Hatena::ブログ(Diary)

Freezing Point このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

トラックバックは受信しておりません。また、メール・リンクには基本的にお返事しません
が、無視しているわけではありません。 いつも励まされています。
いただいたメールは、公開する可能性があります。
コメントを書き込むことはできませんが、過去のコメントは読めます。
[語句説明]

2013-03-28 必要な論点は、どこにも書かれていない このエントリーを含むブックマーク

これは話が逆で、むしろ

    • この人たちは、なぜ自分が「書かれたことしか読み取っていない」と言えるのか。

社会生活は、つねに「書かれていないこと」の読み取りを強制されていて、

うまく参加できない人は、そこでつまずいている状況があります。*1


「書かれてあることを読み取っている」については、文字や音声の物証を挙げて、目の前で説明できるので、わかりやすいでしょう。ところが、

 「書かれていないこともすでに読み取っている」

については、説明が抽象的にならざるを得ません。

「書かれていないこと」の中身は、即物的に提示しにくいからです。



すでにやっていること、なのに

一部の方々は、「書かれたことしか読み取ってはならない」というのですが、

 あるタイミングである発言をしても「大丈夫だ」を理解する

には、書かれていないことを読み取らないと無理です。


《空気を読む》というのは、あれは空気のどこかに、

文字が浮遊しているんでしょうか。


あるいは、「書かれてあること」についても、

 話題にすることを禁じられている

場合には、書かれていないことを読み取らないと、対応できません。*2


つまり、冒頭 tweet で実際に生じているのは、

「書かれていないこと」を読み取っている生活強者が、

次のような努力を嘲笑する構図なのです。

 制度的承認を得た問題意識に放置されてはたまらないので、

 書かれていない論点を設計し直し、

 新しい《取り組み方》を創造する

これは、あくまで必要に基づいての創造なので、

恣意的にでっち上げるだけでは、うまく行きません。


むしろ、《根拠づけ》の確保をやろうとすると、

今度はそれによって、またフリーズする。



《根拠づけ》という危険な話題

合理的根拠づけというのは、意識の硬直を問題にするときには、ものすごく危険なテーマです。「自分は何をやっているのか分からない」というのは、たんに哲学的な問いではなくて、《根拠付けが出来るまでは何も出来ない》という恐怖症にとらわれてしまうと、固まるしかなくなる。


自分の作業を設計し直す努力は、根拠づけがうまくいかないまま、

《底の抜けた状況で》やるしかない。


必要なのは、「根拠づけせねばならない」というウソの(不可能な)要請に居直ることではなくて、*3

 根拠づけできないという条件を踏まえた上で、どうするか

――この技法を考えること。



論点の様式を変える必要

私たちが読み取るべきことは、《書かれた文字》に限定されるでしょうか。手持ちの論点が機能しないなら、私たちは論点を描き直し、取り組み方法そのものをつくり直す必要があるのではありませんか。*4


この努力を嘲笑する人は、

  • ご自身は適宜「書かれていないこと」を踏まえてサバイバルし、
  • 都合の悪いことは、「書かれていないから」と無視する。

問題意識の固定そのものがきわめて政治的です。


主観性や関係性の硬直にかかわる論点は、今のところ、多数派の言説には書かれていません。ですから、うまく行っていない人は、取り組みの――ということは、《読み取りの》態度そのものを、新しく創り出さねばなりません。努力の様式を作り直す必要があるのです。《創造》の本当の必要は、ここにある。*5


逆にいうと抑圧は、

 創造の必要があるにもかかわらず、読み取りのスタイルを不当に規制される

ところにあります。

既存の努力様式への過剰な順応派は、「そんなことは書かれてないなぁ」と言っておけば、試行錯誤そのものを踏みにじれるわけです。順応しておけば、正当性を確保できるから。《正当化の様式》そのものについてまで、弁護する必要に迫られないから。



問題意識(≒理解状況)の貧困さは、苦痛の環境要因

問題は、

 書かれていないことは読み取らなくて良い

というウソの口実がのさばることで、問題意識が不当に単純化されてしまうこと。必要な論点は科学や論理学に還元され、骨抜きにされ、潜在的な改編の必要性は、なかったことにされます。


冒頭のツイートで RT されている id:contractio(酒井泰斗)氏は、

以前に私とのやり取りが終わった後、こんなことを言っています(参照):

既存の専門用語と、新しい問題意識の葛藤が描かれているので、

私のしている議論と、重なりをもつ可能性がありそうです。

ただ、疑問が大きく二つ。

    • このような話は、どこに「書かれてあった」のでしょう。
    • ここでおっしゃっていることは、私が中学に行けなくなったときの出発点です。つまり、「大人たちの言葉づかいを真似ても、そこには大事な話はない」。そこで途方にくれ、自前でモチーフを開発しなければならなくなった*6。今の私が論じていることは、そこから30年の葛藤を経た上での論点です。――中学時代の出発点を言っただけの酒井氏が、私に「反論した」ことになっているのは、どういうことでしょう。


私はここ数ヶ月、酒井氏あての事情説明を膨大に行なったのですが参照1】【参照2】【参照3そこにはさまざまな論点が「書かれていた」にもかかわらず、酒井氏はそれを読み取れていません。そして、私の出発点の認識を(なぜか私の言っていないこととして)言葉にして、それを「反論」としてぶつけてきた。


つまり酒井氏は、「書かれたことしか読み取ってはならない」と言いながら、書かれたことも読み取れてはいません。――ここでは、「書かれたことしか読み取ってはならない」という前提が、(議論を厳密にするというよりは)読解の能力を落とし、問いの設計図を、不当に稚拙にしています。*7


「書かれたことしか読み取ってはならない」ではありません。実際に私たちは、書かれていないことも読み取りながら暮らしているし、書かれていないところから自分で論点を編み出し、それを言葉にし直さなければ、生き延びることすら出来ません。



学問に醸成される無能力

人の生き死にを左右する重大な論点が、学問の体裁をとったウソの言説に抑圧されています。 つまり、

 解読や論点生産の《能力のなさ》

は、学問ディシプリンとして、人工的に醸成されているのではありませんか。



*1:ひきこもりや発達障碍の周辺で取り沙汰されるのは、こういう苦しさです。

*2:ヤクザ関連など、暗黙の事情にかかわることは大抵そうです。

*3:ご自分たちは、明文化されていない曖昧な根拠を読み取って暮らしているのですから、「書かれたものだけに基づけ」というのは、詐欺のような要求です。要するに、体制順応派の居直り。

*4:たとえばマルクスの 価値形態論生産様式論 は、彼が描き出す前に、どこかに「書かれてあった」でしょうか。彼は、問題意識そのものから――ということは、《説明上の着眼》から、やり直さねばならなかったはずです。

*5:オリジナリティを競う自意識は、創造性とは何の関係もない。

*6:当時は、心理的な恐慌状態でした。どうしていいか、本当にわけが分からなかった。

*7:お互いに分かりやすい悪意がないことは、むしろやり取りを紛糾させます。「書かれたことしか読み取ってはならない」は、主張者たちにとっては、誠意の拠り所でしょう。

2013-03-23 生活者に必要な論点としての singularité このエントリーを含むブックマーク

ツイッターでのやり取りですが、singularité(特異性)という20世紀フランス思想の概念について、以下のような問いが出されていました参照1】【参照2。 部分的な要約と引用をしてみます:

  • グァタリの singularité は、いつも特異性と訳されているが、単独性と訳してはダメか。
  • 関連して、ラカンの sinthome との対比。
  • singulier なものがいかに連帯するのか
  • フランス現代思想における singularité 概念の諸相

そこで私は、《問いや問題意識の設計図に、すでに立場や方針が表れている》 という点にも注意したいです。 実はすでに、singularité をめぐる《考察》そのものに、singulier な分岐は生じてしまう。


私が必要だと思う《説明》は、ある偏りを持つがゆえに、他の皆さんにとっては必要ではない。また、ラカンの言葉づかいでそれを「説明」されても、同じことだと思います。 singularité という語は、その分岐の場所に立っている標識のようなもの。


私は最近、かなりの時間とエネルギーを割いて、自分の問題意識を《説明する》努力をしたのですが(参照)、これはその説明相手に対しては、ほぼ無意味でした。とはいえ相手側に、わかりやすい悪意があったわけではありません。

相手のしている議論も私には無意味だったのですが、――私はここで、相対主義は採りません。私の議論こそが、《必要な方針》を体現するものであり、相手側の説明方針には、部分的な意義しかありません。

つまり焦点は、単なる相対性や個別性ではなくて、《特異化してゆくような、本当に必要な議論こそが通じない、市民権を得られない》ということ。本当に大切な分析は、単独的・特異的に生成するゆえに、議論の趣旨が伝わらないのです。大事な話になればなるほど、singulier になる。


これは、党派性をめぐる問いでもあります。たんに科学や論理に還元できればよいのですが、そうはならない。


《なぜ singularité という論点が必要なのか、それはマジメに受け取るべきなのか?》――そこから苦しんでいるはず。 科学や論理に還元する立場を採るかぎり、フランス思想の singularité 概念は、要らないでしょう。(ソーカル的にも)


たとえば東浩紀氏はこのあたりを、「複数の超越論性」という言葉で表したことがあります(参照)。 この論考はデリダ論ですが、「複数の超越論性」を論じた箇所では、ラカンとグァタリが挙がっていた。

グァタリがラカンを評した、「過度に抽象的でありつつ、また同時に、じゅうぶんに抽象的でない」(大意)というのは、なんだか意味が分かりません。ところがこれは、ラボルドの制度分析や「メタモデル化」の趣旨を経由すると、切実な話として浮かび上がってきます。

  • 「過度に抽象的である」とは、具体的ディテールを見ない、形骸化した理解枠を当てはめる態度のことでしょう。(マテームとか)
  • また「じゅうぶんに抽象的でない」とは、そのつどその場で生成する、葛藤を帯びた分析を許さず、そのまま放置されている、ということです。分析事業が、対象の編成に編みこまれていない。


こう考えれば、これはラカン派だけに限った話ではありません。たんに「科学」「論理」を標榜する態度にも言えます。 逆に言うと singularité は、必要な話をすると必然的に出てきてしまう特質なのです。

抽象的であるということに、一元的な還元はない。「こう考えれば適切に抽象的である」という決まったパターンがない。グァタリは、分析の座標そのものを、そのつどやり直す話をしています。


東浩紀氏の議論において、「超越論性が複数である」というのは外在的な指摘ですが(時間的・空間的にバラバラなのを外部から語る)、――グァタリの議論では、複数性は内在的に生きるしかありません。

《複数性を語る議論そのものは、単一的な超越の地位にある》――これが東浩紀氏の語りです。あるいは東氏のこだわる確率性も、経験が確率的であることそのものは、確率的ではない。*1

《複数の超越論性》というテーゼは、複数性を言いつつも、それを論じるご自分の語りだけには超越的な評価を要求する、という振る舞いであり、――これは東浩紀氏の承認要求そのものと重なります。(ご自分が「複数のうちの相対的な一項に過ぎない」という扱いを受けることを、許さない。)


私は、これをたんに批判して終わることはできません。――《そのつどの必然性に従うがゆえに複数的になった語り》は、本当に通じないから。

たんに多様性や特異性を賞賛するのは、単独的に「なってしまう」深刻さを理解しない、PC 的イデオロギーにすぎません。あるいはグァタリに頼る語りの多くは、たんに権威主義的です。*2

結局それなりに「通じる」のは、そのつどの必然性をあきらめた、順応主義的な言説でしかないのかもしれない。あるいは、「複数の超越論性を肯定する、超越的な言説」をやって、超越性の共有において、連帯を維持するしかないのかもしれない。


そういう方針でうまく行っていない身としては、このまんまというわけにはいきません。まさに、内在的にやり直す必要を抱えています。

これは思想研究の論点というより、生活者の論点です。たんに研究を諦めることもできなくて、複数性を生きるための、新しい技法開発が要ります。



これはそのまま、《当事化》の話

《当事化》と動詞形で語りたいのは、そのつど生きられる singularisation(分析の特異化)をこそ、このモチーフの主題にしたいからです*3。つまりこれは、マイノリティを名詞形の「当事者」で囲うのとは、違う切り口。弱者でなくても、自分のいる場所で singulier な分析を生きてほしい。

ドゥルーズやグァタリの提案した内在性は、名詞形で「当事者」と名指される人たちだけの特権ではないでしょう。むしろ、誰もが生きる分析の命運にかかわることだと思います。


分析は、たんに複数であれば良いのではなくて(そんな自意識に特異性は生じない)、そのつどの、やむにやまれぬ必然をもって生じてしまう*4。 たんに「特異」「バラバラ」を言祝いでいるのではないし、

 実体的・名詞的に singulier なのではなくて、

 特異性は動詞的に生きられる

ことにも注意。


外部から言われるだけの「多様性」は、多様でもなんでもないし、複数性を外部から指摘して終わることは、必ずしもみずからが複数性を生きることになりません。たいていは、相手を実体化して褒めて終わりです。*5

たんに相手の同一性信仰(被害者ポジションやナショナリズムなど)に加担することは、多数性の受容ではないでしょう。そして、本当に特異的に生じた分析は、心理的には抵抗を引き起こしがちです。



【2013年3月25日 追記】

「ていねいに説明すれば、理解される」という幻想は、深く深く根付いてしまっている。――それぞれの学問は、むしろ問題を無視する態度の培養槽になる。


《singularité 特異性》 は、

  • (1)どうすれば適切に特異化できるか の問いであると同時に、
  • (2)特異化の必要は、たんに孤立のリスクでしかない。そういうリスクがあっても、特異化しないわけには行かない。

ドゥルーズやグァタリの「マイナー」概念、あるいはラカン派の「サントーム」概念では、(1)は論じても、(2)の深刻さを論じていないのでは。


社会のフォーマットとして、問題意識がここまで幼稚な状態にある以上、「特異化すればよい」とはならない。(「昔は成熟していたが今は違う」ではなくて、ずっと幼稚なままだろう)

孤立のリスクまで織り込んだ上での特異化――そこまでのことができるかどうか。それは、環境醸成の仕事でもある。



*1:「確率的である」という指摘そのものは常に絶対的に正しい

*2:transversalité に充てられた「横断性」という訳語は、ろくに分析もせずに肩を組もうとするような、最悪のオルグ主義になっています。

*3:分析は特異的に複数性を生きざるを得ず、しかも《過程として》、内在的に生きるしかありません。

*4:必要ないなら、しばらくは順応的に振舞うべきかも知れません(これはラボルド的モチーフ)。

*5:賞賛の言葉にこそ、ディテールが必要ではないでしょうか。つまり「褒める」にこそ、生成が必要。

2013-03-19 グァタリの語用: 《détacher》(13) このエントリーを含むブックマーク

承前  0】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】 【9】 【10】 【11】 【12


Chaosmose』-2 (1992年)

 Cette subjectivation pathique, à la racine de tous les modes de subjectivation, est occultée dans la subjectivité rationaliste capitalistique qui tend à la contourner systématiquement. La science est construite sur une mise entre parenthèses de ces facteurs de subjectivation qui ne viennent à l'Expression que par la mise hors signification de certains chaînons discursifs.

 このパトス的で、主体化の全様式を成り立たせる根の部分で起こった主体化の動きは、システマティックな回避傾向にある資本制的合理主義の主観性において、隠蔽されてしまいます。論証的な鎖の輪の一部が意味作用を外れることによってのみ、表現にたどり着く主体化の要因――科学は、この要因を括弧に入れることで構築される。


 Le freudisme, bien qu'imprégné de scientisme, peut être caractérisé, dans ses premières étapes, comme une rébellion contre le réductionnisme positiviste qui tendait à faire l'économie de ces dimensions pathiques. Le symptôme, le lapsus, le mot d'esprit y sont conçus comme des objets détachés permettant à un mode de subjectivité, qui a perdu sa consistance, de trouver la voie d'une « mise en existence ». Le symptôme fonctionne comme ritournelle existentielle à partir de sa propre répétitivité. Le paradoxe réside en ceci que la subjectivité pathique tend à être constamment évacuée des rapports de discursivité, alors que les opérateurs de discursivité sont essentiellement fondés sur elle.

 フロイト学説の場合は、科学主義の浸透を許したにもかかわらず、少なくとも初期段階において、こうしたパトス的次元なしですます実証主義的還元論に反旗をひるがえした点が特徴的だといえるでしょう。症候、言い損ね、そしてジョークも、一貫性を失っていた主観性のある様式が、「実存化」の道を見つけることを可能にする、剥離した対象と考えられる。症候は、独自の反復性による実存的なリトルネロとして機能する。ここに矛盾があるとしたら、パトス的主観性は、論証性の連関からつねに排除される傾向があるのに、論証性のオペレータは、本質的にパトス的主観性に基礎づけられるということ。


 La fonction existentielle des agencements d'énonciation consiste en cette utilisation de chaînons de discursivité pour établir un système de répétition, d'insistance intensive, polarisé entre un Territoire existentiel territorialisé et des Univers incorporels déterritorialisés - deux fonctions métapsychologiques qu'on peut qualifier d'onto-génétiques. (pp.45-46)

 言表行為のアジャンスマンの実存的な機能は、論証性の連鎖を利用して、反復のシステム、強度的固執のシステムを打ち建てることで成り立つ。そのようなシステムの両極には、領土化された実存の《領土》と、脱領土化された非物体的な《宇宙》――つまり個体(存在)発生的と形容し得る、メタ心理学的な二つの関数――がある。(『カオスモーズ』, pp.45-46〔ぐうぜん原文と同ページ〕


    • 意識を物質反応に還元する《科学》は、私たちの意識がプロセスとして形をとること、それがうまく行かないという事情を、まったく扱えない。プロセスそのものは、作業過程としてしかあり得ない。 では、その作業過程は、どうやればいいか? そこに技法の問題が生じる。科学還元主義は、自分というプロセスが何をやっているかに気づいていない。プロセスとしてのおのれを絶対視している。


 Alors que dans la logique pathique, il n'y a plus de référence globale extrinsèque que l'on puisse circonscrire. Le rapport objectal se trouve précarisé, ainsi que remises en cause les fonctions de subjectivation. L'Univers incorporel ne s'appuie pas sur des coordonnées arrimées au monde, mais sur des ordonnées, sur une ordination intensive accrochée tant bien que mal à ces Territoires existentiels.

 パトスの論理では、外から囲い込める包括的な参照基準は、もはや存在しません。いきおい対象との関係は不安定化し、主体化の諸機能も再検討を迫られることになります。非物体的な《宇宙》の支えとなるのは、しっかりと世界に括りつけられた座標系ではなく、単独の縦座標であり、かろうじて実存の《領土》につなぎとめられた強度的秩序づけです。


 Territoires qui prétendent englober, dans un même mouvement, l'ensemble de la mondanité et qui ne reposent en fait que sur des ritournelles dé risoires, indexant sinon leur vacuité du moins le degré zéro de leur intensité ontologique.

 諸領土は、世界性の全体を包含することを望みながら、実際には詰まらないリトルネロに依拠するしかないのだし、リトルネロも、みずからの空虚を明かすとまでは言いませんが、その存在論的強度のゼロ度を、指標的に示している。


 Territoires donc jamais donnés comme objet mais toujours comme répétition intensive, lancinante affirmation existentielle. Et, je le répète, cette opération s'effectue à travers l'emprunt de chaînons sémiotiques, détachés et détournés de leur vocation significationnelle ou de codage. Ici, une instance expressive se fonde sur un rapport matière-forme, qui extrait des formes complexes à partir d'une matière chaotique. (p.48)

 だから《領土》は決して対象として与えられることがなく、つねに強度的反復として、胸がうずくような実存の肯定として目の前にあるのです。それから、これはすでに述べたことですが、以上の操作は記号の連鎖からその一部を借りて行われるのだし、そのとき記号は意味作用、あるいはコード化という記号本来の役割から切り離され、方向を変えられるのです。その場合、表現の審級は、質料-形相の関係に基礎を置き、質料-形相の関係がカオス状態の質料をもとにして複合的な形相を取り出してくるわけです。(『カオスモーズ』, pp.49-50)


    • 何か極端な現象の説明がされているのではなくて、私たちの日常的な意識のふるまいを、位置づけ直し、描き直そうとした議論。それは、「うまく描いて悦に入る」ためではなくて、そうやって描き直す作業そのものが、実際に生きてみせる作業の改善に貢献しようとしてのものだ。
    • 知的事業における、プラトニズムの頑強さ。 「メタに描き出す」という事業は、それ自体として位置づけ直されなければならない。「メタに描く」という作業が、文字通りメタに居るわけではない。その事業じたいが、オブジェクト・レベルの実際的関係性や身体的巻き込みを生きている。


 La reproductibilité de la machine n'est donc pas une pure répétition programmée. Ses scansions de rupture et d'indifférenciation, qui détachent un modèle de tout support, introduisent leur lot de différences tant ontogénétiques que phylogénétiques. (p.65)

 だから機械の複製可能性は、単にプログラムされただけの反復ではない。断絶と未分化状態が交互に現れる機械のリズムは、すべての土台から機械のモデルを切り離すことで、個体発生と系統発生の双方にまたがる差異を可能なかぎり導く。(『カオスモーズ』, p.70)

 Les blocs de sensation de l'oralité machinique détachent du corps une chair déterritorialisée. (p.134)

 機械の口唇性の感覚ブロックは、身体から、脱領土化された肉を切り離す。(『カオスモーズ』, p.153)

 Ce n'est que tardivement dans l'histoire de l'Occident que l'art s'est détaché en tant qu'activité spécifique relevant d'une référence axiologique particularisée. (p.137)

 西洋の歴史において、芸術が、特別な価値論的参照軸に依拠する特殊な活動として、そのほかの活動と切り離されるようになったのは、かなり後になってのことです。(『カオスモーズ』, p.157)

 Des corrélations formelles, formalistes et finalement assez superficielles, se trouvaient ainsi dégagées, les deux séries de création étant détachées de leur contexte respectif, d'un côté, tribal, ethnique, mythique, de l'autre, culturel, historique, économique. (p.139)

 神話的な文脈から切り離された(『カオスモーズ』, pp.159-160)

 C'est sa fonction de rupture avec les formes et significations qui ont cours trivialement dans le champ social, qui lui confère cette pérennité à éclipse. L'artiste, et plus généralement la perception esthétique, détachent, déterritorialisent un segment du réel de façon à lui faire jouer le rôle d'un énonciateur partiel.

 芸術にこうした陰りを帯びた永続性を与えるのは、社会的領野で陳腐に通用している形態や意味と、断絶する機能です。芸術家、より一般に美的感覚は、現実の一片を切り離し、脱領土化し、それに部分的な言表行為者の役を演じさせる。


 L'art confère une fonction de sens et d'altérité à un sous-ensemble du monde perçu. Cette prise de parole quasi animiste de l'œuvre a pour conséquence de remanier la subjectivité et de l'artiste et de son « consommateur ». (p.180)

 芸術は、知覚される世界の下部集合に対し、意味機能と、他であることの機能を授けます。作品のほとんどアニミスト的な語りかけは、結果として、芸術家とその「消費者」の主観性を、修正することです。(『カオスモーズ』, p.206)


    • パターン化し、固着した様式や流れに対して、ある小片が、《ちがう》動きの基点になる。別の箇所では、「突然変異(mutant )」「発生源(foyer)」といった言葉で、この特異点を描き出そうとする(触媒としての特異点)。 このような基点を許さないところに、順応主義の抑圧がある。
    • 多様性のイデオロギーを称揚するために、そんな詰まらないアリバイ作りのために「別のものになる」のではない。内在的必然があって、そのように《なる》、それを許す場になっているかどうか、ということ。


 Nos sociétés sont aujourd'hui le dos au mur et elles devront, pour leur survie, développer toujours davantage la recherche, l'innovation et la création. Autant de dimensions qui impliquent une prise en compte des techniques de rupture et de suture proprement esthétiques.

 私たちの社会は今日、後がない状況に追い込まれており、生き残りのためには、つねにより多くの研究、技術革新、創造を行わなければならないことになっています。まさに美学的な断絶と縫合の技術を考慮すべき、多くの次元があります。


 Quelque chose se détache et se met à travailler à son propre compte tout autant qu'au vôtre si vous êtes en mesure de vous « agglomérer » à un tel processus.

 何かが剥離し、自分のために作業しはじめるが、あなたがそのようなプロセスに「混じり込む」ことができれば、それはあなたのために作業することにもなる。


 Une telle remise en question concerne tous les domaines institutionnels, par exemple l'école. Comment faire vivre une classe scolaire comme une œ uvre d'art? Quelles sont les voies possibles de sa singularisation, source de « prise d'existence » des enfants qui la composent. (p.183)

 こうした問い直しは、学校など、すべての制度的分野にも関係してきます。どのようにして授業を、芸術作品のように生きさせるか。特異化のための可能なみち、クラスを構成する子どもたちの「実存を汲み取る」泉とは何か。(『カオスモーズ』, p.209)


    • 主観性そのものを唯物論的に考察しているため、剥離した対象と自分とは、切り離すことができない。「デカルト的な意識があって、それが自分とは別物の対象を操作し、意識する」のではないのだ。
    • これが、たんに「多様性」とかのイデオロギーに殉じるナルシシズムであっては、元も子もない(それではまったく多数でも多様でもない)。実際に分節生成を、生きられるかどうか。生じてしまった分析に、場所を与えてあげられるかどうか。



ひとまず、以上です。

単行本としては、とくにCartographies schizoanalytiques(邦訳:『分裂分析的地図作成法』)をやれていないままですが、

 気になる概念に注目して、グァタリの語用(その変遷)を調べてみる

という作業の意義を、実感できました。


グァタリの作品については、多くが邦訳されているものの、邦訳だけを読んで意義を読み取るのは、すごく難しいと感じています*1。 私はまだろくにフランス語が読めませんが、それでも原文を並べて、邦訳と対比しながら、ずっと辞書を引きながら読むと、いきなり意味が理解できたりする。――少しでもフランス語がお出来になる方は、《邦訳と原文を比較しながら読む》ことを、強くお勧めします。*2


いわば邦訳を、作業の素材として使うこと。そうすると、逆に外国語の原文のほうも、やっぱり素材でしかないことに気づくと思うのですね。


今回は 《détacher》 について取り組んだのですが、別の語についても、こういう作業を検討したいと思います。



*1:いくつかの邦訳に問題があると、いちおう言えるとは思いますが(ラボルドの制度論の文脈や、技法論の趣旨が読み取りにくいので)、フランス語を母語として哲学を専攻した人ですら、グァタリには興味が持てないようなので、それを直接日本語に置き換えても、「なんだかよく分からない」のは、しょうがないかもしれない。むしろ外国語としてゆっくり読む作業に、意味がありそうです。

*2:グァタリの解読には、ドゥルーズ哲学よりも、ラボルド病院やジャン・ウリの仕事に理解を深めたほうが近道だ、というのが私の意見です。以下の三冊を、あらためてお勧めします。『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』、『精神病院と社会のはざまで

2013-03-18 努力の回路を設計し直そう このエントリーを含むブックマーク

短くまとまっていて、見通しが良くなりました。


ロゴスによる伝統的哲学に対して、《徴候的な記号(シーニュ)》という、別の思考を立てること。これは、不登校・ひきこもりの苦痛緩和に、どうしても必要なモチーフだと思う*2


関連して、次のようなテーゼがあって良いはず。

  • 素材思考を潰して、価値思考に一元化することによる経済的損失
  • 徴候的思考を踏みにじることによる、苦痛生産の悪循環
  • 事前に確保される観念的アリバイしか考えないことによる、生活圏の荒廃

これはグァタリ的になるのかな。


がんばれば頑張るほどドツボ、という回路に気づかない、

善良で「合理的な」人たち。



*1:上利氏のプロフィールはこちら

*2:分析哲学やアルゴリズムだけでは、この話になりません。

2013-03-17 グァタリの語用: 《détacher》(12) このエントリーを含むブックマーク

承前  0】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】 【9】 【10】 【11】 【13


Chaosmose』-1 (1992年)

 Comment certains segments sémiotiques prennent-ils leur autonomie, se mettent-ils à travailler à leur propre compte et à sécréter de nouveaux champs de référence? C'est à partir d'une telle rupture qu'une singularisation existentielle, corrélative de la genèse de nouveaux coefficients de liberté, deviendra possible.

 記号断片の一部が自律性を獲得し、働きに独自の目論見をもち、参照の新たな領野を分泌し始めるのは、いかにしてなのか? そう問わなければならないのは、自由の新しい係数の生成と相関する実存的特異化が可能になるには、どうしても一つの断絶が必要だからです。


 Ce détachement d'un « objet partiel » éthico-esthétique du champ des significations dominantes correspond à la fois à la promotion d'un désir mutant et au parachèvement d'un certain désintéressement.

 倫理-美的な「部分対象」の、支配的意味作用の領野からの剥離は、突然変異的欲望を開発する動きに対応すると同時に、ある種の無関心を完成する動きにも対応している。


 Je voudrais ici établir un pont entre le concept d'objet partiel, ou d'objet « a », tel qu'il a été théorisé par Lacan, qui marque l'autonomisation de composantes de la subjectivité inconsciente avec l'autonomisation subjective relative de l'objet esthétique.  (pp.27-28)

 ここで私は、部分対象あるいはラカンが理論化した対象「a」との間に架け橋を打ち建てたいのですが、この概念が示しているのは、無意識的主観性の構成要素が自律性を獲得していく動きであり、それは美的対象の相対的・主観的な自律化と共にあるのです。(『カオスモーズ』, pp.25-26)

    • 最初は何を言っているのかぜんぜん分からないが、苦労して話が見えたとき、鳥肌率が高い。私はこれを、主観性そのものの唯物論として読んでいる。


 Le contenu de l'oeuvre se détache de ses connotations tant cognitives qu'esthétiques : « l'isolement ou la séparation ne se rapporte pas à l'œuvre comme chose, mais à sa signification, à son contenu qui très souvent se libère de certains liens nécessaires avec l'unité de la nature et l'unité de l'être ». C'est donc un certain type de fragment de contenu qui « prend possession de l'auteur », pour engendrer un certain mode d'énonciation esthétique. (p.29)

 作品の内容は、美的と同じほど認知的なその共示〔connotations〕から剥離します。「作品において孤立あるいは分離が関係するのはモノとしての作品ではなく、その意味作用であり、その内容です。内容は往々にして、自然の統一性および存在の統一性との必然的なつながりから離脱する〔se libère〕」。 それゆえ、「作者をつかんで離さず」、美的言表行為の特殊な様態を生み出すのは、内容の断片の或るタイプだ。(『カオスモーズ』, p.27)

  Dans le domaine de la poésie, la subjectivité créatrice, pour se détacher, s'autonomiser, se parachever, s'emparera de préférence :  (p.29)

 詩の領域では、創造的主観性が束縛を解かれ、自律性を獲得し、自己を完成させるために好んで利用するのは、 (『カオスモーズ』, pp.27-28)

 Ces analyses pénétrantes peuvent conduire à un élargissement de notre approche de la subjectivation partielle. On trouve également chez Bakhtine l'idée d'irréversibilité de l'objet esthétique et implicitement celle d'autopoïèse, notions tellement nécessaires dans le champ de l'analyse des formations de l'Inconscient, de la pédagogie, de la psychiatrie, et plus généralement dans le champ social dévasté par la subjectivité capitalistique.

 これらの底深い分析をたどれば、部分的主体化という私たちのアプローチを拡大できます。バフチンには同じように、美的対象の非可逆性という考え方や、ほのめかしのようなオートポイエーシスの考えがあるのですが、これらの概念は、(1)無意識的なものの形成の分析の領野、(2)教育学の領野、(3)精神医学の領野、さらに一般的なところでは、(4)資本制的主観性が荒廃させた社会の領野に、どうしても必要なのです。


 Ce n'est donc pas seulement dans le cadre de la musique et de la poésie que l'on voit à l'œuvre de tels fragments détachés du contenu, ceux que je range sous la catégorie des « ritournelles existentielles ».

 だから内容から剥離し私の分類では「実存的リトルネロ」という範疇に入る断片の数々が活動する場は、音楽と詩だけに限られるものではない。


 La polyphonie des modes de subjectivation correspond, en effet, à une multiplicité de façons de « battre le temps ». D'autres rythmiques sont ainsi amenées à faire cristalliser des agencements existentiels, qu'elles incarnent et singularisent. (p.30)

 じっさい、さまざまな主体化の様式が織り成すポリフォニーには、それに見合うだけ多数多様な「拍子のとり方」があります。こうして生まれた新しい韻律法が、実存のアジャンスマンを結晶させ、そこに具象性と特異性を与えてゆくのです。 (『カオスモーズ』, p.29)

 Comme Bakhtine, je dirai que la ritournelle ne repose pas sur les éléments de formes, de matières, de signification ordinaire, mais sur le détachement d'un « motif » (ou de leitmotiv) existentiel s'instaurant comme « attracteur » au sein du chaos sensible et significationnel. (p.33)

 バフチン風にいうなら、リトルネロの成立に必要なのは、形相・質料・通常の意味作用といった要因ではなく、実存的な「モチーフ」(あるいは示導動機)の剥離でしょう。それは、感覚と意味作用のカオスのただなかで、アトラクター*1として確立します。(『カオスモーズ』, p.31)

    • ドゥルーズの「シーニュ」の議論を思い出すのですが。

 Dans cette conception de l'analyse, le temps cesse d'être subi; il est agi, orienté, objet de mutations qualificatives. L'analyse n'est plus interprétation transférentielle de symptômes en fonction d'un contenu latent pré-existant, mais invention de nouveaux foyers catalytiques susceptibles de faire bifurquer l'existence. Une singularité, une rupture de sens, une coupure, une fragmentation, le détachement d'un contenu sémiotique - à la façon dadaïste ou surréaliste - peuvent originer des foyers mutants de subjectivation. (p.35)

 分析について以上のように考えてみれば、時間も受動的にこうむるだけのものであることをやめ、こちらから能動的に動かし、方向付けを与えることのできる性質的変化の対象に変わります。分析は、もとからある潜在内容に照らした、転移をともなう症候の解釈ではなく、実存の分岐にもつながる力を秘めた、新たな触媒的発生源の発明です。特異性、意味の破砕、切断、断片化、そして――ダダイストやシュルレアリストのような――記号論的内容の剥離が、主体化の突然変異的な発生源から生じ得るということです。(『カオスモーズ』, p.34)

    • 出来合いの解釈枠を当てはめるのが「分析」ではない。その場で考え直すことの生成に、できるだけの権限を与えること。


つづく



*1:リンク先の説明によると、アトラクターとは、「ある力学系がそこに向かって時間発展をする集合のこと」。

2013-03-16 グァタリの語用: 《détacher》(11) このエントリーを含むブックマーク

承前  0】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】 【9】 【10】 【12】 【13


Les années d'hiver 1980-1985

  II y a en moi une puissance de détachement, dont je suis le spectateur. Pour moi, il y a des gens qui s'allument, ça clignote, et puis des fois ça s'éteint, et ça s'éteint à un point que j'oublie même le nom de la personne en question... Et puis à d'autres moments, tout est là, ça n'a jamais changé ... (p.104)

 僕の中に、剥離の力ってものがあって、僕はその傍観者なんだ。僕には明るく輝く人たちがいて、明滅する。そして消えてしまうと、問題になっている人の名前まで忘れてしまう、それくらい消えてしまう。そしてまた、別の瞬間にそういうのがあって、すべてはそんな感じ、こういうくり返しは決して変わらない…(『闘走機械』p.87)



De Léros à La Borde

 Pour me remonter le moral, Chiara Strutti m'explique que, dans un autre pavillon, ils ont détaché des enfants qui étaient sanglés depuis quatre ans ! (p.47)

 私の気を取り直すために、キアラ・ストルッティがこんなふうに説明してくれた――別のパビリオンでは子どもたちが解放されたんだけど、その子らは、4年もベルトで繋がれていたんだ! (邦訳『精神病院と社会のはざまで』ではp.84)



Les Trois Écologies(1989年)

 Les opérateurs de cette cristallisation sont des fragments de chaînes discursives a-signifiantes que Schlegel assimilait à des œuvres d'art. (« Pareil à une petite œuvre d'art, un fragment doit être totalement détaché du monde environnant et clos sur lui-même comme un hérisson. ») (p.51)

 この結晶化のオペレータは、非シニフィアン的*1な言説の鎖の断片なのだが、シュレーゲルはそれを、芸術作品になぞらえた。《「小さな芸術作品と同じく、一つの断片は、環境世界から完全に切り離され、ハリネズミのようにそれ自身に閉じているに違いない。」》(『三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)』p.50)



Cartographies schizoanalytiques(1989年)

 Le plus universel s’y trouve conjoint à la facticité la plus contingente ; le plus détaché des amarres ordinaires du sens s’y trouve ancré à la finitude de l’être-là. (p.13)

 最も普遍的なものは、最も偶然的な事実性に結びついている。意味の通常の絆から最も解き放たれたものは、現存在の有限性に投錨する。(『分裂分析的地図作成法』p.14)

この本については、ひとまず序文のみ。


つづく



*1:「非シニフィアン的」については、山森裕毅の論考「フェリックス・ガタリにおける記号論の構築」のほか、こちらを参照。差異の体系に絡み取られる自動性とは別の主体化が問題になっている。

2013-03-15 グァタリの語用: 《détacher》(10) このエントリーを含むブックマーク

承前  0】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】 【9】 【11】 【12】 【13


L'inconscient machinique』-4 (1979年)

 Une, en particulier, dont il ne peut apercevoir le visage, se détache du groupe et se transforme en une sorte d'appel mystérieux qui était déjà apparu au début du Septuor. Une autre entité abstraite-musicale-féminine, mais celle-là « douloureuse », presque « organique » et « viscérale » entame ensuite un combat avec la première.  (p.327)

 その顔を見分けることはできないが、特にひとりが一群から離れ、一種の神秘的な呼びかけに変形する。それは、すでに七重奏曲のはじめに姿を現していた。もう一つの抽象的-音楽的-女性的な本質、しかしこれは「悲痛な」、ほとんど「器質的・内臓的な」ものだが、この本質が最初のものと格闘する。(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、pp.331-332)

 Albertine jadis comparée à un instrument de musique, est maintenant réduite à l'état de simple pièce détachée d'une machine d'encodage musical, d'une machine à ingurgiter, à intérioriser la syntaxe, les articulations machiniques les plus déterritorialisées de la musique. (pp.329-330)

 かつては楽器に喩えられたアルベルチーヌは、今はひとつの音楽的コード化の機械の――あるいは音楽の統辞や、最も脱領土化された音楽の機械状分節物をむさぼり、内在化する機械の――たんなる部品にほどかれてしまう。(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、p.334)

 Une certaine passivité poétique, un certain abandon aux matières d'expression, une certaine modestie besogneuse de transcripteur ouvre la voie à la création. Le rhizome machinique fait le reste, il guide la main, dévoile des intensités et des rythmes... Cette passivité, dans le contexte des valeurs phallo-cratiques dominantes, sera vécue par Proust comme de la féminité. Il ne va nullement de soi qu'une telle équivalence corresponde à la réalité et aux aspirations de la condition féminine !

 表現素材へのある種の詩的受動性、ある種の無造作な態度、書き写す人のあくせくしたある控え目な態度が、創造への道を開く。機械状リゾームが残りを引き受け、手を導き、強度やリズムの覆いを取る…。この受動性は、ファルス支配的な価値の文脈において、女性性としてプルーストに生きられる。こういった等価性が現実に即しているとか、女性的状況の憧れに当たるとかは、決して当然のことではない。


 Cela étant précisé, la ritournelle peut être définie comme l'opératrice d'un devenir féminin créateur. Elle subvertit l'ensemble des champs moléculaires. Elle parvient, à présent, à vraiment battre le temps au féminin. Le Temps Universel s'abolit au profit de mille agencements de temporalisation, correspondant à des styles infiniment variés de déterritorialisarion. On ne se baigne jamais deux fois dans la même impression dès que la micro-politique des agencements d'énonciadon conduit à la mise en liberté des parties vives, hétérogènes et singulières des matières d'expression.

 このことが明確化され、リトルネロはある創造的女性的生成の操作要素として定義されうる。それは分子的領野の総体を覆す。それは今や、拍子を女性的に打つことが本当にできるようになる。脱領土化の無限に多様なスタイルに対応する多数の時間化アジャンスマンが現われ、《普遍的時間》は消滅する。発話行為アジャンスマンのミクロ政治が、表現素材の活発・異質・特異な諸部分を解放するや否や、決してひとは、二度も同じ印象の中に浸っていることはない。


 L'artiste traducteur n'est plus, en tant qu'individu, que le catalyseur d'un tel agencement. Le temps « normal » est pris de vitesse, les déterritorialisations « créa-trices » proliférantes de ce devenir féminin viennent doubler les déterritorialisations « naturelles ». Il n'est plus question, comme à l'époque de Swann, de s'en remettre au flou des synesthésies, au syncrétisme esthétique de la mémoire naturelle. Rien n'est laissé au hasard, pas plus au hasard de l'association dite libre des psychanalystes qu'au « hasard objectif» des surréalistes.

 翻訳者≒芸術家は、もはや個人として、こうしたアジャンスマンの触媒でしかない。「正常な」時間は先を越され、この女性的生成の繁殖的な、「創造産出的な」脱領土化物は、「自然の」脱領土化物を追い抜きにやってくる。スワンの頃には、共感覚の暖味なものや、自然の記憶力の審美的混合主義に身を置いたが、もはやそれは問題ではない。何ものも偶然にゆだねられない。精神分析学者たちのいわゆる自由連想の偶然にも、シュールレアリストたちの「客観的偶然」にもである。


 Pour « rattraper » une impression il conviendra quelquefois de la reprendre cinquante fois de suite. Et cependant, dans cet acharnement on ne doit voir nulle volonté de puissance. La Recherche est devenue corrélative d'un renoncement aux formations de pouvoir, d'un abandon à l'état des choses, voire même d'une désagrégation des corps :

 ある印象を「再び捉える」ためには、時にはそれを続けて50回も繰り返さなければならないだろう。ところが一方、この執拗さにはいかなる権力意志も見られない。『失われた時を求めて』は、権力形成の放棄、事物の状態への無頓着な態度、さらには肉体の分解というものと、相関的となった。


 « ... laissons se désagréger notre corps, puisque chaque nouvelle parcelle qui s'en détache vient, cette fois lumineuse et lisible, pour la compléter au prix de souffrances dont d'autres plus doués n'ont pas besoin, pour la rendre plus solide au fur et à mesure que les émotions effritent notre vie, s'ajouter à notre œuvre. » (III, 906). (pp.338-339)

 「肉体をして、分解するままに任せよう――肉体を離れる新たな小片は、今度は光り輝く読めるものとなって作品に来たり加わり、もっと才能に富む人ならば必要としないあの苦悩と引き換えに作品を完璧ならしめ、感動が生命を切り刻めば刻むほど、いよいよ作品を堅固なものにするから」(III, 906) (『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、pp.344-345)

 La littérature implique ici une sorte de travail scientifique et technique d'extraction et de concaténations de machinismes abstraits qui fonctionnaient, jusque-là, chacun pour eux-mêmes, au sein de strates de codage et de composantes de sémiotisation, « en deçà » de l'individu ou au-delà, du côté du socius et des agencements matériels.

 文学はここでは、機能していた抽象機械装置の抽出と連鎖という、一種の科学的・技術的な仕事を意味する。この抽象機械装置は、コード化の地層および記号化の諸成分の内部で、個人の「こちら側で」、あるいは社会体や物質的アジャンスマンの向こう側で、それぞれ自分のために機能していたものだ。


 La même gamme de propositions machiniques -- qui d'ailleurs ne cessent de se transformer --, le même ensemble de quanta de possible, travaille les salons mondains et les enjeux amoureux, exalte le devenir féminin de la création, met en relief telle constellation de traits de visagéïté, détache telle ritournelle de l'environnement musical. Il n'est plus possible, à ce niveau, d'établir des hiérarchies, des ordres de priorité entre les métabolismes propres au socius et ceux du désir le plus secret.  (p.364)

 機械状命題――これは絶えず変形し続ける――の同じ一そろいが、あるいは可能性の定量の同じ全体が、社交界的サロンや恋愛問題に働きかけ、創造の女性的生成を高揚させ、顔貌性特徴のあのような星座を浮き彫りにし、あのようなリトルネロを音楽的環境から切り離す。このレベルにおいては、社会体に固有の代謝物と、最も秘めた欲望の代謝物との間に、さまざまな序列とか、優先順位を打ち立てることはもはや不可能である。 (『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、p.374)


つづく


2013-03-14 理念ナルシシズムの欺瞞と暴力 このエントリーを含むブックマーク

「社会」「連帯」「正義」――こういうアリバイを先に立て、それとの関係で中間集団を作ってしまった人たちは、もうその集団を決して検証しない。

思考過程そのものが、手続きにのっとった還元でしかない。ひたすら、自分たちのイデオロギーを確認するような思考。ジョークのじゃれ合い。

このルーチンに乗れば、「仲間」になれる。そういう言説パターン自体がおかしいと気づくと、もうそこには居られない。*1

実際の問題事情に取り組まない*2、アリバイ作りだけの、ウソの言葉遊びじゃないか――そうすると、「政治イデオロギーありき」の集団リンチが始まる。狂信的な原理主義集団。

彼らには、「スキャンダル」という発想しかない。自己検証ではないのだ。「100%正しいはずなのに、あいつはそれができていない」――こういう幼稚な発想しかない。唯物論ではないのだ。

実際に生きてしまっている、それはうまく行っていないだろう。100%の社会化などあり得ない。で、実態はどうだったか? それを事後的に検証し、そこから技法を編み出すしかない。

彼らは、集団や意識の生産実態を考えたいのではない。ただ理念との関係でナルシシズムに浸りたいだけだ。



*1:最初は身体的違和感みたいなものだ。許しがたいトラブルが起きて、ようやくはっきりする。

*2:中間集団ができない、そこに困難があると言っているのに、どうして理念やディシプリンが先に来る? アリバイのために、意識や関係を反復してるだけじゃないか。

2013-03-13 グァタリの語用: 《détacher》(9) このエントリーを含むブックマーク

承前  0】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】 【10】 【11】 【12】 【13


L'inconscient machinique』-3 (1979年)

 Ainsi la visagéïté composite d'Odette-Zéphora s'incarne de plus en plus douloureusement dans une constellation déterritorialisée de traits de visagéïté, qui deviendra d'ailleurs très vite persécutrice. Comme le bas-relief de la « Gradiva » de Jensen, ce visage-icône d'Odette-Zéphora va se détacher du sillon qui était censé fixer sa trajectoire et se mettre à vivre et à évoluer pour son propre compte. 

 こうしてオデット-ゼフォラの雑多な顔貌性は、ますます痛ましく、顔貌性の特徴の脱領土化された星座へと具現されてゆき、この星座はさらに、すぐに迫害者となるだろう。イェンゼンの『グラディーヴァ』の浅浮き彫りのごとく、オデット-ゼフォラのこの顔貌イコンは、その軌道を定めると思われていた溝から離脱し、自分のために生き・進化しようとしている。


 L'oscillation entre, d'une part, la reterritorialisation sur le visage de l'Odette des rencontres réelles, l'Odette-Zéphora de la reproduction et, d'autre part, la déterritorialisation du désir vers un autre possible, une autre musique, un autre rapport à la société mondaine, un autre style de vie, qui, par exemple, détacherait Swann de son rôle d'otage-mascotte de la haute aristocratie raciste, cette oscillation ne parviendra jamais à trouver un point d'équilibre. (p.285)

 一方では、現実の出会いのオデットの顔への、複製のオデット-ゼフォラの顔への再領土化。他方では、欲望の脱領土化――ほかの可能物への、他の音楽への、社交界的社会のほかの係わり合いへの、他の生活スタイル(例えばスワンを人種差別的な上流貴族階級の人質-マスコット的役割から切り離してくれるような)への。――この間での揺れ動き、このような揺れ動きは、決して平衡点を見出しえない。(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、pp.283-284)

 Désormais, tout est joué pour Swann : la petite phrase se retournera contre lui et le mènera au bord de la folie. Ayant manquéses connexions avec les composantes hétérogènes du réel extérieur, elle va s'employer à creuser un trou noir subjectif au sein duquel s'engouffrera toute son énergie. Son amour se convertira en haine sans qu'il parvienne pour autant à se détacher d'Odette. (p.287)

 そのとき以来、スワンにとってはすべてが実現する。小楽節は彼に背を向け、彼を狂気の淵へと導く。それは外的現実の異質な諸成分との連関を欠くことで、主体的なブラックホールを穿とうとし、内部におのれの全エネルギーを飲み込もうとするだろう。スワンの恋は憎悪に変わるが、かといって、オデットから自分を切り離してはいない。(同、pp.285-286)

 Le sujet de l'énoncé se trouve ainsi scindé : Charlus se détache de Swann et avec lui une composante homosexuelle prend de la consistance, acquiert une identité romanesque et amorce sa propre trajectoire dans la Recherche. (p.292)

 発話主体は、こうして分割されることになる。シャルリュスはスワンから離れ、彼とともに同性愛的成分が共立性・一貫性を帯び、小説的同一性を獲得し、『失われた時を求めて』における固有の軌跡の口火を切る。(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、pp.292〔ぐうぜん原書と同じページ数〕

 Pourquoi Charlus est-il « neutralisé » de la sorte au cours de cette « opération » ? Est-ce bien uniquement pour être en mesure de mieux aider Swann ? S'il est vrai, comme je l'ai dit précédemment, qu'il se détache de ce dernier pour « reprendre » son problème, comment se fait-il que ce n'est pas sur lui qu'ait reposé l'issue du roman ? (p.293)

 この「手術」で、シャルリュスは何故このように「無力化」するのだろうか。それは単に、もっとスワンに助けとなれるように、だろうか。もし先述したように、彼がスワンから離れるのは自分の問題を「再び取り上げる」ためというのが本当であるなら、どうして小説の結末が彼に懸かっている、というふうにならないのだろうか。(同、p.293〔ぐうぜん原書と同じページ数〕

 Première transformation de visagéïté : Mme Verdurin fixe Swann d'un regard étonné et sa figure se déforme, son nez s'allonge, elle a de grandes moustaches.

 顔貌性の第一の変形:ヴェルデュラン婦人が驚いたようにスワンを見つめると、彼女の顔がゆがんで鼻が伸び、立派な口ひげが生える。


 Seconde transformation : les yeux d'Odette sont « prêts à se détacher comme des larmes pour tomber sur lui»...(I, 379). Elle tourne brusquement son poignet, regarde une petite montre et dit : « II faut que je m'en aille. »  (p.305)

 第二の変形:オデットの目は「涙のように、今にも顔から離れて彼の上にこぼれ落ちそうだった…」(I, 379)。彼女はとつぜん手首を返し、小さな時計を見ていった。「わたし、行かなければ」。(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、p.306)

 Tout se passe comme si, pour franchir le seuil qui conduira à la réécriture fébrile du chef-d'œuvre porteur de l'essence machinique de la création, il aura été nécessaire de retourner à la mare de Montjouvain pour y ressaisir une clef mystérieuse, ou plutôt pour briser une serrure secrète, rompre l'encadrement de la fenêtre à travers laquelle le Narrateur enfant a contemplé cette scène muette, paralysante d'horreur, mais dont il n'est jamais parvenu à se détacher, pour casser le cadre de la photographie, défaire l'ordonnancement familier du visage paternel intolérablement fixé dans la mémoire. 

 すべてはまるで、次のように行われる。創造の機械状本質を担う傑作の、熱狂的な書き直しに導く閾(しきい)を乗り越えるには、謎の鍵を取り戻しに、モンジューヴァンの沼に戻るか、それとも秘められた錠を壊し窓枠を破って、子供時代の話者が恐怖におののいた、しかし一度も離れられないシーンを見詰め、写真の額縁を壊し、記憶のなかに耐え難く固着した父の顔の、なじんだ配置設計を解体する必要があるだろう。


 Il fallait aller jusqu'au bout du scandale de la mort, du silence, de l'enfouissement dans le passé, et contraindre le cadavre à hurler de douleur. Ce qui s'était clôturé en « fixations infantiles » traumatiques est désormais pris à bras le corps par le littérateur.

 死、沈黙、過去への埋め隠し――そういうスキャンダルの限界まで行き、死体に苦痛の捻り声をあげさせなければならなかった。外傷性の「小児固着」として閉じ込められたものは、それ以後この文学者によって、腕力で実体化されることとなる。


 Il en fera une machine de guerre contre l'inertie, la passivité du souvenir, un bloc machinique d'enfance, qui transformera la mémoire en imagination et la perception en création. (p.323)

 彼はそれを記憶の緩慢さ・受動性に対する戦争機械とし、記憶力を想像力へと、知覚を創造へと変形させる、幼年期的機械状ブロックとすることであろう。(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、p.327)


つづく


2013-03-12 グァタリの語用: 《détacher》(8) このエントリーを含むブックマーク

承前  0】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【9】 【10】 【11】 【12】 【13


L'inconscient machinique』-2 (1979年)

Les composantes diagrammatiques ダイアグラム的な構成要素

 Avec les composantes conscientielles un nouveau type de machinisme binaire s'est implanté sur le « rebord» du trou noir subjectif. Le « tranchant » de cette machine exerce ses effets selon deux modalités antagonistes :

 意識的な構成要素とともに、二項的な機械論の新たなタイプが、主観性の黒い穴の「ふち」に設置された。この機械の「刃先」は、敵対的な二様態に沿って、その効力を発揮する。

  • il débite de larges tranches de résonances, qui submergent l'ensemble des composantes sémiotiques et qui déploient un monde molaire de simulacres, dont les moindres recoins sont hantés par la passion d'abolition sécrétée par le trou noir subjectif.
    • 共鳴物の大きな区分を切り分ける。これらは記号論的な構成要素の全体を満たすが、その記号論的な構成要素は、モル的なシミュレーションの世界を展開する。この世界のどんな小さな片隅も、主観性の黒い穴によって分泌された、廃止の情念に付きまとわれている。
  • il diffuse une poussière de signes-particules diagrammatiques, qui contaminent, mais cette fois à un niveau moléculaire, ces mêmes composantes, de façon à infléchir leur fonctionnement dans le sens d'une optimisation de leurs potentialités machiniques.
    • それは、無数のダイアグラム的な記号粒子を散乱させる。この記号粒子は、同じ記号論的な構成要素に感染するが、今度は分子的なレベルにおいて、しかも、その機械状潜勢物の最適化の方向に働きの流れを変えるやり方によって、である。


 Ces signes-particules ne sont plus, à proprement parler, des entités sémiotiques, puisqu'ils relèvent autant des traits de singularité du réfèrent et de machines abstraites « détachées » du plan de consistance, que des machines de signes.

 この記号粒子は、正確にいうなら、もはや記号論的な実体ではない。なぜならそれらは、記号の機械と同じくらい、指示対象の特異性の特徴に属すし、一貫性の平面から「切り離された」抽象機械に属するからである。


 En un sens, il nous font retourner au point de départ de cette généalogie machinique, lorsque nous avions affaire aux icônes, aux indices et aux codages intrinsèques, au sein desquels ne s'étaient pas différenciées des composantes spécialisées, chargées d'édicter une syntaxe et une « politique étrangère ».

 ある意味でそれは私たちを、この機械状の系譜の出発点に立ち戻らせてくれる。私たちは、いまだイコン(似姿)、兆候、内在的コード化を問題にしていたし、あるいはまた、統辞法と「外交政策」を制定する任をもつ、専門化された構成要素の未分化を、問題にしていたというのに。


 Mais ils sont infiniment plus déterritorialisés et déterritorialisant. Étant capable de « coller » à tous les espaces abstraits de potentialités machiniques, ils sont le support d'un mode de sémiotisation moléculaire d'une portée quasiment illimitée.

 しかし記号粒子は、はなはだしく脱領土化されたものであるし、脱領土化しているものである。それらは、機械状潜在性のあらゆる抽象空間に「貼りつく」ことができる。これら記号粒子は、ほとんど際限のない射程をもつ分子的記号化の様式を支える、支柱である。


 Les machinismes abstraits, véhiculés par les icônes, les indices et les codages intrinsèques, restaient enkystés dans les stratifications et les agencements dépendants de systèmes de coordonnées pré-établis.

 イコン、兆候、内在的コード化によって運ばれる抽象機械は、層状化されたものや、あらかじめ設定された座標系に依存するアジャンスマンに、被胞化されたままであった。


 Ceux qui sont portés par les signes-particules relèvent essentiellement d'une quantification du possible à « l'état naissant », qui leur confèrent une puissance spécifique de déstratification, de dé-formation, de dé-sémiologisation, de dé-subjectivation à l'égard des agencements existants.

 記号粒子に担われる抽象機械は、本質的に、「発生状態」にある可能性の定量化に属する。その定量化は、現存するアジャンスマンへの配慮において、脱-層状化、脱-形相化、脱-記号学化、脱-主体化――の特殊な力を、抽象機械に与える。


 Ceci se traduit par le fait que les figures d'expression engagées dans un processus diagrammatique ne sont plus référées à des représentations signifiantes. Le rapport qu'elles entretiennent avec de telles représentations, lorsqu'elles en sont environnées, n'est jamais essentiel.  (pp.241-242)

 このことは、ダイアグラム的過程に巻き込まれた表現形象が、もはやシニフィアン的な表象を典拠とはしていないことに、現れている。表現形象が表象と維持する関係は、前者が後者に取り囲まれているときには、決して本質的なものではない。 (『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、pp.238-240)

 Dans le système de Hjelmslev le sens demeurait entièrement tributaire de la forme*1. Ce n'est qu'en postulant l'existence d'un univers de machines abstraites au-delà de tous les formalismes, que l'on peut comprendre comment il parvient à se libérer de la linéarité des modes d'encodage, des contraintes syntaxiques formelles et de l'arbitraire des rapports de signification linguistique.

 イェルムスレウの体系においては、意味は完全に形相に依存していた。意味がいかにして、(1)コード化様式の線状性や、(2)形式的な統辞論的制約の線状性、それに(3)言語学的意味作用の関係性の恣意性 から解放されるに至るか――これを理解し得るには、いっさいの形式主義を超えたところで、抽象機械たちの世界の存在を仮定するしかない。


 Le sens machinique opératoire n'est nullement une « masse amorphe» - selon l'expression de Hjelmsiev - qui serait dans l'attente qu'un formalisme externe vienne l'animer.

 操作的な機械状意味は、外的形式主義が活気づけに来てくれるのを待っているような――イェルムスレウの表現を借りれば――「無定形なカタマリ」では、決してない。


 Le sens machinique, sorte de court-circuit entre les machines abstraites enkystées dans le réel et des machines abstraites détachées du plan de consistance, se manifeste à travers un rhizome multidimensionnel spatial, temporel, substantiel et déictique au moyen duquel il opère toutes les transmigrations possibles, toutes les transmutations (et non plus seulement les traductions par résonance).

 機械状意味とは、(1)現実のなかに被胞化された諸抽象機械と、(2)共立・一貫性の平面からから切り離された諸抽象機械とのあいだの、一種の短絡回路のようなものである。それは多次元的、空間的、時間的、実体的、指呼的リゾームを通じて現れ、そのリゾームを用いて、それはあらゆる可能な転生を、あらゆる転換を(もはや単に共鳴による変換だけでなく)おこなう。


 Les signes-particules travaillent à même le réel : par la mise en jeu de systèmes de grossissement, d'accélération, de ralentissement, de discernabilisation de toutes sortes, ils « déterrent » les machinismes abstraits « minéralisés », ils ouvrent des champs nouveaux à des machinismes qui demeuraient à l'état de pure potentialité. (pp.244-246)

 記号粒子は、現実そのものにおいて、じかに働く。あらゆる種類の拡大化、加速化、減速化、判別可能化のシステムを作動させることによって、記号粒子は、「鉱物化した」抽象機械を「発掘し」、純粋な潜在性の状態に留まっていた諸機械に、新たな領野を開放する。(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、pp.242-243)

 Les composantes de passage ne se détachent pas des autres composantes à la façon d'une gestalt : porteuses d'un machinisme possibiliste, elles traversent l'ensemble des composantes d'un agencement (internes et externes). (p.248)

 移行の構成要素は、ゲシュタルトのようには、他の構成要素から剥離しない。可能性であるような機械の伝達者として、移行の構成要素は、(内的外的な)アジャンスマンの構成要素の集まりを、横断する。(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、p.246)


つづく



*1:注24:「意味は毎回新たな形相の実質となり、何らかの形相の実質であるという以外に可能な存在を持たない。(Le sens devient chaque fois la substance d'une forme nouvelle et n'a d'autre existence possible que d'être substance d'une forme quelconque.)」("Prolégomènes"

2013-03-11 グァタリの語用: 《détacher》(7) このエントリーを含むブックマーク

承前  0】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【8】 【9】 【10】 【11】 【12】 【13


L'inconscient machinique』-1 (1979年)

 S'il est vrai que les machines abstraites ne relèvent ni du couple phénoménologique - sujet-objet, ni du couple logique : ensemble-sous-ensemble et échappent, par conséquent, au triangle sémiologique : dénotation-représentation-signification, comment concevoir alors la possibilité de dire quoi que ce soit à leur propos? Que deviendra la représentation si plus aucun sujet n'est là pour la recueillir?

 もし本当に、抽象機械が「主体-客体」という現象学的な対も、「集合-部分集合」という論理学的な対も再建せず、その結果、「明示的意味-表象-意味作用」という記号学的三角形をも逸脱するとすれば、何であれそれに関して述べる可能性を、どのように受け取ればよいだろうか。引き受ける主体がもはやそこに居ないなら、表象はどうなってしまうのか。


 Autant de difficultés qui nous conduiront à remettre en question le statut même des modes de sémiotisation et de subjectivation. Les agencements ne connaissent pas -- pas encore -- les objets et les sujets : mais cela ne signifie pas que leurs composantes n'aient rien à faire avec quelque chose qui soit de l'ordre de la subjectivité et de la représentation ! Mais non sous la forme classique de sujets individués et l'énoncés détachés de leur contexte. D'autres procédés d'encodage et d'« ensignement », indépendants d'une deïxis et d'une logique anthropocentrique, devront donc être mis à jour.  (p.15)

 同じだけの困難とともに、私たちは、記号化の様式や、主体化の様式の規定それ自体の再検討を迫られる。アジャンスマンたちは――まだ今のところ――客体たちや主体たちを知らないが、そのことは、それら構成要素が、主観性の秩序あるいは表象の秩序であるような何かと、無関係であることを意味するわけではない。ただ、個体化された主体とか、文脈から切り離された発話とかいった古典的形態下においてではない。それゆえ、人間中心的な指呼*1や論理学とは独立した、ほかのコード化の方法や、「記号化〔教育〕」の方法が、明るみに出されなければならない。(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、p.12)

 L'opération de détachement d'une visagéïté machinique, à partir du triangle yeux-nez-front, débouche sur deux types de micro-politiques que nous allons examiner dans les deux sous-chapitres suivants : 

  • une politique molaire de visagéïfication, par la promotion d'une visagéïté générale de référence qui couronne toutes les visagéïtés-occurrences et les assujettit au consensus significatif le plus large;
  • une politique moléculaire d'émission de traits de visagéïté a partir de cette même visagéïté-occurrence, qui déjoue les pièges signifiants et dont les enjeux sont décisifs dans le déclenchement de procès diagrammatique d'asservissement sémiotique (pour le meilleur comme pour le pire). (p.83)


 《眼-鼻-額》の三角形をもとにした機械状の顔の剥離作用は、我々が以下の二節で検討しようとしている二つのタイプのミクロ政治へと至る。

  • 「顔化」のモル的政治――参照項の「一般的な顔」の促進によって。この「一般的な顔の促進」は、あらゆる《顔-生起》を占領し、それを最も広範な意味的コンセンサスへと服従させる。
  • この同じ《顔-生起》をもとにする、顔-特徴の放射の分子的政治は、シニフィアン的策略の裏をかき、記号論的制御の範列的(ダイアグラム的)過程を始動させることで、決定的となる(良きにつけ悪しきにつけ)。(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、pp.81-82)

 Pour tenir ce rôle d'indicateur central des significations dominantes, la visagéïté 1) doit être détachée et tenue séparée des autres composantes, 2) son fonctionnement doit être neutralisé, de façon à ne pas interférer avec celui des composantes dont elle enregistre les écarts-types et les passages à la limite. S'il advenait qu'elle se mît à travailler à son propre compte, elle perdrait aussitôt son pouvoir de régulation capitalistique. Une polyvocité « primitive » des matières d'expression referait alors surface, du type de celle que l'on « retrouve » chez les schizophrènes avec ses grimaces, ses maniérismes, ou chez l'enfant « autistique ». (p.90)

 支配的意味作用の中枢標識というこの役割を演じるためには、顔貌性は、(1)他の諸成分から切り離されており、分離したままの状態に置かれなければならないし、(2)その働きは中和されていなければならない。つまり、顔貌性が標準偏差、あるいは限界における移行を記録する構成要素の働きと、干渉を起こさないようにしなければ。もし顔貌性がその独自の都合で働くことになれば、顔貌性は、すぐにその資本制的調整力を失うだろう。表現のマチエールの「原初の」多声性が、そのときには再浮上することになる。この多声性というのは、しかめ面や衒奇症をともなう統合失調症、あるいは「自閉症的な」子どもに「見出せる」タイプのそれである。 (『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、pp.88-89)

 12. La « remontée » kleinienne du surmoi avant l'Œdipe ne change rien à l'affaire ! La conscience surmoïque, en se détachant des moustaches du père pour les mauvais objets de la mère, ne nous rapproche pas d'un pouce des données réelles de la répression sociale! (p.91)

 オイディプス以前のクライン的超自我の「カムバック」は、問題を変えるものではない。超自我的意識は、父親の口ひげを離れて母親の粗悪な品に移ったからといって、社会的抑圧の現実のデータを一歩も動かしたことにはならない!(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、p.90 の「注12」→ p.385)

 D'une organisation territorialisée de type figure-fond, nous sommes passés successivement à la concentration et à l'intériorisation d'une coupure signifiante, bipolarisant les valeurs et les matières à option, rayonnant à partir d'un œil sur l'ensemble des visages et des paysages, puis à l'émission en réseau de signesparticules, sortes de têtes chercheuses de la déterritorialisation active, dénouant sur leur passage les nœuds de visagéïté et de paysagéïté.

 「図-地」型の、領土化された組織から出発して、私たちは、中心化に、そしてシニフィアン的分断の内面化に至った。選択における価値と素材を二極化することで、顔貌や風景の全体に輝くことで。それから次に、活動的な脱領土化の、探究心旺盛な頭とでもいうべき、記号粒子の網状放射へと至った。その移行において、顔貌性および風景性の結び目をほどいてゆくことで。


 Mais il ne s'agit ici nullement d'une évolution linéaire qui nous ferait passer, sans transition, d'un univers à un autre. Des organisations en rhizomes existaient « déjà » dans les sociétés archaïques, et des systèmes en arborescence ne cessent de se développer dans les sociétés qui reposent sur des rhizomes machiniques ! Seulement, les rhizomes archaïques demeuraient - ou s'efforçaient de demeurer - territorialisés, tandis que les machines diagrammatiques « modernes » paraissent entraînées dans un processus irréversible de déterritorialisation.

 しかし、ここには決して一つの世界から別の世界へと一足飛びに移行させる線状の進化があるわけではない。リゾーム状の組織は、「すでに」太古の社会にも存在していたし、樹木状のシステムは、機械状リゾームに立脚する社会において発展をやめない! ただ、太古のリゾームは領土化された状態にとどまっていた――とどまろうと努めていた――のに対して、「現代の」ダイアグラム的機械は、脱領土化という不可逆的なプロセスに引きずられているように見える。


 Dans ces conditions, les formations signifiantes de pouvoir, pour se maintenir en place, semblent contraintes de se soumettre à une sorte d'escalade permanente d'adaptation et de récupération des machinismes a-signifiants.

 この場合、権力のシニフィアン的な形成は、現状にとどまるためには、非シニフィアン的な機械の適応と回収という、一種の永続的なエスカレートに服従を強いられているように見える。


 Il convient donc, sans doute, d'atténuer l'opposition que nous avons établie entre la sphère des composantes sémiotiques qui relèvent des sémiologies signifiantes, et celle des composantes diagrammatiques, les premières entretenant une sorte de dépendance « constitutionnelle » vis-à-vis d'une théorie réductionniste comme celle de l'information, et les secondes résistant, au contraire, à tout traitement qui leur ferait abandonner leurs traits de singularités essentiels.

 したがって疑いもなく、シニフィアン的記号学の管轄である《記号論的な構成要素》の領域と、《ダイアグラム的な構成要素》の領域とのあいだに、私たちが打ち建てた対立を、和らげる必要がある。前者は、情報理論のごとき還元主義的理論に対して一種の「生来の」従属性を保ち、後者は反対に、おのれに固有な特異性の特徴を放棄させようとするようないっさいの処理に抵抗する。


 D'autant que les modes de quantification sémiotique extrinsèques, qui procèdent par détachement de redondance, par transposition et par mise en simulation sur un équivalent sémiotique, ne peuvent plus être aujourd'hui radicalement séparés des modes de quantification machinique opérant directement au sein des agencements matériels, vivants, sociaux, etc. (pp.110-111)

 冗長性の剥離・移行・あるいは記号論的等価物へのシミュレーション化によって進む、外因的・記号論的な量化の諸様式が、今日ではもはや、物質的・生命的・社会的等のアジャンスマン内部で直接はたらく機械状の量化諸様式と、根本的に切り離せないかぎり、そうだと言える。(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、p.109)

 Lors de parades nuptiales, chez les oiseaux, de brusques retournements de situation surgissent fréquemment : à la cour se substituera tout à coup une attitude agressive, puis des simulacres de toilette, etc., les diverses séquences comportementales semblant se détacher par pans entiers. (p.130)

 鳥類のあいだでの婚礼パレードに際しては、状況の突然の逆転がしばしば出現する。すなわち、求愛が突如として攻撃的態度に取って代わり、続いて模擬的な化粧行為へというふうに、さまざまな行動上のシークエンスが全体にわたって際立つようだ。(『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、p.128)

 Le rituel du brin d'herbe, chez les oiseaux, ne met évidemment pas en jeu les mêmes composantes d'expression que celles du flirt et de l'accueil chez l'homme. Mais il me semble intéressant de comparer les moyens œuvrant au détachement d'indices sémiotiques assumant des fonctions similaires. Le visage humain articule des traits, tandis que l'oiseau forge des signes-outils extérieurs. Cela suppose l'existence de matières d'expression bien différentes. Les têtes d'oiseau n'ont pas été innervées, déterritorialisées comme les faces humaines. (p.143)

 鳥における若枝の儀式はもちろん、人間におけるじゃれつきとかお愛想の場合と同じ表現構成要素を作動させるわけではない。しかし、同様の機能を引き受ける記号論的兆候の剥離に働く手段を比較することは、興味深く思える。人間の顔は特徴を分節するのだが、鳥は外的記号道具を作り上げる。そこから、まったく異なった表現素材の存在が想定される。鳥の頭は人間の顔のように神経が分布していないし、脱領土化もされていない。 (『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、p.140)

 32. La déterritorialisation visagéitaire humaine peut être caractérisée, d'un point de vue phylogénétique, par :

  • le dégagement anatomique des lèvres, la mobilité musculaire de la bouche (corrélatifs du développement de l'appareil phonatoire) ;
  • la saillie des globes oculaires, la mobilité des systèmes musculaires oculomoteurs (corrélatifs de la latéralité du regard), orbiculaires des paupières, des arcades sourcilières et frontales...

 Relevons au passage que ces « détachements » morphologiques partiels jouent également un rôle fondamental dans les composantes d'expressivité sexuelle. (pp.143-144)

 人間の顔貌性的な脱領土化は、系統発生的な見地からすれば、次のものによって特徴付けられる。

  • 唇の解剖学的な離脱自由性、口の筋肉可動性(発声器官の発達と相関)
  • 眼球の突出、動眼神経筋肉系統の可動性(視線の左右差と相関)、眼瞼、眉弓、額弓の輪筋、etc....

ついでに、これらの部分的な形態的「剥離」は、性的表現の構成要素においても基本的な役割を果たすことを指摘しておこう。 (『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』、p.140 の「注32」→ p.393)

Les composantes iconiques イコン的な構成要素

 Une forme visuelle (mais aussi bien un signal physicochimique, un rythme, une ritournelle...) est détachée d'un agencement A par un agencement X. L'agencement A reste passif. Il lui est indifférent que fait été détaché par X, Y, Z... (p.224)

 ある一つの視覚的形態が(物理化学的信号、リズム、リトルネロ等についても同じだが)、ある X というアジャンスマンによって、ある A というアジャンスマンから切り離される。 アジャンスマン A は受動的なものであり続ける。 X, Y, Z のどれによって切り離されたものであるかは、どうでもよい。 (同、pp.222-223)


つづく



*1:発話をそれの実現される状況に定位すること。

2013-03-10 当事化ゆえに、禁忌とされる技法論 このエントリーを含むブックマーク

私が必要とする論点は、抽象的に論じても趣旨が伝わりにくいので、具体例を出してみます。

ひきこもる人が継続就労に努めるとき、大きなテーマになるのが中間集団です。身近な関係をどうマネジメントし、どういう主観性のスタイルに合流すればよいのか*1。また日本社会の逸脱者として、どう身を守ってゆけばよいのか。――このとき、ヤクザという存在は、トラブルの折に触れて直面してしまう恐ろしい存在であるばかりでなく、みずからのサバイバルのためにも、重要な参照項となります*2。組織に入るだとか、そういうこととはまったく別に、主観性や関係性のスタイルとして、学べるものがあるかどうか*3。まさしく《技法》の具体例として、無視できません。*4


ところが上のリンク先に引用した宮台真司氏の書籍では、ヤクザとの関係は、「母親のおかげ」であり、うまくいったのは「結果にすぎない」。では、「結果として」うまく行っていない人は、どうすれば? あるいはトラブルに直面したとき、何に注意すれば?――何も分かりません。

ここで宮台氏は、ご自分が「いかに特殊に恵まれていたか」を話すだけで、現時点でうまく行っていない人が「どうすればいいか」には、まったく触れていません。裏社会との関係がどういうロジックで成り立っているか、そこにどんな困難が浮上するか――「結果にすぎません」で終わられては、扱うことじたいが許されません。これは、当事者性の根底的な拒絶です。一方的な自慢話においては、成功譚が神秘化され、事情のすべては「肯定されるため」にしか語られません。ご本人の加担責任は、一切検証されない。


宮台氏だけではありません。この話題は、扱っただけで関係者から排除されます(ということはその方々も、自分がどういういきさつで関係者であるのかを論じたがらない)。あるいはそもそも、表だって承認されたことになっているゆえに、問題としてすら認知されない。扱うべき問題が集団の前提に埋没しているがゆえに、全員が当事者責任を回避しており、話題にすることそのものが相手を「あなたも加担者ですよ」と名指すことになるため、リスクを伴います。――宮台氏は、「ヤクザと親密だ」と公言することで、《責任者の特定しにくい、暗黙の脅迫》に成功しているわけです。(責任者が不在にみえる脅迫が、集団のメカニズムに織り込まれている)


以前に私と交流のあった C 氏は、上記拙エントリでブックマークが集まって数日後、ご自身の情報サイトから、拙ブログをいきなり削除しています*5。交流のあった宮台氏への配慮で私のほうを「切った」のでしょうけれど、私は曲りなりにも関係を維持するには、この話題に触れてはいけなかった。疑念を持っただけで、排除されたわけです。*6


また宮台氏は、ヤクザとの親密関係を打ち明けた『日本の難点 (幻冬舎新書)』公刊から7ヵ月後、民主党の参議院議員・福山哲郎氏と、共著本を上梓されています→『民主主義が一度もなかった国・日本 (幻冬舎新書)』。 現職の国会議員が、ヤクザとの関係を公言する人物と本を出している。これは大きなメッセージです。*7


あるいはまた、新著で話題の柄谷行人氏は、10年あまり前には中間集団でトラブルになっていたはず(参照)。理論や「〜べき」でいくら素晴らしいことを言っていても、実際に中間集団を営むというのは別回路の問題であり、それを棚上げにして「理論」しかやらない時点で、肝腎のモチーフは黙殺され続ける。ひきこもりの問題は、まさにその黙殺された点でこそ悩むのです。彼らはついに引きこもり論をやらない*8


私自身ゼロ年代には、複数の中間集団で参加や運営を試み、そこでの挫折を通じて、問題意識の改編を余儀なくされています。

 身近な関係に食い込んだトラブルを、どうするのか。あるいはむしろ、身近な関係を無視する「理論」をどうするのか。

どうしてみんな、「なかったこと」にするのか。

話題として禁忌にされては、こうした問題に直面してうまくやれずにいる側は、たんに遺棄されます。中間集団は、どうやっていいか分からない人たちの集まりであり、不当な暴力の溜まり場になるしかありません。


私は、2000年に活動を開始した当初には、「保守や右翼に脅される」と思っていました*9。ところが蓋を開けたら、そうではなかった。脅しや差別・嫌がらせ等を受けるのは、決まって左派系です。具体的に関係維持を図るのが左派だからですが、そこに必ず、《主観性と関係性をどうするか、どうやっているか》の問題が生じるつながりの作法。これを他人事にできる人は一人もいないはずです。


どうして論者の皆さんは、この話題を避けるのですか。「いじめ」「中間集団全体主義」といった、規範との関係に置きやすいテーマ化はされても(内藤朝雄氏など)、実はそういう規範だけでは、人との関係はうまく行かないし*10それは必ずしも、関係者だけが悪いとも言えないのでは?――だからこそ、《技法》を論じる必要があるのではないのですか。


現状の不備がいきなり誰かのせいではないにしても、適切な技法の不在を無視し続けるのは、関係者の責任と言えませんか。それは、既存技法の既得権への居直りではないのですか。


今はこの話をしただけで、存在そのものを「なかったこと」にされがちです。しかし、発達障碍で取り沙汰されるような硬直や孤立を抱えつつ、既存の解釈枠にも入りにくい私のような者は、技法論を抑圧されては、自分の問題に取り組めません。

これは、

 みずからの当事者性に直面せざるを得ない側と、

 みずからの当事者性そのものを認めない

の間にある、階級闘争のようなものです。人のつながりは、まるで資本のように、あるタイプの主観性を押し付けてくる集団的脅威となっている。*11


成功した関係性は、みずからの技法ディテールを抑圧します。売れた商品じしんの自慢話のように、成功体験を絶対化し、相手にもそれを押し付ける。

ところが、作業過程に照準する技法論は、成功者か失敗者かを問わず、全員に再検証を迫ります。努力の方針、正当化の方針そのものに、やり直しを要求する。メタ的な規範論も、技法に関するアリバイにはなりません(「〜べき」を論じているから許される、というものではない)。


ひきこもりや発達障碍を論じるにしても、

 私はうまくやってるが、あいつらはうまくやってない

と、相手だけを異常視するような発想をしているのではありませんか*12。それはむしろ、苦痛や排除の加担者です。少なくともその可能性について、検討いただけませんか。


こうして論じていても、つねにジレンマに悩まされます。技法論の必要性は、「言葉だけで」擁護するのが難しい。言葉に引きこもることそのものに怒る問題意識でもあるからです(参照)。

そうすると、言葉に引きこもって正統性を確保する集団は*13、彼らの加担責任を剥き出しにする話題設計に、抵抗してきます。彼らとて中間集団の関与者ですから、他人事のように議論することそのものが抑圧なのですが、学問の体裁をとって制度的に承認された抑圧を解除するのは、なんとも大変です。


既存の学問言説は、

 作業過程そのものとして成り立つ主観性や、その相互的な関係である中間集団に関する、おのれの技法的関与

を黙殺することで成り立っている。様式を固定された解釈談義や規範論は、技法論を抑圧するのです。彼らは、ひたすら「メタで居るつもり」なので。


「弱者を擁護すべき」と、表看板の勇ましい人は沢山いますが*14、そうした規範で維持される人間関係の実態や、そこにある《技法》という論点は、なかったことにされます。ただ従うことを要求され、かんじんの部分は、水面下で処理される――主観性や関係性の技法論は、やっている人がいないどころか、禁止されています。ではいつの間にか「処理」される側は、どうすればいいのか。


支援をしてくださるというなら、どうかこのあたりの話を、忌避せずに取り上げていただけませんか。すぐに解決できなくても、《話題として許される》だけで、どれほど助かるか。

斎藤環氏とのやり取りで彼が怒り出したのも、まさに私が、《主観性と関係性をどうするか、どうやっているか》を話題にしたときでした(参照)。――つまりこれは、多くの人のアリバイ感情を刺激する、人を怒らせる話題なのです。このままでは、議論ができません。


ひきこもり状態を解きほぐすには、みずからの技法的加担に直面し、そこで組み替える作業を必要とします。そしてこれは、作業として孤立できません。孤立したら失敗する。あるスタイルを反復する集団や関係において、自分だけが変わるわけには行かないし、集団側がパターンを硬直させていては、そもそも参加を維持できません。技法をやり直そうとした者はメンバーシップを得られず、問題意識ごと遺棄されるのです。*15



発達障碍に関して

私の言動を批判する趣旨での酒井泰斗氏の発言(参照):

これはむしろ、議論の前提であり、出発点です。

私の必要とするモチーフが、制度的に承認された専門性にはあり得ない形で一貫していること、またそれによって、私が排除されているいきさつを、ご想像いただけませんか。私は、ひとつの専門性や党派性に安住できるような、わかりやすい状況にはおりません。


医師や社会学者は、発達障碍と呼ばれた思考の平板化を「脳の問題」に還元します。それを踏襲し擁護すれば、彼らのPC的アリバイは守られ、中間集団は維持できるでしょう(再生産の様式です)*16。あるいは名詞形の「当事者」で名指された側は、その名詞形に囲われるかぎり、そしてその限りにおいて、ある関係性を作ることはできる。――しかしこれでは、彼らに抑圧された論点は、ますます好都合に抑圧されます。《語りのスタイルと主観性や関係性》という論点が、いつまでたっても話題にできません。


以下のような私の問いは、馬鹿げていますか?

  • 不登校外来のが発達障碍という報告もあるようですが(参照)、そういう事例の一部は、主観性や集団の《技法》と関係していませんか。つまり、技法上の試行錯誤で、改善できる事情はありませんか。*17
  • 専門家を名乗る皆さんの言説様式は、間違った技法に加担していませんか。*18


全員の加担責任をむき出しにする技法の問いは、乱立する党派的アリバイの《あいだ》にあります。どうか少しでも、「話題にしても許される状況作り」に、協力してください。



*1:学問研究は、所属とは関係なく、「そのような主観性の技法を踏襲すること」です。それによって、同じ主観性のパターンにある関係者に合流できる。たとえば社会学者に酷い目に遭わされた者にとって、当該研究者は、「社会学の業界」という集団的な存在に守られています。トラブルがあったとき、当該研究者と同じロジックで弁護を図る支持者が出てくる。これは党派性の問題です。いわゆるヤクザでなくても、孤立者から見た党派性は、立派な組織的脅威です。

*2:「ひきこもり」と名詞化され、差別的な扱いを受けながら生きていかざるを得ず、社会保障の対象にもなりにくい引きこもり状態経験者は、ヤクザ的な手法をどこかで取り入れざるを得ないのか、という問いでもあります。つまり、ここでいう「技法上のテーマとしてのヤクザ」は、暴力団対策法の対象になるような、「○○組」と名乗る組織に限定された話ではありません。法律で定められた暴力団ではなく、「ヤクザ的な手口やスタイル」というとき、私たちは何を考えているか。たとえば、(1)正規の手続きではなく、ショートカットを使えること、(2)「上の者がクロと言えばクロ」の絶対服従と戒律、(3)水面下の即座の動員力、(4)背後の組織を匂わせる、(5)法律に詳しいが、必要なら法を犯すことを省みない行動力――などによって、《身を守り、主観性と集団のマネジメントを遂行すること》ではないでしょうか。孤立した上に迫害され、ふつうのやり方では酷い目に遭う人間にとって、「いかに身を守るか」は死活問題です。

*3:「ひきこもる人は、ヤクザの事務所に弟子入りして鍛え直してもらえばいい」という意見は、何度か聞かされています(最近では須田慎一郎氏が、あるTV番組で発言されていました)。 冗談めかしてではあるものの、(1)忘れたころに、思い出したように何度も出てくる意見であること、(2)日本ではヤクザの存在は既存社会に組み込まれているらしいこと、(3)「良い意味でのヤクザの親分みたいな人が支援者に向いてる」という意見が、支援周辺からも出ること、(4)柄谷行人氏が宮崎学『法と掟と この国の捨て方 (角川文庫)』に寄せた解説(参照)と、労働問題で著名な研究者がこの本に寄せた賛辞の説得力――などからも、《ヤクザ的な団結、その主観性の技法》は、論点として避けて通れないと感じています。そして中間集団は、「作ればいい」というものではなくて、作ろうと思っても、本当にうまく行かないのです。主観的意図だけではなくて、技法が要る。

*4:生活において避けがたく生じるトラブルに対して、私たちはあまりに無力であり、また警察組織も(手続き主義に阻まれて)助けてはくれません。では孤立しがちな私たちは、どうやって身を守ればよいのでしょう。やはり宮台氏のように、ヤクザ人脈が必要なのでしょうか。――島田紳助氏は引退を余儀なくされていますし、これは、「俺にはそういう友達がいるんだぜ」と自慢して終わるような話題ではないはずです。

*5:毎日10〜数十人が流れてきていたのですが、突然ゼロになったので見に行ったら、見当たらなくなっていました。以後、一件も流れてこなくなった。

*6:私は宮台氏との面識等はまったくないのですが、当時すでに C 氏が宮台氏とのつながりを周囲に伝えていたため、「ヤクザ人脈への対処をどうするか」は、他人事ではありませんでした。

*7:【福山哲郎氏のことではありませんが、関連して】→ 鈴木智彦氏の『ヤクザと原発 福島第一潜入記』を読むと、そもそも原発という巨大事業は、ヤクザの存在なしには成り立たないようです。なのにマスコミは、こうした事情については扱いません。次のようなモチーフは、誰だってある程度は直面しているのではありませんか――《この社会では、ヤクザとの関係はどこかで承認されているらしい。それを警察用語で「暴力団」と呼ぶことも含めて、二つの顔を使い分けなければならない》――重要なスキルのはずです。ものすごく話題にしにくいですが、「暗黙の」ままにしないでほしい。

*8:斎藤環氏が柄谷氏の最近の言説に絡んでいることは、とても症候的に見えます(参照)。斎藤氏は、話題としては引きこもりを論じるのですが、理論言説と主観性・中間集団の関係は、ついに扱いません。むしろそれを抑圧した形でのみ、《論じる》ことを許すのです。――私にとってこのモチーフは、トラブルの形で繰り返し一貫しています。

*9:初めてお招きいただいた実名公表イベントで、会場から「国のため、社会のために自分を捨てろ!」と叫ばれたのが、右派系からの唯一の恫喝です。以後はそもそも、接点がありません。支援者である工藤定次氏の『脱!ひきこもり』には、「民族派」を名乗る人物からの恫喝電話の体験が描かれています(参照)。

*10:わかりやすすぎる「〜べき」を反復することで、お互いのナルシシズムを確認しあうような関係性です。これは、技法論への抑圧でしかありません。

*11:「社会関係資本(social capital)」は、学問の文脈としては、あくまで積極的な意味だと思います。しかし孤立した側から、《主観性の生産様式を固定的に反復する(押し付けてくる)体系》と考えると、別の意味を帯びてきます。

*12:山口昌男: 《「すぐれた人類学」というのは、自分の価値で他者をはかるのじゃなく、他者を媒介として自分をはかり直すところにあるのだ》(本多勝一との論争より、孫引き)。 相手を一方的に対象化する視線を許すなら、自分たちが実際に生きる社会性の実態は、ついに検証されない。

*13:分析的な組み換えのない《現場》は、その形において、自分たちの言葉に引きこもっています。――理論を仕事にする人たちは、理論の内容そのものに引きこもるだけでなく、《理論の現場》をどう生きるかについても、言葉をパターン化させています。

*14:関係性が、「〜であるべきだ」の表看板で維持されること。それは、そのような形で守られる既得権を固定する、関係技法のひとつです。

*15:名詞形「当事者」ポジションに居直った人も、この話題を忌避しがちです。関係の実態を問い直す技法論は、名詞形「当事者」で呼ばれた誰かの特権化を、前提にはしませんので…。

*16私は技法の問いを、生産様式の問いに重ねています。生産様式というと、ふつうは所有や支配の歴史的制約であり、個別に工夫のしようなどないのですが(参照)、私はそれを、リアルタイムの《技法》に重ねて、問い直そうとしています。

*17:この私の疑念は、発達障碍のカテゴリ名で居場所を作ろうとする《当事者》たちによっても、困惑されがちです。「自分は○○だ」という名詞形の同一性を失いかねないと同時に、社会保障の受給権や、刑事裁判での減刑機会をも失う可能性が高く、さらには改善に向けた責任の話にもなりますので、無理もありません。――しかし《技法》という論点について、発達障碍の診断を受けながら、好意的に(あるいは可能性を感じて?)声をかけてくださった方もおられます。

*18:つまり、(1)カテゴリ還元的な専門家言説、(2)名詞形の「当事者」を擁護していればよいと思い込む規範意識――こうした発想は、技法という論点を抑圧しています。

2013-03-08 技法論的な加担責任 このエントリーを含むブックマーク

技法論がどうして嫌われ、怒りを買うか。あるいはそもそも、どうして「何を話しているか」すら理解されないのか。――これは技法論が、加担責任を突きつけることに関係する。

人々は、「事柄そのもの」を考えられると本気で思っている。ところが《考える》には、すでに様式がある。技法が生きられている。それが悪さをしているかもしれない。

主観性の生産過程で問われる技法論は、《内容そのものをメタに考える》という安楽さを許さない。「自分はどうやってしまっていたか」という、加担責任を突きつけられる。

論理だけを、意味だけを考える言葉遊びの人たちは、この問題設定そのものを認めない。「客観的に」語り得ると、本気で思っている。――この《意味への狂信》を、解除できるか?



2013年3月9日 【追記】

ひきこもり問題を研究すると、さまざまな文脈に引き裂かれ、論じる本人が孤立し、排除されてしまう。個別の学派や党派が欺瞞になるため、あとは「自分の俗世的な妥協をどこにするか」といった話になる。

複数の権威性が拮抗しているフィールドなので、論じる作業は最初から政治的。「論じているのはどのポジションの人か」「どの言説様式を選んで話しているか」は、常に付いて回る。それを無視して語れるようなポジションはない。

技法論はそうした権威性すべてを問い直すが、「だからこそ誰にも通じない」ところがある。*1

時間をかけて説明しても、似たポイントで悩んだ経験のある人にしか、「何を論じているか」が伝わらない。

読んでくれたという人が、「要するに」と、アサッテの方向で解釈してくる。 「そうじゃなくて…」と説明し直すと、また何日もかかり、しかもぜんぜん伝わらない。

膨大なエネルギーをつぎ込んでも、やればやるほど、敵意を買い、孤立していく。

似たようなジレンマの呟きは、他の領域でも何度か見た――個別論点の前に、これを乗り切ろう。



*1:一度スイッチの入った正当性の方針を、多くの人は問い直さない

2013-03-07 いわば超越論的-素材的-唯物論的な、技法論 このエントリーを含むブックマーク

日本語では、《技》のあとに 「術」 「法」 「能」 とつけて、

それぞれ微妙に意味が違いますよね(技術、技法、技能)。

ちがいを説明しろと言われると難しいけど、

日本語ネイティブの人は、なんとなく使い分けてる。


英語だと、 arttechniquemethod あたりは、

「技芸/技術/方法」ぐらいに訳し分けて、理解してる感じでしょうか。


そのあたりを曖昧にしながら、以下の文章を読んでみてください。*1


アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』pp.209-211 より:

 無意識は、意味の問題などではなく、ただ使用法の問題を提起している。欲望の問題は、「それが何を意味しているのか」ではなくて、それがどのように作動しているかである。欲望機械は、私のものであれ、君のものであれ、どのように機能するのか。どんな故障をともなうのか。故障もまた、欲望機械の使用法の一部をなしているのである。欲望機械は、どのようにしてある身体から他の身体へと移行するのか。いかにして器官なき身体に付着するのか。いかにみずからの体制を社会的機械に対決させるのか。従順な歯車機構が注油され、あるいは逆に地獄の機械が準備される。ここでは、どのような接続、どのような離接、どのような連接があり、総合はどのように使用されるのか。〈それ〉は何も表象しないが、〈それ〉は生産する。〈それ〉は何も意味しないが、〈それ〉は作動する。「それは何を意味しているのか」という問題が全般的に崩壊するところに、欲望が登場してくるのだ。

 言語の問題が提起されるようになったのは、言語学者や論理学者が意味というものを追い払ってからである。言語の最も高度な力能が発見されたのは、言語作品が、ある使用法にしたがって何らかの効果を生産する機械とみなされたときである。マルカム・ラウリー*2は、自分の作品についてこう語っている。それが作動するなら、それこそひとが望んでいることのすべてなのだ。「そう、作品は機能している。安心して下さい。なぜなら私は試してみたのだから」と。――ひとつの機械じかけである。

 ただし、意味というものは使用法以外の何ものでもないということが確固とした原理となるのは、私たちが正当な使用法を規定しうる内在的な指標をもっている場合だけである。不正な使用法とはこれと対立して、逆に使用法を、前提された意味に還元し、一種の超越性を再構築する。いわば超越論的な分析は、「それは何を意味しているか」という超越的実践に対立するものとして、まさに無意識の領野に内在するこうした指標を規定するのである。分裂分析は、超越論的であり唯物論的である。それがオイディプス批判をもたらし、あるいはオイディプスをそれ自身の自己批判にまで導くという意味において、この分析は批判的である。分裂分析が探求しようとする無意識は、形而上学的ではなく、超越論的である。イデオロギー的ではなく、matériel である。オイディプス的ではなく、分裂症的である。想像的ではなく、non figuratif である。象徴的ではなく、現実的である。構造的ではなく、機械状である。モル的あるいは群集的ではなく、分子的、ミクロ心理的、ミクロ論理的である。表現的ではなく、生産的である。だから、ここで重要なのは、「治療」の方向としての実践的な諸原理である。


「超越的」と、《超越論的》の違いに注意。

単に意味の領域に留まることが「超越的」とされ、それに対して、


生きる領野のさなかで、そこが再生産されるあり方を分析し直す作業が内的に生成する、それを通じて生きる場そのものが組み変わってしまう、あるいは組み換えようという動きが内発的に生じる――そういう分析と改編の生成を、「いわば超越論的」「素材的」「唯物論的」と表現している。そしてそれが、実践的な原理として、「治療」の方針という言葉に置き換わっている。私が《技法》という言葉で考えたいのは、このあたりのことだ。


つまりそこでは、「超越的」は、技法的な試行錯誤である《超越論的》を、抑圧するものでしかない。意味の定義とその論理的連なりだけで自己確証するのでは、私たちの生きている場を、やり直すことができないのだ。それは《治療の方針≒技法》として、間違っている。――というか、意味と論理だけを考える立場では、自分たちがすでに一定の《治療の方針≒技法》を生きてしまっていることが、忘却されている。私はこの忘却をくり返し話題にしている。


参照源は、グァタリの居たラボルド病院での臨床事業。

技法として、明らかに連続している。



上記引用部分の原文

"Capitalisme et schizophrénie. L'anti-Oedipe", pp.129-130 より:

 L’inconscient ne pose aucun problème de sens, mais uniquement des problèmes d’usage. La question du désir est, non pas « qu’est-ce que ça veut dire ? » mais comment ça marche. Comment fonctionnent-elles, les machines désirants, les tiennes, les miennes, avec quels ratés faisant partie de leur usage, comment passent-elles d’un corps à un autre, comment s’accrochent-elles sur le corps sans organes, comment confrontent-elles leur régime aux machines sociales ? Un rouage docile se graisse, ou au contraire une machine infernale se prépare. Quelles connexions, quelles disjonctions, quelles conjonctions, quel est usage des synthèses ? Ça ne représente rien, mais ça produit, ça ne veut rien dire, mais ça fonctionne. C’est dans l’écroulement général de la question « qu’est-ce que ça veut dire ? » que le désir fait son entrée.

 On n’a su poser le problème du langage que dans la mesure où les linguistes et les logiciens ont évacué le sens ; et la plus haute puissance du langage, on l’a découverte quand on a considéré l’œuvre comme une machine produisant certains effets, justiciable d’un certain usage. Malcolm Lowry dit de son œuvre, c’est tout ce que vous voulez, du moment que ça fonctionne, « et elle fonctionne, soyez-en sûrs, car j’en ai fait l’expérience » – une machinerie.

 Seulement, que le sens ne soit rien d’autre que l’usage, ne devient un principe ferme que si nous disposons de critères immanents capables de déteminer les usages légitimes, par opposition aux usages illégitimes, qui renvoient au contraire l’usage à un sens supposé et restaurent une sorte de transcendance. L’analyse dite transcendantale est précisément la détermination de ces critères, immanents au champ de l’inconscient, en tant qu’ils s’opposent aux exercices trancendants d’un « qu’est-ce que ça veut dire ? ». La schizo-analyse est à la fois une analyse transcendantale et matérialiste. Elle est critique, en ce sens qu’elle mène la critique d’Œdipe, ou mène Œdipe au point de sa propre auto-critique. Elle se propose d’explorer un inconscient transcendantale, au lieu de métaphysique ; matériel, au lieu d’ideologique ; schizophrénique, au lieu d’œdipien ; non figuratif, au lieu d’imaginaire ; réel, au lieu de symbolique ; machine, au lieu de structural ; moléculaire, micropsychique et micrologique, au lieu de molaire ou grégaire ; productif, au lieu d’expressif. Et il s’agit ici de principes pratiques comme directions de la « cure ».



*1:強調はすべて引用者。

*2【ブログ注】: 邦訳では「マルコム・ローリー」となっているが、原文の「Malcolm Lowry」は『火山の下 (EXLIBRIS CLASSICS) (エクス・リブリス・クラシックス)』著者のことだと思うので(参照)、書き換えた。

2013-03-06 マイノリティ擁護の周辺 このエントリーを含むブックマーク

次の(1)と(2)で対立した場合、トラブルは(1)に有利でしょう。

  • (1)歴史的に成立した分かりやすい「正義っぽさ」に依存できる。相手の巻き込まれる社会的葛藤を無視し、その場に出てきた言葉ヅラだけで「論争」できる。
  • (2)ちょっとした事情説明にも背景から説き起こさねばならず、膨大なディテールとプライバシーへの配慮を必要とする。さらには、自説が弁護し得ることを示すために、《新しい考え方》を導入しなければならないので、目の前の論点より前に、その《考え方》の説明から始めなければならない。

マイノリティの弁護には(2)が付きまといがちですが、

テーマそのものが社会的に承認されていない場合には、

このジレンマはほとんど絶望的です。


そうした状況で法律や学問を参照したくても、たんに参照できる話がないだけでなく、むしろそうした専門性は、敵対的ですらあります。誤解を撒き散らしたり、状況悪化に加担したり。


第三者は、(2)の話は負担が大きすぎて聞いていません。

いっぽう(1)の話は、先入観の範囲でスムーズに理解できる。


言葉で説得しているかぎり、この状況は変わりません。

今すぐに状況が変わらなければ生きていけない側は、待っていられません。



PC的な議論は、多くが(1)です。

わかりやすい「正義っぽさ」で多数派を味方につける人は、格好良く見えるし、とりあえず誰かを擁護していれば、その擁護先からは歓迎されます。 でも実は、

 その論者ご本人に都合の悪いモチーフは、慎重に排除される。

こういう実態は、なかなか主題になりません。*1


「ひきこもり」状態は、言論人が隠したがるテーマでこそ苦しむので*2、肝腎の論点が公の場所から排除され、優等生ごっこでしかないような言説ばかりになります。


しかも耐え難いことに、この排除は、学問上の主張それ自体に基づいて支持されていたりします*3。議論すればするほど、医師や学者が業績を積み上げるだけで、問題はますます隠蔽される。それを褒めておけば、メディア上の振る舞いとしては成立するわけです。


こうした言説のとばっちりを受けるのは、実際に悩む本人です。

いくら格闘しても、業績にすらなりません。

決定的な論点が、モチーフとして《暗点》になる――医師や学者の業績のために。



*1:実はメディアは、「取り上げない」ことで、露骨なダメ出しを続けています。「ダメ出しをするな」をメディア・ポジションの人が言うのは、あまりにひどい欺瞞です。

*2:主観性や身近な関係性、あるいは《党派性》は、誰も取り上げようとしません。そこで苦しんでいるのに。

*3:意識的に隠されるだけでなく、(1)学問言説によって「扱わなくて良い」と分類されていたり、(2)既存言説でうまくやれている論者たち本人が、本気でモチーフを理解できなかったりする。「既存学問をうまくやれている」時点ですでに篩(ふるい)が掛かっているので、既存制度内で承認を得た理論言説だけに頼っていると、いつまで経っても扱われません。

2013-03-05 動詞形マイノリティの擁護 このエントリーを含むブックマーク

ドゥルーズやグァタリの文脈にある《生成》は、動詞形であるはず。

名詞形で「生成」「生成」と論じたところで、生成を生きたことにはならない。

ところが多くの論者は、これを名詞形で擁護して正義を生きたことにしてしまう。*1

これは、「当事者」という名詞形が擁護されれば良しとされ、実際に当事化してみせる動きが踏みにじられることと同型。


動詞形のマイノリティを擁護するというのは、ある動詞が不定詞として常に肯定されるというのではなくて*2


必要に応じて組み替わる-替える-替えられる*3動詞には、日付のついた細部がある。つねに自己検証があり、事前に想定できない分節生成がある――そうしたものを肯定できないかという話。たんに politically correct なのではなくて、「それで元気になる人が増えるはず」という仮説的な技法論だ。


動詞をイデア的に固定し、このイデアの反復しか読み取らない解釈態度が支配的となった状況で、その都度オリジナルから生成し直す分析には、生きる場所も時間軸もない*4。この生成を尊重しようとする技法論は禁止され、忘却され、息の根を止められそうになっている。 この生成を殺すことは、結果として、生の状況を荒ませてしまう。


ついに動詞的生成をやめられない分析は、必要な理解を名詞形に還元できず*5、生の営みと切り離せない。この分析には身体があり、無時間的に確認できる《意味》には還元できない。論理には身体がない。*6


「当事化」は、《無時間的論理+名詞形》の反復を拒絶し、動詞的生成としての分析を生きようとしている。



「論理と規範」ではなく、技法の問い

《無時間的論理+名詞形》 で済む規範論に対して、

技法論は、そういうわけにいかない。技法論は、「排除された名詞を擁護する」というアリバイ・ナルシシズムではない。位置づけの難しいものは、わかりやすい手続きを与えてくれない。


ここで廣瀬浩司氏が「器官」とおっしゃったものは、

象徴的マトリックスと重なるだろうか。


私はこれを、グァタリの持ち出した不定詞に近い議論と理解している。

グァタリのほうは、これで資本制を直接論じている。 ex.不定詞の《不定詞化》」「すべてを不定詞化する機械


今回提案した「動詞形マイノリティの擁護」は、

 さまざまに硬直する(とりわけ、剰余価値生産に向けてパターン化される)不定詞に対し、動詞そのものをやり直そうとする、そのような動きを擁護しようとするグァタリの《特異化 singularisation》*7

と、同じ論点ではないだろうか(参照)。*8


名詞形マイノリティの擁護なら、「規範論だけでよい」と思い込めるだろう。しかしそれは、差別の再生産にもなっている。相手を名詞形に監禁するからだ(参照)。

今後必要なのは、動詞形マイノリティの擁護であり、これには技法論が必要なのだ。 PC のような分かりやすい居直りはできない。


この問題の射程は、広く深い。私たちの生の再生産を根幹から問い直すことになる。技法を抹殺する《意味≒価値》の帝国は許せないが(参照)、意味をやらずにいることはできない。そうなるとこの動きは、つねに《意味だけに頼ろうとする暴力》に流れていき、生成を生成として擁護できなくなる。理念で動詞形を確保すればよいという話ではないのだ。



*1:実際に生きられる生成を読み取らず、ということは、おのれに生成した理解をも踏みにじる。生成を潰してしまう党派性。その党派性を形作る「論理への還元」と、アリバイにされる名詞たち。名詞形で「当事者」「生成」を擁護しておけば仕事をしたことになる頑迷さ。

*2:不定詞は動詞のイデアだ。資本制において、このイデアはある型にはめられる(参照)。

*3:じねん-能動-受動

*4:病院や会社で言われる「そんな時間はない」は、同時に、「そんな時間はない」だ。

*5:病名カテゴリ等も、そのつどの部品でしかない。

*6:「器官なき身体」は、《そのつど動詞をやり直すしかない》ということ。「器官なき身体」という名詞を擁護しておけば良いのではない。おのれの生成を動詞形で擁護できるかが問われている。

*7:この囲いの中は、ブログ主による説明

*8:「特異化」と連呼しても、またしても動詞形の動きが名詞化され、それが擁護されてPCが保たれたことになってしまう。この、《動詞形でしか生きられない動きを名詞化(イデア化)し、それを連呼することで正当性を担保する》という動きは、あまりにルーチン化している。動詞の物象化こそが問われねばならない。

2013-03-03 観念論における、「技法問題の最終的解決」 このエントリーを含むブックマーク


「観念論:唯物論」 ≒ 「規範論:技法論」


観念論(イデア主義) と 唯物論(もの主義) の争いを(参照)、

規範論と技法論の対立として、位置づけ直せます。*1

    • これは、ロールズ、ノージック、ローティ等を対比させる議論とも、問題設定の焦点が違うはずです。既存の規範論や政治理論は、技法論の中に位置づけ直す必要があります。


実務上こまるのは、技法論的な試行錯誤は、「〜べき」の狂信性に、とりあえず負け続けるしかないこと。言葉のチェックと「〜べき」の反復で正当性を確保できる(とされる)規範論は、狂信的居直りをしやすく、動員がかかりやすいため、集団的現象として直面したときには、歯止めがありません。

いっぽう技法論は、主観性や集団を生産過程として(つまり、これまでに取り沙汰されたのとも違うタイプの唯物論として)理解する文脈が根付いておらず、さらに実証には何年も掛かることが多いため、規範論の狂信性にうまく対応できない。


規範論しかない環境で、技法論を根付かせるには、どういう作業が必要でしょうか。


グァタリやラボルド病院の技法を紹介した『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』座談会で、三脇康生氏の体験等に関連して私から行なった問題提起――つまり、「受傷性が高すぎる」というのは(p.234〜)、整理し直せば、

 イデオロギー的な規範論に対する、技法論的な試行錯誤の脆弱さ

と言えます。

経営で頭がいっぱいのとき、あるいは文化大革命のような状況で、技法論を聞き入れる人はいるだろうか。あるいは自分も、技法論に乗り出すことは、けっきょく「技法論的に」断念せざるを得ないのではないか。*2


科学と論理だけで考える方針は、技法問題を「解決済み」とすることです。*3

すでに「正しい方法」は分かりきっている(とされる)ので、逡巡したり、別に見えるやり方を導入した時点で、徹底的に叩かれる――そもそも、「技法論をしている」という説得が、魔法に掛かったようにまったく理解されません(参照)。



《技法問題の最終的解決(Endlösung)》

「技法問題など存在しない」という帝国において、

人々はもはや、技法論を許されないばかりでなく、

技法論が「あり得る」ことさえ、忘れています。

忘却そのものが忘却されている。



*1:「〜べき」のみで乗り切る局面はあるので、正確には規範論は、技法論の一部として位置づけ直せる。ただし、そもそも技法論に気づかない状態では、この「位置づけなおし」自体ができない。

*2:個人として解雇され、あるいは経営が破綻すれば、技法論の取り組み自体ができません。また政治的迫害が大きすぎる場合(殺害や集団リンチなど)は、どうすれば?――こうした状況それ自体が、技法の問いを突きつけます。

*3:こう書いただけで、ニューサイエンスに見られてしまいがちですが、私は、技法論としての唯物論をやり直そうとしています。

1968 | 08 |
2000 | 09 | 11 |
2003 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2004 | 01 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2005 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2010 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2011 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2012 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2013 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2014 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2015 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 10 | 12 |
2016 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 07 | 08 | 10 | 11 |
2017 | 01 | 02 | 03 | 05 | 06 | 07 |