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[語句説明]

2013-02-22 説明原理や、問題意識そのもののマイノリティ性 このエントリーを含むブックマーク

酒井泰斗氏から、私にいただいたレスポンスです(ありがとうございます)。

以下は今の時点でのお返事、というか、とりあえずの整理です。



モチーフの基調音として

それまで価値観を共有していると思っていた周囲の人たちまで、

実際に生じたことについての、古臭い解釈に居直ることがあります。

「権威ある誰か」の言い分は、そこでダメ押しみたいに抑圧する(参照)。


 「これ、おかしいですよね」 「いや、問題じゃないな」

→ 問題意識を分節することそのものが、どうしようもなく孤立する。逆境にある。


 あなたには、なぜそれが「問題」だと分かるんですか?

 あなたが考えを変えればいいのではありませんか?

→ 新しく説明原理から作り直すしかない。

そしてそれは、既存の解釈格子に捨てられる。

「そんなものは、説明でもないし、問題でもない」と言われ続ける。


「個別に問題に対応する」だけでは、この背景的な間違いは、正されることがない。


説明原理じたいがマイノリティの側は、膨大な説明をして、それでもほとんど理解はしてもらえないのに、「科学」などの説明原理だけでよい人は、わずかな説明でもう「説明した」ことになる。――そういうジレンマがあります。*1



大前提として

精神医学の診断カテゴリは、身体医学のそれと同等に扱うことはできません。精神医学は、学問的対象化のスタイルそのものから問い直されていますし、診断のカテゴリには、物質レベルでチェックできるマーカーがありません(参照)。

端的にいうと、あいまいな「臨床単位(clinical entity)」として運用される概念を、因果のはっきりした「疾患単位(disease entity)」と、同じに扱うことはできません。*2


発達障碍は、「器質因だろう」と想定されている(つまり、因果がはっきりしている前提にある)のに、どこにどういう問題があるかは特定されていない、という奇妙な状態にあります。

「発達障碍の診断を受けた」という場合、これは定義上、「先天的に脳髄の物質的異常を抱えている」という意味ですが、その異常については調べようがないので、

  • ほかの疾患や障碍なのに、誤診しているのではないか?*3
  • 先天異常に見えるが、文化的・社会的にそのように見えているだけではないか?

といった疑いが、残り得るわけです。


私は発達障碍に関して、器質的トラブルの可能性は否定しない前提で、*4

 意識そのものが同じパターンを反復してしまう、そういう形で硬直してしまう

という状態について、簡単に「診断カテゴリ」を前提にすることができません。

むしろ、そのようなカテゴリを前提に論じることそのものがもたらす硬直を問題にしたい。私が発達障碍について、《論じかた》に最大限の注意を払おうとするのは、そういう理由です。


意識に硬直があるなら、動きとして、動きのなかで論じたい。

そして論じる自分は、生きた時間を抜け出すことができません。

誰かを固定的に、イデアの世界に描き出して居直るような、メタ言説に順応したことを誇示するような主張(正しい主張には、政治などあり得ないとされる)は、生身の時間には許されていません。


私は、「診断名に還元して終わり」という処理を認めていません。作業仮説でしかない診断名に、「診断名で処理されるべきだ」という独断を乗っけても、具体的な対処を生きることにはならない。書類上の処理(名詞形による分類)と、具体的な処方箋は、別の議論をするべきです。

そもそも今は、発達障碍と診断されかねない硬直を、多くの人が生きています。その硬直をテーマにするのは、「診断」して悦に入るのとは別のことです。



概念や論じ方も、やり直しの作業に巻き込む

苦痛のある状態を改善しようとして、議論を始めますよね。

そこで最初に与えられた概念は、絶対的なものではありません。無資格者だって、その前提から問い直すことができるし、むしろそういう問い直しこそが必要なのです。

たとえば外科的な身体医学なら、「物質機序を明らかにする」という基本的な方針については、文句のつけようがないでしょう。しかし精神科では、「どういう発想でアプローチするか」から、問い直しをせざるを得ません。*5


私がこだわっているのは、そういう問い直しの権利と必要性です。

そして「論じかた」は、直接の臨床課題になっている。

状態像の硬直に関して、あまりに大きな影響を持つので。

間違った論じ方をすることで、論じる本人が固まってしまう。


たとえば、

 「科学的に」「ロジカルに」

というアリバイだけに居直るような論じ方はできません。

この前提だけに頼ろうとすると、診断名の名詞形は温存されるし、丁寧にやろうとすればするほど、抑圧はひどくなります。既存の方針が強化され反復されるだけなので。私は、それでは扱えない事情を何とか扱おうとしているわけです。


科学や論理は、動きを作り出すためのきわめて重要な要因ですが、

それ「だけ」というわけにはいきません。*6


酒井さんからは、「分析すればいい」と励ましていただいたのですが(参照*7、そこではいつの間にか、《分析》という言葉で名指される作業のスタイルは、決められていないでしょうか。私が自分の前提に基づいて《分析》しても、その作業は、酒井さんからは「それは分析ではない」と言われる可能性がないでしょうか。

現に今回も、私が必要とする問題意識について、酒井さんは「そんな大雑把な話には乗れない」とのことでした(参照)。しかし私からすると、私のような問いを無視する議論こそが、大雑把すぎるのです。



マスキングや阻害の中身

焦点は、ここです:

私も酒井さんも、マスキングや阻害がまずい、と言っています。

ですのであとは、「より抑圧の少ないあり方」について、

それぞれが整理し直すべきなのでしょう。――とりわけ、

「マスキングや阻害」の理解について、マイノリティ性を抱える私のほうが。



作業過程の硬直をもたらすもの

意識や関係をマネジメントするときに、

 診断カテゴリによる処理という手続きの方針

だけは、温存されがちです。便利なので。

医師が議論をやり直すにも、「カテゴリで処理する」という

言説方針そのものは、変わりませんでしょう。


つまりここでは、「マスキングや阻害」に関して、

 議論の方針がどう設計されているか、その人がどういう方針に従っているか

を問うています。


それを問わずに議論をやり直しても、努力の方針は、同じパターンを繰り返す。

問いと答えのカップリング自体が、ウソの土台の上に乗っている。


議論の方針を変えたいという話をしているので、

 あなたは医師ではないから許されない

というのでは、論点が違いますね。

医師免許があっても、議論の方針は間違っていることがあり得ます。

というか私は、専門的とされる議論の前提を、やり直そうとしています。*8


名詞形の診断カテゴリも、絶対的でメタ的な準拠点ではなくて、

 前提を問い直すことによって、自分で組み直すことができるかもしれないような、作業過程の部品

のような扱いになります。

カテゴリを問い直すことを前提にできれば、「○○的」という表現も、位置づけ直せる。つまり私は、誰かに向けて最終的な診断フレームを突きつけているのではなくて、概念や環境の事情そのものが、組み直し得る素材のレベルにある。その前提で論じています。


酒井さんとは、この前提を共有していないと感じています。つまり酒井さんは、硬直する意識そのものを、《作業過程の硬直》とは、捉えておられない。そこで私が診断カテゴリを持ち出せば、「不当な診断ごっこをしている」という話になるのは、当然です。



次のような対比がないでしょうか。

  • 酒井さんは、診断カテゴリを名詞形で尊重し、しかもこれを医師だけが運用するのでなければ、阻害とマスキングは強まると考えている。
  • 上山は、即物的な記号として投入された診断カテゴリも、動きのなかに置き直し、論じ直さなければならない。診断カテゴリも論じる自分も、止めることのできないナマの時間を生きるゆえに。阻害≒疎外は、《必然性をもった動きをせき止めるもの》にある。 硬直した名詞形による処理は、その一つ。



名詞形という、便宜的なもの

たとえば引きこもりが典型的ですが、苦しさに名前がなかった人たちは、

 こんなにおかしな状態になっているのは、自分だけだ

と思いがちです。→ 名前を与えられて共有されることで、ひとまず安心。


ところが今度は、そのカテゴリが自分を縛り始める。*9

便宜上の説明概念だったはずが、こちらの人生を丸ごと飲み込む概念枠になる。

私の活動はそこから一歩も出られないし、自分でもそういう思考を始めてしまう。


「医師以外は、診断名について論じるな」というのであれば、

 名詞形に基づいた医師たちの概念操作には、

 誰がどういう手続きで、問題提起をするのでしょうか?

私は医師でもアカデミシャンでもありませんが、概念操作について、

自分で疑念をもち、自前の工夫をしてもよいはずです。

これは書類上の手続きとは別の、技法レベルの試行錯誤です。


たとえば「人格障害」は、医師たちの使う用語だったのですが(いちおうまだ現役)、これは新しい診断マニュアルの編纂チームによって、概念枠そのものがデタラメだったことが曝露されています(参照)。 この概念枠が奇妙であることは、医師免許のない人たちにも以前から指摘されていましたが、私たちは、「正式発表」を待つしかなかったのでしょうか?


たとえば次のような発言は、日常的ですらありました。

 この状況だと、おれは「人格障害」と見られちゃうね

これは問い直しであって、概念枠を信じているわけではありません。

むしろ皮肉であり、批評的な言い回しです。


いっぽうで、まさに酒井さんのおっしゃるような、「不当な診断ごっこ」を私に向けて悦に入る人にも出会いましたが*10、それとは作業の趣旨が違うはずです。



問題意識の「前提」から弁護しなければならない

(青)と、酒井さん(人物絵)のやり取りより:


「どんな機会に どんな手段でもって把握することができたんでしょうか」というのは、本来は誰に対しても突きつけられた問いのはずです。そこで、問題意識そのものにマイノリティ性を抱えざるを得ない側は、既存の解釈枠に頼れないので、「問題意識のフォーマット」の弁護から、始めなければならない。圧倒的に不利な状態にあるのです。


個別論点を扱うだけでは「なかったこと」にされるので、わかりやすい説明原理に基づくわけには行かない。自明とされる説明原理がなきものにしたものをこそ扱おうとしているのですから。自分の抱えている怒りについて、物質機序を突き止めるような、自明の説明フレームには乗っかれない。


いわば《怒り》そのものが、芸術家の出品のようなポジションに置かれるのです。「これは何をやっているか分からない」と言われ続けるが、わかりやすさ「だけ」を追求すると怒りそのものが潰されてしまうし、かといって、既存の解釈の文脈(常識的にいってどのように受け取られるか)は、無視できない。誰にも理解されないかもしれないが、自分の怒りが本物だというなら、それは「伝わらないかもしれない、でも必然性がある」ということを、自分で解説し、批評しながら、プレゼンテーションするしかない。


問題意識の適切さは、論理学にも還元できません。

論理だけに頼ろうとするのは、それ自体が独りよがり。

また、たんに詩的に耽溺すればよいのでもない。


ひとまず、

 問い直しの要請は、身体から切り離すことはできない

くらいは言えますが、それが独善にならない保証はありません。

どのタイミングで、どんな問い直しをすればよいのか。

またその介入は、どのように適切であり得るのか

――これは、私じしんの技法の問いでもあります。



ただでさえ言語化しにくいことについては、既存の解釈格子や方法意識に還元できなければそこには正当な問題はあり得ないと考えること自体が、激しい抑圧です。

私たちの日常では、多数派のスタイルを反復する誰かが、

必然性をもって生じた疑念をなかったことにして、どんどん進んでいきます。


ですので、いきなり個別的な説明をするのではなくて、

 説明や弁護のために必要な前提それ自体がマイノリティである

という、このモチーフを根付かせるところから、

始める必要がありそうです。



*1:そうなると、かろうじて分節した話を詳細に理解くださる方は、(すくなくとも初期段階では)少数派にならざるを得ない。ものすごくピンポイントでしか、出会えないかもしれない。だから、こちらの説明をやり直してもらえたようにすら感じる瞬間は、本当にうれしいのです。

*2:精神医学で因果がはっきりしているのは、器質性の精神障害のみです(参照)。

*3:診断枠として、統合失調症/発達障碍/普通精神病 の3つは、絡み合っています。

*4:そもそも脳髄という臓器について、「プロトタイプ」はどこまで前提できるのでしょう。誰の脳髄でも、なんらかの物質的偏りは持つのでは。

*5:それが専門性への、不信感の理由にもなっています。ここで専門性とは、薬へのアクセス権でしかなくなる。多くの患者さんにとって精神科医は、「向精神薬の自動販売機」みたいな機能しか持ちません。医師の自意識やディシプリンも、「薬を手に入れるためのファクターのひとつ」でしかない。

*6「科学や論理への還元ではないような批判とは、そもそも何か」について、社会的に位置づける必要が生じていると思います。私はひとまず、「名詞形への還元をやめてくれ」と申し上げています。

*7:皮肉ではなくて、言葉通りに受け止めています。もちろん感謝しています。

*8:資格や所属ではなく、作業のスタイルそのものを論じようとすること。私はこれを、「生産様式」というモチーフで扱っています(今回はとても扱えませんし、細部は課題のままですが)。 私たちの意識そのものを、唯物論的な「生産過程」として論じよう、という試みです。直接 参照しているのは、フェリックス・グァタリです。 「主観性の生産」は、グァタリの基本的なテーマですらあります(参照)。

*9:名詞形の「当事者」という枠組みも同様。

*10:そのうちの一人が、私の協力した社会学者でした。

2013-02-20 グァタリの語用: 《détacher》(6) このエントリーを含むブックマーク

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La révolution moléculaire』-2 (1977、1980年)

 Elle va dans le sens de l'intériorisation de la répression. « Les masses inventeront » ... Pas une nouvelle justice, un nouveau code et de bons juges ! Ou si elles en viennent là, c'est qu'elles seront en train de basculer dans le fascisme. Elles inventeront une « instance d'élucidation politique » qui permettra d'en finir avec l'individuation de la responsabilité, avec la réification de la culpabilité.

 それは、抑圧の内化の方向にゆく。「大衆が発明する」... 新しい正義でも、新しいコードでも、よい裁判官でもない! あるいは大衆がそういうことに取り組むなら、彼らはファシズムに急変しているだろう。大衆は、責任の個人化や有罪性の物象化と手を切らせてくれる、「政治的解明の審級」をでっち上げるだろう。


 À la question : « Qui est-ce qui a fait ça? », elles substitueront : « Comment ça s'est agencé, comment on en est venu là ? » Elles élucideront politiquement, machiniquement, un agencement de désirs bloqué : « Qu'est-ce qu'on peut faire ? » « Je m'oppose à l'idée que le système pénal soit une vague superstructure... tout un idéalisme est drainé à travers tout ça... » dit Michel Foucault. Fondamental !

 大衆は、「それをやったのは誰?」という問いを、「いかにしてそれは配置されたのか、いかにしてそんなことになったのか?」という問いに変換する。大衆は、遮断された欲望のアレンジを、政治的に、また機械的に解明するだろう。「何ができるだろう?」。 フーコーは、次のように言った。「私は、刑事司法制度は上部構造であるという考えに反対する…すべての理想主義が、そうした考えで押し流されてしまう…」。 根本的だ!


 À propos de la distinction entre plèbe prolétarisée et non prolétarisée : ce qui me semble à approfondir, c'est l'idée amorcé e par Foucault d'un détachement d'une « avant-garde » par la machine d'écriture : « Une éthique dans l'alphabétisation », le passage de la loi sous la lutte, de telle façon que le capitalisme dispose d'un flux de main-d'œuvre « sur-décodé » qui viendra en adjacence aux machinismes industriels.

 プロレタリア化された庶民と、そうではない庶民のあいだの区別について。より深いように思われるのは、フーコーに口火を切られた、エクリチュール機械による《前衛》の剥離、という考えである。 《文盲教育における倫理》。 資本主義は、「脱コード化されすぎた」手仕事の流れを配置するが、この手仕事は、工業的機械化に隣接してやってくるだろう。そうした仕方での、闘争下の法の移行。


 Ce qui implique aussitôt pour le pouvoir qu'il entreprenne d'infiltrer cette avant-garde avec sa morale, son idéal de vie, etc... (pp.219-220)

 権力にとって直ちに意味することは、その道徳や生の理想が、この前衛に浸透し始めるということである。 (邦訳なし)

 On devrait donc distinguer entre :

  • 1) Une classe ouvrière bien élevée par prélèvement sur les masses. Flux « sur-décodé », instance la plus déterritorialisée dans son rapport à la machine et la plus archaïque dans son rapport à la famille, au pouvoir, etc...
  • 2) Une pseudo-avant-garde par détachement sélectif (les bolcheviks parlaient de « détachement de la classe ouvrière » ). Une armée de bureaucrates en puissance. Ici la machine d'écriture n'est plus subie passivement ; elle est pleinement assumée. Ça travaille contre le désir et pour le compte du pouvoir avec une écriture, avec une parole écrasée, saturée de « mots d'ordre », imprégnée des mots de l'ordre dominant.
  • 3) Un résidu schizo. Le lumpen. Tout ce qui fuit, tout ce qui ne marche pas dans la combine, ou qui ne trouve pas où se caser.


 それゆえ、次のあいだの区別をつけるべきだ:

  • (1)大衆からの引き抜きによる、よく教育された労働者階級。「脱コード化されすぎた」流れ、機械との関係において最も脱領土化され、家族や権力等々との関係において、最も古臭い審級。
  • (2)選択的な離脱による、前衛もどき(ボルシェビキは「労働者階級の離脱」について話していた)。 権力における、官僚の軍隊。ここでエクリチュール機械は、もはや受動的に耐え忍ばれたりはしていない。機械は、完全に引き受けられている。それは欲望に敵対して活動する。一つのエクリチュールでもって、あるいは破砕された、「命令語」にウンザリさせられた、支配的秩序の語に浸透された発話でもって、権力に仕える。
  • (3)分裂した残りかす。ルンペン。逃げ出したり、うまくやれなかったり、居場所を見つけられないすべて。

 Une machine révolutionnaire devrait déterminer ses connexions avec ces trois niveaux hiérarchisés : les rangs et les castes, actuellement indissociables de la classe ouvrière, ne peuvent être défaits que dans la mesure où sera élaborée une stratégie des formations désirantes. La machine révolutionnaire n'est pas un prélèvement de classe, un détachement de caste bureaucratique. Elle est une formation de subversion désirante. Le désir prend rang dans le combat sous une forme pré-personnelle. Ce qui compte, ce n'est pas un soidisant progrès entre des formes d'organisation du prolétariat qui tendraient à l'organiser comme une grande armée centralisée.

 革命機械は、これら3つの階層化されたレベルについて、連関を測定しなければならない。目下は分離不可能な労働階級の列とカーストは、欲望形成の戦略を練り上げるという基準の限りにおいて、解体されることはできない。革命機械は、階級の引き抜きや、官僚的カーストの離脱ではない。それは、欲望する転覆の成熟・形成である。問題となるのは、プロレタリアの組織の、いわゆる発展にあるのではない。そうした組織は、中心化された大きな軍隊として組織される傾向にあるのだけれど。


 C'est la multiplicité désirante qui essaime à l'infini. La subjéctivation machinique qui contamine tout (ex : la guerre populaire au Viet-Nam). La formation révolutionnaire est en-deçà des castes et des classes, elle « double» l'ordre molaire. (pp.220-221)

 それは、際限なく分散する、欲望する多数多様性だ。すべてに伝染する、機械状の主観性(ex.ベトナムの人民戦争)。 革命的な成熟・形成は、カーストや階級のこちら側に、「分子的秩序」の側にある。 (邦訳なし)

 Distinguons les redondances intensives et les redondances expressives. Les redondances intensives procèdent par encodage intrinsèque, sans mise en jeu de strates d'expression spécifiques ; elles restent donc elles-mêmes prisonnières de stratifications d'encodage. Exemple : la stratification intrinsèque du champ des particules nucléaires, celle de l'organisation atomique, moléculaire, chimique, biologique, etc...

 強度の冗長性と、表現の冗長性を区別しよう。強度の冗長性は、特別な表現の地層を作動させることなく、内在的なコード化によって処理する。それゆえ強度の冗長性は、それ自体が、「コード化の地層化」に囚われたままだ。たとえば、核子の場の内在的地層化。あるいは原子的・分子的・化学的・生物学的etc....の組織の、地層化など。


 Chacun de ces modes d'encodage, de reproduction, de maintenance et d'interaction ne peut être détaché de sa strate particulière. Il n'y a pas entre les strates de rapport d'expression, de concordance, d'interprétation, de référence, etc... Elles restent indifférentes les unes des autres. (p.488)

 これらのコード化や再生産・維持・相互作用といったものの様式それぞれは、その固有の地層から切り離すことはできない。それらの地層のあいだに、表現・符合・解釈・参照といった関係は、存在しない。それらの地層は、互いに無関心にとどまる。 (『精神と記号 (叢書・ウニベルシタス)』、p.114)

 Ce n'est que dans le cas où seront mises en jeu des machines sémiotiques spécifiques autonomisées que pourra s'effectuer un passage direct d'une strate à une autre. On aura alors non une plus-value de code mais un transcodage. La machine sémiotique mettra en jeu une procédure de déterritorialisation absolue susceptible de traverser toutes les stratifications. Une telle machine sémiotique ébauche son autonomisation avec la machine de reproduction biologique. En effet celle-ci amorce la spécialisation d'une machine de lecture qui aplatit les intensités, qui les exprime (au sens où on exprime le jus d'un fruit). La machine d'expression génétique implique le détachement d'une ligne d'encodage, qui servira de moule reproducteur. Ainsi est mis en place un système de double articulation : une ligne d’encodage déterritorialisée, c'est-à-dire une ligne qui se détache au maximum de la deuxième et la troisième dimensions, une ligne qui colle aux intensités, qui les diagrammatise. (p.489)

 一つの地層から別の地層への直接的な橋渡しがなされ得るのは、自律化した特異な記号機械が作動する場合だけだろう。このとき機能するのは、コードの剰余価値ではなくて、〔いわば〕「トランス-コード化」である。記号機械は、あらゆる地層化を橋渡しする、絶対的な脱領土化の手続きを作動させる。このような記号機械は、生物学的な再生産の機械に対して、自律化し始める。というのも、生物学的な再生産の機械は、諸強度をぺしゃんこにし、搾り取る(フルーツ・ジュースを搾るという意味と同じ)解読機械の特殊化に着手するからである。遺伝子の表現機械は、再生産の鋳型の役目を果たすコード化の線の、剥離を意味する。こうして、二重分節のシステムが設置される。すなわち、それは脱領土化されたコード化の線、言い換えれば、二次元・三次元から最大限に剥離する線であり、諸強度に密着し、その諸強度をダイアグラム化する線である。(『精神と記号 (叢書・ウニベルシタス)』、pp.114-115)

 Le signe ne peut plus se connecter directement au réfèrent, il doit s'en remettre à la médiation de la machine signifiante. Le signe devra toujours se référer aux sémiologies des machines de pouvoir avec leurs coordonnées syntagmatiques et paradigmatiques particulières pour pouvoir produire quelque effet que ce soit dans le réel. Pour constituer la sémiologie de l'ordre dominant, la fonction de subjectivation individuante détache et articule deux strates sémiotiques : une strate phonique et une strate scripturale. (p.496)

 記号はもはや、支持対象に直接結びつくことはできず、シニフィアン機械の媒介に身を任せなければならない。記号は、特殊な統辞的・範列的座標系をもつ権力機械の記号学を参照し、現実の中で、何らかの効果を生産しなければならない。支配的秩序の記号学を構築するために、個人化するような主体化の機能は、二つの記号論的地層――音声的地層と書き物の地層――解き離し、分節する。 (『精神と記号 (叢書・ウニベルシタス)』、p.122)


つづく



2013-02-19 「自覚されないままの生産様式」としての党派性 このエントリーを含むブックマーク

党派性というと、

怒り出す人があとを絶たないし、「いつでも勝てる議論だ」とも言われる。

しかし、これが生産様式を問い直す議論であると考えれば、

その必要性も見えてこないだろうか。


論じる自分も、一定の生産様式を生きている。

そしてそれは、必ずしも適切な形をしていない。

その「適切さ」は、ある形を実現したらもうそれでOK、ではなくて、

つねに改編を迫られている。*1

本物の時間を生きるとは、そういうことでしかあり得ないじゃないか。


《論じる》とは、固定をもたらすものとされる。

 結論は間違っているかもしれないが、その「方針」だけは揺るがない

と、本気で思い込まれている。

あなたのような生産様式で固定しては困る。こっちは生身なのに。


 生産様式と生産関係をすでに生きていて、リアルタイムで変動せざるを得ない

――その意味での党派性を話題にできている論者は、今のところいない。

各論者は、自分の思考方針は当たり前だと思い込んでいる。

問い直しの必要があること自体が、忘却されている。



「ひきこもり論」は、表題の問題ではない。

論じる自分のリアルタイムの党派性を、つまり生産様式を主題化できていないなら、

タイトルでいくら「ひきこもり」を掲げていても、

それは原理的には、ひきこもり論ではない。

私が「ひきこもり論をやっている人がいない」と思うのは、そういうこと。



*1:「終わりなき分析」(フロイト)の、焦点をずらした形とも言える。気づかれないまま放置された生産様式は、なくすことができない。いちど明晰に理解すれば、それで党派性がなくなる、というものではない。《党派性≒生産様式》があるとは、身体があるということに等しい。身体性を、中立公正に自覚し尽くすことは出来ない。

2013-02-16 《党派性≒超越論性》を不可視にする、あれこれ このエントリーを含むブックマーク

以前には何度か議論をご一緒したこともあるお二人ですが(参照)、なんと、

私が提案したグァタリ・ラボルド周辺の問題意識は、黙殺されています。


こだわるべきだと思ったのは、たとえば以下のご指摘でした。*1

松本卓也: ラカンは母子関係は母と子の二者関係であることは一度もなく、そこにはつねに最初から第三項としてのファルスが関わっていることを強調しています。つまり、母体的システムの運動以前から、実は超越論性の萌芽としてのファルスはすでに駆動している。ここが重要です。つまり、経験論から超越論が発生するといっても、それは経験論においてすでに超越論的なものが経験論を下支えしているからなのです。これはカントによる経験的、先験的=超越論的の対立の導入以後、近代哲学が暗黙の前提としてきたことです。


ラボルド周辺では、超越論的なものが「うまくいっていない」、その不調から新生の分節が生成する――だから、超越は創発の形でしか生きられない――というあたりが焦点なので、

  • (1)あらかじめ理念として超越を立てたり、
  • (2)「経験の場はあらかじめ超越的なものに支えられている」とする議論とは、

鋭い対立に入るはずです。


私はいずれも、制度論との関係で整理し直す必要を感じています。

あらかじめ建てられた制度を絶対視するのはあり得ないとしても、

《制度化》と呼ぶべき運動について、どう理解し直せばよいか参照1)(参照2


あるいは以下の問いは、具体的な技法論です。

志紀島啓: 僕は逆に超越がないと相対的に強い私人が幅を利かすと思います。地元のボスや地回りのヤクザみたいな輩が。あるいは正当性や公平性といった原理原則を欠いた好き嫌いの感情だけで物事が決まっていくのではないだろうか? それこそ猿山の猿みたいにボスの座を争ったり、縄張り争いがあったり。

トラブルの多くにおいては、法も警察も役に立たない。

では、どうするか? 泣き寝入りしないなら、自前の策が必要です。


そもそもこの対談は、

  • スキゾ・解離・発達障碍など、さまざまに語られたような状況があるとして、処方箋としては、どうすればよいのか?

をめぐっているはず。 これは、問いとして残されたままでしょう。*2


フェイスブックについてのご指摘には、やや強引さを感じました。

松本: 「いいね!」しかないんです。つまり、解離のように「否定しなくていい」自由があるのではなくて、もはや否定はアーキテクチャとして強制的に無効化されているんです。なんというディストピア的な閉塞でしょうか。

志紀島: 何か不幸な出来事、例えば「親が死んだ」とか書いてるのに「いいね!」ボタン押されたらどんな気持ちになるでしょうね?

松本: だから、一般的な傾向として、フェイスブックには皆、無難なことしか書かなくなります。いわゆるフェイスブック五大テーマ、「面白写真、ラーメン、誰と会った、ペット、子供」です。

FB 友達の構成にもよるのだと思いますが、

私のニュースフィードでは、皆さんの「活動報告」がとても大きな比重を占めますし、死亡報告などの悲しいお報せにも「いいね!」がたくさん付いていて、違和感がありません。

たしかに FB は「リア充向け」とよく言われるようで、明るく朗らかな報告が望まれるようですが、それを言うなら、私は自分が10代だった80年代以来、ずっとリア充系の話題に苦しめられています。

「反論がしにくい」というのは、ネットや2010年代に関係なく、以前から問われているはず。つまり党派性の内部では、もともと「いいね!」しか許されなかったわけで、アーキテクチャは、それを可視化しただけとも言える。

いずれも、「さいきん強まった」ように言われることには、大きな違和感があります。


本質的なのは、こうした話題も含め、《党派性》ではないでしょうか。

アーキテクチャだけが支配する環境とは、党派性をもはや問い直すことが出来ないという意味でこそ、ディストピアなのです。*3

そう考えたときには、お二人の対談が依拠するフランス系の議論そのもの――あるいは、さまざまな知的潮流のすべて――が、論じる自分たちの党派性をほとんど話題にできていない。それはつまり、論じる場そのものがどのように成立しているかを論じられていないという意味で、「いいね!」しかない環境なのです。

この対談がパフォーマティヴにあぶり出しているのは、知的言説そのものが、超越論的なものを不可視にする作法(その一例)ではないでしょうか。

逆に言えば、党派性を問い直しやり直すような議論こそが、真に必要なスタイルで、超越を生きることになるはずです。*4



……と、言い出せばいろいろありますが、

私も自分の問題意識をうまく仕事にできていないので、

今回読ませていただいたものを、発奮材料にしたいと思います。

お疲れ様でした。



*1:本エントリの引用における強調部分は、すべてブログ主による。

*2:積極的な技法としての schizo-analyse は、制度論との緊張関係にあります(参照)。

*3:たんなる「棲み分け」は、問い直しの禁止です。

*4:たんに「党派性はいけない」というのではなくて、党派性は、場合によっては固定させるべきです。――固定や改編の必要・タイミングを詳細に扱う技法こそが、ラボルド的な《制度論》です。

2013-02-13 グァタリの語用: 《détacher》(5) このエントリーを含むブックマーク

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La révolution moléculaire』-1 (1977、1980年)*1

 On devrait donc renoncer définitivement à des formules trop faciles du genre : « le fascisme ne passera pas ». Le fascisme est déjà passé et il ne cesse de passer. Il passe à travers les mailles les plus fines ; il est en évolution constante.

 それゆえ、《ファシズムを通すな》といった類いの安易すぎる決まり文句は、決定的に断念しなければならないだろう。ファシズムはすでに通っているし、通り続けている。それは最も細かな網の目をくぐり抜けて、耐えざる変化を続けている。


 Il semble venir de l'extérieur, mais il trouve son énergie au cœur du désir de chacun de nous. Dans des situations en apparence sans problème, des catastrophes peuvent apparaître du jour au lendemain. Le fascisme, comme le désir, est partout éparpillé en pièces détachées dans l'ensemble du champ social ; il prend forme à un endroit ou à un autre en fonction des rapports de force. On peut dire de lui tout à la fois qu'il est sur-puissant, qu'il est d'une faiblesse dérisoire. (p.74)

 それは外からやってくるように見えるが、ファシズムは、そのエネルギーを私たちそれぞれの欲望の核心に見出す。一見なんの問題もないように見える状況の中で、破局があっという間に到来することがある。ファシズムは、欲望と同じように、社会的領野の全体にバラバラに切り離れた断片として散らばっている。それは力関係に応じて、どこにあっても形を成すことができる。ファシズムというのは、途轍もなく強力だと言うこともできるし、また同時に、取るに足りないほど脆弱だと言うこともできる。 (『分子革命―欲望社会のミクロ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、pp.44-45)

 Il y a des militants révolutionnaires obsédés par l'esprit de responsabilité qui disent : « des excès sont concevables "au premier stade" de la révolution, mais ensuite il est indispensable de passer aux choses sérieuses, à l'organisation, à la rééducation. On sait où ça finit : avec des camps en Sibérie !

 責任感に取り憑かれた革命家たちがよくこう言います――「革命の“第一段階に”には、行き過ぎということがあり得るけれども、そのあとには真剣なものごと、組織化、再教育へと移行することが不可欠である」。 しかしそれがどこに行き着くかは、周知のところです。シベリアの収容所ですね!


 On retrouve toujours le vieux schéma : détachement d'une avant-garde apte à opérer les synthèses, à former un parti comme un embryon d'appareil d'État, prélèvement d'une classe ouvrière bien éduquée ; le reste, n'étant qu'un résidu, un lumpen prolétariat dont il faut se méfier.

 いつも、古い図式に出会います。総括を遂行し、国家機構の萌芽としての党を形成しうる前衛の離脱、よく教育された労働者階級の先取り。残りはカスでしかなく、そういうルンペン・プロレタリアは警戒しなければならない、というわけです。


 Établir ces distinctions, c'est une façon de piéger le désir au profit d'une caste bureaucratique. La distinction « avant-garde du prolétariat ― plèbe non prolétarisée » a été introduite par la parti ou un appareil d'État dans le but de capter et de discipliner la force collective de travail.

 このような区別の設定は、官僚的特権階級の利益になるよう、欲望を罠にかける一つのやり方に他なりません。《プロレタリアとしての前衛と、プロレタリア化していない庶民》という区別は、労働の集団的な力を生け捕り、思い通り使いこなすために、党や国家機構によって持ち込まれたものです。


 La bonne classe ouvrière, c’est comme la bonne justice, c’est comme réclamer de bons judges, de bons flics, de bons patrons, de façon à mieux écraser les phénomènes d'expression des masses, pour marginaliser le désir. Là-dessus on nous dit : comment voulez-vous unifier les luttes ponctuelles sans un parti ? Comment faire marcher la machine sans un appareil d’État ? Que la révolution ait besoin d'une machine de guerre, c'est évident, mais cela n'a rien à voir avec un appareil d'Etat.

 「正しい労働者階級」という発想は、いわば「正しい裁判」というようなもので、よい判事、よい警官、よい経営者に懇願して、欲望を周縁化するために、民衆の表現の現象を、破砕するのと変わらない。この点については、私たちはよくこう言われます――党なしに、どうやってきちんとした闘争をまとめられるんだ? 国家機構なしに、どうやって機械を動かすんだ? 革命が戦争機械を必要とするのは明白です。しかし、それは国家機構とは何の関係もない。


 Qu'elle ait besoin d'une instance d'analyse des désirs des masses, c'est certain, mais ce n'est pas un appareil extérieur de synthèse. Désir libéré, cela veut dire que le désir sort de l'impasse du fantasme individuel privé : il ne s'agit pas de l'adapter, de le socialiser, de le discipliner, mais de l'agencer de telle sorte que son procès ne soit pas interrompu dans un corps social opaque et, qu'au contraire, il aboutisse à une enonciation collective. Ce qui compte, ce n'est pas l'unification autoritaire, mais plutôt une sorte d'essaimage à l'infini des machines désirantes : dans les écoles, les usines, les quartiers, les crèches, les prisons, etc... (pp.76-77)

 革命が、大衆の欲望を分析する審級(機関)を必要とするのは確かですが、それを統合する外部装置は必要ありません。解放された欲望というのは、欲望が私的に個人化された幻想の袋小路から抜け出すという意味であって、欲望を何かに適合させ、社会化し、規律訓練することではない。そうではなくて、欲望の解放過程が、不透明な社会体のさなかで中断することがないように、その逆に、解放過程が集団的な言表行為に行き着くように、欲望を配備することなのです。 (『分子革命―欲望社会のミクロ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、pp.46-47)

 Par exemple, la gauche accédant au pouvoir :

  • l'impossibilité pour elle de résorber le chômage ;
  • l'impossibilité de surmonter, dans le cadre des règles du jeu du capitalisme (tant intérieur qu'extérieur), la dépendance de l'économie française à l'égard du marché mondial et des super-puissances qui le contrôlent ;
  • l'accentuation du décalage entre les régions, entre les secteurs socio-professionnels, entre les sexes, entre les classes d'âges, etc., c'est-à-dire d'un côté une stratification sociale, une inertie sociale et économique toujours plus paralysante, toujours plus « revendiquante » et, de l'autre, un marginalisme prenant de l'assurance, se détachant des « utilités marginales » pour assumer de nouveaux modes de vie. (p.140)


 たとえば、左翼が権力の座に就いたとして、

(1)失業問題を解決するのは不可能;

(2)資本主義の枠内(国の内外で同じく)において、フランス経済の世界市場およびそれをコントロールしている超大国への依存を乗り越えるのは不可能;

(3)地域のあいだ、職業社会部門のあいだ、性の違い、世代間のちがい、等々における――食い違いの増大。すなわち、一方に社会が層を成し、《権利要求》は高まるのに、社会経済的な無力さは、ますます麻痺的に。もう一方では、周縁に生きる者たちは自信をつけ、《周辺的有用性》から離脱して、新たな生活様式を我が物とする。 (『分子革命―欲望社会のミクロ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、p.106)

 C'est parce qu'il n'est pas trop éloigné du binarisme du pouvoir phallique que le devenir femme peut jouer ce rôle intermédiaire, ce rôle de médiateur vis-à-vis des autres devenirs sexués. Pour comprendre l'homosexuel, on se dit que c'est un peu « comme une femme ». Et nombre d'homo-sexuels eux-mêmes rentrent dans ce jeu quelque peu normalisaieur. Le couple féminin-passif, masculin-actif demeure ainsi une référence rendue obligatoire par le pouvoir, pour lui permettre de situer, de localiser, de territorialiser, de contrôler les intensités de désir. Hors de ce bipôle exclusif, pas de salut : ou alors c'est la chute dans le non-sens, le recours à la prison, à l'asile, à la psychanalyse, etc.

 「女に生成すること」が他の性化された生成に対してこのような間メディア的役割、媒介の役目を演じることができるのは、それが男根的権力の二項主義から遠ざかりすぎていないからだ。同性愛を理解するのに、ちょっと「女みたい」と考えたりする。そして同性愛者じしんの中にも、なにがしか「正常化」するものであるこの戯れに留まる者が、少なからずいる。「女は受動的、男は能動的」というこの考えのカップルは、こうして権力による義務的な参照基準にとどまるし、欲望の強度を権力が据えつけ、位置づけ、領土化し、コントロールするのを可能にする。この排他的二極性の外には、救いはない。というか、そこから外れてしまっては、無意味への、また監獄や精神科病院、精神分析等々への失墜が、待っている。


 La déviance, les différentes formes de marginalisme sont elles-mêmes codées pour fonctionner comme soupapes de sécurité. Les femmes sont en somme les seuls dépositaires autorisés du devenir corps sexué. Un homme qui se détache des surenchères phalliques inhérentes à toutes les formations de pouvoir s'engagera, selon diverses modalités possibles, dans un tel devenir femme. C'est seulement à cette condition qu'il pourra, de surcroît, devenir animal, cosmos, lettre, couleur, musique. (pp.314-315)

 性的逸脱や、さまざまの形態を取った逸脱行動は、それ自体が、安全弁として機能するべくコード化されている。けっきょくのところ、女だけがその総体において、有性的身体になることを許された唯一の受託者なのだ。すべての権力形態のファルス的-競争激化から離脱する男は、可能なかぎりさまざまなやり方で、このような「女に生成すること」を引き受ける。(『分子革命―欲望社会のミクロ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、pp.240-241)


つづく



*1:左記リンク先の本は2012年11月に出ており、ここには1977年版と1980年版の両方が網羅的に収録され、ページ対比もある。

2013-02-12 グァタリの語用: 《détacher》(4) このエントリーを含むブックマーク

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Psychanalyse et transversalité』-2(1972年)

 Lorsqu'un « courant révolutionnaire » aura commencé de se dégager et d'amorcer sa progression théorique et politique, lorsqu'il sera suffisamment implanté dans les organisations de masses contrôlées par le P.C.F., lorsque la crise que traverse le parti aura mûri au point que les militants communistes de gauche commenceront à s'en détacher et à mener leur propre politique, les étapes ultérieures pourront être envisagées. (p.127)

 ある「革命的潮流」が解放され、その理論的・政治的進歩を開始し、フランス共産党に管理される大衆組織にじゅうぶん根を下ろしたとき、そして党をつらぬく危機がじゅうぶん熟して、左派の活動家が党から離脱し、自分たちの政策を遂行するようになったとき――将来の局面は、考察され得るだろう。 (『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』、pp.203-204)

 Le petit groupe de militants est un objet détaché de la société ; son projet de subversion n'a pas généralement de point d'application immédiat, sauf dans des cas exceptionnels comme ceux de l'entreprise de Fidel Castro, ou ceux des maquis d'Amérique latine. Toute la finitude de l'histoire est à son horizon, tout est possible, même si en réalité l'univers reste opaque. C'est quelque chose de ce type que l'on retrouve dans la pédagogie institutionnelle et dans la psychothérapie institutionnelle. Même dans les situations impossibles, bloquées, on s'efforce de manipuler les rouages institutionnels, d'intervenir sur tel ou tel de ces éléments ; les institutions acquièrent une sorte de plasticité, au moins au niveau de la représentation du champ intentionnel. (p.156)

 活動家の小集団は、社会から離脱した対象である。体制転覆を目指す彼らの企ては、フィデル・カストロやラテンアメリカのゲリラの企てのような例外を除いて、一般には、即座の実行に向けられているのではない。たとえ実際には、世界は不透明なままであっても、活動家の小集団の地平には、歴史の有限性のすべてがあり、すべては可能なのだ。これと同じタイプの何かが、制度を使った教育学や、制度を使った精神療法に見出される。耐え難く行き詰まった状況においても、人々は制度の歯車を操作し、その構成要素のあれやこれやに干渉しようと努力する。制度は、志向性の領野の、少なくとも表象化の水準においては、一種の可塑性を獲得する。 (『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』、p.248)

 On dira que la classe ouvrière n'a que faire d'une « restitution » de tels processus subjectifs, qu'elle a besoin d'être constituée en armée disciplinée, en armée de militants, etc. Mais, pourtant, son aspiration n'est-elle pas ailleurs, vers la production tangible d'un sens à ses activités, à ses luttes, etc. ?

 労働者は、こんな主観性のプロセスの「返還」しか持ち合わせていないじゃないか、彼らは、規律正しい軍隊や、活動家の軍隊等に作り上げられる必要がある――そう人々は言うだろう。しかしながら、労働者階級が熱望するのは、活動や闘争の方向性について、わかりやすく出して見せるという辺りのことではないだろうか。


 Pour reprendre des notions que je n'ai avancées que provisoirement, je dirai que l'organisation révolutionnaire s'est détachée du signifiant du discours de la classe ouvrière au profit d'une totalisation refermée sur elle-même et antagoniste à l'expression de la subjectivité de différents sous-ensembles et groupes, de ces groupes-sujets dont parlait Marx. La subjectivité de groupe ne trouve alors d'autres moyens de s'exprimer que dans une fantasmatisation qui la cantonne à la sphère de l'imaginaire. (pp.160-161)

 暫定的にしかしか主張しなかった概念を再度とりあげて、私は次のように言うことにしよう。革命的な組織は、労働者階級の言説のシニフィアンから離脱し、それ自身の内に閉じこもった全体化に資するものとなった。この全体化は、さまざまな下位集合およびグループの、つまりマルクスの語っていたあの主体集団の、主観性の表現と敵対する。そこでグループの主観性は、それを想像界に閉じ込めてしまう幻想形成において以外に、おのれを表現する手段を見出せない。 (『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』, p.254)

 Comment saisir ces fonctions imaginaires de groupe et leurs variations? Comment se dégager de ce couple implacable : universalité machinique -- singularité archaïque? Notre distinction entre deux types de groupes n'est pas une coupure absolue.

 集団のこうした想像的な機能と、それらのバリエーションを、どのように把握したらよいだろうか。この代替不可能な二項の組み合わせ――機械的普遍性と、太古的な特異性――から、どのように解放されるべきだろうか。集団のタイプを二つに分ける私たちの区別は、絶対的な断絶ではない。


 Nous disons que

  • le groupe-sujet est articulé comme un langage et s'articule à l'ensemble du discours historique, tandis que
    • 主体集団は、一つの言語のように分節され、歴史的言説の総体において、みずからを分節するのに対して、
  • le groupe-objet se structure sur un mode spatial, avec un mode de représentation spécifiquement imaginaire, qu'il est le support de fantasmes de groupe ;
    • 客体集団は、特に想像的な表象様式において、空間の様式に基づいて構造化される。この、特に想像的な表象の様式は、集団幻想の支えである。

 

 mais, dans la réalité, il s'agit plutôt de deux fonctions, qui peuvent même apparaître conjointement.

 だが実際には、二つの集団というよりは、二つの機能が問題であり、それらは同時に出現することさえできる。


 Au cœur d'un groupe passif peut surgir un mode de subjectivité qui développe tout un système de tensions et toute une dynamique interne. Inversement, n'importe quel groupe-sujet connaît des phases d'alourdissement au niveau imaginaire -- qui impliqueraient, pour lui éviter de devenir prisonnier de ses propres fantasmes, que la subjectivité y soit ressaisie dans un système d'interprétation analytique.

 受動的集団のただ中に、緊張のシステムと内的力学をまるごと発達させる主観性の様式が生じ得る。逆にどのような主体集団も、想像的水準での鈍化の諸局面を経験する。こうした主体集団が、自分の幻想の奴隷になることを避けるためには、主観性はこれら鈍化の諸局面において、分析的な解釈のシステムに捉え直される必要があるだろう。


 Peut-être pourrait-on dire que le groupe-sujet représente en permanence un sous-ensemble potentiel du groupe-sujet, et pour faire contre-point à des formulations de Lacan, ajouter qu'il n'y a qu'un objet institutionnel partiel, détaché, qui puisse lui servir de support. (pp.164-165)

 主体集団は、主体集団の潜在的な下位集合を恒常的に表現すると言えるだろう。またラカンの公式との対比でいえば、部分的で制度的な、切り離された対象しか存在しないし、それは主体集団を支えることができる、と言えるだろう。


 Prenons deux autres exemples : 他の二つの例を挙げよう:

― L'hôpital psychiatrique est une structure complètement assujettie aux différents ordres sociaux qui le supportent : l'État, la Sécurité sociale, etc. Des fantasmes de groupe se constituent autour du budget, de la maladie mentale, du psychiatre, de l'infirmier, etc.

 

 精神科病院は、それを支えるさまざまな社会的秩序(国家、社会保障など)に、完全に従属した構造である。集団の幻想は、予算・精神病・精神科医・看護人などのまわりに、構成されている。


 Il peut pourtant se créer, localement, dans un service, un objet détaché qui provoque un remaniement profond de cette fantasmatisation. Cet objet sera, par exemple, le club thérapeutique. Disons que ce club est l'objet institutionnel (l'objet « a » de Lacan pris au niveau institutionnel) qui permettra d'enclencher un processus analytique. On voit que la structure analytique, l’analyseur, n'est pas le club thérapeutique lui-même, mais quelque chose qui est appendu à cet objet institutionnel, ce qu'ailleurs j'ai désigné comme vacuole institutionnelle. Ce pourra être, par exemple, un groupe d'infirmiers, de psychiatres ou de malades, qui constituera cette structure analytique, vacuolique, lieu de lecture des phénomènes inconscients, et qui fera exister pour un temps un groupe-sujet au sein de la structure massive de l'hôpital psychiatrique. (p.165)

 しかしながら、医療機関のなかに、この幻想形成の根本的な再編を引き起こすような、剥離された対象が生み出されることがあり得る。例えばこの対象は、療法クラブであるだろう*1。 このクラブは、分析過程を始動させることのできる制度論的な対象(制度の水準で捉えられたラカンの対象a)である――と言おう。その分析的な構造、分析するもの〔analyseur、分析装置〕は、療法クラブそのものではなく、この制度論的対象に吊るされている何かであり、私が別の場所で、制度論的な空胞〔気孔〕として示したものである。たとえば、看護人、精神科医、病人からなる一つの集団が、この空胞的・分析的な構造――無意識的な現象を解読する場所――を、構成するだろう。この空胞的・分析的な場所が、精神科病院の鈍重な構造のただなかに、主体集団をしばらく存在させるだろう。 (『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』、pp.260-262)

    • この論考「集団と個人」(1966年作成、68年4月に手直し)*2でグァタリは、ラボルド精神科病院の活動を具体的に描き出すことを通じて、論考「機会と構造」(1969年)と同じモチーフを論じている(参照)。


 Les fantasmes individuels se corporéisent-ils et se transposent-ils dans le groupe, ou est-ce l'inverse ? On pourrait aussi bien dire qu'ils n'ont pas fondamentalement d'autre corporéité que celle du groupe, et que ce n'est que par accident qu'ils se rabattent sur le « corps propre » ― fiction aliénante et dérisoire, fondement d'un individu traqué dans la solitude et l'angoisse par une société qui justement méconnaît et réprime le corps réel et le désir.

 個人の幻想が、集団の中に身体化され、転移されるのだろうか、あるいはその逆だろうか? 個人の幻想は、根本的には、集団の身体性と別の身体性を持つわけではないと言うことも出来るだろうし、あるいは個人の幻想が「自分じしんの身体」に誘導されるのは、偶然でしかないとも言えるだろう。 《自分じしんの身体》――これは、人を疎外し嘲弄する虚構だ。つまり、現実的身体と欲望を誤認・抑圧する社会によって、孤独と不安の中に追い詰められる個人の、土台である。


 Quoiqu'il en soit, cette corporéisation du fantasme individuel sur le groupe, ou cet accrochage de l'individu sur le fantasme de groupe, transfère sur le groupe l'effet virulent de ces objets partiels ― objet « a » ― que Lacan a décrit sous l’espèce de l'objet oral, anal, la voix, le regard, etc., régis par l'ensemble de la fonction phallique, et qui constituent un seuil de réalité existentielle infranchissable pour le sujet.

 それがどのようなものであれ、個人的幻想の集団への身体化、あるいは、この個人の集団的幻想への接触によって、ラカンが口唇的・肛門的対象、声、視線等々の種類で記述した部分対象――対象a――の毒性の効果が、集団へと転移される。この対象は、ファルス機能の総体によって統治されているのだが、これは主体にとって、跨ぐことのできない実存的現実の敷居〔端緒・限界・境界〕を成している。


 Mais la fantasmatisation de groupe, de son côté, ne connaît pas de système de gardefous similaires à ceux du système pulsionnel libidinal, elle est renvoyée à des équilibres homéostatiques provisoires et instables. La parole ne peut y jouer véritablement comme médiation du désir. Elle travaille au compte de la loi.

 だが、グループの幻想形成のほうはといえば、リビドー的欲動システムの防護柵と同じような、歯止めのシステムを知らないのであり、それは暫定的で不安定な、ホメオスタシス的平衡へと送り返される。そこでは発話は、欲望の媒体としての役割を、真に果たすことはできない。それは法のために働いているのである。


 Le groupe opte pour le signe et l'insigne plutôt que pour le signifiant. L'ordre de la parole bascule dans le mot d'ordre. Si, selon la formule de Lacan, la représentation du sujet est le fait d'un signifiant se rapportant à un autre signifiant, pour sa part la subjectivité de groupe se repère plutôt dans la scission, la Spaltung, dans le détachement d'un sous-ensemble qui prétend représenter la légitimité de la « totalité » du groupe. C'est dire que ce processus reste fondamentalement précaire. (p.167)

 集団は、シニフィアンよりは、むしろ記号とバッジを選ぶ。発話の秩序は、スローガンに成り果てる。ラカンの定式に従って、表象の主体は、別のシニフィアンに関係づけられた一つのシニフィアンで出来ているとすれば、集団の主観性はむしろ、下位集合の解裂(scission)、分裂(Spaltung)*3剥離(détachement)のなかに探知される。この集団の主観性は、グループの「全体性」の正しさを体現していると主張する。これはこの過程が、根本的に不安定なままであることを意味している。 (『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』, p.264)

 Ses carences théoriques n'ont pas empêché le léninisme de mettre le doigt sur ce mécanisme qui fait que la classe ouvrière, livrée à elle-même, tend à glisser vers le trade-unionisme, disons vers le primat de la demande sur le désir. Mais la solution léniniste d'une coupure politique, du détachement d'un objet institutionnel, machine de conscience et d'action composée uniquement de révolutionnaires professionnels, si elle convenait ― l'histoire l'a montré ― dans une situation catastrophique comme celle de 1917 en Russie, ne pouvait pas donner à la classe ouvrière les moyens de prendre le pouvoir dans des régimes capitalistes hautement développés, c'est-à-dire dans des systèmes où le pouvoir n'est plus concentré dans une oligarchie repérable ― les « deux cents familles » ―, mais pris dans les nœuds d'un réseau infiniment complexe de rapports de production, qu'il s'agisse de n'importe quel élément de l'économie mondiale ou du moindre de nos gestes quotidiens.

 理論的な不備は、レーニン主義がこのメカニズムを暴き出すのに不都合ではなかった。つまり、自分の自由に任された労働者階級は、労働組合主義へと滑り込んでゆく傾向があるのであり、これはつまり、欲望よりも欲求を*4優先させることへと滑り込んでゆく、ということだ。レーニンの、政治的切断という解決――すなわち、(1)制度的対象からの離脱、(2)職業的革命家のみによって構成される意識と行動の機械――は、1917年のロシアのような、大混乱の状況ではふさわしかったとしても(歴史が示したように)、高度に発達した資本主義体制――すなわち、もはや権力が、すぐに見分けがつくような寡頭支配(「二百の家族」)に集中されておらず、世界経済であれ最も些細な日常の振る舞いであれ、生産関係の無限に複雑なネットワークの結び目に捉えられているようなシステムにおいては、レーニンの政治的切断のような解決策は、労働者階級に権力奪取の手段を与えられなかったのである。


 Quoi qu'il en soit, le léninisme nous a légué une direction de réflexions pour explorer ce que j'ai appelé, faute de mieux, la « castration de groupe », la « coupure léniniste »19, c'est-à-dire l'incidence de l'émergence de groupes-sujets sur les rapports humains ordinaires. Qu'est-ce qui se passe quand une machine aussi soudée que le parti de Lénine entre en action ? Tout le jeu habituel est alors faussé. Paraphrasant Archimède, Lénine demandait qu'on lui donne un parti pour soulever la Russie. Et, pour nous maintenant, quelle sorte de machine révolutionnaire pourra foutre en l'air toutes ces citadelles de bureaucratisme et enclencher la révolution ?  (p.200)

 レーニン主義がどのようなものであれ、それは私たちに、「グループの去勢」「レーニン的切断」と私が呼んだもの(あんまりいい表現ではないが)――つまり、日常的な人間関係に主体集団が出現することによる波及効果――を探求するために、考察の方向性を遺してくれている。レーニンの党と同じくらい結束した一つの機械が行動に移ったとき、何が起こるだろうか? 通常のゲームのすべてが、狂わされてしまうのだ。アルキメデス〔「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう」〕になぞらえて言うなら、レーニンはロシアを蜂起させるために、たったひとつの党をおのれに与えるよう、要求したのだ。それでは、今の私たちにとって、どのような革命的機械が、官僚主義の城塞を打ち砕き、革命を始動させることが出来るだろうか。 (『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』、pp.317-318)

 La solution n'est certes pas à chercher dans des recettes psychosociologiques ; l'aliénation, au niveau du groupe, n'est probablement pas résorbable en tant que telle. Aucune psychanalyse de groupe ne saurait « soigner » un groupe. Mais ce qui semble avoir été esquissé dans l'instauration des comités d'action, c'est que soit rendue possible une sorte d'activité analytique au niveau des masses elles-mêmes. Cette activité analytique n'étant pas conçue comme étant le fait d'un objet détaché de la masse qui se considérerait comme son avant-garde, mais comme un système en interaction permanente, en adjacence avec l'expression des masses.

 解決は、やはり心理学的な処方に探すべきではあるまい。グループという水準においては、疎外は、いわゆる疎外の問題としては解決できないだろう。いかなる「グループの精神分析」も、ひとつの集団を丸ごと「治療する」ことはできまい。しかし、行動委員会の制定で描き出されてきたのは、民衆それ自身という水準において、ある種の分析的な活動が可能ではないか、ということである。この分析的な活動は、大衆から離脱した、自分たちを前衛と考える対象の行為としてではなく、民衆の表現と隣接した、恒常的な相互行為にあるシステムとして、構想されている。


〔...〕 L'activité analytique du groupe n'avait pas pour but l'ajustement des individus au groupe, mais plutôt de faire que le groupe, comme structure opaque, ne se substitue pas à la problématique signifiante du mouvement des masses ; elle coupe la chaîne signifiante pour l'ouvrir sur d'autres potentialités. L'activité du groupe militant n'est pas là pour apporter une réponse toute faite, pour gaver de logos une demande supposée, mais au contraire pour approfondir la problématique, pour dégager la singularité de chaque étape du processus historique. (p.238)

 集団における分析的な活動は、個人の集団への適合を目的とするのではない。むしろそれは、不透明な構造としての集団が、大衆運動の意味深い問題性に置き換わらないことを明らかにした。それはシニフィアンの鎖を断ち切って、その鎖を、他の潜在的可能性に開いてゆく。活動家集団の活動は、すべて出来あがった答えを用意したり、想定された要求にロゴスを詰め込んだりすることではなくて、むしろ逆に、何が問題なのかを深化したり、歴史過程の各段階の特異性を、心配事から解放してやることなのだ。 (『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』, pp.375-376)

 S'il est vrai que cette subjectivité inconsciente, en tant que coupure surmontée d'une chaîne signifiante, se trouve transférée hors de l'individu et des collectivités humaines, vers l'ordre de la machine, elle n'en demeure pas moins non représentable au niveau spécifique de la machine. C'est un signifiant détâché de la chaîne structurale inconsciente qui fonctionnera au titre de représentant de la représentation de la machine.

 シニフィアン連鎖に制された裂け目の限りにおける、この無意識の主体性が、個人や人間的集団の外へ転移され、機械の次元へと向かうのが本当だとしても、機械に固有の水準では、それが表象しうるものではないことに変わりはない。機械の表象を表象するものという資格で機能するのは、無意識の構造的連鎖から剥離したシニフィアンである。


 L'essence de la machine, c'est précisément cette opération de détachement d'un signifiant comme représentant, comme « différenciant », comme coupure causale, hétérogène à l'ordre des choses structuralement établi. C'est cette opération qui noue la machine au registre à double face du sujet désirant et de son statut de racine fondatrice des différents ordres structuraux qui lui correspondent.

 機械の本質とは、まさしく、表象作用をもつもの、「微分作用」をもつもの、あるいは因果上の裂け目としてのシニフィアンが離脱するこの働きのことであり、これは構造的に確立された物事の次元にとっては異質なものである。機械を次の二面登録に結びつけるのは、この働きである。 つまり、(1)欲望する主体と、(2)それにふさわしい様々な構造的次元を基礎付ける根幹であるという主体の地位――この二つの面に。


 La machine, comme répétition du singulier, constitue un mode, et même le seul mode possible, de représentation univoque des diverses formes de subjectivité dans l'ordre du général sur le plan individuel ou collectif. (p.243)

 機械は、特異的なものの反復として、ある一つの、また唯一可能な様式を構成している。その様式というのは、主観性の多種多様な形態の、一義的表象の様式であり、それは個体的あるいは集合的な空間での、一般的なものの秩序のなかにある。 (『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』, p.382)

 L'extraordinaire mérite de la Gauche prolétarienne en France, c'est d'avoir eu le culot d'approuver publiquement les sabotages, d'avoir lancé le mot d'ordre « on a raison de séquestrer les patrons » , d'appeler à les peindre au mercurochrome en attendant de les pendre, de lancer ses détachements à l'assaut de leur propre trouille et dans des expéditions qui, pour être moins meurtrières que celles d'un Che Guevara, n'en méritent pas moins le respect. (p.278)

 フランスにおけるプロレタリア左翼のとてつもない功績は、サボタージュを公然と認め、「経営者を監禁するのは正しい」というスローガンを言い放ち、彼らを吊るす代わりにマーキュロクロム(赤チン)を塗りたくり、みずからの怯えを打ち破るためにあちこちに分遣隊を送る――これはチェ・ゲバラの部隊よりも殺戮的ではないという点で、負けず劣らず尊敬に値するだろう――といった厚かましさを発揮した、ということだ。 (同p.437)


つづく



*1:ブログ注:ラボルド病院の活動の話をしている。

*2:ラボルド精神科病院の作業グループを前にした口頭報告。

*3:ブロイラーの統合失調症論の用語(参照

*4:ブログ注:「欲望(désir)」「欲求(demande)」の語を使ったのは、ラカンの影響に見える。

2013-02-11 グァタリの語用: 《détacher》(3) このエントリーを含むブックマーク

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Psychanalyse et transversalité』-1(1972年)

以下の2枠は、ドゥルーズによる序文より:

 Il est vrai que, si le problème des fonctions de groupe n'est pas posé dès le début, il sera trop tard ensuite. Combien de groupuscules qui n'animent encore que des masses fantômes ont déjà une structure d'assujettissement, avec direction, courroie de transmission, base, qui reproduisent dans le vide les erreurs et perversions qu'ils combattent.

 集団の機能の問題が最初から提起されているのでないと、ことは手遅れになってしまうというのは本当である。いかに多くの小集団が、まだ幻想の大衆しか活気づけていないのに、すでにして指導部、伝達部、下部組織からなる隷属構造を備えていることか。こうした小集団は、自分たちが戦っている当の誤りや腐敗を、真空状態で再生産する。


 L'expérience de Guattari passe par le trotskisme, l'entrisme, l'opposition de gauche (la Voie communiste), le mouvement du 22 Mars. Le long de ce chemin, le problème reste celui du désir ou de la subjectivité inconsciente : comment un groupe peut-il porter son propre désir, le mettre en connexion avec les désirs d'autres groupes et les désirs de masse, produire les énoncés créateurs correspondants et constituer les conditions, non pas de leur unification, mais d'une multiplication propice à des énoncés en rupture ?

 グァタリの経験は、トロツキズム、加入戦術、左翼反対派(「共産主義の道」)、3月22日運動を経ている。この道に沿って、問題は依然として、欲望あるいは無意識的主体をめぐって存在し続ける。すなわち、一つの集団はいかにして、その固有の欲望をもつのか。いかにしてこの欲望を、ほかの集団の欲望や大衆の欲望と連動させて、それにふさわしい創造的言表を産出するのだろうか。集団統合の条件ではなく、裂け目の言表にふさわしい増大の条件を、いかにして構成できるだろうか。


 La méconnaissance et la répression des phénomènes de désir inspirent les structures d'assujettissement et de bureaucratisation, le style militant fait d'amour haineux qui décide d'un certain nombre d'énoncés dominants exclusifs.

 欲望の現象に対する無知や抑圧は、隷属と官僚化の構造に生気を与える。無知や抑圧は、一定の排他的・支配的言表を決する、憎しみからなる戦闘的スタイルを鼓舞する。


 La manière constante dont les groupes révolutionnaires ont trahi leur fâche est trop connue. Ils procèdent par détachement, prélèvement et sélection résiduelle : détachement d'une avant-garde supposée savoir ; prélèvement d'un prolétariat bien discipliné, organisé, hiérarchisé ; résidu d'un sous-prolétariat présenté comme à exclure ou à rééduquer. Or cette division tripartite reproduit précisément les divisions que la bourgeoisie a introduites dans le prolétariat, et sur lesquelles elle a fondé son pouvoir dans le cadre des rapports de production capitalistes. Prétendre les retourner contre la bourgeoisie est perdu d'avance.

 革命的なグループが、彼らの軋轢を裏切ってきたやり口は、知られすぎるほど知られている。すなわち、離脱、引き抜き、残りのより分け、といったやり口だ。知を想定された前衛の離脱。よく訓練され、組織され、序列化されたプロレタリアの引き抜き。排除か再教育かを露わにされる下層プロレタリアートの残りもの。この三分割は、ブルジョアジーがプロレタリアートに持ち込んだまさにその分割を、再生産する。資本制的生産諸関係の枠内でのブルジョアの力を、それに基づいて打ち建てた、まさにその分割なのだ。ブルジョアジーに対抗してそのような分割を覆すという主張は、あらかじめ敗北している。


 La tâche révolutionnaire est la suppression du prolétariat lui-même, c'est-à-dire dès maintenant la suppression des distinctions correspondantes entre avant-garde et prolétariat, prolétariat et sous-prolétariat, la lutte effective contre toute opération de détachement, de prélèvement et de sélection résiduelle, pour dégager au contraire des positions subjectives et singulières capables de communiquer transversalement.  (pp.VI-VII)

 革命的な任務とは、プロレタリア自体の除去――すなわち、

  • 《前衛⇔プロレタリア》および《プロレタリア⇔下層プロレタリア》という区別を即刻なくすことであり、
  • 離脱・引き抜き・残りもののより分けといった、一切の操作に抵抗する有効な闘争である。

これはプロレタリア云々とは反対に、漏導的に*1コミュニケーションできる特異的で主観的な立場を、救済するためである。 (『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』pp.9-10、ドゥルーズによる序文

 Une grande partie du travail de Guattari avant Mai 68 fut « la prise en charge de la maladie par les malades eux-mêmes, avec l'appui de l'ensemble du mouvement étudiant ». Un certain rêve du nonsens et de la parole vide, instituée, contre la loi ou le contrat de la parole pleine, un certain droit du flux-schizo n'ont jamais cessé d'animer Guattari, dans une entreprise pour abattre les divisions et les cloisonnements hiérarchiques ou pseudo-fonctionnels --- pédagogues, psychiatres, analystes, militants...

 1968年5月以前のグァタリの仕事の大半は、「学生運動総体を支えにした、病者たち自身による疾患の引き受け」をやっていた。充実したパロールの法や契約に抗する、無意味の、あるいは空虚で制度化されたパロールの、とある夢、そして分裂的な流れの権利が、グァタリを鼓舞し続けた。ヒエラルキー的な、あるいは機能に見せかけた分割や区切りを打ち壊す事業の中で――教育者、精神科医、精神分析家、活動家…。


 Tous les textes de ce recueil sont des articles de circonstance. Ils sont marqués d'une double finalité, celle de leur origine dans tel tournant de la psychothérapie institutionnelle, tel moment de la vie politique militante, tel aspect de l'École freudienne et de l'enseignement de Lacan, mais aussi celle de leur fonction, de leur fonctionnement possible dans d'autres circonstances que de leur origine.

 この論集のすべてのテクストは、状況に関する、状況から出てきた論考である。それらは、二重の合目的性を刻印されている。それぞれの論文は、「制度を使った精神療法」のとある曲がり角に起源をもっていたり、フロイト派やラカンの教育のとある側面に起源をもっていたりするのだが、それに留まらず、テクストの起源とは異なる状況で、それらテクストが機能し、働き得るということ。


 Ce livre doit être pris comme le montage ou l’installation, ici et là, de pièces et rouages d'une machine. Parfois des rouages tout petits, très minutieux, mais en désordre, et d'autant plus indispensables. Machine de désir, c'est-à-dire de guerre et d'analyse.

 この本は、機械の部品や歯車をここやあそこで組み立てた、モンタージュや設備と見なされるべきだ。ときには凄まじく細やかで綿密であるいっぽう、雑然ともしており、ますます必要不可欠になっている。これは欲望の機械であり、すなわち、戦争と分析の機械である。


 C'est pourquoi l'on peut attacher une importance particulière à deux textes, un texte théorique où le principe même d'une machine se dégage de l'hypothèse de la structure et se détache des liens structuraux (« Machine et Structure » ), un texte-schizo où les notions de « point-signe » et de « signe-tache » se libèrent de l'hypothèque du signifiant. (p.XI)

 二つのテクストに、特別の重要性を与えることができるのは、こういうわけである。一つは、機械の原理そのものが構造の仮説から解放され、構造的束縛から身を引き剥がす理論的テクスト(「機械と構造」)。 もう一つは分裂的なテクストで、そこでは「点記号」と「記号染み」の概念が、シニフィアンの担保から解放される。(『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』p.17、ドゥルーズによる序文

以上ふたつの引用枠はドゥルーズの文章(グァタリの単著に寄せられた序文)だが、

「ドゥルーズによるグァタリ論」として興味深いので、ここに掲載した(参照)。


 Schotte a souligné que, dans le transfert, il n'y avait presque jamais de véritable relation duelle ; c'est très important. La relation mère-enfant, par exemple, n'est pas une relation duelle, à quelque niveau qu'on la prenne. Dès qu'on l'envisage dans une situation réelle, on s'aperçoit qu'elle est au moins triangulaire, qu'il y a toujours un objet médiateur qui sert de support ambigu.

 ジャック・ショットは、転移においては、真の二項関係はほとんどあり得ないことを強調した。これは非常に重要である。たとえば母子関係は、どのレベルをとってみても二項関係ではない。実際の状況のなかで見据えれば、それは少なくとも三項であり、あいまいに支える媒介的対象がいつも存在していることに気づく。


 Pour qu'il y ait déplacement, transfert, langage, il faut qu'il y ait quelque chose qui puisse être coupé, détaché. Lacan a beaucoup insisté sur cette dimension de l'objet, décisive pour s'y retrouver dans ces questions de transfert et de contre-transfert. On ne se déplace, dans l'ordre du transfert, que pour autant que quelque chose peut se déplacer. Quelque chose qui n'est ni le sujet ni l'autre. Il n'y a pas de relation intersubjective, duelle ou pas, qui suffise à fonder un système d’exression, c'est-à-dire un statut de l'altérité.

 移動・転移・言語が存在するには、切断され、剥離されることのできる何かがなければならない。ラカンは、対象のこのような次元に非常に強くこだわったのだが、この対象は、転移や反転移の問題を再び見出すために、決定的な役割を果たす。転移の秩序においては、何かが移動し得るのと同じだけしか、人は移動しない。この何かというのは、主体でも他者でもない。二項的であれどうであれ、表現システム(他性の地位)を基礎づけるのに充分であるような、間主観的な関係は存在しない。


 Le face à face avec l’autre n'explique pas l'ouverture à l'autre, ne fonde pas l'accès à sa compréhension. Ce qui est fondateur, par exemple de la métaphore, c’est ce quelque chose hors du sujet, adjacent au sujet, que Lacan a décrit sous le terme d'objet « a ». (pp.54-55)

 向かい合っているだけでは、開かれてあることにはならないし、他者理解への通路を基礎づけることにもならない。たとえば隠喩を打ち建てるのは、主体の外にあって隣接する何かだが、ラカンはそれを《対象a》のタームで描き出した。 (『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』p.92)

 Le statut social de médecin-chef sous-tend une aliénation imagiaire l'érigeant en « statue de commandeur ». Comment l'amener à accepter et à solliciter qu'on le mette en cause, sans le voir reculer devant la peur panique d'éclater en morceaux ?

医師=長という社会的地位は、それを「地獄に導く石の騎士像」に仕立て上げる想像的疎外を裏打ちする。彼が粉々に砕けてしまうというパニック的な恐れを前に尻込みすることなく、自分が問題にされることを受け入れ、願い出るように導くには、どうすればよいだろうか。


 Le médecin qui renonce à son statut imaginaire, pour situer son rôle sur un plan symbolique, est au contraire en mesure d'opérer le nécessaire découpage de la fonction médicale en de multiples prises en charge impliquant différentes sortes de groupes et de personnes. L'objet de cette fonction se détache de la « totémisation » pour se transférer sur diverses sortes d'institutions, relais et délégations de pouvoirs.

 象徴的平面に自分の役割を位置づけるため、その想像的地位を放棄する医師は、医学的機能の必要不可欠な切り分けを、行うことができる。そこで医学的な機能は、さまざまな種類のグループや個人を巻き込んで、多様な引き受け方に切り分けられる。この機能の対象は、さまざまな種類の制度・中継地・代表団に移転する。


 L'assumation même de ce fantasme d'éclatement par le médecin joue ainsi comme temps primordial de la mise en place d'une structure de transversalité. Son rôle, maintenant « articulé comme un langage », se trouvera en prise avec l'ensemble des signifiants et des fantasmes du groupe. Plutôt que chacun joue à soi-même et aux autres la comédie de l'existence, corrélative de la chosification du groupe, la transversalité apparaît comme l'exigence du marquage inévitable de chaque rôle.

 医師による分散幻想の引き受けは、漏導の構造を置き据える、始原的な時のような役割を演じる。その役割は、いまや「言語のように分節されて」*2、グループの幻想やシニフィアンの総体を、引き受けている。一人ひとりが、自分自身や他者たちに対して、集団の物象化にともなう存在の喜劇を演じるのではなくて、むしろ漏導が、各役割の避けがたいマーク付けの要請として、現れてくる。


 Une fois mis en place de façon durable par un groupe détenant une part importante du pouvoir légal et du pouvoir réel, ce principe de contestation et de redéfinition des rôles a toutes chances, s'il est appliqué dans une perspective analytique, de se répercuter à tous les autres niveaux.


 役割への異議や再定義のこうした原理は、法的権力や実務的権力の多くを握る集団に、持続的なやり方でひとたび打ち建てられ、分析的な観点のなかで適用されると、他のあらゆるレベルに影響を及ぼすものになる。


 Un tel remaniement des idéaux du moi modifie les données d'accueil du surmoi et permet la mise en circuit d'un type de complexe de castration articulé avec des exigences sociales différentes de celles que les malades avaient connues précédemment dans leurs relations familiales, professionnelles, etc.

 こうした自我理想の手直しは、超自我による対応の与件を修正して、病者がそれ以前に家族的・職業的などの関係で持っていたのとは異なる、さまざまな社会的要請によって分節される去勢コンプレックスの流通をできるようにする。


 L'acceptation d'être « mis en cause », d'être mis à nu par la parole de l'autre, un certain style de contestation réciproque, d'humour, l'élimination des prérogatives de la hiérarchie, etc., tout cela tendra à fonder une loi nouvelle du groupe dont les effets « initiatiques » permettront la venue au jour, disons au demi-jour, d'un certain nombre de signes présentifiant des aspects transcendantaux de la folie qui, jusqu'alors, étaient restes refoulés. (p.83)

 他者の言葉によって「問題にされ」、裸にされることの受容、一定のスタイルをもった相互的な論争やユーモア、ヒエラルキーの特権の除去――こうしたものの全てが、集団の新しい法を基礎づける方向に向かってゆく。この新しい法の「イニシエーション的」効果は、それまで抑圧されていた狂気の超越論的様相を現前化する記号の一定数を白日の下に、少なくとも薄明かりのもとに、もたらせるようにするだろう。

(『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』, pp.136-137)


つづく



*1:シモンドン経由の《transductif》が「転導」「超導」などと訳されること、あるいはグァタリらの「ligne de fuite(逃走/漏洩の線)」、それに日本語の「労働」の発音等を参照して、《漏導(ろうどう)という語を試みている。

*2:初期ラカンのモットー「無意識は言語のように構造化されている(l'inconscient est structuré comme un langage)」のもじりだろう。ここでグァタリは、「構造化されて(structuré)」ではなく、「分節されて(articulé)」と言っている。

2013-02-09 グァタリの語用 このエントリーを含むブックマーク

フェリックス・グァタリ(Félix Guattari)の著作中から、

動詞détacherとその名詞形を検索し、前後の文章を抜き書きしてみました。

他の著作についても作業を続けているので、このエントリはまだ続きます。

後日、ひとまず完成→ 3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】 【9】 【10】 【11】 【12】 【13


エントリ剥離による蘇生を考えるうち、この作業を思いついたのですが、

それは結果的に、グァタリが引用文中で論じている

 断片が実存の一貫性をもたらす

という事態そのものを、もたらしてくれました。


誰かの文章を「全体として」引き受ける解読はウンザリですが

――作業の大変さ以前に、方針として間違っている――

自分なりに興味の必然性のあるキーワードを見つけて、

その単語が相手の中でどう使われているかを検証してみる作業は、

分析の自由と、不当ではない勤勉さをもたらしてくれました。


しばらくやっていると、ひきこもり状態に特徴的であるような、ずっと同じ《a》に固着する意識が、貧しく思えてきます。断片から一貫性を立ち上げる勤勉さは、意識をほぐしてくれるので、かえって自由になるのです。


「断片立ち上げ法」とでもしておきたいこの作業法は、臨床にも重大なヒントを提供していると思います*1。 また、この作業を単語 《détacher(剥離する、切り離す) で始めたのは、自己言及的だったとも言えるでしょう(だからこそ読み進めていて、この作業への理解が生じることにもなりました)。



【抜き書きやその訳を読むときの注意】

    • いまだ完全な網羅ではないし、追加や修正も行うつもりです。
    • 赤字・太字などによる強調は、ブログ主が勝手につけています。
    • 引用部分の欄外にあるつぶやきや、ブログ注(*印)は、ブログ主によるものです。
    • 訳文は、あくまで既存邦訳を参照しながら、できるだけ訳し直す努力をしました。といっても、ブログ主の理解を確認し、勉強を進めるためであって、必ずしも批判的な趣旨ではありません。*2

読んでみる


*1:文献研究や箱庭療法をされている方には当たり前の作業かもしれないのですが、臨床と思想の関連を捉え直す意義はあると思います。焦点は動詞のスタイルであり、作業過程であって、「たんなる相対主義」ではありません。

*2:グァタリのフランス語は、ひどい悪文としか思えませんが(哲学を専攻したフランス人が読んでもよく分からんらしい)、彼のようなテーマを論じる人は、他にいるんでしょうか。もちろん近傍では、ジャン・ウリがいるのですが。

2013-02-08 グァタリの語用: 《détacher》(2) このエントリーを含むブックマーク

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Ecrits pour l'Anti-Oedipe』-2再刊版

 Ce qui est donc en question, c'est une politique du signe total, du signe de puissance, en prise sur le réel. Le décollement-recollement du corps plein sans organe est lié au procès historique de déterritorialisation du signe. Dans l'économie de tribu, de village néolithique, le corps sans organe restait territorialisé. C'est à partir de la machine de division sociale du travail, de la machine sémiotique, de l’Urstaat, que le corps sans organe est débranché de sa territorialité et devient corps sans organe individué, affilié à l'objet des hauteurs urstaatiques : Roi, Parti, État, etc. (En alliance impuissante et échangiste avec les structures.)

 それゆえ、問題となっているのは、現実的なものと密接に結びついた全体的な記号の政治、力の記号の政治である。器官なき充実身体の剥離と再接合は、記号の脱領土化の歴史的プロセスに結びついている。新石器時代の部族や村の経済においては、器官なき身体が領土化されたままに留まっていた。労働の社会的分割の機械、記号論的な機械、原国家の機械が始まって、器官なき身体はその領土化から切り離され、個体化された器官なき身体となる。この個体化された器官なき身体は、(諸構造との非力なスワッピング的な連合にある)王・党・国家など、原国家的な高みにある対象に、加盟させられている。


 Dès lors, il y a schize entre : 従って、次のものの間に分裂がある。

  • 1. une corporéisation archaïque et impuissante sur la caste, le corps professionnel, l'ordre, la classe etc., c'est-à-dire une image-marchandise, un prototype de consommation d'image,
    • (1)カースト、職業上の身体、秩序、階級等において行われる古色蒼然たる、非力な物体化。すなわち、商品イメージ、イメージ消費のプロトタイプ。
  • 2. et un opérateur détaché, un jeu de signes qui est le seul lieu de l'efficience symbolique (l'Empereur de Chine fait tourner la Terre, tomber la pluie, etc.).
    • (2)剥離したオペレータ、象徴的効率の唯一の場である諸記号の戯れ(中国の皇帝は大地をひっくり返し、雨を降らせる、etc.)。 


 Et il en est bien ainsi, la plus-value de code économique, la « planification » n'est plus que le fait du Prince, même lorsque ce sont ses « services » qui font le travail de code. (D'où, en résidu, la naissance des écritures comme usage conjonctif pratique, pervers de l'écriture en soi.)

 そういうわけで、経済コードの剰余価値、「計画化」は、“君主”の行為であるにすぎない。コードの働きを成すのが彼の「勤め」であるときですら、そうなのだ。(そこから、実践的な連接的使用として、エクリチュール自体の倒錯的使用としてのエクリチュールが、残留物に生まれる。)


 Donc, d'un côté : un corps-image individué, de l'autre un objet détaché urstaatique, opérateur de code. D'un côté l'archaïsation, de l'autre la diagrammisation. (pp.273-274)

 それゆえ、一方に個体化された身体イメージがあり、他方に、コードのオペレータである原国家的剥離対象がある。一方に太古化が、他方にダイアグラム化がある。 (『アンチ・オイディプス草稿』, p.264)

 Cette distinction : signe-figure et signe-diagramme peut devenir importante pour la raison suivante : c'est que le diagrammisme peut exprimer la perversion révolutionnaire-psychanalytique authentique ; tandis que le signe-figure c'est le cancer capitalistique.

 形象記号とダイアグラム記号というこの区別は、次のような理由によって重要になる。それは、ダイアグラム性こそが、真に革命的・精神分析的な倒錯を表現できるということ。いっぽう、形象記号は、資本主義の癌だ。

 Avec le diagramme on a le constructivisme schizo-révolutionnaire : une nouvelle écriture sur la base d'icônes creusées de l'intérieur : le désir d'abolition.

 ダイアグラムとともに、分裂革命的な構築主義が得られる。内部から穴をあけられたイコンに基づく、新しいエクリチュール。すなわち、廃棄の欲望。


 Avec le cancer des signes-figures on a, au contraire, le respect des icônes., leur ré-fabrication, leur anti-production (Œdipe, Phallus, Capital, Leader, Nation, Race...), l'incapacité d'une production véritable au niveau de la troisième articulation (production institutionnelle et polyvoque), la pulsion de mort, etc.


 反対に、形象記号の癌で人が得るのは、諸々のイコンの尊重、その再-形成、反生産(オイディプス、ファルス、資本、指導者、ネーション、人種…)、第三次分節の水準での真正な生産(制度的で多声的な生産)の不能性、死の欲動、等々である。


 Le diagrammisme c'est l’audiovisuel, la répétition humoristique.

 ダイアグラム性とは、視聴覚的なものであり、ユーモア的な反復である。

 Le flux de figures c'est l'imagerie fasciste recomposée, répétée dans l'immobilité mortifère.

 形象の流れとは、再構成されたファシスト的想像物であり、死の不動性で反復される。


 On n'est plus, avec le diagrammisme, dans la même économie des flux. Les flux ne butent plus sur l'icône, l'objet détaché des hauteurs ; l'ensemble des objets détachés constitue maintenant un horizon, lieu du travail de code. (pp.339-340)

 ダイアグラム性において、人はもはや、流れの同じ経済の中にはいない。流れはもはや、高所の切り離された対象に躓くことはない。剥離した対象の集合は、いまや一つの地平を、コードが作動する場所を構成する。 (『アンチ・オイディプス草稿』p.322)

 Il ne faut d'ailleurs pas mystifier le côté de pure polyvocité des sociétés archaïques ; à mon avis elles sont toutes plus ou moins en interaction de code avec un despotisme potentiel (sinon réel). Les sociétés primitives, elles aussi, se tiennent à la limite de l'échange -- mais elles ont moins d'effort à déployer : initiations, rites de passage, etc.

 とはいえ、古代社会が純粋な多声性だなどとうそぶいてもいけない。私の考えでは、古代社会はすべて多かれ少なかれ、潜在的な(あるいは現実的な)専制主義との、コードの相互関係をもっている。未開社会もまた、交換の限界にある――しかしそれを利用する努力はあまりない。イニシエーション、通過儀礼など。


 L'infinitif singulier est moins isolé que maintenu à distance (par le corps social, le refus de la production sérielle) d'une conjonction despotique.

 特異的な不定詞は、孤立しているというよりも、専制的な連接から距離を保っている(社会的身体、系列的生産の拒否によって)。


 Inversement, le despotisme oriental ne réussit jamais à affilier tous les infinitifs locaux à l'infinitif impérial. En un sens, l'infinitif impérial est un degré de plus pour bloquer les infinitifs face à la menace de déterritorialisation du signe.

 反対に東洋的専制は、すべての地域的不定詞帝国的不定詞に加盟させることに、決して成功しない。ある意味で帝国的不定詞とは、記号の脱領土化という脅威に直面して、不定詞をブロックするためのひとつ高次の段階なのだ。


 Il ne faut pas opposer le despotisme et les sociétés primitives. Ils se complètent par les moyens mis en œuvre pour défendre une forme de production désirante menacée. Avec le despotisme on en vient à désirer par procuration. « La machine despotique désire pour vous... »

 専制主義と未開社会を対立させるべきではない。それらは、脅威に晒された欲望する生産の一形態を守るために、互いに補いあっている。専制主義によって、人は代理人を介して欲望するようになる。「専制機械は、あなたの代わりに欲望する…」


 Toujours est-il qu'il y a détachement de la loi territoriale. Loi des lois. Érection du « Principe de la loi ». Séparation de la loi et de la jouissance. Et cette schize est irréparable. Même le retour segmentaire ne peut l'effacer de l'inconscient dominant.

 つねに、領土的な法の離脱がある。法の法。「法の原理」の屹立。法と享楽の分離。そしてこの分裂は、修復不能だ。分節化した回顧でさえ、それを支配的無意識から消去することはできない。


 Une puissance infinitive dominante s'est marquée dans les signes de puissance despotique. Du même coup le signe a pris valeur de jouissance en même temps qu'il prescrit sa fonction d'écriture, de ré-présentation, de signifîé-signifiant. C'est une mutation irréversible du signe. Toujours après on ne jouira plus des femmes et des biens qu'en louchant vers le signe. Au vrai, c'est le signe qui jouit et anti-produit un sujet coupé de la jouissance. Sujet de l'énoncé coupé du sujet de l'énonciation -- ce dernier qui n'est d'ailleurs pas un sujet.

 支配的な不定詞的力は、専制的な力記号において印づけられた。そのとき記号は、そのエクリチュールの機能、再現前化の機能、シニフィアン-シニフィエの機能を規定すると同時に、享楽の価値を手に入れる。これは、記号の不可逆的な変動である。そのあとでは、もはや記号をねたましげに見ることによってしか、女性や財貨を享受できないようになる。じっさい、享楽から切断された主体を味わい反-生産するのは、記号なのである。言表行為の主体から切り離された言表の主体――言表行為の主体は、しかしながら、主体ではない。


 La jouissance du signe exproprie la jouissance de la terre-femme. Le signe creuse un objet des profondeurs -- le sujet -- et promeut un objet des hauteurs -- l'icône, le moi.

 記号の享楽は、大地女性の享楽を収用する。記号は深層の対象(主体)を穿ち、高所の対象(イコン、自我)を促進する。


 La puissance du signe : c'est l'impuissance du sujet, et l'aveuglante méchanceté dualiste de la loi des hauteurs. Les flux dualistes sont détachés des dernières et ultimes territorialités impériales (fin de l'empire chrétien) ; ils sont mis en conjonction et produisent une machine à infinitiver toute chose. L’infinitif est devenu le procès même de la déterritorialisation transfinie. (pp.344-345)

 記号の力能。それは主体の非能であり、高所の法の、まばゆいばかりの二元論的悪意だ。二元論的な流れは、最終的・究極的な帝国的領土性から切り離される(キリスト教帝国の終わり)。それらは連接され、すべてを不定詞化する機械を生産する。不定詞は、超-限界的な脱領土化のプロセスそれ自体になった。 (『アンチ・オイディプス草稿』, pp.325-326)

 La plus-value de code est-elle seulement le fait du signe-diagramme ?

 コードの剰余価値は、ダイアグラム記号でのみ、作られるのか?

 On pourrait restituer l'unité au signe comme horizon infinitif du signe de puissance (= puissance de la répétition) et dire que : le signe de puissance désirant, dans son procès entravé d'abolition, détache : (p.348)

 記号の統一性を、力の記号(=反復の力)の不定詞の地平として、再建することは可能だろう。 つまり、阻害された廃棄のプロセスにおいて、欲望する力の記号は、次のことを切り分ける。 (邦訳p.329)

 Qu'est-ce que c'est que ces signes-là ?

 Un signe-figure impuissante. Il entretient la coupure-séparation entre la représentation et la production. Ce signe-figure a été engendré par la machine urstaatique. C'est un objet détaché de la division sociale du travail à grande échelle. Perversion de l'écriture « pour rien» des scribes. Impérialisme de l'écriture sur la parole, le chant et la danse. (p.363)

 こうした記号とはどのようなものか?

 形象-記号は非力化されている。それは表象と生産の間において、分離-切断を行う。こうした形象-記号は、原国家機械によって産出された。それは労働の大規模な社会的分割によって切り離された対象なのだ。 (『アンチ・オイディプス草稿』, p.343)

 C'est comme si la déterritorialisation du signe, au-delà de la signification, doublait, prenait un tour d'avance sur les autres procès de déterritorialisation -- technique, religieux, institutionnels, etc. -- et s'en assurait le contrôle.

 これはまるで、記号の脱領土化が、意味作用のかなたで二重化し、他の複数の脱領土化(技術的・宗教的・制度的etc.)のプロセスを凌駕し、そのコントロールを請け負うかのようだ。


 Mais cela n'est concevable que pour autant qu'il y a corrélativement procès de dé-substantialisation au profit d'une re-territorialisation d'artifice, c'est-à-dire genèse d'un plan de consistance a-substantiel.

 しかしそうしたことがあり得るには、以上のことに関連して、人工性の再領土化に資するような脱実体化のプロセス、すなわち、非実体的な一貫性の平面の発生がなければならない。


 Donc ne pas trop vite juger mal le signe-figure. S'il est l'agent du signifiant, des fameuses chaînes signifiantes -- coupées de l'attribut logique de l'état des choses et des personnes -- il ouvre aussi la voie révolutionnaire, la voie schizo-perverse du non-sens productif.

 それゆえ形象記号を、早まって悪いものと判断してはならない。たとえそれがシニフィアンのエージェントであり、悪名高いシニフィアンの連鎖――事物と人の状態の論理的属性から切り離された――に属するとしても、それは革命的な道を開くものでもあるからだ。生産的な無-意味の、分裂-倒錯的な道を。


 Mais, pour l'instant, notre signifié est tributaire du signifiant, encasté, impuissante. Il y a ainsi constitution d'une machine d'expression exclusive de la production, individuante, traitant de façon réductrice les synthèses disjonctives.

 しかし今のところ、私たちにとってシニフィエとは、カースト化され、非力化されたシニフィアンに従属している。こうして生産を排し、個体化し、離接的総合を還元的に扱う表現機械が、構成される。


 Cette machine, appelons-la machine d'alliance.

 この機械を、連合機械と呼ぶことにしよう。

 C'est la machine mère de l'anti-production. Pourquoi machine ?

 それは反生産の母となる機械である。なぜ機械なのか?


 Parce que, encore une fois, il s'agit d'un truc qui deviendra machine révolutionnaire. Revendication essentielle du « droit à la paresse ». On ne va pas faire, bon Dieu, la révolution pour faire quelque chose ! Faire, toujours faire tant et plus ! Un temps viendra où la représentation cessera d'être théâtre de la cruauté pour devenir spectacle, contemplation, fête... Plus-value pour rien. Expression de pure puissance.

 なぜなら、ここでもまた、革命的な機械へと生成することになるカラクリが問われているからだ。怠けることの権利を求めるのは、本質的に重要だ。ていうかさ、何かをやり遂げるために革命をやるわけじゃないよ! 常にやる、激しくもっと! いつかきっと、表象が残酷の劇場であることをやめ、ショーや瞑想、祝祭になるときがやってくる…。無のための剰余価値。純粋な力の表現。


 Le signifié sera libéré de par les excès mêmes de l'impérialisme du signifiant.

 シニフィエは、シニフィアン帝国主義の過剰そのものによって解放されるだろう。


 Le mot d'ordre sera : « Toujours plus de signifiant, toujours plus de perversion binaire pour détacher le signifié et produire une liberté de sens. » Horizon idéal d'une algèbre sociale -- à la place des corps sociaux, des sphères d'intérêts --, algèbre à 2+n relations binaires internes, c'est-à-dire des relations machiniques multipolaires. Avec la machine d'alliance révolutionnaire le signe transductif passera alliance avec des corps et des personnes déterritorialisées.

(p.365)

 合言葉はこうだ。「シニフィエを剥離し、意味の自由を生産するため、もっとシニフィアンを、もっと二項的倒錯を」。 社会的代数学の理念的地平――さまざまな社会体や利害領域の代わりに――、2 + n の内的な二項関係による代数学、すなわち多極的な、機械状の諸関係。革命的な連合機械とともに、漏導的な変換記号は、脱領土化された身体と人格との連合を行うだろう。 (『アンチ・オイディプス草稿』, p.345)

    • 《transductif》はシモンドン経由の語だが、「超越」「横断」「導く」「漏洩」など、の意味を込めたくて、《漏導(ろうどう)という言葉を充ててみた。グァタリが「trans〜」の造語を使うときは、基本的にこうした意味だろう。つまり、特異的な分節生産が、殻から漏れ出て、別の動きをし始めること。しかもそれは、労働過程として実現される。 《漏導》としての労働の重要性。*1

 L'armée est un objet détaché du socius procédant à un dé codage interne de ses termes. L'énonciation collective y est d'emblée machinique. (p.430)

 軍隊とは、みずからの諸項の内的な脱コード化を遂行する社会体から切り離された対象である。そこで、集団的な言表行為はすでにして機械状である。(『アンチ・オイディプス草稿』p.399)


つづく



*1:ラボルド病院やジャン・ウリに取材された精神科医・三脇康生氏は、グァタリの概念《transversalité》に、「迂回性」という語を充てておられる(参照)。

2013-02-07 グァタリの語用: 《détacher》(1) このエントリーを含むブックマーク

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Ecrits pour l'Anti-Oedipe』-1再刊版

 La territorialité résiduelle peut tomber sous deux lois : la loi d'alliance - la loi de filiation.

  • La loi d'alliance, c'est l'absence de consistance subjective, c'est le groupe assujetti.
  • La loi de filiation, c'est le détachement d'une scène, c'est l'artifice d'un plan de consistance subjective, bordé de points de rebroussement. (p.65)

 残る領土は、ふたつの法のもとに入り得る――連合の法と、系統の法。

  • 連合の法。これは主体的一貫性の不在であり、隷属集団である。
  • 系統の法。これは一つ舞台からの剥離である。これは主体的一貫性の平面の技法であり、尖点によって縁取られる。 (『アンチ・オイディプス草稿』p.66)
    • 連合の法は、党派性。 cf.【主体集団と隷属集団
    • 系統の法は、おのれの素材的必然で創発する。内的一貫性が問われる。*1

 Donc, dans la situation a-capitaliste, les flux et les stocks sont fondés sur une infinitivation singulière et dans le capitalisme, sur l'Infinitivation des infinitifs. L'économie a-capitaliste repose sur le prélèvement des flux. Ce qui compte, ici, dans le flux, c'est qu'il est codé, limité, rapporté à une surface particulière de jouissance et territorialisé du point de vue de la production.

 それゆえ、非-資本主義的な状況では、フローとストックは、特異的な不定詞に基礎付けられており、資本主義では、それらは不定詞の《不定詞化》に基礎づけられている。非資本主義的な経済は、流れの先取り的な引き抜きに基づいている。ここでフロー(流れ)において重要なのは、それがコード化・限定されており、享楽の特殊な表層に関連づけられており、生産の観点から見て領土化されているということだ。


 Dans les 1) flux restreints (ensemble fini) de production et d'échange (Alliance), et les 2) stocks de consommation, les sacrifices (Filiation), ce qui compte, c'est que le codage est référé aux infinitifs singuliers (valeur d'usage).

 (1)生産と交換(“結合”)の限定された流れ(有限集合)において、そして (2)消費のストックや供物(“系統”)において、重要なのはコード化が特異的な不定詞(使用価値)に関連づけられているということである。


 Avec le capitalisme, l'intracodage perd ses droits : même du mauvais vin vaut quelque chose. Ce qui compte, ce n'est pas ce que vaut en soi tel ou tel produit, mais sa valeur d'échange. Le garant d'un primat de Tintra-codage (sacrifice, tatouage, etc.) c'est que les unités de production territoriale (espace classique + objet détaché - [illisible], village, Cité, écologie lignagère, royauté, etc.) soient échangeables, soit « mesurées » à l'aune d'infinitifs singuliers (totem, blason, ethnie, nation, etc.). (p.82)

  資本主義とともに、内部的なコード化がその権利を失う。質の悪いワインでさえ、何者かに値するようになる。重要なのは、商品それ自体が何に値するかではなく、その交換価値である。内部的なコード化の優位の保証(供物・刺青等々)とは、領土的生産物の諸単位(古典的空間+剥がれ落ちた対象――〔判読不可能〕、村、都市、家系的エコロジー、王権等々)が交換可能であるということ、特異的な不定詞(トーテム、紋章、民族、国民等々)の物差しで「測られる」ということである。(『アンチ・オイディプス草稿』p.84)

 La culpabilité fonde un sujet (à la conscience) de l'énonciation. La coupure du sujet de renonciation et du sujet de l'énoncé, leur détachement d'une subjectivité collective de puissances territorialisées, c'est le croisement de l'ordre bi-univoque sur le polyvoque. Frustration et refoulement du côté du polyvoque, castration du côté du sujet du signifiant, répression du côté du socius, privation du côté des flux.

 罪責性は言表行為の(意識的な)主体を基礎付ける。言表行為の主体と、言表の主体との断絶。そしてそれら主体の、領土化された力の集団的主観性からの剥離という断絶。これは多声性のなかで、一対一対応の秩序の交差だ。多声性の側でのフラストレーションと抑圧、シニフィアンの主体の側での去勢、社会体の側での抑制、流れの側での喪失・耐乏。


 Ce polyvoque ne connaît pas de sujet, mais des signes de puissance. C'est la déterritorialisation qui crée :

  • 1. la séparation d'une subjectivité individuelle,
  • 2. sa coupure en sujet de l’énonciation et sujet de l'énoncé,
  • 3. son intrication et l'horizon archaïque de sa désintrication potentielle. (Illusion de Greimas.)

 この多声性は主体を知らないが、力の記号を知っている。それは次のものを創造する脱領土化である:

  • (1)一つの個体的主観性の分離
  • (2)この主体を言表行為の主体と、言表の主体へと分ける断絶
  • (3)この主体のもつれ。その潜在的なもつれ解除の、太古的な地平


Autrement dit : 言い換えれば、

  • 1. Au niveau des flux de figure : là machine narcissique, la promotion d'une conscience-reflété-reflétant, l'impuissance de la représentation (puissance de l'impuissance). Machine à refouler le polyvoque : c'est le sujet de l'énoncé, l'ordre symbolique de Lacan, le soi-disant « sujet de la science ».
    • 【形象の流れの水準にあるのは】――ナルシシズム的な機械、反映し反映される意識の促進、表象の非力(非力の力)。
    • 多声的なものを抑圧する機械――それは言表の主体であり、ラカンのいう象徴的なものの秩序であり、いわゆる「科学の主体」である。
  • 2. Au niveau de la « contre-iconisation » : l'illusion du moi, l'individuation de la subjectivité, l'idéalisation, l'intériorisation des icônes dominantes, la massification du représenté déplacé, le blocage de la diagrammatisation, l'aliénation sociale = le sujet de l’énonciation qui fait écho, louche, borde, vacille. Ce que Lacan repère avec le fonctionnement du « ne » explitif.
    • 【「反イコン化」の水準にあるのは】――自我の幻想、主観性の個体化、支配的なイコンの理想化と内部化、置き換えられた表象の大衆化、ダイアグラム化の凍結・遮断、社会的疎外 = 反響し、あやしげで、何かに沿って進み、揺れ動く、言表行為の主体。
  • 3. Au niveau du résidu refoulé et déterritorialisé, support d'une nouvelle puissance, d'une nouvelle filiation a-subjective, inconscient freudien (réduit au « a » chez Lacan), la diagrammatisation-sublimation potentielle. (Il me semble que Lacan liquide cet ordre de la polyvocité en le linguistisant, par exemple quand il déclare que le processus primaire se ramène à la métaphore et à la métonymie de Jakobson. Ceci dit, le fait que, dans la pratique, son attitude fanatique de réduction de l'analyse au langage, conduise à schizophréniser l'analyse est, bien sûr, tout à fait positif.)   (pp.94-95)
    • 抑圧され脱領土化された残滓の水準にあり、新しい力や、非-主観的な新しい系統の支持体の水準にあるのは、】――(ラカンのいう 対象a に還元された)フロイトの無意識であり、潜在的なダイアグラム化-昇華
    • ラカンはこの多声性の秩序を、言語学化することによって清算しているように思われる。たとえば彼が「一次過程はヤコブソンのいう隠喩と換喩にいたる」と宣言する際に、そうした事態が見られる。実践において分析を言語学へと還元しようとする彼の狂信的な態度は、分析を分裂症化することへと至るのだが、これは言うまでもなく完全に積極的なことである。)

(『アンチ・オイディプス草稿』p.97)

 Est-ce que [illisible] a quelque chose à faire avec une territorialité détachée ? (p.193)

  離脱/剥離した領土と、何か関係があるだろうか?(邦訳p.197)

 Ce n'est qu'en apparence qu'il y a égalité de valeur, de flux, dans les échanges. En fait les codes productifs sont différents, les dés sont pipés. La condition est que l'anti-production soit détraquée (= segmentante capitaliste), que la régulation de caste ne fonctionne plus (= bordel de la révolution de 1640) - détachement, autonomie des classes. (p.199)

 交換において、価値と流れの等価性があるというのは見かけだけのことに過ぎない。実際には、生産コードは異なっているのであり、サイコロにはイカサマ細工がほどこされている。その条件とは、反生産が失調させられ(=資本制的切片性)、カーストの統制がもはや機能しなくなるということだ(1640年革命の混乱)――離脱、諸階級の自律化。 (『アンチ・オイディプス草稿』pp.195-196)

 L'alliance c'est le produit. Il y a conjonction entre deux séries au moins. Ce qui produit n'est plus de la connexion inconsciente de flux codés, c'est un signe. Détachement de signe, non pas d'une chaîne signifiante comme j'ai pu le dire ― ça c'est un effet de lecture rétroactive ― mais production d'un objet détaché (émission de singularité), d'un signe détaché qui fera vibrer la chaîne signifiante, la coupera (étant lui-même insécable, ici le phonème = le monème = l'unité minimale), [qui] sera comme l'objet, le petit éléphant qui passe la tête dans la chaîne des lettres... Mais c'est une autre affaire !

 Ce signe détaché c'est ce qui est spécifique de la production conjonctive. (p.262)

 連合は、生産されたものである。少なくとも二つの系列のあいだの連接がある。生産行為を行うものは、もはやコード化された流れの、自覚なき接続には属していない。それはひとつの記号である。記号の剥離。とはいえ、それは私が先に述べることのできたようなシニフィアンの連鎖からの剥離ではない――そういったものは遡及的読解の効果である――。そうではなくて、剥離した対象の生産(特異性の発出)であり、剥離した記号の生産である。この剥離した記号は、シニフィアンの連鎖を振動させ、それを切断し(この記号自体は分割不可能である。ここでは音素=記号素=最小単位)、対象として、文字の連鎖のなかで先頭を行く小さな象のようなもの……になる。だが、これはまた別の問題だ!

 この剥離した記号は、連接的生産に固有のものである。(『アンチ・オイディプス草稿』p.252)

これは、グァタリの論考「機械と構造」の記述に重なる。

 La signification, elle est dans notre tête avec nos systèmes de ré-présentation, de double articulationz. La logique des choses s'en fout ! Elle travaille directement dans l'enregistrement. Dans le signe, pas dans le signifiant. Elle encode « à même » les flux, sans représentation. Elle détache ses objets, procède à ses inscriptions. Le sens, le signe, le désir c'est [ce] qui fait que nous participons, au bout du compte, au procès productif « de la nature », non pas à cause, mais malgré les médiations de la deuxième articulation. La manifestation subjective est « de trop », elle est inhérente aux chaînes signifiantes liées de la double articulation (revoir : la science comme histoire d'un retour des significations ― des lettres ― à une sémiotique a-subjective) ; l'objet « a » , comme cause du désir, n'a donc rien à faire avec le signifiant. Le signifiant, le socius se prennent les pieds dedans (faute d'un investissement d'organe collectif, territorialisé et de jouissance). (p.266)

 意味作用は、再-現前化や二重分節といった私たちのシステムとともに、私たちの頭の中にある。物事の論理〔logique des choses〕は、そんなことにはお構いなし! それは登録/記録のなかで、直接に働く。シニフィアンの中ではなくて、記号の中で、だ。物事の論理は、再-現前化なしで、流れを「じかに、それ自体において」コード化する。それはおのれの対象を引き剥がし、みずからの登記を行う。意味・記号・欲望は、私たちが「自然の」生産過程(生産訴訟)に参加させるもののことだ。ただしその参加は、二次的分節が原因なのではなくて、二次的分節という諸媒介にもかかわらず行われる。主体的な顕現は「余計」であり、二重分節の拘束されたシニフィアンの連鎖に内在的である(次のことを見直せ。諸意味作用――文字――の、非主体的な記号論への回帰の歴史としての科学)。 欲望の原因としての対象「a」は、それゆえ、シニフィアンとは何の関係もない。 シニフィアン、社会体は、その中に根を下ろしている(集団的で領土化された器官の備給、および享楽の備給の欠如)。 (『アンチ・オイディプス草稿』p.256)

 La seule re-territorialisation compatible avec le projet révolutionnaire est celle qui se fera sur des surfaces de consistance subjective « autogérées », à la mesure de l'exercice singulier des machines désirantes (communautés, nouvelles familles, etc.). C'est-à-dire de quelque chose qui peut recoller artificiellement les corps pleins sans organe. L'agent collectif d'énonciation utilise, selon une transcursion de plus-value de code, les éléments de codage sur le corps sans organe qui étaient destinés a être abolis dans une économie dominée par les flux. Les flux n'ont pas besoin de corps plein sans organe. Ils se font référencer dans des coordonnées, des plans coupés, des structures. Ils répondent à la loi générale de la valeur d'échange qui veut qu'à chaque chose on trouve un équi-valent.

 革命的プロジェクトと両立する唯一の再領土化とは、「自主管理された」主観的一貫性の表面に、欲望する諸機械の特異的実行に見合う仕方で行われるそれである(共同体、新しい家族等)。 すなわち、器官なき充実身体を人工的に接合できる何かの再領土化。言表行為の集団的エージェントは、コードの剰余価値の transcursion*2に沿って、器官なき身体の上でコードの諸要素を用いる。これら諸要素は、流れに支配された経済の中で、破棄されることを運命づけられていたものだ。流れは器官なき充実身体を必要としない。流れは、座標、切断された平面、構造などへと参照させる。流れは、交換価値の一般法に応じている。あらゆるものに、“等”価物を見出す法にだ。

 Seule compte pour elle la traductibilité des choses marchandes. Pour cela, seule compte la capacité des choses à être re-présentées dans des grilles signifiantes détachées. C'est-à-dire le recours à des signes impuissantes. Par flux de signes-figures. Signes neutralisés, incapables d'une plus-value de code. (p.273)

 この法にとって重要なのは、ただ商品の翻訳可能性だけだ。そのために重要なのは、切り離れたシニフィアン格子の中で再-現前化され得るという、諸物がもつ能力だけである。つまり、非力化された記号に訴えることだ*3。形象-記号の流れによって。それはコードの剰余価値を担うことのできない、中立化された記号である。(『アンチ・オイディプス草稿』p.263)


つづく



*1:特異性といわれているのは、この一貫性のことだ。それは、シニフィアンの自動運動ではない。

*2「transcursion」はグァタリが導入を求めた造語のようだ。フランソワ・ドッスGilles Deleuze, Felix Guattari : Biographie croiséeでは、ジルベール・シモンドンの「transduction」参照1)(参照2)などとともに、「transversalité」に関連づけられている(p.233)。 ドッス同書の邦訳『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』では、シモンドンの「transduction」が《転導》と訳された上で「その派生概念」とのみ記され、肝心の単語「transcursion」そのものは無視されている(邦訳p.211)。

*3【上山注】 ダイアグラム化を封印されている、ということだろう。

2013-02-04 境界活動を支える難しさ このエントリーを含むブックマーク

昨日のエントリ について、齋木克裕氏(参照)のツイートより:

これは、大事にもかかわらず、持ち出すのが怖い話題でもあります。

なぜかというと、「自分は正規の○○だ」というのは、多くの人のナルシシズムの基盤だから。話し始めたとたん、怒り出す人がとても多い。


永瀬恭一さんがご自身のことを「非正規芸術家」と呼んでいましたが(参照)、*1

批評にしても、じつは「正規の批評家」というのは、もう何も論じていないところがありませんか。美術にかぎらず、職業的に正規化された「批評家」は、制度に内部化されて、業界的に承認されそうなことを言ってるだけに見える。


開運!なんでも鑑定団というTV番組がありますが、あそこで専門家というのは、「値踏みができる」ということです。芸術のフォーマットそのものを問い直したりすることは、期待されていない。「業界に内部化された事情通」――これ以外は、存在や機能として無視される。


今回も痛感しているのですが、

  • 完成/未完成
  • 正規/非正規

について、 《あいだに立つ》 ということ、

その難しさがものすごく大きいとしても、それは単に

「なかったこと」にはできないと感じています。

わかりやすく内部と外部を語った時点で、もう大事な話はできない。*2


私が関わらざるを得ない対人支援でも、

 「正しい社会人」が誰なのか、どうすればなれるのか

それを簡単に語れる人は、支援論ができない。


あるいは例えば、誰かを社会学者と呼ぶと、

 「私は違う」 「あの人は大学にポストがあるから社会学者と呼んでいい」

など言われるのですが、

本当に問い直すべきは、考え方がいつの間にか社会学のディシプリンに嵌まり込んでいないか、それを自分の問題として考えられるかどうか――でしょう。名詞形で「社会学者」と区切れるかどうかというのは、自意識や書類の問題でしかない。

自分を社会学者ではないと思い、現に制度的にもそうではないとされる人でも、話してみたら「社会学的にしか考えていない」なら、社会学の問題は、ご自分のこととして引き受けてもらわなければ困ります。*3


精神医学もそうです。

これははっきり、「医師免許があるかどうか」で区切られるのですが、実は患者さんの多くは、もはや精神科医のようにしか考えません。それがどういう帰結をもたらすかを考えずに、「専門家言説」を丸呑みしてしまう。


現代社会が、

 「完成品」「専門家」のアリバイで区切られる

それをタテマエとして成り立っているのは勿論だし、これを単に否定したら、

生活の再生産じたいが破綻するのも、また自明と存じます。


では、「正規の」とか「完成品」とかの詐欺に陥らないで、それでも活動が続いていくには、どういうスタンスを取ればよいか。この《境界》を支える活動そのものを、どう支えればよいか。*4



*1:関連して、「非正規当事者」という話をしていました(参照)。

*2:いちど正規ルートを外れたら、二度と戻れないのが、問うことを難しくしていると感じます。「問うなら、入れてやらない」というような。

*3:たとえば、たんなる論理主義は、「正しいか間違っているか」「証明できたかどうか」があるだけで、《境界》というモチーフを立てられないのではありませんか。

*4:サイードが『知識人とは何か (平凡社ライブラリー)』で呼びかけたのは、まさにこういう《あいだ》のスタンスだったと思いますが、それが社会的にどう支えられるのかは、よく分からないままです。サイード自身は、どうやって生活費を稼いでいたのか。

2013-02-03 現代社会のフォーマットとしての、完成詐欺 このエントリーを含むブックマーク

これは作家としての議論なのだけれど、モチーフとして決定的に大事なのは、

私たちの生活世界への着手そのものに関わるから。


商品というのは、「私は完成しています」という詐欺ではないだろうか。

完成サギに身を染めないと、正しく存在していると見做されない、

それが私たちの生活世界ではないか?


「完成している」というアリバイゆえに、あなたも私も、それぞれの制作物も、

社会的な存在を許されているのではないか。

それを守ろうとするから、いろいろ、おかしくなるのではないか?*1


私にとって「当事者」とは、やり直しの場所ということだ。

名詞形で居直ることではない。 だからなんとか、動詞化したいのだ。

検証して、やり直すことじゃないか、自分の話というのは。


永瀬氏は漱石の『明暗 (新潮文庫)』を挙げているが、

まさに書物というのは、「これから着手しなおす何か」。


 お前が目にしているのは完成形だ

 おまえ自身がつねに完成品のアリバイを名乗れ

この詐欺を強要されているのが、私たちの意識や関係の編成ではないか?*2


古典とされるような作品は、多くの人がそこに《未完成》を見出すもの、

「もう一度そこに還ってきたくなる」何か。


学問や製品が《完成形》で示されることに、疲れ果てていないか、私たちは。

完成形ならば、順応するしかないではないか。

どうしてそんなものに入門できるんだ。



*1:やり直しの技法こそが、私たちの鍵に思える。

*2:買ってきた製品を、皺ひとつない状態に保ちたがる本末転倒。私たちが生きるとは、使い倒して、手垢や皺だらけにして、やり直しの跡をたくさん遺すことではないのか?

2013-02-01 剥離による蘇生――ドゥルーズとグァタリ このエントリーを含むブックマーク

思想 2013年 01月号 [雑誌]

思想 2013年 01月号 [雑誌]

p.87〜p.123 に掲載されている、

國分功一郎 「ドゥルーズの哲学原理(4)――構造から機械へ」

を、くり返し精読した。

ドゥルーズとグァタリの関係について、原理的な実態に踏み込んだ正面からの考察なので、関連領域に興味のあるかたは、ぜひ読んでほしい。以下では、私なりに気づいたことをメモしておく。



《離脱≒剥離》としての détachment

グァタリの論考「機械と構造」*1を國分氏が訳しなおして引用した箇所より(p.93):*2

 この無意識の主体性――シニフィアンの連鎖を頂く裂け目としてのそれ――が、個人や人間集団の外へと転移され、機械の次元へと向かうのが本当だとしても、機械に独自の水準ではそれが代理=表象しうるものではない〔non representable〕ことに変わりはない。機械の表象を表象するものという資格で機能することになるのは、無意識の構造的連鎖から離脱したシニフィアンである。

 機械の本質とは、まさしく、表象作用をもつもの、「微分作用」をもつもの、あるいは因果上の裂け目としての一つめシニフィアンが離脱するこの働きのことであり、これは構造的に確立された物事の次元にとっては異質なものである。この作用こそが、機械を次の二重の相貌の帯域に結びつける。欲望する主体と、それに対応する様々な構造的次元を基礎付けている根幹部であるというこの主体の地位、これら二つの相貌の帯域に、である。機械は、特異的なものの反復として、主体性がもつ多種多様な形態の一義的表象の様式――唯一可能なる様式――を構成している。ここに言う主体性とは、個体的ないしは集合的な平面での一般的なものの次元におけるそれのことである。

そのフランス語原文:

 S'il est vrai que cette subjectivité inconsciente, en tant que coupure surmontée d'une chaîne signifiante, se trouve transférée hors de l'individu et des collectivités humaines, vers l'ordre de la machine, elle n'en demeure pas moins non représentable au niveau spécifique de la machine. C'est un signifiant détâché de la chaîne structurale inconsciente qui fonctionnera au titre de représentant de la représentation de la machine.

 L'essence de la machine, c'est précisément cette opération de détachement d'un signifiant comme représentant, comme « différenciant », comme coupure causale, hétérogène à l'ordre des choses structuralement établi. C'est cette opération qui noue la machine au registre à double face du sujet désirant et de son statut de racine fondatrice des différents ordres structuraux qui lui correspondent. La machine, comme répétition du singulier, constitue un mode, et même le seul mode possible, de représentation univoque des diverses formes de subjectivité dans l'ordre du général sur le plan individuel ou collectif.

(Félix Guattari, "Psychanalyse et transversalité", p.243)


ここで國分氏が「離脱」と訳した「détachment」は、たんに能動的に操作できるような、たとえば「quitter」などと表現できるような事態ではない。 むしろ、意識の編成されるプロセスそのものを、唯物論的に(ということは、能動性に還元しないで)論じようとしている。

グァタリが、「主観性の生産(production de subjectivité)」というモチーフを論じ続けたことを考えれば(参照)、この「détachment」は、主観性それ自体の、唯物論的な生産過程の契機ではないだろうか。


そう考えると、この「détachment」は、マルクスの以下の表現に重なる(参照)。

 ヘーゲルの『現象学』とその最終的成果とにおいて――運動し産出する原理としての否定性の弁証法において――偉大なるものは、なんといっても、ヘーゲルが人間の自己産出をひとつの過程としてとらえ、対象化〔Vergegenständlichung〕を対象剥離〔Entgegenständlichung〕として、外化として、およびこの外化の止揚としてとらえているということ、こうして彼が労働の本質をとらえ、対象的な人間を、現実的であるゆえに真なる人間を、人間自身の労働の成果として概念的に把握しているということである。

同箇所の、ネットで見つかったフランス語訳(参照)では:

 La grandeur de la Phénoménologie de Hegel et de son résultat final - la dialecti­que de la négativité comme principe moteur et créateur - consiste donc, d'une part, en ceci, que Hegel saisit la production de l'homme par lui-même comme un processus, l'objectivation comme désobjectivation, comme aliénation et suppression de cette aliénation ; en ceci donc qu'il saisit l'essence du travail et conçoit l'homme objectif, véritable parce que réel, comme le résultat de son propre travail.

Entgegenständlichung には、「dés-objectivation」という造語が充てられている。日本語訳の解説を見ても(参照)、これはドイツ語として、かなり異様な表現なのだろう。


グァタリがこの箇所を読んでいたかは不明だが、*3

 主観性そのものを、唯物論的な生産過程として論じようとした文脈にある

という見立ては、使えるのではないだろうか。

つまりそれは、「下部構造に対する上部構造」とか、アルチュセール的イデオロギー論とも別のスタイルで、意識の営みを論じ直そうとしている。


マルクス本人はのちに、生産過程を「生きた労働」等の概念で論じ直している(参照)。 グァタリは、生産の過程が資本のもとにあるか(労働力として売買されるか)だけでなくて、その生産過程が、素材レベルでどう編成されるかの話をしている。*4



唯物論と、タダモノ論

この点について國分氏は、次のように述べている(p.92):

 たとえば彼は突如「人間労働」と「機械労働」に言及し、人間の振る舞いが機械の秩序の部分的過程になっていると言い始める。ここではつまり、工場で使われている印刷機や加工機械などが念頭に置かれている。ガタリはそこからまた資本主義における労働者の疎外にまで話を広げてしまう。「機械と構造」というテクストにおいては、抽象的な意味での「機械」というモデルと、具体的な意味での「機械」とが、十分に架橋されぬまま重ね合わされているように思われる。


「抽象的な意味での機械」といっても、それが主観性そのものの唯物論的過程であると考えれば、「具体的な機械」と連動し、いっしょに資本に巻き込まれる、という話になる。――つまりここでは、《タダモノ論的な機械》と、《唯物論的な機械》とを、切り離すのではなく論じようとしているのではないだろうか。


「資本が労働力を買う」というだけの話なら、《構造》概念でじゅうぶんだが*5具体的な日時を持つ労働時間のディテールは、素材もろとも「生成する」しかない。それはあらかじめ仕切られた時計時間を離れ、いわば「蝶番の外れた」、しかしこれ以上ないほど健全な、質的な複雑さを生きるだろう。素材は、おのれの肺で呼吸を始める。

ところが資本のもとでの労働過程では、こうした蘇生は禁止され、「具体的な機械」に、すべてが収奪される(参照)。 唯物論的な機械として生成することを禁じられた人間の労働は、タダモノ論的な機械の付属物でしかない。*6


――こう考えれば、グァタリの議論はさほど飛躍には思えない。またこれは、「物質に付け加わる新しい主体性」というドゥルーズ的論点にも、なじむように見える。*7



記号過程の新生

國分功一郎「ドゥルーズの哲学原理(4)」、pp.95-96 より(強調や段落分けはブログ主)

 ガタリは

  • 機械の本質とは、まさしく、表象作用をもつもの、「微分作用」をもつもの、あるいは因果上の裂け目としての一つのシニフィアンが離脱するこの働きのこと

だと述べている。この「一つのシニフィアン」はファルスのことを指している。「離脱(détachement)」が何を指しているのかは判然としない。しかし右で我々が述べたことと繋げて考えてみるならば、ガタリがこの「離脱」という語のもとで、欲望を単一の欠如から説明する理論設定の変更を考えていることは明らかである。

 そして更に、この「離脱」の作用によって、機械は「欲望する主体」とその「地位」に結びつけられると述べられている。機械が単に主体ではなく、「欲望する主体」に結びつけられていることは重要である。それは機械の概念が欲望を中心に据えたモデルであることを意味しているからである。

 それにしても「離脱」は本当のところ何を意味するのだろうか? 

 ラカン派精神分析では、最初のシニフィアンであるファルスが放棄されている状態を「排除(forclusion)」と呼び、これこそが精神病(神経症ではない)の発症の根本原因であるとされる。この理論ではファルスは最初のシニフィアンとして無意識の中にしまい込まれねばならなかった。これが原抑圧である。つまり精神病は、原抑圧が「正常に」機能していなかったために発生するものとして説明される。

 ガタリが言う、ファルスというシニフィアンの「離脱」は、この「排除」のメカニズムを想起させずにはおかない。つまりガタリは、ラカン派的構造で人間を見ていくと、正常な原抑圧があって象徴界への参入が起こると説明できてしまうが、実際には原抑圧はそのような強固なものではなくて、ファルスは容易に「離脱」するのであり、機械という視点からはそれが理解できるのだと言いたいのではないだろうか?


《離脱≒剥離》するのは、ファルスだろうか。

そもそもグァタリの議論が、最初からファルスを前提にするだろうか。


これはむしろ、

 記号過程が、既成の差異の体系から《離脱≒剥離》する

という話ではないだろうか。 つまりこれは、

記号過程の編成を、原抑圧とは別のスタイルで論じ直そうとしていないか。*8


それは、「意図的に行う」とも、「押し付けられた」とも言えない。

そして、既存の記号編成の自動的作動からの剥離は、新しい分節の必須の条件であり、そこからオリジナルの明晰さが、出来事として生成する。


これは、外側の中心に支配されない《内的な法 loi intérieure》の創発を、説明したものに見える(参照)。 この法の時間は、唯物論的な《機械》の時間と重なるはずだ。(タダモノ論的な機械は、物理法則には従うが、内的法は関係ない)


「原抑圧」で中心化されては、事件としての分析が、独自の法にしたがって創発しない。剥離なしには、真に新しい分節のやり直しが生じないのだ。 グァタリが ダニエル・スターン に言及する箇所では、いつもこの話をしている。

参照1】 【参照2】 【参照3



ラボルド病院における、創発的な超越

ファルス的な中心に頼らない分節生成は、ラボルド病院の臨床技法において、つねに問われている*9。 しかし、では《中心》の概念セットに頼らない活動は、どのように成り立つのか?――それはたとえば、《垂直性+水平性》のもんだいとして主題化される。

以下、グァタリの論考「Transversalité」(1964年)より:*10

 Transversalité*11 とは、次のものとは反対のものである。

  • 垂直性。 例えば長、副といった、ピラミッド構造の組織体が行う描写において見いだされる。
  • 水平性。 これは病院の巣窟のような場所、興奮の収まらない患者が入れられた隔離棟(le quartier des agités)、さらには〔薬や電気ショックで〕惚けてしまった患者が入れられた隔離棟で実現されてしまうかもしれないもので、ものと人がそこにある状況と出来るだけ折り合いをつけているような事態として実現される。

ここで、

  • 「垂直性」は、編成のたびに参照される、超越的なもの(縦軸)だろう。
  • 「水平性」は、単にバラバラな並存であり、新しく何かが編成されることがない。


原抑圧の概念セットは、生の編成に、つねに同じ超越を導入してしまう。

これがつまり、國分氏の解説する次のような状況だ(p.95):

 そこで想定されている欲望が、常にただひとつである

 いかなる欲望も〈対象a〉を、つまり Φ(フィー) を求める

ここでは、おのれを編成するにあたっては、つねに同じ中心に基づかなければならないし、そうでなければ、周囲にいるほかの編成に合流することができない。私は、以前の私と同じものを、そして周囲と同じものを欲望しなければならない。

それゆえこれは、主観性や集団の編成における、硬直した再生産の原理そのものである。つまり原抑圧の理論は、教会・軍隊・資本など、党派的な主観性や集団の再生産を、うまく説明しているし、その説明原理を自らに適用する人たちは、その本人たち自身が、ある党派性を再生産し続ける。*12


いっぽう、単に放置された並存*13では、垂直軸はない代わりに、新しい編成も起きない。つまり単にバラバラであるとは、これ以上ないほど管理された状態であり、実は硬直している。



あくまで実務的な、技法上の工夫

ふつうはこれを「ポストモダン」と言って、たんなる相対主義で終わるのだが、

グァタリはむしろ、そのような状況におけるやり直しにこそ、取り組んでいた。

つまり、技法論的な処方箋を出そうとしていたのであって、これは「提案」の試行錯誤でしかあり得ない。「スキゾ的な社会」を確認して悦に入っていたわけではないのだ(参照)。


学術的な素養では圧倒的だったドゥルーズが、それでもグァタリにこだわったのは、この《技法論的な源泉》を、彼に感じたからではないだろうか。(この意味で、國分氏の著書が『スピノザの方法』と題されているのは示唆的だ。)

 ドゥルーズは「ガタリの思想」の外側にいて、それを観察者として眺め、報告しているのではない。自由間接話法を用いて哲学者を論じていた時のように、語っているドゥルーズは、語られる側にあるガタリに生成変化している。 (國分、p.90)

ドゥルーズは、グァタリ的生成の方法≒技法をこそ、我が物としたのではないか。


そもそもグァタリが、「剥離(détachment)」ほか、さまざまな新語を導入したのは、原抑圧の垂直性とは別の仕方で、しかしバラバラな並存に硬直するのでもなく、主観性や集団を編成し直すプロセスを蘇生しようとしてのことだろう。*14

これは、たんに「哲学的な認識」を目指してのものではない。

極端な順応主義や断片性に硬直する(今なら「普通精神病」と言われるような)現象に取り組んだ、臨床的な(苦痛緩和の)趣旨をもつ概念提出だったといえる。唯物論的な意味での《機械》概念も、そうした技法上の提案だろう。*15


ここを間違うと、そもそもグァタリが何をしようとしていたか、さっぱり分からなくなる。




触媒としての《制度》

「機械と構造」の収められたグァタリの単著に寄せたドゥルーズの序文は、

ラボルド病院の制度論を扱っている(参照)。*16

つまりドゥルーズにとって、「グァタリの方法」の核心には、まず制度概念があった。


伝記上の時系列からいっても、グァタリは機械概念より前に、まず制度概念と格闘している。あるいは「分裂分析(schizo-analyse)」の語も、その前にこだわった「制度分析(analyse institutionnelle)」との関連にある。

あるいはここで、グァタリと出会う前のドゥルーズが、「本能と制度」というモチーフに取り組んでいたことを思い出してもよい(『哲学の教科書---ドゥルーズ初期 (河出文庫)』)。


ラボルドの用いる制度概念は、

  • (1)マルクス的な意味での社会的疎外
  • (2)フロイト的な意味での精神的疎外

この2つを同時に扱えるよう、あくまで臨床事業のために用意されたものだ。


國分氏は、ドゥルーズ=グァタリが次のような視座を提示したという(p.115):

 精神分析の批判的継承とマルクスを経由した政治経済学的視点が融合することによってはじめて現代に復活した真の政治哲学の視座

少なくともグァタリの側では、まずこれは《制度》概念とともにあった。

ドゥルーズは、そこに注目して序文を書いた。


私たちがいつの間にか巻き込まれ、従ってしまう《制度》を分析し、

逆にこれを触媒的に「使おう」とするのがラボルド病院の技法だが(参照)、

概念としての《制度》は、構造/機械の二概念を媒介するだけでなく、

ドゥルーズ/グァタリの関係においても、触媒的に働いたのではないだろうか。


    • グァタリが影響を受けたことを告白しているメルロ=ポンティにも*17、《制度化》という概念があるが参照、これは差異の一般性にも、実存の能動性にも還元されない。この意味での《制度化》は、ドゥルーズ=グァタリ的に反復される《機械》の時間に、重なって見える。*18
    • ブログ主が阪神・淡路大震災に被災したときの興奮は、本稿のタイトル「剥離による蘇生」に関係する。ライフラインの破綻は、私を生活世界から《剥離》した。私はそこで、「自分の肺で呼吸している」ような感覚を味わった(参照)。



*1:邦訳は『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』所収

*2:以下、引用部分での強調はすべてブログ主による。

*3:「機械と構造」が書かれた1969年時点で、すでに仏訳はあった(参照)。 【私は入手していませんが、69年以前の版で「Entgegenständlichung」がどう訳されているかをご存知のかた、ご教示いただけると助かります。】

*4:「資本家は時間の延長ではなく複雑な質的過程を強奪する。資本家は労働力ではなく生産の配備を左右する力を買うのである」(グァタリ『分子革命―欲望社会のミクロ分析 (叢書・ウニベルシタス)』, pp.55-56)

*5:いつも同じ一般的構図を確認するだけだから。

*6:國分氏の引用したグァタリの一節:《 現代の人間労働は、機械労働の残余たる部分集合に過ぎない。残余たる人間の振る舞いはもはや、機械の秩序からにじみ出る主体的な過程の付属的・部分的な過程でしかない。》

*7:《失敗した「注意深い再認」こそが潜在的なものを現動化し、新しさを生み出す》(國分氏、『思想 2013年 01月号 [雑誌]』p.87)――これは私には、失敗や破綻を契機に立ち上がる再分節の動き(私が《当事化》と呼びたいもの)に、重なって見える。失敗がなければ、私たちは自分をあらためて当事化する必要に迫られない。そこでの分節は、素材の編成を破綻からやり直す、新生の生産過程なのだ。

*8:《「明確化」と「創発」は同じ事態ではないだろうか》と論じた菅野盾樹氏と、重なる話のはず(参照)。

*9:ラボルド病院では、「あらかじめ固定された役割」や、「全体を統括するひとつのイベント」のような、単一的な支配の状況が嫌われる(参照)。

*10:《垂直性+水平性》を扱った、三脇康生「精神科医ジャン・ウリの仕事――制度分析とは何か」(『思想 2007年 06月号 [雑誌]』p.53)に引用された訳より。【同箇所の書籍化された邦訳は『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』p.131】 同じ訳が、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.27 にある。

*11:「transversalité」をいきなり「横断性」と訳してしまっては、中心化する党派性から離脱する生成そのものとしての《剥離→分節》が、すっぽり抜け落ちてしまう。党派への固着を維持した「横断性」は、まさに「オルグ」でしかない。

*12:自覚的か否かを問わず、「唯一の大義」にもとづいた理論事業が、党派性を再生産する。國分氏の取り上げた、「《反復≒偽装》ゆえの抑圧」(p.108)は、ドゥルーズ的なスタイルで、党派性の問題をやり直したものとは言えまいか。

*13:「ものと人がそこにある状況と出来るだけ折り合いをつけている」(引用箇所のグァタリ)

*14:意識的にファルスに反対することは、党派性からの離脱を保証しない(むしろ意識的なアリバイ作りは、左翼党派の常套手段だ)。創発する超越は、剥離とともに「その都度やり直す」しかない。――ここに、たんなる構造の確認ではない、具体的な日付が生じる(國分pp.91-92)。

*15:分裂分析は、『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』では「機械状無意識の語用論(pragmatique de l'inconscient machinique)」と言い換えられ(邦訳p.187、原書p.190)、『千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)』に至っても、語用論(プラグマティック)が「分裂分析」と言い換えられている(邦訳〔上〕p.299、原書p.182)。ここで臨床実務は、語用論的な工夫と切り離せない。

*16:このグァタリの単著『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』は、『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』と同年に公刊されている(1972年)。

*17:「私はメルロ=ポンティには非常に影響を受けていますね」(『政治から記号まで―思想の発生現場から』p.25)→【その音声ファイル

*18:メルロ=ポンティの制度論に取り組む廣瀬浩司の論考「機械は作動するか――ドゥルーズ/ガタリにおける機械の問題系」(『ドゥルーズ/ガタリの現在』pp.176-200)が、やはりグァタリの論考「機械と構造」を扱っている。

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