制度と実存の解離

慣習・学問・法人など、制度的なものが既に営まれているとして、そこに入っていくことができない。 先方の拒絶によって、また自分を絡ませられないことによって。本を読もうとしても、拒絶の力のほうが強い。


ひきこもるとは、政治的格闘から撤退すること。 再度社会参加するとは、闘争に復帰することだが、撤退するしかなかった人の多くはただ「順応」する以外の参加スタイルを知らない。 支援者の多くもそれしかできないと思っている。 それでうまくいく人がいるのはいいとして(共同体主義)、順応させようとするしかない方法論が、かえって風通しを悪くしていたら。 敵対的感情も鬱屈するしかない。 それは政治性を抑圧すること*1


再帰性は、脱埋め込みとして営まれる(参照)。 ところが、脱埋め込みの営みが強迫化すると、その自己検証そのものに埋め込まれてしまう。 批判的に見えて、実は極端に順応的な意識。 周囲の世界への「検証」が言い訳になる、息を詰めるような意識。 自分は居留まっているだけで、極端な自己卑下と極端な自己正当化を往復している。 現実との関係を換骨奪胎できないがゆえの、妄想的自我肥大。 「これではまずい」「できない」の意識だけが硬直してループする。 復帰しようとしたら、ただ順応する以外の作法がない。 制度と実存の関係の持たせ方が、極端に貧しい選択肢しか持たない。 検証スタイル自身が硬直している、非常に傲慢な意識状態。 単なる順応は、倒錯的な自己愛の推奨でしかない。 ▼制度との関係そのものへの換骨奪胎が要る。 単に「ありのままに」と弛緩させればいいのではない。 それでは、(80年代ポストモダンのような)多様性礼賛のナルシシズムでしかない。


美術批評に関するこちらのイベントでは、岡崎乾二郎から斎藤環に対して、「アウトサイダーとインサイダーを安易に分けるな」という批判があったらしい。 これはそのまま、ひきこもり論に当てはめられる。 斎藤環の議論は、「ひきこもり」というアウトサイダーをまず設定して、それからその枠内の人たちを別格で評価し、インサイダーにしようとする。これでは、「自分はアウトサイダーなんだ」というナルシシズムを固定してしまう。 イン/アウトを論じる自分を考え直すところから始めなければならないのに(それは単に知的な要請ではなく、臨床的な要請だ)、斎藤はラカン的な「フレーム」をいきなり導入してそれだけで論じてしまう*2。 「論じる」という行為の歴史性が忘れられている、その自分の解離的体質を無視する。 解離したまま論じていて、その解離的な知的ゲームが受けている。 知的解離そのものによって生じている臨床的苦痛には無力。 みずからが解離したままで、解離の悪を論じている。





*1:ただし、たいていの怒りはありきたりの政治構図に落とし込まれて利用される。 柔軟な政治を考えるためにも、制度と実存の関係を技法として考えなければ。それは臨床的な問題。

*2:cf.『フレーム憑き―視ることと症候

交渉の体質

秋葉原の事件で、犯人が「派遣労働者」ではなく「ひきこもり」でしかなかったら、世間や政治はどう動いただろう(参照)。 既存の問題構図に事件が利用される*1
本当に弱い立場にいる人間にとって、声を届かせる方法は「人を殺す」しかないのか。 ぜんぜん動かなかった政治が、事件でいきなり動く。 桶川ストーカー殺人事件がなければ、ストーカー法もなかった。 「完全な黙殺と拒絶が、人の死で変わる」という根本体質は、変えられないのか。 関係者が当事者意識を持つのに、「スキャンダル」と「人の死」しかない。
――ひきこもる意識は、「当事者意識の拒絶」であり、こうした事情と相同。



*1:ホームレスまで行ってしまうと、いくら死んでも議題にすらならない。 完全に排除された人間は、問題設定からすら排除される。