『なるにわ』さんの呼びかけから

全国ひきこもりデー(4月1日)』の呼びかけから考えたこと



●(1)積極的に「ひきこもろう」という呼びかけは、実際のひきこもり状態にあるような《切断》とは、異質のふるまいになる。ストライキは、社会的な意思表示であり、最初から活動的だ。

ストライキに生じている意識や関係の動きと、「やむにやまれず引きこもるしかない」に生じているそれとで、何が違うか。――これは、重要な検証テーマ。*1

●(2)日頃働いている人たちが引きこもるという日に、「いつも閉じこもっている人たち」に任せられることがあるなら素晴らしい。

それまでの経歴から、差別的に「ひきこもり」とレッテルを貼られていても、すでに求職活動を続けていて、むしろ参加や就労のチャンスがないことに苦しんでいるケースだって多いはず。(私もその一人)


●(3)ひきこもろうが、ストライキをしようが、結局は同じ社会に暮らしている。そこで、どういう参加を私たちは「してしまっている」のか。その様式を考える日にしたい。▼意識的に引きこもることは、それ自体が参加の様式だ。《切断》は、じつは決してできない。

いきなり就労はできなくても、《参加のスタイル》を問い直す、その作業を共有できる機会がほしい。そのかたちでの、参加を許してほしい。*2――やむにやまれず引きこもり続ける状況も、それ自体として、ある《参加のスタイル》の継続になっている。



『なるにわ』の趣意書を読んで考えたこと



この社会では、肩書きや属性でレッテルを付けられなければ、そこに居ることすら許されない。→《「なにものか」でなくても、人が居られる場所》は、それだけで救いになり得る。


厄介なのは、
実際に生じる関係においては、肩書きや属性にとどまらない、相互への位置づけ(役の割り振り)が発生している、ということ。「なる」つもりがなくても、割り振られた役割によって、何者かで「いる」ことを強要される。


つまり問題は、
なにものかに《なる》だけではない。
なにものかで《いる》厄介さがある。


何者かに《なる》だけでなく、なにものかで《いる》のプレッシャーも読み取って、そのつど組み換える動きがないと、不自由になりかねない。


たとえば、なるにわに滞在すると、
「団体代表」「大学教員」「○○当事者」、あるいは「男」「女」「××歳」で《いる》ことから、自由になれるだろうか。


たとえば私は、学者やマスコミから取材をいただくときは、「この人は引きこもりの当事者だ」という決め付けの中でしか、言葉を受け取ってもらえない。――それに抵抗すると、激しい怒りを招くことがある。*3

何者かで《いる》こと、それによって場所を確保することには、各人の責任と、欲望と、ナルシシズムが賭けられている。ここは、簡単に降りたり解除したりできない。組み換えるにしても、ていねいかつ慎重に、話題にし直す必要を伴う。*4


たんに《降りる》ことは、それ自体が制度になる。*5
必要なのは、決してやめることのできない参加を、読み取り、組みなおし続けることだ。働くことが、一緒に生きることが、常にすでにそのような作業であったら・・・!



*1:たとえば柄谷行人は、「不登校というのは、一種のボイコットだと思うんですよ」と論じていた(参照)。

*2:そのような問い直しが日常化された職場があったら、こんなに素晴らしいことはない。

*3:《割り振られた肩書き》を問い直そうとする私の問題提起は、斎藤環氏を激怒させた(参照)。ほかの人や環境でも、同様の状況に直面した。

*4:《読み合わせ》という演劇用語を使ったテーマは、まさにこの話だ(参照)。

*5:《降りる》という振る舞いそのものの定番化