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2014-03-24 『なるにわ』さんの呼びかけから このエントリーを含むブックマーク

全国ひきこもりデー(4月1日)』の呼びかけから考えたこと


●(1)積極的に「ひきこもろう」という呼びかけは、実際のひきこもり状態にあるような《切断》とは、異質のふるまいになる。ストライキは、社会的な意思表示であり、最初から活動的だ。

ストライキに生じている意識や関係の動きと、「やむにやまれず引きこもるしかない」に生じているそれとで、何が違うか。――これは、重要な検証テーマ。*1


●(2)日頃働いている人たちが引きこもるという日に、「いつも閉じこもっている人たち」に任せられることがあるなら素晴らしい。

それまでの経歴から、差別的に「ひきこもり」とレッテルを貼られていても、すでに求職活動を続けていて、むしろ参加や就労のチャンスがないことに苦しんでいるケースだって多いはず。(私もその一人)


●(3)ひきこもろうが、ストライキをしようが、結局は同じ社会に暮らしている。そこで、どういう参加を私たちは「してしまっている」のか。その様式を考える日にしたい。▼意識的に引きこもることは、それ自体が参加の様式だ。《切断》は、じつは決してできない。

いきなり就労はできなくても、《参加のスタイル》を問い直す、その作業を共有できる機会がほしい。そのかたちでの、参加を許してほしい。*2――やむにやまれず引きこもり続ける状況も、それ自体として、ある《参加のスタイル》の継続になっている。



『なるにわ』の趣意書を読んで考えたこと


この社会では、肩書きや属性でレッテルを付けられなければ、そこに居ることすら許されない。→《「なにものか」でなくても、人が居られる場所》は、それだけで救いになり得る。


厄介なのは、

実際に生じる関係においては、肩書きや属性にとどまらない、相互への位置づけ(役の割り振り)が発生している、ということ。「なる」つもりがなくても、割り振られた役割によって、何者かで「いる」ことを強要される。


つまり問題は、

なにものかに《なる》だけではない。

なにものかで《いる》厄介さがある。


何者かに《なる》だけでなく、なにものかで《いる》のプレッシャーも読み取って、そのつど組み換える動きがないと、不自由になりかねない。


たとえば、なるにわに滞在すると、

「団体代表」「大学教員」「○○当事者」、あるいは「男」「女」「××歳」で《いる》ことから、自由になれるだろうか。


たとえば私は、学者やマスコミから取材をいただくときは、「この人は引きこもりの当事者だ」という決め付けの中でしか、言葉を受け取ってもらえない。――それに抵抗すると、激しい怒りを招くことがある。*3

何者かで《いる》こと、それによって場所を確保することには、各人の責任と、欲望と、ナルシシズムが賭けられている。ここは、簡単に降りたり解除したりできない。組み換えるにしても、ていねいかつ慎重に、話題にし直す必要を伴う。*4


たんに《降りる》ことは、それ自体が制度になる。*5

必要なのは、決してやめることのできない参加を、読み取り、組みなおし続けることだ。働くことが、一緒に生きることが、常にすでにそのような作業であったら・・・!



*1:たとえば柄谷行人は、「不登校というのは、一種のボイコットだと思うんですよ」と論じていた(参照)。

*2:そのような問い直しが日常化された職場があったら、こんなに素晴らしいことはない。

*3:《割り振られた肩書き》を問い直そうとする私の問題提起は、斎藤環氏を激怒させた(参照)。ほかの人や環境でも、同様の状況に直面した。

*4:《読み合わせ》という演劇用語を使ったテーマは、まさにこの話だ(参照)。

*5:《降りる》という振る舞いそのものの定番化

2014-03-20 ひきこもることと社会契約 このエントリーを含むブックマーク

ルソー『社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)』より:

 だから純粋に公民的な信仰告白というものが必要なのである。その箇条を定めるのは主権者の役割である。それは厳密に宗教的な教義としてではなく、社会性の感情としてである。この感情なしでは、善き市民でも、忠実な国民でもありえないのである。主権者はそれを信じることを誰にも強制できないが、これを信じない者を国家から追放することはできる。主権者はこの人物を、不信心な人物として追放できるのではない。非社会的な人物として、法と正義を真摯に愛することができない人物として、そして必要とされるときに義務のためにみずからの生命を捧げることのできない人物として、追放できるのである。もしも誰かがこの教義を公式に是認したあとで、あたかもそれを信じていないかのようにふるまったとしたら、その人物は死をもって罰せられるべきである。この人物は最大の罪を犯したのであり、法の前で偽ったのである。(pp.272-273)

原文『Du Contrat Social』の同箇所のより:

 Il y a donc une profession de foi purement civile dont il appartient au souverain de fixer les articles, non pas précisément comme dogmes de religion, mais comme sentiments de sociabilité sans lesquels il est impossible d’être bon citoyen ni sujet fidèle. Sans pouvoir obliger personne à les croire, il peut bannir de l’État quiconque ne les croit pas ; il peut le bannir, non comme impie, mais comme insociable, comme incapable d’aimer sincèrement les lois. la justice, et d’immoler au besoin sa vie à son devoir. Que si quelqu’un, après avoir reconnu publiquement ces mêmes dogmes, se conduit comme ne les croyant pas, qu’il soit puni de mort ; il a commis le plus grand des crimes : il a menti devant les lois.


ひきこもる人の一部は、

「産んでくれと言った覚えはない」「産んだのだから責任とれ」

と言って、自分への扶養義務を親に押し付ける。

しかし、「産んでくれ」と言ってから産み落とされた人は、

そう言われた親を含め、人類史上に一人もいない。*1



産み落とされたことを引き受けることができるか

いつ「引き受けた」ことになるのか――というのは、

契約論の視点から整理しておく必要を感じる。


ルソーは、社会性の教義を受け容れた後になってこれを無視する者は、

「死刑になるべきだ」とまで言っている。では、

    • 何をもって「社会性の教義を受け容れた」と見做すのか。みんな、いつの間にか受け容れたことになっているが、「生まれてきたくなかった」という人は多い。
    • 産み落とされた後に、「こんな生は引き受けられない」と、受け容れ以前の段階で潰れてしまう人については、どう考えるのか。


「産んでくれと言った覚えはない!」と叫ぶ人も、

生き延びさせてもらっているのだから、恩恵を得ている。

→「そんな恩恵より、安楽死の恩恵を」?



本人が引き受けない生は、他のヒトの負担になる

    • 「社会性の感情 sentiments de sociabilité」を受け容れた後に引きこもる人には、死の制裁もやむなしか。*2
    • 自分の生を最初から引き受けられない人は、そもそも契約の中にいないとすれば、どういう理屈をもって社会保障の対象になるだろう。
    • ひきこもる人が「死にたい」というなら(つまり延命よりも安楽死がその人への恩恵なら)、安楽死の施設を用意すべきだろうか――選択肢として。


私は以前オフラインで、「死にたい」と言う人に

 では安楽死できる施設を作るよう、活動しませんか

と呼びかけたが、相手はそれきり黙りこんでしまった。



生まれてしまった人が、本当に死にたいと思っているのか

現実には、単に見捨てられる方向の政治や経済が動いていて、

 サバイバルするには、嘘をついてでも障碍者のポジションをゲットしないと、どうにもならない

と思う人が増えている、と感じる。


家族の援助も社会保障もなければ、自殺か野宿か、犯罪か。


→「単なる社会保障」でも「単なる自己責任」でもないかたちで、

取り組みなおす方向はあり得ないか?



規範/制作/マクロ状況

契約論の視点とは別に、あるいはそれと関連する形で、

    • 主観性そのものが萎縮している(制作過程としての意識の、技法の問題)
    • 「がんばります」と言ったところで、経済の状況がそれを許さない


規範は、技法の一要因

あくまで唯物論的に考えるなら、

規範は技法の一部でしかありえない。


《メタな意味世界》で完結しようとすること、つまり

主観性の過程までを「意味の静止画」に従属させる議論、それしか考えないスタンスは、考えるという作業において転倒している*3。それは、規範的にではなく技法的に間違っている。



*1:産み落とされる直前に、「産まれたいか否か」の意思確認をしてもらえるのが、芥川龍之介の描いた河童の世界だった(参照)。

*2:「ひきこもる奴らを殺したい」という声は、直接間接に何度も聞かされている。

*3:無時間的な意味の静止画を前提にする、「理論」と呼ばれる言説スタイルは、時間を生きる技法の一つにすぎない。

2014-03-18

評価の設計図 評価の設計図を含むブックマーク

武藤香織氏(東大医科学研)執筆の、STAP細胞問題をめぐってより:

 文系の研究者からみますと、生命科学(あるいは理系全般?)の研究者は、論文の「背景」・「目的」に対する思い入れが少なすぎます。この思い入れのなさの原因は、論文のインパクトが「方法」と「結果」であって、「背景」と「目的」にかける執筆労力も、論文全体からみた配点/評価も低く割り当てられているためではないでしょうか。

 個人研究を中心とする文系の研究者にとっては、自分のレゾン・デートル証明のためにも、論文の「背景」「目的」は、極めて重要な執筆過程になります。逆に、文系の研究者の論文は、「方法」部分の記述が全体としてpoorになりやすく、「結果」「考察」の区別をつける必要性は研究領域によっても異なるため、論文が「作品」/「エッセイ」/「論説」になりやすいリスクを秘めていることも指摘しておきます。

2014-03-17 環境の官僚的体質をどうするか――アーサー・クラインマン講演会 このエントリーを含むブックマーク

会場は立ち見が出るほど満員だったが、

講演そのものは、あまり面白いものではなかった。

●医師と患者の関係を「人間的に」

●疑問があったら言葉にしよう

こういったことは、いわば当たり前のイデオロギーであり、

わざわざ時間を割いて聞きに行くようなことではない。


ありきたりな規範的スローガンを、みんなに共有できる形で確認させるのが、有名人の機能かもしれない。――じつは講演そのものにも期待しつつ、クラインマン氏の周囲がどういう事情にあるかをフィールドワークするつもりもあって、講演会に参加した。


「価値に基づく感情」としての感性(sensibility)は、時代とともに変わってゆく――という話が冒頭にあったが、なぜか「人間的」の中身は問われないままだった。質問時間まで含め、人間的でなくなるのは良くない、という話に終始した。「人間的」という価値は変わらないのだろうか。


クラインマン氏の議論は、70年代の反精神医学系論者なら誰でも言ったようなことだ。それがそのまま反復し、その反復に誰も気付いていない――という不気味さ。

立岩真也『造反有理 精神医療現代史へ』では、紛争の肝腎なところに差し掛かると、すべて「ここから先はわからない」になっていた。医療・福祉まわりの言説は、反-精神医学の歴史的経緯を単にトラウマ化してしまい、work through(内在的に消化)できていない。だから、何のひねりもないベタな理念がそのまま復活し、左翼系の(民青のような)センスで合唱され、そのことへの疑念や、ディテールを伴った話が抑圧されてしまう。


大きすぎるPC的スローガンは、ガス抜きとなり、

環境の官僚的体質を補完する。*1

きれいな理念を仲間内で確認しあい、

現状への分析をきわどく展開する話にならない。


たとえば現実には、精神科医を「向精神薬の自動販売機」みたいに考えて、いわゆる人間的対応をウザいと考える患者さんも居る。→「人間的」という言い方でイメージされるものがどういう内実にあるか、そのイデオロギーそのものが新しい監禁になっていないか。


考えるべきは、「理想があってもなぜできないか」「具体的にはどういう方法論が必要か」であるはず。今回の講演は、「心がけがあれば改善できる」みたいな話に終始した。時間があれば具体論になったかもしれないが、いきなりディテールに入って欲しかった。



興味深かったこと

  • 「アメリカの医学部では、1年生よりも4年生のほうが問診がヘタ。勉強すればするほど、患者さんを人間として見れなくなる」(クラインマン氏)
  • 技術化やカテゴリ化の進行による極端な官僚化によって、患者は《自分の病気を奪われている》というモチーフを持つことになる


講演会イベント終了後、精神科医や看護師、音楽療法の研究者などとお話をご一緒したのだが、ここで伺った体験ディテールが、とても勉強になった。たとえば、病院内の人事評価システムについて、など。→評価システムの設計図を変えることが、環境改善の重要な鍵になるはず。



*1:クラインマン氏は、「フロイトやマルクスよりウェーバーが大事」というのだが、ではウェーバーの専門家は官僚的ではないのだろうか。→「論者じしんが、論じるべき問題の一部分であり、加担者」という状況を改善しなければ。そしてそのためには、理念だけを叫んでもうまくいかない。

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