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[語句説明]

2011-07-29

「やらなければいけないことは、手の届かないところにある」と自分が感じていること 22:10 「やらなければいけないことは、手の届かないところにある」と自分が感じていることを含むブックマーク

衆議院 厚生労働委員会 参考人説明より

児玉龍彦*1

    • 【7月31日夜の追記】: 下の動画は、「YouTubeの利用規約に違反したため削除された」とのこと。 同じ動画は、「衆議院TV 2011年7月27日(水)」にある、「説明・質疑者等(発言順):」⇒「児玉龍彦(10時00分)」の箇所をクリックすると、動画ソフトの選択画面が現れて、手順に従えば視聴できます。

D


全体を2回視聴し、文字起こしも精読しました。

根拠をもつ政治的な怒りが、これほど感動的とは。

わめき散らすだけなら、心を動かされなかったと思います。


――ではひるがえって、自分の領域では、どうすればいいのか。

「このままじゃまずい」の怒りはあっても、それが単純に「科学」を口実にできない場合は*2



追記(2011-07-31)

  • 政治的整備が必要である以上、理論的理解は必要な条件整備のごく一部でしかない。しかも方法論それ自体が安定的な地位を持たないとしたら*3
  • 理論的に分からないだけでなく、「これに関して理論的であるとはどういうことか」自体が整備されていない。そして、理論的に理解するとは確信を掴むことだとすれば、それは掴む側にとっての危険でもある。



*1:東京大学先端科学技術研究センター教授、アイソトープ総合センター長。 著書

*2:精神病理学的な問題意識は、いわば「人文的」であるため、単純に科学に還元できません。しかし「科学でない」といえば、ふつうはニューサイエンスや詩的惑溺など、独りよがりの話にしかなりません。

*3:カオス理論は予測できない(解が得られない)現象を扱うが、カオス理論自体は方法論として明晰。ところが、制度分析や分裂分析においては、分析の方法論自体が「予測できない」ように見える。どう分析しなければならないか、までが予測できないとしたら。

2011-07-27 べつの時間軸を繰り込む技法 このエントリーを含むブックマーク

柄谷行人による、『災害ユートピア』書評より:

 国家による秩序がある間他人を恐れて暮らしていた人たちは、秩序がなくなったとたん、たちまち別の自生的な“秩序”を見いだす。それは、他人とつながりたい、他人を助けたいという欲望がエゴイズムの欲望より深いという事実を開示する。むろん、一時的に見いだされる「災害ユートピア」を永続化するにはどうすればよいか、という問題は残る。


日常に思い込まれた欲望と、非常時にやってしまうことは、ちがっている。

しかし、それは時間の質が違うからおのずとそうなるのであって、日常と非日常を同じモノサシで比較して「こっちの欲望のほうが強い」とかいうのは、違うと思う。日常なら日常で続いてしまう欲望や合理性があるし、それは震災のエピソードを持ってきて「本当はべつの欲望が隠れている」と言ったところで、処方箋にならない。


必要なのは、非常時に体験された時間軸を、どう日常に繰り込むかということ*1

それはまさに技法や制度設計のレベルで問われることだと思う*2


私がいまジャン・ウリやガタリに興味を向けているのは、あの感動的な時間の関連にある(参照)。



*1:「革命」という言葉を、日常に繰り込むべき処方箋のレベルで考えることになっている。

*2:「LETS」や「PICSY」で提示された、「決済制度の設計図を変えることでメンタリティまで変わってしまう」というモチーフは、単に決済制度が「ローカルだ」にとどまらない可能性を含み得る(ひきこもり文化論』pp.169-175 掲載の拙論を参照)。 とはいえ逆にいうと、システムを作るだけではうまく回らない。

2011-07-26 公開されているガタリの原文 このエントリーを含むブックマーク

以下のフランス語原文(PDFファイル)は、

邦訳『フェリックス・ガタリの思想圏―“横断性”から“カオスモーズ”へ』に掲載されている文章のうち、初出が雑誌シメール(Chimères)だったもの。 ほかにもいろいろ公開されています(参照)。


「音楽創造における異質発生」(邦訳pp.59-65)

L'hétérogénèse dans la création musicale (Chimères n°38)

http://www.revue-chimeres.fr/drupal_chimeres/files/38chi02.pdf


「内在の眩暈」(邦訳pp.66-91)

Vertige de l'immanence (Chimères n°38)

http://www.revue-chimeres.fr/drupal_chimeres/files/38chi03.pdf


「カオスといかに闘うか」(邦訳pp.92-103)

Combattre le chaos (Chimères n°38)

http://www.revue-chimeres.fr/drupal_chimeres/files/38chi04.pdf


「エコゾフィーの実践と主観的都市の復興」(邦訳pp.107-p.133)

Pratiques écosophiques et restauration de la Cité subjective (Chimères n°17)

http://www.revue-chimeres.fr/drupal_chimeres/files/17chi07.pdf


2011-07-24 場所を再生する分析 このエントリーを含むブックマーク

「分析的 - 詩的機能(fonction analytico-poétique)」 と 《新生自己 emergent self*1 に関連して、

グァタリがほかの場所でも語っている。


邦訳を参照しつつ、訳し直す努力をしてみた(引用部分については、強調は引用者)

以下、原文はいずれも「Pratiques écosophiques et restauration de la Cité subjective」(PDF)より。 邦訳によると、これはグァタリの生前最後の語り下ろしテクスト(遺稿)であり、彼が亡くなった1992年の秋に公表されている。


 幼年期専門の精神分析家/動物行動学者であるダニエル・スターン《新生自己 emergent self》と呼ぶこの主観性がつねに再生するかどうかは、私たちに懸かっている。専門家や技術官僚の干からびた無分別の発想にかわって、幼年期や詩のまなざしを奪回すること。 (邦訳 p.110 の箇所)*2

 Cette subjectivité que le psychanalyste et l’éthologue de l’enfance, Daniel Stern, appelle le « soi émergent », il nous appartient de la réengendrer constamment. Reconquérir le regard de l’enfance et de la poésie aux lieu et place de l’optique sèche et aveugle au sens de la vie de l’expert et du technocrate.

  • 語句に注目するなら、emergent には「創発」という意味があり、たとえば emergent system といえば、「創発システム」と訳される(参照)。 ここでグァタリが言っているのは、赤ん坊のことだけでなく、「成人以後にも硬直せず、おのれを組み直し続けられるか」 という話。
    • 「il nous appartient de ...」は、既存邦訳の「〜しなければならない」だと、左翼イデオロギーの標榜に終わってしまいそうで、しかしここではそういう硬直したあり方をこそ問題にしているはずなので、変えてみた。

グァタリは、

  • 詩的と呼ぶしかない分析(=「幼年期や詩のまなざし」)の生成を確保しなければ、私たちは官僚的プロセスに同化して干からびてしまう

と言っている。


「分析」というと、ふつうは「結果」だけが問われるが、グァタリはここで、論じる側じしんの蘇生を課題にしている。


つまり、場所や主観性の分節プロセスそれ自体の創発が焦点であり、

受動的とも能動的とも言いがたい、 いわば「受動的に生じてしまう内発的な分節」が必要だが*3、私たちの社会生活にあっては、それが難しい。


 かくして、主観性は化石化の危機にさらされている。 主観性は差異や意外性、特異な出来事といったものへの嗜好を喪失しつつある。テレビ放映されるさまざまな競技、あるいはスポーツやバラエティ番組、政治活動などにおける《スター・システム》が、神経を弛緩させる麻薬のように作用し、主観性を不安から守るのだが、それは代償として、主観性の幼児化や、主観性の責任解除をともなう。 (邦訳 p.108)

 La subjectivité se trouve ainsi menacée de pétrification. Elle perd le goût de la différence, de l’imprévu, de l’événement singulier. Les jeux télévisés, le star system dans le sport, les variétés, la vie politique, agissent sur elle comme des drogues neuroleptiques qui la prémunissent contre l’angoisse au prix de son infantilisation, de sa dé-responsabilisation.


ここで言われている「幼児化(infantilisation)」は、上で語られた「幼年期のまなざし(regard de l’enfance)」の対極にある。

    • 「幼児化」は、権威ぶった順応主義、パターン化した現実処理などを意味し、その場で責任を引き受け直そうとする「幼年期のまなざし」をつぶしてしまう。
    • 主観性の「幼児化=化石化」は、ひきこもりや発達障碍と関わるように見える。



この議論の必要性を認めた上で、残る疑問

「幼年期や詩のまなざし」は、とりあえずは個人的なつぶやきのように成立するしかない。

しかし、では合意形成はどうなるのか?


グァタリは随所で、各人の分析が独自の生成を遂げる「特異化(singularisation)」を語るが、各人が本当にオリジナルに特異化すれば、合意形成はない。

そもそも DSM は、フロイト的・精神病理学的解釈の恣意性を回避し、関係各機関の意思疎通をしやすくするために作られたはずだ。臨床の硬直を避けるには人文的問題意識がやはり必要でも、意思疎通や合意形成の問題はそのまま残ってしまう。


実際のところ、多くの人が自分なりの「分析」を抱えているが、それは単に利己的な計算か、さもなくば自分の立場を悪くするようなものでしかない*4。 そこで必要なのは、利己的な野心を排除し、秘めた分析を口にできるアーキテクチャや手続き的環境を整備することであって、単に規範的に「幼年期や詩のまなざし」を擁護しても、絵に描いた餅になる*5


考えてみれば、本当にその場を再生できるような分析は、耳に優しいどころか、trauma 的と言い得るほどに耐え難い内容を含むかもしれない(現に含むだろう)。 だとすれば、精神分析とはまた別の、「詩的まなざしの技法」を考えなければ、内ゲバを強めるだけになる。


そもそも、単なる科学に還元できない精神医学は、他科以上に党派性の問題を抱えている。 これは精神医学にとって、二次的な問題ではない。 関係の葛藤を扱わざるを得ない精神医学は、おのれ自身の党派性をどうマネジメントするのか――この問いは、精神科臨床の核心にある。


    • ドゥルーズ/ガタリの現在』掲載の論考 《いつも「新しい」精神医療のために》(三脇康生氏)は、現場に鮮度をもたらす分析の必要を、「べき論」でのみ語っているように見える。 しかし、グァタリが死ぬまで奉職したラボルド病院が、設立から50年以上を経ていまだに「特権的な位置を占めているだけ」という松本雅彦氏の指摘*6は、無視できない。 問題意識が重要であればあるほど、技術的な開発が急がれる。



*1:ダニエル・スターンの 《新生自己 emergent self》 については、*9を参照。

*2:上記邦訳の同じ箇所: 「子どもを対象とする精神分析家であり民族学者でもあるダニエル・スターンが〈現れ出つつある自己〉と呼ぶこの主観性を、われわれは絶えず生み出しつづけねばならないのだ。 専門家やテクノクラートの干からびた光明のない視点に取って代えて幼年期や詩の視線を奪回すること。」

*3:分析それ自体の生成と、メルロ=ポンティが「制度化」と呼んでいたもの(参照)は、単に重ねられるだろうか。 またそもそも「制度」というかぎりは、集団的意思決定の問題が避けられないはずだ。 なにしろ「制度を変える」というのは、まさしく権力の振る舞いだから。

*4:秘めた分析はそれなりに抱えている、しかしそれを口にすれば、ケンカになってしまう。ならば基本的には、泣き寝入りしかない。 そして、最初は再帰的に選びとられた順応も、いずれは方法意識を失って、単なる硬直に化けてしまう(「発達障碍」の前景化?)。

*5:現に日本では、グァタリ本人の名前が「スター・システム」の一翼を担い、「神経を弛緩させる麻薬のように作用し、主観性を不安から守」ってきた。

*6:『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.39

2011-07-23 分析のスタイルとは、「意識のまとめ方」 このエントリーを含むブックマーク

カオスモーズ

カオスモーズ

以下、強調は全て引用者による。


わかりにくいところを訳しなおす努力をしてみます。

  分析について以上のように考えてみれば、時間も受動的にこうむるだけのものであることをやめ、こちらから能動的に動かし、方向づけを与えることのできる性質的変化の対象に変わります。

 Dans cette conception de l'analyse, le temps cesse d'être subi ; il est agi, orienté, objet de mutations qualificatives.

 分析はもはや、もとからある潜在内容に応じた、転移をともなう症候の解釈ではなく、実存を分岐させる可能性を秘めた新しい触媒的原点の発明です。*1

 L'analyse n'est plus interprétation transférentielle de symptômes en fonction d'un contenu latent pré-existant, mais invention de nouveaux foyers catalytiques susceptibles de faire bifurquer l’existence.

 つまり特異性、意味の破砕、切断、断片化、そして――ダダイストやシュルレアリストが実践してみせたような ――記号論的内容の分離が、主体化の突然変異的な原点になり得ます*2(p.34)

 Une singularité, une rupture de sens, une coupure, une fragmentation, le détachement d’un contenu sémiotique -- a la façon dadaïste ou surréaliste -- peuvent originer*3 des foyers mutants de subjectivation.

 化学はその成立当初、複雑な混合物を純化し、そこから均質な原子および分子レベルの物質を抽出しなければならなかったし、また原子と分子を出発点に据えたからこそ、以前には存在しなかった無限に多様な化学物質を合成することができるようになりもしたのです。

 La chimie a dû commencer à épurer des mélanges complexes pour en extraire des matières atomiques et moléculaires homogànes et, à partir d'elles, composer une gamme infinie d'entités chimiques qui n'existaient pas auparavant.

 同様にして審美的な主観性、あるいは精神分析的意味での部分対象を「抽出」し「分離」すれば、前代未聞の、見たことも聞いたこともないような詣調、多声音楽、対位法、リズム、管弦楽編成を加えて、主観性を限りなく複合化することが可能になります*4(p.34)

 De même l’« extraction » et la « séparation » de subjectités*5 esthétiques ou d'objets partiels, au sens psychanalytique, rendent possible une immense complexification de la subjectivité, des harmonies, des polyphonies, des contrepoints, des rythmes et des orchestrations existentielles jusqu’ici inédits et inouïs.

 こうした脱領土的複合化には本質的に危うい面がある。再領土化に向かう衰弱によって常におびやかされているからです。その危険はとりわけ現在の状況で大きくなりますが、それは機械によって生み出された情報の流れが優位に立ち、古くからあるさまざまな実存の領土性を全面的にさせる流れがあるからにほかなりません。 (pp.34-35)

 Complexification déterritorialisante essentiellement précaire, parce que constamment menacée d’affaissement reterritorialisant ; surtout dans le contexte contemporain où le primat des flux informatifs engendrés machiniquement menace de conduire à une dissolution généralisée des anciennes Territorialités existentielles.

 産業社会の初期段階では「デモーニッシュなもの」が顔をのぞかせる状況もまだ残されていたのに、今では神秘も手に入りにくい珍品になりつつあります。 (p.35)

 Aux premières phases des sociétés industrielles Ie « démonique » continuait encore d’affleurer, mais désormais Ie mystère est devenu une denrée de plus en plus rare.

 この点に関しては、最後に残された「存在の異形性」を必死になって捉えようとしたヴィトキェヴィッチ*6の探究を思い起こすだけで十分でしょう。 ヴィトキェヴィッチには求める対象が、まさに指と指のあいだからこぼれ落ちるように見えたのです。 (p.35)

 Qu’il suffise ici d’évoquerla quête désespérée d’un Witkiewicz pour saisir une ultime « étrangeté de l’etre » qui semblait littéralement lui glisser entre les doigts.

 そのような状態に陥った場合、人為的に密度を下げられ、孤立状態に逆戻りさせられた主体化の宇宙を組織しなおす作業にとりかかるのは広い意味で詩的機能だということになる。

 Dans ces conditions, il revient à la fonction poétique, dans un sens large, de recomposer des Univers de subjectivation artificiellement raréfiés, resingularisés.

 詩的機能に求められるのはメッセージを伝達し、同一化の土台となる心象に、あるいはモデル化の手続きを支える行動パターンに対して備給を行なうことではなく、

 II ne s’agit pas pour elle de transmettre des messages, d’investir des images comme support d’identification, ou des patterns de conduite comme étai de procédure de modélisation,

 共存性と持続性を獲得できる実存操作手の、触媒になることなのです*7(p.35)

 mais de catalyser des opérateurs existentiels susceptibles d’acquerir consistance et persistance. (『カオスモーズ』p.36)


ふつう「分析」というと、論じる作業それ自体のプロセスはいっさい無視され、メタに確保されるべき「内容」それ自体に注意が向かう。内容が正しければ分析は良いとされるが、まちがっていれば、分析のプロセスはまったく無意味だったことになる。プロセスがそれ自体として評価されることはあり得ない*8

ところがここでグァタリは、決定的な機能を帯びた分析は、むしろ詩的なプロセスとしてしか実現しないことを主題にしている。本当に必要な分析は、「科学」に自分を還元して居直るような傲慢さではなく、分節の作業それ自体の身体性として、独自の機能を帯びる。単なる詩的惑溺ではなく、かといって科学を口実にするのでもない、分析の強度それ自体が屹立しなければ破綻する危うい「まとまり」を、中空でやり直すこと。

ここで選びとられた《分析=再構成》のスタイルは、主観性がまとまりをつくるときの方針であり、しかもそこには内発的な必然性が求められる。あっさり「科学」を口実にする人は、試行錯誤のスタイルに掛け金があることに気づけない。


 このような詩的 - 実存的触媒は、文章、発声、音楽、あるいは造形芸術など、さまざまな言説作用の内側で作用することもあって、芸術作品の制作者と解釈者と受容者のあいだに、分析家と患者を結びつけるのと同じ言表行為による結晶作用が、ほとんど共時的に始まる要因として働きます。 (pp.35-36)

 Cette catalyse poético-existentielle, qu’on retrouvera a louvre au sein de discursivités scripturales vocales, musicales ou plastiques, engage quasi synchroniquement cristallistion énonciative du créateur, de l’interprète et de l’amateur de l’œuvre d’art comme de l’analyste et de son patient.

 触媒の効能は、活発な過程的断絶をうながし、記号によって構造化された明示的意味作用の織り目をほぐしていく能力にこそあるのだし、また触媒の力によって断絶から生まれ、活動を始めるのがダニエル・スターン的な意味で新生の主観性なのです*9(p.36)

 Son efficience réside dans sa capacité à promouvoir des ruptures actives, processuelles, au sein des tissus significationnels et dénotatifs sémiotiquement structurés, à partir desquelles elle mettra en œuvre une subjectivité de l’émergence, au sens de Daniel Stern.

 だからこそ、一定の――つまり歴史と地政学の観点から見て位置が定まった――言表行為域で実際に作用しはじめたとき、ここでとりあげた分析的 - 詩的機能は自己準拠と自己価値化の突然変異的な原点として樹立されるのです*10(『カオスモーズ』pp.36-37)

 Lorsqu'elle se déclenche effectivement dans une aire énonciative donnée -- c’est-à-dire située d’un point de vue historique et géo-politique – une telle fonction analytico-poétique s’instaure donc comme foyer mutant d’auto-référenciation et d’auto-valorisation. (Félix Guattari 『Chaosmose』p.36)


ここで問われているのは、数式や実験の手続きでも、権威への準拠でもなく、

論じるプロセスが特異化の必然性を、その強度を実現できているかということ。

でたらめでは、強度を実現できない。制作過程それ自体の、新生的*11で底の抜けた必然性が問われている。


 またそうであればこそ分析的 - 詩的機能は常に二つの観点から検討されなければならないのです。

 C’est pourquoi on devra toujours la considérer sous deux angles :

  • (1)分子状の断絶、知覚できないほど微細な分岐点と見るならば、分析的 - 詩的機能には支配的冗長性、「すでに分類されたもの」の編成、あるいは別の言い方をしたほうがよければ古典的なものの秩序を転覆させるだけの力があることになる。
  • 1. En tant que rupture moléculaire, imperceptible bifurcation, susceptible de bouleverser la trame des redondances dominantes, l'organisation du « déjà classé » ou, si l'on préfère, l'ordre du classique,
  • (2)同じ冗長性の連鎖からセグメントの一部を選別するものと見るならば、分析的 - 詩的機能は選び出したセグメントに先ほど説明した非シニフィアン的な実存の機能を与え、そのセグメントを「リトルネロ化」したうえで、主体化の「転換装置」として作用する部分的言表行為の激烈な断片に変えるものだということになる。
  • 2. En tant qu’elle sélectionne certains segments de ces mêmes chaînes de redondance, pour leur conférer cette fonction existentielle a-signifiante que je viens d’évoquer, pour les « ritournelliser », pour en faire des fragments virulents d’énonciation partielle travaillant à titre de « shifter » de subjectivation.

 基本素材の質が重要性をもたないことは*12、マルセル・デュシャンの願いをかなえたかのように徹頭徹尾「見物人」のほうへ顔を向けた反復音楽や舞踏を見れば明らかでしょう。

Peu importe ici la qualité du matériau de base, comme on le voit avec la musique répétitive ou la danse Buto qui, selon le vœu de Marcel Duchamp, sont entièrement tournées vers « le regardeur ».

 何よりも重要なのは力強く変異性のリズムを刻む時間化の動きであり、またその動きに、新たな実存の体系を構成する相互に異質な要素を一つにまとめるだけの力があるということなのです。

Ce qui importe surtout, c’estla lancée rythmique mutante d’une temporalisation capable de faire tenir ensemble les composantes hétérogènes d’un nouvel édifice existentiel.

 詩的機能を越えた先で問われるのは、主体化の装置のあり方です。

 Au-delà de la fonction poétique, se pose la question des dispositifs de subjectivation.

 もっと正確に言うなら、主体化の装置が集列性――サルトル的な意味での集列性*13――から抜け出し、実存にその自己-本質化とでも呼べるような力を回復させる特異化のプロセスに入っていくようにするには、いったいどのような特徴を与えればいいのか、ということ。 (pp.36-37)

 Et, plus précisément, ce qui doit les caractériser pour qu’ils sortent de la sérialité -- au sens de Sartre – et entrent dans des processus de singularisation, qui restituent a l’existence ce qu’on pourrait appeler son auto-essentialisation.


ここにあるのは、「主観性はまとまっているのが当たり前で、それが散乱しているのは異常だから正常に戻そう」ではなくて、

「そもそも主観性には無理がある、ではこれから私たちはどうやってそれをまとめ上げようとするのか」であり、その纏め上げのスタイルに、政治的-臨床的な賭け金がある。


    • 主観性は、まとめ上げようとするその瞬間に破綻する。 【「自分の言葉」のヤバさ】
    • ようやく纏めても、それはほかの主観性たちとの関係で排除される。 【特異化と合意形成】


つづき: ≪場所を再生する分析


*1:邦訳:「分析は、もとからある潜在内容に照らした、感情転移をともなう症候の解釈であることをやめ、実存の分岐にもつながる力を秘めた触媒の新たな集中点に変貌します」(p.34)

*2:邦訳:「主体化の起こる変異性の焦点を源にして生まれる可能性があるということです」(p.34)

*3:『Le Petit Robert 1 Dictionnaire De LA Langue Francaise』を見ても、「originer」という単語はない。 タイポだろうか?

*4:「subjectivités」が「主体感」と訳されていたのを、「主観性」とした。

*5:「subjectivités」のタイポ?

*6:Wikipedia:「Stanisław Ignacy Witkiewicz」によると、1885年ワルシャワ生まれの劇作家、小説家、画家、写真家、哲学者。 ナチスとソ連がポーランドに侵攻した直後の1939年9月、自殺。 ⇒「彼のスタジオはドイツ軍のワルシャワ侵攻のときに焼け、絵画・原稿に加えて、万を超えたはずの写真も焼失してしまった」(光田由里氏

*7:邦訳:「みずから触媒となって、共存性と持続性の獲得につながりうる実存的演算子を結集させることなのです」(p.35)

*8:ここでしているのは、「答えは間違ってるけど、考え方はいいから10点満点で3点あげる」とかいうのとは全く違う話だ。 最終的な着地点を外部にまったく依存しないような自己構成があり得るのか(許されるのか)ということ【cf.「内的な法 loi interne」】。 グァタリの基本用語に「特異化(singularisation)」というのがあるが、そこだけ特異化していれば、周囲への順応は破綻している。

*9:以下、松井尚子、PDFより参考引用:≪スターンは,1970年代以降の乳幼児発達心理学諸研究の知見を視野に入れながら、誕生直後から言語の出現辺りまでの乳幼児の「自己感」(sense of self)の発達を論じている。 それによると、誕生以後、乳児の自己感は新生自己感(sense of an emergent self)、中核自己感(sense of a coreself)、間主観的自己感(sense of a subjective self 〔2000年度版では itersubjective〕)、言語的自己感(sense of a verbal self)へと変化・発達する≫

*10:邦訳:「自己参照化と対自己的価値付与が起こる特異性の焦点として成立するわけです」(p.36)

*11:ここでいう「新生的」は、もとのスターンの英語で「emergent」なので、「創発的」とも訳せる。

*12:邦訳:「そこで使われる基本素材の質がなんら重要性をもたないということは」

*13:松岡正剛氏による解説: ≪サルトルは疎外された組織を「集列」(セリserie)と捉えた。そこに属すると“単なる他者”になってしまう組織性が「集列」である。そこではバスに並ぶ群や列のように、モノに支配されざるをえない人間の姿が見えてくる。もしバスが何百台もあるのなら、人々はバスを待ちはしないし、並びもしない。サルトルは人々をこのような集列に向かわせるのは、そこに社会的な稀少性があるからだろうと判断した。こうして、これらの社会的心理的な集列からの離脱こそがサルトルの方法的課題になってくる。≫(千夜千冊:『方法の問題』

2011-07-22 社会性は、臨床的配慮に重なる このエントリーを含むブックマーク

医療目線を問い直すイベントを中高生向けに企画していること、そしてレベルの高い話をなさった講師がまだ20代の精神科医であることが、すばらしい。 「こんなイベントを、医療目線におびえていた10代の自分が聴けていたら・・・」と思わずにいられない。


 わたしたちは、一般に、医師は「くもりのない眼で」「ありのままに」患者の病気を診ている、と思いがちです。しかし、松本先生によれば、そもそも「くもりのない眼」や「ありのまま」の対象のあらわれなんてありえないのだ、ということです。

 医師の「患者」へ迎えるまなざし、「治療」という観念、そして「患者」や家族の要望さえも、その時代や社会に特有な「構造」によってすでに規定されている、のです。そうすると、医学は「進歩してきた」のでなく、たんに医療従事者や「患者」や家族の疾病観・治療観を支配する「構造」が変わっただけである、と考えてもよいのかもしれません。

 インフォームド・コンセントという概念は、医師が患者に病名・治療効果・危険性を説明したうえで患者が治療に同意する、あるいは選択する手続きを意味しますが、もともとこれは、アメリカの訴訟社会を背景として、医師が責任を回避するための安全保障の機能を果たす一面をもっていたことは否定できません。しかし、松本先生は、それでいいのか、と告発します。

 むしろ、インフォームド・コンセントは、まったく反対に、医師と患者がある治療の可能性に自分を「賭ける」こと、生じうる「危険」を背負うこと、でなければならない、と松本先生はおっしゃるのです。


不登校や引きこもりについては、こういう議論こそ必要で、しかもそれは、「臨床効果」をもたらすために内在的に必要なのだ*2


臨床目線が一方にあって、それとは別に余興や副業として教養があるのではない*3おのれを対象化する豊かな言説は、それ自体が臨床実践となっている。それができないベタな治療目線は、「反臨床的」な害悪だ。(現状では、反臨床的な治療目線を相談者が内面化してしまう。)

松本氏が語るように、ほんらいは倫理的な賭けをともなう「臨床」が、賭けの契機をともなわない《物質科学=治療目線》に還元されている。 そうした「治療目線」が社会に遍在すると最悪だが、自分たちの状況を語り得る臨床目線が社会に遍在すれば、それはお互いの QOL を高めることになる*4


そもそも私たちは、医師免許もないのにお互いに接して、影響を与えあっている。

そこで必要な配慮を、「礼儀作法」ではなく、臨床活動として語るべきだろう(参照)。


《精神科臨床は、医師でなければ携わってはならない》と考える人は、医師免許をとるまでは人に接するのをやめるべきだ。 私たちは否応なく、日々「臨床」の責任を負わされている。 つねに、自己検証的なミーティングが必要だ。


    • フーコーやデリダの名を出して、「逸脱者を歓待しなければならない」に終始する議論は、プロセスとして生きられる臨床的配慮をすっかり無視している*5。 主観性も集団も、おのれ自身がすでにある作法で生きているというのに*6。 マイノリティ受容という正当性を確保しただけなら、自己保身のアリバイ作りしかやっていない(それがマイノリティと名指された側に利用されもするだろう)。 昨今の知的言説は、メタ性確保のインテリごっこばかり。メタ言説が集団的な嗜癖対象となり、生を構造化している。
    • 物質科学的な目線は、医師だけが独占すべきものではない。ところが現状では、スタッフ側にも「由らしむべし、知らしむべからず」のヒエラルキーがある*7「スタッフが医療知識を持っている」ではなく、「権威的な医療知識がスタッフを使う」というシステムに見える。 一人ひとりのスタッフは、モノ的機能に還元される。


【追記】

「人と接する免許をもつまで、社会参加してはならない」というこの発想は、むしろ引きこもる人にありがちな強迫観念と言えるかもしれない。

自分のやることはすべてが逸脱的で、順応しようとすると意識が硬直して何もできなくなる――こういう感覚とひたすら戦わねばならない。トラブルは、順応努力の瞬間に生じている。

私が斎藤環氏の「掟の門」解釈に激しく抵抗したのは(参照)、まさにこの問題だ。 今の自分には参加する資格がない、ではどうやったら「門の向こう側」に入れてもらえるか――この発想こそが人を委縮させ、拘禁する。

資格ができるより前に、「すでに参加してしまっている、それを協働でなんとかしよう」の発想がなければ、いつまでたっても「始められない」、というかすでにもう始まっているはずなのに。

ところがこの発想を、「健常な社会人」は怖がるのだ*8。 彼らのアリバイに触れる素朴な分析こそが排除され、黙殺される。この話をしているかぎり、どうやら私はこの社会に入れてもらえない。



*1:via @schizoophrenie

*2:「スタッフにとって必要である」のみならず、こうした問題意識を悩む本人が内面化することに意味がある。

*3:逆にいうと、支援者が余興や副業として語ったつもりの発言には、臨床スタイルの誤りが表現されている。

*4:私たちは、お互いの人生にとっての環境要因となっている。

*5:マイノリティを名詞形に還元し、プロセスとして生きられる主観性や関係性を無視する。 「歓待」さえしていれば、実態は何も問われない(何があっても抑圧される)。

*6:誰であれ当事者性がすでにある

*7:医師の能力的現状をチェックする機会は終生なく、ソーシャルワーカーや看護師がステップアップできる機会はない。身分制的に役割と機能が分断されている。

*8:その「健常な社会人」には、さまざまなマイノリティや障碍当事者本人が含まれる。彼らの意識が、どうやって「正常さ」のアリバイを調達しているか。

2011-07-17 医療の労働と、社会環境を支える労働 このエントリーを含むブックマーク

 例えば60人の人を大きな一部屋に入れて一人の看護者が少し高いところからみていればどの人が問題かは一目瞭然である。しかし6人部屋や4人部屋に分かれると一人では看れず、何人かで何回も巡視することになる。これが個室になればもっと必要になる。さらに地域に散ればさらに多くの人が必要になるのである。

 看護スタッフ数は一般科でも日本は先進諸外国の23.7%〜71.9%である。

 先ほどの大部屋の理論でもわかるように地域化するほど日本では多くの職員を必要とするのである。従って医療費は地域化するほど跳ね上がることになる。欧米は地域化するほど医療費が下がったが、それはもともと日本の入院費が欧米のそれのやく20〜30%であるからである。

 かねてより筆者は地域化を阻む「ないない4重奏」として、医療者、患者本人、患者家族、地域の人々の4者が退院を拒むようになってハーモニーが奏でられると言ってきた。

 精神科病院を治療に特科した医療機関とするか、療養を主とし福祉機能を主としたものにするかその混合とするかが大きな分かれ道であることに異論は無いと思う。医療に特科するとはすなわち救急医療に力を入れることであり、療養に力を入れるのは社会復帰に力を入れることである。これをきれいに分けることはむずかしく、地域によって、その病院の歴史によって選択は違っている。


    • 医療権力でヒエラルキー化してしまえば、お金に関しても配慮に関してもコストは安くつく。息をつめた緊縮財政のなか、これまで以上に医療権力が慢性化されるのを感じる。
    • 逆にいうと、採算を度外視して地域化や療養を進めようとするなら、お金とは別種の編成力を身に帯びなければならない。つまり、大きな政治力やカリスマ性を必要とする。



*1:cf. 澤温 「精神科病院におけるアメニティ」(PDF) YouTube で「精神科救急24時」で検索をかけると・・・

2011-07-11 死ぬことの助け合い このエントリーを含むブックマーク

ueyamakzk2011-07-11
僕に死ぬ権利をください

僕に死ぬ権利をください

【プロフィールといきさつ】: 1981年生まれ、もと志願消防士。 2000年9月24日、19歳で交通事故に遭い、9ヶ月間の昏睡状態に陥るが、奇跡的に意識と聴覚、わずかな視覚だけを取り戻す。 それ以上の機能改善があり得ないことを知り、安楽死を望むが、どうしても聞き入れられなかった。 2003年9月24日(事故のちょうど3年後)、実母の手で決行*1、その2日後に死亡。

「訳者あとがき」によると、原書はフランスで34万部(2004年3月時点)*2。 この事案をきっかけに安楽死論争が激しくなり*3、2005年の「レオネッティ法」制定につながった。 参照*4


著者ヴァンサン・アンベール氏は、声を出せず、右手の親指しか動かない状態でこの本を「書いて」いる。そばにいる人が彼の指にさわり、アルファベットを順番に言い、必要な文字が来たらそこでヴァンサンが指を押す。これをえんえんと繰り返し、単語をつくり、文章をつくってゆく・・・*5

唾液を飲みこめず、「泣く」という行為もできないほど生活機能を失っているが、進行性の病気ではないので、周囲が延命措置と介護をやめない限り、生命は維持される。彼は断固としてそれを拒絶するが、食事は管から胃に送られるし、自分では死ぬことすらできない。

ご家族、とりわけ母親とのやり取りは、彼が家族を大切に想い、彼も愛されていたことを伺わせる(母親は最後まで息子の安楽死の要求をこばみ、泣く)。 大統領に手紙を書き*6、ついに母親がシラク本人と面会したのに、「人生をもういちど好きにならなければならない。これは大統領命令です」*7という言葉を受けて終わる(p.166)。

最後は実母が自分で手を下し、警察に身柄を拘束される。事情を知る医師フレデリック・ショソイは「これ以上の延命措置は無意味」と判断、人工呼吸器をはずし、塩化カリウムを注射して心臓を止めたが、そのために終身刑になる可能性すらあった*8

レオネッティ法制定後の2006年2月、実母とショソイ医師はいずれも無罪になった*9、1995年の東海大学附属病院の判例(参照)を見るかぎり、日本で同じことをやれば間違いなく有罪だろう。



安楽死と、各国の文化

 スイスにある2つの自殺幇助団体ディグニタスエグジットには大きな違いがあることもこの調査ではっきりした。ディグニタスに助けを求める人の9割は外国人、つまり自殺のためにスイスに来る自殺旅行者だ。一方エグジットの96.6%が国内の自殺希望者だ。外国人の希望者が多いことから、ディグニタスに頼る人の数はエグジットの2倍だという。 (「死に急ぐ女性たち」より)

安楽死のできる国 (新潮新書)』p.163 より:

 欧州統合の時代でも、安楽死をめぐる法律は統一できません。オランダにはオランダの道が、我々には我々の道があるのです。人権はひとつでも、その解釈は違う。各国が独自の文化、歴史、宗教をふまえ、それぞれの道を探る必要があるのではないでしょうか。 (末期患者の自殺を幇助するスイスのNGO「エグジット」事務局長、ミハエル・ブリュッカー氏の発言)


*1:息子につながれた胃ゾンデ(医療用の細い管)に、バルビツール系鎮痛剤を注ぎ込んだ。

*2:フランスの人口は日本のおよそ半分だから(参照)、日本なら70万部ぐらいの印象か。日本語以外にも、イタリア語、韓国語、スペイン語、タイ語、ポーランド語に訳されたとのこと。

*3:邦訳の解説は、『安楽死のできる国 (新潮新書)』著者の三井美奈氏。この解説だけでも読む価値あり。

*4:「La loi d’avril 2005 : droits des patients et fin de vie」(PDF)  フランスのいきさつについては、こちらを参照。

*5:直接の執筆を行なったのは、ジャーナリストのフレデリック・ヴェイユ(Frédéric Veille)氏。

*6:ヴァンサンによる、大統領への手紙: 【仏語原文】(フランス尊厳死協会)、 【英訳】(BBCニュース)

*7:「Il faut qu'il reprenne goût à la vie. Dites-lui que c'est un ordre du président de la République.」(原書p.164)

*8:ショソイ医師はその後、『私は人殺しではない(Je ne suis pas un assassin)』という本(2004年)を公刊している。

*9こちらの記事には、無罪ではなくて「免訴」とある。

2011-07-01 ジャン・ウリ関連メモ

サンタンヌ病院で続けているセミネールの、聴講者による私的メモ、音声ファイルなど サンタンヌ病院で続けているセミネールの、聴講者による私的メモ、音声ファイルなどを含むブックマーク

http://ouvrirlecinema.org/pages/reperes/JOsem.html

http://ouvrirlecinema.org/pages/reperes/prisnot/

聴講メモは、アニク・ブロー(Annick Bouleau)氏によるもの。

これとは別に、ラボルドでのセミネールは、1971年2月から続いているそうです*1



雑誌『Institution雑誌『Institution』を含むブックマーク



狂人なき世界?(Un monde sans fous?)(インタビュー動画) 「狂人なき世界?(Un monde sans fous?)」(インタビュー動画)を含むブックマーク

以下のような質問に答えています。

  • 「今日、精神医学はどのような方法をとっているでしょうか(Quel chemin la psychiatrie prend-elle aujourd'hui ?)」
  • 「私たちの社会には、狂気のために、どんな場所が残されているでしょうか(Quelle place reste-t-il pour la folie dans notre société ?)」
  • 「実際のところ、あなたから見ると、どのようなタイプの社会が準備されているのでしょうか(Et justement, quel type de société se prépare aujourd’hui selon vous ?)」
  • 「では、どうすれば良いのでしょう(On tend vers quoi, alors ?)」



*1:講演録「構造分析とメタ心理学」(PDF)末尾によると、2008年の段階でもう1850回を超えたらしい。

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