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[語句説明]

2008-10-28 このエントリーを含むブックマーク

メタ的・客観的な語りに対して、ダメな自分語りがあるという支配的な理解。 じっさいそういう両極の生産様式しか見られないし、理解する側が、そういう両極しかあり得ないと思っている。 問われているのは、「どうやって自分はみずからをプロセスとして生きるのか」、その生産様式なのだ。 本屋に行っても、メタ的な知識と、ベタな吐露ばかり。 「客観的な知識」は、そこに入っていけない者を考えていない。 ただ澄ましてそこにいる。 それではひきこもりを、「入門拒否」を考えたことにならない。


自分で自分のことを考える、という “当事者” 発言は、「私のことを大事にしてください」という直接性への要求と受け取られる。 しかし、私が問題にしているのはそんなものではない。 私は当事者である、とは、「私は私の事情を素材にして考えてみる」という、そのワンクッションのことを言っている。 直接的尊重ではなく、素材化の間接性をこそ提唱している。 あなたはあなたの事情を素材化してもらわなければ、私だけが “当事者” として差別されて終わる。 「苦しんでいる人のために頑張るのが私のプライドなんです」などというのは、卑怯なナルシストの言い分だ。 正義の味方ヅラして、自分のことを棚に上げるな。 政策を論じれば、政策を論じたことになると思うな。


私が「制度を使った方法論」と、何年もかけた挙句ようやく出会っているのは、この素材化・間接化の1点にあたる。 弱者尊重の「左翼的な精神療法」でしかないなら、取り上げる価値がない。


みんな、メタ言説と対象化の、自分のプログラムを生きるだけになっている。 その固定された生産様式で業績を挙げるだけなら、「参加できない」というもんだいを扱ったことにならない、そのことがどうしても伝わらない。


2008-10-27 (2) ベタな順応主義の暴力と、動態的な反差別 このエントリーを含むブックマーク

昨日の続きで、やはりメモをまとめてみます。

特権的な身分固定は、政治的に不当というばかりでなく、ひきこもりの場合 “臨床上の” 害悪でもあるというのが私の理解です。 これまでにも「ひきこもり」というネガティブな呼び名が差別や自意識を助長する、と囁かれてきました。 私は、名称を維持する意義は認めたうえで、政治的-臨床的な方法論を検討しています。



制度を使った方法論では、適切に制度順応「しないこと」が求められる*1。 ベタな制度順応は、むしろ怠慢にあたる。 といっても、単なるルーズさではなく、順応というふるまい自体を柔軟かつ創造的に引き受けなおすことが要求されている。 従順さと批評的改編のタイミングや程度を決めるには、リアルタイムの注意力が必要になる。 メタに正義を標榜したり、イデオロギー的に反体制を叫んだところで、それ自体が硬直した順応のそぶりにすぎない*2


凝り固まった制度順応を「ファシズム」と呼ぶことは、許されるだろうか(要調査)。 本人の思惑を超えて不可避的にひきこもるしかなくなることは、「硬直した制度順応による自他への暴力」と言い得るかもしれない*3。 それをPC(Politically Correct)な言葉で肯定したり否定したりしてもどうにもならない。


順応しか許さない環境の暴力と、硬直して身動きの取れなくなった主観性の暴力。 この両者の不毛な対峙とは別の回路を探している。 ベタな順応と、ベタな逸脱しかないなら、物や制度に直接嗜癖するか、本人を特権化して隔離するしかない*4。――「順応による逸脱者」への対応において、対応する側自身の順応のあり方が問われる。


正当性の根拠をメタレベルのみに頼り、目の前の関係性を無視することにおいて、「ベタな当事者主義」と、「ベタなメタ理論」は補強しあう。 いずれも、自分の存在と役割に無時間的なアリバイを主張し、他者だけを告発する。 それを論じている自分の制度順応は絶対に分析されない。 単なるテリトリー確保は、獲得された領土を分析しない。


差別的な特権化を批判すると、「弱者の置かれた状況を分かっていない」と非難される。 しかし、弱者問題で本当に問われているのは、相手の苦境に対するリアルタイムの柔軟さであって、カテゴリー化(静態的な特権化)ではない。 公正さは、静止画像ではなく、動きの中にある。 PC的な特権化は、それ自体が差別を根拠に据えた方針であり、それゆえ容易に、「差別にもとづいた言いがかり」に姿を変える――というより、最初から差別そのものだ。 ▼たとえば私は、「童貞・ひきこもり」の分際で「女性」に話しかけることは、セクハラとして告発される可能性があるのだと、男性フェミニストから警告を受けた。


カテゴリーによる静態的特権化は、周囲を威圧する口実になっている*5。 上の例で、女性とひきこもりを置き換え、「ひきこもっていた男性に求愛されたら、女性には断わる権利はない」と言っても、今度はひきこもり側を特権化したにすぎない。 ここでは、リアルタイムの関係分析以前に、「差別的に特権化されるのは誰であるべきか」という固定的なイス取りゲームになっている。 お互いの関係にお互いがどう取り組むのか、という内側からの話が始まらない。 役割固定的なPC(Politically Correct)言説で相手を威圧することは、差別によって柔軟な対応を拒絶することにすぎない。 ここで「順応主義」とは、固定された差別を意味する。 それは目の前の関係を尊重せず、柔軟な再検証をこそ排除する。 理不尽な特権化の方針を批判する者は、つねに「反動」の汚名におびえることになる。


特権化された弱者による意思表示は、絶対化されてしまう*6。 ここで告発されると、対等な権利のもとに公正に検証される機会を奪われる。 この告発は、紛うかたなきスターリニズムの形をしている。 告発された側は、「自己批判」を強要され、粛清の危険に晒される。(弱者の特権化は、「プロレタリアート」の特権化と同形だ。)


弱者であること、傷ついていることは、“絶対的” 擁護の理由ではない。 必要なのは、公正な検証機会の権力をこそ強化することだ。 弱者であるという「カテゴリー」だけで直接的に支持するのではなく、体験を素材化する機会をこそ、必須の手続きにすること。 ▼支援者や研究者になるとは、つねに再検証を要求される「紛争当事者」になることを意味する。 支援者という身分があるから、弱者を守っているから絶対的な(メタ的な)アリバイがあるのではない。 私は支援者たちにこそ、ご自分の順応事情についての “当事者発言” を求めている。



*1:『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.240

*2:ドゥルーズが「革命」を口にしているのは、こういう問題意識だと思う(参照)。 革命を、達成されるべき順応状態として固定した瞬間に、「領土化する党派」になってしまう。

*3:ひきこもりでは、強迫的な順応が逸脱的な暴力に転じている。 クソ真面目であるがゆえの逸脱。 そのクソ真面目さは、ナルシシズムの枠組みでもある。

*4:それも制度内に取り込まれた順応だ

*5:たとえば男性は、フェミニズムを標榜することで周囲の男性を威圧できる。 「俺は女の味方だから、お前は逆らうことを許されない。逆らったら、お前は女を差別しているということだ」。

*6:弱者をカテゴリー(存在)として絶対化する支援者は、集団的意思決定の手続きもなしに、支援対象者の声を「代表している」と主張し始める(参照)。 あるいは突然語り始めた “当事者” が、選挙もなしに「○○の声を代表して」語り始めても、やはり詐称にすぎない。 ▼それを踏まえたうえで、確信犯的に行うのか、それとも手続きを整備するのか。 法制化のプロセスにおいて、それが問われている。

2008-10-26 (1) 紛争=症候は、社会的論点として受肉する このエントリーを含むブックマーク

ここ最近考えていること、議論していたことを、ややまとまってメモしてみます。

努力のスタイルとその社会的編成が、私の努力の主題になっています。

ある問題を扱おうとするときに、そのアプローチの仕方そのものが、「問題」の一部分であることがある。



法律実務家は、紛争を通説と判例で考える。 それでは対応できない現象をオリジナルに考えたい人は、学者か立法者か作家か、いずれにせよ再考察を迫られる。 人をカテゴリー化して特権化するマイノリティ論ではなく、マイノリティに「なる」活動(参照)は、どうやって法的・政治的思考を整備するか。


科学の概念に言及しているものの、自分の努力が、通常の思考伝統や「科学(science)」とどう違うのか、きちんと説明できているだろうか。 趣旨を説得する前に、遂行的に実演してしまっている。 少なくともパフォーマティブなレベルで、ドゥルーズ/ガタリは脇が甘いと感じる(cf.『「知」の欺瞞』)。 ▼とはいえ問題となっているのは、環境世界から自分だけを切り離す「科学」やメタ言説への居直りそのものでもある。 「お前の概念操作は科学的ではない」という非難は、自分のその態勢自体が問題化されていることに気づいていない。 「主観性の生産(production de subjectivité)」*1の作法自体が問題になっている。――自分を正当化するスタイルは、歴史的な歪みや思い込みをもつ。 その「正当化の制度」が、個人の順応事情に深く影響する。 支援者自身が自分を社会化する限定的な作法が、支援の方法論を支配してしまう*2


近代的な順応スタイルに固着するのではなく、自律的・内発的な分節プロセス(マイノリティに「なる」動き)を中心に考えなければ*3。 とはいえこの分節過程は、ほかの「主観性の生産」とどうかかわるのか。 政治学や法学の思考伝統と、マイノリティに「なる」動きの関係を、考え直さなければ*4。 ドゥルーズやガタリは、凝りまくった人文系表現に向かう前に、こういう議論をこそ整備すべきではなかったか。 ドゥルーズは、なぜ映画論なんだろう。 彼らの議論は、実務的必要との関係で不親切すぎると感じる。


「論点ひきこもり」というフレーズは、“症候的な” 必要をもつ(参照)。 メタな内容に収奪されることそのものが耐えられない(政治がどうこうというより前に、臨床的に)。 苦痛を味わう身体と、知的議論や交渉が分離不可能であること*5。 ひきこもりは、お互いを紛争当事者にしている。 その紛争に内在的に取り組むこと。 外部から「解決」しようとすることは、問題の一部(苦痛の共犯者)になってしまう。 自分の視線の暴力に気づかない視線を、ひきこもる本人までがやってしまう(その視線の暴力は、ひきこもりの形式そのものだ)。


ラカン派では、譲歩してはならない欲望の道を、「症候への同一化」として語る(参照)。 制度順応によって想像的自我を回復するのではなく、解消されることのない狂暴な欠如が、症候として生きられる。 私はここで、ひきこもりという紛争を、「症候的に生きられる論点の受肉」として、社会的にとらえようとしている。 内発的・内在的な紛争の分節過程は、受肉した症候を内側から引き受けなおすこと。 論点=紛争をメタから対象化するのではなく、「解決」するのでもなく、同一化して内側から分節すること(終わりなき分節*6)。



*1:ガタリが主題化している。 単に「下部構造が上部構造を生み出す」という話ではなく、分節の労働過程を中心化し、そのスタイルをもんだいにしている。 『カオスモーズ』冒頭、『三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)』p.22-3、p.78- などを参照。

*2:制度化された目線。 人を分類して何とかしようとする発想、そもそも「解決する」という発想の性質、ほか。

*3:「労働過程を中心化する」とはそういうことだ。

*4:カテゴリーで人を分類する当事者論は、マイノリティ「である」という直接性の暴力に浸っている(抵抗運動においては、たいていこの暴力がカウンターとして利用されている)。 私は「当事者化」を、「素材化」という間接的問題化のスタンスで語っているが、これこそが人々に恐怖と防衛をもたらす。 私は、間接的な当事者論、つまり「素材化する当事者論」を提起することで、社会的に排除される形になっている(参照)。

*5:分節の強度と、「生きる意味」は別の場所にあるのではない。

*6:cf.「終わりある分析と終わりなき分析」(『フロイト著作集 6 自我論・不安本能論』p.377〜)

2008-10-17 メタ言説への、解離的な居直り このエントリーを含むブックマーク

ueyamakzk2008-10-17

★雑誌『ビッグイシュー』 第105号 発売中

斎藤環さんと私の往復書簡 「和樹と環のひきこもり社会論」 は、今号で最終回です。 最後は私で、『順応状態の完成より、手続きの整備を』

支援する側もされる側も、完成された順応状態を想定するのはまずい。 政治的にもまずいが、何より臨床的にまずい。 このポイントに照準し、最後まで全力でお返事を試みています(前号)。

支援する側が、ひきこもる人を「対象」として観察する。 支援される側が自分を “当事者” として、特権を享受しようとする*1。 双方とも、自分の目線や役割をメタに固定しています。 ひきこもる人がひきこもり論をすればするほどしんどくなるのは、こうしたメタ目線を保ったままだからで、支援者たちと同じ病理にはまり込んでいるわけです。 これを状況論として主題化しないと、何が臨床の核であるかが見えてこない。


ポストモダンとは、単にバラバラなのではなくて、分業の極限化(というメタ認識)を口実に、実はみんなが硬直したメタ言説に嗜癖する状況なのではないか。 そこで「真剣に考える」ことは、つねにメタに収奪されていきます*2

本当に必要なのは、分節という介入のプロセスを生きてみることです。 ナルシシズムのメタ的確保ではなく、自分を含む現実を素材化し、容赦なく認識してみること。 その認識のプロセスがそのまま社会参加であり、臨床のプロセスになっている。 認識は、社会参加の営みと別のところにあるのではない。 「認識」が、社会参加を指揮する、というのではない。 認識のスタイルがそのまま参加のスタイルであり、思想が生きられている。 だから参加のスタイルと認識のスタイルは、同時に批判される。(「思想が生きられる」というのは、難しい哲学者の名前を知っている、ということではありません。本なんか一冊も読んだことがなくても、すでに思想を生きている。それをこそ問題にすべきであって、「理論と現場を分ける」のは、徹底して間違っています。)*3

お金を「払う側」と「払われる側」の違いはあるし、サービス契約上も負わされる支援者の責任があるので、完全にイコールな役割ではありません。 でも、社会に順応するという振る舞いについて、すでに生きている関係を対象化し、分節して改編するのでなければ、いつまでたってもメタな認識に監禁されてしまいます。 これが、臨床的にどれほど害をなしていることか*4


私たちは、お互いがお互いの「環境」であり「手続き」でもあるのですから、この社会に順応するかぎり、いつの間にかある程度は “当事者” にさせられているはずです。 ところが斎藤環さんは、まずお互いの存在を純粋無垢な空間に固定し、そのうえでメタレベルの解離的言説をえんえん展開しようとする。 この雲上の会話に私が付き合わなかったことで、彼は議論を降りてしまった。

メタ言説と、それを容認するベタな関係以外を認めない、という斎藤さんのアクティング・アウト自体が、ひきこもりの背景となる解離的言説状況を体現しています。 逆に言うと、これは斎藤環さんお一人の問題ではないはずです。


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*1:ダメージを受けた個人への配慮は必要ですが、その判断自体がリアルタイムの想像力であり、固定された役割の問題ではないはずです。 ひとをカテゴリーに分類して話を終わらせる議論が多すぎる。

*2:自分のことを “当事者” ポジションに固定する人も、そのメタ的認識構図に固着しています。 単なるベタなメタと、単なるベタな当事者論は、解離的に同居している。

*3:ダメな支援者は、分析を問題にすると「私は現場にいるから」と言い、現場を語ろうとすると「私は理論的に考えたいから」と言う。 理論的考察と現場参加がお互いに逃げの場所になっていて、それぞれが無批判に放置されているわけです。 これが最悪です。

*4:「黙って順応する」のではなく、「分節の過程として参加する」――これが過激に見えてしまうのは、それだけメタな認識構図を当たり前と考えているからでしょう。

2008-10-16

ひきこもりなど支援で新法へ」(NHKニュース、動画あり) 「ひきこもりなど支援で新法へ」(NHKニュース、動画あり)を含むブックマーク

 若者への支援をめぐって、麻生総理大臣は、先月の所信表明演説で、「若者に希望を持ってもらわなくては国の土台が揺らぐ」として、「困っている若者に自立を促し、手を差し伸べるため、新法を検討する」と述べました。これを受けて、政府は、長期間、自宅に閉じこもる「ひきこもり」の人たちや、いわゆるニートと呼ばれる若者など、困難な状況に置かれた若者を支援するための新たな法律の制定を目指す方針です。新たな法律には、こうした若者の支援にあたる地域の拠点づくりや、相談態勢の整備などを進め、若者やその家族が、地域から孤立することがないようなネットワークを作るための施策を盛り込むことにしています。政府は、若者の状況の把握や、若者に関する個人情報の取り扱いなどの課題もあることから、近く、内閣府や厚生労働省、それに文部科学省など関係省庁による会議を開いたうえで、法律の具体的な内容の検討を進めることにしています。

【参照】:「引きこもり相談窓口設置 厚労省が予算要求へ」(2008年8月):

 厚生労働省は23日、引きこもりの人や家族からの相談専門窓口となる「ひきこもり地域支援センター」(仮称)を来年度、すべての都道府県と政令指定都市に設置する方針を決めた。


これから、支援センターや法案作成をにらんだ動きが続くと思いますが、気になるのは、こうした動きがすべて医師や親世代の発想に仕切られていることです。 「若者自立塾」は、すでに10億円単位のお金をつぎ込んでいますが(参照)、関係者にお話を伺っても、予算額に見合う活動になっているとは思えません。 活動の骨子となる基本的な発想は、古いままにとどまっています。

ありていに言えば、「規則正しい生活をして、叱咤激励されて社会復帰を目指す」というだけで、何の原理的な試行錯誤もない。 発達障碍や社会不安障害の議論はあっても、「社会に順応する」という根源的な葛藤についての、内在的な考察は見当たりません。 一方的に、メタ目線から「順応しろ」と言っているだけです。

単に叱りつけるか、そうでなければレッテルを貼って社会保障を与えるか。 これでは、社会順応をめぐる政策論として貧しすぎます*1。 苦しんでいる本人たち自身の格闘がどういう実情にあり、何が必要なのか。 それを内側から、あるいは関係者として考える必要があるはずです(誰であれ、社会順応の関係者です)。――逆に言うと、ひきこもっている本人や経験者を含む、取り組みを表明している人たちの側に、傾聴に値する施策案や活動が展開できているかどうか。 「法律なんて関係ない」とは言っていられないし、説得力のある対案が必要です*2


今後は、法律の具体的な条文や、センターの活動案との関係で、「支援の考え方」が問われるのだと思います。



追記:「ニート・引きこもりの自立支援へ「若者新法」 政府方針」(asahi.com、10月24日) はてブ

 政府は23日、ニートや引きこもりの若者の自立を支援するための「若者支援新法(仮称)」を制定する方針を決めた。新法の柱は、地域ごとに官民で協議会を作り、困難を抱える若者を多面的・長期的に支援する仕組みを作ることを想定している。来年の通常国会への法案提出を目指す。

 麻生首相が所信表明で「若者を支援する新法を検討する」と述べたことを受け、内閣府が法案作りに着手した。この日、厚生労働、文部科学、総務、法務など関係省庁の実務担当者を集めて初会合を開いた。

「行政機関と、NPO(非営利組織)など民間組織で協議会を作る」とある。



*1:「私のしごと館」などもそうですが(参照)、何の策もないアイデアに信じられないほど膨大な予算がつぎ込まれ、本当に実験的な試行錯誤をしているところには、1円の予算も回らない、という事態が生じています。

*2:硬直した左翼思想や、不当な利権要求しかないのでは話になりません。

2008-10-14

幼児性への嗜癖的居直りが、状況を分節する労働過程を排除する 幼児性への嗜癖的居直りが、状況を分節する労働過程を排除するを含むブックマーク

ひきこもっている人を、説教で締め上げて「大人にする」というのがパターナリズム。 これを批判する人たちは、「もはや成熟はできない」というが、「自分はすでに正しいポジションにいるんだ」というこのメタ的な態度自身が説教だ。

自己中心的な嘘やナルシシズムをベタに肯定することは、中間集団に耐えがたい状況を作り出す。 幼児的な “当事者” を肯定する人は、自分たちだけはこの中間集団の騒動から役割確保的に逃れられると考えている(「医者」「支援者」「学者」「知識人」そして「当事者」)。 左翼集団であれば、イデオロギーがこの役割を固定する(参照)。

自分のかかわる関係性そのものを問題にする私は、メタ語りの共同体に入らなければ、承認されない。 目の前の関係性で格闘することは、モチーフとしてすら彼らは無視する。 なぜなら、役割とメタ語りでアリバイを確保したはずの彼ら自身が責任当事者にされてしまうからだ。(アリバイを確保した者*1は、労働過程のディテールに耳を貸さない。メタ語りの観客席から、さんざん相手を利用したというのに。*2


単に「大人になれ」でも、「幼児のままでいいよ」でもない。 お互いのいる場所を分析し、この労働過程を共有しようというのだ。 この方針は、“当事者” をも大人扱いすることであり、ベタに役割固定して子供扱いすることも許されない。 だから、特権に居直れると思っていた “当事者” の一部は、私の動態的な提案を怖がっている*3

斎藤環は、社会関係を「役割ごっこ」に還元することで、分節そのものである労働過程を排除している(参照)。 彼は、固定されたフレームの中に居直ることを推奨している。 役割についても欲望についても、フレームを固定したうえでの嗜癖を推奨しているのだ*4。 しかしこれでは、嗜癖的居直りそのものとして生きられている「ひきこもり」に、内在的に取り組んだことにならない。 彼は超越的な目線を保ったままで、ひきこもりを「観察」している*5


追記――難しさを主題化する必要

俗流若者論も、「ちょwwwww」という冷笑も、自分をメタに居直らせる説教だ。 ここでは、さまざまなスタイルの「説教という幼児性」に対して、「動態化する分析の過程を生きること」*6が対比されている。

とはいえ、「メタによる説教」*7以外の手続きが、なかなか見えない。とにかく分析を過程として実演すると同時に(それは参加とその維持の実演だ)、その分析が理解されること、さらには支持されることの「難しさ」そのものを主題化しなければ。

体験の素材化を直接的に持ちかけても、多くの人は怖がって、逆に事実を隠蔽するためにウソをつき始める。ナイーヴな素材化の提案は、自分が悪意を向けられるゲームに参加しているという事実を見ていない。



*1:金銭だけでなく、役割などの社会的資本も「アリバイ」になる。 ▼規範的アリバイと分析労働の関係は、資本と賃労働の関係を比喩として語り得ると感じている。 規範がどうであるのかというのは、《労働過程のスタイル》の問題だ。 思想と中間集団のもんだいがここに賭けられている。 ドゥルーズが《革命》と呼んでいるのは、「集団における労働過程のスタイルを変えること」だと私は理解している(参照)。

*2:役割そのものを換骨奪胎しながら、分節の労働過程そのものを共有する必要がある。 ▼私はここで、分節のディテールを「相手にしなければならない」と言っているが、それは同時に、「相手にしなくてもいい」手続きを新たに考えることだ(参照)。 現状では、役割固定とメタ語りという形で、「相手を無視していい」ことになっている。 このままでは、臨床的にもどうにもならない。

*3:目の前の関係を徹底的に検証するということであって、公正さの追求なのだが。

*4:医者はそれでいいかもしれないが、学校の先生はそれでは難しいのではないか? 嗜癖機会を提供するサービス産業としての教育?

*5:『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.228-9

*6:自分のいる場所や関係を、動きの中で寄る辺なく分節すること

*7:それは順応臨床としては、「このメタ的説教にお前も参加しろ」という誘いにあたる。

2008-10-13 労働過程を中心化すること このエントリーを含むブックマーク

社会復帰のためのさまざまな事業や提案がなされているが、そこには「成功した状態」から、できない側を否定する発想しかない。 逆に言うと、「うまくいった側」は、すでに自分を反省しなくていいことになっている。 これは、結果物としての「売れた商品」の側から考える、社会参加の努力を物神に屈従させる発想でしかない。

支援する側もされる側も、「輝かしい成功地点」からのチェックで考えてしまう。だからそれが自意識になり、再帰的な硬直が強まり、入門すらできない*1。 自意識が、対象世界から個人を恒常的にはじいている。

「完成形」を目指すプログラムそのものが、社会参加をダメにする共犯者になっている。 こういう発想しかしない者にとって、最善の「民主的な」あり方は、ひたすらルーズにフレンドリーに受け入れることだが、それは暗黙の抑圧でしかない*2。 状況への分析が拒絶され、誰かを無条件に受容するために*3、ほかの誰かが理不尽に働かされる。 ▼またそこでは、受容された側の言説に対等な権利がない。 単に隔離されて見下されるか、アリバイとして絶対的な参照項にされるか(参照)。

「就労したあとの状態」、完成像の表象に縛られることが、臨床的に最悪の契機になっている。 私は、完成された結果ではなく、過程そのものを中心化する取り組み方を提案している*4



関連メモ


ハイデガーの《存在》は、プロセスとして生きられるほかない。彼が言うのは、《存在》に気づいたあとの努力のスタイルであり、それを実際に推し進める労働のプロジェクト。プロセスの生きられ方を主張し、提案している。 「思考とは何の謂いか(Was heisst Denken?)」と問い、そこに「感謝」をもってくることで、プロセスと結果が強固に結びつく。 その一意性に、暴力を読み取れるかもしれない。


ヘーゲルでは、自己疎外から絶対精神にいたる行程は、「概念の自己運動」としての労働過程であり、最終地点から過程と果実が報告される。論じているヘーゲル自身が、概念的把握の労苦を生きており、その結果である自らが提示されている。


サリヴァンには『分裂病は人間的過程である』という著作があるが、これは「制度を使った精神療法」が中心化しようとしている「過程」とは、趣旨がちがう。 サリヴァンでは、「人間的過程」が対象として観察されるが、制度分析では、語っているあなた自身が環境として、過程として問題になる*5。 制度分析は、むしろ過程を “非人間的に” 容赦なく分析する。 ▼複数人が同じ場所にいれば、複数の過程が同じ場所にあって、《制度》に巻き込まれている。 たとえば言語がそうであるように、制度は、過程として生きられる。


プラトンやアリストテレスでは、過程それ自体を自己目的とする活動こそが尊重された。それが難しくなっている状況を問題にしたのがアーレント。


労働過程は、自己目的でなければ、何かの道具になっている。イマジネールな達成の果実を目指して、過程が「モノ化=道具化」される*6。 労働力売買で成り立つ世界は、一人ひとりのナルシシズムを支配の契機にしている。 「自発的なナルシシズム」が、体制順応への媒介項になっている。


「大文字の他者というものを身体の中以外のどこにも探してはならない」(ジャン・ウリが引用したラカンの言葉*7


対象に未完成な部分が残っていないと、そこに取り組むことができない*8。 完成品としての作品は、フェティッシュ(物神)として嗜癖するしかない。 シニシズムとしての嗜癖を、冷笑的にやりくりしていくのだろうか。 言うまでもなく嗜癖は、激化すれば破滅への一本道でしかない。 「嗜癖主体」として、体制に順応するしかないのか?


自然に触れてホッとする、というのは、「大自然につつまれて」とかいう有機的全体性で理解すべきものではなく、未完成に触れることの重要さだ。 逆に言うと自然の全体性は、人間など待っていない。 地球が爆発したって、宇宙にとっては何でもない。 【動画:「小さな青白い点」(カール・セーガン)】


《分析労働》。 既存の労働過程論や「work through(反芻処理)*9」と峻別するために、こういう表現をしてみた。 内実としては、「制度分析 analyse institutionnelle」や「分裂分析 schizoanalyse」で論じられていることで、徹底して《おのれ自身の分節過程》が問題になっている*10。 マルクスとフロイトを同時に読む作業は、無意識という概念より、むしろ《労働過程》を中心化するところで見えてくる。


これは、中間集団の作り方の選択にあたる。 同世代であるとか、「○○当事者」であるとか、オタクやサブカルのフェティシズムを共有しても、それが中間集団のつながりを保証するわけでは全くない。むしろそれは分析なしに関係を押し付ける抑圧になる。私は、制度分析というプロセスの共有を提案している。双方が分析し、その出会いという形をとるのでなければ、関係が続かない。分析なしの関係性とは、「相互フェティッシュ化」でしかない。


私は、身分としての「当事者」を特権的に固定することに反対し*11、制度分析をともなう関係の再編において、当事者化のプロセスを中心化しようとしている。 関係の中で、あなたも責任主体として当事者化される。――私はひたすらそこを話題にするようになったが、これこそが、ひきこもり業界からもアカデミズムからも忌避される理由になっている。 彼らは、ベタに「当事者」に居直るか、ベタに「知的言説」に居直るかしかしない。そこに動態的な当事者化をもちこむと、制度順応的に安泰だったナルシシズムが毀損されてしまう。 彼らは、これを非常に怖がっている。 「すべての過程化」というのは、制度的な命綱を手放すかもしれないような、危険な話なのだ。


マルクスの労働過程論は、『経済学批判要綱(Grundrisse)』が参照される必要がある(参照)。 過程そのものを徹底的に “非人間的に” 考察したうえで、そこから「価値増殖とは何か」を考えなければ。 いきなり搾取論をしても、イデオロギーにまみれてしまって、唯物論的な過程論にならない。 ましてやそこに、労働過程論としての精神病理学の可能性を見いだせない。


労働過程論としての精神病理学を考えるうえでは、まず個人の精神的疎外が話題にされる*12。 しかしそれが複数集まって集団で形成され編成されるのだから、そこには組織論や経営論が、またさらに、社会思想史の文脈が参照される必要がある。 なんと長い道のりだろう。



*1:学問や就労だけでなく、「非モテ論」もまさにこういう事情にある。

*2:「まぁいいじゃん!」という玄田有史氏の口癖は、じつは非常に抑圧的なのだ。 ▼また、「理論は過激に、臨床は素朴に」という解離を生きる斎藤環氏は、目の前の関係の(役割を固定したうえでの)ルーズさを、民主的な受容と勘違いしている。理論と現場の解離が強まれば強まるほど、その解離を抑圧するために、目の前の関係はルーズに放置され、その放置こそがリベラルであると肯定される。これでは、固定されたフレームのイデオロギー的肯定にすぎない。

*3:何もしなくても、「売れたことにしてしまう」。これではやはり、売れたことにされた側は自己反省しない。地位を静止画像でしか考えない、という役割固定のフォーマットは同じままなのだ。

*4:あれこれの批判をするより前に、《過程を中心化する》という私の趣旨が伝わらなければ、何を論じても意味がまったく伝わらない。

*5:中間集団が、論じている自分を含むかたちで問題になっている。医者のおこなう「症例検討会」にちかい。

*6:宮台真司のナンパ指南は、まさにこれにあたる。 あるいはキャラとしての私は、誰かの視線のもとにモノ化されている。

*7:『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.272

*8:ジャン・ウリ、三脇康生らの「臨床論=美術批評」では焦点のひとつ。

*9:旧訳では「徹底操作」(参照

*10:対象化する視線が超越化されるのではない。 アカデミシャンの目線が、肉眼をやめることはない。

*11:「フェティッシュ化=差別化」への反対

*12:「制度を使った精神療法」では、疎外が中心的なモチーフになるが、そこでは「精神的疎外」と「社会的疎外」がともに問題になる。前者が精神疾患として照準化される。

2008-10-12

バラバラでベタな「メタへの嗜癖」 バラバラでベタな「メタへの嗜癖」を含むブックマーク

努力のプログラム自体をまちがっている。 その方向で勤勉にがんばっても、問題をごまかしているだけ。

「○○をすれば引きこもり問題に取り組んだことになる」の前提を間違っている。ところがこれを言うと理解を拒否する。ひきこもり問題に取り組むより、自分のポジションやナルシシズムの確保を優先させる。自分が引きこもりを悪化させる意識制度の共犯者になっていることを認めるより、自分のナルシシズムの制度的確保を優先させる。問題に取り組みたいのではない、自分のナルシシズムを作りたいのだ*1

説教をする人に「説教をしてもダメ」と言っても態度を変えない。威圧的な説教がメタ言説や学問の権威を背景にしてふんぞり返る場合は、説教自体が屁理屈で居直ってしまう。学問のプログラムに応じて役に立つことは、「ひきこもりを内在的に考えたかどうか」と関係ない。直接的な言説プログラムへの順応は、「順応してみせるパフォーマンス」でしかない*2。――これはつまり、ひきこもりを論じようとして間違う人たち自身が、ひきこもっている人と同じ言説プログラムにはまり込んでいるということ。 知識人は「雲の上から小便」に居直れるが、ひきこもる人は再帰性の地獄にはまり込む。(むしろ後者のほうが誠実かもしれないが、言説の努力がメタへの順応以外にあり得ないと思っている時点で同じ思い込みにある。*3


安定的な規律訓練(モダニズム)から、個々バラバラの「メタへの嗜癖」へ*4。 不在のメタにベタに嗜癖する。 バラバラで保証がないぶん、いくらやっても第三者の審級には到達できない。 だからますます嗜癖する。 その嗜癖の徹底ぶりで説得力を擬製*5=擬勢*6する。 大文字の他者がない場所で20世紀のフランス思想がやったのは、バラバラにメタに嗜癖するディレッタンティズムではなく、目の前の不在を引き受ける作法の提案だったはず。一つひとつの提案(思想家)を研究するのに、研究する側の自分がメタに居直ったままではどうしようもない。(斎藤環らは、近代的なメタへの居直りを、嗜癖的なメタへの居直りに置きかえているだけ。彼らは、「メタっぽく見えるガジェット」で遊び、「自分らはメタなんだ」と悦に入っている。*7


大文字のメタがないことに対しては、(1)フレームを固定して嗜癖する、(2)フレームそのものへの分析と再編成を過程として生き切る の両極と、あとはその適当なブレンドしかない。 たいていは、(1)をあれこれやってみせるだけ*8

社会学は、大文字の他者を擬勢するのに都合よく見える*9。 社会学に依拠して語る者が、「自分はメタに語っている」のナルシシズムにはまり込むのはそのため。 ナルシシズムは、制度順応の擬勢。



*1:あるいは、ナルシシズムを媒介に利用されようとしている。そして、自分が利用されるのと同じシステムで他者をモノとして利用する。「モノとしての相互利用の体系」に人を巻き込もうとしている。

*2:取り組んでいる自分自身が、硬直した制度順応を実演している。ひきこもりでは、その《順応》そのものが臨床上の苦痛になっているから、自分が単に順応してみせることは、順応問題に取り組んだことにならない。ただ「見せびらかした」だけだ。

*3:だからひきこもる人は、社会順応の瞬間に目も当てられないナルシストに見える。彼らの自意識にはひとまず、「制度順応」の方法論しかない。だからこそ、ヤケクソの言動が「脱社会」に見えることがある。▼それを「脱社会」と呼んだところで(宮台真司)、制度順応をめぐる臨床論にはなっていない。

*4:単なるメタ語りだけでなく、「単なる当事者語り」も、語る自分の身分を超越的に固定している。 特権的身分に居直る “当事者” たちも、メタへの嗜癖状態にある。 ▼メタへの嗜癖は、中間集団におけるみずからの当事者性を黙殺し、回避する。

*5:本物にまねて作る

*6:虚勢、威嚇

*7:その同好会としての中間集団、という理解しかない。むしろ、中間集団で関係を維持するスタイルにこそ、思想が賭けられている

*8:既存の論者が語る《強度》は、(1)の「嗜癖の強度」でしかない。

*9:たとえば統計資料は、価値観の葛藤なしにいきなりメタに立たせてくれる。

2008-10-10 「制度を使う」ことのあやうさ このエントリーを含むブックマーク

立木康介 「ラカン派の視点から――制度を使った精神療法とラカン派応用精神分析」(『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』pp.347-370掲載) p.349-350 より*1

 「パリ・フロイト学派」、および、1980年の同学派解散のあと、それを継承する形で設立された「フロイトの大義学派(École de la Cause freudienne ECF)」は、これまでつねに、純粋精神分析の充実に心を砕いてきた。なぜなら、純粋精神分析、とりわけ1967年にラカンによって提唱され、1969年に適用されるに至った「パス passe」の仕組みが回転しないかぎり、学派は「精神分析とはなにか」を決定することができない、いいかえれば、自らがそこに拠って立つべき「精神分析なるもの」をもつことができないからである。これにたいして「応用精神分析(psychanalyse appliqué*2」は、あくまで、「純粋精神分析」によってそのように確立された「精神分析なるもの」の応用として、すなわち「純粋精神分析」によって支えられる二次的な分野として、位置づけられてきた。

 だが、ラカンの生前には彼を失望させることしかなかった「パス」の運用が、その死後20年を経てようやく定着し、すっかり軌道に乗ったとみなされるようになったここ数年、ラカン派、とりわけ ECF は、こうした既定路線を目にみえる形で転換する新たな方針を打ち出してきた。すなわち、応用精神分析、とくに「制度=施設へと応用される精神分析」を見直し、この分野におけるラカン派精神分析の取り組みを強化しようというポリティクスである。

※「パス」の仕組み――これはたんに、一般に理解されているように、分析家の資格認定を行うための独自の制度であるというより、むしろ、自分がひとつの精神分析を終えたと考えている主体の証言を学派全体が承認することで、「現時点における精神分析とはこれである」と学派が主張しうる「精神分析なるもの」をそのつど創造するプロセスであるといわねばならない。


ラカン派の「パス passe」が「精神分析なるものをそのつど創造するプロセス」であり、第三者的な問い詰めと検証の仕掛けであるように、制度分析*3にも、そのような機関(仕掛け)*4が必要ではないか。 「精神医療審査会」に相当する「制度分析審査会」、あるいは「passe」ならぬ「passe institutionnelle*5にあたるような何かが。


「誰が精神分析家なのか」が問題になるように、「誰が制度分析を行なっているのか」は、資格上の問題だろうか。(フェリックス・ガタリは、よく「精神科医」「精神分析家」などと肩書を紹介されているが、実際には完全に無資格で働いていたらしい。*6


ラ・ボルド病院で「制度を使った精神療法」を唱道するジャン・ウリは、次のようにいう:

 大事なのは、知らないうちにものごとが決まっているという状況なのです。これのことを私は「決定の機能(fonction décisoire)」と呼んでいます。ある一人の人物が偉そうに、自分が決定権をもっている人間だといった形で決定されるのではなく、知らないうちにものごとが決まっていく。そういう決定の機能が非常に必要なことなのです。 (ジャン・ウリ、『医療環境を変える』p.34)

「知らないうちにものごとが決まっている」――これは、資格認定としても、職場での集団的意思決定の問題としても、あやうすぎるように感じる。 また、精神分析でいう技法や句読点(参照)に相当するものは何だろう。


三脇康生は、制度分析のプロセス面に注目している。:

 ウリのいっている制度分析は、それが「institution(制度)」の生成に含み込まれているものだ、もしもフランス語で書くならばできあがった institution ではなく、プロセスとしての「institutionalisation(制度化)」として含み込まれているのだということを忘れてはならないだろう。そして、人間の基盤を終わりなくつねに創造し直す「場=institution(制度)」、それをウリは統合失調症の患者のために用意し、そこに関わる「正常」なスタッフにもへ参加することの喜びを知らしめようとするのだ。 (三脇康生、『医療環境を変える』p.279)

《制度化》の内発的生成*7は、個人レベルで精神的疎外を回避するには是非とも必要だが、それが同じ場所で複数人に営まれた時には、集団的形成(アジャンスマン)や意思決定はどういう顛末になるのか。

ウリは素っ気なく「知らないうちにものごとが決まっている」というが、集団的な《制度化》の動きにあくまで抵抗する個人の出現*8に、どう対応するのか。 それどころか、制度分析を試みた自分こそが、制度逸脱者として排除されるかもしれない(参照)。 ▼そもそも制度分析や「制度を使った精神療法」は、硬直した制度・態度への反省や抵抗であったはずだが*9、カウンターとなる強制力はどうやって担保されるのか*10


この方法論の維持しがたさは、松本雅彦によって指摘されている。

 先ほどウリ先生が、ラ・ボルド病院は決してモデルではないとおっしゃったのですけれども、なぜフランスでラ・ボルド病院がこの40年、50年*11、単に特権的な位置を占めているだけなのかというのは、やっぱり疑問です。

 ラ・ボルド病院でやっていることは、本当にいいモデルと思われる、ものすごくいいものとして普遍化できるのではないかと思います。ところがそういうものがなぜフランス全土に広がらないのだろうかと思います。日本にも最近では北海道の「べてるの家」という、とても自然発生的な雰囲気の所がございます。ただなぜもっと広く普及しないのだろうということが問題です。たしかにウリ先生のおっしゃるように、一つのモデルになってそれが普遍化したとなれば、それは固いシステムになってしまう。それは権力的場になっていくだろうから問題なのでしょうけれども、やはりもっと広がっていいのではないか。 (松本雅彦、『医療環境を変える』p.39)

これに対するジャン・ウリの答えは、それ自体が危ういものになっている。

以下、返答に該当すると思われる個所より:

 ラ・ボルド病院というものは、大きなこういうようなネットワークの一つの点に過ぎないのです。あくまでそういう点なわけです。そしてラ・ボルド病院は、先ほども言いましたように、過渡的といいますか、いまにもつぶれそうな存在でもあるわけです。経営的にも、運営的にも、いまにもつぶれそうな存在なわけです。しかしそれが理想なわけです。きちんとした安定したものを作りあげることでは一つの開かれが存在することにはなりません。(ジャン・ウリ、『医療環境を変える』p.41)

硬直した社会の中で、あやうい “開かれ” をあやういまま維持しようとする努力。

これは、なんだか取り組んでいる人間がズタズタになってしまわないか。

取り組む人間を守るためにも、「あやういものを維持する技法や手続き」が、どうしても必要に思える。



*1:本エントリーにおける引用の強調箇所は、すべて引用者によるものです。

*2:【参照1】、【参照2

*3:あるいはガタリなら分裂分析(schizoanalyse

*4:何気なく併記したが、「機関」なのか「仕掛け」なのかというのは、《第三者の審級》と《取り組みプロセス》の関係を考えるうえで、決定的にちがう。

*5:「制度論的教育分析」? あるいは、ラカン派の「passe」自体が、制度分析的なものになるべきだろうか。

*6:『医療環境を変える』 p.281

*7:制度分析の分節過程(労働過程)が、制度化の過程そのもの

*8:端的な悪意だけでなく、どこまでも順応主義的な良心に固執する人は、自分の「命綱」を手放そうとはしない(参照)。

*9:「制度分析」「制度を使う」という発想は、ドイツ第三帝国の占領に抵抗するレジスタンス運動に深くつながっている。 【参照:「《制度が病む》という発想」】

*10:私が《法》にこだわるのはそのためだ。 【参照1】、【参照2】、【参照3】 ▼「制度論的な施設だとか場所だといわれているところには、カリスマが存在している」というが(『医療環境を変える』p.236)、ではカリスマが死んだら強制力が失われ、制度分析は消え去るのだろうか。 → 同書 p.241 では、「カリスマなき制度使用」という言葉が出ているが。

*11:ラ・ボルド病院がジャン・ウリによって設立されたのは1953年。

2008-10-08 このエントリーを含むブックマーク

  • 身のまわりに、権威主義者、嘘つき、ナルシストしかいない場合、どうしたらいいのか。 中間集団の問題とはそういうことだ。 「社会復帰」なんて、大文字で綺麗事で語ることじゃない。
  • 「金と権力」を薄汚く語る大人が嫌いだった。 でもあれは、「金と権力がなければ、生きていることすらできないよ」ということだったのだ。

2008-10-07

ひきこもり――家族の側に、拒絶の権限はないのか ひきこもり――家族の側に、拒絶の権限はないのかを含むブックマーク

前回は、国が扶養を押し付ける「扶養義務」を調べてみたが、実際にひきこもる人が「扶養しろ」と訴えを起こした事例は見当たらない*1。 基本的には、暗黙の威圧、感情的な暴発、身体的な暴力などによって、なし崩しに扶養が続いてしまう。 よく「親が甘やかすのが悪い」と言われるが、本人のはまり込んでいるただならぬ無能力(沈黙であれ饒舌であれ)に抵抗するのは並大抵ではなく*2、暴力で外部社会との関係性を強要しても、長続きしない。――とはいえ憲法との関係では、扶養義務者の生活が守られなければならない。


二宮周平『家族と法―個人化と多様化の中で (岩波新書)』 p.150-152 より(強調は引用者)

 生活保護法は保護の補足性を原則とする。保護は、生活困窮者が自分の資産、能力その他あらゆるものを自己の最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われ、さらに民法の扶養義務者の扶養、その他の法律による扶助が生活保護よりも優先して行われる(生活保護法四条)。つまり、自己責任と私的扶養が公的扶養よりも優先するのである。

 どの義務者でも、 (a)自分に扶養能力があること、 (b)扶養権利者が要扶養状態にあること、 (c)実際に権利者から扶養請求されたこと が要件であり、これらがあって初めて具体的な扶養義務が発生する。 私的な扶養である以上、扶養を受ける意思のない者に具体的な扶養請求権の発生を認めるわけにはいかないのである。

 私人間(しじんかん)でなされる扶養である以上、義務者自身の生活を犠牲にさせてまで、他者の扶養を強制することはできない。日本国憲法も、国民の生存権と国によるその保障義務を規定している(二五条)。この規定との関係でみれば、民法が扶養について規定するのは、近親者の扶養義務を強制するためではなく、無限に広がる可能性のある私的扶養の限界を示すためであるといえる。


病気でも障害でもないならば、本当に「要扶養」かどうかが問われるし、本人自身がそこで苦しむ。 扶養される権利を明示的に主張することは、むしろ引きこもりとは反対の「社会的なアクション」であり、そういうベクトルがないからこそ困っている。(本当に積極的に「扶養してくれ」というアクションがあれば、それこそ明示的な交渉関係に入り得るだろう。ひきこもりは、交渉能力の低さとして成り立っている。*3


いちばん時間とエネルギーを割くべきなのは、お互いの考え方への批評的介入や、家族・職場・地域での関係性の再構築という臨床的な取り組みだが*4そもそも「ひきこもり」は紛争として維持されており、ひきこもる側にさまざまな葛藤や怒りがあるのは事実でも、扶養する側の家族にも、筆舌に尽くしがたい負担が生じている*5。 扶養義務者と名指された側には、発動できる強制力や、それを支える法解釈はないのだろうか。――これは、いきなり結論を出すことではなく、《交渉》というフォーマットの整理にあたる。

    • ひきこもりは、直接的には無能力の問題であり、法律で自立を強制しても解決するとは思わない(単なる強制は逆効果か、少なくともたいへん危険だ)。 家族・職場等の関係性や、無能力を形作る独特の事情である再帰性に取り組まなければ、問題そのものに取り組んだことにはならない*6。 しかし、ひきこもりそのものが紛争として体験されており、お互いに納得できない状況がある以上、双方が活用できる強制力はすみずみまで検討しておく必要がある。 強制力を持つことは、お互いの交渉関係に影響をもつ。 それも含めての、「制度を使った方法論」だろう。 ▼そもそもひきこもりは、紛争として、内在的に社会関係を生きているとも言える*7。 何が「やむにやまれぬ状態」であり、何が「理不尽な居直り」なのかは、ケースごとに、またリアルタイムに判断するしかない。


・・・・ここで気づくのは、どうやら家族内に導入できる強制力というのは、あまり見当たらないということだ。 法律は、家族間の問題には関与しないという基本的性質を持っているらしい。

  • 法は家庭に入らず [古代ローマ]】
    • この法格言は、家庭内の問題については法が関与せず自治的解決にゆだねるべきであるとの考え方を示すものです。 民法の協議離婚制度(当事者の合意があれば、裁判所の関与なく、届出のみで離婚できる制度)や刑法の親族間の特例(窃盗、詐欺、横領などで夫婦や一定の親族には刑が免除)などに具体化されています。 なお、家庭内における虐待や暴力について、近年、いわゆる児童虐待防止法やDV防止法が制定されるなど、この法格言を超えて積極的に法が関与する例も見られます。 (参議院法制局「法制執務コラム集 〜法格言」)

家族内の暴力(ファミリー・バイオレンス)については、「児童虐待」、「高齢者虐待」、「配偶者間暴力」についてしか、特化された法律が見当たらない。

子の立場にある者が中年期までの親や親族にふるう暴力については、ふつうに暴行罪等が想定されているらしいが、「なにもしないでひきこもる」ことについては、条文らしきものが見つからない*8


扶養義務を担う家族の側から、「正当な理由もなく*9ひきこもることは、家族に対してあまりにも大きな精神的苦痛と、経済的打撃を与える。これは、家族への暴力と同じである」という解釈から、法的な訴えを起こすことは可能だろうか。 身体的暴力はわかりやすいが、言葉の暴力、さらには「なにもしない」ことを暴力と言えるか。 家族の中で「なにもしない」ことは、法的にはどういう手続きに乗せることができるか。


 本法にいう「配偶者からの暴力」は、いわゆる精神的暴力も含む概念である(法1条1項)が、そのうち保護命令の対象になるのは「配偶者からの身体に対する暴力」、すなわち配偶者からの身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすものである(法10条)。つまり、精神的暴力は保護命令の対象にはならない。 Wikipedia - 配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律(DV防止法)

これを見るかぎり、「なにもしない」ことによる被害が、保護命令の対象になるとは考えにくい。


同居も扶養も望んでいない家族が、ひきこもる本人との関係に切断線を入れるために活用できる条文や法解釈が、見当たらない。 だとすれば、ますます自律的で臨床的な中間集団の方法論が問われる。 ▼家族そのものが小規模の集団であり、また社会参加にあたっては、中間集団が決定的なハードルになる。 この《集団》の問題に取り組むという観点が、現状のひきこもり論にはない。

強制力の導入や条文の活用を通じて、まさにその中間集団そのものの改編や生き直しが、あり得ないだろうか。 ひきこもるとは、「この状態でしか生きられない」という絶望でもあると思うのだ。*10



【追記】

    • このエントリーを推敲する作業自体が強く精神分析的な効果をもった。 「書いて推敲する」という作業はいつもそうだが、今回は特に。
    • ひきこもりは、病の「実体」であるというよりは、「関係を作ろうとするときに再生産されるスタイルの病」というべきだと思う。意識を生き直そうとするときに、つねにはまり込んでしまうパターンがある。本人だけを異常視していても、そのパターンを再生産するだけ。実体化して処遇を考えるよりも、関係性と労働過程の臨床にこそ取り組まなければ。――そこで、制度分析や介入*11が問題になる。
    • とはいえ、本人自身が強硬に「病のパターン」に固執する場合には、分析と介入自体に強制力が要る*12。 これはもう、治療の問題ではなくて政治的交渉関係の問題だ。 だとすれば、意図的に暴力を誘発して相手を排除することすら、選択肢に入るだろう。 最終的には、「臨床なのか、政治なのか」というあたりの判断になりそうに思う。(政治には臨床的方法意識が必要であり、また臨床は、それ自体が政治化されねばならない。)



*1:無理やり引き出す局面での暴力性については、「名古屋地決平18・12・7」などがある(『引きこもり狩り―アイ・メンタルスクール寮生死亡事件/長田塾裁判』p.83-112で、顛末が記されている)。

*2:ほぼすべての事例で、初期には説教等が試みられている。 ご家族は、徐々に「これはただごとではない」と気づき、口数が少なくなってゆく。

*3:ボーダー系や自己愛系の人たちは、むしろきわめて巧妙な交渉能力を発揮して、疾病利得(しっぺいりとく)や不当なポジションにありつこうとする。――こうしたことをケースごとに検証し直すためにも、お互いを当事者化する《交渉》というフォーマットが必要だ。 《交流》という要因を基本に据えることは、かえって不毛だと思う。

*4:ご家族は、「無理に放り出せば死んでしまう」と恐れてもいる。 社会保障は難しく、ご家族の扶養能力は有限なのだから、周辺社会への合流が、臨床課題にならざるを得ない。 ▼ここでは、ひきこもる本人だけを異常視するのではなく、合流をめぐる試行錯誤そのものが、社会に輸出されるべきだろう。 私たち一人ひとりはお互いにとっての《環境》であり、また社会参加を維持することの難しさは、誰にとっての課題でもあるはずだ。

*5:形式的に「ひきこもりの全面肯定」と言っても、それを扶養するのは誰なのか。 正義を装った形式的な権利主張は、同意者の負担を忘れている(参照)。

*6:家族や職場で、分析的な介入のプロセスそれ自身が臨床的な意義をもち、関係を作り出す。――とはいえそれは、強制力を持たない。 孤立した分析や介入は、危険行為とすら見なされる。

*7:論点の実存そのものとしてのひきこもり。 ▼タイトルとしての『論点ひきこもり』は、こういう意味だった。 このときの趣旨が、その後の「制度を使った精神療法」への取り組みにつながっている。

*8:憲法に「勤労の義務」はあるが、憲法は国家権力を制限するもので、私人間の権利義務や、刑罰の対象になる違法行為を記したものではない。

*9:ここが最も揉めるところだ。 何がどうであれば「正当な」理由なのか。

*10:本エントリーに関連しては、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.239-244 掲載の拙論をぜひ参照してほしい。

*11:当事者化や「制度を使った方法論」

*12:これはひきこもりに限らず、職場の環境改善でも言えること。

2008-10-06

ひきこもる人への扶養義務は、法律ではどう考えるか(メモ) ひきこもる人への扶養義務は、法律ではどう考えるか(メモ)を含むブックマーク

なるだけ基本的な本を引用したり、ネット上にわかりやすい説明があったらリンクしたり、という具合でこれからも触れていこうと思います。重要なポイントにはくり返したち帰ると思いますし、理解の誤りや文献のアドバイス等ありましたら、ぜひご指摘ください。


扶養のQ&A」(行政書士・工藤法務コンサルタント事務所):

 法律上の扶養義務を負うのは「夫婦」「直系血族」*1「兄弟姉妹」だけです (略) ただし、「特別の事情がある場合には家庭裁判所が三親等以内の親族に扶養義務を負わせることができる」との規定があります。

二宮周平『家族法 (新法学ライブラリ)』p.255:

 扶養義務者は、連帯債務的に扶養義務を負う


「生活保持義務」と「生活扶助義務」のちがいについて、「扶養の基礎知識」(工藤法務コンサルタント事務所)より:

  • (1) 生活保持義務(親が未成年の子、夫が妻を扶養するなど)
    • 自分と同じ程度の生活をさせなければならない扶養の程度のことを、生活保持義務といいます。
  • (2) 生活扶助義務(子が親を、親が成人した子を、兄が妹を扶養するなど)
    • 自分の生活を犠牲にしない限度で援助する扶養の程度のことを、生活扶助義務といいます。

成人した子に対する扶養義務は、ここでは「扶助」になっている。あるていど本人が自助努力できる前提か。


大阪高裁判事・岡口基一『要件事実マニュアル 別巻 家事事件編』p.118(強調は引用者)

 自活能力がない成熟子に対する親の扶養義務も、生活保持義務である。(松尾知子 新注民(25) 797項)

ここでは「保持」となっている。


岡口基一(id:okaguchik)氏が参照している文献:

新版 注釈民法〈25〉親族(5)

新版 注釈民法〈25〉親族(5)

適当に改行や強調をほどこしつつ、該当個所を引用してみる(p.797-8)。

親の子に対する生活保持義務は、原則として子が成年に達するまで存続するが(東京高決昭37・3・19 高民集*2 15・3・184等参照)、子が成熟した後は、軽減又は免除されるものと解してよい

審判例には、子に対する扶養の一応の終期を義務教育終了時とするもの(大阪高決昭37・10・29 家月*3 15・3・128等)、18歳とするもの(高松高決昭36・10・14家月14・8・150等)、高校卒業時とするもの(東京高決昭39・1・28家月16・6・137等)がみられる。

逆に、成年に達した後も(扶養義務の性質は、生活扶助義務に変化するものと解すべきように思われるが)、子に自活能力がなく、親の扶養能力にも特に変化がない場合には、引き続き従前と同じレベルの扶養義務が課されることもある(福岡家小倉支審昭47・3・31家月25・4・64。この審判を含む公表例の多くは、生活保持義務であることを前提とする)。

義務教育終了後の子の扶養をどこまで認めるかは、結局、当該親子をめぐる状況によって異なるが、高校が義務教育化したといわれる現在、子が一応の自活能力を備えるであろう時点として扶養の終期を定めるにあたっては、高校卒業時ないし18歳がとりあえずの基準となろう

問題となるのは大学生である子への扶養義務である。 大学の在学期間は、現状では、成年到達時をこえるものであり、また、浪人・留年期間がこれに加わることもある。 大学生である子への扶養料支払を肯定した初めての公表例では、浪人中の子が大学を卒業するまでの扶養料が命じられている(東京高決昭35・9・15家月13・9・53)。

しかし、その後、成年前に既に大学に進学している男子の扶養の終期については、大学卒業時としたのに対し、成年後も浪人を続ける女子については成年到達時とした事例が現われ(福岡高決昭47・2・10家月25・2・79)、男子か女子か、成年到達前に大学に進学しているか否かで扶養の終期を区別することの意味が問われることとなった。

近時、子の扶養を、4年生大学に進学したときは4年生大学を卒業すべき年齢まで、短期大学に進学したときは短期大学を卒業すべき年齢まで、高校卒業後就職したときは高校を卒業すべき年齢までとして、いわゆる留年期間を扶養の対象から除外する趣旨の事例がみられるが(大阪高決平2・8・7家月43・1・119)、浪人した場合をどのように扱うかは明らかでない。 子に一応の自活能力があるとしても、義務者の生活レベルが許すのであれば、大学への進学希望がただちに拒絶されるべきではないのはもちろんのこと(東京高決平12・12・5家月53・5・187は、義務者の資力以外にも、奨学金の可能性・金額、アルバイトによる収入の有無・可能性・金額等学業継続に関する諸般の事情を考慮事由として挙げる)、浪人・留年期間を含めて扶養を認めることも可能であろう。 男女の区別は考慮されるべきではない。

時代によって変遷する、「漠然とした常識的理解」を語っているように見える。

これらの判例は、多くが離婚後の扶養義務をめぐって争われている。

病気や障害・高齢化等によって生活能力がなくなる場合には、それに応じた判断や社会保障もあるが、法律の議論は、「病気でも障害でもない中年期までの社会的ひきこもり」については、想定できていない――そうとしか思えない。


だとすると、直接的な制度的支援や、状態像の正当性を確保するのであれば、既存の「病気・障害」カテゴリーを適用するか、法解釈で努力するしかない。

 法解釈(ほうかいしゃく)とは、法を具体的事案に適用するに際して、法の持つ意味内容を明らかにする作用のことをいう。現実に発生する全ての事態を想定することは困難又は不可能であるから、法はそれ自体ある程度、抽象的とならざるを得ない。従って、法を適用するに際しては、具体的事案と問題となる法との間にこれを適用しうる関係があることを示さねばならない。ここに法解釈の必要性が認められる。 Wikipedia - 法解釈

しかし逆に言うと、「ひきこもりの扶養」そのものが裁判で争われたという事例が見当たらない。


私自身は、「どうやって既存の法や制度を適用するか」だけではなくて、《制度順応することそのものをめぐる臨床》を考え直し、そこで快活さを取り戻すことを、少なくともそのための取り組みが必要であることをしつこく説いている。結果的な状態像が論じられるばかりで*4、取り組みのプロセスが主題化されていないのだ。



生活保護 関連メモ

世帯分離して別居状態を作ろうとも、扶養能力のある親族があれば、生活保護は受けられない(参照)。 現在は、養子縁組を解消する手続きはあっても、いわゆる「実の親子」の関係を法的に解消することは不可能だから(参照)、生活保護のために「身寄りがない」状態を作ることもできない。


続き⇒ひきこもり――家族の側に、拒絶の権限はないのか

参照:〔あなたは扶養義務がありますって言われても、(はてな匿名ダイアリー)


*1:父母、祖父母、子、孫など、直接 “縦方向” にたどれる関係。 兄弟や叔父・叔母、いとこや甥などは直系血族ではない(参照)。

*2等裁判所事判例

*3庭裁判

*4:「ひきこもりシステム」とか「ひきこもる権利」とか

2008-10-05

ドゥルーズ - 左翼とは何か?」(Air du Temps「ドゥルーズ - 左翼とは何か?」(Air du Temps)を含むブックマーク

リンク先の管理人 chaosmos さんが字幕を入れておられて、ドゥルーズ本人がわかりやすい言葉で語っています。

D

人権と法解釈の話は強く励まされた。


D

「左翼は遠方から考えていく」というのだが、

自分の当事者性を徹底して問い詰めるような議論*1では、自分のいる場所をこそ考えなければならないはず。

「マイノリティになること」云々は、言葉そのものとしては励みになるが、こういう言葉をもちあげて自分は下品な覇権主義でしかないような左翼もたくさん見かけるので、ポーズとしての左翼はどうでもいい。

むしろ、具体的な分析提示において実際にマイノリティとして生成できるかどうかだ*2。 「私はマイノリティですから」と、自分の当事者性(差別的カテゴリー)に居直ってみせることは、マイノリティに《なる》devenir)という言葉にドゥルーズがこだわったことと何の関係もないと思う。

上の動画でドゥルーズが「人権」を叫ぶ知識人をこき下ろしてるけど、要するにそういうことだろう。人をカテゴリーに押し込んで、あとは硬直した正義のイデオロギーを叫んでいるだけの人たち。叫んでいる自分は、「永遠に批判されない正義」をかこつことができる。それがどれほど硬直した暴力性であることか。――その暴力の傘に守られることを希望する人も多いのだけれど。(そういう “当事者” が、既得権益を守るために私を潰しにかかっているわけだ。これは本物の政治闘争だ。)



*1:彼がガタリと考えていた「制度分析(analyse institutionnelle)」や「分裂分析(schizoanalyse)」の議論を、私はそういうものだと理解している。

*2:それは、行く先々でたいへん危険な行為とみなされる。

2008-10-04

「命綱」という秀逸な比喩 「命綱」という秀逸な比喩を含むブックマーク

当事者化論のブックマークより。 コメントをくださったAFCPさん*1は、児童精神科医とのこと。

AFCP: 言いたいことはなんとなくわかる気がするけど、こんなめんどくさい人のいる領域を支援にいこうとは思わないなあ。 「オレ(達)を助けにくるなら命綱なんてつけずに来い」ということですよねえ。

一方的に「支援される」のではなくて、支援する側の労働環境改善にも関わることだと思います。 支援する側が一方的に負担するという発想も考え直すことなので。 そしてそれが、内在的に臨床的な配慮にもなっているはずだ、と。

支援される側が社会に参加していくときに、「すべて自分が負担する」と「ぜんぶ相手に任せきり」の両極端*2ではなくて、順応をめぐる関係事情まで周囲と相談しながら、合流していくこと。 そこで相談しながら、分析しながら合流しようとするときに、支援者側が固定された役割に居直ってしまうと、逆効果だと思うのです。(支援される側が役割に居直っても同じです。) 役割というのは、機能的必要から設定されたものでしかないのですから。

それにしても、「命綱」という比喩が、制度順応を考える表現として秀逸です。 制度順応で生き延びた方の多くは、「手を離したら終わり」と思ってらっしゃるのですね。 私は、「無理やり外部から綱を突きつけられても、アレルギー反応が出てしまう」「綱の維持が自己目的化するのは無意味すぎて無理」という状態で*3、臨床的趣旨から、「自分で綱を作る作業」を考えている。 もちろん既存の制度(命綱)は無視できないし、孤立していては絶対に無理です。 《制度》である以上、一人だけの問題ではないし、《入門》が問題になっている。 またそれは、すでに生きてしまっている無意識的な枠組みでもある。――その《制度》を、固定された何かではなくて、お互いの関係を通じて取り組む場所にしていきましょう、というような。 本当に必要なのは思想家がどうこうではなくて、《順応すること》そのものをめぐる考察です。

私としては、順応の臨床を考えるためにどうしても必要なことで、《制度》という概念についてやや人文的な考察をしているのも、そのためです(参照)。 この取り組みは、ひとまず私自身に対して、はっきりと臨床的な効果を見せつつあります。



固着した場所との付き合い方を変えること(反芻処理) 固着した場所との付き合い方を変えること(反芻処理)を含むブックマーク

神戸市立中央図書館に、資料本や判例のコピーに行く。 今さらではあるが、《図書館》という場所に感じ入る。 帰り道、神戸地方裁判所のまわりをぐるりと歩きつつ*4、《裁判所》 《精神病院》 《学校》 という場所を、単に否定するのではなく、制度として受け止めなおそうと試みる。

目の前の即物的な場所。 文字でも勉強するのだけど、心理的な反芻処理(work through*5として。 《裁判所》 《精神病院》 《学校》 という場所は、心理的に固着したままだと思うのだ、多くの人にとって。


横断歩道で信号待ちをしながら、

「《症例》という位置づけと、《判例》という位置づけは、社会的な処理として似てるなぁ」などと考える。 DSMと実定法の比較(文化的・歴史的に形成されたもので、実務には必要でも、妥協だらけ)。

実務には強制力があるが、味もそっけもない(理不尽な暴力性もある)。 考究にはプロセスの果汁があるが、直接的な制度的強制力はない。 研究者たちは、自分たちの成果が強制力に影響を及ぼすことを願っているわけか。



*1:ありがとうございます

*2:役割固定と、お互いに相手を利用するフェティシズム

*3:中学時代の不登校以来、「順応フォビア」のような状態が続きました

*4:すさまじい事件の判決で、いつもここがTVに映る

*5:旧訳では「徹底操作」(参照) via id:you999:20070916:p2

2008-10-03

政治的・法的にばかりでなく、臨床的な趣旨をもった《当事者化-論》 and back (メモ) 政治的・法的にばかりでなく、臨床的な趣旨をもった《当事者化-論》 and back (メモ)を含むブックマーク

当事者論を標榜しながら私を非難してきた人たちと私との決定的違いは、「自分自身を対象化した当事者論になっているかどうか」だ。

相手を非難するのに自分を100%の正義に置ける幼児性に私は激怒している*1。 論じている自分を、相手との関係に置いて対象化していない。 「論じる側」=「見る側」が100%正義だという暴力。 論じているお前はどこにいるんだ。

生身の個人は、神ではない。 自分は常に間違いながら生きている。 何がどう間違っているかを100%決定できる地点を私は認めない(それが無神論だ)。 自分は弱者だから100%正しいとか、弱者の権利を代表しているから100%正しいとか言える馬鹿は、論じている自分が神だと考えている。 その絶対化=信仰を押しつける傲慢の暴力*2

私は代わりに、場所としての自分を分節する作業を、そのプロセスにおいて絶対化している。 つねに新しく、ゼロから組み直される再検証。 客観的・無時間的なポジション固定ではなく、動きの中にある分析。 お前はそこですべてを対象化してよい、ただしそれは時間の中にしかない、つねに自分がさらに対象化される側に回る。――この法廷は、強制力がないと維持されない。 公正な検証は、100%の純度に居直ろうとする者をも引きずり出すため、彼らはこの検証機会を何が何でも拒否する*3

私はこの、「労働過程として生きられる分節」にこそ、「過程としての宗教的機能」*4を見ている。 労働過程内に維持される、自分を他者化する法廷。 「客観的な場所」ではない、時間の中にある、対象化され続ける法廷*5。 見ているあなたは、傍聴席にではなく、同じく対象化の権限を持ってそこにいる。 ただし時間の中で、あなた自身が対象化され続ける。



関連メモ

    • 「馬鹿にどう対処するのか」というのは、中間集団において本物の課題だ。 また、自分自身のバカである度合いをどうやって縮減するのか。 分析が集団で強化されるというより、集団で愚かな自己満足に浸ることのほうが多い。 今この場を徹底的に先鋭化させる方法は。
    • プロセスであることと実体であること。 プロセスを守ることは、実体化された権利を守ることと作業がちがう。 実体化されていれば形式的に「守る」そぶりをしていればいいが、過程を守るためには、場所を確保したうえでやってみせなければならない(実現する過程としてしか、守ることができない)。 このような固執は、実体を守る形骸化したそぶりとは敵対すらする。 なぜなら、公正な検証にかけるのだから。 弱者だからといって検証を免れることはない。 しかしその作業は、開廷に似る(opening a court as a process)。 紛争処理には、手続き(procedure)の整備が要るはずだ。
    • 私への迫害は、ひきこもり問題を構成する本人や共同体の体質を研究するチャンスとなっている。 権威主義、傍観主義、固定された役割理論。 支援者も被支援者も同じ病いにかかっている。 本当に研究しなければならないのは、《攻撃と黙殺の構成のされ方》だ。 それを具体的に組み替えなければ。 問題構成の体質改善。



当事者化「されない」権利、「される」方法

ひきこもりは、「当事者化されない権利」として語られがちだ。 世界のどこに何が起こっていようとも、目の前の誰がどうであろうとも、「知らん顔」できる権利がないと、私たちの日常から自由が奪われる。 法を犯さないかぎり「ひきこもる権利」が認められないと、私たちは恒常的に社会に駆り出されてしまう。――しかし一方で、参加のモードが限られすぎている。 本当に許し難いメカニズムに着手する手続きがない。

ひきこもりに取り組むために必要なプロセスは、社会順応を気取る連中のナルシシズムによってことごとく潰される。 ナルシシズムへの着手こそが共有されねばならないのだが、確保されたナルシシズムは人を道具化し、フェティシズムに閉じこもる。

当事者化をめぐる政治的症候としての引きこもり、という言い方はできないか。



*1:「自分は弱者だからお前は100%責任をとれ」、「俺は正義だからお前は100%悪い」。 硬直したディシプリンが、「100%の正義」を僭称する。 その僭称こそが(臨床的にも)悪だというのに。 ▼地べたを這いつくばる着手と分析は、差別的に見くだされすらする。 “合法的に” 確保されたアリバイの暴力に、どうやって対抗するのか。 あるいは追及のために、膨大な金と時間がかかってしまう。

*2:「自己が検証されることを拒否する議論」には、私は《入門》できない。 100%の正義には、主体の場所が、着手のチャンスがない。

*3:「100%の正義」が、言説において強制力を仮構する。 分析プロセスへの没頭より、アリバイの仮構が優先されている

*4:宗教的機能とは、この場では《現象経験との和解》だ。 「過剰性の処理」という定義は、私ならばそう理解する。 現象経験は、いくらなんでもひどすぎる。

*5:この法廷は、分析の労働過程として開廷される。 開廷プロセス自身が時間化されていて、次の瞬間には法廷側が「裁かれる側」になる。 ポジションを固定された「絶対的法廷」はない。 どこかよその場所に “客観的に” 開廷されるのではない。

2008-10-01 「体験を素材化すること」の周辺 このエントリーを含むブックマーク

ueyamakzk2008-10-01

★雑誌『ビッグイシュー』 第104号 発売中

斎藤環さんと私の往復書簡 「和樹と環のひきこもり社会論」、今号は斎藤さんで、『私は降りることにします』です。


タイトルにあるとおり、次回の私の返信でこの往復書簡は終了です。

ここ数ヶ月のやり取りで、斎藤さんの何が問題なのか、いちばん核心的な部分は示せたと思います。 彼は反論で妙なことをいくつか言っており、検証素材として今後も参照価値があるはずですが、その検証をこそご一緒したかった。 中断されてしまったことが残念でなりません。


ただ今回のやり取りは、すべてが公の場に出ています。 その点で、むしろ安心できる。 本当にやりきれないのは、寄ってたかって自分たちのトラブルを隠蔽しようとする業界関係者*1たちの状況です。 支援団体であれ自助グループであれ、ひきこもりの業界では、現状を体現するような重要なトラブルは、すべて水面下にある。 ひどい暴力で死亡者が出るのでもないかぎり、つまり「派手な違法行為」でもないかぎり、表立っては論じにくい*2

連載での私は、いきなりメタに論じようとするひきこもり論を拒否し、ひきこもり論のスタイルそのものを提案していました。 「体験を素材化する」という形で、問題への取り組み方を、つまり社会参加のスタイルそのものを提案し、実演していたわけです(もちろん臨床的な趣旨をもって)。 しかし、実はこれこそが最も忌避されるスキャンダラスなふるまいだった。 往復書簡中断という今回の顛末は、ひきこもり業界全体の体質に通じています。


斎藤さんは、私の批判をありきたりなサヨク(反精神医学派)と同一視したがっているようですが*3、そういう理解自体が斎藤さんの防衛的な抑圧です。 むしろ私は、安易な斎藤批判とも戦っていたはず(参照)。 私は、再帰性と中間集団の問題に内在的=当事者的に取り組むために、《体験の素材化》というスタイルをこそ提案した。 臨床の場面でも、目の前の関係性でもメタ的なポジションを守ろうとした斎藤さんは、その検証構図自体を排除したとしか思えません*4

医師である斎藤さんは、職業上の義務や制限に縛られつつ、逆にそれに守られてもいる。 役職を外しても、プログラムされたメタ言説に閉じこもるかぎり同じです。 斎藤さんは、支援の場に発生する本当にグロテスクな中間集団の問題を、役割固定や言説のプログラムで回避している。 私が「観客席」という言葉でこだわったのは、そういう問題でした(参照)。 そしてそのこだわりは、最後まで臨床的な趣旨に基づいています。


「役割固定=観客席」への居直りは、支援される側まで含めてどの立場にも生じており、シナリオ順応的なナルシシズムの共同体を形作っています。 その問題を指摘し、「体験の素材化」による相互への批評的介入を提案した私は、単に切断操作を受けて内輪ノリの業界体質を補強してしまったのかもしれない*5。 8年前、当事者役割で社会参加のチャンスをいただいた私は、今は《素材化=当事者化》の要求によって、逆に排除を受けるようになっています*6


・・・・完全に孤立したわけではありません。 これからも、私なりの努力を続けるつもりです*7


      • 本屋さんでは売っておらず、すべて立ち売りです。 販売場所はこちら
      • 各販売員は、バックナンバーも大量に取り揃えて立っておられます。 ▼ひきこもり問題に興味をお持ちの方は、特に第45号:特集:ひきこもりの未来と、それ以後の号をどうぞ。



*1:支援者・取材者・研究者・ひきこもり経験者ほか

*2:「どこの業界でもそんなものだ」と、諦めるべきなんでしょうか。 しかしそれでは、順応臨床の原理的考察が放棄されてしまいます。

*3:そして左翼系の一部からは、そのような理由で私の批判が歓迎されているようですが

*4:再帰性と中間集団の問題を単にメタから検証するのは不可能です。 「中間集団は大事だ」と斎藤さんがおっしゃるのも、単にメタ的なコメントになっている。

*5:ネット上で私への虚偽証言を続けている男性は、その実態へのアクセスポイントになっています。 興味を持ってくださる方は、ぜひ徹底的に周辺事情を取材してみてください。

*6:ひきこもり支援の文脈では、「すべてを受け入れるPC言説」が、排他的なナルシシズムを形成しています。 30歳の成人ですら、幼稚園児のように全面受容される。 そこにあるのは、支援者側と「被支援者」を露骨に切り分ける身分制であり、分析による批評的介入こそが必要だと考える人は、本当に少数派です(とはいえ、ゼロではありません)。

*7:すべてを公表し、素材化して検証しようとする私のもくろみは、考えてみれば、強制力も持たずに自前で法廷を開こうとするようなものです(医師の領域でいえば「症例検討会」)。 倫理的-臨床的な《当事者化》は、じつは紛争処理の性質をもっている。 にもかかわらず、私はあまりにもナイーヴすぎたのだと思います。

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