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[語句説明]

2013-05-21 動詞的当事者(当事化)の臨床運動のために このエントリーを含むブックマーク


これは丸ごと、私たちを動詞として語る議論ではないでしょうか。


江川隆男氏の解説「出来事と自然哲学」より:*1

 ここでストア派とともに私が主張する《自然哲学》は、一つには自然のなかの動詞を探求する学であり、それゆえ《物体=身体》(ソーマ)とは《動詞体》(ロゴス)のことである。 (p.127)

 ここに言う自然哲学とは、プラトン-アリストテレス的な、知性の合理主義、概念主義、主知主義といった思考が支持する自然学から批判的に区別された、言わば一つの独断論、すなわち初期ストア派の人々の「偉大な独断論」である。しかし、それは、《ものごとの真理を知ることができる》という意味での独断論ではなく、したがってその逆の不可知論とも完全に手を切って、自然の活動そのものの結果こそがわれわれの生命の発現であり、その表現的形相がわれわれに自然の動詞を教えるのだという主張――ここには、存在の仕方としての新たな動詞を創造することができるという主張も含まれる――である。この限りでの彼らの精神はまったく新しかったのである。 (pp.128-129)

    • 「動詞の創造」という、schizo-analyse に重なるモチーフ(参照)。 与えられた一般名詞や、ニヒルな相対主義に居直るのではなくて、《分析する》という不定詞をやり直すこと。


 これによって各個の物体が一つに保持され、統一が形成されるが、この限りでこの統一が示しているものは、ある名詞によって名指され、それゆえあらゆる属性に対して超越したような実体的一者ではなく、動詞によって表現されるべき種子的動詞体が有する多様体としての内的な統一性である。 (p.149)

 動詞の不定詞的表現、例えば、《緑になること》は、現実に存在する樹木の性質、あるいは樹木と空気との混合――この混合のもとに、葉緑素は葉のすべての部分と相互浸透的に共存する――を指示する語でもなければ、命題によって指示される対象としての樹木が《緑であること》において表象されるような名詞的表象でもなく、それとはまったく異なる別の表象、「動詞的表象」(représentation verbale)をわれわれに与える。ドゥルーズが提起するこの動詞的表象は、まさにストア派の把握的表象をより的確に再表現したものだと言える。つまり、動詞的表象は、単なる「対象の表象」ではなく、《表現》と《表現可能なもの》から合成された表象のことであり、これによってわれわれは、ある動詞の不定詞によって表現された《表現可能なもの》を一つの出来事として表象することができるのである。 (p.165)

    • 「動詞的表象」*2。 これは、たんなる論理学とセットの「対象の表象」に対比される。


 私は、私の目の前にいるある人がロボット(=個体)でないことをわかっている。というのは、私は、たとえどんなに短い間でも、その個体の顔の表清やその身体的振る舞いと同時に、個体化しか表現することのできないような種子的動詞体とその表現をそこから感じとることができるからである。

 それに対してまったくの個体は、例えば、軍隊の行進のごとく、身体や精神のノイズなどどこにもないかのように、「等質的拍節」によって歩んでいくような物の状態である。最初から軍隊の成員に個体化など必要ないのであり、軍隊の構成者が実際には個体化する各個の人間であったとしても、彼らを軍隊に関するあらゆる歩みの構成者だと考える限り、彼らを個体(=ロボット)と見なさなければならない(彼らには、もっとも崇高な個体化、裏切り者の兵士になることが可能であるにもかかわらず)。

 何故そうなるのかというと、軍隊の歩みに望まれるのは、個体の身体だけが産出するような、またその秩序と制度をひたすら維持するような等質的動詞体、つまり名詞的動体であって、個体化の属性が表現する異質の身体ではないからである。 (pp.210-211)

    • 種子的動詞体 ⇔ 等質的動詞体》。 《個体化 ⇔ 個体》
    • 「個体」として、一般名詞に還元される人々。 これを自分や誰かに行うのが《差別》だ(参照)。 ここで江川氏がやっているのは、差別問題に取り組むための原理論でもある。


以上をふまえて、エミール・ブレイエの記述:

 一つの解決策が残っていたが、それは述語の本性をまったく異なった仕方で検討することであった。何人かのメガラ学徒は、繋辞《である》を用いて、彼らの習慣的な形式のもとで判断を言明するのを拒否していたことが知られている。彼らは、「樹木は緑である」ではなく、「樹木は緑になる」と言わなければならない、と考えていたのである。

 どのようにこれが述定作用の問題の解決であったのかは、ストア派の人々がわれわれに理解させてくれる事柄である。繋辞《である》を無視し、主語を動詞――ここに付加形容詞的な属辞(参照)が目立っておかれることはない――によって表現するとき、まったくの動詞として考えられた属辞は、もはや概念(対象あるいは対象のクラス)としてではなく、もっぱら事実あるいは出来事を表現するものとして現われるのである。


 したがって、命題は、本性上、不可入的な二つの対象の相互可入性をもはや要求しない。命題は、対象が働きをなしたり働きを受けたりする限りで、その対象の特定の側面を表現するだけである。しかし、こういう側面はその対象を充たす一つの実在的本性、一つの存在ではなく、その対象の能動性の、あるいはその対象に対する別の対象の能動性の帰結そのものたる《活動=行為》なのである。命題の内容、すなわち命題によって意味されるものは、したがって、けっして対象でもなければ、諸々の対象の関係でもない。


 ここから、ストア派の人々が動詞を含む命題しか受け入れないことがわかる。つまり、彼らにとって述語と繋辞は、動詞において一つになるということである。これによって、彼らが排除するすべての判断、つまり属辞がその主語の実在的な特質を指示し、また諸概念の間の関係を指示するようなすべての判断が理解される。

 判断における表現されるものとは、《物体が熱い》というような特質ではなく、《物体が熱くなる》というような出来事である。属辞を分類する際に、ストア派の人々は、アリストテレスのように、多かれ少なかれ本質的でもあれば偶然的でもあるような、属辞と主語の関係の仕方によって、それら属辞を区別するようなことはしない。彼らが区別したいのは、その分類において出来事が表現されうる多様な仕方だけである。


それゆえ、彼らの分類は動詞に関する文法上の分類と同一でさえある。

  • まず第一に、《完全述語》、つまり主語の行為を指示する人称動詞(ソクラテスは散歩する)と、《不完全述語》、つまり非人称動詞(ソクラテスに後悔の念が生じる)が区別される。
  • 他方では、動詞と働きを受ける補語から合成された《直格的な述語〔能動形の動詞〕》、受動形の動詞たる《受動形の述語》、そしてこの述語における《再帰的述語》(再帰動詞)、
  • 最後に直格的でも受動的でもない述語〔自動詞〕が区別される。 (pp.38-40)



動詞的な当事者――《当事化》

「べてるの家」の「当事者研究」は、向谷地生良氏の出発点が認知行動療法*3にあることなど、私の参照するフランス系の議論との対比が気になっています。


いわゆる「ポストモダン」がどうにもならないとされるなか、日本の《当事者》概念も、

 認知行動療法 + 分析哲学 + 社会学

に、席巻されるでしょうか。


現時点では差異も目立つものの、「当事者研究」は、「研究」に力点を置いて理解すれば、動詞的な議論でもあるはずなので、議論は続けられるはずだと思っています。7月13日のシンポでは、こうした点にも触れるつもりです。



*1:本エントリ内のリンクや強調、段落分け等の整理は、全てブログ主のアレンジ。

*2:ドゥルーズ『意味の論理学 下』p.124〜。 同箇所が江川隆男氏に訳された『初期ストア哲学における非物体的なものの理論―附:江川隆男「出来事と自然哲学 非歴史性のストア主義について」 (シリーズ・古典転生)』「注43」のほうが分かりやすい。

*3:Cognitive behavioral therapy、略して「CBT」。 引用:《当事者研究というアプローチは、長年の私自身のソーシャルワーカーとしての実践の一つの到達点である。そして、独りよがりの理解ではあるが、その経験を根拠づけてくれたのが「認知・ヒューマニスティック・アプローチ」であり、その世界への突破口を開いたのがSST(Social Skills Training)であり、CBT(Cognitive Behavioral Therapy)なのである。》(『統合失調症を持つ人への援助論』 まえがき

2013-05-20 公開シンポジウム 「ひきこもりの現在・過去・未来」(7月13日) このエントリーを含むブックマーク

イベント詳細(PDF注意)  入場無料・予約不要

  • 【日時】: 2013年 7月13日(土) 13 時30分〜18時
  • 【場所】: 京都大学 人文科学研究所 1F セミナー室 1


【趣旨説明】 13:30 〜 13:40


パネル I: ひきこもりの現在――何が問われるべきか 13:40 〜 15:40

  • パネリスト:
    • 上山和樹*1(精神保健福祉士) 論題:《当事者、運動体、アカデミズム》
    • 古橋忠晃(精神科医、名古屋大学) 論題:《「ひきこもり」の人の立てた問い》

 「ひきこもり」問題の歴史的経緯、その社会文化的背景、それへの制度的取り組みを踏まえ、今日「ひきこもり」について真に語るべきことは何か、いかなる問いが立てられるべきかを語り合う


【Coffee Break】 15:40 〜 16:00


パネルII: 学校とは何か――不登校からみた「学校」 16:00 〜 18:00

  • パネリスト:
    • 磯村大(精神科医、金杉クリニック) 論題:《不登校と医療―「学校」と精神医学、Extimité としての学校制度》
    • ニコラ・タジャン(トゥールーズ第 2 大学、日本学術振興会特別研究員)参照 論題:《フランスにおける学校中退の予防 La prévention du décrochage scolaire en France》

 臨床的かつ社会的概念として、また多くの当事者の経歴において、「ひきこもり」のいわば前史である「不登校」に焦点を絞り、なぜ学校での挫折がひきこもりにつながりやすいのか、そもそも学校とはいかなる場であるのか、について考える(※セッション II は随時フランス語を交えて進めます)


    • ★司会: 立木康介(京都大学人文科学研究所)


*1:このブログの管理人です

2013-05-15 超人として働くとは、どういうことか? このエントリーを含むブックマーク

原理的な励ましを得ました。

支援論の基本図書としたいぐらい。


超人の倫理 ---〈哲学すること〉入門 (河出ブックス)

超人の倫理 ---〈哲学すること〉入門 (河出ブックス)


 現代においても意志や自由意志によってさまざまな問題の解決や事柄の転回を求めることは、実際には神学者の言い分と同類だということです。(同書p.175)

ニート・ひきこもり問題の論点そのものです。

精神主義的な自己責任論と同じく、

たんなる「自由意志尊重」も、基本的な前提がおかしい。


以下、本書「結論にかえて」より(強調は全て引用者):

 超人の倫理は、個人よりも個人に、個体より個人に、主体よりも主体に関わるような作用がありました。それは、言わば秘めやかな「倒錯的な趣味」であるといえるでしょう。 〔…〕

 ニーチェは、こうした「個人化」を「もっとも個人的な手段を用いての試み」だと言っていました。この「もっとも個人的」とは、個々の人間としての「個別的」ではなく、〈このもの〉としての「特異な」を意味していることは、もうおわかりでしょう。

 ドゥルーズは、ニーチェのこうした「倒錯的な趣味」について述べています。

    • ニーチェに他の哲学者たちと同じ扱いをうけさせるのは不可能である。……ニーチェは、君たちに一つの倒錯的な趣味をもたらしたのだ(マルクスもフロイトも、こうした趣味をけっして誰にももたらすことがなかった、それとは逆なのだ)。つまり、この趣味とは、各人が自己自身の名において単純なことを述べ、情動、強度、体験、実験によって語るということである。ところが、自己〈自身の名〉(propre nom)において或ることを述べるというのは、実に奇妙なことである。というのも、人が自らの名において語るのは、自らを一個の自我、一個の人格、一個の主体だとみなすような瞬間ではけっしてないからである。それとは逆で、この上もなく過酷な脱人称化=脱人格化(dépersonnalisation)の修練の果てに、一個人が真の〈固有名〉(nom propre)を獲得するに至るのは、個人を突き抜ける諸々の多様性と、その個人を経巡る諸々の強度に向かって自らを開くときなのだ。(ドゥルーズ『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』pp.18-19)


 一個の自我、一個の人格、一個の主体を前提とした「自己自身の名」のもとに何かを語ることが問題なのではありません。そうではなく、自身の名を固有名にするには、その個人の特異性であり、また、「もっとも個人的な手段を用いての試み」によって個人化することです。

 真の固有名は、個人における超人への個人化のうちにしかないということです。

 それこそが、一個人が過酷な脱人称化=脱人格化の果てに獲得できるような固有名なのです。それは、真に超人の名なのではないでしょうか。そして、超人の名とは、何よりも超人が有している動詞の名のことです。そして、それがまさにその固有名となるのです。

 要するに、この場合の名とは、命名されたものでも、与えられたしるしでもなく、特異性の表現そのもののことです。 (『超人の倫理 ---〈哲学すること〉入門 (河出ブックス)』pp.205-207)


本書で江川氏がいう

    • 道徳ではなく、倫理作用
    • 個人ではなく個人化
    • 動詞としての《超人》

――これは、私が動詞形で《当事化》と論じる話に、そのまま重なります。*1


ではそこで、動詞形で生きられる超人は、

資本制でしかあり得ないこの社会で、何を意味するでしょう。


これを考えない就労支援は、たんなる「従軍支援」に重なるか、

さもなくば不当な「特別扱い」になってしまうか。*2


私は、「人間が人間を支援する」ことに興味が持てません。

超人に向かいたいし、誰かの超人化をサポートしたい。

本書を読んでいて、それに気づきました。



*1:もちろん、ラボルド病院の「制度分析」、ドゥルーズ/グァタリの「schizo-analyse」が、直接関係しています。

*2:この両極は、考え方の前提が同じです。個人をプロセスではなく、個物と見ている。

2013-05-13 このエントリーを含むブックマーク

江川隆男『超人の倫理 ---〈哲学すること〉入門 (河出ブックス)』を読んでいて(これは名著!)、

 解釈学と記号学は不倶戴天の敵同士*1

 l'herméneutique et la sémiologie sont deux farouches ennemies.

というフーコーの言葉を、逆に理解していたことに気づいた。

解釈学(≒遠近法主義)と、それによる「ざわめき」こそ必要なんだ。


私はまだ、記号論(sémiotique)、記号学(sémiologie)、解釈学(herméneutique)の関係が、掴みきれていない。これは、ドゥルーズ/グァタリがパース/イェルムスレウを評価していることに結びつくはず。


当事化論を先に進めるチャンスかもしれない。



2013-05-07 いわゆる当事者発言は「仕事」か このエントリーを含むブックマーク

私はずっと、自分の仕事への評価が低い――というよりは、そもそも私のやっているのは「仕事ではない」という扱いに悩まされてきたが、


自分の事情を内在的・分析的に話すのを嫌がる人が、

そういう努力を仕事という枠組みで理解するはずがない。*1


今さらと言われそうだが、ようやくそれに気づいた。


彼らにとっては私がやってきたのは《当事者発言》という、彼らの「仕事」とは別の何かであって*2、「仕事」をやりたければ彼らと同じやり方をしろ*3、ということなんだろう。


私のほうは、内在的な試行錯誤をこそ《仕事》と考えていて、

だから必要な話をすると、それはいつの間にか彼らの言うところの「仕事」にならず、

自分を棚に上げて無責任なことを言うのが「業績」になる状況そのものへの苛立ちを募らせていた。


たんに「当事者発言」するのではなく、

 当事者発言とされる努力が何であるか、どういう前提に乗っかっているか

を内在的に考え直すこと。これが必要な仕事だ。

ベタにある「仕事」をするのではなく、

 それが何を目指しているか、何をすることになってしまっているか

を考え直すこと*4――そこでしか取り組めない問題構造がある。*5


ところがこの呼びかけは、

  • 単に「当事者発言」でポジションを作ろうという人たちからも、
  • そういう枠組みで支援をしようという人たちからも、

黙殺されてしまう。問い直しは基本的に、思い込まれた仕事のナルシシズムを毀損するのだ。私はその問い直しをこそ《仕事》とし、かつ集団や主観性の技法としてすら提案している。


《当事者》と言われるポジションに居直るのではなく、

そのポジションの機能の仕方を「考え直す」こと

――こっちに必要な仕事があるという理解を共有できるかたは、いまだ極端に少ない*6。この仕事が必要であることの必然性が、理解されていない。


私は、《名詞形で「当事者」と名乗り・名指される》という、その体験そのものの当事者研究に入り込んだともいえる。これは、たんに名詞形「当事者」に居直ることではない。*7

病名等のカテゴリーにベタに居直る「当事者研究」ではなく、

そういう言葉づかいで巻き込まれることがどういう事情にあるか――既存の《仕事》のフォーマットを内在的に分析し、やり直そうとする生成。名詞形で居直るだけなら仕事ではないが*8、この生成には確かに《仕事》がある。


ただし、それをどう評価してよいかの分かりやすい基準がない。そしてこれは、名詞形「当事者」でレッテルを得た人だけの仕事ではない。


名詞形に基づいた、《居直り⇔アリバイ作り》のカップリングではなく、

内在的な《生成》が仕事として評価される環境作りが要る。



*1:アリバイ作りが仕事だと思い込んだ人にとって、内部告発は仕事ではない。

*2:昆虫のように「観察対象」にされること。透明のプラスチック・ケースに飼われたアリが、巣を作るのを眺められるような。

*3:自分の話を一切せず、既存フォーマットで「観察する」側の努力。ひきこもり経験者の「仕事」で評価されるのは、ふつうの賃労働と、あとは支援団体等で「わかりやすい支援」をやるケースのみだ。

*4:「解釈学と記号学は不倶戴天の敵同士(l'herméneutique et la sémiologie sont deux farouches ennemies.)」というフーコーの言葉を思い出すなら(Nietzsche, Freud, Marx)、私はここで、解釈学のファシズムに抵抗する記号学――グァタリを参照するなら、パース/イェルムスレウ的な記号論――の側にいるはずだ(参照)。名詞形「当事者」論は解釈学の側にあり、動詞形《当事化》論は記号論の側にある。→これ、完全に逆であることに気づいた。記号論(sémiotique)、記号学(sémiologie)、解釈学(herméneutique)の関係について、考えなおさないといけない。ドゥルーズ/グァタリが記号論(「sémiotique」であって、フーコーの挙げた「signe/sémiologie」ではない)にこだわる理由にかかわって、理解を先に進めるチャンスかもしれない。(2013年5月13日追記)

*5:社会的ひきこもりはとりわけそういう問題であり、かつこれは、単に「社会的ひきこもり」と恣意的に区切られた問題フレームに限定されるモチーフではない。

*6:その意味でマイノリティ状態にある。名詞形で区切られるマイノリティではなく、いわば動詞としてのマイノリティ

*7病名を得た誰かをベタに「当事者」と名指す方針は、じつは権威主義と馴染みやすい。なごやかな「当事者尊重」は、権威への問い直しを必ずしも含まない。名詞形当事者論は、自分のフォーマットを分析しない。

*8:名詞形「当事者」概念で特権的ポジションを得て、あとは世間的な「仕事」をやるだけ――これがありがちな姿だ。

2013-05-04 「国際霊柩送還士」、木村利惠氏のお話から このエントリーを含むブックマーク

出演されていた木村利惠(きむら・りえ)*1のお話が鮮烈だった。

部分的に文字化しておく。

「国際霊柩送還士」の仕事は、大きく分けて二つ。

 (1)遺体の輸送に関する複雑な手続きを代行

 (2)エンバーミング(遺体の防腐・修復作業)

 木村:「ご遺体が国境を越えるということは、簡単なことではない」

海外で1年間に亡くなる日本人(日本国籍を有している人)

 事故・病気を含めて 1,613人(厚労省の2012年のデータ)*2

  • 海外で逝去 → 飛行機での帰国時には、貨物扱い(特別貨物)
  • 費用は国の事情で異なるが、約50万〜300万円(日本に到着するまでの金額)。
  • さまざまな国をまたぐ貨物専用機では、《離陸→着陸》のたびに気圧が変化し、ご遺体の状態が悪化してしまう*3。それゆえ、よほどの事情がない限り、ご遺体は旅客便の、それも直行便を使う。

航空規定に基づき、特別な手続きを行なう。

  • 物がいっさい表に出ないよう、木製の棺の中に鉄板を入れ、溶接まで要求する国もある。
  • 「この棺の中にはご遺体以外は何も入っていない」という、厳重な封印など。

遺体への扱いは、国によってさまざま

  • 日本では、多くは病院の霊安室で家族が対面する。
  • よく外国の映画で、モルグ(死体安置所)に巨大な冷蔵庫があり、ズラッと引き出しが並んでいる。中に遺体が収納してあって、シーツをかけてあるだけ――という場面がある。
  • 冷蔵庫のような施設すらない国では、帰国まで「そのまま」ということすらあり、遺体の状態はどんどん悪化する。

腐敗が進んだりすることのないよう、エンバーミング(遺体保存)

 防腐する手段の一つとして、商業エンバーミングがある。血液を抜いて、代わりに防腐剤の薬液を入れる。



印象的だったお話

木村利惠: エンバーミングではなく、できるだけ今の姿で、家族の元へ連れて行きたいという思いがある。いろいろの不具合(遺体の損傷など)があるものを、お体をケアすることによって、なんとか魂を戻してあげて、ご家族の元に連れて行ってあげたい。

池上彰: 俗に言う「死に化粧」というものでしょうか。

木村: はい。我々はできるだけ、汚れたお体をきれいにして、ご機嫌を直してあげて、なおかつ、生前の面影、ほんとうに「行ってきます」と言ったときの顔に戻してあげたい。その思いで私たちは、死に化粧と言われているものを、やらせていただいてます。

池上彰: 「生前の顔にする」って、何がポイントですか?

木村利惠: やはりご本人には、それなりのお顔の表情ってありますよね。苦しい思いをしてご逝去された方は、やはり苦しい顔をしています。だけど、やはり皆さん、安らかな顔に戻してあげる。これが我々の経験上、いちばんご本人にとって、生前に戻る顔になる。 〔…〕 私たちは、ただ日本で口をあけて待っているだけではなくて、その人が亡くなったと思った瞬間、その人が亡くなった国にまで魂を掴みに行くっていう、そういう思いで仕事をしてます。

〔出演者たち、感嘆して「ハーッ…」という深い溜め息〕

池上彰: 遺体は魂が抜けているはずなのに、その魂を戻すんだ、というお仕事。

木村利惠: はい、その通りです。

〔仕事にまつわる様々なトラブルやエピソードの紹介を挟んで〕*4

池上彰: これまでで、最も大変だったことは何でしょう?

木村利惠: 私たちはプロなので、決して、…大変だったと思うことって、そうそうはないんですけれども、 〔後略〕

池上彰: なぜそこまでされるんでしょうか。

木村利惠: もし池上さんが、私の知識技術ノウハウを持っていたら、なんとか、本人のため、ご家族のためにしてあげたいと思いませんか?

池上彰: そりゃそうですよね。知識や技術があったら、役立ちたいですよね。

木村利惠: そうですよね。ですから私たちは、家族が、またご本人の尊厳を尊重して、本当に向き合って悲しんでもらうために、それだけのためにやってます。

池上彰: あの、ちょっと待ってください。「悲しんでもらうために」やってるんですか?

木村利惠: そうです。

池上彰: 悲しみを癒してあげるのではなくて、悲しんでもらうために。

木村利惠: しっかり悲しむということは、死を受け入れるっていうことです。それがないと、家族は前に進めないんですよ。

池上彰: しっかり悲しんでこそ、やがて時間によって死を受け入れるようになる。

木村利惠: そういうふうに私は思っています。「機嫌の悪かった〔損傷の激しかった〕主人を、よくここまで直してくれた」、「これだったら親戚みんなに会わせて、最後にお別れが言える」――そのときの家族って、笑顔が出るんですよ、泣きながら。それが私は、死に対して家族があらためて向き合える瞬間だと思ってます。ですから私は、微力ですけれども、そういったお手伝いを、胸を張ってさせて頂いてます。



【感想】: 死と生の間にあるお仕事

木村氏の語られた信念は、「オリジナル」というようなものではないかもしれない。しかし、実際にご遺体に接して勝負しておられることで、宗教家や哲学者・芸術家などに(本来なら)要求されるような、腰の据わった凄みを感じた。――逆にいうと、日常のどこを向いても、死との接点は隠蔽されている。


感銘を受けたのは、

  • 「技術的に処理される死」の専門家ではなく、喪の作業の援助職であること。
  • 耐えられないものを「耐えられるように変える」仕事ではなく、耐えられないものをそのまま受け入れるのを助ける仕事であること。

「勝利する」のとは別の、職業上のミッションを感じた。


私は、現象経験が外傷的でしかない事実を、どうしても受け入れられずに来た。それが私にとって、最も基本的な思想経験であり、それを無視して別のモチーフに従事するのは、絶対に許されてはならない、欲望の譲歩であり、逸脱である――この囚われから、今も抜け出せずにいる。


もし、経験の外傷性が*5――ということは、私たちが日常的に接している――有限な身体たる「ひと」に変えられない性質なら、*6


むしろ私の倫理は、《死から眼をそむけないこと》、

死と生のあいだに入り込んで誤魔化さない努力にある。


いつ何が起こるかわからない、起こったことは変えられない――ヒトも世界も初期設定を変えられない、にもかかわらずそれが「耐えられない」なら、そこから眼をそむけないという以外に、どんな選択肢があり得るだろう。



関連:第10回 開高健ノンフィクション賞

私はまだ読んでいませんが、木村利惠氏を取り上げた作品のようです。

上が紙の書籍、下が Kindle 版。

エンジェルフライト 国際霊柩送還士

エンジェルフライト 国際霊柩送還士



*1:「エアハース・インターナショナル(株)」社長

*2:ニュースになるようなケースはごく一部で、多くは病気や交通事故等で亡くなっている。

*3:生体の私たちだと鼓膜がツーンとくるが、ご遺体ではその調節ができないため、耳や鼻から体液が漏れたりする。

*4:遺体の腹部が、あり得ないほど凹んだケースがあり、《臓器移植のために訪れた外国で、手術が失敗して死去 → 勝手に健康な臓器を抜き取られ、その国の移植に回された可能性が》――という、おぞましい推測が語られていた。

*5:「超越論的な経験論」というドゥルーズのモチーフは、超越論そのものが死の射程圏外には出られないという事実にかかわる。(「死の射程圏内」という表現は、どこかでジョルジュ・バタイユがしていた。)

*6:ふつうに考えれば、この問い自体がバカげているはず。この現象世界は、人の努力に根底的に無頓着であり、いわばそれを裏切っている。どんな物理学も、「物質」を操作することはあっても、「現実」に触ることはできない。

2013-05-01 レヴィナスの動詞論 このエントリーを含むブックマーク

私は、名詞形の「当事者」概念に疑念を持ち(参照)、

なんとかそれを動詞形で扱えないかと試みているのですが、

「レヴィナスが、《名詞ではなく動詞を》という話をしている」

というご教示をいただきました(参照)。


ネット上に引用されていたレヴィナスの文章:*1

 ...de l’apparition même d’un existant, d’un substantif au sein de cette existence impersonnelle que – à parler rigoureusement, on ne peut nommer, car elle est pur verbe. 〔…〕

 ...la fonction du verbe ne consiste pas à nommer, mais à produire le langage, c’est-à-dire à apporter des germes de la poésie qui bouleverse les "existants" dans leur position et dans leur positivité même.

敷衍的な拙訳:

 ....実存者のまさに出現、この非人称の実存のさなかでの、実体に対応する品詞――厳密に言えば、この非人称の実存は、名付けることができない。それは純粋な動詞だからだ。

 ....動詞の機能は、名付けることにあるのではなく、言語を生み出すことに、つまり詩の萌芽をもたらすことにある。その詩の萌芽というのは、ポジションと積極性そのものの内にある《実存者たち》を、ひっくり返す。

動詞として描かれた実存では、

能動/受動、自動/他動 が微妙。


同箇所の邦訳にあたる『実存から実存者へ (ポストモダン叢書)*2では:

 問題は、それよりはるかに一般的なある事態、すなわち実存者の出現、非人称の実存のさなかにおける実詞の出現そのものの意味を見定めることである。この非人称の実存は、純粋な動詞である以上、厳密に言えば名づけることはできない。動詞とは、名詞がものの名前であるように、行為の名前であるだけではない。動詞の機能は、名づけることにあるのではなく、言語を産出することにある。つまりそれは、定位され、定位性そのもののうちにある〈実存者たち〉をその定位において、またその定位性そのものにおいて震撼させる詩の萌芽をもたらすものなのだ。 (pp.134-135)

「実詞」「定位」などの言葉が分かりにくいままでしたが、

当事者概念の文脈で考え直すことができるように思います。


レヴィナスがこの動詞論をどう扱ったか

さらに調べてみるつもりです。

関連文献や詳細な言及箇所をご存じの方は、ご教示いただければ幸いです。



『われわれのあいだで』より

今後の掘り下げに向けて、気づいた箇所をいくつか。

 私の出発点となるのは動詞としての存在である。事物や生体や人間の個人といった「存在者」でもなければ、なんらかの仕方でそれらすべてを包摂する自然の総体でもない。

 私の出発点となるのは動詞としての存在である*3。いうなれば、存在するというプロセスとして、存在するという出来事ないしは冒険として、存在が捉えられるのである。 (p.2)

 偶然性ならびに事実性を知解に委ねられた事実としてではなく、知解という活動そのものとして捉える可能性。粗野な事実のうちに、所与と化した内容のうちに、了解することの他動詞性ならびに「意味志向」を見出す可能性。

 ハイデガーは、フッサールによって見いだされたこの可能性を存在一般についての知解に結びつけたのだったが、これこそが現代の存在論のまったき新しさである。してみれば、存在了解は観照的態度のみならず、人間の行動のすべてを想定していることになる。人間はそのすべてが存在論なのだ。 (p.6)

 私は自分の肖像画のごときもののうちに閉じ込められている。論敵の議論を攻撃する代わりに、論敵の肖像画を描くことが現代の論争の本質的特徴である。『パイドロス (岩波文庫)』においてすでにプラトンが戒めていた文献考証は、語る者を前にして「彼は誰か」、「彼はどこの出か」とだけ自問するのだが、他者の話や行為を沈黙した不動のイメージに還元する画家の技法がさらにそこに付け加わる。 (p.36)

 アリストテレスの形而上学以来、実体は存在の究極的で、かつ内密な構造を描くものであった。実体は「存在の類比」の終着点なのである。実体は恒常性や固体性の観念を単にもたらすだけではない。それはまた、経験を「一点に集中させ」、属性や行動を支配するものでもある。存在は思考によって主題化可能なものであり、この意味において存在は認知され把持されうるものである。「何」ないし「誰」という問いによって、私たちは存在に接近する。この問いに対しては、名詞が答える。実体とは実詞である。

 実体主義の告発、関係への実体の還元、諸事物と人間との分離――精密科学と人間科学との飛躍が可能ならしめたこのような新しさも、実詞の論理的かつ文法的な優位を揺るがしはしなかった。これとは逆に、表象から解放された情動的経験の顕揚という近代思想の動きは、もはや実詞的なものをなにひとつ有さない存在の構造の幕開きとなった。動詞によって表現される行動や、副詞によって表されるいかにしてのほうが名詞に先だっているのだ。

 たとえば、ハイデガーやハイデガーの信奉者たちにあっては、存在は存在するものではなく存在するものの存在である。存在は、その現在分詞たる存在するものを開示する「薄暗い光」の源泉である。一切の存在するものの条件、最初に開示されるこの条件は一個の存在するものではない。諸存在者は「世界」のうちに現れるが、この「世界」は、実詞によって表現されうる個別的な諸存在者の総体ではなく、場であり雰囲気である。近代の小説もそれなりの仕方でかかる世界をめざしているし、近代絵画も形をなさない現実のうちに諸事物を浸そうとしている。 (pp.64-65)

 未開の心性においては、実存者としての主体ならびに能動的で他動的な動詞としての存在することが姿を現す。未開人にとっての世界は決して所与ではなく、ある匿名の界域のごときものであって、それは、主体によってはいまだ引き受けられざる実存の不安におののく匿名態にはるかに近いものなのである。 (p.70)

 古典的な心理学においては、実存はごく当たり前のことのように実存者によって所有されており、表象を媒介とした、諸存在者としての確執や争いしかそこでは起こらないのだが、これとは逆に、実存の哲学は存在への「表象に先だつ」関与を一個のドラマとして捉えている。かかる関与においては、実存することは「取る」「掴む」のような他動詞であると同時に、「感じられる、自分を感じる」(se sentir)、「位置する、自分を支える」(se tenir)のような代名動詞でもある。

 こうした動詞によって言い表される反省ないし反射は観照的なヴィジョンではなく、すでにして実存するという出来事そのものである。それは意識ではなく、すでにして関与であり、存在することの様式であって、この様式は装飾とも呼びたくなるようなありとあらゆる情勢によって質的に規定されているのだ。 (pp.72-73)

 本来性は、人種と剣の意志であるような、自由な存在可能性の雄々しさなのでしょうか。それとも逆に、存在するというこの動詞は現存在のなかで、《無関心ではありえないこと》を、他なるものによる強迫を、平和の探求と平和への誓いを意味しているのではないでしょうか。 (p.274)

 ベルクソン主義もまた、他ならぬ持続の具体性のなかで、存在という語の動詞的意味をそれなりの仕方で際立たせているのではないでしょうか。 (p.275)

 問題になるのは存在論の営みと言説です。この企ては、人間のかの「好奇心」がなにかのきっかけで唆された場合に生み出されたり表明されたりしたかもしれぬような知の試みではありません。また、宇宙を、すなわち事物、生物、関係、観念、存在するすべてのものの全体性を把握しようとする野心でもないのです。そうではなく存在論とは、動詞的な意味で存在を知解しようとする際の第一義的な根拠なのです。

 みなさんもご存じのことでしょうが、この存在するという語は動詞のなかではもっともよく了解されたものでありながらもっとも定義不能な動詞でもあるのです。存在という語の動詞的意味が表しているのは、出来事あるいは冒険あるいは行い〔武勲〕としての存在です。存在するという動詞の文法的形態のもとでは、知解可能なものはまるで我が家のなかにいるかのように住み着いているのです。

 しかし厳密に言えば、知解可能なものは行為や運動や物語や出来事や冒険を意味しているのではありません。だからと言って、それは永遠性が有する点のごとき安定性と混じり合うこともありません。なぜなら安定性は不動なものであって、存在するという動詞の「可知的な秘密」とはすでにまったく異なるものであるからです。この「秘密」は、実詞的なものや存在者を照らし出す光のもとでは失われてしまいます。

 『存在と時間(一) (岩波文庫)』に従ってこの動詞を了解するならば、その了解は論理的操作に帰着することはありません。そこでは、意味を了解すること自体、まさにその意味が探求されている当の存在の出来事に属しているのです。冒険に属しているのです。実存すること、現存在、人間の筋立てのうちで結び合わされるという「行い」〔武勲〕、すなわち存在の本質的様態にすでに属しているのです。 (p.276)

 『存在と時間(一) (岩波文庫)』を支配している、存在者と動詞的意味での存在とのあいだの根源的区別。存在という語の動詞的意味のうちには、論理的には空虚とみなすことも可能であったものが孕まれているのですが、そのようなもののロゴスを探求しようとするハイデガーの大胆で力強い思弁。

 この空虚が意味する「出来事」の発見、要するに、『存在と時間(一) (岩波文庫)』の「現象学的構築」に即して言えば、〔…〕 この空虚を起点として思考される時間性および歴史性の発見。

 ハイデガーの実存論的分析の華々しい妙技。人間の本質において何性を遮断し、その本質を実存として、存在の出来事の副詞的様態として理解したこと。意味の有意味性のなかで人間的なものを召還する新しい務め。

――有意味なものへの新しいアプローチであるこうした一切は、私には第一級の重要性を帯びているように思われます。 (pp.278-279)



*1:以下、本エントリ内の引用部分の強調は、すべて引用者による。

*2:公刊直後(80年代終盤)に購入し、それなりに眼を通していたのですが(今回取り上げた箇所には傍線まで引いています)、レヴィナスがこんな話をしていたことは、すっかり忘れていました。今は文庫版『実存から実存者へ (ちくま学芸文庫)』があります。

*3【※引用者注】 直前と同じ文章が繰り返されている。

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