『全国ひきこもりデー(4月1日)』の呼びかけから考えたこと
●(1)積極的に「ひきこもろう」という呼びかけは、実際のひきこもり状態にあるような《切断》とは、異質のふるまいになる。ストライキは、社会的な意思表示であり、最初から活動的だ。
ストライキに生じている意識や関係の動きと、「やむにやまれず引きこもるしかない」に生じているそれとで、何が違うか。――これは、重要な検証テーマ。*1
●(2)日頃働いている人たちが引きこもるという日に、「いつも閉じこもっている人たち」に任せられることがあるなら素晴らしい。
それまでの経歴から、差別的に「ひきこもり」とレッテルを貼られていても、すでに求職活動を続けていて、むしろ参加や就労のチャンスがないことに苦しんでいるケースだって多いはず。(私もその一人)
●(3)ひきこもろうが、ストライキをしようが、結局は同じ社会に暮らしている。そこで、どういう参加を私たちは「してしまっている」のか。その様式を考える日にしたい。▼意識的に引きこもることは、それ自体が参加の様式だ。《切断》は、じつは決してできない。
いきなり就労はできなくても、《参加のスタイル》を問い直す、その作業を共有できる機会がほしい。そのかたちでの、参加を許してほしい。*2――やむにやまれず引きこもり続ける状況も、それ自体として、ある《参加のスタイル》の継続になっている。
『なるにわ』の趣意書を読んで考えたこと
唐突ですが、コムニタス・フォロは4月より発展解消し、リニューアルすることにしました。名前もあらため、その名を「なるにわ」とします。場の説明も「若者の居場所」をあらため、「なにものかでなくともよい場所」とします。経緯は、こちらを。URL
2014-03-20 17:13:48 via web
なるにわの趣意書です。参加者で練り上げました。URL
2014-03-20 17:15:01 via web
この社会では、肩書きや属性でレッテルを付けられなければ、そこに居ることすら許されない。→《「なにものか」でなくても、人が居られる場所》は、それだけで救いになり得る。
厄介なのは、
実際に生じる関係においては、肩書きや属性にとどまらない、相互への位置づけ(役の割り振り)が発生している、ということ。「なる」つもりがなくても、割り振られた役割によって、何者かで「いる」ことを強要される。
つまり問題は、
なにものかに《なる》だけではない。
なにものかで《いる》厄介さがある。
何者かに《なる》だけでなく、なにものかで《いる》のプレッシャーも読み取って、そのつど組み換える動きがないと、不自由になりかねない。
たとえば、『なるにわ』に滞在すると、
「団体代表」「大学教員」「○○当事者」、あるいは「男」「女」「××歳」で《いる》ことから、自由になれるだろうか。
たとえば私は、学者やマスコミから取材をいただくときは、「この人は引きこもりの当事者だ」という決め付けの中でしか、言葉を受け取ってもらえない。――それに抵抗すると、激しい怒りを招くことがある。*3
何者かで《いる》こと、それによって場所を確保することには、各人の責任と、欲望と、ナルシシズムが賭けられている。ここは、簡単に降りたり解除したりできない。組み換えるにしても、ていねいかつ慎重に、話題にし直す必要を伴う。*4
たんに《降りる》ことは、それ自体が制度になる。*5
必要なのは、決してやめることのできない参加を、読み取り、組みなおし続けることだ。働くことが、一緒に生きることが、常にすでにそのような作業であったら・・・!