することが全くない、というよりそうした分析を拒絶するアリバイとして「当事者なんです」と名乗っていることがある。 それは、「私は××だからそれをやっていればいい」という役割還元的な思考停止と変わらない。

自らの《現場性=当事者性》にこだわり、リアルタイムの自己確認にこだわればこだわるほど、問題意識は排除されがちになる。 自分を「支援者」「当事者」と位置付けて安住したい一部の人たちは、私をBe動詞の「当事者」に囲い込み、自分たちの役割固定的な当事者論を私に押し付ける*8。 ここでは、役割制度そのものに介入する活動形の分析は排除される。

役割カテゴリーに落とし込まれた真剣さのナルシシズムがまずい。(ここで「キャラ化」は、害悪でしかない。)




《読み合わせ》 《読み合わせ》を含むブックマーク

三脇康生は、ドゥルーズのカルメロ・ベーネ論*9竹内敏晴を参照しつつ、《読み合わせ》という発想を語っている(参照)。

《読み合わせ》である以上、それは一人で行うことはできない。 与えられた脚本を絶対の超自我とする順応主義では、ここでいう《読み合わせ》にならない。 単に恣意的に放言するのでも、「前向きになればいい」というのでもない。 協働での制作において、分析と改編が同時に進められるような、試行錯誤の場の共有。 各人が自分で分析(n-1)を進めるのでなければ、誰かの分析は孤立する。

メタ言説への居直りも、ベタな当事者性への居直りも、読み合わせの試行錯誤を無視している。 その防衛的な、役割同一的な自己愛については、具体的な交渉技法が要る。(これはそのまま、ひきこもりの臨床論だ。)

過剰流動的な現実に対しては、「演じ分け」という解離ではなく、「読み合わせ」という試行錯誤的な取り組みが必要だ。



*1:システムにすべて収奪される過剰流動性の中、主張はすぐに解体される。なるだけ極端な体験による「当事者性」と、一度獲得したカテゴリーとしての「当事者性」が、自分に恒常性を与えてくれるように見える。その恒常性は、システムに承認された時点で、逆に自分を幽閉する。

*2:70年代的な新左翼主義がそのまま回帰しているようにも見える。

*3:「恒常性」については、樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)』を参照。

*4:メタに居直っているのは、学者だけではない。カテゴリーとしての弱者性への居直りは、極端に「メタ的な」態度だ。

*5:『NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本』p.7

*6:ひきこもり支援で、「ありのままに」が一部にしか機能しないように。

*7:私に「当事者発言」を要求する人は、たいていご自分の失態やウソを隠そうとする。 私に要求した “当事者発言” を、ご自分でやろうとはしない。 ここでの「当事者化」は、《自己の体験の素材化》という倫理的契機を失っている。

*8:「上山は自分をひきこもり代表であるかのように思い込んでいる」「あれのどこがひきこもりなんだ」云々。

*9:『重合 (叢書・ウニベルシタス)

2008-06-12

仕事や展望のメモ 仕事や展望のメモを含むブックマーク

現状整理と、論題共有のために。


  • 不登校・ひきこもり等、単に失業問題に還元できない事情。
    • 「心の悩み」に還元してはダメだが、景気や雇用条件・教育制度しか問題にしないのも困る。
    • 動機づけと順応は、個人の継続的な政治化の問題。 それゆえ「個人の社会化」は、政治活動でしかあり得ない。 私は、政治性の抑圧に抵抗している。 ひきこもり支援のスタイルの選択は、政治的選択に等しい。


  • 「制度を使った方法論」というジャンル形成。
    • 知れば知るほど、制度を使った方法論(参照)は、ひきこもり問題に内在的な取り組みになっている。 「応用」ということですらなく、いわば最初からひきこもり臨床論の形をしている。
    • フェリックス・ガタリ、ジャン・ウリ、メルロ=ポンティ、ラカンなどが、「制度を使った方法論」に関連する仕事を遺している。 あるいは再帰性(社会学)と制度分析の関連など、既存の言説領域を参照しつつ、方法論としての位置づけが要る。 ▼たとえば、「精神分析」というジャンル形成がなければ、フロイト関連の議論はわけのわからないものになる。 同様に、制度を使った思考や実践に関して、ジャンル形成が要る。 (ジャンルがなければ、語りの行為自体がジャンルを形作りつつ、コンテンツレベルまで語らなければならない。そんなことを毎回やっていたのではどうにもならない。)
    • 医療・教育だけでなく、労働環境や、さらに広い社会思想にも関わるが、逆にいえば、制度を使った方法論がなければ、何を論じても臨床が抜け落ちてしまう。 努力のモチーフとしての「臨床プロセス」がなくなれば、メタ言説とベタな当事者擁護しかなくなる。――ここでは、メタ理論と、日常的な努力との関係が問われている*1
    • いわば、疎外を問題にする「労働過程の精神病理学」という意味で、分析過程=製作過程がモチーフになる。 そこでは、癒し系の「アートセラピー」とはまったく別のことが問題になっている*2


  • 当事者という言葉にまつわる日本(語)の状況。
    • 当事者という言葉をめぐるメタ的・内在的考察が、自意識や再帰性を核とするひきこもり臨床に必須。 「当事者」という概念枠をめぐる現状は、支援業界のロジックを支配し、臨床的に功罪をもたらしている。 差別的カテゴリー化や、いわゆる「自分語り」みたいな当事者論だけではどうしようもない。
    • 制度を使った方法論は、日本語の文脈では《当事者》という言葉を核にして考えると良いと思う。 そこでは、「支援者」「○○当事者」というBe動詞の所属ではなく、分析労働を通じての、活動形の所属が問われている*3。 私自身は、もはや「Be動詞の当事者性」をあてにしていない(それは差別と暴力の温床だ)。
    • このモチーフは、直接の臨床効果とともに、フェアな政治を考えるためにも必要。 政治的な臨床は、臨床の問題を忘れない政治でもある。


  • 単なる制度順応だけでなく、資格や専門性に対して、批評的な距離と再編成が必要。 逆に言うと、資格や肩書きは無視できない。
    • 対人支援の資格として、医師・臨床心理士・精神保健福祉士・社会福祉士・保健師など。 またトラブルへの対応においては、法律系の資格や知識が要る。 ただし、ベタな肩書きを持っていることが、かえって裏目に出ることがあるという自覚が要る。(不登校・ひきこもり・ニート支援では、著名な支援者や団体代表の多くは無資格。)
    • 動機づけと制度順応そのものが問題となった活動なので(再帰的)、支援者や研究者自身が単なる制度順応者では困る。 《制度順応》そのものの事情を、自己について問題にしなければならない。 自分のふるまいを分析的に検証するためにも、思想的・政治的な研鑽が必要になる。



*1:「理論は過激に、臨床は素朴に」という斎藤環の表明(『ひきこもりはなぜ「治る」のか?―精神分析的アプローチ (シリーズCura)』あとがき)が、直接的な批判対象になる。ただし、こうした理論と臨床の解離は、ひとり斎藤環だけではなく、現代的な「思想」のあり方そのものの問題。

*2:『通路』での川俣正と三脇康生の対談、『アートという戦場―ソーシャルアート入門 (Practica)』での阪上正巳と三脇の対談などを参照。

*3:「活動形の所属」は、三脇康生の表現。 ドゥルーズ/ガタリへの嫌悪感を持っていた私が三脇と議論を共有できたのは、私なりのメタ的な当事者論が三脇の仕事と接点を持てたからだと理解している。 それを通じて私は、「属性当事者と課題当事者」と言っていた議論を、さらに適切に分節できた。

2008-06-06

ueyamakzk2008-06-06

雑誌『ビッグイシュー』 第96号 発売中 雑誌『ビッグイシュー』 第96号 発売中を含むブックマーク

斎藤環さんと私の往復書簡 「和樹と環のひきこもり社会論」、今号は私で、『Re: 軌道修正のお願い』です。

前号の斎藤さんからは、私の論じ方がルール違反だという指摘がありました。 今の私は、まさに問題を論じる上でのルールを問題にしています。 「メタな理論語り」と、「ベタな当事者役割」がそれぞれ居直ってしまっては、自分たちが実際に生きている関係を素材化する営みが抑圧され、なかったことにされてしまう。 実際に目の前で起こったことがどうであったのかを論じるべきなのに、今はみんなが「アリバイ作り」に向かっている。


    • 本屋さんでは売っておらず、すべて立ち売りです。 販売場所はこちら
    • 各販売員は、バックナンバーも大量に取り揃えて立っておられます。 ▼ひきこもり問題に興味をお持ちの方は、特に第45号:特集:ひきこもりの未来と、それ以後の号をどうぞ。


2008-06-01

おことわりとお願い おことわりとお願いを含むブックマーク

ここ10日あまりの間に、ネット上で次のような事案が発生しています。

  • 私の経験した私的なトラブルの対象者本人が、あからさまな虚偽の証言を公開で行なっている。
      • ※トラブルの細部を素材化するため、関係者に働きかけたこともありましたが、いまは直接的な公開・素材化はあきらめています*1。 私にも対応の失敗や反省点がありますが、ウソを容認するつもりはありません。
  • ひきこもり関連の団体サイトや掲示板・問い合わせコーナーなどで、私が書き込んだかのように装い、支援者や団体への誹謗中傷がなされている*2
      • ※書き込みの本人確認をできない状況でそうした批判を書き込むことは、私は一切ありません*3


当該サイト等へリンクを貼ることは、かえって悪意を刺激すると思われるため、控えます。

関連する書き込み等を発見された場合には、ぜひご一報をいただければ幸いです。(これまでの資料は、すでに警察に提出済みです。)


どうか冷静にご対応いただけますよう、切にお願い申し上げます。


上山和樹



【2008-10-08 追記】: 上記の件について、詳しい事情を取材くださる方をお待ちします。

この事案は、ひきこもり支援周辺の事情、とりわけ中間集団・ネット環境の問題を考えるために、さまざまな素材を提供していると思います。 第三者の立場から、徹底的に周辺事情を取材してください。

このトラブルは、2002年春に知人たちと始めた身近な討論サークルで起こっています(私はすでに脱退)。 私は殺害予告などしていませんし、2005年6月のトラブル激化以後は、この人物に1通の直通メールも出していません。 また問題の男性は、ご自身に基本的な責任があった事実を認めています(2008年3月17日)。 嫌がらせに対する私の対応には大いに問題があったと思いますが、一方的な印象操作は容認できません。(※上でも触れましたが、問題となった私のML投稿メール、ネット上の私への攻撃文書を含め、関連資料はプリントアウトして警察に提出済みです。)*4

部分的に事実をねじ曲げたり、何かを隠そうとするのではなく、徹底的に事実を素材化し、分析する努力をしてください。――それをすることの難しさ自体を含めて。 (ご心配をおかけした皆様に、心よりお詫び申し上げます。 上山和樹)



*1:支援や自助グループに関連し、論点を析出すべき体験素材としては、ずっと問題になっています。

*2:ある団体から、確認のためのご連絡をいただいて気付きました。

*3:ほかの方の「はてなダイアリー」コメント欄に書き込む際には、必ずログインしています(「ueyamakzk」の文字が当ブログにリンクされます)。

*4:問題の男性が利用するブログサービスの提供会社「(株)はてな」は、私の削除要請に対して、次のように返答しています: 「発信者が《これは事実だ》と言っており、真偽が確認できないので、削除や非公開化などの対応はできない」(大意)。 ▼インターネットという環境で向けられた悪意は、インターネットだけで対応するのは不可能ではないでしょうか。

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