生産態勢とコミュニティの作り方(メモ)

  • メタな認識内容を目指すというより、《素材化》という別の取り組みを提示している。 メタな認識内容(結果物)で貢献するのではなく、作業そのものを別のかたちで提案している。
  • 臨床家や社会学者は「仲間が大事だ」というが、コミュニティ(つながり)の作法が提案されていない。 つながりの作法を旧来型に放置して、ベタに “つながり” を呼びかけてもダメ。 それはお互いを縛ることにしかならない。
  • 「正義」だの「リベラリズム」だの、正当性を確保するイデオロギーでつながるのではなく、《素材化》という作業スタイルに同席するだけ。(第三者からは、他の “コミュニケーション” との違いが見えにくいが。)
  • 「お互いに話を聞き、理解し合おう」 「抱きしめ合おう」 「家の外に親を見出そう」 「同じ○○どうしだよね」云々。 つながりへの要請は、つねにベタな作業要請や帰属確認のかたちをしている。 固定された役割やイデオロギーへの服従を再生産する身ぶりが、つながりの確認儀式になる。 それゆえ、少しでも批評的問題意識を口にしたり、属性が強者になったとたん、「もうこのコミュニティにはいられない」みたいになる*1
  • 多くの知識人や臨床家たちは、メタな認識内容をつくりだすことを目指している。 その固定された生産態勢-内部で、優秀さ競争をし、批評や臨床のパターンが量産される。 各種アカデミズムの良心性は、せいぜい旧来の生産態勢(ディシプリン)を強化するだけ。 それに対して《素材化》活動は、経験されたこと、自分たちの生産スタイルそのものを検証する。 検証過程は呼びかけの実演であり、ほかの場所や時間につながりはない。 このふるまいは、旧来の生産態勢のかたちをとった「つながりの作り方」=「正当化のしかた」そのものに抗議している。




*1:正規雇用や恋愛・結婚への自責の念、という誤った悩み方は、誤った当事者論に基づいている。 現場性を生きざるを得ないという意味での当事者性は、いつまでも続いている。 ▼誤った当事者論は、必要なはずの現場的批評を抑圧し・恫喝するという意味で犯罪的だ。