「個人の社会化」にまつわる、疎外と物象化



「型」――マクロとミクロ

 雑駁な言い方をすればこれは「型」の問題だ。人は「型」なしでは生きられない。世の中を「型」にはめてみることによってはじめてそこに有意味な秩序を見出し、「型」に合わせてふるまうことによって、有意味な結果を生み出せる。もちろん「型」にはいろいろあり、人がどの「型」に従って生きていくか、については実はそれなりの自由度がある。だから一つ一つの「型」は決して必然的な運命ではなく、それに完全に縛られて生きることは不自由で、時に不幸かもしれない。しかしながら、人は一つ一つの、特定の「型」からならば自由にはなりえても、全くいかなる「型」をも持たずに生きることは、おそらくできない――「物象化論」の含意を、穏健に通俗人生論風に敷衍すれば、ラディカルな人間解放論よりも、むしろこんなところに落ち着くはずだ。



その「型」は、マクロな政策や主義として設定されるとともに、それぞれの現場でミクロに編み直されるべきもので*1、そうでなければミクロな自己検証もなしに大味の「型」が疎外を生み続ける。 単に「型」を批判すればいいのではなくて*2、何がどういけないのかをその都度自分の場所で分析しなければ、適切な疎外回避はできない。 硬直していては、自分が疎外されると同時に、自分が周囲を疎外する。
疎外を回避させるような適切な分析と改編は、その営み自体が本人にとって疎外回避のプロセスになっている。――とはいえ、硬直した自他の疎外*3で自分の居場所を固定し、自他の物神化に陶酔する者もいる*4。 「学者」「当事者」といった役割にそのつど解離的に同一化し、都合よく「役割を演じ分ける」だけで、それぞれを演じることについては何の分析もない。 「私は○○だから、お前より偉いんだ」。 ▼(秋葉原事件で「居場所」がキーワードになっているが、)苦しんでいる本人の “居場所” を固定すれば、それを維持するために周囲が疎外されるし、実は本人もそこに幽閉される。 その幽閉の固定的権威化は、「倒錯的な物神化」を社会化のスタイルとして固定することだ*5
「自分は社会化されているんだ」という自意識を、達成された状態として固定しようとするところに、幼児化がある(疎外、再帰性)。 何をどうすれば社会化された状態になるのかは、リアルタイムにどんどん移り変わっている。 社会性は、むしろその臨機応変の活動形にある。



状態と、活動形(プロセス)

 キャッチーで分かりやすかったのは見田宗介真木悠介の「からの疎外/への疎外」の対概念をもちいたレトリックである。乱暴に言えば「お金がなくて辛い(お金からの疎外)のは、お金がないと辛い世の中に生きている(お金への疎外)からだ」というわけだ。この伝で言えば人間性を疎外されて辛いのは、人間性が疎外されていると辛い世の中に生きているからだ」ということになる。より根底的であるのは後者の「への疎外」の方であり、その前提の上に初めて「からの疎外」が成り立ちうる。そしてここでは、疎外を克服するよりラディカルな仕方は当然、「お金」だの「人間性」だのといった欲望の対象(フェティッシュ=物神)を十分に獲得することよりも、そうした欲望そのものから脱却することだ、ということになる。 (略)
 このような「物象化論」解釈では、批判の対象であったはずの「疎外論」から帰結する解放戦略と五十歩百歩のものしか出てこなくなる。どういうことかといえば、こういう「物象化論」解釈では結局、あらゆる疎外から解放された「無の境地」――ドゥルーズガタリ流に言えば「器官なき身体が「疎外論」的な「人間性」と言葉は違えど実質的に同じ意味を持ってしまうからだ。



器官なき身体」は、それがスタティックな「状態」として描かれれば、また疎外態の硬直*6になってしまう。 むしろ、みずからの落ち込む「型=器官」を対象化しつつ、分析と改編を続ける《活動=プロセス》に、疎外回避の焦点がある。 静止画像として所属できる「無の境地」ではなく、活動形の所属としての「脱領土化」が必要であり、それを生きる分節プロセスが「器官なき身体」だ――というのが、今の私の理解だ*7
疎外を回避するには、一定時間はある「型」を受け入れて埋め込まれるのが、むしろ必要かもしれない。 重要なのは、その是非を判断する緊張がリアルタイムに続いていること。 単に静止画像が続くのも、単に活動形が強要されるのも疎外にあたる。
何が疎外であるのかは、孤立して経験されるのではなく、複数で「場所の事情」として経験される。 場所の事情は、その場にいる人の考え方によって変わる。 私たちはお互いに、環境「として」生きている。



*1:ここでいう「型」こそが、制度を使った方法論における《制度》にあたる(参照)。

*2:それでは、批判自体が「型」にはまっている

*3:ベタな制度順応、内容のない権威的威圧、役割固定

*4:カテゴリーで物神化された者同士で連合を組む。 「学歴」は、その最たるものの一つだ。

*5:物神としての “当事者”。 弱者としての「当事者役割」の固定。

*6:「型=器官」

*7:稲葉氏の記述に、日本の「80年代型ポストモダン」の誤りが集約されているように見える。