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[語句説明]

2011-05-31

オブジェクト・レベルの属性による排除ではなく、方法論による排除 オブジェクト・レベルの属性による排除ではなく、方法論による排除を含むブックマーク

「異常者が排除される」という議論なら、マイノリティを擁護しておけばPC的正当性が確保できる。しかしいま必要なのは、苦痛緩和についての内在的な議論だ。ところがこれをやると、排除されてしまう。

つまり、名詞形のマイノリティは擁護されるが、そこで擁護されているのは、実は「擁護するという方法の動き」であり、それが再帰的に正しさを確認する作業になっている*1

努力方針のおかしさに介入し始めると、ナルシシズムの根幹が破壊されかねない。だから危険なのは分かるが、問題の核心はそこにこそある。

私たちが本当に考え直さなければならないのは、努力の方法論だ。今は、ベタにディシプリンを生きるしかできない人たちが優等生としてポジションを確保し、必要な問題意識には気づきもしない。というより、方法論をめぐる問題意識こそがパージされる。


【追記】

「まちがっているが、都合がいいので予算がつく」がある。

そうである以上、「これは正しいのだ」だけには居直れない。行動としての魅惑は、単に正しさを口にすることではない。実際に成立した動機は、いくら軽薄でも事実性がある。魅惑に失敗した正しさは、独りよがり。

「方法のミスゆえに逸脱している」ことと、「方法を問題にしたゆえに排除される」ことは、似ているが違う。ちがうが、簡単に片方とは言えない。「方法を問題にしているが、少なくともこの瞬間に方法を間違っている」がある。一つの方法をつかめば安泰、ではない。

価値観が多様化しているというより、原理的に方法を安定させられない。そのほうがよっぽど深刻(だが、それなしには自由もない)。 オブジェクト・レベルにある価値観*2の是非ではなく、主観性の編成方針が問われている。ラカン派はそこで「シニフィアンの最小限の支柱」(参照)をもってくるが、・・・・

「病気かどうか」というもんだいと、「主観性の編成方針を固定させられない」というもんだいは、分けるべき。 病気ではないが主観性が固着することがある(これは政治説得の問題)。 「柔軟な主観性」は、最善の健康であって、病的破綻ではない(破綻は固着している)。



大英博物館 古代ギリシャ展」(神戸市立博物館) 「大英博物館 古代ギリシャ展」(神戸市立博物館)を含むブックマーク

いってきた。



*1:マイノリティを擁護するたびごとに、「自分は正しいことをしているんだ」という享楽を味わう。

*2:価値観はふつうメタとして語られるが、ある価値観は、処理方針の決定を終えた後の姿であり、その意味でつねにオブジェクト・レベルにある。もう一度考え直す作業だけが、内在的にメタをやり直せる。

2011-05-24 描線 このエントリーを含むブックマーク

廣瀬浩司『後期フーコー 権力から主体へ』p.303 より(強調は引用者)

 コンスタンティン・ビザンティオスというギリシア生まれの画家の1974年の展覧会に寄せた論考「ビザンティオスの黒い光線」*1においてフーコーは、独自のデッサン論を展開する。 ビザンティオスのデッサンにあるのは、沈黙と言語、現れと消失の戯れなどではなく、「線(ligne)」と「描線(trait)」との闘争である。 描線の限りない連鎖、それは描線が否定的なものとなってしまうこと、すなわち「線」による形式化を回避するための限りない闘争である。 (略)


無時間的でメタに居直った「線(ligne)」に対し、

逃げられない身体時間をごまかさない「描線(trait)」。

どんな抽象論をやろうと、その身体は本物の時間を逃れられない。

全肯定/全否定の両極処理でなく、描線を調べ直せるスタンスが要る。


「線(ligne)」のつもりをしたところで、どうせ「描線(trait)」になっているのだ。

描線でしかいられないからこそ、お互いにとばっちりを掛け合う。

免許などないのに、線ではないから、関わってしまう。


誰もかれもがこの現象に帰ってきて続ける、

それはなんと残酷なことか。



*1:«Les rayons noirs de Byzantios», Trente dessins de Byzantios, Galerie Karl-Flinker, 25, rue de Tournon, Du 15 février au 16 mars, Le Nouvel Observateur, n° 483, 11-17 février 1974, p. 56- 57 (廣瀬氏による注、p.334より)

2011-05-23 「小室直樹博士記念シンポジウム」 視聴メモ このエントリーを含むブックマーク

いろんな意味で刺激的であり、すべて拝見した。

http://www.ustream.tv/recorded/13116411

http://www.ustream.tv/recorded/13120051

http://www.ustream.tv/recorded/13123376

http://www.ustream.tv/recorded/13125164


  • ウリ/グァタリの制度論を経由して聞く「構造-機能分析」の顛末。 参照PDF
    • 考える方針それ自体が、主観性や集団のあり方を強く規定する。 ある理論事業は、「理論的に考えるとはどういうことか」をめぐる態度決定の終わったあとの試行錯誤になっている。
    • 精神分析に出会い、システム論を生み出した時期のパーソンズは、個人的な危機にあった? 社会システム論じたいが、症候論的創出だったかもしれない。 参照*1 選びとられた理論方針は、その後の臨床と政治に影響する。


  • 「最良の行政官僚は最悪の政治家である」(マックス・ヴェーバー)
    • ≪近代社会における最大の対立は、既存のプラットフォームの中で最適化を目指す行政官僚と、いざとなったらプラットフォームを取り替えなければいけない政治家の間に存在する≫*2――集団ばかりでなく、各人の主観性それ自体が官僚化している。 おのれの主観性を組み替えることが、考えられもしない。
    • 制度分析/分裂分析は、まさに官僚的あり方と政治家的あり方の緊張として成立する。 「制度内の最適化を目指すべきなのか、制度それ自体の組み替えや遺棄(移住)を考えるべきなのか」。 その意思決定はどのような手続きで?
    • 社会参加を研究しなければならない業界が、官僚的メンタリティに支配されている*3社会参加が、組み換えという要因を禁止され、ひたすら権威主義的に威圧される。 ヒトにも組織にも、順応的な問い詰めしかない、それがますます自滅的。 とはいえ、「官僚的であるのはケシカラン」では処方箋にならない。


  • 資本主義と折り合いをつけながら社会が維持されてゆくには、相応の「エートス(心の態度)」が要るが、今はそれが調達できなくなっている。 「エートスの機能的代替物」というテーマが切実になってくる。
    • 「エートス醸成には前提条件を用意しなければならないが、その前提を用意するにはまた前提が要り・・・」(宮台真司)。 ここにも「デカルトvsスピノザ」の構図が。
    • 廣瀬浩司『後期フーコー 権力から主体へ』より:
      • 「世界の現出の様態としてのビオス」、「ビオスをエートスへと転換する媒体あるいは蝶番としてのテクネー」(p.210,p.16)、「エートスの制作という主体の問題」(p.248)、「エートス的差異化による現実との接合」(p.17,p.251)


 物理学や化学などの現代科学は、物質と法則という二つの同一性を追求してきたのだ、と言ってよい。この二つの同一性は不変で普遍であり、ここからは時間がすっぽり抜けている。別言すれば、現代科学は理論から時間を捨象する努力を傾けてきたのである。(池田清彦『生命の形式―同一性と時間 (哲学文庫―叢書=生命の哲学)』p.9)*4

    • 「パラサイト・シングル」など、恣意的規範性を含むタイトルで自分の業績だけを確保し、実態を抑圧して恥じない社会学者に、エートスを論じられることへの怒り。
    • 全体性と基礎づけを前提にする誇大的な科学主義において、≪自分が実際には何をやってしまっているか≫はついに分析されない。 基礎づけ主義が無限退行に陥るところで、時間を捨象しない「身体的に生きられる分析の時間」は、それ自体がエートスの実演。 悦に入ったディシプリン主義は、この時間を徹底的に抹殺し、そのうえで自分の殺したエートスの喪失を嘆く。夜郎自大な科学主義が、内在的・分析的なエートスを抹殺している。


  • 「国家は道具であり天皇は機関である」というなら、もっと快適な環境を提供してくれる国に移住すればよい*5。 小室直樹はそれをしなかった、という矛盾。
    • 自分が依存しているものには触らせず、他人が依存しているものだけを壊そうとする居直り。 自分はヤクザに依存しながら(参照)、他人の「今さらやめられない」だけをたしなめる宮台真司(参照)。 ≪俺たちの故郷は自明なんだから、同じものに依存しろ。さもなくば出ていけ≫――ひきこもり状況は、このメカニズムの絡まり合いにある。 強迫的に確保された倫理的使命、自己防衛と一つになった狂信が、本人にはむしろ「合理的に選択された故郷」と見なされている。


続きを読む

*1≪この時期、パーソンズには実兄(1940年)、両親(1943,44年)と近親者が相次いで死去するなど身辺上の出来事がいろいろと起こっている。そしてパーソンズ自身「この寄り道が突然起こった一要因」として医師である義父の死(1938年)をあげているのである。こうした諸事実は、パーソンズの「社会システム論の誕生」が、パーソンズ自身の〈病〉に対するひとつの「快方」(−〈予後〉)であった可能性を暗示させてしまう。≫(周藤真也)

*2:富永健一『行為と社会システムの理論―構造‐機能‐変動理論をめざして』p.219: ≪システムがもとの構造に戻ることによっては均衡(システムの機能的要件が充足されている状態)を達成することができない場合、システムは新しい均衡を求めて構造変動の旅にさまよい出なければならず、そして新しい均衡は、さまざまな試行錯誤を経たのちに、より高次の機能的要件充足能力を実現するような構造が見出されたとき、もとの構造からその新しい構造に移行することによって成立する≫(参照PDF)。  ここにいう「構造変動の旅」は、受動性と能動性の絡まり合いであり、直接にはウリ、グァタリ、メルロ=ポンティらの言う意味での《制度》を、チャレンジの場所としている。 主観性と集団は、切り離すことができない。

*3:人間を名詞形にカテゴリー化する参与観察は、それ自体が耐え難く官僚的だ。 cf.≪社会学者の調査は、「フリーターについて」など、やる前からカテゴリーを決めてレッテルを貼っている≫(文化系トークラジオLife, 2009年8月16日「「Life政策審議会」Part7(外伝1)」、樋口明彦氏の発言より)

*4:『増補 民族という虚構 (ちくま学芸文庫)』p.307 からの孫引き

*5:弁護士資格の取得に日本では300万円かかるが、香港では2〜30万円ほどとのこと(山田昌弘)。 日本の制度に嫌気がさした女性が向こうで弁護士資格を取ったケースの紹介。 日本では、ちょっとした資格を取るにもすぐに数十万円かかり、しかもそれが必ずしも就労に結びつかない。

2011-05-21 技術革新と、「アート&デザイン」 このエントリーを含むブックマーク

2011年3月19日の浅田彰氏の発言より(京都造形芸術大学 卒業式での式辞)

http://www.youtube.com/watch?v=LpPBN5znT2A#t=18m54s

 たしかにいま日本は、非常な困難に直面しています。 (略) しかしここで率直に認めなければいけない。まず、いま喫急に被災者の人たちを助けるときに芸術に何ができるか。 「とりあえずは何もできない」というべきです。というより、そもそも芸術というものは、人々の心の飢え、精神の欲求を満たすということが役割なのであって、今はそれ以前に、まず衣食住その他の物質的な環境をきちっと、最低限のところまで担保することが急がれている。そのあいだ、芸術に何ができないからと言って、別におたおたすることはない。被害に遭わなかった者はまずは、いつも通り冷静に、ふつうに生活や仕事を続け、そして文学や芸術を育み続けるということが最大の任務なのであって、そのようにして蓄えた余裕でもって、必要な時に、必要としている人々に助けを差し伸べることもまたできるのだと思います。

 と同時に、そのように短期的には芸術には何もできないとしても、むしろ長期的に考えてみると、芸術、あるいは広く芸術文化というものの持っている意味は非常に大きい。というのも、この震災とそれに伴うさまざまな危機というのは、明らかに――すでに本学がずっと訴えてきたような――「文明の転換の必要」というものを、自然の側からさらに強く強調してくれるような、そういう出来事だったというべきだからです。

 20世紀までの近代文明というのは、自然を、また他者を、とことん対象化し、開発し、場合によっては搾取して、大量生産・大量消費・大量廃棄という道をとめどなく突き進んできた。たとえば原子力発電所その他を作って莫大なエネルギーと物質を生産し、それを全国規模で、さらには世界規模で distribute する(流通させる)。 で、大量に消費しては大量に使い捨ててきた。そうやってどんどんガムシャラに進んできた、ということがあるわけです。それが、確かに予見できないほどの自然の災害であったにせよ、そのような災害に逢着した時に、文明の側も、非常に脆弱な点を露わにしてしまった、というのが、いまの状態なのではないか。そうすると、いま求められているのは、もちろん緊急の物質的な復興ということはありますが、長期的にいえば、20世紀までのような、自然や他者を一方的に対象化し、開発し、搾取するような、そういう精神文化全体をつくり替え、組み替えていくこと。それから、大量のエネルギーや物質を巨大なインフラストラクチャーでもって生産し、distribute し、消費し、廃棄していくような、そういう形の文明を作り替えて、できれば自律分散的なネットワークの中で、人々が物質的のみならず精神的な豊かさを享受しながら、豊かに暮らしていけるような社会を創っていく。そのようにして精神文化を、あるいは社会システム全体を組み替えなければいけないという時に、実は芸術文化(アート&デザイン)こそが、その中でいちばん重要な役割を果たすと言えるのではないか。

 もとより、そのような自然や他者に対する一方的な開発・搾取・利用は「よくない」、「地球にやさしく」「他者にやさしく」、そのような新しい文化を作らなければいけない、ということはあります。しかし、それを倫理的な必要として説くだけではダメだ。むしろそのような、自然や他者とうまく調和しながらやっていけるような、自律分散ネットワークに基づいたおだやかな暮らしというものが、《美しい暮らしなんだ》――これがスタイルとして、とてもカッコイイ暮らしなのだというふうに人が思ったときに初めて、精神文化が、さらに社会システム全体が、そちらの方向に向いていくのではないかと思うのですね。

芸大を卒業する学生へのはなむけというバイアスはあるが、以下の堀江氏に比べ、理念性が前面に出たデザイン論になっている。 しかし、巨大地震に遭ったのは日本(と幾つかの国)だけなので、「ほかの国にそんな再編成の動機づけはあるのか?」という疑念は残る*1

参照:田中康夫と浅田彰の憂国呆談2 (39)(震災から二ヵ月後の対談)



2011年5月12日、堀江貴文氏: 「結局、世の中を変えるのは技術革新しかない

 海外に行くと、日本人って貧しくなったと痛感しますよね。だって、シンガポールに行ったら、メチャクチャ活気があるじゃないですか。例えばセントーサ島に新しいカジノができたり、京都吉兆の料理長の徳岡邦夫さんプロデュースの『Kunio Tokuoka』というお店は、5万円のコース料理を普通に出している。新しいホテルがバンバン立って、シンガポールの市街地ではF1グランプリが毎年開されています。 (略) でも、日本に帰ってきたら、カジノもないし、活気もない。しょぼくれている。みんな焼き肉に行って、200円のユッケを食ってる。終ってるよね、みたいな。

 明治維新だって革命と言えないかもしれない。司法にしても、西洋から法体系や裁判所のシステムを導入したけれど、江戸時代の“お白州”の上に制度が乗っているだけ。体裁は変ったけれど実際は何も変わっていない。 (略) それだけ長い歴史があると、歴史を守る事が凄く大事に思われて来るんです。 (略) とにかく長続きする会社が一番良い会社だと思い込んでいる。 (略) 提言をした所で、宗教みたいなもので、考え方は変らないと思うんですよ。 「なぜこいつは分からないんだろう……」って向こうも思ってる。

 よく考えたら、自分はなぜこれまで定住してたんだろうって、最近よく思っています。これだけインターネットが発達した世の中で、なぜ日本にいるんだろうって。

 結局、世の中を変えるのは技術革新しかないと思っています。インターネットの登場が世の中を少しでも変えた訳じゃないですか。そして、それが大きなウェーブになりつつある。何か新しい技術を作れれば、もっと変るかもしれない。社会システムそのものだって変っていくかもしれない。

 日本の国立大学は、教授が一般教養の授業をしなければならない。 (略) そんなのアホらしい話で、助手や専門の講師にやらせればいい。 たとえば京都大学の山中伸弥教授みたいな人までもがそういう授業をやっている。それどころか試験監督や採点までもね。バカですよね、はっきり言って。そもそも、大学の教養課程なんて、誰も行っていなくて、ろくに勉強もしていない。 (略) 学歴に関係ない人が集まれるようにすると、大きく変わる気がする。資金も僕はネットを経由で趣旨に賛同してもらって、集めたいんです。

堀江氏にとっては、消費文化の貪欲な追求は自明で、

それを妨げる要因をどう取り除くかが問われている。

技術は国境を超えるし、「理念や説得は無駄」という諦念(リアリズム)がある。



2年前、画家・永瀬恭一氏から頂いたメールより

美術の実作者が追い込まれる状況について。

http://d.hatena.ne.jp/nagase001/20090526/p2

 私たち美術に関わるものの世界では、「作家は黙って良い作品を作れ」というイデオロギーがあります。作り手が、作品批評なり美術史に意識的な発言や分析なりをすると、決まってこういう言説が現れ、一方的に怒られたり軽蔑されたりします。

 ここでは何が「良い作品」なのかが問われない。正確にはその権限(権力)は美術批評家なり美術館学芸員なり画廊なりが握っていて、無力で盲目な作家がむやみに作った作品を一方的にジャッジするんですね。その方が作家は「純粋」ということになります――そして勿論、もの言う(分析する)作家は「不純」と言われる。

 この抑圧は生理的なまでに美術業界の構成員に内面化されています。私でも未だにあれこれ考えたことを明らかにする美術家は“汚い”のではないか、という自己嫌悪を捨てきれません。しかし、あたりまえですが「良い」「悪い」の判断が最も必要なのは現場の作家です。そして、その判断の為には先行する、あるいは同時代の作品の分析が欠かせないし、それらの作品が作られ評価された文脈の検討も必要になる。

 結果、賢い作家は黙って(目につかないところで)こっそりとそれをやるし、哀れで純真な作家は本当に盲目に、なんの羅針盤も持たず製作して99%が人生を棒にふって残り1%の宝くじに当たった作家が適宜美術業界のモードに乗ってファッショナブルに消費され数年で忘れられます。


ならば浅田彰氏の提言は、次のような意味になる:


自分を消費させるために創造するのではなく、
そうやって自分を消費しようとしてくる社会そのものを再デザインしてみろよ、
今はそれこそが求められているんだよ!


「批評家らの思惑通りに “純粋” でなければ、汚れているとされる」という永瀬氏の証言は、ひきこもり関連にも言える。社会復帰しようとするなら、親御さんや支援者の思惑通り、「従順な子ども」を演じなければ、努力していると見なされない。 そういう発想にこそ「組み替え」が必要なのに、いざ積極的な疑念をもつと、孤立してしまう。

疑念とは社会的であり政治的であることを思えば、この孤立には仕方のない面があるが(そこでこそ踏ん張るべき)、どうやら日本は、こうした疑念をつぶす独特のスタイルを持つらしい。曲がりなりに社会参加を続けるには、既得権者に「お前は純粋だ」と見てもらわねばならない*2


ひきこもり続けることは、自分だけが純粋さを保つという意味で極めて順応主義的であり*3、それを家族が「我慢強く」支えることは、内発的革命の起きない日本のメンタリティそのものといえる。変化が生じるには、黒船/敗戦/災害がなければどうにもならなかった、というのも、ひきこもる家庭のエピソードとして反復される。


例えばインターネットは、夜郎自大な消費者をやるには最適だが、その消費シーンを提供する側の環境を、かえって過酷にしているかもしれない*4。 新しい技術環境は、古い消費動向を固着させるだけで、そこに新しい働き方を見いだせる人は、ごく一部に見える*5



最もドメスティックなものについてこそ、技術革新と「アート&デザイン」が要る。

主観性と、身近な関係性について、

「隠蔽しおおせた奴の勝ち」という欺瞞のゲームをどうなくすか*6

遠回りに見えても、それを目指すしかないように思う。



*1:「出し抜いた奴が勝ち」で終わるのではないか。 こちらが競争を降りても、相手は下りないかもしれないし、パワーゲームは資本主義だけの問題ではない。 (原発にかぎれば、世界中で再検証されているようだけれど)

*2:身分保障のある形で「純粋な仲間」と見なされるのは、20歳前後の新卒者でしかないから、実はもう努力のしようがない。あとは「純粋な消費財」になれるかどうか。

*3:社会的には逸脱しているが、努力方針そのものは保守的。 「どういう方針で純粋さを目指しているか」こそが問われねばならない。

*4:労働過程は、新しい技術が設計する。そこではシステムこそが主体であって、自分を切り売りする個人は消費財であり、生身の側に創造の時間はない。 むしろシステムそのものにこそ、消費と創造の場面がある。 【cf. 「制度における、制度による、制度に対する」働きかけが生起する領野としての《制度のビオス》(廣瀬浩司『後期フーコー 権力から主体へ』p.212)】

*5:能力の低い大多数は、「支配しているつもりの消費者」として振り回されて終わる。

*6:「ウィキリークス」を、この文脈で捉えられないだろうか。

2011-05-16 分裂的な分析と、スピノザ的内在 このエントリーを含むブックマーク

柄谷行人『探究2 (講談社学術文庫)』p.186 より(強調は引用者)

 《感情は、それと反対の、しかもその感情よりもっと強力な感情によらなければ抑えることができない》(『エチカ』第四部定理7)。 これは、ある意味で、フロイトが宗教についていったことを想起させる。フロイトの考えでは、宗教は集団神経症である。神経症を意志によって克服することはできない。が、彼は、ひとが宗教に入ると、個人的神経症から癒えることを認めている。それは、ある感情(神経症)を除去するには、もっと強力な感情(集団神経症)によらねばならないということである。むろんフロイトは、神経症を集団神経症によって癒すことに反対である。困難であるとしても、個人的・集団神経症に対して立ち向かう方法がひとつある。それはスピノザのいったつぎのことである。 《受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成すれば、ただちに受動の感情でなくなる》(『エチカ』第五部定理3)。 つまり、それについて「明瞭・判明な観念」をもつこと以外には、受動性のなかにある状態から出られないと、スピノザはいうのだ。


内発的な分析衝動とその成果への確信が、ネガティブな感情より強いこと。

強度に成功した分節がなければ、制度分析という理念はルサンチマンの温床になる。



制度分析には、スピノザ的内在が統整的理念として必要だ*1

決して実現はできないが、くり返しそれを目指すしかない。

分裂的な分節が、どうにもならない状況そのものにおける内在的強度に成功しなければ、「制度分析」という理念への嗜癖が固着する。それは制度分析を実際に生きることではない*2

《制度を改編する》とは、まさに権力的なふるまいだから、「どうして同意してくれないんだ!」などと言うのは、噴飯ものとすら言える。 これは制度分析を考えるなら、真っ先に考えなければならないこと*3

改編しようとしたところで、基本的に合意はもらえないし*4、人を巻き込むから、手続きが必要だ。 また、自分が打ち出した方針が正しいと、どうして言えるだろう・・・・國分功一郎『スピノザの方法』が描き出した、確信と説得をめぐる対立(スピノザvsデカルト)は、状況に内在する分析と改編についてこそ問われる*5



仮構すべきことは、置かれた立場ごとに違う

排除された人は、統整的理念として、「努力すれば何とかなる」と思い込まねばならない。さもないと努力プロセスが成り立たない。 現状では、「努力してもどうにもならない」というリアルな認識ゆえに、もっと潰れてゆく。

いっぽう有力者には、「排除された人が自分で頑張ったところでどうにもならない」という仮構が要る。 今は変な精神主義がはびこっていて、制度問題が放置される。

  • つまり、
    • 悩む本人は、自己責任論を仮構して内在化の努力を続けるしかない(そのつど、その瞬間の状況について)。
    • 決定権を持つ人は、「彼らがうまくやれないのは私たちのせいだ」を仮構して、改編の努力を続けるしかない。



*1:cf.「統整的理念(理性の統整的使用)と構成的理念(理性の構成的使用)」(柄谷行人)

*2:制度分析という運動理念にあぐらをかき、「これを標榜してさえいれば、少数派でもいい」というのでは、党派的な過激派ごっこに終わる。それでは、ユートピア的理念に生身を利用する20世紀型マルクス主義と変わらない。

*3:説得できない相手を想定しないのであれば、詩的・人文的惑溺で終わる。 「俺がよいと思う詩を、お前は良いと思わねばならない」――これだけでは、政治や臨床の方法論にならない。

*4:既存制度に権益のある者はとりわけ従わない

*5:臨床/教育/政治について言えば、これは直接には《転移が起きない》悩ましさにあたる。 患者さん/子ども/有権者に対して、「数式で示したから、読めないのは君の責任」で終わらせるわけにはいかない。 知識をひけらかすことは、答えにならない(論じるみずからをその瞬間に内在化できていない)。

2011-05-15 哲学の責務は、問題の再定義 このエントリーを含むブックマーク

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冒頭部分の拙訳:

 哲学は問題を解決しない。哲学の責務は、問題の解決ではなく、問題を再定義することにある。あるいは私たちが問題として経験していることが、いかにニセの問題であるかを示すこと。もし問題として経験していることが本物の問題であるなら、哲学は必要ない。

 Philosophy does not solve problems. The duty of philosophy is not to solve problems but to redefine problems, to show how what we experience as a problem is a false problem. If what we experience as a problem is a true problem, then you don't need philosophy.


労働に参加できない人が大量発生している状況について、問題の実情を理解し直すことが何より必要。 わかりやすいアプローチは、真の問題構造を温存したままむしろその再生産に加担する。現在では、「専門家言説」の一部がそうした再生産装置になっている。

2011-05-12 メタ言説への嗜癖と、語用論的拘束 このエントリーを含むブックマーク

    • 医療・ケアや政治における、名詞形の氾濫*1。 名詞形こそが妄想の原基*2
    • 物質・過程・関係」の三類型だけでなく、医療や学問の言説それ自体が嗜癖化している。

これは、現代の社会化がそういうスタイルで為されることと関わる。

嗜癖を扱う言説には、自己言及的チェックが入るべき(その言説自身は、どうやって社会化されているのか?)。 「科学」を標榜する言説は、内容のスタティックな正当性ばかりを検証するが、その最中には、おのれがメタ言説に嗜癖していることは忘れられている。

論理学的・静止画像的な自己言及の問題ではなく、肉として生きられるプロセスの問題*3


主観性が嗜癖的に委縮することと、「名詞形に支配された関係性」を、語用論として展開しないと。

だからガタリを参照できる。


現実の《処理》

意識による処理、集団による処理、市場による処理、制度的な処理

きりはなせない

ローレンス・レッシグは、規制のモードとして「法・規範・市場・アーキテクチャ」の4つを挙げているが*4、もうひとつ、語用論的拘束がある。たとえば名詞形が氾濫すれば、私たちはいつの間にかそれに縛られて考えてしまっている。



*1:診断名、資格名、「当事者」など

*2:原基:「個体発生の途中で、将来ある器官になることに予定されてはいるが、まだ形態的・機能的には未分化の状態にある部分」(参照)。

*3:「論じているお前は、プロセスとして嗜癖を生きてしまっているのではないか? それゆえに生まれている問題を、お前は無視しているのではないか?」――この問題提起は、「私は嘘をついている」の論理構造に解消できない。たとえば学術論文は、記述の内容そのものは整合的でも、論考全体が「嗜癖の成果」でしかない場合がある。制度は、そうした嗜癖をこそ歓迎する。

*4:『CODE VERSION2.0

2011-05-11 放置と再構成 このエントリーを含むブックマーク

私は、努力や政策の前提を考え直そうとしている。

つまり、

最初から「働かせよう」ではなく、問題の構成のされ方を変えてしまおうという事業であり、

興味を持っていただけない方とは、(少なくとも直接的には)取り組みを共有しようがない。

事業共有にあたっては、

ひきこもりと呼ばれる状態を経験しているかどうかは、必要条件ではないし、十分条件でもない*1。 私は、名詞形で呼ばれる「ひきこもり当事者」の奴隷ではないし*2、彼らも私の思い通りになるわけではない。

私なりに問題の核心は描けるようになってきたが、それを支持しない人が多いことも予測できる。私は、自分の事業をつづける以外にない。



*1:「不登校・ひきこもり状態を経験した人とは、仲間意識を持てるし、持たなければいけない」と、大前提のように考えていた。しかしこれは、理不尽な呪縛でしかなかった。苦しさの事情を物質に還元すべきではないなら、どう引き受け直すかは思想の問題だ。

*2:「おい上山、権力を得た上で俺の思い通りに動け」的な一部の人たち。

2011-05-09 悩む人間だけを変化させようとする人たち このエントリーを含むブックマーク

ある採用試験で、これまでの努力をプレゼンしたが、むしろマイナス評価となった。

「活動家」というレッテルを貼られたらしい。

単なる優等生では排除されるし*1、問題意識を持っても排除される。 その上で凌がなければ。


政治をこそサボってはいけない。 「やってもいいのかな」ではなくて。

いま蔓延している逸脱は、努力方針そのものと関わる*2。 違う方針を主張するとは、政治そのもの。

「お前らの意見を通してしまったら、こっちの生活が成り立たない」*3

問題の実態より、プライドと生活が優先される 「既得権者にはどういう都合があるか」に合わせなければいけない。合わせているうちに、「問題に取り組んでいる」というアリバイだけになってしまう。そういうものに限って予算がつく*4


ついた予算の額が、正当性の度合いになってしまう。

生活費を稼いでいれば、有害な業務でも「仕事をした」と見なされる。

問題提起は、支持者以外にとってはシゴトではない。


「働かなければ」ではなく、問題の立て方を変える事業が要る。

このレベルでは、「働かなくていい」とは言えない。

泣き寝入りすれば、破綻しかない。



*1:20歳前後の新卒採用しかない

*2:本人も間違った思いつめばかり。自意識に悩むことが勤勉さだと勘違いしている。

*3:「今の仕事に意味がなくなるし、予算が降りなくなる」

*4既得権者のアリバイ作りに貢献できるから。彼らは問題を解決したいのではない。 「問題に取り組んで功績を挙げた」というアリバイが最優先。 悩む本人がこのアリバイに加担する。 自分の欲望が、いろんな人の自意識を守ろうとする防衛機制であることに気づかない。

2011-05-05

切断と再構成の手続きとしての裁判 切断と再構成の手続きとしての裁判を含むブックマーク

 スペインでニートを意味する“ni-ni(ニニ)”とされるこの男性(25歳)は、両親からお金を渡されなくなったとして、家庭裁判所に毎月400ユーロ(約4万8,000円)の支払いを求める裁判を起こしたという。  (略)

 そしてマラガの家庭裁判所は、先日この訴えに対して判決を下した。その結果は、男性が「充分に働く能力がある」と認定し、「30日以内の実家退去」を命令する、男性にとっては思いもかけない厳しい判決。  (略)

 ただ、今回の判決には男性を援助する内容の命令も含まれており、両親には「彼の自立を助けるため」として向こう2年間、毎月200ユーロ(2万4,000円)支払うよう求められた。また、男性が購入した車の代金についても、月々の返済を両親が肩代わりするという。


この記事に対し、ネット上では「訴えを起こす元気があるなら、さっさと働け」という意見がたくさん出ているが*1、私がむしろ注目したのは、これならば家族が「ni-ni(ニニ)」を訴える裁判も可能ではないか、ということ。 参照1】【参照2

膠着状態の家族に《裁判》を導入し得るなら、環境に新しい展開を作るツールとして期待できる。今回の案件では具体的なアドバイスを判決が出しているが、それはカウンセラーのアドバイスとは位置づけが違うはず。

たとえば判決文の策定に、地域の事業者やソーシャルワーカーが参画できないだろうか。いわば、ソーシャルワークの一環としての裁判であるという位置づけで。


 2010年のスペインの完全失業率は20%を記録。 (略) この男性のような若者世代になるとさらに数字は上がり「43%」にもなるという。

うまく行っていない個人だけを取り上げて、

「単なる見殺し」と「単なる保護」の両極しか設定できないのは貧しすぎる。



発覚した年金詐欺事件(メモ) 発覚した年金詐欺事件(メモ)を含むブックマーク


618人の年金差し止め 所在不明の高齢者ら――厚労省(2011年2月4日)

 高齢者の所在不明問題を受け、安否を確認していた厚生労働省は4日、76歳以上の618人について生存が確認できなかったとして、年金の支給差し止めを決めたと発表した。同省は親族らに過払い分の返還を求めるとしている。

 同省によると、76歳以上で過去1年間に医療保険の利用実績がなかった約34万人を調べたところ、572人は既に死亡していたり、生存が確認できなかったりしたとして差し止めを決めた。親族らが「本人と連絡が取れない」と文書で回答してきたケースが約9割を占めたという。 



*1:まったくの正論だが、その意見自体が思いつきのウサ晴らし(いわば「形而上学者の愚痴」)であり、対面で口にする処方箋としては役に立ちにくい。メタなだけの正しさは、関係や主観性の具体を悪化させる。 世論の大勢を受けての放置がどういう影響を持つかには、また別の検証が要るはず。見殺しにする「つもり」がなくても、今後はなし崩しが予想される。分かりやすい解決はない。

2011-05-02 差別と不活性を助長する当事者論 このエントリーを含むブックマーク

小泉義之氏の tweet より:

 「ほとんどすべての寛容の対象は、許容されることで、逸脱したもの、周辺的なもの、望ましくないものとして印づけられる。」(ブラウン『寛容の帝国―現代リベラリズム批判 (サピエンティア)』より)

 マイノリティの自称集団文化は、寛容の帝国では〈われわれは(リベラルな主体として)文化を選択し所有するだけだが、かれらは文化に所有され文化そのものである〉と見なされる。その文化・集団は狂信・野蛮・退行・権威的パーソナリティへの傾きがあると見なされる。そして再び寛容。

山森裕毅氏

 ドゥルーズが生成を存在に関わらせていたが、生成の議論は本質の議論とも関わるのかもしれない。存在は「○○がある」といえ、本質は「○○である」といえるが、ここでの話としては、ある社会的なカテゴリーが個人の存在の本質かのように機能してしまっている。「○○になる」としての生成が見落とされている。ある事柄に対して当事者化するとそれが個人の本質として周囲の人々に認識され、いつまでもへばりつき、脱当事者化のような生成は認識に上らないという事態が起こる。いつまでも当事者で居続けさせられる。


名詞形で名指されることは、カテゴリー化されて差別されることでもある。

「この人は○○だから」

こうした場では、《当事者》は名詞形で名指されるマイノリティのことだけになってしまう。しかしむしろ考えるべきは、いわば全員の当事者性であり、誰もが責任追及の対象になり得るということ。実際の言動や関係性がフェアだったかどうかは、大文字の正義では語れない*1


「名詞形マイノリティへの寛容」でアリバイを確保した関係性は、形だけのPC言説で100%のメタな正当性を与えてしまうため、当事者概念が責任追及の用語でもあることが忘れられてしまう*2

なんという幼稚で傲慢なインテリごっこだろう。しかし本当に居場所のない人たちには、名詞形による形式的確保も有益であり得る――その確保が依存症的に維持されてしまえば、もう主観性や集団の問題は問われなくなる参照1)(参照2


名詞形のマイノリティ性に居直る集団や言説は、生成過程におけるマイノリティ性に徹底して鈍感だ。私は名詞形で名指される当事者性ではなく、動詞形にならざるを得ない当事者性を執拗に問うている。静止画像で確保して終わる当事者論には、不当さと臨床的不活性が詰まっている。


【付記】

  • DSM-IV における「名詞形の臨床カテゴリー」にも、同じ問題がある参照1)(参照2
  • たとえば「ひきこもり」という名詞形は、ある状態像に名前がない苦しさに名をもたらした意義はあっても、語それじたいが意識や関係を設計してしまう。名称それ自体が規範的であり、本人の意識を閉じこもらせる動的な意義さえ持ってしまっている。
  • 「ニート」って言うな! (光文社新書)』は、実は「ニート」それ自体より、名詞形の名指しであったことに問題の核心がある。たとえば「失業者」と名詞形でいう場合と、「失業中」と動詞的にいう場合は、それだけで処理のスタイルがちがい、心理的な位置づけすら違ってくる。
  • にもかかわらず名詞形カテゴリーは、差別される側から積極的に選びとられ、自称されることがある。自虐的な名指しが、社会規範への間抜けた従順さを示す。へりくだっているから事態が変わるかと言えばそうではなく、むしろそのような名指しが言動をパターン化させ、状況の全体を硬直させている。
  • こうしたすべてから剔抉できるのは、あらゆる場面における嗜癖的な自己確保である。一つひとつの名詞形はメタ言説と結託し、嗜癖プロセスを構成している*3


*1:反差別の運動をともなう左翼系コミュニティは、人間の名詞形への還元を断固として維持するため、むしろ耐え難い差別発言の温床となっている。そうした実態は、「反差別」という大義名分の陰で、偶然的なスキャンダルとして処理され、隠蔽される。しかしこれは、関係性のロジックそれ自体がもたらす構造的な反復だ。

*2:日本語でも、「当事者意識を持てよ!」という怖い言葉があるではないか。これは、順応主義的に確保された「知らん顔」に対して、べつの生成を求めている。

*3:たとえば「民族名」も、嗜癖的自己確保の装置であり得る。宗教/民族意識/差別などを、嗜癖問題として再構成する必要を感じる。 「名詞形とメタ言説は、私たちのアヘンである」。

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