「地図作成=メタモデル化」とは、動詞形の《当事者-化》

9月17日は、

を聴講*1
重要なテーマは、次のようなものだと再確認した。

《言説や活動のメタ・フレームは、反臨床的だ》



これは、先日の日仏哲学会シンポ「ガタリの哲学」で論じられた「メタモデル-化(métamodélisation)」*2と直接かかわる。
すべての論点に目配りはできないが、これまでバラバラに見えていた概念や議論が急速につながって見えつつあるので、現時点の理解をスケッチしておく*3



《当事者-化》

  • 名詞形の当事者概念による言説は、どんなにモデル化を拒絶していても、メタなフレームを維持する《単一のモデル》であり、ありていに言えば、官僚言説のかたちをしている(「あなたは○○だから、××の権利があります」)*4。 マイノリティ問題を名詞形の当事者論で行なう人たちは、必然的に目の前の関係ディテールを黙殺し、他者を抑圧し始める。
  • いっぽう、私が臨床的趣旨をふくんで固執する動詞形の《当事者-化》は、その都度その場で自分の事情を考え直さざるを得ないのであり、私はそれをこそ、グァタリの《métamodélisation》、つまり動詞形の《メタモデル-化》と理解している。内発的な分析の生成において、それまでとは別のスタイルの時間が、つまり言葉や関係の作法が、生きられ始める。
  • 動詞形の《メタモデル-化》は、よりメタに舞い上がるのではなく、むしろリアルタイムに沈潜する。 やむにやまれぬ分析の生成であり、必然性にみちた特異的時間の設計=生成が、内在的に生きられる(即興をふくんだ演奏のように)*5。 いっぽう静止画像的な「モデル」は、ひとまずの所与であり、特異的生成の環境として、暫定的な枠組みにすぎない。(名詞形の当事者論は、「静止画像的なモデル」のひとつ。)




グァタリ本人による、「制度分析」と「メタモデル化」の説明を読んでみる

精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』pp.25-26 より。
(フランス語原文は、『Pratique de l'institutionnel et politique』pp.48-49)

 不幸なことに、「制度分析」という表現は、たしかに才能が欠如しているわけではない人たち(たとえばルーロー、ロブロ、ラパサードなど)によって引き継がれましたが、しかし、その取り上げられ方の心理‐社会学的な視点は、私からすればあまりに狭いものでした。
 Malheureusement, cette expression d’"analyse institutionnelle" a été reprise par des gens qui ne manquent certes pas de talent (tels que Loureau, Lobrot, Lapassade, etc...), mais dans une perspective psycho-sociologique trop réductionniste à mon goût.


 社会的な側面や、ミクロな領域における政治の側面を取り込んだからといって、私は個人的特異性や、あるいは前個人的な特異性(たとえば精神病者の世界におけるような)を分析から失わせることを意図していたわけではまったくありません。
 En gagnant du terrain du côté social et micro-politique, mon intention n'était nullement que l’analyse en perde du côté des singularités individuelles et pré-personnelles -- par exemple, dans le monde de la psychose.


 無意識分析の現存する方法を塗り替えようとするような、心理‐社会学的なひとつのモデルを作ることは、私の関心から遠いものでした。
 Rien n'était plus éloigné de mes préoccupations que de proposer une modélisation psycho-sociologique qui eût la prétention de s'imposer comme alternative globale aux méthodes existantes d'analyse de l’inconscient !


 その当時から私の考えることは、私が今日「モデル化の次元を変えること」(métamodélisation)*6と呼んでいる手続きに向けられていたのです。
 Dès cette époque, ma réflexion était axée sur les procédures que j'appellerais aujourd'hui de métamodélisation.


 つまり、現に存在するモデル化の作業を上から支配的にまとめあげて作るようなものではなくて、現に存在するモデルの全部あるいは一部を取り込んだ「自己モデル化」という手続きのようなものに私の考えは向けられていたわけです。
 C’est-a-dire sur quelque chose qui ne s'instaure pas comme surcodage des modélisations existantes, mais plutôt comme procédure d’"automodélisadon" s'emparant de tout ou partie des modèles existants,


それは、みずからの地図を作成し、みずからの標識を作成するためであり、したがってみずからの分析的な態度を作るためであり、みずからの分析的な方法論を作るために必要なのです。
pour construire ses propres cartographies, ses propres repérages, et donc son propre abord analytique, sa propre méthodologie analytique.


 ですから、私は「制度分析」が野放図に広がっていくのを見て(とくにラテンアメリカにおいてですが)、それらの動きすべてをぬぐい取り、無意識の形成に関する分析方法を練り上げようとしたのです。
 Alors, finalement, quand j'ai vu l’exploitation qui était faite de l’" analyse institutionnelle" (en particulier en Amérique latine), j'ai épongé tout cela, et j'ai essayé d'élaborer une methode d'analyse des formations de l’inconscient,


無意識は、主観性の個人化に依存しません。また、集団や制度の中で主観性が具現されたものに依存するわけでもありません。
qui ne soit tributaire ni de l'individuation de la subjectivité, ni de son incarnation dans des groupes et des institutions.


 サンタルバンとラボルドでなされていたことは、私にとって個人論理的・家族主義的な枠組みから分析を引き離すことを可能にするような脱中心化の呼び水となりました。
 Ce qui se faisait à Saint-Alban et à Laborde était déjà pour moi l'amorce d'un tel décentrement permettant de dégager l’analyse des cadres personnologiques et familiaristes


その結果、別の規模(社会というもっと大きな規模とか、個人よりももっと小さな規模とかです)の、言表行為の動的編成(agencement)を構想することができたのです。
pour rendre compte d’agencements d’énonciation d'une autre taille (soit d'une plus grande taille sociale, soit d'une taille infra-individuelle).


    • 先日のシンポ「ガタリの哲学」で千葉雅也氏は、グァタリの臨床上の立場が、アメリカの自我心理学と親和性を持ち得るような説明をしていたが、「主観性の個人化」を前提にするとしか思えない自我心理学が、グァタリ的方針とどう結びつくというのだろう。(ドゥルーズがよく言及するアメリカ文学と関係するだろうか?これはちょっと保留)
    • グァタリの議論においては、そのたびごとの分析生成のプロセスが主題なのに(主体化とその環境特性が問われている)*7、彼を解説する人たちは、状態としての「バラバラ」や「分裂」ばかりを強調する(統合に抵抗するイデオロギーとして都合がいいわけだ)。 そんなスタティックな理念の提唱者でしかないなら、グァタリに読む価値はない。
    • この話題にかかわる人は、おのれ自身の当事者-化*8を生きざるを得ない。単に「グァタリの解説」をするだけの人は、自分のアリバイだけはメタ的に確保した空中戦で終わってしまう。 ex.「おれは弱者の味方をしているんだ」云々。あらかじめ決められたジャンル(「哲学」「臨床」「芸術」「経済」etc.)による区切りは、同意できない。自分の居場所や、そこでの自分のマネジメントのあり方について、言説事業のフレームまで含めて考え直さなければ。分かりやすい左翼イデオロギーを標榜すればよいのではない。




この引用箇所を受けての、斎藤環氏による論考

斎藤氏は、上記グァタリの引用箇所のうち、3段落目「心理‐社会学*9なひとつのモデルを作ることは・・・・」から、6段落目「・・・・分析的な方法論を作るために必要なのです」までを引用し、以下の論述を続けている。
思春期ポストモダン―成熟はいかにして可能か (幻冬舎新書)』pp.226-227 より:

 ほんらいガタリは、精神分析に対しても鋭い批判をし続けた論客だった。しかし、ここに掲げられた主張は、むしろ精神医学化しつつある精神分析家の実践に対する、「もう一度初心に還れ」という呼びかけにもみえる。
 どういうことだろうか。
 ガタリの主張する「分裂性分析」は、まさに関係性の中にあって、関係性そのものを更新し続けるような過激な試みなのだ。そのとき精神分析は、治療の実践によるフィードバックから不断の修正を受けながら、分析の手法そのものを更新し続けるような営みとなるだろう。しかし考えてみれば、このような発想は、精神分析という営みに、もともと備わっていたはずなのだ。
 別の言い方をすれば、こういうことになる。もし「自己分析」が可能であるとすれば、それは「自己分析の手法を独自に開発する」行為をおいてほかにない。「自分探し」の方法を会得した時点で、「自分探し」の答えは出ているのだ。また、だからこそ「自己分析」にも「自分探し」にも終わりはないのだ。



グァタリは過激と言っても、むしろ「内発的必要に素直に従う」という面がある。メチャクチャにするとかではない。 「分析の手法そのものを更新し続ける」のは、必然性をもって生じる分節を抑圧しないということ。あるいは、ある種の精神分析や臨床心理学のように、「あらゆる言動を事前に用意された解釈格子に当てはめて分かった気になる」のを、決して《分析》と見なさないということ。

「自己分析」といっても、分析対象である自己を個人化したうえで、個人化を前提にした解釈に興じるのではどうしようもない。必要なのは、分析が、特異的時間の生成として分節を生きることであり、そこでわかりやすい個人化を前提にしないこと。 ある状況に巻き込まれた自分を無視はしないが、個人化された自分を論じれば自己分析になるのではないし、直接「自分」を論じないからと言って、動詞的当事者-化が生きられないわけでもない*10

――そこまで踏まえた上で、「分析方針の開発は、回答を得ることに等しい」という斎藤氏の指摘には同意できる。過程を過程として、どういうスタイル(文体=オイコノミア=disposition)で生きるかが問われている。



*1:複数の学会につづけて参加したことで、見えてきたものがある。(たとえば、それぞれの学問言説の体質と、各業界のメンタルヘルスが深い関係にあるように見える。)

*2:メタモデル化」は、独特の意味を込められて『カオスモーズ』などに登場する。 それについての山森裕毅(id:impuissance)氏の質問に、パネリストだった松本潤一郎氏と江川隆男氏、司会の鈴木泉氏がそれぞれコメントした。

*3:本エントリの引用で、強調箇所は引用者による(ただし仏文のイタリック体だけは原文のまま)。 邦訳は、引用者が一部のみ改変した。

*4:名詞形で誰かを「当事者」と固定し、そこに権限を付与する『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』は、あくまで官僚言説の形をしている。いっぽうグァタリの議論では、分析生成(当事者化)のプロセスにこそ主権があるように見える。

*5:グァタリの提案を《作曲》と理解する発想は、江川隆男存在と差異―ドゥルーズの超越論的経験論』の「あとがき」を立ち読みしたときに得た。

*6:「モデル化の次元を変える」というのは、『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』の訳者による意訳です。 「次元」という単語が適切かどうか疑問も残りますが、俯瞰目線を固定するような「モデル化」とは、別の作業が問題となっていることは確かです。

*7:主体化のプロセスを主題化しながら論じるグァタリは、おのれ自身がつねに主体化のプロセスを演じて見せていることになる。この内在性を遺棄できないからこそ、つねに当事者的な、事後的な分析が必要になる。

*8:おのれの生きている(生きてしまった)事情の、内在的分節

*9:斎藤環氏の引用では、ここが「社会的」になっている(p.226)。 原文は sociologique だから「社会学的」。

*10:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.231、松嶋健氏の発言を参照