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[語句説明]

2011-04-30 制度化された現実逃避

学問はディシプリンの前提を自明視して語るゆえに、あまりに当事者的すぎる(メタ性がなさすぎる)。 また《当事者の告白》は、「なぜ自分が語ることを許されているか」を自明視するので、あまりに学者的すぎる(語りのはめ込まれたメタな構造に頼りすぎる)。

私はこの話を死ぬまでせざるを得ない。

せずにいられないよう追い込まれているし、結果として、激しく内発的になっている。

(こんな思索のメカニズムがあり得るなんて、子供のころには思いもよらなかった)


「自分を健康だと思っている人間をどうやって治すことができようか」*1 「自分を健康だと思っている人間をどうやって治すことができようか」*1を含むブックマーク

各人は、自分の当事者性を棚に上げるスタイルの違いで棲み分けている。

松嶋健 : この本を作ること自体が制度分析のプロセスになるように作らないと。制度分析についての本じゃなくて、制度分析としての本というふうになって初めて、この本を作る意味があるんじゃないかというふうに僕は思っていて。 (略)

 自分のことについて語れというのも、(略) どのレベルで自分を出すかというのは、やっぱりいろんなレベルがあると思うんです。それがベタに「自分語り」になると、また楽屋話みたいに理解されてしまう。どのレベルに分析を入れているかというのは人それぞれでいいと思うんですが、いかに客観的にみえるものであっても、そこに自己分析が入っているものがあるし、逆にいかに自分について語っているセルフドキュメンタリーであっても、自己分析がまったく入ってないものがある。セルフドキュメンタリーと客観的なドキュメンタリーという線じゃなくて、分析が入っているドキュメンタリーと、そうでないものというふうに分けないと。*2


“異常者” に関わることで職業的利益を得ている医師/学者/ジャーナリストは、

この問題にくり返し立ち帰ってほしい。

ご自分がメタに確保した正当性は、そんなに盤石なものですか。

自分を正しさに監禁することは、人が長期に引きこもるメカニズムそのものとなっている*3



*1:「CINEMA - S・アゴスティ監督「ふたつめの影」+トーク」に引用されたセネカの言より。 参照

*2:『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.231、強調は引用者

*3:固定された弱者ポジションに居直るだけの人は、制度化された現実逃避に周囲を監禁している。いわば官僚当事者

2011-04-29 各方面でごまかされている当事者性 このエントリーを含むブックマーク

もとのアニメは見ていないが、強く触発された。


当事者性とは、伝わらないものを抱えること。

受け入れられたいという願望を満たすために自分で格闘しなければならない、そういう状況に追い込まれること。

そして、《責めあり》の存在であること*1


たいていのキャラクター論や物語構造の分析は、論じ手じしんの当事者性を回避する装置になる。

そもそも思考は、ある仕方で批判可能性を引き受けつつ、それとは別の階層の批判可能性を封じる*2


お約束――≪この話をしているかぎり、論じ手は自分の関係性それ自体について当事者的自己解体を迫られることはない(分析それ自体のレベルで面白くないと責められることはあっても、思索事業の前提は批判されない)≫


当事者とは、倫理性を帯びることなのに、

現状の当事者概念は*3、倫理性を免除する装置でしかない。

周囲は《当事者》を絶対化しておけば、倫理的であるとされる――この硬直が事態を悪化させている。


ひきこもり状態の継続には、当事者性の回避という面が間違いなくある*4。 周囲は、「固着した当事者性」を強制される。 ひきこもりを問題にするなら、単なる肯定や否定ではなく、「あらためてどう当事者化するのか」が問われねばならない。ところがそれをやってしまうと、関係者も自分を問い直さざるを得なくなる。

自分の業務を再編するつもりがないのに引きこもりに関わろうとすれば、むしろ当事者性回避のご都合主義がさまざまに組織されることになる――ひきこもる本人を含め。



「哲学なら、俗世と無縁」とは言えない。

大学の哲学科は社会事業として居場所をもらい、精神科医と対談本を出したりしている*5。 ここで哲学の権威と医療の権威はメタ性を補強しあい、関係者の言説編成に影響する。 皺寄せをくらう学生や患者サイドはどうすればよいか。

自分の言説がどんな権力を補強しているかを見ないなら、研究対象としてドゥルーズやフーコーを口にしたって何の意味もない*6。 研究すべきは、何よりまず自分が生きる権力事情であるはず。

権力は、当事者性回避の回路でありつつ、硬直した過剰な責任を負わされることにもなる。



メディアは、当事者性を引き受けるツールでなければ

私がこのブログを書くことが、当事者性回避の口実になっていないか。

twitter にせよ何にせよ。



最難関の課題としての「当事者性の再編」

当事者性の再編は、革命の定義とすらいえる*7

「くつがえして固定する」のでなく、再編そのものを恒常化するとしたら。

それを手続きとして、日常に根づかせられないか――それが出来ないなら、制度を論じることがかえって当事者性の回避になってしまう。議論制度そのものの嗜癖的固着。



*1:何がどう責めありなのか、それこそが問われる。 問題が「とにかくカネを稼げ」に集約されるとき、責任は金銭に還元される(責任が金銭以外の形で問われている)。 本来的な《問い直し=当事者化》は、ふつう忘却されている。

*2:宗教や左右のイデオロギーも同じこと。制度順応のメタ的要請を果たす限り、自分の正当性を細かく問われない。

*3:医療・福祉・マスコミだけでなく、自助グループ系でも踏襲される。 「当事者さんだから大目に見てあげなければならない」は、「けっきょく一人前には見てやらない」の裏返し。

*4:本人にとっては、主観性の支えられなさによる「やむにやまれぬ当事者性の引き受け直し」という要因がある。与えられた超自我を、必死で組み替えること。

*5:ex.『生命と現実 木村敏との対話

*6:というより、ドゥルーズやフーコーはその程度の話しかしていなかったということか。

*7スタティックな当事者ポジションは官僚的だ。

2011-04-28 環境問題としてのメタ言説 このエントリーを含むブックマーク

メタ言説は、いわば各人の原子力発電みたいなもの。


私は、わけが分からぬまま10代前半に苦しみ始め、30年近くたってようやく何がおかしいかを理解できた。とはいえそれは長期の専門的研究の成果であって、それをそのまま説明しても、震災前に脱原発を呼びかけるようなもの。みんな「それなりに便利」と思っているし、このメカニズムで恩恵を受ける医師や学者は、どんどんメタ言説を推進する。現に、それなりに経済が回っている。


長期的視点ではかえってコストがかかるし、このまま数千年、数万年と維持するのは無理だろう。でも現在の政治を彼らが牛耳る以上、彼らに従わなければお金を稼げない。


さいわい私は、メタ言説という核心に気づけた*1。 あとはお金を稼がないと、なし崩しに死ぬしかない。手を尽くしても本当にダメなら、それは私の能力不足と、時代の選択なのだろう。カネも権力もなく、有形無形に「早く死ね」と言われ続けることに、もうあんまり耐えられそうもない。


そして、このまま泣き寝入りするつもりもない。



*1:原理を理解できない人たちは、努力すればするほどおかしくなる。何がおかしいかに気づけないまま。

2011-04-27 学問がさわれない沈黙 このエントリーを含むブックマーク

差別・いじめ・脅し・排除と戦うには、問題それ自体と戦うだけでなく、

それに取り組む人たち自身による差別・いじめ・脅し・排除と戦わねばならない。

「まさかあの人が」。 沈黙の共謀*1は、支援や調査、自助グループにもある。


「これだけ出会っているのに、それでも引きこもるつもりか」


似た体験をしても、仲間になろうとした時に希望する方向性は各人で違っている。

「“当事者”どうしは仲良くできる」は神話にすぎない。

関わりをもつことそれ自体を主題化しなければならない。



*1:性的虐待では、「加害者の強いる沈黙」「被害者の守る沈黙」「社会が強いる沈黙」の3つが、互いに補強しあう(参照)。 こうした事情は、性的虐待に限ったことではない。 集団内の政治にかんしては、「加害/被害」を簡単に切り分けては、分析が進まない。 自分も加担していた関係構造について、言葉にしなければ。(そこにあった規範は、批判しようとすれば自分からも血が流れる。)

2011-04-26 現実のしかめ面 このエントリーを含むブックマーク

堀江貴文氏緊急記者会見 主催:自由報道協会(togetter)

堀江氏の発言より:

  • 国民もICレコーダーを持ち歩くことが重要
  • 100回くらい連続して言わなければならない
  • 金も地位もない段階では立派なことなんかできない

偏ったマスコミ報道も含め(参照)、「善意に任せれば、既得権益者もいろいろ考えてくれるはず」があり得ない想定であることを痛感。 これはミクロな関係性でも同じ。 「放っておけば地位や権益のある人」は、それをわざわざ検証しない。

制度分析や分裂分析の根幹に、青臭いヒューマニズムの欺瞞がないか。

こうした状況を織り込んだ分析と制度設計が要る*1



前田元検事の実刑確定へ 解明の場元部長ら公判に(asahi.com)

司法は条文を解釈・適用することはあっても、司法それ自体の実態を問い直す仕事はしない、というか誰もそういうことをする権限を持っていない*2。 三権分立とは別に、《集団の問題》をどう提起し、モチーフとして社会に根付かせればよいか。



悪い奴らは来なかった(レジデント初期研修用資料)

責任を負うと、ちょっとしたイレギュラーも怖くなるし、保守的であることが最善に思えてくる。

多くの組織では、変革を嫌う人こそが決定権者になる*3

改革派に見える人は、自分の何が硬直しているかに気づかない。



被害者が問う事故調査(クローズアップ現代)

「責任追及」と「真相究明」が原理的に矛盾する、というジレンマ。

フェアな責任追及のためには事情をすべて明らかにしなければならないが、責任追及が前提にあるなら、誰も口を割らないし、物証はどんどん隠蔽される。ここにも、制度分析への反証がある。言説による反論というより、「実際のところ、そんな理想論を掲げても事態は回らない」。



*1:さもなくば「趣味」で終わる。

*2:やろうとしても、試みた人が排除されて終わり。

*3:「銀行で出世するのは、いちばん目立たない奴」という某氏の証言を思い出す。

2011-04-24 禁じられた語り このエントリーを含むブックマーク

今日あらためて、制度論の許される環境でそういう分析をご一緒することがどれほど “臨床的” かを確認できた*1。 こういう体験は精神科クリニックに何万円払っても現状では無理。


肩書きと役割ポジションに自己監禁せねば、関係に参加できない。支援ですら「○○当事者」「医師」等の役割を遵守せねばならず、事業周辺の意思決定も信じがたいほど硬直している。何の意味もないが常識に受け入れられやすい部署に予算がたくさんつき、逆に細かく工夫された事業はイレギュラー要素が多いため予算がつかない。流れとなった「シゴトのしかた」は巨大な慣性をもっており、そこに竿刺す事業は体ごと弾きだされる。


100万人規模の逸脱を自己責任とだけ見ることは、それ自体が全体にとってのリスクとなる。


制度の隙間に生じざるを得ない言説は、受理される発表媒体が見つかりにくい。そもそもが火中の栗のうえに、必要な説得内容がどうしても複数領域にまたがってしまう。それは学際性というキレイゴトではなく、「やむなく複数の領域に踏み込まざるを得ない」という、いわば血みどろの問題意識。やらずに済ませられるならどんなに良いか。


たとえば「ドゥルーズ=ガタリ」と言っても、アカデミシャンはドゥルーズばかり論じて、ガタリのことは馬鹿にしているらしい。これはしかし制度的に作り出されている状況でもあって、ドゥルーズは過激に見えて実は《哲学》という伝統ジャンルにしっかり収まる。またジャン・ウリはラカンや精神医学を批判はするが、《精神科病院》という枠組みはしっかり守る。しかしガタリは、《はざま》に生じる問題意識をひたすら言説化し、そこを論じられる環境づくりをこそ社会に根付かせようとしたところがあって、それは私たちが生きるためにはどうしても必要な作業なのに、業績として認知されるにはあまりに不利な役回りを強いられる。


狭間にあって即興的な問題意識は、そもそもシゴトとして認知されるだろうか。 「主流派の流儀」だけで断罪されては、ジャンル自体が成立しない*2。 カテゴリーとしてのマイノリティは多くの人が論じるが、「シゴトのしかた」そのものについてのマイノリティ性は、登録すらされていないかもしれない。



*1:ご一緒した皆さん、ありがとうございました。

*2:ジャン・ウリは、超越性をもった仕事を「タダ働き」と論じている。・・・・これだけでは、問題意識をもった人は潰れてしまうしかない。職場に入れなければ、タダ働きもできない。

2011-04-23 「シニフィアンの支柱」、「記号論的な足場」、「装置」 このエントリーを含むブックマーク

意味の彼方へ―ラカンの治療学

意味の彼方へ―ラカンの治療学

pp.249-250、ジャック=アラン・ミレールの発言より(以下、強調はすべて引用者)

 つまりエディプス・コンプレックスを、大文字の他者の場所の中の構造として位置づけたのです。すなわち、ラカンはフロイトによるエディプス・コンプレックスを、正常な主体の世界における、原初的シニフィアンの支柱(armature)と見なしたのです。 構造の論理的形式化という概念をよく理解する必要があります。 自分のまわりに組織化された世界をもつというのはそれほど単純なことではありません。 ラカンの観念は、主体の世界がうまく成りたつためには、常に最小限のシニフィアンが必要だということです。 30年以上にわたって続いた教育の中で、ラカンは根底にある基本的な構造を常にあらたに形式化することに努力を傾けました。

 座るためには、ここにあるように、四つの足をもった構造(イス)が提供されています。こうして私は座ることができ、安定していることができます。もし私がノコギリで(イスの)脚を一本切ったら、座ろうとすると私は床に転びます。すなわち、本質的な支柱の一本がわれわれに欠けているということです。もし脚が三本ならば、それらを少しずつずらすことによって座ることもできます。しかしもし二本だと、それは少し困難になってきます。それは羊飼いの竹馬のようなものです。一本足のイス――英国にはあるそうですが――そういう椅子に座るのもあるいは可能かもしれません。さらには脚が一本もなくても、ヨガの行者のように座って瞑想できるかもしれません。

 ラカンの念頭にあったのは、「主体にとって正常な世界を構成するための、原初的にして最小限のシニフィアンの支柱とは何か」を探求することでした。例えば彼はまず最初に、エディプス・コンプレックスの形式化を提出しました。その後、「主の語らい(discours du maître)」*1と呼んだものを、さらに後には「ボロメオの結び目nœud borroméen)」を提出するにいたります。これらはまったく異なった構造をもっていますが、しかしそれらは「原初的にして最小限の構造とは何か」という同じ問いに対する解答なのです。原初的な構造を把握可能にするための異なったパースペクティヴなのです。

 1957〜58年における精神病についてのテクスト(「予備的問題」*2)では、ラカンは原初的構造を構成するために、フロイトのエディプス・コンプレックスを利用しました。彼はそこで、エディプス・コンプレックスに言語学的な定式化を与えています。それはシニフィアンがシニフィエに命令し支配する(commander)という考え方から出発するものです。

原文は手に入らないが*3、この「最小限のシニフィアンの支柱(armature)」という表現を、

例えばミレールは以下のように使っている(PDF)

 Et au fond il a toujours cherché à préciser l’armature signifiante minimale pour que le sujet se tienne à peu près,...


ここでミレールがラカンを解説しようとして持ち出した「最小限のシニフィアンの支柱(armature signifiante minimale)」というモチーフを、ガタリのいう「記号論的な足場(échafaudage sémiotique)」参照)と対比させるべきだろう。

ガタリは執拗に「シニフィアンの専制」を批判するが、逆にいうとガタリには、「それがなくては世界を構成できない支柱」という問題設定はあるだろうか。


ガタリはウリ兄弟の《制度》概念を経由して*4ラカンを批判するに至っており、ここではラカン的なシニフィアンが、記号論的な制度概念に対立させられている。

ジャン・ウリが制度論的な立場からラカンを批判しつつ、『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』に怒ったのは、この「シニフィアンの支柱」という考えをウリが堅持しているから――私はそう理解している*5


《装置(apparatus)》は言説的(discursif)か?

ガタリとの対比では「制度に対してシニフィアンを擁護する」側に見えるJ.-A.ミレールは、しかしフーコーに対して、「制度はそれ自体が言説的である」という立場をとっている(参照)。

Jacques-Alain MILLER : With the introduction of 'apparatuses' you want to get beyond discourse. But these new ensembles which articulate together so many different elements remain nonetheless signifying ensembles. I can't quite see how you could be getting at a 'non-discoursive' domain. 

FOUCAULT : In trying to identify an apparatus, I look for the elements which participate in a rationality, a given form of co-ordination, except that...

J.-A. MILLER : One shouldn't say rationality, or we would be back with the episteme again.

〔....〕

FOUCAULT : The term 'institution' is generally applied to every kind of more-or-less constrained, learned behaviour. Everything which functions in a society as a system of constraint and which isn't an utterance, in short, all the field of the non-discoursive social, is an institution.

J.-A. MILLER : But clearly the institution is itself discursive.

FOUCAULT : Yes, if you like, but it doesn't much matter for my notion of the apparatus to be able to say that this is discursive and that isn't ... given that my problem isn't a linguistic one.

拙訳:

ジャック=アラン・ミレール : 「〔権力〕装置」の導入によって、あなたは言説を越えたがっている。しかし、結合して多くの異なった要素を分節する新しい総体は、やはり「意味する」総体です。 あなたがどうやって「非言説的」領野にいられるのか、よくわかりません。

フーコー : 装置を見極めようとすることで、私は合理性に関わる総体を探しています。共-序列の与えられた形式、といっても...

J.-A.ミレール : 合理性と言うべきではないでしょう。というか、あらためてエピステーメーに戻りましょう。

(略)

フーコー : 「制度」という語は、一般にあらゆる種類の、多かれ少なかれ強制された、学ばれた行為に適用されます。社会において、強制のシステムとして機能するあらゆるものであり、言表ではない全てのものです。要するに、非-言説的な社会的なものの領野すべてが、制度です。

J.-A.ミレール : でも明らかに、制度はそれ自体が言説的です。

フーコー : ええ、あなたがそう考えたいなら。しかし、「これは言説的で、あれは違う」などと言えるとしても、それは「装置」という私の概念にとって、あまり重要なことではないのです。・・・・わたしの問題は言語学的なものではないのですから。


スピヴァクはこの同じ箇所の末尾部分を『サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)』(p.27)で引用し、「言説分析の大家から、どうしてまたこのような言語(langage)と言説(discourse)を混同した発言が出てくるのだろうか Why this conflation of langage and discourse from the master of discourse analysis?」とフーコーを批判している。


また廣瀬浩司氏の新刊

後期フーコー 権力から主体へ

後期フーコー 権力から主体へ

は、ウリ/ガタリや制度概念との関係に言及している。

 フーコーは反精神医学の運動を「制度=施設」批判とみなし、そこにトスケイエス、ウリらの「制度論的分析(analyse institutionnelle)」も加えているが、このような「制度」の名における闘争全体、さらには「制度」概念そのものについて、講義の随所で批判的なコメントを繰り返している(...)。 (略) いずれにせよ、「制度」概念からの距離の取り方が、さまざまな場面でフーコー思想の核心に関係していることは間違いがない。 (pp.68-72)


J.-A.ミレールとガタリには、シニフィアンや制度/記号をめぐる立場の違いはあるものの、ともに精神科臨床を引き受けようとする問題設定がある。しかしフーコーには、権力批判のモチーフはあっても、「自分が臨床にどうコミットするのか」は見えてこない。

臨床的趣旨を無視し、権力批判それ自体が自己目的化するなら、それは「権力批判」という自己構成が本人にとって臨床的に機能し得る、という大前提に乗っかることになる。 私にはそれは、イデオロギー的主体化のナルシシズムに惑溺することに思える。 廣瀬氏の扱うフーコー最晩年のモチーフが、そのあたりをどう扱っているかが気になる。



*1こちらには、「主人のディスクールとは主人からの分離のディスクールに他ならない」という解説がある。 ひきこもる人の過剰なプライドと説教好きは、破綻しそうな自己を「主人の言説」で支える姿にも見える。

*2:「D'une question préliminaire à tout traitement possible de la psychose」のことで、『Écrits』に所収。

*3:この本は、1990年にJ.-A.ミレールほかラカン派の人々が来日し、京都と東京で行なわれたイベントをまとめて邦訳したもの。フランス語原文は公刊されていない。

*4:この制度概念に関連する論者として、メルロ=ポンティがいる(参照)。 ガタリはインタビューで、「メルロ=ポンティからは大きな影響を受けた」と打ち明けており(『政治から記号まで―思想の発生現場から』p.25)、その発言の録音ファイルがこちらのサイトにある(1980-10-18、タイトル「Maurice Merleau-Pont」)。 ただし、メルロ=ポンティが制度概念を論じた講義や書籍を、ガタリが(いつ)参照していたかは不明。

*5:≪ウリもトスケルもガタリの「アンチ・オイディプス」というアイデアには反対のようだ。ここの争点の本質を知りたい≫という山森裕毅氏の発言に対して。

2011-04-21 当事者概念の再創造、という臨床事業 このエントリーを含むブックマーク

「臓器の損傷」なら、医学に任せればよい。 しかしヒトの苦しさについては、

(1)主観性の生産それじたいの問題と、(2)合意形成の問題

があって、その2つは絡み合う*1

これらは、おのれの当事者性をどう生きるか、という問いに重なる*2


人は人である限り、当事者性を帯びる*3

私たちの意識やふるまいを強烈に支配する当事者概念は、暗黙に押し付けられている*4。 それを彫琢することは、特異な臨床事業と言える。


当事者概念の、主観性や労働過程の要因までともなった再検証は、近現代のヨーロッパの論者しかやっていない追記参照)。 当事者概念の再創造という意味での臨床事業は、彼らを研究せずに済ませられない。


山森裕毅氏の記した「法‐契約‐制度‐強度」は、当事者概念をどう設計するかの分類と言える。

  • 法論陣営:カント、ヘーゲル
  • 契約論陣営:ルソー、マゾッホ、フロイト(精神分析)
  • 制度論陣営:ヒューム、サド、サン=ジュスト、ガタリ
  • 強度論陣営:スピノザ、ニーチェ、アルトー、フーコー

苦しみを和らげるには、どのスタイルが有益か。 あるいは合わせ技か。

それとも、ここにはないスタイルか。


上の4つでは「強度」だけが、合意形成のモチーフを含まないように見える。

そこにキモがある。 この問題は、ソーカル事件に直結する。


フーコー/デリダ/ガタリは、法や精神医療に原理的な問いを突きつけながら、実務的な影響力をほとんど持ち得ていない。例えば私は、彼らの著作から個人的な恩恵を得たが、それはあくまで私的な読書としてであって、だとすれば「趣味」でしかない。 私は、「必要悪としての行政的な実務」に苦しみつつ、ガス抜きとしてああした発言を楽しむしかないだろうか(マンガや詩を読むように)。


20世紀フランスの議論は、行政書類に書き込める主張や制度を設計できるだろうか。逆に言うと、行政手続きに乗るような見解は、苦痛緩和の役に立つだろうか。(アカデミックな形式を踏襲することが、必要な配慮を裏切るとしたら?)



【追記】

この議論は歴史的に、英・独・仏語を中心とした西欧語でやらざるを得なかった(そういうものしか生き残っていない)ということか。 現時点の日本語から問題を再構成することが、遠近法的錯視をふくんでしまう。 概念の配置は、それ自体が地政学的条件を生きる。

subjectum / citoyen / souveraineté / human rights / entitlement / Proletariat / subaltern ――こうした概念をめぐる運動は、自覚されないまま臨床事業を生きていた、という言い方はできるかもしれない*5。 あるいは苦痛緩和という趣旨は、多くは民族文化や宗教の文脈にある。

とはいえ今のところ、「主観性の生産」を、社会思想と掛け合わせて論じる事業は、数えるほどしかない*6。 関連するニーズの異様な高まりにもかかわらず、「批評と臨床」「精神病理学」といったモチーフも、衰退したままだ。

《当事者》という、法学や政治学にも還元しにくい概念*7の生きられ方を変えようとすることは、日本語の文脈を濃厚に帯びたあとの姿であり、それを逆手に取っている。 努力は、現時点の環境を資源とし、それを起点にするしかない。(概念の配置や生きられ方は、具体的な環境要因となっている。)



*1:生化学的な研究は、これらについて一つのスタイルを押しつけるにすぎない。 「生化学がすべてだ」とすることの暗黙の前提を問い直すことが許されていない。精神医学を「科学」と詐称し、「科学でよい」とうそぶく人たち。

*2:学問言説の多くは、おのれの当事者性を抑圧したポーズによって参加権限を得ているので、問題構造そのものを引き受けることができない。

*3:「負債」「応答責任」は、物質はもちろん動物にもあり得ない。 逆にいうと当事者性は、自然からの致命的な「ズレ」として生きられる。

*4:従わなければ、「職業倫理上許されない」とか、「社会性がない」とされる。

*5:ここでは名詞形ばかり取り上げている。しかし当事者概念の今後においては、むしろ動詞化こそが問われる。

*6私がフェリックス・ガタリやジャン・ウリに注目するのはこの点から。 「弱者に “当事者発言” させる」のではなく、ガタリやウリ本人が、自分の置かれた状況を内在的に語る――その意味で「当事者的に分析する」――ことを、彼らの文脈でやっているのではないか、という興味。 ある場所をメタから “観察” し、自分がどういう関係を持ったかを隠蔽して「業績」だけかすめ取るような語りを、彼らは決して認めないように見える。 ▼とはいえそのことは、彼らなりの “当事者発言” が成功していることを保証しない。 「何をやってしまっていたのか」、その検証の余地こそが主観性と関係性を可能にする方法論は、自分だけを100%の正しさに確保することができない。 つねに「分析されていない制度や失敗」、あるいは技法上の問いが残る。 西洋知識人をアイドルにするのではなく、自分のいる場所を(単に外部から非難するのでなく)自分でやり直す必要がある。 ▼私はこの件で、医師・学者・ジャーナリストの語りに激怒している。 こうした “専門家” らによる、おのれの当事者性を無視した語りを許すべきではない。 ここで当事者性と言った瞬間に、「彼らにも引きこもり傾向ありますもんね」という話になる。私はそういう意味で当事者と言ったのではない。 「目の前の関係を黙殺し、メタに語って許されると思うな」ということだ(そういう輩に限って、情念的に“ひきこもり当事者”を肯定してみせる。その肯定のポーズが、論者のメタな正当性を担保する)。 「メタな語りが許されない」という専門的コンセンサスこそ、この問題に詳しくない人たちに、そして誰よりも引きこもる本人や関係者に伝播するべきなのだ(ひきこもる本人こそがメタ語りと自滅を往復している)。 今は専門家気取りの人々じしんが、こぞってメタ語りでふんぞり返り、その語りの悪弊が、苦しさの構造そのものを成している。これは、倫理上の怒りであるとともに、臨床上の着眼そのものとなっている。

*7:福祉領域では、「利用者さん」といった言い換えもなされる。

2011-04-19 参加の当事者であること このエントリーを含むブックマーク

  • 医師・学者・知識人の言説は、自分の私的関係性を論じる能力を持たない。彼らの言説は、むしろそれを隠蔽することでようやく成り立つような体質を持っている。
    • ひきこもりでは、至近距離の関係こそが鬼門だから*1、現状では、ひきこもりを原理的に論じられる人がいない。
    • 逆に言うとこの観点から、今後の専門職の養成を考えなければならない。


  • 私が自分で試み、支持を求めるべきなのは《当事者的な分析》であって、「ひきこもり当事者であること」ではない*2。 ひきこもりはむしろ、集団的な当事者的分析ができずにいる状況の症候的帰結と言える。
    • この意味での当事者概念は、ラカン派が「患者」を《分析主体》と呼び直したことの発展形と理解できる。集団的に反復される関係パターンのさなかで、言葉がどんな方針をもつか。箱庭内の概念遊びで、自分のアリバイ作りだけに励むのか。


フェリックス・グァタリには、当事者分析的な趣旨があったように見える。

ところが、それを生きようとした後続論者が見当たらない。

 先ほど、ひとりの仲間が、マルクス主義とフロイト主義の関係についての一連の研究が結局のところきわめて教条的な側面を持っていると指摘したが、私も同感である。この袋小路からぬけだすには、闘争の現実、しかも実際におこなわれている闘争の現実について、あらいざらいぶちまけることから出発するしかないだろうと私は思う。 (略)

 彼は自分の労働単位のなかで、あるいは彼の家族的取り巻きのなかで、どんな政治をおこなっているのか? 社会的闘争の次元と同じように欲望の次元においても現実の政治的諸問題を明らかにすることができるのだろうか? 私生活と公的生活の区別を維持しているかぎり、袋小路からぬけだすことはできないということなのだ! (略)

 欲望の政治と革命的政治との関係を真剣に語り始めるやり方は、多分こうした枠組みとは別の枠組みでも想定しうるであろうが、ともあれそのためには《問題をつつみ隠さずもちだして》、《無遠慮をかえりみない》作風が必要とされるだろう! (グァタリ「精神分析と政治」、『政治と精神分析 (叢書・ウニベルシタス)』pp.14-5)

これはまだ呼びかけであって、「そこにどんな問題が現れざるを得ないか」の分析ではないし、そのことをめぐる具体的提案にもたどり着いていない。

そもそも≪全てをアーカイブ化し、全てを素材化したうえでみずからの当事者性をめぐって考える≫という社会参加の方針そのものが許されない現状では、最初の第一歩すら踏み出されていない*3


  • 「ひきこもり当事者」という名詞形は、それ自体がアプローチの間違いを体現している。
    • 現状では、当事者論がキャラクター論の上に乗っている*4。 逆だ。 キャラクター論は、間違った当事者論のフォーマットの上に乗っている*5。 キャラクター論をそういう手つきでやることが、ひきこもり論の間違いを体現している。
    • それは、閉じこもる本人がすでに生きている袋小路の路線にしかない。 「論じ方」が共犯者であることに気づかれていない*6
    • 《本業/副業》という欺瞞的区分も含め、論じ手の概念と議論の方針が、間違ったまま展開されている。 社会参加について、自分たちが何をやっているかを分析できる「専門家」が、一人もいない。


概念策定の方針は、すでに論者の参加方針を体現し、集団の方針を決めてしまっている。そこから外れる者は、参加できなくなる。既存の引きこもり論は、《論者たち自身の当事者的分析》という趣旨を欠いているがゆえに、「メタから否定すること」と、「メタから肯定すること」の間を往復しているにすぎない。 「すでにどんな参加がなされてしまっているか」を分析することが、徹底して忌避され、抑圧されている。


《自分が何をやってしまっているか》は、底が抜けている。



*1:職場であれ仲間であれ

*2:カテゴリーとしての「○○当事者」に居直る人は、当事者ナルシシズムを生きるにすぎない(そこに分析はない)。 私自身が混乱を続け、勘違いを続けてしまった。

*3:ウィキリークスが、貴重な何歩かを示している。

*4:「カミングアウト」した個人は、残りの人生すべてを「○○当事者」のキャラで生きなければならないことになる。そのことが本人をさらに悪化させても。

*5:論じ手は、メタ言説を振りかざすことで環境を悪化させる張本人となっている。論者はそのような方針で参加しつつ、持続的な環境づくりに加担しているひとりなのだ。

*6:斎藤環氏は、もうこのまま間違った路線でいくつもりなのだろう。だとすれば周囲の者は、彼が間違ったまま変わらないことを前提にした状況分析と行動が要る(ひきこもる人への方針策定のように)。 同様のあきらめが、アカデミズムや医療・福祉の全体について必要だ。分析は、置かれた状況の中でそのつど一からやり直さなければならない。

2011-04-18 文献事情メモ このエントリーを含むブックマーク

ueyamakzk2011-04-18

Politique et psychanalyse』(1977年)を原書とする邦訳『政治と精神分析 (叢書・ウニベルシタス)』掲載の論考「精神分析と政治」には、

タイトルを変えた同じ文章「欲望の闘争と精神分析」があり、

それは邦訳『分子革命―欲望社会のミクロ分析 (叢書・ウニベルシタス)』(1988年)に掲載されている。ところがこの邦訳「欲望の闘争と精神分析」は、邦訳「精神分析と政治」と細かい異同があるうえに、分量的に半分程度までで終わっている*1


英訳版『分子革命』である『Molecular Revolution: Psychiatry and Politics (Peregrines)』(1984年、品切れ)には、「Psychoanalysis and the Struggles of Desire (精神分析と欲望の闘争)のタイトルで同じ文章があり(参照)、こちらは邦訳「精神分析と政治」と同程度の分量があるが、詳細にチェックすると、やはり細かい編集がなされている*2


それぞれについてグァタリ自身のフランス語を確認したいのだが、参照すべき以下の原本すべてが品切れ(あるいは絶版?)となっている。

(2) と (3) は、収録されている論考の取捨選択や改訂で、お互いに大きく違っている。



*1こちらの引用部分は、邦訳『分子革命』では削除されている後半部分にある。

*2:たとえばイタリアの反精神医学の活動家ジョヴァンニ・イェルヴィス(Giovanni Jervis)個人への言及は、英訳版では部分的に削除されている(pp.66-7)。

*3:この本に至っては、amzon.fr の項目それ自体がない。

2011-04-13 参加パターンの固着としての「ひきこもり」 このエントリーを含むブックマーク

社会にうまく参加できない人を話題にすることが、誰にとって都合がいいか。

    • 逸脱者を利用して業績を挙げようとする人か。
    • 社会批判のイデオロギーを喧伝するのにいいかもしれない。(「資本主義は間違っていた!」)
    • 「対策を講じました」というノルマ達成のため。(原理的考察はなされない。雰囲気で「うん、これは対策講じてるよね」と世論が納得してくれればいい)
    • 「患者さんのために」という言い分は、医師が明確なポジション取りをするのに好都合。いっけん正しく見える優雅な言説は、医師の保身になっている。(患者として振る舞うことに利得があると踏む人はそれを利用するだろう。)*1


これから、どういう方向で元気になってゆくか。単に《復興》――もとの路線に戻ること――でしかないのか。 今回は原発の問題もあり、それが強く問われている。

私の社会参加は、どう設計されるべきだろう。 一人で参加を設計することができない以上、これは集団的な課題になる*2。 自分のつごうで古い方針に固着する人は、周囲をそこに巻き込む。


「がんばろう!」と言うとき、方針にかんする重要な選択は終わっている。だからその手前に戻りたいが、「本当に正しい方針」は、いつまでたっても見つからない。 選択を終えてから踏み出すのでなく、参加方針を常にチェックする態勢をこそ共有できないだろうか


あなたの固着した参加は、誰かをその態勢のもとに監禁している。

厚労省のいう意味で引きこもり状態にある人は、自分の家族を、「おのれを扶養させること」に監禁している*3。 そこから考えれば、問題の核心は、閉じこもっているかどうかではなく、参加パターンが固着していることにあると分かる。つまり、「パターンの固着した主観性と参加様態」が、ひきこもりの定義と言える。

そのとき、厚労省的ニュアンスで「ひきこもる人」だけを問題化してしまうと、問題のすべてが個人化される。ひきこもる本人と周囲が維持するその目線こそが問題をこじらせる*4

こうした状況の全体が、問題に取り組んでいるように見えて、実は問題を悪化させている。 いわば「ひきこもった状態」が、集団的に維持される*5


参加パターンの形式的維持と改編を、直接話題にしなければ*6。 それを拒否する人は、おのれの固着したパターンに引きこもりたがっている(たとえ「ひきこもりの支援者」であっても)。

自覚できないままの参加パターンが硬直すれば、それは厚労省の定義とは関係なく、「ひきこもり」になっている。この意味で、原理的に抽出された《ひきこもり》が、トラブルの元凶として名指せる。(いわば各人が、「ひきこもり機械」の部品になっている。)*7



*1医師と患者の間に、医療言説をめぐる共依存関係がある。これは、患者をカテゴリー化して業績を作りたがる学者たちにも好都合であり、さまざまな役割ポジション間に共依存がある。この「持ちつ持たれつ」の嗜癖的関係に気づかねばならない。(一部の社会学者が医療言説にべったりなのは偶然ではない)

*2:「とにかく参加しよう」は、集団的な自殺行為かもしれない。

*3:同様に、意義を失ったシステムで生活費を得ている人は、自分を扶養させるために関係者を監禁している。

*4:主観性の集団的配置それ自体が固着していることが気付かれていない。

*5:わかりやすい「ひきこもり支援」は、それ自体が引きこもりの繭であり得る。

*6:予算と法の改編・策定を本義とする「政治」は、これをやっている。つまり私はここで、個人の主観性と関係性について、政治制度を根付かせようとしている。

*7:ここでいう「機械」は、ドゥルーズ/グァタリを参照している。 cf.小泉義之「機械とジル・ドゥルーズ

2011-04-11 「Psychothérapie Institutionnelle」の初出論文 このエントリーを含むブックマーク

ベルギーの「ヘント大学*1【⇒wikipediaから出ている

オランダ語の雑誌サイト『Psychoanalytische Perspectieven*2 に、

「制度による、制度に対する精神療法 Psychothérapie Institutionnelle」という言葉が初めて使われた1952年の論文*3が再掲されています。 著者は Georges Daumézon (ジョルジュ・ドーメゾン) と、Philippe Koechlin (フィリップ・ケクラン)です。

  • その論文:「La Psychothérapie institutionnelle française contemporaine」 PDFの1】 【PDFの2


同サイトの「On-line Papers」には、次のような論考も掲載されています。

    • ジャック・ラカンの論文のオランダ語訳
      • 「神経症者の個人的神話(Le Mythe individuel du névrosé ou poésie et vérité dans la névrose)」(1953年)*4 PDFファイル
      • 「〈私〉の機能を構成するものとしての鏡像段階(Le stade du miroir comme formateur de la fonction du Je telle qu'elle nous est révélée dans l'expérience psychanalytique)」(1949年版) PDFファイル



*1:cf. ベルギー・フランデレン地域の都市「ヘント」。 日本では、英語(Ghent)やドイツ語(Gent)由来の「ゲント」、フランス語(Gand)由来の「ガン」の名で呼ばれることも多い、とのこと。

*2:編集は、

The Pre-Psychoanalytic Writings of Sigmund Freud

The Pre-Psychoanalytic Writings of Sigmund Freud

著者である Filip Geerardyn と Gertrudis Van de Vijver 。

*3:初出は、ポルトガルの精神医学年鑑、1952年第4号(参照1)(参照2)。 Anais Portugueses de Psiquiatria, volume IV, n°4, pp.271-312, 1952.

*4http://d.hatena.ne.jp/lacanian/20070619

2011-04-09 勤勉な無意味 このエントリーを含むブックマーク

医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』再読中。


Psychothérapie Institutionnelle*1では、ある種の閉所恐怖症が問題になっている。

閉所と言っても、たんに空間的に外に出ても、社会が閉じている。そのままでは監禁される。


息ができる場所は、プロセスとしてしか維持されない。プロセス以外の場所に、息のできる時空は生じない。いわばその時空として、息が成立する。


無意味息をする。「これには意味がある」が支配すると、息ができない。しかし、単なる怠惰も窒息を生む。


4月10日追記

制度を研究するなら、その論じる場じしんが話題にならないとおかしい。制度「について」メタに論じるのでなく、その場の制度をじっさいにやり直し、解きほぐさないと。――それが相互的な治療過程*2になっていなければ、メタな優等生ごっこに逃げている。

無媒介の「癒し」は、かえって抑圧を強める。もとからあった態勢をそのままやり直すだけ。そうではなく、自前の勤勉さが再起動するような体験が要る。《べつの悩み方》にどう気付けるか。

悩み方が間違っているので、頑張ろうとした途端におかしくなる。ここに気づいている臨床家や「ひきこもり経験者」がまったくいない。



*1:「制度における、制度に対する精神療法」 「制度を使った精神療法」 「制度改編派精神療法」 「制度論的精神療法」など、趣旨の説明を含んださまざまな訳語が試みられている(参照1)(参照2)。

*2:固着した疎外がほぐされる場

2011-04-05 グァタリ『分子革命』――英訳版と邦訳版、仏語原文の対応 このエントリーを含むブックマーク

英訳版の表紙

あまりに分かりにくいので、メモを作りました。

一つだけ出典が分からなかったので、お分かりの方は私宛てのメールか、twitter やブログのリンクで教えていただけると嬉しいです。 ⇒※その後メールでご教示をいただきました。ありがとうございます。(4月9日追記)】

間違い等が分かり次第、記述を追加していきます。



対比の核に置く英訳版(1984年)

Molecular Revolution: Psychiatry and Politics (Peregrines)

Molecular Revolution: Psychiatry and Politics (Peregrines)



仏語原文と邦訳の対応



英訳版であるMolecular Revolution(1984年)の目次と、日本語訳の章題の対応

論文タイトルの邦訳版を「」でくくり、掲載されている邦訳本のタイトルを注記しています。

 Introduction by David Cooper ---1 デヴィッド・クーパーによる序文

 Sepulchre for an Oedipus Complex ---5 エディプス・コンプレックスの埋葬所*1


1. Institutional Psychotherapy 制度における、制度に対する精神療法

 Transversality ---11 「横断性」*2

 The Group and the Person ---24 「集団と個人」*3

 Anti-Psychiatry and Anti-Psychoanalysis ---45 「反精神医学と反精神分析」*4

 Mary Barnes, or Oedipus in Anti-Psychiatry ---51 「メアリー・バーンズと反精神医学的オイディプス」*5

 Money in the Analytic Exchange ---60 精神分析的な交換における金銭*6

 Psychoanalysis and the Struggles of Desire ---62 「欲望の闘争と精神分析」*7

 The Role of the Signifier in the Institution ---73 「制度のなかにおけるシニフィアンの位置」*8

 Towards a Micro-Politics of Desire ---82 「欲望のミクロ政治学に向かって」*9


2. Towards a New Vocabulary 新しい語彙に向けて

 Machine and Structure ---111 「機械と構造」*10

 The Plane of Consistency ---120 「一貫性の次元」*11

 Intensive Redundancies and Expressive Redundancies ---130 「強度の冗長性、表現の冗長性」*12

 Subjectless Action ---135 「主体なき行為」*13

 Machinic Propositions ---144 「機械的諸命題」*14

 Concrete Machines ---154 「具象的機械」*15

 Meaning and Power ---163 「意味と権力」*16


3. Politics and Desire 政治と欲望

 Causality, Subjectivity and History ---175 「因果性、主観性、歴史」*17

 Students, the Mad and 'Delinquents' ---208 「学生、狂人、カタンガ兵(はみだし者)」*18

 The Micro-Politics of Fascism ---217 「ファシズムのミクロ政治学」*19

 Becoming a Woman ---233 「女になること」*20

 Millions and Millions of Potential Alices ---236 「潜在する無数のアリーチェ」*21

 Social Democrats and Euro-Communists vis-à-vis the State ---242 「国家とむきあう社会民主主義者とユーロコミュニスト」*22

 Molecular Revolution and Class Struggle ---253 「分子革命と階級闘争」*23

 Plan for the Planet ---262 惑星上の計画*24

 Capitalistic Systems, Structures and Processes (with Eric Alliez) ---273 「資本主義のシステム、構造、過程」*25

 Glossary ---288 用語集

 Index ---291 索引



*1:未邦訳。 初出は『Change』no.12の「Déraison, désir」(参照

*2:『精神分析と横断性』p.120、原題「La transversalité」(p.72)

*3:『精神分析と横断性』p.239、原題「Le groupe et la personne」(p.151)

*4:『分子革命』p.211、原題「Anti-psychiatrie et anti-psychanalyse」

*5:『分子革命』p.191、原題「Mary Barnes ou l’Œdipe anti-psychiatrique」

*6:原題「L’argent dans l’échange analytique」(1977年版『La révolution moléculaire』所収)、未邦訳

*7:『分子革命』p.16、原題「Les luttes de désir et la psychanalyse」

*8:『政治と精神分析』p.91。 原題は「La place du signifiant dans l'institution」で、『Politique et Psychanalyse』と1977年版『La révolution moléculaire』にあるが、邦訳『分子革命』にはない。

*9:『精神と記号』p.41、原題「Pour une micro-politique du désir」(1977年版『La révolution moléculaire』所収)

*10:『精神分析と横断性』p.378、原題「Machine et structure」(p.240)

*11:『精神と記号』p.94、原題「Le plan de consistance」(1977年版『La révolution moléculaire』所収)

*12:『精神と記号』p.114、原題「Redondaces intensives, redondances expressives」

*13:『精神と記号』p.121、原題「Il et moi-je」

*14:『精神と記号』p.136、原題「Les proposition machiniques」

*15:『精神と記号』p.153、原題「Les machines concrètes」

*16:『分子革命』p.172、原題「Sens et pouvoir」

*17:『精神分析と横断性』p.274、原題「La causalité, la subjectivité et l’histoire」(p.173)

*18:『精神分析と横断性』p.364、原題「L’étudiant, le fou et le katangais」(p.230)

*19:『分子革命』p.23、原題「Micro-politique de fascisme」

*20:『分子革命』p.239、原題「Devenir femme」

*21:『分子革命』p.109、原題「Des millions et des millions d’Alice en puissance」

*22:『分子革命』p.92、原題「Socio-démocrates et euro-communistes face à l’Etat」

*23:『分子革命』p.1、原題「Révolution moléculaire et lutte des classes」

*24:未邦訳。 原題は「Plan sur la planète」で、複数の著者による共著本Minorités dans la pensé』(1979年、Payot社) pp. 205-207 所収。

*25:『闘走機械』p.153、原題「Systèmes, structures et processus capitalistiques」(p.180)、初出は1984年。

2011-04-04 日常を作っているもの このエントリーを含むブックマーク

しかつめらしい貞淑さは、むしろ抑圧を隠蔽する。


原発ジプシー(田島正樹氏)より:

 この本を出版した頃から、ご自宅に頻々と脅しの電話が入るようになったということである。「家族の命はないと思え」とか、「子どもがどこかで交通事故に遭うぞ」などいうたぐいの電話である。市民個人が本気で大きな権力に挑もうとするとき、どんな目に遭うのか、 (略)

 この時の経験から私は、権力が決して表向きの法秩序だけで成り立っているのではなく、必ず暴力団のような非合法的組織によって補完されているものなのだ、という常識的事実を学んだ。我々は、毎日のようにテレビの記者会見で間抜けな顔を見せている東京電力幹部たちの能面のような面構えの裏側に、暴力団の顔を重ねなければならない。


大相撲の八百長問題を取り上げたある番組で、「まぁオトナですから、みんな分かってますよね」みたいなコメントがあったが、タレントさんたちは何も言わなかった*1

「誰のせいでもなく破綻する」まで口を挟んではいけないし、余計なことを言ったら干される(最悪は殺される)――それが当たり前なら、考えるべきことはたくさんある(左翼コミュニティだって同じことだ)。

表ウラのある社会で、どうやって参加を維持するか。きれいごとのスローガンしか言わない人は、そのひと自身がイジメや隠蔽の製造装置になっている*2



*1 【参照1】「元大鳴戸親方とタニマチの実業家・橋本成一郎氏が(略)角界の暗部を洗いざらい暴露する連載を始めたのは1996年2月。それからわずか2か月後、(略)ふたりは同じ日に、愛知県内の同じ病院で、同じ肺炎で亡くなってしまった」(「告発者が謎の病死」)
     【参照2】 http://www.youtube.com/watch?v=bYUOgQ0_aug

*2:内容のない正義言説は、ディテールの隠蔽に利用されることがある。わかりやすい正義よりも、細かい分節生成こそが抑圧される。

2011-04-03 問いと答えの制度 このエントリーを含むブックマーク

近藤和敬 「問い・身体・真理」(山森裕毅氏)より:

  • 問題の〈理念〉としての性格がうまく論じられていない
  • ドゥルーズの場合、「問題」の存在論的性格を解明するために数学に依拠している

近藤氏のもとの論考は読んでいないが*1、このエントリーは次のことを喚起させる。

    • 福祉や臨床を口実にすることは、自明な正しさを保証しない。 「マイノリティのために」は、メタな口実たり得ない。 ある課題設定は、すでに重要な決定の終わったあとの姿をしている*2
    • 《問題‐問い‐解》を生きる場としての大学そのものの意義が問われる。あるいは企業であれ患者さんであれ、問題に取り組む方針それ自体が間違っているかもしれない。


「そういう問題の立て方をしているから、努力すればするほどおかしくなる」――そのことには、《「問題‐問い‐解」の弁証法》だけでは気づけない。

数学はそれ自体が問いの制度なので、苦痛それ自体が数学という問い方を使えないような形をしている場合、お手上げになる。というか、その問い方にしがみつくこと自体が問題状況の一部になってしまう。 思い込まれた《「問題‐問い‐解」の弁証法》が、固着した制度そのものとなる*3


本当に生産的な問いは、逸脱として生きられるしかない。 議論の立て方を間違うと、その最初の第一歩それ自体が抑圧される。



*1:なので、近藤和敬氏のもとの論考それ自体についてはここでは判断できません。

*2:たとえばある人は、臨床の問いとして向精神薬の話しかしない。にもかかわらずその人にも、《「問題‐問い‐解」の弁証法》がある。

*3:cf.「記号論的な足場(échafaudage sémiotique)」――「そうしないと、通りを歩いたり、起き上がったり、自分に期待されていることをするといったことをつづけられない」

2011-04-02 「記号論的な足場(échafaudage sémiotique)」 このエントリーを含むブックマーク

山森裕毅氏のご教示で知ったのですが、

原書の初版である1977年版にある「記号論的な足場(échafaudage sémiotique)」という章が削除されており、この章は題を変えて邦訳『精神と記号 (叢書・ウニベルシタス)』にあるものの、その最終節「制度におけるシニフィアンの位置」が省かれています(訳者あとがきも参照)*1


男性名詞「échafaudage」を仏和辞書で引くと*2

  1. (建築用の)足場 ex.「dresser un échafaudage 足場を組む」
  2. 積み重ねたもの ex.「échafaudage de livres 積み上げた本の山」
  3. (理論などの当てにならない)寄せ集め ex.「Sa théorie n’est qu’un échafaudage d’idée reçues. 彼(女)の理論はありきたりの考えの寄せ集めにすぎない」

とあります。


いっぽう「sémiotique」については、ここでは形容詞として「échafaudage」にかかりますが、同じ形のままで名詞でもあります。 似た名詞「sémiologie」が形容詞化すると「sémiologique」。 これについては、山森裕毅氏「フェリックス・ガタリにおける記号論の構築(1)」*3の説明を参照してみます:

 本稿では「記号学」「記号論」という用語を頻繁に用いる。 前者は主に sémiologie の訳語、後者は主に sémiotique の訳語に当たる。 記号学はソシュールに由来する。 言語学を記号の中心的な位置に置くことで、言語の働き方からその他の記号の働き方を考察するものである。 記号論は言語を記号の一種とみなし、広く記号機能や記号過程を捉えようとするものである。 こちらはパースに由来する。 ガタリがこの区別を意識的に導入するのは『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)*4からであり、それ以前は取り立てて区別せず乱雑に用いている。 (p.155)


私はこの「échafaudage sémiotique」がたいへん気になり、ネットで検索をかけたところ、ガタリの本『Les années d'hiver 1980-1985』に次のような記述があるのを見つけました(参照*5

 C’est pourquoi chacun reste cramponné à ses échafaudages sémiotiques ; pour pouvoir continuer à marcher dans la rue, se lever, faire ce qu’on attend de lui.  Sinon tout s’arrête, on a envie de se jeter la tête contre les murs.  C’est pas évident d'avoir le goût de vivre, de s’engager, de s’oublier.  Il y a une puissance extraordinaire de l’« à quoi bon !» C’est bien plus fort que Louis XV et son « après moi le déluge » !

同書の邦訳『闘走機械』(p.101)から、同箇所をあえてそのまま引用します:

 だからこそ、誰しもが自分のつくりあげた記号的構築物にしがみついているんだ。そうしないと、通りを歩いたり、起き上がったり、自分に期待されていることをするといったことをつづけられないわけだ。生きることに喜びを見出したり、何かにコミットしたり、われを忘れたりすることは、そんなに容易なことじゃない。 「そんなことをして何になるんだ!」ということのとてつもない力というものがあって、それはルイ15世や彼の「あとは野となれ山となれ」というやり方よりもはるかに強力なんだ。

なんということでしょうか。


これまで、なぜガタリが記号論を強調するのか分からなかったのですが、

彼の中では、制度論的な問題意識と、記号論が、しっかりつながっていた・・・!



*1:『精神と記号 (叢書・ウニベルシタス)』の訳者あとがきでは、「échafaudage sémiotique」が「記号論の構築」と訳されている。これだと、主観性の生産過程それ自体の固着や再構成が問題になっていることが理解しにくい。

*2:本エントリー内の強調は、すべて引用者による

*3:大阪大学大学院人間科学研究科『年報人間科学』第32号(2011年3月)pp.153-171 掲載(参照

*4:原書の初版は1979年

*5:原書の初版は1986年で、2009年の再刊本では p.120 にある。

2011-04-01 分節生成の労働過程としての離接的総合 このエントリーを含むブックマーク

人間関係や社会参加がうまく行かない状態について、原理的考察を欠いたままでは、

努力が逆効果になる(努力すればするほど、悪いメカニズムを補強してしまう)ことがある*1

それゆえ、

    • 誰かとつながろうとした時に前提となっている序列や役割意識・罪悪感など 【つながりの作法】
    • 「努力するとはこういうことだ」と思い込んでいる 【努力の態勢】
    • いつの間にかはまり込んでいる苛立たしさ 【意識は時間的肉体と別の場所に存在できない】

日常的すぎてわざわざ考え直す必要がないと思われるやり方をこそ検証しなければならない。

そして、その《検証のプロセス》にこそ焦点がある*2

ふつうの考察は、検証内容そのものに注目するばかりで、この検証プロセスには付録的意義しかない。ところが、思考/肉体/関係性を生き直す秘密は、この検証プロセスにこそある。本当に必要な危険さは、このプロセスでこそ生きられる*3。――ここまで来てしまえば、考察と社会的承認は、肉のスキャンダルで満ちていることに気がつく。

以下はまったく研究途中だが、関連メモ。



安冨歩氏・國分功一郎氏のいう《同期=共鳴》と、江川隆男氏の「分裂的総合」

江川隆男氏はスピノザの実在的区別(ア・プリオリ)を、ドゥルーズ/ガタリ的な「産出過程にある実在的区別」に対比させているが、國分氏は重ねているように見える。

國分功一郎氏 というのも、共鳴=同期するとき、二つの事物の間には共通のものなどないから。二つが共鳴すると二つがもともと持っていた運動とは異なる運動が現れるわけだから。この新しい運動はドゥルーズ的には思考ということになる。


ドゥルーズ『意味の論理学〈上〉 (河出文庫)』(p.302)と、江川隆男「分裂的総合について」*4より:

  • 仮言命題・結合的総合 《もし・・・ならば》 ex.「もし昼であるならば、光がある」
    • ただ一つの系列を構築 connective
  • 連言命題・連接的総合 《かつ》 ex.「昼であり、かつ光がある」
    • 複数のセリーの収束 conjonctive
  • 選言命題・離接的総合 《あるいは》 ex.「昼であるか、あるいは夜であるか」
    • 共鳴 disjonctive

 ドゥルーズ=ガタリは、この「実在的区別の理論」を実践の秩序に導入したのである。これはまったく新しい思考であり、実在的区別はもはや与えられるものではなく、産み出されるものとなったのだ。まさに脱構造論的、あるいはむしろ脱関係論的思考にとって不可欠な概念、それが新たな価値をもった実在的区別である(この〈結びつきの不在による結びつき〉――すなわち「機械的」と呼ばれる――〔...〕)。 (江川「分裂的総合について」,p.36)

    • 最初に建てられた計画の直線的結びつき(順応主義)だけでも、また単に相対主義的な弛緩だけでも、機械は生じない。

 「きみの器官なき身体は、彼あるいは彼女の器官なき身体とどのように結合するのか?」と。 こうした種類の問題を分裂分析が最初から問うようになれば、そのとき分裂分析はまさに〈分裂総合〉(schizo-synthèse)になるのである。 (江川「分裂的総合について」,p.37)

 多様な仕方で自己原因を獲得した様態としての〈身体−器官なき身体〉、その限りでのこれら様態=実体は、どのようにして互いに連結・構成し合うのか。その結合の原理は、もはや無限実体あるいはその絶対的力能ではなく、実体変容した結合の様態である。 (同,p.39)

江川氏の議論は、分節過程の生成それ自体に照準しているように見える。

その分節生成がなければ、同期・共鳴で語るべき結合も生きられ得ない。


「分離しているが結合する」というより、分離しているがゆえに結合し、結合した後の状態は、結合する前と同じではない。単なる順応や相対主義ではなく、みずからが危険な内発性を生きることで、自分の構成のされ方を無底にやり直す。それが、動きの中で動きのまま生きられる分節であり、分析の生成過程そのもの。その生成を踏みにじる関係性なら、やめるほうがよい。――とはいえ、迫害的な関係しか周囲になければ? 分節過程は、同時に闘争過程にならざるを得ない*5

このような《分節=闘争》は、生態学的に位置づけられる。私たち一人ひとりは、生態学的環境の一部として、わずかずつの当事者的責任を負い続けている。これを免除され得る人はいない。



*1:目的意識を持てば持つほど状態が悪化する。努力が空回りするメカニズムの放置。

*2:「空気読めない」、「5分以内に返事ないからアウト」、「それは科学じゃない」、「患者さんだから批判できない」――こうしたあり方に、関係として生きられた思想がある。努力と関係性に、独特のチェックが入る。そのチェックのあり方にこそ、思想が表れている。

*3:分節プロセスそれ自体については、20世紀フランス思想(とりわけガタリ、ドゥルーズ、フーコーなど)が集中的に問題にしている。いっぽう科学を口実にする人たちは、おのれの主観性と関係性については、そういう問題意識があり得ることにすら気付かないように見える。

*4:岩波『思想』(2007年5月号

*5:かといって、簡単に「周囲のせい」とも言えない。ドゥルーズ/ガタリの方針についてまわるように思われる合意形成の問題は、ここにある。 ⇒内発的な生成過程どうしの合意形成はどうするのか?(参照

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