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[語句説明]

2013-08-12 硬直した「当事者尊重」は、理論による疎外の強化にすぎない このエントリーを含むブックマーク

拙エントリについて参照、解題者のお一人である山森裕毅氏から、

反論を含むレスポンスを頂きました。

しかし残念ながら…、

解題に現れていたフレームをそのまま反復するようなご発言で、

私の疑念が、読み取られていません。*1


すれ違いの焦点は、大きく次の二つです。

    • 上山は、語りそのものが前提にしている方針やスタイル(ディスクール)を問題にしているが、山森氏が制度を論じるときには、そうした話にならない。
    • 山森氏は、《スタッフや患者さん》がイコール《現場・当事者》と信じ込んでいて、その理解の構図を、知的良心の拠り所にしている。だからディスクールそのものではなく、「肩書き」の話に終始してしまう。


以下、山森さんの今回のご発言を枠囲いに引用しながら、

コメントを試みます(強調等は引用者)。



疑問点

 現場で働いている方もおり、デイケアの看護師からも意見を聞いています。〔…〕 私だけからは出てこない現場の意見も盛り込んであります。〔…〕 それでも大学人がやった仕事だからダメなのか、解題も書いてはいけないのか。

 そこに現場の意見が潜んでいることを見抜けないのに分析家を気取ることにも問題はありそうだが(分析はもっと情報を収集してやるべきなのではないかなと思う〔…〕)

議論の根幹を間違っています。

現場の人がいようが、患者さん本人が関わっていようが、

私は、「この語りでは困る」と申し上げたのです。――現場スタッフや患者さんがいれば自動的に語りがメタでなくなるという発想そのものが、まったくダメです。


患者さんやスタッフの語りは「ベタなメタ」であり得ますし、

逆に大学教員の語りであっても、制度分析的であり得ます。*2


「看護師だから現場にいる」「大学教員だから現場にいない」という前提を固定し、その上でしか論じないなら、そんな議論は制度論とは何の関係もない――私が興味を向けているのは、そのような意味での制度論です。


教員や学生は、すでに学校という臨床現場にいるし、*3

ひきこもる人でさえ、すでにそうした現場にいる。

そこで「学問言説」のアリバイに逃げるのではなく、

言説のスタイル(ディスクール)がどうなっているか、それが主観性や集団の編成にどう影響しているか、内在的に分析が生じてしまう*4――それを抑圧するのをやめよう、という呼びかけです。


誰がどのような《当事者性》を帯びているかは、じっさいに分析が形になるまでは――分節が生成するまでは――わかりません。私が「当事者」という前提的な名詞形を避け、《当事化》と動詞的に語ろうとしているのは、まさにこのあたりの工夫です。


ここで生きられる分節をこそ、

私はドゥルーズ的な生成と理解していますし、

私が山森さんのドゥルーズ論に疑念を感じつつ示した

《そのつど立ち上がる超越》は、まさにこの話です参照


語りのスタイルも、それが前提にしている構図も、

主観性のありかたや場の雰囲気に、影響してしまっている。


哲学というフレームをあらかじめ決めて、その中で分節をやるのではなくて、――今この場で、その言説の前提や影響関係も無視せずに、理解をやり直すこと。制度分析では、そういうことが問題になっているはずです。


承認や価値の設計図からやり直す形で、

自分にもチャンスが与えられる。*5


抽象的な議論は、具象の外部に超然とあるのではなくて、

抽象的な議論そのものが、すでに具体的な構図を生きてしまっている。


そのことを踏まえながら、その「具体的な構図」とは別のかたちで、分節が生成する――私がジャン・ウリや Félix Guattari に向ける興味は、具象と抽象の特異な絡まりあいに、関係しています。


山森さんは、次のように語っています。

 改変された制度は少なくとも、理論的・思弁的空間でのシミュレーションを経るはずであり、それなしでの実戦投入は現場の混乱が生じるはず。私はこの考えをガタリの抽象機械論から学んだし、ごく普通にどこでも行われていること。


「理論的・思弁的空間でのシミュレーション」、

それを「ガタリの抽象機械論から学んだ」――


Guattari 本人がどういう議論をしているかについては、これからあらためて、検討してまいりましょう。ここで確認したいのは、制度論で検討すべき抽象性は、言葉が分節されるときの身体性とは、別の場所にあるのか、ということです。

ジャン・ウリや Guattari が、そんな安易なメタを素朴に肯定できるような発想でしかないなら、私はそんな議論には、興味が持てません。


理論や分析は、経験的世界や身体性とは無関係の何か

――こんな前提を自明視するなら、

超越論的経験論は、いったい何を論じているのでしょう。


ひきこもる人も、自分のいる場所で制度分析が可能です。その分析が生きる時間は、条理的に区切られた時計時間とは、別のスタイルで生成する。私はそこで生じる時間軸に、重要な臨床的契機を読み取っています。*6


 看護と現象学の関係のことだけで言えば、〔…〕相互で影響を与えあっているという感じか。看護師から得たいものもあるし、看護師も学びたいこともあるという感じ。

「哲学者と看護師が学びあう」というような、

素朴な Win-Win 関係は、認めるべきではありません。なぜならそこで両極は、もともと自分が生きていたスタイルで時間を生きるだけであり、どちらの極の時間についても、分析がなされないからです。それぞれが、「固定されたままの自分」を肯定するために、相手の存在を機会として利用するような格好になる。*7


 Institution研究会は上山さんが脱退してから、メンバーも雰囲気も変わってきております。脱退していくらか経ちますので、批判は慎重にお願いします。そうでないとリアルタイムな制度論的な分析という作業を上山さん自体が裏切っていることになるのではないでしょうか。


私が必要だと感じたスタイルでの制度論は、「Institution研究会」では、許されませんでした。そして、私が脱退せざるを得なくなったいきさつは、今回の問題と重なっています。*8


研究会では、制度「について」というような、自分のことを棚上げしたメタ語りは許されても、研究会じしんの制度論的な実態を分析するような語りは、場所を持つことができなかった。――私はその語り方に苛立っているので、その意味ではつねに、現在の《語り≒制度》を問題にしています。


山森さんの現在の語りは、私が参加できなくなった理由を、

あからさまに体現しています。



積極面

以下は、興味深い視点の示された箇所です。

 研究会の議論のなかで出た話だが、

  • 施設の管理者とスタッフとで異なった制度の理解をしている方がうまく機能する場合がある

という。ここでメンバー内で制度について改めて言説化して意識化して統一してしまうと、むしろ施設の利用者にとって満足いかないものになることがあるとのこと。つまり「制度を論じないこと(あるいは制度についてスタッフには別の理解を与えておくこと)がそれ自体で臨床実務である」場合もある。

ミーティングを一時的に中断すること、

あるいは多角的な分析の混在が、

かえって積極的な効果をもち得る可能性を感じました。


――ただしこの箇所に続く、

 だからこそ、「管理」が問題になる。

は、趣旨がよく分かりませんでした。

ご自分の言説について制度論ができていない状態で、

「管理」という日本語に固執する理由は何でしょう。


ウリの解題で触れておられた話でもありますが、*9

ラボルドを理想郷のように語る議論に「管理」という単語で抵抗しても、制度分析の話にはなりません。


 上山さんによる「臨床実務」がどこまでのことを指すのかが気になる。例えば、今属している集団で採用されている制度を論じて、ただ所属メンバーの意識に上れば、それだけで臨床実務に入るのか。それとも制度を論じることで問題をあぶり出し、制度の改変にまで至ることが臨床実務なのか。

山森さんの議論では、

《論じる》という振る舞いそのものが生きる制度が忘却されている

――これは冒頭で申し上げたとおりです。


私が照準したいのは、

  • あるスタイルの語りを採用することが、それ自体として持ち得る(持ってしまう)効果

です。あるいは逆に言うと、それぞれの語り方については、その機能を限定する必要がある。*10


たとえばフーコーの解説書に、《非思考を可視化することは、自ずと真理のゲームに改編をもたらす》――つまり、「条件を理解した瞬間に、変化は起こっている」という趣旨の説明がありました参照

これはフーコー論だし、ラボルドを論じた文脈ではありませんが、言説までふくむ《条件》を論じることは、すでに体験を別のスタイルに変えている――その《変える》ことをふくむ営みは、すでにして臨床実務となっていないだろうか。


「100%健康なスタッフが、100%異常な患者さんを治す」のではなくて、あるスタイルでの分析を内に含んだ時間が、集団的な臨床実務として生きられる――そういう模索をしています。


そこで、私が制度分析と(あるいは schizo-analyse と)理解しているものが、内在的にどんな機序で《臨床実務》になっていると言えるのか――これは今の時点で、あまり大したことが言えません。

主観性や関係性の「硬直」それ自体がテーマになる苦しさでは*11、制度分析的な語りは、すでにダイレクトに、硬直を解きほぐす活動になっているでしょう。ただその内実や技法については、さらに研究が必要です。



連名解題について

 完成原稿も皆さんの目を通過したものです。三脇先生もその中のひとりですが、彼の目を通り、かつ連名であることを引き受けた限りで、彼の承認を得ているはずであり、その点で三脇先生のこれまでの研究を反映していないということではなく、三脇先生自身もこれを引き受けてこれまでのことではない一歩を踏み出そうとしているともいえるのではないでしょうか。

細部については、また機会があれば、

ご本人を交えて事情を伺ってみたいと存じます。


(自分の意見にまったくそぐわないものに三脇先生くらいの中心的研究者が署名するでしょうか)

状況や関係性によっては、いくらでもあり得ます。

それを考え直すのも、必要な「制度分析」だと思います。

物証や証言を通じて、責任の質や量が、

分節され直す必要があるでしょう(当事化)。



*1:私が問題にしていることは、多くのかたに理解されにくい、決定的なポイントなんだと思います。

*2:そもそも『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』で私が制度分析をご一緒した先生方は、多くが大学関係者です。

*3:精神病に特化した施設だけが、臨床現場なのでしょうか。相互的な《苦痛緩和》が必要であるという観点からは、つねにどこでも、誰でもが、臨床現場そのものです。

*4:中動態は、ここで問題になると理解しています。

*5:制度分析や schizo-analyse を受け止めるなら、たとえば「学会そのものを制度分析的に考え直す」ことだって、あり得ると思います。学会のピラミッドで上に行くことだけを考えてしまうと、そこに制度分析はなく、順応的な発想だけになる(順応がすべて悪いのではなくて、順応「しか」考えないのがまずい)。

*6:ひきこもりについて言うなら、規範的な洗浄強迫に支配された主観性の時間が、別の生産様式を生きるようになる(参照。つまり問題の焦点は、生産過程の時間のスタイルにかかわっています。

*7:知識人は、看護への尊重を通じて、現場性や当事者性への「良心のやましさ」をケアできる。看護師は、哲学言語の習得を通じて、医師の下に見られがちなヒエラルキーとは別の位置付けをもらえる――こういう形で、Win-Win がないでしょうか。▼ここで《知識人》と、看護の向こう側に用意された《大衆≒当事者》という構図は、固定されたままです。看護という装置は、当事者性からの観念的疎外に苦しむ知識人に、贖罪の機会を与えているのではないか――そう考えると、この《知性/現場》の切り分け構図そのものが、最初から間違っていることに気づきます。 参照:「読書ノート:菅原潤『弁証法とイロニー』を読んで色々と・・」(ブログ『外付脳内メモ』)

*8:私が別の集まりで体験したトラブルも、《当事者》という概念枠に関係していました。トラブルの構図そのものが、しつこく反復しているのです。

*9:『現代思想 2013年8月号 特集=看護のチカラ “未来"にかかわるケアのかたち』p.228

*10:自然科学に依拠した語りにも、一定の機能が期待されますが、その語りのフレームで、すべてを尽くすことはできません。同様に、名詞形「当事者」が必要な場面はありますが(行政文書など)、その語りのフレームを、万能視することはできません。

*11:ひきこもりだけでなく、自閉症スペクトラムやうつ病、統合失調症等にも関わるモチーフです。

2013-08-06 解説者の体現する《制度》 このエントリーを含むブックマーク

    • pp.217-229 ジャン・ウリ「看護師の精神療法への参加」

ウリの文章に、触れてみてほしい。

論じることが、臨床の時間と離れていない。

この文章そのものに、「世界との新たな関係の孵化ふかをうながす」(p.218)ところがある。 時計の時間に支配されて固まった時間を、ときほぐすようなこと。


今回のエントリでは、どうしても気になったところを一点だけ。【→※後日の追記的エントリ:「紛争を書き換えることはできるか」】


このウリの論考には、訳者である山森裕毅氏と三脇康生氏による「解題」がついているのだが、――この解題には、ラボルド病院の文脈にある《制度》概念の、キモとも言えるモチーフが感じられない。それどころか、意図的にそのモチーフを排除したような解説になっている。


読者としての私は、10年あまり前に三脇康生氏の仕事に触れたことが、《ラボルドの制度概念》への入り口になった*1。ところがこの連名解題では、三脇氏の論考にくり返し現れる核心的モチーフが、ごっそりなくなっている。「今回は論じない」とか、「あえて批判的に考えてみる」ということですらなくて、この解題は、たんに三脇氏の仕事を知らない人の文章になっている。


具体的に引用してみよう。

上掲『現代思想』pp.226-227 より(強調やリンクは引用者)。

 事の発端は、翻訳者の一人である山森が「臨床実践の現象学研究会」に参加して、精神科デイケアで働く看護師と知り合ったことにある。その方は制度精神療法に関心があるということだったが、おおよそ次のような不満を持っていた。

    • 制度精神療法に関心があって、自分たちの施設で利用可能かどうか勉強している。しかし、日本語で読めるものにはウリやフェリックス・ガタリの思想を中心にしたものばかりで、制度精神療法そのものについて書かれたものは少ない。かといって原典を読むのも難しい。また、制度精神療法のなかで看護師が重要な位置づけを持つとされているが、その理由に関しては明確ではない。どう考えればいいのか…。

 しかしあの看護師はこれでは納得しなかった。なぜだろうか。この疑問点を持って『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』を読み返すならば次の点を指摘できるだろう。この本は制度精神療法の「制度」の考察に重点を置き過ぎ、「精神療法」の側面には深く踏み込んでいない。つまり看護肺が「療法に参加する」ことの必然性と、参加することの治療に対する関連性が、理論的にも実践的にも示しきれていないのである。


私もこの『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』に参加させていただいた一人だが、この本が作られる過程で、くり返し確認されたモチーフが、

    • 制度を論じることと、臨床実務は、分離できない
    • 制度を論じることは、それ自体がすでに、臨床実務である

ということだった。

おそらく今回の解題は、山森裕毅氏が執筆し、それに三脇康生氏が名前を提供したのだろうが、――この連名の内実を聞き取ることが、日本の言説状況をめぐる、《制度》の分析になるかもしれない。



この連名解題には、次のような前提がある。

 理論を考えるのは大学(≒学者)

 現場は病院(≒看護師)

この前提では、

    • 学者は、「病院の制度」を分析することはあっても、自分の大学を分析することはない。アカデミック・サークルの順応者が、雲の上から裁定を下す。
    • 難解な理論を生きる学者はメタであり、病院の制度を対象化する――ここでは、大学人の意識そのものが制度であり、私たちの生活環境に大きく影響する環境要因であるという理解が、まったくない。
    • 理論家は、自分の言説がどういう生態系を前提にしているか、その理論言語が、臨床の時間の流れにどう影響してしまっているかを、考えない(参照)。


ここには、私が興味を寄せてきた形での制度論がない。


引用された看護師のかたの不満は、こうした(制度論のない)言説環境においてこそ、多くの方に共有される。つまり今回の解題は、ラボルド的な制度概念の理解には失敗しているが、《読者の多くが困惑しているポイント》を、(パフォーマティブにも)指摘できている。


この連名解題は、単に答え合わせのように否定すれば良いのではなくて、

まさにこの解題に現れている制度をこそ、分析すべきなのだ。*2



大事なポイントも触れられている。

 つまり看護師の問いは、精神科の看護という制度がいかにして患者の治療に関わるのか、というものである。この問いは、看護師たちが目分たちの振る舞い次第で、ケアがキュア(治療)にもなるという立場を受け止めるかどうかの境界線上にある検証されるべき問いだといえる。 (上掲『現代思想』p.227)


「制度を論じることは、すでに臨床実務である」と言っても、

たしかにその内実は伝わっておらず、また、

研究し尽くされてもいない。


また、論じる努力が、臨床や生活の時間と、いつの間にか乖離してしまう*3――この言説環境での振舞いかたは、あらためて研究されるべきだろう。理論言語を含むプレゼンテーションは、制度論的にメタな世界にいるのではないのだから、振舞い方そのものが、実務上の課題だ。「制度論ができていない」と指摘するだけでは、その指摘そのものが、またメタに鎮座してしまう。*4


ジャン・ウリの半世紀前の文章に取り組んだこの連名解題には、

現在の私たちの抱える問題こそが、体現されている。



【翌日の追記】

ラボルドの臨床を扱ったもう一冊の邦語文献である『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』には、ジャン・ウリのほか、フェリックス・グァタリ、フランソワ・トスケイエスのインタビューも掲載されているが、《ラボルド的な制度概念》の理解が進むまでは、彼らが何を論じているのか、ほとんどまったく理解できない。

つまり、「精神分析や西洋哲学史の知識があれば、大体どのあたりの話をしているかは分かる」といった議論には、なっていない。問われているのは、むしろ頭でっかちの(あるいは単に理念的な)努力の方向性だ。

専門用語の難解さではなく、意識のスタイルそのものを問い直す難しさなので、いちど「何の話をしているか」が分かると、とても日常的な話だと分かる。


つづき:【硬直した「当事者尊重」は、理論による疎外の強化にすぎない


*1:その後の私じしんの疑念については、共著刊行時のエントリほかに記した(参照)。

*2:解題は、単にメタにあるのではない。解題そのものが、分析されるべき(制度論的な)素材だ。

*3:結果として、その都度その場での、リアルタイムの制度論的な分析は、禁止されてしまう。――この問題は、山森裕毅氏のドゥルーズ論にそのまま出ているように思われた(参照)。 同じ問題は、私が発足時に参加した「Institution 研究会」(今回の連名解題末尾に謝辞がある)にも、感じていた。

*4:学術的な論文を書こうとすると、「大学的なディスクール」で書かざるを得ない。それはいつの間にか、優等生的な語りに毒されてしまう――このディスクールそのものが生じさせている問題に取り組むには、どうすればよいだろう。どう振舞うことが、制度を話題にできる環境づくりに繋がるだろう。――プレゼンテーションは、それ自体が、制度論的な研究課題だ。

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