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[語句説明]

2013-01-29 技法の織り込まれた、努力の様式 このエントリーを含むブックマーク

私たちは、動詞それ自体について、技法を工夫できる。

ところがえんえんと、「名詞を探す」。*1

いつまでたっても、同じ知性の様式を反復してしまう。



たとえば、《分析する》 という動詞について

いろんな学派が「分析する」という単語を使いますが、

あれは作業過程としては、お互いでぜんぜん違いますよね。


有名なところでいうと、「精神分析」と「分析哲学」は、対立すらしています。

これは結論部分で意見が違う、というより、《分析する analyse》 という動詞のスタイルそのものに、対立がある。 同じ「analyse」という単語を使うのに、やりたいことが(というか、やるべきだと思い込んでいることが)違うのです。


そこで前提された作業様式を自覚もしないで(つまり、歴史的にも派閥的にも絶対視して)、「これが正しい思考法だから、これに従え」と言われても困る。その様式それ自体が悪さをしているかもしれないのに。*2



動詞と名詞をめぐる設計図

フーコー『言葉と物―人文科学の考古学』に「動詞の理論」という節があって(p.117〜)、古典主義時代の発想法について説明があるので、少し引用してみます(強調は引用者)


 すべての動詞は 〈ある〉 être を意味する唯一の動詞に帰着する。他のすべての動詞もひそかにこの唯一の機能を使用するが、種々の限定によってそれを覆いかくしている。 (p.119)

 動詞の機能は、その全体にわたりこの機能によってささえられた、言語の実在様態と同一視される。語ること、それは、記号を用いて表象すると同時に、動詞によって支配される綜合的形式を、記号にあたえることなのだ。 (p.121)

 あらゆる語は、いかなるものにせよ、眠っている名詞である。動詞は形容名詞と 〈ある être〉 という動詞の結合したものであり、接続詞と前置詞は身振りを表わす名詞の固定したものであり、曲用と活用は他の語に吸収された名詞にほかならない。 (p.128)


名詞と動詞をめぐる前提設計に、歴史的な変遷があるとしても、

私たちの存在が名詞と動詞を含まざるを得ないのは未来永劫そのままです。

そこにどんな様式が生きられるか、

今の私たちが名詞や動詞とどう付き合っているかも、分析の必要がありそうです。



なまなましい目撃証言と、制度

廣瀬浩司『後期フーコー 権力から主体へ』pp.146-7 より(強調は引用者)

 制度について直接的に語っている、もうひとつの文書を挙げよう。それは1971年のロレーヌ地方トゥールの刑務所における暴動の際の文書である*3。 精神科医エディット・ローズは刑務所の現状について証言し、解任される。当時「刑務所情報グループ(GIP)」で活動していたフーコーは、この報告を読み上げ、以下のようにコメントする。

    • 私たちの制度は、内部から批判されると、むきになる振りをする。だが制度はそれを我慢し、それを糧として生きる。それこそ制度の媚態でありまた同時に粉飾でもある。しかし、制度が容認しないことは、誰かが制度にふと背を向け、内部に向かって大声で、「これこそ私がここでいま目撃したことだ。これこそが起きていることだ。これこそが出来事だ」と叫び始めることである(『ミシェル・フーコー思考集成〈4〉規範・社会―1971‐1973』p.153)。

 ここで問題になっているのは、いわゆる内部告発にとどまるものではないし、監獄システム一般の批判でもない。それは、権力のシステムの内にいた精神科医が、その制度全般を批判するのではなく、これこれの日に、これこれの場所で、これこれの状況で起きていることを語ることである。こうして彼女は、権力諸関係そのものを明るみに出すような出来事を証言する。それはおそらく、かつては預言者などが担っていた「出来事の真理」を、現実的な制度の内部に見きわめ、それについて語り出すことによって、制度に内的な動揺をもたらし、それに対する意識をも動揺させるような言説である。


「出来事を証言する」というより、目撃証言そのものが出来事になってしまう。

言葉の編成をルーチン化するだけでは、

《証言》は、出来事として生成することを禁じられてしまいます。


私にとって《分析》とは、出来事としての目撃証言です。

これを、つまり目撃証言をどう救済するかが、決定的なモチーフになる。


《目撃》されるのは、単に「外側の何か」だけではないでしょう。

見るという体験そのものが、すでに悪さをしている。


それを内側から証言したうえで、何か別の形に変えないと。


動詞と名詞の設計図にこだわり、それを適切な形に変えようとすることは、

どうしても必要な救済事業です。*4



*1:そういうスタイルの動詞を生きてしまう。「努力するとは、こういうものだ」と思い込まれ、それがそのまま、あわれな硬直の姿になっている。

*2:私が名詞形の当事者論がまずいことに気づき、《当事化》と動詞形で考えたい、と言っているのは、この工夫です。

*3:ブログ注:「GIP : La révolte de Toul (1971-1972)

*4:社会参加が、《生成としての目撃労働》の許されない形になっている。

2013-01-28 《逃走≒闘争》 の技法 このエントリーを含むブックマーク

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

1980年代の浅田彰氏は、「逃げる」ことを、「闘う」ことに重ねていました。

以下、『逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)』より(強調は引用者)

 男たちが逃げ出した。家庭から、あるいは女から。どっちにしたってステキじゃないか。女たちや子どもたちも、ヘタなひきとめ工作なんかしてる暇があったら、とり残されるより先に逃げたほうがいい。行先なんて知ったことか。とにかく、逃げろや逃げろ、どこまでも、だ。 (p.10)

 女から逃げるって言ったのは男と女の定型的な関係から逃げるってことなんで、男の逃走の線と女の逃走の線が交差するところに新たな愛が生まれるとすれば、それはステキなことだと思う。ともかく、おネエ型だのマッチョ型だのいうタイプに自分を合わせようと躍起になってるホモなんかより、男らしい男なんていう神話に固執しないヘテロの方がずっとゲイなんだということをお忘れなく。 (p.14)

 そういえば、ヒトアルジ とかいて スマイ とよむ、なんて文句があったけど、主体ってのはまさしくパラノ型の《住むひと》なのである。そういうひとはスキゾ型の《疾走する非主体性》に耐えられないもんだから、《主体としての自己の歴史的一貫性》なんかにしがみついてるんだけど、その家の地下室あたりでは、必ずやトラウマってヤツが、大昔のふかーい心の傷あとが、腐臭を放ってるんだ。 (p.15)

 というわけで、真のゲイ・ピープルをめざす諸君、今こそ新たなる逃走に向けて決起されんことを! (p.16)


「逃走」も「闘争」も、ある動詞のあり方を、名詞にしたものですね。

闘争を逃走に置き換えるのはいいとして、そこで問われるのは、動詞の中身でしょう。

《逃走する》って、どういう意味だったんでしょうか。


浅田氏は、《疾走する非主体性》を生きるとおっしゃるのですが、それが何を意味するのか、具体的な中身や技法については、ほとんど何も語っていません。

「子どもになり、さらには、動物に、植物に、鉱物になる」と、大哲学者の大げさな比喩を反復したり(同書p.18)、「スキゾフレニックに走り回っていればいい」などとしか言わない(参照)。


《闘争≒逃走》を言うことには、80年代初頭の必然性が、きっとあったのだろうと思います。ただそれは、「どうすればいいのか、さっぱりわからない」という戸惑いに対しては、何も応えなかった。できない人へのたんなる罵倒は、反動としての同一性回帰(しかも強迫的な)に、燃料を注いだだけだったかもしれない。


というのも、自分をうまくまとめられない苦しさは、統一を実現しようとする狂おしい衝動に化けるからです。以下、『多重人格性障害―その診断と治療』p.446、中井久夫氏による記述より(強調は引用者)

 〔翻訳を〕やり終えて、改めて、私の生涯の課題であった分裂病患者を思うと、彼らが、自己の解体を賭けてまで、自己の単一統合性を守り抜こうとする悲壮さが身にしみて感じられる。

ですから、

うまく主体化できない切迫があるときにやるべきなのは、

単に破綻を喜ぶことではなくて、技法論をやり直すことでしょう。


浅田氏ご自身は、趣味化の才能みたいなもので「いつの間にか」自分を纏め上げていた。そこでは技法が言説化されない(あるいはそもそも、主題化されない)ので、チープな模倣を生んで終わってしまう。



逃走の帰結は、疾走ではなく引きこもりだった

浅田彰『構造と力―記号論を超えて』p.5(1983年9月)より:

 スタイルといい、感性といい、いかにも軽薄な響きではある。けれども、感性によるスタイルの選択の方が理性による主体的決断などよりはるかに確実な場合は少なくない。その意味で、ぼくは時代の感性を信じている。

しかし、時代の感性が選択した「逃走」は、

疾走ではなく、「ひきこもる」という形をとりました。*1


ではその、動詞形の集団的現象に対して、浅田彰氏がどんな処方箋や技法を出せたか。

――本当はここでこそ、浅田氏の《逃走》について、技法的な内実を開陳すべきだったと思うのですが、なんだか常識的な、当たり障りのない言及で終わってしまった。*2


ラボルド病院やグァタリ(Félix Guattari)の紹介者だったはずの浅田氏が、

《闘争逃走》の技法としての制度分析を黙殺したのは、

意図的だったというより、単に理解できていなかったんじゃないでしょうか。


    • どうも、先達としての浅田氏を批判するようなエントリを何度もしていますが、問題点を明確化しようとしているだけで、全否定なんてできません*3。 それに、浅田氏を批判していれば良いわけではなくて、必要な技法論は自分でやるしかないと、強く感じています。



*1:厚労省の扱う「社会的ひきこもり」のみならず、各専門性への官僚的タコツボ化という意味でも、「ひきこもり」が強まっていると言えませんか。そこでスローガンとして「横断性」とか言っても、まったく意味がない。それこそイデオロギーであり、党派的なオルグにすぎません。

*2:《治療者としての斎藤さんは拙速な「兵糧攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね》(『批評空間 (第3期第1号) 新たな批評空間のために』p.82)

*3:どなたに対しても、基本的には同じです。

2013-01-24 ひきこもる人は、社会の外側にいるのか? このエントリーを含むブックマーク

酒井泰斗氏のツイートより:

示唆的でした。

このご発言の酒井さんの文脈を存じませんので、私の勘違いかもしれませんが、

支援論の大事なポイントを思い出したので、メモしてみます。


端的に言えば、

 ひきこもった状態は、社会の外側なのか、それとも内側なのか?

  • 社会の外側だと考えると、支援は「内側に入ってこい」になる。
  • 社会の内側だと考えると、支援は「すでに居る場所を何とかしなければ」になる。


雑誌『ビッグイシュー』の往復書簡では(参照)、

斎藤環さんは明白に前者の発想であり、私は後者でした。*1


親に扶養されていても、それは「社会のなか」としか言いようがない。

とはいえ、「だからそのままでいい」ではなくて、

そこにはご家族や本人の苦痛があり、トラブルがある。

長期的にも、サステナブルではないだろう。ならば、

家族や職場や、さまざまな場について、交渉や調整が要る。

その作業は、意識の事情そのものまで変えてしまう。



ラボルド精神科病院 の制度論

当ブログでずっと取り上げている臨床論は、このあたりを巡っています。

精神科病院等の施設は、社会のさなかに囲いを設けますが*2、囲いの中が、《社会の外》であるわけではない。むしろ囲いは、「社会的な内部」の設計図とともにあります。「この中にいるかぎり、社会の外でしかない」というその思い込みまで含めて、社会的に設計されている。


ラボルド病院は、この《囲い》そのものをもう一度考え直す作業を、技法に織り込んでいます。いつの間にか自明視された囲いを、その境界線上にとどまって論じ*3、改編し、あるいはそれを「使おう」とする(参照)。 大小さまざまの《囲い制度》を放置せず、つねにそれをやり直し、書き直し、共有し直す――言葉それ自体と見分けが付かないような、当たり前すぎる枠組みについてまで。

囲いの内部を問い直すことができない人は、「外部」との関係も問い直すことができません。そこで社会復帰とは、「超越への迎合」でしかなくなる。やりなおす、という作業の要素が見当たりません。



「順応しているからアリバイがある」ではない

悩むご本人も、次のように考えがちです:

 ひきこもる自分は、まだ社会に参加していない

――この発想は、おそろしく反-臨床的です。

つまりこの考えは、ひきこもるフレームそのものになっている。


閉じこもる自分の「向こう側」に社会があるとすれば、そこに順応する人たちは、順応しているという事実そのものによって、端的に肯定されてしまいます。逸脱者から見て、「一般人」には絶対的なアリバイがあることになってしまう*4――これが最悪。 100%の肯定と、100%の否定を認識が往復するだけでは、作業が始まらないのです。


順応していようがいまいが、《すでにやっていること》がそれぞれにあって、相互作用しているわけでしょう。どうしてそれ自体を、具体的に考えられないのか。雇用されないと、自分の状況を考えちゃいけないのか?


自分の状況を具体的に考えないから、稼いでる人を100%肯定したり、その真逆として、ひきこもる人を100%肯定したりする(参照)。 でも、どっちについても100%の肯定や否定なんてあり得ない。現にある状況をいったんは受け止めて、そこから交渉したり調整したりするしかないじゃないですか。*5



cf.《社会的排除》――イギリス系とフランス系の相違

内部と外部については、以下の議論に重なるはずです。

 「排除」自体がすぐれて社会的な現象であり、排除する側とされる側とのあいだに 〔…〕一定の社会的な関係や相互作用がある以上、「排除」が「社会」全体からの排除であると考える人はいないであろう。「社会」の外側では、「社会問題」など生じようがないからである。 〔…〕 したがって、「排除」におけるどういう次元の「内」と「外」を強調するかは論者によって、あるいは文脈によって異なってくる。


単に「排除」とのみ言ってしまうと、排除されていないとされる内部については、ろくな検証が行われません*6。むしろ、いっさいは内部にあるのであり、その内部に、おかしな実態が隠されている。100%のアリバイのある人なんか、ひとりも居ない、「超越」に居直れる人は、いない――そこで論じるべきです。*7


ひきこもり問題を適切に論じられる人が一人も出ていないのは、

健康とされる参加のありようが、どこか間違っているからでしょう。



*1:斎藤氏は、カフカの「掟の門」について、ご自分は門の向こう側におり、「ひきこもる人は門の手前で逡巡している」と論じました(参照)。

*2:「全制的施設(total institution)」と呼ばれたりもするようです(参照)。

*3:社会生活や精神生活について考えるには、この《境界線上》が、決定的なモチーフになるはずです。たとえば、制度論集の共著者である合田正人氏が、ハイデガーの境界線論を取り上げています(参照)。

*4:「女」「在日」「障碍者」など、終身的な正規当事者の肩書きを得た人たちも、内部化される絶対的なアリバイを得たことになります(参照)。 私は、内部と外部の境界線じたいを、非正規化しようとしている。

*5:ひきこもる人が、自分の状態を肯定しようとして「解釈だけ」の空中戦をやるのも、バカげています。承認は、関係の中で具体的にしか実現できない。

*6:左翼系では、「外部」「他者」を尊重対象として固定することで、この尊重を共有する人たち自身が内部化されてしまい、党派性の内部が検証されません。

*7:これは精神分析が、社会順応を去勢や原抑圧で一元的に語りがちであることへの批判でもあります。超越は、あくまで内在的に、「内側から生きなおす」しかない。超越こそが「出来事」であるはずです(分析や改編は、出来事として生成する)。一元的に語られる原抑圧は、「揺るがしてはならない党派性」そのものに見えます。だからこそ schizo-analyse は、原抑圧の破綻から語りなおし、言葉を作り直すことになる。と考えれば schizo-analyse は、党派性を中心モチーフにしていると言えませんか(参照)。 資本制は、党派性の一類型として考えることになる。(階級意識を、名詞形による身分規定ではなく、生産過程に即して考えること。)

2013-01-22 資本制と党派性 このエントリーを含むブックマーク

党派性が、労働過程の編成のはなしだと考えれば、

じつは党派性というのは、《資本》と対比されるべきであるはず。


資本制的生産様式において、プロセスは《資本価値》に強奪される(参照)。

――党派性においては、何に強奪されるか。


「言表の集団的アジャンスマン」などと訳される 「agencement collectif d'énonciation」 は、具体的なプロセスの編成や改編の話をしている。論じる自分だけが「メタ」に居られるわけがない。主観性それ自体も、編成され、生産される(逃げ場はない)。


脳髄の物質過程の話だけでは、編成の仕方を論じられない。

タダモノ論では、党派性も資本制も論じられない。



Félix Guattari 『La révolution moléculaire p.85 より:

 Le capitaliste n’extorque pas une rallonge de temps, mais un processus qualitatif complexe. Il n’achète pas de la force de travail mais du pouvoir sur des agencements productifs.

逐語的に英訳すると:

 The capitalist extorts not an extension of time, but a complex qualitative process. He does not buy the labor power but the power for productive assemblages.*1

同箇所の邦訳、『分子革命―欲望社会のミクロ分析 (叢書・ウニベルシタス)』p.55-6 より:

 資本家は時間の延長ではなく複雑な質的過程を強奪する。

 資本家は労働力ではなく生産の配備を左右する力を買うのである。


党派性は、勤務時間を超えて、人の一生を支配する。

個人史全体の「生産の配備」を、イデオロギーで強奪する。



*1:仏語の「agencement」は、國分功一郎氏のこちらの指摘に基づいて、「assemblage」と英訳した。

2013-01-19 「過程の主体としての価値」 メモ このエントリーを含むブックマーク

マルクス『資本論』原文(mew23, pp.168-169)と、*1

その邦訳『資本論 (1) (国民文庫 (25))』 pp.269-270 より(強調は引用者)

 Die selbständigen Formen, die Geldformen, welche der Wert der Waren in der einfachen Zirkulation annimmt, vermitteln nur den Warenaustausch und verschwinden im Endresultat der Bewegung.

 諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。


 In der Zirkulation G-W-G funktionieren dagegen beide, Ware und Geld, nur als verschiedne Existenzweisen des Werts selbst, das Geld seine allgemeine, die Ware seine besondre, sozusagen nur verkleidete Existenzweise.

 これに反して、流通 G-W-G では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。


 Er geht beständig aus der einen Form in die andre über, ohne sich in dieser Bewegung zu verlieren, und verwandelt sich so in ein automatisches Subjekt.

 価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的な主体に転化する。


 Fixiert man die besondren Erscheinungsformen, welche der sich verwertende Wert im Kreislauf seines Lebens abwechselnd annimmt, so erhält man die Erklärungen: Kapital ist Geld, Kapital ist Ware.

 自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。


 In der Tat aber wird der Wert hier das Subjekt eines Prozesses, worin er unter dem beständigen Wechsel der Formen von Geld und Ware seine Größe selbst verändert, sich als Mehrwert von sich selbst als ursprünglichem Wert abstößt, sich selbst verwertet.

 しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。


 Denn die Bewegung, worin er Mehrwert zusetzt, ist seine eigne Bewegung, seine Verwertung also Selbstverwertung.

 なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖であるからである。


 Er hat die okkulte Qualität erhalten, Wert zu setzen, weil er Wert ist.

 価値は、それが価値だから価値を生む、という神秘な性質を受け取った。


価値が自動的な主体になる」ことと、「意味が自動的な主体になる」こと。

素材レベルの都合と、意味レベルの都合。*2

形式論理的な意味だけに拘泥することは、編成の自動化にはまり込む。*3


価値が主体となって、素材レベルが編成されてしまう。

素材編成を生きる時間は、たんに時計的な、均質な時間ではない。*4

その質的複雑さが、「主体としての価値」に強奪されている。

これが環境の、原理的前提。 そのロジックから単に抜けられる人はいない。


では私たちの主観性は、いかに編成されるべきか。

「主体が物質を生産する」のではなく、主観性そのものが物的過程として編成され、生産される。このモチーフは、収奪された編成過程を奪回しようとするものだ。



*1:佐々木隆治『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』 p.337 の示唆から。

*2cf.「貨幣の機能的定在が、貨幣の物質的定在を吸収する(Sein funktionelles Dasein absorbiert sozusagen sein materielles.)」(マルクス『資本論 (1) (国民文庫 (25))』p.228)

*3:かといって、たんに論理を無視する語りは、それ自身が詰まらないフレームに閉じこもる。

*4:クロノス的ではなくて、アイオン的(参照)。

2013-01-16 論じている自分の作業過程に照準できるか (3) このエントリーを含むブックマーク

承前

お返事を頂いた形ですが、

私としては、自分の問題提起や説明が、完全に遺棄されたことを確認しています。

それを指摘しても、酒井さんには意味がないでしょう。

となると、私にとっても、これ以上説明する意義がありません。


以下は、現時点の私の理解です。


「主体化の意味が分からない」とおっしゃるのですが、(2)のエントリで、最低限の説明は与えました*1。 そもそも発達障碍は、意識が硬直している話であり、私は以前から、ずっとその話をしています。――要するに酒井さんは、発達障碍という語の運用に介入したのに、発達障碍そのものについては、考えるおつもりがまったくない。


これでは酒井さんは、ずっとご自身の前提に閉じこもったまま、

いくらでも言葉ヅラの介入ができるでしょう。

しかし私からすると、何かの信仰者と話しているような状態です。


私は、酒井さんが「臨床」という単語を採用しているかどうかなど、

まったく問うていません。そんなことは、何の関係もありません。


現に人に接しており、言葉づかいに介入しているのですから、

「何をやってしまっているか」、そこで理解をやり直してほしい。*2

意識的なディシプリンや、明示的な言い訳は、アリバイになりません。


自己定義がどうあれ、やっている のですから、そこで生じる影響について、

責任はあるでしょう、やり直してもらえませんか――そう申し上げただけです。


ここには、分析をめぐる立場の相違が、剥き出しで現れているように思います。*3

私としては、批判的な申し上げ方をせざるを得ないのですが、酒井さんに意図的な悪意があるとは感じていません。むしろ酒井さんとしては、ご自身にとって当たり前の知的誠意に従ったまでであり、私の論の展開にこそ、不誠実を感じられたのでしょう。


私は、なんであれ「意識的な自己定義」に、激しく怒っています。*4

そしてこれは、社会参加を組み立て直そうとする呼びかけです。

私は、たんに「ひきこもり」を考えているのではありません。

生産/再生産される、意識や関係性のスタイルそのものを問うています。*5


病気や障碍がないはずなのに、意識が硬直する。こういうケースでは、既存の救済スキームでは対応できません。意識や関係性を技法ごとやり直さないと、どうにもならない。ところが酒井さんの議論は、そういう問い直しを認めません。(「そんなことは言っていない」と言われるのでしょう。この平行線です。)


意識や論理のアリバイに居直るなら、それとは別の回路で生じるトラブルや、むしろ意識するが「ゆえに」生じるトラブルについては、ずれた解釈を採用するしかありません。こうなると、事柄に即して考えようとするアプローチは、社会的に遺棄されます。


――と、こういう説明をここでやり直しても、たぶん「わけがわからない」でしょう。

そこに悪意がないことが、逆に言葉を失わせます。



以上です。

お忙しいところ、お時間を取っていただき、ありがとうございました。



*1:→「また発達障碍では、意識が形を取ろうとするプロセスそのものが問われています。まさに《主体化》という言葉で扱われる事態が、そこでの不調が、俎上にある。」

*2:私が焦点にしたい「創発」は、ここに生じるものです。

*3:ブログや tweet を拝見するに、酒井さんはフロイト的な精神分析を、いっさいお認めにならないようですね。――私の必要とする、そして現に試みている分析は、「意識のアリバイ」とは別のことを分節するとはいえ、精神分析とも違っているはずです。

*4:差別の専門家(その多くは社会学者を名乗っています)が差別をやめられないのは、意識の言い訳でしか考えていないからです。

*5:ひきこもる人は、抑圧的で無責任だと言えます。では元気に働く人は、現在のスタイルを検証されないのでしょうか。――どちらか片方を悪者にするだけでは、問題構造を反復して終わります。集団的失調で問われているのは、再生産される意識や社会化のスタイルそのものです。

2013-01-15 論じている自分の作業過程に照準できるか (2) このエントリーを含むブックマーク

承前

レスポンスを頂き、ありがとうございます。

とはいえ正直なところ、居直りをされてしまったように感じています。


酒井さんは先日、私が「発達障碍的」という言葉を使ったところ、

以下のようにコメントされています(参照)。

これを「厳密に用いるべきだ」という趣旨と受け止めたのですが、

日常レベルの言い換えとして、私がそんなにひどい曲解をしたとも思えません。

ところが酒井さんは、歌舞伎役者のように

「生まれてこのかた、一度も述べたことのない主張だ」とおっしゃる。


酒井さん(あるいはエスノメソドロジー?)においては、

 「不当である」ことと、「厳密ではない」ことの あいだ

に、激しい差異があるのでしょう。

――この差異は、ほとんど隠語化してしまっています。

どう違うのか、ふつうにご説明いただけませんか。



もう一つ、ブックマークに頂いたコメントより:

contractio: 「そういう主張に、なっていませんでしょうか」「そういう話でないかどうか」に対する答えはすべて「否」で。/上山さんは、書いてないこと述べてないことをテクストに読み込まない訓練をしたほうがいいと思うわ。

私は、酒井さんの「つもり」を伺ったのではなく、

「こういう話になってしまっていますよ」と抗議した形です。


私は、「発達障碍」という言葉をめぐるさまざまな軋轢から、概念枠そのものを論じ直す努力をしており、これには具体的な苦痛緩和の(つまり臨床実務的な)意図があります。そういうやり直しの作業そのものが、提案それ自体の実演になっている。 実際に発達障碍と診断されてもおかしくない状態だった私が(参照)、いわば内在的に証言しつつ、提案を試みている形です。


その作業に対し、「カテゴリ使用が不当だ」という発言をなさったのは、

発達障碍まわりの試行錯誤に対して、不当ですよ、と申し上げています。

つまり酒井さんは、論争の渦中にある専門用語を守る形で、

困っている本人が自分で取り組む作業を阻害した。*1――明白な臨床介入です。


その不当さは、「カテゴリ使用を医師と同じにすれば正当だ」という、そのお立場そのものにあります。つまり私は、「酒井さんのカテゴリ使用は不当だ」と言ったのではなくて、「介入の前提となっている、単に護教的なこだわりこそが不当だ」と言ったのです。*2


そうした振る舞いを通じて私が受け取ったのは、次のようなメッセージです:

 医師の概念操作を崇拝しなければ、エスノメソドロジストに嘲笑される

これでは私は、与えられた身分のヒエラルキーを確認するだけです。


概念枠としての「発達障碍」には、さまざまな利害や都合が錯綜しており、医師による診断結果(担当患者内での発見率)も、驚くほどバラバラです*3。 たんに外在的に護教的な振る舞いをするのは、あまりに時期尚早でしょう。*4


また発達障碍では、意識が形を取ろうとするプロセスそのものが問われています。

まさに《主体化》という言葉で扱われる事態が、そこでの不調が、俎上にある。

「主体」という概念枠を拒絶する酒井さんが、「発達障碍」という語の運用を問おうともせず、医師によるカテゴリ使用を当然視するのは、護教的なバイアスがかかりすぎています。*5――私はこの話をしているのですが、こちらには何の反応も頂いていません。 「問題意識そのものが、理解されていないのではないか」と思わざるを得ないのです。


つづく



*1:私は、概念枠そのものの内実を問うているので、概念枠を前提にした診断権力の反復(要するにお医者さんごっこ)とも別の作業です。

*2:たとえば実例として: 今でも本屋に解説書の並ぶ「人格障害」カテゴリは、たいへんなデタラメだったことが、診断マニュアルの編纂委員によって曝露されています(参照)。

*3:「ひきこもる人には殆どいない」から、「不登校児童の全員」まで

*4:そもそも精神科の診断枠には、バイオロジカル・マーカーがありません。 cf.《病因が明らかで「疾患単位(disease entity)」として確立されている精神障害は器質性精神障害のみであり、統合失調症をはじめとする主たる精神障害は病因が不明なため、症候群(syndrome)あるいは類型(type,Typus)としてまとめられた「臨床単位(clinical entity)」でしかない》(DSM-5 ドラフトについて)。 発達障碍は「器質的」とされているのですが(病気ではなく障碍)、問題部位が特定されたわけではありませんし、「定義上、そういう話に決めてしまった」というだけです。

*5:逆にいうと、「主体」という語の拒絶と、「発達障碍」という語の無批判的受容は、セットになっているわけです。酒井さんの場合がどうかは分かりませんが、脳髄に対する物質科学的アプローチだけを前提にする場合には、これは当たり前のことです。「科学的な説明」には、主体というカテゴリが登場しないので。そこで「主体化」は、方程式で表される物質反応の一部でしかないでしょう(つまり、そもそも主体化という概念枠は必要ない)。――むしろこの点をめぐって、積極的な議論を作れないでしょうか。つまり私の議論は、「唯物論(ゆいぶつろん)」を参照していますが、「タダモノ論」との区別は難しいままです。主体概念の分かりにくさ、曖昧さも、この周辺にあるはずです。

2013-01-14 論じている自分の作業過程に照準できるか このエントリーを含むブックマーク

菅野盾樹氏の執筆による、臨床的眼ざしの誕生――医療の記号論より(強調・改行は引用者)

 徴候への眼なざしがそれを〈症候〉と捉えること(症候の生成)はどのようにして可能だろうか。この問いに対しては眼なざしが帰属する「暗黙知」(tacit knowing)の規定性を挙げておいた。つまり症候を捉える眼なざしは、生きられたエクスパートシステム(implicit expert system)のひとつの要素なのである。エスノメソドロジストの目的は、おのおのの社会的実践(医療、教育、司法など)に対して、この種のシステムが明確化する様態を記述することだと思える。彼らは、これをもって、コミュニケーション過程において社会的実践の類的同一性が構築されるという事態の解明と見なしている。

 実際のところ、彼らは当該の社会的実践を規定するシステムを前提しているのではないか、という疑いを払拭できない。つまり、彼らの記述の力点は当該のシステムがコミュニケーションのうちで「明確化される」ことの追跡であって、「創発される」ことの解明には至っていないのではないか。

 だが「明確化」と「創発」は同じ事態ではないだろうか。形而上学のことば遣いをすれば、潜在性が現実的なものとして顕わになることを「明確化」と押さえることができるなら、それはすなわち「創発」なのではないか。

この箇所についての、酒井泰斗氏の tweet より:


私は菅野盾樹氏の詳細な文脈は存じませんが、ひとまずこの箇所の問題意識は、

 明確化されたものを事後的に拾い上げるエスノメソドロジーは、《作動中の明確化》に権限を与え、それにふさわしい形で論じることに失敗しているんじゃないか

――そういう疑念として読んだのですが。

つまり、先日の私が「発達障碍」まわりで抱いた疑念に、重なって見えます(参照)。


  • 順応的・官僚的な明確化 と、
  • 批評的でリアルタイムの明確化 は、

やっていることが違うはずです。

後者の場合には、「最終的な完成形」として記述される秩序だけでなく、

作業過程のスタイルや技法そのものに、照準がある。


酒井さん(エスノメソドロジスト?)は、既存秩序の再生産としての明確化に照準することで、批評的・臨床的にやり直そうとする明確化の実験を、黙殺(それどころか断罪)していないでしょうか。

菅野氏の議論から思い出したのは、そういう私じしんの疑念でした。

以下は、その私の疑念について記します。



「創発的な明確化」を許さない動き

整備された専門性では、言葉づかいや概念にも、全員が従うべきルールがあります。

そこで、「ルール通りの明確化なら許すが、それ以外は逸脱だ」というなら、

これはたんに、思想警察みたいな活動になります。 あるいは少なくとも、

 明確化の方針に、政治などない

という主張に、なるしかない。


自助グループへの参与観察があっても、

その場で支配的な秩序(自分たちを分かりやすい名詞で名指すなど)を記述する一方で、

  • 既存秩序とはちがう動機づけをもった格闘や、そういう格闘の必然性に照準すること

は、できないのではありませんか。


参加した場で逡巡や対立を目撃しても、あくまで外部から事後的に記述するだけに見える。――そこでエスノメソドロジストが、「マニュアルと同じやり方でしか用語を使ってはならない」というなら、それは作業過程の試行錯誤に、介入しています。


これはまさに、創発的な明確化を阻害している。

対人支援について言えば、臨床事業そのものへの介入です。



「現場にいない思想」という前提のウソ

これは酒井さんに限らず、

  • 思想と臨床はジャンルが違う
  • 精神医学や心理学をやらないかぎり、臨床論をしていることにはならない

という立場全般に言えることですが、

 一方に「臨床ではない思想」があり、もう一方に「臨床としての活動」がある

という欺瞞的な語りを、やめるべきです。

病院や支援の場にいなくても、私たちは常に、お互いに対する《臨床》を生きています(「床」ではなく、本物の現場に臨んでいるという意味で)。言葉の運用のあり方には、つねに《臨床的な》責任がある。そこにどういう介入をおこなうか、どういうスタンスを採るかは、すでに技法論の領域にあります。


現状の、ほとんどすべての言説に対する苛立ち:

 結果としての、あるいは反復される《秩序》には目を向けるが、

 つねに生じている《秩序化の試行錯誤》とその内実については、

 原理的に扱えないスタイルであり、しかもそのことに無自覚。


所与の概念を所与のままに(つまり官僚的に)反復すれば、

それが必要な明確さを保証するわけではないはずです。

というより、そもそもあらゆる《明確化》にあっては、

秩序のない場所で起こる秩序化の動きを無視できないのでは?

「成果としての秩序」だけに目を向けていては、

生成過程それ自体を、ふさわしい形で考えられません。


とりわけ精神科周辺の対人支援では、「自分や環境をどう引き受け直すのか」、

そのつど繰り返される秩序化のやり直しに大きな負荷と掛け金があります。

(主体化をめぐる技法論は、ここに照準している)


ジャンル秩序に順応的な明確さだけを要求すれば、

必要な明確化や、その主題化をスポイルすると思います。



《主体化》という問題系の排除

酒井さんはくりかえし、《主体》という言葉づかいの不適切さを問題にされています。

たとえば http://bit.ly/VN9RFB あるいは http://bit.ly/VN9NG2 など。

これは直接には、フーコーの学術的な議論に即してのご意見ですが、

テーマとしては、さきほどの「明確化」と連動するはずです。


「専門家」の言葉づかいを知った上で、その趣旨を換骨奪胎しつつ、必要な形で考え直そうとするのは、まさに《主体化》をめぐる試行錯誤です。

そこで「主体化」という言葉を禁じられると、モチーフそのものを失うことになりかねません。チャレンジして失敗する以前に、「そういうチャレンジをしてはいけない」という話になってしまう。*1


酒井さんにかぎらず、ほとんどすべての皆さんにとっては、

 《正しい主体化》はすでに自明であり、主体化の技法やスタイルに、政治はない

――そういう主張に、なっていませんでしょうか。

明確化の技法が、問うまでもなく決まりきっているなら、「どう明確化するか」は、わざわざ論じるようなポイントにならないわけです。 「だって、当たり前じゃんwww」で終わり。


酒井さんにとっての「明確化」とは、エスノメソドロジーを事業として引き受けることであり、それ以外の選択肢などあり得ない。それゆえに、《主体化》という概念枠を設定する必要もない――そういう話でないかどうか。


これは、意識を創発的に、制作過程として主題化しようとする立場からすると、

「何が問題になっているか」を理解できない立場に見えてしまうのです。*2


もちろん、菅野盾樹氏、フーコー、そして私では、焦点が違うでしょうけれど*3、主体化というモチーフそのものを禁じるべきだというお話には、「ものを考えるとは、俺がやっているような仕方でしかあり得ない」という、問答無用の抑圧(モチーフそのものの排除)を感じます。



「従うしかない」という思い込みを、補強してしまう

こうしたお立場については、おそらく酒井さんが想定されていない、副次的な影響も懸念されます。というのも、今は誰もがこぞって、医師の(ということは、官僚的な)*4言葉づかいに迎合することで、「制度的に回収してもらおう」と目論んでいるからです。*5


今は不況もあり、福祉的な手続き以外には生き残るチャンスが少ないため、

社会や集団で自分をうまくやれない人の多くが、「医師のカルテ」を欲しがります。

――カルテを求める以外の、原理的にやり直そうとする努力は、危険視される。

 福祉以外に生き残れない 誰もが沈黙し、医師に忠誠を誓う そういう順応そのもので生じる問題(孤立や主観性の硬直)は、ますますひどくなる 福祉以外に生き残れない(最初に戻る)

・・・こういう悪循環です。 自律的な試行錯誤が、つぶされてしまう。


研究者も、支援者も、そして支援対象者も、

「脳髄の異常」、向精神薬、認知行動療法など、

《主体化》の問題系を見ない処方箋に従う者だけが承認され、

自律的な問題意識を口にした者は、遺棄される。


エスノメソドロジーが、学問の名のもとに医師と同じ概念操作を要求するなら、

それは「福祉に頼るしかない」という絶望や、それに基づく全体主義を補強します。

 自分でチャレンジしたって、損するだけ。 あとは医師と学者の

 言いなりになって、「いかがわしいカルテ」に期待するしかない。

――これは、短期的・個人的にはともかく、

長期的・集団的には、処方箋になりえません。



「党派性の分析」という課題

ここまで踏まえたうえで、

  • 「主体化という言葉で何を言ってるのかわからない」
  • 「概念はもっと厳密に用いるべき」

という、私が理解できた限りでのご指摘は、有意義なはずです。

主体概念にかぎらず、既存の言葉づかいが、どういう「抱きこみ」を呼び込んでいるのか。

これは党派性の分析にとって、重大な問題提起になるはずです。

    • ここで、「定義もなしに、また新しい言葉が出てきた。《党派性》って何だよ」という問いがあり得ます。ひとまず私は、「そういう言葉で名指すしかない問題意識がある」「名指しておいて、そこで考えるしかない」と答えます。直面している苦しさを言葉で扱おうとして、試行錯誤している。それとこれは、あくまで自己分析的な要因を含むので、「自分だけは党派性を免除されている」とか、そういうことではありません。必ずしも自覚されていない、偏った傾向性とその野合ぐらいのことで、歴史性もあるし、モチーフとしては誰も逃げられません。


私は今回のエントリで、酒井さんに向けてある種の党派性を批判するスタンスを取っていますが、実は同時に問題なのは、そもそも党派性について敏感であるはずの(主体化などという言葉を平気で使っている側の)皆さんは、じゃあ党派性を分析できているかというと、全くできていない。

むしろ、政治性を黙殺していると非難される分析哲学系の議論のほうが、言葉それ自体の物質性に即すぶん、党派性の分析に貢献できてすらいるのではないか。


「あなたはその言葉づかいで、何を話そうとしているのか」

――それは、党派性*6によって正当とされる言葉づかいや、それに基づく研究者じしんの作業過程についてまで、問い直すものであるはずです。*7


つづく



*1:とはいえ、主体という言葉を採用する立場にもいろいろあります。たとえばラカン派では、主体といえば即座に「欠如」の話になってしまい、それ以外の問題設計ができなくなります。

*2:酒井さんだけでなくて、むしろ主体化のありようを技法的にテーマにする立場こそが少数派で、だからこそわざわざエントリしています。モチーフとして根付かせたいので。

*3:フーコーの議論に、直接的な意味での臨床的趣旨は(少なくとも自覚的には)ないと思っているのですが、どうなんでしょう。

*4:実務への制約や責任のあり方から言って、医師は、事実上の公務員のようなポジションにあります。

*5:そもそも社会学者じしんが、医師や官僚の言葉づかいに迎合することで、「自分の業績」を作ろうとしていないか。

*6:専門性それ自体を、党派性と考えるようになっているのですが、これは近代の特質としての専門性を考える議論からは、逸脱なのでしょうか?

*7:私が「不定詞」「動詞のスタイル」と分かりにくい話をしていたのは(参照)、このあたりのことです。たとえば「分析する」という動詞も、立場によって、想定する努力のあり方が違います。つまり党派性の分析は、その分析そのものが党派的なので(一定の偏りを持つので)、「偏りが偏りを分析するのだから、けっきょくは偏ったまま」と言えます。ただそれを指摘するだけでは、「ではどうするか」がよく分かりません。そもそも、偏りごと生きるしかないにもかかわらず、「自分には偏りはない」と言い張るのは、最悪の抑圧です。――自覚するかどうかに関わらず、私たちは具体的な技法を生きてしまっているのですから、つねに分析を繰り返しつつ、技法について工夫するしかないのだと思います。

2013-01-08 「わかりやすい当事者」&「わかりやすい正義」では、ムリ このエントリーを含むブックマーク

ネットに、自助グループの機能が期待されている。

私はもう、そこには期待しなくなった。*1


「マイノリティ的な属性の提示」で、自動的につながりが生じるのが当たり前だと思う大きなフォーマットに、抵抗したい。


「わかりやすいネガティブ性」の提示は、常識的な価値観から自由なようでいて、実はそれに縛られたままだったりする。

過去の経歴や属性がどうあれ、差別的に見ないということは、「お互いに日常的な存在でしかない」ことに気づくということ。深刻な経験は、免罪符でも、つながりの保証でもない。


自助グループは、お互いの経験の「相対化」や自己検証のチャンスであって、「同じだよね!」ではない。*2


いまだに、

  • 「わかりやすいマイノリティ性の提示」と、
  • 「わかりやすい正義の提示」という、

わかりやすすぎる両極だけがあって、それをシャッフルするような、

本当に必要な議論が始まると、そっぽを向かれる状況がある。


当事者性も正義も、実際の活動を支えるには、部分的な機能しかない。

そうしたものの誇示は、幼稚な居直りでしかないことに気づかないと、

具体的な問題意識が潰されてしまう。*3


「わかりやすすぎる正義」は、熱意も持ちやすいし、予算も出やすい。

観客の賞賛も得やすいだろう。でも、積極的な処方箋は何も出てこない。

やった人間がヒーローになるだけ。


全面肯定や「抱きしめてあげろ」は、ナルシシズムの支え合いにはなっても、

長期的な取り組みを支える技法論ではない。



*1:「似たような属性を持つ」場合には、激しい嫉妬なども生じやすい。ひどいことをされる場合も多い。

*2:私がここで提示しているような理解は、「専門家」とされる方々にも、共有されているとは言えない。

*3:たとえば、至近距離の関係がどうなっているのか、どうすればいいのか。大文字のスローガンで「いい格好」をしたがる知識人は、身近な関係をそれ自体として話題にすることを、激しく嫌う。

2013-01-05 存在論的ダイエット このエントリーを含むブックマーク

承前

  • 食事という行為を、《デアル》 と 《ガアル》 を咀嚼する営みにする(参照)。 制作過程のような、存在論的な食事。
  • 飢餓状態を、形式的禁止で慢性化させる。 そのことじたいに快楽がある 驚くほど味覚が鋭くなる。
  • 少しだけ口に入れて、ひとくち ひとくち、味わいつくす。→「心理的に満腹なので、もう要らない」にもなる。
  • ご飯やパンなど、炭水化物系のすべてを、心理的に 《ケーキやアイスクリーム》 と同じ位置づけにする。 「ご褒美として食べる」の自己暗示。
  • 気に入ったものは味付けせず、素材そのものを味わう。 存在の近くにいるために。


「痩せたいのに、たくさん食べるのをやめられない」のは依存症的だが、

体重が減ってくると、こんどは体重が減ることに依存的になる。

ごまかしようもなく本当に「減っている」ことに気づいたときの、あの麻薬のような快感は、

カロリー摂取すべてに罪悪感を持つのに十分だ。*1



「できれば、もう食べたくない」

食べることが、労働のようになってくる。

そういうシフトを、自分の中に作り出す。

以前は食べずにいようとするコントロールだったものが、

だんだん、「食べるのをサボらない努力」になってくる。

このバランス点を探す。



語源は「生活様式」「生き方」

Wikipedia:「ダイエット」 より:

 「ダイエット」は、英語の diet の音訳。 英語では「(日常的に口にする)飲食物」や「食餌療法」、「減量を目的とする食生活」を意味する。 古代ギリシア語の δίαιτα (diaita、「生活様式」「生き方」)が、ラテン語(diaeta)と古フランス語を経て、英語に入った。

いわば《生存の技法》。 「やせる」のは、その部分的成果にすぎない。



*1:我慢すればするほど、「自己管理している」というチープなナルシシズムも満たせる。

2013-01-03 順応者たちがもたれあう、《黙認の結託》 このエントリーを含むブックマーク

ある医療関係者のお話:

 さいきんは不登校や引きこもりの相談がなくなって、

 脳髄の問題である「発達障碍」の相談ばかりになってしまった。

あらゆる立場の人が、発達障碍の話になだれ込んでいる。

逆にいうと、脳髄とは別の問題構成は、見捨てられつつある。


社会保障からこぼれ落ちる相談者に「発達障碍」のカルテを乱発することは、

一部の“良心的”支援者にとって、使命感にすらなっている。*1



主観性の制作過程――その技法論

病気でも知的障碍でもないはずなのに、「できない」。

私はその多くを、《主観性の制作過程の硬直》と捉え、

技法論としての試行錯誤を続けている。*2

しかしこれは自動的に、「発達障碍」という概念の政治性を暴き出す。


官僚的な正解主義にとって、こうした技法論は

「通常とは異なる概念操作」であり、容認し得ない逸脱だろう。*3


主観性の技法論は、じぶんの構成について、歴史性や様式を問う。

――これは、試行錯誤の権限と能力を取り戻そうとする作業だ。

今はこれが忌避される。



「もはや順応しかない」

少し前から、ささやかれていたこと:

 以前は親の会をすると、親御さん同士が話し合っていたが、

 最近は話し合いの最中は黙っていて、終わってから個別に相談に来る。

 みんな、「自分たちで取り組む」ことを信じなくなった。

もう、制度順応以外に生き延びる道はない、と。


自力で試行錯誤などやってしまったら、目を付けられる。 それより、

少々のウソがあってもいいから、社会保障の制度内に入れてもらいたい。


官僚的な概念操作に対し、「技法論的に別の話があり得る」というのは、

危険な自己主張として、自粛される。*4


「そういう順応主義こそが、意識を硬直させるのですよ」と言っても、

むしろもっと硬直したほうが、発達障害の診断をもらえるかもしれない。

そしたら、社会保障で生き延びられるではないか。

何の保証もない技法のチャレンジなんて、弱者には危険すぎる

――そういう判断でないかどうか。



個人としては合理的でも、集団としては自滅的

 「誰も自分でやろうとしていない、だから私も迎合しよう」

問題に取り組むより、打算的な制度順応が優先される。


医師や学者の多くは、真実を語るのではない。 彼らは、

専門性のロジックに迎合し、ひたすら「業績」を作っている。

いくら大事な話でも、「業績にならない」と判断すればやらない。

それが、弱者側の制度ユーザーに利用される。


――順応主義者たちによる、相互利用としての《黙認の結託》。


大川小学校で、子どもを何十人も死なせた大人たちを思い出す(参照)。

近視眼的な順応主義は、「全員で津波を待つ」ような居直りだ。

集団的な破綻が押し寄せても、誰も責任を取らない。


問題はここからだ。 さて、ではどうするか。



*1:訪問者の何割を発達障碍と診断するかの判断は、窓口や医師によって大きく異なる。

*2:主観性の生産様式は、歴史的な成果であり、くり返される政治的成果として、再生産されている。技法論は、この集団的な生産様式に介入する。

*3:医師の語用をそのまま追認する議論は、《主観性それ自体が唯物論的な生産過程である》という事実を徹底的に無視する。 「論理過程以外の主観性は、感情論にすぎない」といったことだろう。論理の前提となる概念の実態を知らなければ、これは医師への崇拝でしかない。

*4:逆に言えば技法論に、決定的な政治性がある。 「主観性に政治などない。論理的な正しさがあるだけだ」という人は、明白な政治的態度をとっている。技法論的な検証を免除される主体化はない。

2013-01-01 謹賀新年 このエントリーを含むブックマーク

専門性の高い議論に仲間を見つけられる状況を当たり前だとおもう人は、

その状況が数世紀におよぶ「仕事の成果」であることを忘れている。

だから、新しい議論趣旨を抱えざるを得なくなった人が

孤立する状況に、想像力が及ばない。


制度論をバカにする人は多いが、科学の時代にああいう奇妙な議論が必要となった理由を考える人は少ないし、代替案をひねり出せる人は、もっと少ない。科学言説の太鼓もちをやったところで、問題に取り組んだことにはならない。


科学を身上とする言説は、問題を再生産する「加担行為」ですらある*1

――これは、ニューサイエンスに身売りすることではない。

科学言説のタイミングは、その都度リアルタイムに考えなければならない。


私たちはまず、主観性の再生産それじたいが難しくなっていることに気づかねばならない。気づかないフリをして、話し続けることはできない。



問われているのは、主観性の生産様式

この話をするための環境整備で、私の残り時間はあっという間になくなるだろう。

でもやらなければ。でないと、投げやりな順応主義で全てが終わってしまう。

問題に取り組んだつもりのマジメそうな言説が、すでに問題の再生産でしかないという状況に着手できない。*2


「発達障碍」という概念枠を誰も彼もが採用したがるのはなぜか。

原理的考察の《再着手》より、「順応的にやれそう」に流れてるだけ。

――そう気づいたところで、この声自身が潰される。


査読者は、党派や体制の順応者。では順応それじたいの党派性をモチーフにした論考は、誰が読んでくださるのか。カール・マルクスは「経済学博士号」を持っていない。しかし私じしんは、それを言い訳に何も書かないわけに行かない。


――そういうことを考えて過ごすお正月でございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。


上山和樹



*1:特定の生産様式にもとづいた生産関係それじたいの再生産

*2:たとえば社会学は、あたりまえのように「発達障碍」という概念枠に承認を与えている。それは相手の専門性にタッチしていないようで、《問題の大きい医療言説にアカデミックな承諾を与える》という、悪しき社会的機能を果たしてしまっている。つまり、露骨な介入だ。社会学は、おのれの言説構成が(とりわけ主観性の再生産において)もつ悪しき機能に、自覚的ではない。気づければ、いま以上に積極的な機能を果たすだろう。

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