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2013-09-25 「職歴のない40歳以上」が、焦点になりつつある このエントリーを含むブックマーク

1000人に3人ひきこもり 15〜39歳 山形県が初調査(産経ニュース)

 社会的支援の必要性が指摘されている15〜39歳に限ると855人で、1千人のうち3人の割合になるという。

ひきこもり「40代以上半数」(NHK、山形県)

 当初、県は、若者の「ひきこもり」が社会問題になったこともあって15歳から39歳までの比較的若い層を想定していましたが、調査の結果、40歳以上が全体の45%と半数近くを占めていたことが分かりました。


同じ調査に関する記事ですが、

産経は40歳以上を無視しており、

NHKでは逆に、40歳以上が半数近くを占めることが強調されています。*1


社会的ひきこもりについては、

「雇用の口があれば解決する」わけではありません。つまり、

(1)継続的就労を難しくさせる、関係性や意識のトラブルを抱えている

(2)職歴や技能に基づいた就職活動ができない

こうしたいきさつは、高齢になるほど深刻になります。

ハローワークに登録しても、「若者」以上にどうにもならない。


ところがなぜか、

 特別な支援が必要なのは若者だけで、40歳以上は単なる失業者

という前提を、いろんな場所で見かけます。*2


「若者」という言葉や、「39歳以下」という区切りによる政策論議は、すでに実態を読み間違っています。



*1:ひきこもりの調査では、そもそもが「答えにくい」テーマである上に、年齢が上がれば上がるほど、羞恥心は強くなります(規範意識には地域差もあります)。それでこの数字が出ていることに注意すべきです。「最低でもこのくらいは居る」ということでしょう。

*2産経の記事には、「社会的支援の必要性が指摘されている15〜39歳」とあることから、「40歳以上については、単なる失業者と同じ扱いでよい」という判断が働いた可能性はないでしょうか。

2013-09-15 このエントリーを含むブックマーク

あるミーティングで、次のようなことを確認した。

  • (1)不登校や引きこもりについては、最低でもこの25年*1について記憶喪失になった取り組みや議論は、話にならない。
  • (2)臨床/労働/つながり/芸術――こうしたテーマは、そもそも同時にしか扱えない。分けて論じることが前提の状況は、すでに大事な決断を終えた後のすがた。私たちは気づかぬうちに、決断を終えた後のスタイルを反復している。「専門性」の欺瞞。



*1:1988年9月16日の『朝日新聞』夕刊に、稲村博氏のインタビューが掲載された、それ以後の言説や試行錯誤の顛末を知っているかどうか。――もちろんこのインタビューそのものが、当時の文脈から出てきている。

2013-09-14 制度化の受動的時間を肉的にあつかう このエントリーを含むブックマーク

廣瀬浩司氏のツイートより:

最後の部分、

「ああそうか、あのとき」っていうフラッシュバック的な再体験を言語化する生産性

――これは、ラボルド的《制度分析》生成の、受動的性格に重なる。*1


最中には何を体験してしまっているか気づかなかったが、

あとになって「ああ、そうか!」と腑に落ち、強烈な感情が襲ってくる。

その《気づき》は、受動的に沸いてくる。*2


廣瀬氏はこの受動性を核に据えつつ、

「技法」という、意識的ふるまいの用語を持ち出している。

上記引用ツイートの最後の部分をもう一度:

  • 制度化とは、「ああそうか、あのとき」っていう再体験を言語化する生産性。
    • あのときから積み上げられた「生の技法」が制度の媒介だが、
    • 制度化を語る技法がない。

「生の技法」は、媒介、つまり過程にかかわる。

それが「積み上げられる」というのは、表現として分かりにくい。

とはいえ、これは日本語の慣例が、能動と受動を、あるいはここで廣瀬氏が扱おうとしている《制度化》を論じるのに、うまく しつらえられていないことに「も」よるだろう。


制度化を語る技法がないのは、(フランス語や日本語に限らず)言語そのものの限界だろうか。それとも、「今はないが、これからの努力しだい」だろうか。


とりあえず気づくのは、

    • 「生産性」と語られている通り、制度化は動詞的で、労働にかかわる*3。ところがそもそも「制度」概念には、動詞的要因がうまく含まれていない(過剰にスタティックで名詞的)。
    • 「技法」「媒介」には時間の要因があるが、制度概念は、時間をうまく扱えていない。制度化は、イデア的静止画像なしの、時間軸を外せない《生産の動き》であるはず。
    • 制度化においては、超越と内在を安易に切り分けられない。制度化は、単なる超越でも単なる内在でもない。
    • 制度化の時間は、数字に置き換えられない。時間を「肉的に」語る言葉のスタイル(生産様式)が要る。


必要なことを語ろうとするのに、単語や言葉づかいの工夫が不可欠に思える。



*1:ラボルド的制度論の異様な伝わりにくさは、この受動的性格がその一因だと思う。

*2:廣瀬氏は「フラッシュバック」という、思うに任せない受動的体験を表わす言葉を使っている。

*3労働における受動性が、疎外ではなく、むしろ内的必然であり得る――それを形にするのは、ものすごく大変でもあるけれど。ジャン・ウリは「ただ働き」と言っている(参照)。

2013-09-06 紛争を書き換えることはできるか このエントリーを含むブックマーク

私は先日、三脇康生氏と山森裕毅氏の署名入り論考

    • 解題 ラ・ボルド病院における「管理」について問いを開く*1

について、大意 次のような指摘を行いました参照

 私は永らく三脇氏のラボルド論を読んできたが、今回の解題は、氏の論考の核心部分を知らない人の文章になっている。にもかかわらず三脇氏の署名があるのは、名義貸しのような状態なのだろう。

この件について、

執筆者である三脇康生氏と山森裕毅氏に、

メールや面会を通じて、取材をさせていただきました。*2


そこから浮かび上がってきたこと:

  • 名義貸しに相当するような事実関係ではなかった。
  • 「だから単に上山の憶測が間違っていた、よかった良かった」で終わる話でもなかった。


取材を通じて、思いもよらない状況が垣間見えてきました。


複雑に絡み合ってはいるものの、今回のお二人だけでなく、

いろんな場所で目撃されるような経緯(いきさつ)です。*3


私は公けの場で憶測を(つまり疑念を)提起したのですから、

本来なら事実関係の細部を、この場でご報告すべきかもしれません。

しかし今回は、


    • 奇妙な解題に終わってしまったいきさつを、取材できた。
    • 「関係者のあいだでウヤムヤにされた」には終わらなかった。
    • 取材者である私じしんも巻き込む形で、作業を次に繋げることができた。


――以上のご報告をもって、ひとまずの決着にしたいと存じます。


《制度》というモチーフに取り組める状況を作り直すために、

素朴な「公開」は、かえってマイナスになると判断しました。



分析的であることと、それを公開すること

制度への取り組みにおいては、次の2つの問題軸が交錯します。

  • (1)メタ的な言説である ベタな振る舞いである*4
  • (2)隠す 公開する


ベタな振る舞いを分析するときは、「その分析を公開しても良いのか」という葛藤を、つねに味わうでしょう。なぜなら、分析そのものがオブジェクトレベルの営みであり、新しい制度的環境に、影響せざるを得ないからです。「これは学問言説だから(あるいはジャーナリズムだから)」というような、分析そのもののメタな身分を主張することはできない。


ひとまず今回に限っては、

単なる事実関係の「ご報告」は、一時的なカタルシスで終わる。

つまり、かえって《環境≒制度》を固定させかねない。

むしろモチーフとしての《制度》をやり直し、

集団的に作業を共有しなおそう――その可能性を、選択した形です。


これは、作業を継続するという選択であって、

紛争や葛藤そのものが解決したわけではありません。*5



憶測で「名義貸し」と記したことを、お詫び申し上げます。

取材にご協力いただいた三脇さん、山森さん、ありがとうございました。

また、この件での続報をお待ちだった皆さん、

詳細なご報告ができなくて、ごめんなさい。

ここから積極的な展開ができるよう、がんばります。


上山和樹



*1:『現代思想 2013年8月号 特集=看護のチカラ “未来"にかかわるケアのかたち』 pp.226-229 掲載

*2:最初のエントリから一ヶ月ほど、ずっとこの問題にかかわっていました。自分の知らない経緯について「憶測」をやった以上、事実関係を確認し、最低限のご報告をするまで、拙ブログは次に進めないと考えてのことです。

*3:逆に言うと、ケースごとの細部や固有名を無視することはできません。

*4:「ベタにメタな言説」には、おのれのやっていることへの分析がありません。つまりそこでは、メタ言説そのものが、ベタに制度として固定されている。これが前回の指摘でした(参照)。

*5:本エントリのタイトル「紛争を書き換えることはできるか」は、取材中の三脇康生氏の発言をヒントに、私が記したものです。

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