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[語句説明]

2012-11-27 「やりかた」の試行錯誤と、分析のプログラム このエントリーを含むブックマーク

あらためて、ツイッターでの議論をこちらに掲載します。

直前の大まかな流れは、 上山・酒井問答3に対するつぶやき(togetter) をご覧ください。


スコラ的区別というのは、「どうでもいいこだわりだ」という意味ですね(参照)。

これは決定的な齟齬ですが、単に個人的なすれ違い、ではないと思います。

酒井さんに悪意がないことは明らかであり、それが逆に、私にとっては深刻です。


「具体的な現象についての分析が提示されない」というのですが、私の体験の一部は、すでに4つのケースとして提示してあります参照。 これについて、では酒井さんの分析は、どのようなものでしょうか。


硬直したメタ語りの問題や「動詞を主題に」は、不登校体験以後の30年間から、私じしんが描きなおした論点です。もみくちゃになって、血を流しながらようやくたどり着いた分析であり、提案です。(単に分析ではなくて、同時にそこから提案もしているのがミソです。「ロジカルな真実を確認すれば許される」という形をしていないことに注意。)

ところが、自分の分析スタイルを検証しない専門性は、最初に設定された学問プログラムを実行するだけで「具体的な分析をやった」ことになり、こうした実務的な論点に気づくことができません。そのような学問は、「細かい分析」をやればやるほど、分析プログラムの抽象性に閉じてしまうのです。


私と酒井さんのすれ違いは、この一点に尽くされるのではないでしょうか。

少なくともこれは、事業の方針や前提をめぐる相違であり、

「結論」だけをあれこれ言い合っても、たんにすれ違って終わるように思います。*1



やり直しの必要と権利を読み取れない「分析」

私の論点がスコラ的に見えるのは、何よりも酒井さんの側に、それを論じる必要がないからだと思います。そして、酒井さんのようなお立場が支配的なら、私の提案はその前提となる証言のレベルから否定されます。(言説プログラムの閉鎖的抽象性ゆえに、提案の趣旨や必然性に気づけない。)*2


私からすれば、これはまったくトンチンカンなお返事なのですが、

そもそも、私がなぜこんな話をする必要に迫られているか、その必然性を認めておられないのでしょう。 議論の趣旨が見えないままに、ご自分の方針で分析をしている。

私の議論は――というより、症候に満ちた私の人生そのものは――、さまざまな場面でのこのすれ違いに捧げられていると言っても、さほど大袈裟ではないと存じます。(症候とは、「制御する側」である主観性そのものが、すでにオブジェクト・レベルを生きていることを言い換えたものです。最初に分析のプログラムを設定してそれ以外を認めないとなれば、この《症候》という概念設定そのものが許されないことになるでしょう。)


重要なのは、ここでは双方が、「誠意がない」という状態ではない、ということです。

  • 酒井さんは、分析の方針によって、原理的に私の趣旨が理解できない状態にある。
  • 私のほうは、「誠意を持てば」症候的逸脱がなくなり、意識的で一貫したプログラムのもとにすべてを制御できるようになる――というふうにはなっていない。それは倫理的にも、技法的にもやってはいけないことだと理解している。*3

酒井さんの分析(という動詞のスタイル)にとっては、私が言うような論点に理解を示すことは、思考の譲歩を意味してしまう。しかし、作業そのものの改編に迫られた私からすれば、既存ディシプリンへの適応こそが思考の譲歩なのです。


いま支配的な言説は、ひきこもる状況や事情を理解できない、それゆえ処方箋も打ち出せない、そういう知的スタイルをしています。 私はずっとその話をしているのですが、一旦ある知的スタイルに適応した人は、自分たちの知的事業を優先させてしまう。*4

支配的な発想法(「考えるとは、こういうことだ」)を告発する私の議論は、くりかえし「意味がない」「バカげている」と言われるでしょう。つまり、考察や作業の設計図そのものを変えようとしているのですが、多数派を占める言説の都合が優先され、ようやく形にできた目撃証言すら、なかったことにされる。ここには、努力のスタイルをめぐる闘争があります。(もちろんその主張すら、認められないでしょう。「闘争などない。お前がバカなだけだ」というわけです。すべてがこの調子です。)



「意味が分からない」と、「やり方がわからない」

優先されるべき事業趣旨は、「客観的な真理の確認」ではありません。

苦痛に満ちて反復される意識や関係性を組み替えること。あるいはその事業を、社会に根付かせることです。


塩谷賢氏の指摘が参照できます(2012年4月13日):

 (1)意味を理解する(know what)と、 (2)やり方を理解する(know how) について。

 私たちが、世界を一挙的に理解する省力化を欲するとき、それはほとんど(1)のイメージ。

講義録のせいもあって、日本語としてややおかしな表現ですが、敷衍するとこういうことだと思います:

    • 「私たちが世界を理解するには、ふつうは部分ごとに、少しずつ理解するしかない。しかし、世界のあらゆることを一挙に理解することで、労力を省きたい。そういうとき私たちは、つねに 《意味を理解する(know what) をやっている。そこでは、《やり方を理解する(know how) というモチーフは、いつの間にか忘却されている。」


私は「やり方がわからなくなっている」ので、最初から事業プログラムを決めてそれを押し付けられても、趣旨が違ってしまいます。作業過程そのもの、あるいはその「着手」のあり方そのもので悩み抜いているので。それを考えなければ、ひきこもりや意識の硬直に取り組んだことにはならない、と申し上げているのです。


現状では、知的言説そのものが、私のようなモチーフを黙殺します。

雇用とプライドを守るため、もあるでしょうが、多くの場合、「そういう論点があり得る」という必要の事情そのものを、理解できていません(今回の酒井さんがそうであるように)。



規範的説得と、身体症状

管理教育下での下痢をめぐる議論に対する反論ですね(参照)。 → 【追記】 これが誤解だったようで、下痢についてのコメントは別の箇所だったようです。本節下部の追記(右に寄せた部分)を参照。

しかしこれではまるで、管理を「規範的に」受け入れさえすれば、身体症状を解消できるかのようなお話です。*5


たしかに不登校運動の多くは、「管理社会の告発」という、規範的な形をとってきました。しかし、その告発した側のコミュニティも、集団マネジメントをやらなければなりません。 「告発」というイデオロギーを標榜しても、意識の硬直や、集団マネジメントについては、主題的な取り組みがなかったのです(多くの運動体コミュニティと同じく)。


酒井さんが私をこうした不登校運動と同じに見ておられるのであれば、それは誤解です。

私はまさに、「管理社会の告発」という80年代以来の論調とは、別の話を始めています。

イデオロギー的アリバイを標榜し、それで自己確認するような運動とは、別の議論をしたいのです。



【この部分のみ、エントリから数時間後の追記】■■■■■■

酒井氏の下痢についての言及は、上記の「管理」うんぬんではなく、以下の箇所だったとのことです(参照)。

ここで言われている「苛立ち」が下痢のことだとすると、

酒井氏は過敏性腸症候群の症状について、「分析の焦点を与えるもの」とされています。

最初のエントリ時に考えていたより、接点があり得るかもしれません。

本節の議論は、言及先についての誤解に基づいたものではありますが、結果的に

私の立場の大事なポイントを説明することになっていますので、ひとまずこのままにしておきます。




「概念の自己運動」と、労働過程の適宜の改編

詳細はあらためて(場所や形式を変えて)まとめなくてはなりませんが、大まかに言えば、

私が申し上げているのは、ヘーゲルに対してマルクスが行なったような反論です。つまり、学知の自動展開を放置するのではなく、素材そのものの展開に即しながら、それを実際に組み替えるような作業が必要なのです。


概念の自己運動(として固定された動詞技法)では、作業過程の方針は一貫して同じままですが、

素材レベルの労働過程では、プロセスの最中にも、こまごまとやり方を変えなければならないでしょう。


ここではヘーゲル的な細部こそが、「スコラ的なこだわり」です。それは最初に設定されたプログラムを踏襲するだけで、労働過程そのものの展開に即した再編をあつかう能力がない。なぜなら弁証法とは、「プロセスのスタイルを再編する」というモチーフを排除して成り立つ動詞技法だから。

そんなものを踏襲すれば、苦痛の証言も、それをめぐって為される工夫も、踏みにじるしかなくなるでしょう。

私は、素材レベルの労働過程の問題として、それに抵抗しています。*6


動詞が主題になるような環境づくりを目指して、作業を始めた議論です。


私の論点の出所となった個別の体験は、グロテスクな細部を持ちます。

それをそのまま語っても作業課題の析出になりませんので、みなさんと論点を共有するのは難しい。あるいは「差別された!」と言い続けても、その問題意識のフレームは、既存の差別論と同じです。――私は、既存の差別論そのものが、差別の再生産装置らしいことに気がついた。



批判の制作技法としての、《動詞に照準しましょう》

私の問題意識と提案は、差別問題の専門家である社会学者から差別的処遇を受けた(参照)、そのことへの取り組みでもあります。私は、いまだに謝罪すら受けていないその言動を一生忘れないでしょう。もう6年もたったのに、いまだに毎日のように怒りに支配されますが、ここ数年ようやく、「名詞形が問題なのだ」と気がついた。そしてこの件以外にも、「名詞形」というモチーフが当てはまることに思い至りました。

社会学や差別論の領域に、「相手を名詞形で扱ってはいけない」という規範が、機能していないのです。ですから、さんざん「反差別」を喧伝する人が、私を「ひきこもり」という名詞形に監禁し、陰で誹謗中傷する。自分のことは棚に上げて、「被差別民」だけに恥ずかしい話をさせる(参照)。


そしてそれを、知的言説のコミュニティは受け入れています。抽象的でもなんでもない、固有名詞のある話です。


この社会学者(異性愛男性)は、自称に従えば「女性の全権を代表している」そうですが(参照)、これは社会学では受け入れられる主張なんですか。

「女性」は、まさに名詞形の当事者枠であり、これは「労働者」「ひきこもり」等、さまざまな名詞に入れ替わります。反差別の議論は、この名詞枠をひたすら尊重するのですが、この名詞の枠組みそのものが、差別のフレームです。だからこそ、ひとたびその相手への批判が始まると、差別の再生産になる。


酒井さんは、左翼系の飲み会が往々にして、差別発言のオンパレードであることに気づいておられますか? 私はそういう水面下の話をしたいのです。表舞台で「反差別」かどうか、そんなものはまったく信用していません。

そもそも現状の差別論は、何が「批判」で何が「差別」か、その区別すらできていないのではありませんか。 だから批判を試みただけで、いつの間にか差別になる。私はそこで、原理的な話をしています(参照)。


差別と批判を見分けられないまま差別に抵抗しても、「原理のよく分からない言葉狩り」をやるのが関の山でしょう。それは、恣意的な恐怖政治にすぎません。また表舞台の「反差別の闘士」は、水面下では差別発言の依存症者であり得ます――私が目撃したように。



つながりの作法」の問題としての、《動詞/名詞》論

動詞と名詞をめぐる提案は、ひきこもる状態に特有の、硬直した意識や関係性をも視野に入れています。

意識や関係の技法論差別問題 とが連動するのは、私の立場からは事柄に即しての必然ですが(主観性と集団をめぐる「やりかた」の試行錯誤です)、


それがスコラ的とおっしゃるなら、ではどうやって、「批判」と「差別」を見分けるのでしょう。

あるいは意識や関係の硬直に、どうやって取り組むのか。

それを具体的にご説明いただいたほうが、生産的であるように思います。



*1:これも私の「具体的な分析」であり、問題点の析出です。

*2:私が雑誌『ビッグイシュー』で斎藤環氏に向けた批判と、完全に同じ趣旨の議論です(参照)。

*3:倫理の問題は、技法の問題に置き換えられるべきです。

*4:たとえば臨床心理学系の有力者の一部は、「ひきこもりは見捨てる」と発言したとのこと。 彼らは、人を楽にする学問に意義がある、と考えるのではなく、《学知は崇高だが、ひきこもる人はそれに適合しないから排除する》 と考えるらしい。 完全に転倒しています。(間接的に大意を伝え聞いて驚いたのですが、前後の状況から嘘とは思えないので、私なりに行動を起こしています。)

*5:下痢系の過敏性腸症候群については、日本の成人男性の一割が苦しむとされています(参照)。エントリ本文では反論を書きましたが、管理やマネジメントをミーティング的に考え直すことは、まさに臨床的な(つまり苦痛緩和的な、「やりかた」にかかわる)取り組みです。 これはラボルド病院系でもすでに話題に上がっていますし、「やり方を考え直したい」という私の趣旨にもかないます。

*6:ヘーゲル批判と言っても、「解釈の複数性・決定不能性」や「エクリチュールの断片」等とは、モチーフが違っているはずです。

2012-11-23 自分のやっていることへの距離 このエントリーを含むブックマーク

「べてるの家」の向谷地生良(むかいやち・いくよし)氏の講演会に参加。

「当事者」という言葉のまわりを参与観察に行った形でもあります。複数の気づきがありました。


講演後の質問コメントでは、檜垣立哉氏より

 「本人が自分のことを研究するというのは、本当にできるんだろうか」

 「研究対象との《距離》が重要なんじゃないか」

と、ほとんど講演の趣旨そのものを覆すような疑念も出されていました(大意)。*1


「当事者」という名詞形と、研究者の誠実さを担保するとされる「距離」。*2


私はむしろ、インタビューや参与観察の場にいながら、影響関係を実際に生きた事実を「なかったこと」にするような研究ディシプリンに怒っている。先行研究どおりの言葉の厳密さを保てば研究者のアリバイが担保できる、という発想そのものが、自分のアリバイのなさを忘れている。


つまりいわば、《生きてしまった状況の自己分析》を欠いている。

そこでは、論じている自分の研究言語とのあいだに《距離》がない。

これはアカデミックな研究者にも、そして、病者ご本人がなす「当事者研究」にも、ともに言える。


――こういうことを考える、ラボルド病院タイプの「制度分析 analyse institutionnelle」は、いわば支援者や研究者、そして「当事者さん」の誠意そのものに挑戦することになっていて、だから短期的にはどうしようもない。何かを指摘することが、そのつど紛争になってしまう。


焦らずにいこう。



*1:その後の複数の方々とのやりとりでも、同様のご意見が。

*2:たとえば、これは昨日出た話題ではないけれど、信仰に関するフィールドワークをやっていて、研究対象が研究者と同じ宗派に変わってしまった場合、「距離が取れていなかった」「影響を与えてしまった」として、非難の対象になるらしい(参照)。

2012-11-21 軽率な診断発言について このエントリーを含むブックマーク

ツイッター上での議論ですが、お返事があまりに長くなったことと、

広く知っていただきたい論点を含むことから、こちらに掲載します。

よろしくお願いします。



お返事ありがとうございます。

とはいえ、そもそも私の質問は、「おかしな断定はやめてくれませんか」 というものです。

ご自身の断定を無視し、逆に「上山さんはなぜ断定するのか」と言われても困ります。



論点は大きく二つです。

    • 【1】 議論の背景として、ラボルド病院やグァタリにつながる文脈を参照しながら*1、話が技法論の水準にまったく及んでいない。
    • 【2】 鑑別診断に人生を左右される人が膨大に出ている状況で、診断カテゴリを(どうやら比喩として)もてあそんでいること。

【1】と【2】 はふかく相関しますが、ここでは 【2】 を中心に説明させてください。*2



鑑別診断をめぐる、強い社会的緊張

今も社会問題として深刻さが懸念される「ひきこもり」周辺では、統合失調症や発達障碍、うつ病等の鑑別診断*3をめぐって、強い緊張が生じています。 グレーゾーンの疑わしい診断は、つねにある。 この緊張は、鑑別診断の結果によって、社会的処遇がまったく異なることによるものです。*4

病気や障碍と診断されれば、

  • (1)ご両親やご本人の心理的・社会的負担が軽くなる。 そして何より、
  • (2)社会保障の受給者になりやすい。


診断をめぐる緊張がこれほど高まっている状況で、

 大まかな言動を見ただけで 「アスペルガーの症状であろう」 と断定する

ことに、私は同意できません。*5

相手が本当にアスペルガー症候群という診断を受け得るなら、適切な社会的処遇をあらためて検討すべきです*6。 しかし、「性差を無きものにする」という主張を行なっただけの人を*7 「アスペルガー症候群」と診断してみせる――こんな発言に、言葉遊び以上の意味があるのですか。


状況に与える迷惑をまったく理解せず、「あの作家はスキゾだ」「アスペルガーだ」などと連呼することは、むしろそのような振る舞いじたいが発達障碍的(言説パターンの固着)です。 【この箇所について、ご批判を頂きました。本エントリ後半にある追記をご参照ください。】



比喩や連想としての診断名

言葉通りの鑑別診断とは別に、議論上の必要から診断カテゴリを参照するのであれば、

次のような配慮が必要なのではありませんか。

 「○○の言説には、アスペルガー症候群と診断された人たちの言説と、似た傾向が見られる」

と、たんなる比較であることを明記した上で、

    • (a)どのような意味において「似ている」と言えるのか
    • (b)なぜ似るという事態が生じているのか
    • (c)今後はどのように、言説環境の改善を図ればよいか

――これらを踏まえた上で、技法上の議論をすべきなのではありませんか。*8


鑑別診断をめぐって、これほど緊張の高まっている状況で、「あれはアスペルガーの症状であろう」などと言えば、額面どおりに受け取られて当然です。またその軽率さは、技法をめぐる言説環境をさらに悪化させるでしょう。

私は、こうした言説に重大な影響を受ける立場の一人でもあり、放置はできません。



診断――社会的処遇や技法をめぐる判断の必要から、行なうもの

発言者にそのつもりがなくとも、「診断」された相手は、おだやかではいられません。

診断業務を独占する医師に絶大な責任があるのは当然として、

誰であれ「診断名をあれこれ言う」のは、技法や処遇をめぐる緊張状態に参入することです。

その緊張を理解せず、「あいつはアスペルガーだ」などと連呼するのは、

「診断」という超越ポジションを気取っているだけでしょう。*9



相手を「診断する」振る舞いは、免責されません。

そもそも志紀島さんは、「要素現象」の話まで持ち出して(参照)、厳密な鑑別診断論をされています。

アスペルガーの断定のみ「診断ではない」とは、どういうことでしょうか。


「三島由紀夫はスキゾだ」等々とおっしゃるのも(参照)、

誰かが本気で反論を始めたら、「どうしてそういう曲解と断定をするのか」と言うおつもりですか。


あらためて引用しますが、あなたは今回、次のように発言されています。

「性差を無きものとしようとする」だけでアスペルガーと診断してもらえるなら、

私もそれっぽい主張を研究し、演技すれば、発達障碍の診断をゲットできるのでしょうか。

それは違うし、そんなことを目指すべきでもないとすれば、議論の設計図を変えるべきです。




今後に向けて

今回は志紀島啓氏の発言を取り上げさせていただきましたが、

同様の言説パターンは、多くのかたが踏襲しています。 「ポストモダン」にも限りません。


「時代は変わった。いまは○○病の時代だ」等の発言はあちこちで見ますが、

むしろ問題は、そのような《論じかた》が、昔とさっぱり変わらないことです。

印象論で時代を「診断」しても、メタ目線で悦に入ってるだけでしょう。


本当に必要なのは、論じる側の技法を組み替えることです。


診断名を口にしたがる超越ごっこは、たんに知的に不誠実というのみならず、

技法上の誤りを実演しています。

ご本人たちは、それが「技法上の誤りである」という認識すら持たないでしょう。

今度は私たち自身が、「別の技法」を探さなければ。*10





【この小節のみ、エントリから3時間ほど後の追記】

「むしろそのような振る舞いじたいが発達障碍的」 と書いたことについて、ご批判を頂きました(参照)。

ご意見、ありがとうございます。 実はこの箇所を残すかどうか、最後まで迷いました。

できればこの点について、いろんな方との議論を続けたいため、

今すぐに撤回するのではなく、若干の追記をして、保留とさせてください。


議論の前提として私は、次のような疑念を持っています。

 たんに思考の硬直であって、いくらでも改善の余地のある状態まで、

 《発達障碍》 と診断され、脳髄の問題とされている可能性はないのか。


問題意識の中核は、情報処理の平板化や、言説パターンの硬直的な反復です。

現状では、これは脳髄そのものが原因とされていますが、私はその専門家言説に疑念があります。

誰かを「発達障碍」と診断する医師や知識人を、言説の様式において問題視する必要を抱えているわけです。*11


つまり私の議論は、発達障碍という診断カテゴリそれ自体を問い直すことが前提です(参照)。

メタレベルにいるはずの「診断者」が、じつは診断対象と似た思考パターンを反復している――そのことを問題にしたい。


そこで、厳密な鑑別診断とは別に、

 専門家や学者たちじしんが、発達障碍的な思考に陥っている

という論点表現は、有益だと判断しました。

診断のメタ言説に縛り付けられ、硬直している状況全体(患者さんと専門家の両方を含む、私たちの集団的な状況ぜんたい)の改善に、メタ・レベル と オブジェクト・レベル のシャッフルが意味を持ち得ると考えるからです。


批判を下さった酒井さんがどういうご趣旨か、詳細はまだ分かりませんが(機会があれば伺えればと存じます)、私が現時点で自分の発言に抱き得る懸念は、

    • 結局それは、精神科の診断カテゴリを安易なレッテル貼りに使うという習慣を、補強してしまうのではないか

ということです。


同時代的で集団的な思想傾向を、「解離的」「発達障碍的」などと診断名で表現する議論スタイルは、医師や社会学者など、メタ的な視点を誇示する複数の論者に踏襲され、一定の議論ジャンルのようにもなってしまっています(参照)。 ひとまず私は、そのような議論をやめ、私たち自身の集団的な技法論に立ち戻りたい。


これは実は、今回冒頭で言及しつつも扱えなかった 【1】 の点、つまりフェリックス・グァタリらの議論に関わります。活動上の技法を提案するのに、わざわざ 《schizo-》 という言葉を持ち出す必要があったのかどうか。――詳細は今回は無理ですが、グァタリらの文脈では、「スキゾ」は同時代的な思想状況を漠然と論評したのではなくて、焦点は技法上の提案努力だったわけです。 つまりそれは、現在「発達障碍的」「解離的」等々と論評される状況に対する、具体的な処方箋の話だった。技法の内実を論じるのに、《スキゾ》という概念を説明的に持ち出した。

ある言説傾向を「発達障碍的」と形容するべきではない、という議論は、積極的な提案について言われた「スキゾ」についても、否定的に流れざるを得ないと思いますが、私はここについて、もう少し考えてみたいのです。


また、私じしんは診断としては神経症圏のはずですが、今回「発達障碍的」と申し上げたような、硬直した思考傾向に苦しんできました(参照)。 これは私の引きこもり論の、ひとつの中核を成しています*12。 つまり、社会生活の中で成立する自分のことを話題にするにも、診断学から出現した「発達障碍」という枠組みは、利用価値が残されているように思います。――これは、あくまで私たちの《集団的なやり方》を考え直そうとする努力です。


以上を追記し、ぜひ皆さんのご意見を伺いたいです。

【エントリ後の追記はここまで】



*1:『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』など

*2:【1】 の詳細については、私自身があらためて仕事を作らなければならないと存じます。

*3:鑑別診断とは、「この人は病気なのかそうでないのか、病気だとして、似た病名のうちでどれなのか」 を、言い当てる仕事です。 治療指針や裁判結果まで左右する公的な判断であり、たいへん大きな社会的責任が伴います。 医療実務では法律上、医師にしか許されていません(独占業務)。

*4:担当する不登校児童の全員を「発達障碍」と診断した精神科医を伝え聞いていますが、これは政治的意図をもった確信犯と言えるかもしれません。

*5:志紀島啓氏と懇意にされている皆さんにとって、今回の発言は自明なのでしょうか。

*6:相手を批判するにしても、診断上の結果を考慮すべきでしょう。 「発達障碍なら批判してはいけない」ということではなくて(これ重要)、言説をめぐる状況や責任・関係性等について、配慮のあり方が変わってきます。

*7:ここでは、「ある公的な主張を取り上げ、それを精神科のカテゴリで診断してみせた」という振る舞いが問題なので、「性差を無きものにする」と言われた主張内容そのものや、そこで取り上げられたフェミニズムの文脈については、何の判断もしていません。

*8:そこには、発達障害論そのものへの疑念も含まれます。文化的・社会的に、あるいは技法のレベルで生じているものを、器質因と見誤っていないかどうか。

*9:香山リカが原発推進を「病気だ」と言ったのと、何が違うのでしょうか(参照)。

*10:私が本ブログほかで、「名詞形をもとに議論するのではなく、動詞のあり方を問題にしましょう」としつこく繰り返しているのは、そういう趣旨のお話です(参照)。

*11:これは逆にいうと、発達障碍とされる人たちへのある種の《批判》が、臨床像の改善に意味を持ち得るという仮説にもつながります。思想の硬直が問題なら、それを解きほぐす作業ができれば、「脳髄」など問題にしなくてもよいはずです。

*12:斎藤環氏ならば、「自由の障碍」と呼んでいたような状態です。 THE BIG ISSUE JAPAN 45号を参照。

2012-11-16 分析的な 《つながり方》 を設計するために このエントリーを含むブックマーク

以下の酒井泰斗氏のご指摘は、さまざまな関係者にも読んでいただきたく、まとめてみました。

直接には私へのレスポンスですが、「これにどうお答えするか」というのは、

技法のもんだいとして、時間をかけて議論したいです。


分析にあたっては、継続的な修正のできるやり方が必要(酒井〔contractio〕氏)

以下、現時点で答えられることにお返事してみます。



《当事者》枠とディシプリン

「A と B はどう関係しているのでしょうか」というご質問でした。*1


問題の焦点は、次のような語りや、関係処理の発想法です。

 学者や医師、そして支援対象者等が、具体的な関係実態について

 免責される権利があるかのように語る


この場合、そのような現場や言説は、おのれや対象を 《名詞形》 で語り、

論じる行為そのものについては

  • (1)ディシプリンにおいて、 あるいは
  • (2)語りのポジションにおいて、

免責されることが前提であるかのように語るのです。


具体的な状況を描写したほうが良いと思うので、いくつか挙げてみます。


【ケース1】

  • 職場で、40歳の男性上司と、25歳の女性部下がいたとします。この上司が部下にひどい言動をとった場合、上司側が加害者として制裁を受けるでしょう。
  • ところが支援現場で、「40歳の男性当事者が、25歳の女性スタッフにひどいことをした」場合、どうなるか。この女性スタッフは往々にして「我慢しなさい」と先輩から叱責され、40歳男性は「当事者さん」ゆえに制裁を受けないのです。(むしろ女性側が加害者にされることすらある)*2
  • ここでは、名詞形の枠組みである《当事者》が、問答無用の保護の対象となり、過剰かつ不当な免責がなされています。状況によって、保護の対象となる《当事者》枠は、さまざまです。たとえば「女性」そのものも、場面によっては絶対的保護の枠組みとして、不当に免責され得るでしょうが、それは実質的には差別です。(対等な責任能力がないとされている)
  • 必要なのは、どちらか片方を過剰に免責することではなく、状況そのものにどんな前提が機能していたかを検証し、改善することでしょう。そして関係性については、具体的にそのつど、検証する必要があります。(肩書きは「アリバイ」ではなく、関係上の要因のひとつです)

【ケース2】

  • ひきこもり問題で「当事者」を自称する 学者A が、参与観察を行なった。ここで 学者A は、自分がコミュニティで受け入れてもらいたいときには「私は当事者です」と名乗り、言説で優位に立ちたいときには「私は学者ですから」「あなたは当事者に過ぎないでしょ」と威圧した。
  • 学者A はコミュニティでトラブルになったが、学問研究を口実に免責を自明視した上に、「当事者」という理由でも、免責を自明視した。そうした規範的判断を、周囲の関係者も支持しがちだった。
  • つまり 学者A は、「学者ポジション」「当事者ポジション」 を都合よく使い分け、いかなる場面でも責任を取ろうとしない。しかし本当は、学者ポジションを通じての関係構築がどうであったのか、あるいはまた、「当事者」を名乗ることで関係実態がどう変化したのか――それをこそ社会学者は報告し、論じるべきではないのか。
  • 「当事者は免責され、学者はディシプリンで免責される」という現状では、参与観察の実態は隠蔽され、分析の対象にならない。 ここで、ひきこもり問題における重大かつ核心的な研究論点が抑圧される。つまり、親密圏の実態や作法を、研究上のモチーフにすることができない。

【ケース3】

  • 社会学者・貴戸理恵氏が不登校経験者にインタビュー*3を行い、研究成果を書籍化した際、支援団体「東京シューレ」とのあいだに生じた事案参照。 この紛争においては、貴戸氏側も団体側も「当事者の声」に依拠した。つまり「当事者」は、権威性の枠組みとして機能した。
  • 貴戸氏は著書『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』で、不登校経験者を列記して紹介する中で、ご自分自身を「Nさん」として登場させ、あたかも聞き取りを行なった対象者であるかのように論じた参照。 これは論文作法からの明らかな逸脱に見えるが、アカデミック・サークルからは免責されている。 ご本人も、その後この問題を扱っていない。

【ケース4】

  • (a)精神病圏の患者さん向けの通所施設で、スタッフ(研修者)をやったときのこと。私は患者さんとの関係にできる限り線引きをせず、横目線の関係を築こうとして、失敗していた。そこでスタッフ・ミーティングで、「やっぱり、神経症圏と同じというわけにはいきませんね」と発言したところ、先輩にあたるワーカーさんに「それが差別なんだ!」と、激しく叱責された。
  • (b)ところが後日、私が 「これだけ立派な施設ですから、インフラがなくて困っている神経症圏の患者さんにも、利用してもらえないでしょうか」 と質問したところ、「ここは精神病圏の患者さんだけ」 と、線引きを自明視された。
    • 「線引きしてはならない」という(a)の要請と、線引きを絶対視する(b)は矛盾しているが、スタッフの間では、これは矛盾とは考えられていなかった。 つまり「当事者枠を別格扱いにしている」という実態は、必ずしも関係者には自覚されていない。


これは、私が差別問題で指摘した

というモチーフに、そのまま重なります。

つまり支援や研究は、多くの場合その実務じしんが差別の再生産になっている。

これを何とか、(差別問題について提案したように)動詞レベルの試行錯誤に、変えてゆけないだろうか。


――以上がひとまず、【酒井さんのおっしゃった】「それが生じる状況-に参加している人たちが-何をどのようにしたか-についての分析」 と、それに対する、私なりの提案に相当します。


支援や調査の関係性は、「医師」「学者」「利用者さん」と、肩書きが極端に区切られています。医師はつねに《治す側》であり、患者は《治される側》。 学者は観察「する」側、あいては観察「される」側。

このような発想法は、現場を仕切るのに効率的だからこそ維持もされているのですが、弊害にもなっているのです。


たとえば患者さんは、協力のあり方によっては、医師を含む状況全体の改善者として現れてこないでしょうか。あるいは「観察される側」は、同時に観察者を「観察する側」でもあります。

医師や学者も、それぞれのポジションで板ばさみになり、葛藤を抱えていますから、それについても一緒に、研究することはできないでしょうか(それはいつの間にか、協働的な参加になっているでしょう)*4。 どのような形であれ、肩書きよる特権的な免責や、その逆の過剰責任は、不当だと思うのですね。



《厳密さ》の方針

失礼しました。

ここではひとまず、《その場で目指されている丁寧さの方向》 というぐらいで、

「酒井さんの場合にだって、そういうものが設定されているはず」

「それはきっと、私とは違っているでしょう」 という話を、したかったのでした。


《理論》 という単語もそうですが、正当化や厳密化の努力があったときに、その方針は、いつの間にか自明視されているけれども、つねに括弧に入れなおして、問い直す必要があると思うのですね。(その方針そのものが共犯者になっている、というのが、私の執拗なモチーフです。)


ですので、

これはまったくその通りであると同時に、

私は 《分析対象の事情や分析の目的など》 に応じたやり直しの現状に、

不満を抱いていることになります。


フッサールのいう 超越論的還元 が、私の言うような 《努力の方針》 についてまで論じていたかは存じません。 私は 《動詞の実態》 についても、その設計図や前提部分について、問い直したいのです。(フッサールの還元は、それ自体が「動詞の提案」だったと思います。私ならそう理解します。)



「自分たちを分析する」という危険なこと

なるほど。

はい。

これは素晴らしいご指摘で、言われてみれば当たり前なのですが、

私はそうしたことについて、うまく自覚できていなかったように思います。

臨床系の皆さんとも、ぜひこの論点を共有したいです。



ひとまず、以上です。

いただいたご指摘に感謝申し上げます。>酒井さん



*1:酒井さんのご希望により(参照)、冒頭最初の発言を、修正されたものに差し替えました。もとの発言はこちら。 カッコ内に 「-についての分析」 が追加されただけで、発言趣旨は変わっていません。

*2:ここでは仮定の話をしていますが、現実にそういう関係処理はつねに為されています。

*3【追記】: エントリ時に「参与観察」と書いていたのですが、『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』の調査は「インタビュー」であると繰り返し書かれているので(p.101〜など)、それに倣います。

*4:患者サイドが特権的にチヤホヤされることがなくなれば、患者ポジションから出された言説が、不当に枠付けされることもなくなるはずです。この《当事者》問題をうまく扱えるディシプリンを、いまだアカデミックな言説は開発していないように見えます。

2012-11-15 「主体化できない」という、欲望臨床の問題 このエントリーを含むブックマーク

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』については、

「精神分析のブルジョア性を批判する」みたいな論評もあるけど、

むしろそういう趣旨も含めて、欲望臨床それ自体の提案であり、

タグを付けるなら やってみた だと思う。*1


つまり、主体化がうまく行かない場所で、あるスタイルを提案しながら

実際にそれを「やってみた」ということであり、背景的なメインテーマは、

私たちが生きざるを得ない主体化の困難


あくまで欲望臨床が先であって、資本主義批判のイデオロギーが先にあるのではない。

イデオロギー的な「アリバイ」を確保してから読むんでは、意味はまったくないと思う。*2


マルクスの『資本論 (1) (国民文庫 (25))』にしたって、資本主義批判のイデオロギーを前提に読んで、意味があるだろうか。あれは「分析を徹底させる」ことでマルクスが欲望を生きてみせた――そこに醍醐味があるんでは。


だから分析の方針(欲望の指針)を別に立ててディシプリン化するなら、

ああした本にはまったく意味がない。


商品の不思議さにこだわり、それを価値と使用価値に分け、《価値の形態》にこだわるなんて、主体化のスタイルを決めた人たち(そういう状態であると気づいてもいない人たち)に、意味があるだろうか。

彼らはすでに、自分の意識と存在をどうするか、問題意識のスタイルをどうするか、問わない*3そこに集団的な弊害があっても、加担者であり続ける。そこで自分を主体化し、社会化し続ける。


しかし破綻した人は、

  • 自分の作業をどう始めるのか
  • 集団的なあつれきの中で、自分はいかに社会化されるのか

―― やり直さざるを得ない。(それがすでに、欲望を生きることになっている)*4


あれこれの有名な本は、「他人が欲望を生きた」痕跡だから、

言葉づかいを真似ても、自分の欲望を生きることにはならない。

自分のいる場所で、素材化をやり直すしかない。



*1【追記】: とはいえこれは、自分が実験体になっての素材提供であり、生活レベルの試行錯誤にあたる(いわば舞台裏を組み直せるかどうか、という話)。 自意識フレームでの「コスプレ」や「目立ちたい」とは、真逆の試み。むしろ《やってみた》という言葉に、強硬な自意識とは別の趣旨を与えたい。 「やってみた」が、承認かせぎやナルシシズムの共有でしかないなら、チャレンジはすべて、自意識に回収されてしまう。試行錯誤のすべてが、「舞台の上の自意識」のかたちをしている(努力方針のルーチン化)。 協働性それ自身が、自意識の再生産を前提にしている。 最初のエントリ後、本文じたいに書き換えや追加を行ないました。】

*2:なぜならそうしたイデオロギーも、欲望の素材的生成を監禁するものでしかないから。「オイディプス批判」は、それ自体がイデオロギー化すれば、また監禁の枠組みになる。

*3つながりの作法 で問うているのは、この話だ。

*4:あらかじめイデオロギーを立ててしまったら、もうそれ自体が《主体化の方針》だから、原理的なことは何も問われなくなる。左翼コミュニティの問題は、ここにある。

2012-11-14 思考が、身体的な動機づけをもつこと このエントリーを含むブックマーク

本エントリは、twitter 上でのやり取りについて、あまりに長くなったお返事をまとめたものです。

直前の大まかな文脈についてはこちらを、さらに詳細なリンク先等はこちらを、ご覧ください。*1


「理論」という言葉は、どういう意味で使われているか?(togetter)

ご指摘ありがとうございます。

「理論という言葉の前提が問題だ」というお返事を書いていたら、酒井さんも

「そもそも理論ってなんだ」 という話をされていたみたいです。


ひとまず私が「理論」という言葉で意味していたのは、

《正しさを主張し、説明する方針や枠組み》 ぐらいのことだったと思います。*2


私の「理論」という言葉の使い方がよく分からないというご指摘は、私にとっても有益でした。つまり私は、誰であれその人が依拠する「理論」(と私が名指したくなるもの)に、すごく苛立っています。*3

「そういう方向で正当化されても、必要なことを論じたことにならない!」 「そういう考察方針を選んだこと自体が、事象への裏切りになっている!」 というような。

相手が「○○理論」と名乗っていなくても、思考努力の方針そのものに苛立っているのですね。


結論以前に、《正当化の方針》そのものが焦点です(結果的な立場以前に、そこに問題があることに気づいた)。 「そういう方向で努力するということは、こういうことが前提になっている」――その前提部分に、とても苛立っています。*4


たとえば精神科臨床であれば、 「これは根拠に基づいた医療で、科学的な主張だから、反論の余地はない」 と言われても、

そもそも対人支援系の議論を、《病名カテゴリに落とし込めばOK》と思い込んでいる前提が、知的環境の全体をゆがめてしまっている。*5

そうすると、「どの病名に決めるかを迷っている」という思考方針は、結論部分で間違う前に、「病名を決めればいい」と思い込んでいる時点で、もうおかしいわけですね。――そういうことが、いろんなジャンルでいえると思うのです。


どんな人でも、結論に迷いはあっても、《考察のスタイル》は決まっています。「こういう方針で、正しさを求めるしかないよね」と。アジェンダ・セッティングの前に、アジェンダを探そうとするときの《努力の設計図》が、いろんな前提を含んでいる。

私はそこで、精神医学や心理学にも納得できないし、かといって、日本で80年代以降に量産された「20世紀フランス思想」の語りにも、満足できません。――というわけで、自分でモチーフそのものから、説明しなおさないといけなくなっています。



「孤立」のなかみ

大きく3つ、スタンスを分ける意味があると思います。

  • (1)正当化の方針を疑い、それを変える努力としての20世紀フランス思想*6
  • (2)それに疑念をもち、何でもかんでも「政治化する」とか言い出すことを認めない酒井さんのお立場
  • (3)(1)の主流派とは違うかたちで、正当化の方針を変えるモチーフを必要とする上山

酒井さんから見ると、私は(1)だと思うのですが、私自身が(1)の文脈に強く苛立っているので、

「(1)の立場を代表して、この数十年間の弁護をしてください」と言われると、困ります。


とはいえ私は、酒井さんのスタイルとも違っているはずなので、(3)について、説明する必要は残ります。――酒井さんに対してだけでなく、「何をこだわってんの…?」といろんな人に問われますし、私も「孤立してまで固執することに、必然性はあるのか?」を、確認せざるを得ません。


これがそのまま、次のご質問にかかわります。


私が孤立したモチーフを必要とするのは、「選んだ」という以前に、「そういう必要が湧いてしまう」というようなことです。たんに一人になりたい、ということでもなくて。できれば一緒に考えたいのに。

「必要なことを考えると、いつの間にか独りになってしまう」という状態ですが、それが被害妄想的な自意識なのか、それとも積極的な意義のある孤立(オリジナリティ)なのか。 ラボルド病院を参照したりしながら、説明しなおす必要を抱えています。


不登校・ひきこもり系の皆さんは、「自分だけがおかしい」と思い込みがちです。ところが実は、「自分だけおかしい(個性がある)」という意識そのものが、あまりに凡庸です。(孤独だと感じる人たちは、実はお互いにひどく似通っている。)

ですから、たんに孤立を嘆くだけなら、主張としては取り上げるに値しません。

たんに「さびしい」と言ってるだけなので、やんわり放置しておけばいいでしょう。


そこで私は、たんに孤立を嘆くのではなくて、

  • (a)孤立してまで、どういう趣旨を守ろうとしているのか
  • (b)その実質的な中身は、協働で取り上げる意味があることなのか

これについて皆さんを説得し、正当化しなければなりません。


私が、たんに自分を改善すればよいのか。 それとも、

ほんらい尊重すべきものを、周囲や社会が受け入れていないのか。



一次的な逸脱と、二次的な逸脱

ここで試みに、

  • (1)「社会参加がうまくいかない」という、戸惑うだけの一次的な逸脱 と、
  • (2)それに対処しようとする局面で生じている、二次的な逸脱

を分けて考えると、

    • (1)だけなら、「ケアして囲い込んであげればいい」という話になります。ここでは、包摂してあげれば良いだけなので、ケアする側の方法論は、さほど問われません。
    • しかし、(2)が主眼になっているなら、今度はケアする側としても、自分の方法論を問われていることに、気づいてもらわなければなりません。ここに、一次的な逸脱とはやや別の軋轢が生じます。


私の力点は(2)に移っているのですが、これは(1)で体験する一次的な、受身的な逸脱と、切り離すことができません。


多くのかたは、(1)の受身的逸脱を体験したあと、支援イデオロギーを受け入れます。これなら、(1)の逸脱はあっても、それをきっかけに、(2)の局面では集団的所属を得ることになります。

つまり、(1)の逸脱を全面的に包摂するアプローチに囲まれ、本人もそれを(2)として共有することで、孤立を回避できるようになったわけです。――ところが私は、(2)についてまで、孤立を感じています。*7


前にご一緒した「笑い」のモチーフもそうですが(参照)、私は酒井さんとは逆に、「周囲といっしょにいる感じを持つ」 あり方が、本当に分かりません。

ムリに同調しようとしても、自意識的な演技とか、「本当は必要としている問題意識を抑圧して、ムリに作り笑いする」とか、そういう苦しい状態が始まってしまう。


そこで、やや唐突な印象になると思いますが、

私としては、つなげて理解するしかないお話をさせてください。



《身体的に生じてしまう思考》というモチーフ

「自分としては周囲に合流したいのに、なぜかうまく行かない」という私の体験は、モチーフとしては、

中学時代に下痢やめまいが始まり、学校に行けなくなったことに、重なります。

 俺はこんな激しい症状が出てるのに、なんでみんなは、当たり前に座ってられるんだ…?

ぎゃくに周囲の同級生は、「こいつは学校に来てるだけで、なんでこんなに大騒ぎしてるんだ…?」と、不思議だったと思います。 医者に行っても、「過敏性腸症候群」とか、名前はつくけど何にもならない。そもそも病気役割ではないし、仮病を疑われもします。

「過敏性腸症候群(IBS)」はいまや珍しくないですし、そもそも下痢症状をほかの皆さんと「共有」したって、意味がありませんよね。……ギャグみたいに聞こえてしまうと思うのですが、たぶんこの辺に、決定的な点があると思います。


私の場合、考察そのものが、下痢の症状みたいに周囲と別の回路で生じてしまって、それを我慢しても、あるいはそのまま口にしても、その場にいられない。そして、《そういうタイプの思考》の必要は、どうやら感じているのは、身近では自分だけらしい――というような。*8


私は今、自分にとって不可避の思考を《身体の症状》として語ったのですが、たんに下痢症状であれば、止めるべきでしょう(薬も売られています)。 ぐっと息をつめて、訓練とかして。

しかし私は、この《身体症状のような思考》に、別の位置づけや活用がないものか、ずっと考えている形になります。(身体反応をたんに否定するのではなく、かといって、たんに垂れ流すのでもなく、積極的に生きられないか。)*9


これこそが、酒井さんのお考えになる《厳密な思考》と、ちがう路線ではないでしょうか。ロジカルな厳密さを探すだけなら、身体症状はお役御免というか、最初から「ないほうがいいだけのもの」です。


私が経験する逸脱は、《身体症状のような思考》を尊重せざるを得ない状態に、私を追い込んでいきました。*10 たんに理性的に自己管理すれば順応できたはずなら、私は身体症状に苦しんでいないのです。

あるいは逸脱したあとにも、たんに包摂的なイデオロギーに馴染めれば、私は「不登校経験者」として、あるいは「ひきこもり当事者」として、先行世代の用意したコミュニティで、やっていけたかもしれません。


もういちど整理すると、私は

  • (1)何が起こっているのかわからないまま、ひたすら怖く、おびえることしかできない逸脱

にいるのではなくて、

  • (2)生じていることの内実はよく分からないが、自分に課せられた《身体的な思考の必要》を、方法の拠点としてむしろ積極的に選び取り、それを彫琢しようとしているのだが、

そこで周囲のスタンスと相容れず、孤立する形になっている。


つまり、

  • (1)たんに受動的な逸脱 と、
  • (2)受動的なものが発端でも、方法的に選び取られたあとの努力で生じる逸脱

について、分ける必要があるのだと思います。



*1:11月13日付の私のツイートはこちらこのリンク先は、下から上に向かって読みます)

*2:最近の私はそれを、マルクスの「生産様式」という概念に重ねて理解するようになりました。とはいえ、そういう説明の中身じたいが今後の課題です。

*3:わざわざ「○○理論に基づけば」とか言わなくても、私たちの思考は、いつの間にか「理論みたいなもの」に、依拠していると思います。

*4:そこをうまく説明すれば、私の苛立ちや提案も、もう少し伝わる話になるかもしれません。今のところ、「メタに居直るような話をするな」とか、その程度の言葉づかいしかしかできていません。これは、調査倫理をめぐる焦点でもあります(参照)。 「理論をやってるんだ」は、そんなに万能の言い訳でしょうか。

*5:そういうモチーフは、多くの方と共有しています。(精神科医もふくめ)

*6:リオタール『ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))』では、《正当化のあり方》が、大きなテーマでした。

*7:私が「名詞形の当事者論をやめましょう」と提案しているのは、そういう文脈の話になります(参照)。

*8:下痢症状のように不可避の思考は、ひきこもり系コミュニティに限らず、どこでも歓迎されないと感じています。

*9:ふつうは、プライベートな病気と位置づけられて終わりです。

*10:そこで体験してしまう思考が、ラボルド病院で語られている 《制度分析 analyse institutionnelle》 や、のちにグァタリが語った schizo-analyse というスタイルの提案に、重なっているのではないか。それは80年代〜に浅田彰氏ほかがしていたのと、まったくちがう話です(参照――私の焦点は、このあたりです。

2012-11-04 この本には、異常な地方が描かれているのではない。 このエントリーを含むブックマーク

むしろ、私たちの日常が曝露されている。

あのとき、大川小学校で何が起きたのか

あのとき、大川小学校で何が起きたのか


行きなれた目の前の山に逃げれば、*1

亡くなった子どもたち74人が全員助かっていたのに、

地震発生から50分間も校庭に待機させた。

「山に逃げよう」と声をあげた子どもたちもいたのに、

わざわざ連れ戻してまで校庭にいさせた。

その事実を市長や教育関係者が徹底的に揉み消し、

時間のつじつまをごまかし、聞き取りのメモを捨て、

「頑張って逃げようとしていたが、間に合わなかった」 ことにした。



制度の前提がおかしい

 「学校管理下で死亡事故が起きた場合の対応として、報告しなければならないという法律の根拠がないのです」(文部科学省の「スポーツ・青少年局〈学校教育健康課〉」課長補佐、本書 p.146 より)


実際にあったことは徹底的に検証すべきだし、それに応じた責任追及が必要だと思う。

と同時に、考えなければいけないのは、

    • 「人は失敗するし、失敗しても、責任を取ろうとはしない」

ということ。 制度は、「理想的人間像」を前提にはできない。*2

むかつくエピソードを読みながら、ずっとそれを考えていた。



登場人物は、「極端な人たち」ではない

加藤順子(かとう・よりこ)氏の記すエピローグから(強調は引用者)

 何とかしたく思っていても、組織の理屈がなんとなく優先されてしまうために、自分のできる狭い範囲だけで片づけようとする。役割を根底から考え直し、変えていかなければならないときにすら、いままでの状態を維持しようとしてしまう。そんな普段の感覚を、これだけの規模の事故の対応においても変えられなかったことが、なんとも気持ちが悪い。

 でもそれは、どんな人の中にもある感覚かもしれない。

 私自身は、市教委の対応を批判的に語るたびに、ニーチェの「汝が深淵を除きこむとき、深淵もまた汝を覗き返している」*3という言葉が気になって仕方がなかった。 〔・・・・〕

 大川小の問題は決して人ごとではなく、自分の内面や、自分が生きる世の中の構造が置き去りにしてきた問題の部分を、同時に覗き込むような作業でもある気がする。 (本書 p.314)


この加藤氏のコメントには、内省的な問題意識がある。


本書に登場する「おっさんたち」は、そのへんに居るようなタイプばかりだ。


これは、

 《責任を果たすとは、ルーチンをこなすことだ》 と考える大人たちが、

 レールを踏み外すことを極端に怖がり、子どもを何十人も死なせてしまった上に、

 「自分たちのやり方に問題があった」という事実すら、認めようとしない

―― そういう事件ではないのだろうか。



日常と非日常

1995年の阪神・淡路大震災では、次のような証言があちこちで聞かれた。

 日ごろ何もしないで、ひきこもっていたような人たちが、活き活きと炊き出しや人助けを行い、

 逆に勤め人だったお父さんたちは、避難所でぐったりしていた

《日常》 を生きていた常識人がつぶれてしまい、

「非常識な」人たちが、当たり前に動いていた。


本書では逆に、

 非日常の状況下で、日常的な配慮が人を殺した

ように見える。*4



あなたの日常は?

難しい思想の研究者は、どうしてこういう 《ふつうの問題》 を、扱ってくださらないのだろう。

その知的風土じたいが、《問題》 の一部じゃないか。


私たちが「しょうがない」と言って過ごす日常と、

海の向こうのバカげた行為は、そんなに違うか?


私たちは、この本に描かれたような環境に、その加担者として生きている。

問われているのは、《順応すること》、それ自体だ。

この本は、就労や人のつながりをめぐる支援事業の、一環といえる。*5



関連動画

動画サイト『YouTube』に、2011年5月31日に投稿されたニュース番組。

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子どもたちが目指したという橋の高台が津波に飲まれる場面には、「地震発生から56分が経過した、午後3時42分」というナレーションがある。大川小の校舎の時計は3時37分で止まっているから、校舎を飲み込んで5分後の映像だ【エントリ当日、訂正の追記】 「5分後」などと素朴に計算してしまったのですが、GoogleMap で位置関係を確認すると*6、津波の速さから言って、とても5分もかかるような距離ではないですね。おそらく、撮影者のビデオ機材の時計が進んでいたのでしょう。


動画の11分ごろからは、本書にも登場する只野英昭氏

(大川小に通う娘を含め、家族3人を亡くした) が、次のようにコメント:

 大丈夫だよなあ、と。時間もけっこうあったもんだから。まさかこれだけの地震で、津波こないと思わないだろうから、とっくに避難してるもんだと思ってたんです。で聞いたら、ぜんぜん避難してなくて、「のまれた」って話だから。「何してたんだそれまで学校で」って。 〔・・・〕 あれだけの地震だったんですから、まぁ・・・・すぐ裏に山あるんだから、山に登ってほしかったですね。

この疑念は、今回取り上げた本の趣旨と重なっている。



D

3分5秒〜 「けっきょく、裏山は、木が倒れていたことなどから、高台に向かうことになった」・・・・このナレーションの依拠した証言が嘘であったことが、本書で明らかにされている*7。 【追記】: つまり、2011年5月31日にUPされたこの動画では、「山には倒木があった、だから山には向かわなかった」という話になっているのですが、今回取り上げた書籍が明かしているその後の聞き取り調査では、「山には倒木なんか、一本もなかった」ことが明らかになっています。





元になった連載:「大津波の惨事「大川小学校」〜揺らぐ“真実”(ダイヤモンドONLINE)

書籍には、詳細な証言記録、それに基づく当日の再現、情報・考察のディテール等が追加されている。

大まかなまとめ記事としては、第15回(2012年10月30日)の

明らかになった真実、隠され続ける真相とは

 何事もない日々であればさほど問題ではありませんが、今回のような事態では大問題です。あの日、「責任とれるのか」といういつもの判断基準が、(教諭たちの間で)どうしても頭から離れなかったのです。あの日の判断の遅れには、2年間で蔓延した極端な「事なかれ主義」が大きく影響しています。 〔・・・・〕

 誰が主導権を握るか、というパワーバランスも無関係ではなかったと思われます。子どもの「山へ逃げよう」という声を取り上げなかったことでも分かります。 【2012年10月28日、7回目の保護者説明会で遺族側】

 文科省の試案では、<事故当日とそれ以前の状況・対応について> は検証の範囲とするが、事後対応については、検証に含めないとしている。



【参照】 amazon以外で、ネット購入できるところ



【11月6日17時頃の追記】「事なかれ主義」で判断遅れ=大川小遺族が検証(時事ドットコム)

 資料は、地震発生から津波到達までの出来事を時系列で示し、同小だけが避難の遅れで甚大な被害が出た原因を考察した。学校側は津波の危険を把握していたのに「何かあったら責任問題になる」との考えに縛られ、防災マニュアルにない裏山への避難に踏み切れなかったと分析。「判断の遅れには、極端な『事なかれ主義』が影響した」と指弾した。 (2012/10/28-20:24)

    • 今回取り上げた本に出てくるのですが、裏山は子どもたちにとって、シイタケの栽培もしている慣れた場所で、むしろ教員が山に向かわなかったことに、異様なバイアスを感じるのです。
    • そしてにもかかわらず、私も同じことをやってしまうかもしれません。記事タイトルにも示したとおり、今回の判断ミスは、「誰にでも起き得るのではないか」という怖さがあります。(どんなに周到に準備しても、盲点は残ります。それをイザというとき、どう処理するか。これはどんなに頑張っても、残る問いです。)
    • 責任をめぐる環境が、社会的に設計されていないかも知れない。だからこそ、いちど失敗すれば、取り返しがつかない。だからこそ、すべて隠蔽されてゆく―― そういう要因が、ないかどうか。



*1【2013年1月3日の追記】 山は子どもたちにとって、「いつもの場所」でした。 山に逃げることがむしろ自然な選択だったことを示すよう、修正しました。

*2:これほど極端な事例がろくに検証されないなら、日常的な問題提起など、揉み消されるに決まっている。

*3《怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ》(参照

*4:親御さんたちが言うとおり、「先生がいないほうが、助かった」。

*5:本書を執筆されたお二人とは、昨年11月、ひきこもり関連のイベントでご一緒している(参照)。

*6
大きな地図で見る 右側に大川小、左側に橋の高台。

*7【念のため、追記】 「この証言が嘘であった」というのは、下のほうの動画の、ナレーション引用部分(赤字)に対してであって、只野氏のコメントに対してではありません。

2012-11-02 批評機能の膠着物(Gallerte)としての《価値》 このエントリーを含むブックマーク

永瀬恭一氏 30年前を素材にする・日本の70年代 展 より:

 埼玉県立近代美術館で「日本の70年代」展が行われている。〔・・・〕 80年代に繋がる非政治的なものも、むしろその非政治性にこそ「カウンター」の意識が込められている

 この展覧会が示そうとした「カウンター」としての70年代は、80年代初期には既にメインストリーム化していたのであり、潜勢力の喪失は始まっていた

 いつしかカウンターではなくメインストリームとなっていった消費社会それ自体に対する未来の「カウンター」が必要になってきた


この文章の、美術領域内での位置づけや射程は私には分かりませんが、

触発された自分の焦点をメモしてみます。



  • 《集団的な批評の機能》 をどう組織する(される)か、マネジメントする(される)か。*1
  • 《消費イメージに駆動される購買》 に、最高の批評ポジションを与えること。それは主観性や関係性の再生産において、70年代後半まではカウンターの意義を持った。しかし80年代にはすでに、「これしか知らない」になった。実はそれは、資本という批評活動に加担すること。
  • 資本という批評事業。 「買われた物に価値がある。買われなかった物は、商品ですらなかった(価値がなかった、つまり社会化されなかった)」というスタンス。 資本という批評では、使用価値や、生産過程の質的複雑さは問われない。
  • マルクスの価値形態論において、私たちは互いに批評家として相対する。 「これは等価なのか?」
  • 疎外とは、批評の権限が自分の側にないこと。 問われているのは、批評権の所在であり、その原理。
  • 作り手としてひどい不毛さや倦怠感に苦しんでいても、「買われた労働力」としては同じ作業を続けなければいけない。批評権は「買われた側」にはない。雇用でなくても、マーケットを相手にするかぎり「買われる側」でしかない。つまり批評権は、「買い手」にある。
  • フェリックス・グァタリ(Félix Guattari)の活動は、生産過程それ自体に批評権を奪回する試みに見える。
  • 主体化の技法を問題にするといっても*2、私たちは自分の技法を、自分ひとりでは決められない。――とはいえそもそも、《技法》 というモチーフは、批評権を奪われた状態ではむなしい。技法へのこだわりでは、批評権の回復が、当然の権利として前提される。
  • 技法は、個人レベルでしか主題にならないと思われている。しかし、資本の活動を考えれば、技法は集団的な問いでしかあり得ない。 《買う−買われる》に巻き込まれた制作過程は、技法を孤立して語れない。
  • マルクスが考察した 《価値》 は、技法を支配する膠着物(Gallerte)*3といえる。
  • 集団的な制作技法で問われているのは、《私たち自身をどう生きるか》。*4
  • 計画経済は、集団的な批評事業として破綻した。
  • 問い直しはひとりでは無理だが、自分が始めなければ、どこでも始まらない。


主観性としていかに制作されるか、その技法。

個人としていかに社会化されるか。(売れようとする「命懸けの飛躍」しかない?)*5



関連するマルクスの記述

資本論 (1) (国民文庫 (25))』 p.77, ドイツ語原文

 Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge steIlen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen gesellschaftlichen Substanz sind sie Werte - Warenwerte.

 そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。これらの物が表わしているのは、もはやただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなこれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――商品価値なのである。」

同書 p.88-9, ドイツ語原文

 Wie die Gebrauchswerte Rock und Leinwand Verbindungen zweckbestimmter, produktiver Tätigkeiten mit Tuch und Garn sind,

 die Werte Rock und Leinwand dagegen bloße gleichartige Arbeitsgallerten, so gelten auch die in diesen Werten enthaltenen Arbeiten nicht durch ihr produktives Verhalten zu Tuch und Garn, sondern nur als Verausgabungen menschlicher Arbeitskraft.

 使用価値としての上着やリンネルは、目的を規定された生産活動と布や糸との結合物であり、

 これに反して価値としての上着やリンネルは、単なる同質の労働凝固であるが、それと同じように、これらの価値に含まれている労働も、布や糸に対するその生産的作用によってではなく、ただ人間の労働力の支出としてのみ認められるのである。


美術にかぎらないが、私がさまざまな領域でシラケるのは、

《仕事の価値》 と金額の関係が、バカげて見えるとき。*6

不当な批評が、集団的再生産を支配している。

マルクスの議論では「物神化」かもしれないが、

そもそも今は、何であれ真剣な興味の対象になるのは、

  • (1)瞬間的に消費されるネタ的な強度
  • (2)高い値がついた

でしかない。 言葉を替えれば、超越性は、消費的快楽金額 にしか現れない。


動物化を自明視すれば、集団的再生産への問いが封印されてしまう。

そこでは、主体化の様式や中間集団のありようも問い直されない。



いかにして私たちは、素材的過程に埋め込まれた超越性を蘇生できるか。*7


気の利いたモノや言葉は、その場で消費されて終わり。

この消費様式は、生産過程の集団的体質を、決定的に固着させる。

それはけっきょく、消費そのものをカチカチに固めてしまう。



問われているのは、生産過程と消費過程を支配する価値の様式だ。

  • それは実は、集団的な不定詞(動詞としての技法のあり方)を問うている(参照)。
  • 思想家とは、《不定詞技法》 の提案者。*8
  • 思いつめた個人の意識や伝統は、不定詞として(つまり技法として)反復されている。
  • 集団的な試行錯誤の焦点は、結論部分より前に、不定詞のレベルにある。



*1:イベント「MAXI GRAPHICA/Final Destinations」では、「個人でやるほうがよいのか、それとも集団でやることに意義があるのか」が問われていた。

*2:ミシェル・フーコー(とりわけ最晩年)が、そういうモチーフに見える。 手塚博「ミシェル・フーコーの人間学批判 〜実存と実践の哲学」を参照。

*3:マルクス関連の文章ではほかに、「ガレルテ」「膠質物(こうしつぶつ)」「膠状物」などと訳されている。 「膠」は、《にかわ》の意味。 Google の画像検索:Gallerte

*4:「価値じたいが過程の支配的主体となる」(p.338)、「資本のもとへの労働の形態的包摂と、素材的編成」(p.362)、「素材的論理にもとづく抵抗の契機」(p.394)を論じる佐々木隆治『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』は、私たちの集団的な生の技法を考えているのでもあるはず。

*5:交換様式の歴史的変遷を問う柄谷行人『世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)』では、生産様式は、「誰が生産手段を所有するか」でしかない(参照)。 マルクス系の思考伝統もそうなっているが、私はここで、生産過程で問われる技法レベルの超越性の問題として、生産様式に注目したい。それはたしかに、交換様式と切っても切れない。

*6:木の棒にボールを当てる人が、なんで1年に10億円か。その他もろもろ。

*7:それぞれの作業現場では毎日のように蘇生されていても、集団的整備としては、よく分かっていない。

*8:数学や物理学などの専門家は、ただその「ジャンル」の形をした不定詞(ディシプリン)を生きるのみで、不定詞そのものが原理的に問い直されることはまれ。

2012-11-01 (5) 【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化 このエントリーを含むブックマーク

連続エントリ:


承前  名詞形の当事論は、《純粋な○○》 を探し始めます。

「より純粋な○○はどっちか」 の競争になる。*1

しかし動詞形で 《当事する》 と考えるかぎり、その衝動は起こりません。


多角的な当事がお互いを調べるのは、あくまで動詞形ミッションとの関係において、

つまり必要な変化との関係においてであって、「固定された性質」を記述するためではない。



名詞形にもとづく倫理は、差別と同じ

左翼系論者が差別をやめられないことと、名詞形「当事」論は、リンクしています。

彼らは、名詞形の概念枠をやめられないのです。

自分を否定するにも、相手を肯定するにも、いちいち名詞枠を持ち出す。

肯定と否定を反転させただけで、発想のしくみは右翼と同じです。

    • 「私はだから(否定されるべき)」 「私は日本人だから(否定されるべき)」 etc.
    • 「この人は○○だ、だから肯定し、支援しなければ」

ここでは、倫理的とされる思考のフレームと、差別的排除が一致しています。



カテゴリを操作する、メタ気取りの動詞

左翼系の発想を翻訳すれば、こういうことですね。

 自分のことは、カテゴリで否定する。その否定のそぶりは100%肯定されるし、

 それをやっている自分は、100%肯定されるべき。

 そういう否定をしないのは、弱者に対する抑圧者だ。

右翼の場合は、こんな感じでしょうか。

 あいつらのことは、カテゴリで否定する。その否定のそぶりは100%肯定されるし、

 それをやっている自分は、100%肯定されるべき。

 そういう否定をしないのは、同胞に対する裏切り者だ。


ここで、右と左をちょうどカップリングできることに注意。

左翼的な発想は、相手側の浄化主義に都合がよいのです。


自己否定にしろ反省にしろ、大きすぎる名詞の枠組みは、アリバイとしてしか機能しません。

本当に責任を負わされるのは、名詞形に還元できない形で自分がやった(やっている)ことでしょう。

そこで「男」「日本人」などのカテゴリ要因は、たんに検証すべき材料の一つであって、

カテゴリを全否定してみせたところで、自分の言動を反省したことにはなりません。


    • たとえば、強姦や妊娠中絶を強要するのはつねに男性ですが、「だから男はダメなんだ」というのは、加害男性がそれを言って、反省したことになるでしょうか。 「男」という大きすぎる名詞枠を持ち出したことで、かえって責任を回避していませんか。やったのはあくまで個人であって、責任には動詞形のディテールがあります。
    • 同様に、たとえば「ひきこもり」という大きすぎる名詞で肯定や否定をしても、あまり意味がありません。考えるべきは、それぞれのディテールで何が為されているか、そこから何を育てられるか、だと思います。



差別主義的な糾弾の特徴

  • (a)自分や相手を、大きすぎる名詞枠で捉えようとする。そこでしか倫理を起動できない。
  • (b)動詞としての自分を硬直させ、絶対化している。

(a)と(b)がセットになって、浄化主義を生み出します。


自分や相手を、大きすぎる名詞形で確保して、

それを操作するだけで、メタ・ポジションにいるつもり。

自分(の側)にかんする都合の悪いことを、ぜんぶ隠せると思っている。*2



*1:ひきこもり関連では以前、「偽ヒキ(にせひき)」という言葉が流行りました。悩む本人たちから自然発生的に出てきた言葉で、やはり名詞形であることに注意。「本当は引きこもっていないのに、自分のことを引きこもりだと自称する奴ら」ということで、要するに「それに比べて自分のほうがはるかに深刻」ということです。世間的な判断とは逆に、《より深刻に引きこもっていること》 が、ステータスになるのです。同様に、障碍の重さや被差別要因の大きさなどを比較して、「より深刻なほうが、マイノリティ性の純度の高さとして尊重される」 という判断は、今も日常的に機能しています。

*2:「人間を名詞形に還元しての概念操作」という意味では、医師や学者も同じことをやります。

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