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2014-05-18 《暴露≒分析》のスタイルこそが政治的な選択 このエントリーを含むブックマーク

特別シンポジウム 精神分析対談: 立木康介著『露出せよ、と現代文明は言う』をめぐって 立木康介 × 十川幸司


聴講してきました。

    • メタファー*1倒錯*2をめぐるお二人の考えについて、あるいは対立点について、もっと詳細に聞いてみたかったです。
    • ラカン派の鑑別診断について、「仮説のはずなのに、まるで存在論的な事実のように論じるのは過剰であり、ドグマ化だ」「これでは自我心理学と同じであり、古典的というか、保守的だ」(大意)と十川幸司氏がおっしゃったことに、勇気づけられました。
    • 「単独性はむしろ出発点」という十川氏の指摘は、臨床家ならではですが――しかしここに留まっては、プロセスとして実現される単独性の問題がないがしろにならないでしょうか。


最後に質問させていただいたのですが、以下はそれに関連して、

今後に向けての覚え書きです。



メモ


暴露に対して《メタファー≒置き換え》をやるべきだ、というのが立木氏の提案だったが(参照)――むしろ、暴露に見えて実は抑圧・隠蔽でしかないものを、別のスタイルでの《暴露≒政治化》に代えられないか。*3

「隠せ」というより、暴露技法そのものが問われている。私はその「別種の暴露活動」に、立木氏の言うセクシュアリティの提案を重ねたい。(たんに別のものだとは思えない)


冒頭で十川氏は、「文体を作り上げるのも分析家の作業」とおっしゃった。この「文体」は、すぐにエクリチュールと言い換えるべきではない。まさに文体(style)に、分析のスタイルが賭けられる。


twitter やブログの安易な自分語りは、むしろ抑圧のそぶりになる。あるいは自助グループで自分の話をしたがるのは、それだけ誰にも聞いてもらえないからであり、「抑圧されている」ゆえだろうが、それを単に「さらけだす」ことは、別の抑圧になる。「見せた」が、本人にとっても思考停止の言い訳になる。


「精神分析と政治」という大枠のテーゼではなくて、*4

一気に「schizo-analyse」と言ってしまう、そこに別の分析スタイルを、つまり政治性や複数性の試みを見ているのだが。


立木氏は、精神分析をめぐるフランスの状況や、イーグルス『ホテル・カリフォルニア』に触れながら、次のような「絶望」をおっしゃった(大意)。

 自分がいま居る状況の外に出ていけない

他人事ではない。

この《外》で、私たちは何を考えているだろうか。

(たぶんそれぞれで違っている)



*1:「何かを言う代わりに別のことを言う、その《すきま》が心的空間」(立木) →このマテリアルな言い方がとても面白い。

*2:「倒錯は、《精神病・神経症・倒錯》の3つの分類には入らない」(十川)→「では質問したいのですが、倒錯と《死の欲動》の関係は?」(立木)

*3:必要な《分析≒暴露》は、むしろ抑圧されている。

*4:「精神分析と政治」というテーゼを立てた時点で、重要な選択は終わっていると思う。つまり、《分析の方針》についての選択は。▼ある分析スタイルを選択した後で、その分析と政治の関係を考えるのではなくて、分析過程のスタイルそのものにすでに政治性が織り込まれている――そこで考えるべきではないか。

2014-05-08 名詞形のウソ このエントリーを含むブックマーク

リンク先の『Hate Radio』(SPAC)より:

 DJは「ツチ族」との友好を否定し、「フツ族」の団結を歌った、シモン・ビキンディの『こんなフツ族は嫌だ』を流し、女性パーソナリティのヴァレリーが「ツチ女性」へのレイプを示唆した後は、ニルヴァーナの『Rape me』を流す。ベルギー人ジョルジュの伝える国際ニュースにはウィットと悪意のある“民族ジョーク”が混じり、カンタノは11歳のリスナーとの電話のやり取りで隣人を狩ることを鼓舞する。

 ※現在のルワンダ政府は、「ツチ族」「フツ族」という民族の区分は植民地支配の産物であるとしている。


軽妙なジョークにおける概念操作も、私たちの感情に影響している。



武内進一ルワンダの紛争とエスニシティ−創られた民族?

「観念の実体化」という節より:

 「人種」に対応した統治制度を確立するためには、個々の被統治民の帰属を決定しなければならない。ベルギーは制度面の整備と並行して、ルワンダ住民がどの「人種」に帰属するのかを確認し、身分証明書に記載する手続きを進めていった。1930年代のことである。しかし、この作業は容易ではなかった。自分が何に属するのか曖昧な認識しか持たない者も少なからずいたからである。トゥチやフトゥというカテゴリーが、今世紀始めには日常的にそれほど重要な意味を持たなかったことを考えれば、これは当然である。したがって、各人の帰属はときとして恣意的な方法によって定められた。例えば、10頭以上の牛を持つ家族の成員はトゥチ、それ以下しか持たなければフトゥなどと振り分けられたのである。

 分別の方法がいかに恣意的であれ、いったん定められた「人種」の帰属はその後大きな意味を持つようになった。行政ポストへの任命や教育機会など、社会生活のさまざまな場で、それに応じた差別がなされたからである。また、サブチーフに任命されたトゥチは政治権力を利用して経済的な利益も確保できるため、政治的な差別は経済的な格差に結びついていった。国家機構のなかで組織的に遂行された、「人種」のラベルに沿った区別と差別を通じて、それらのアイデンティティが重要なものとして認識され、実体化していったといえるだろう。(pp.29〜30)


名詞形で人間を区分する概念操作の強力さ。

現状の私たちは、あまりにも名詞形に支配されている。

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