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[語句説明]

2014-06-21 超越的当事者に対する、「超越論的当事化」について このエントリーを含むブックマーク

6月9日の拙ツイートより:

《そこから再帰的に、かつて「主体」と呼ばれた広がりを創設すること》

――ここを「良くわからなかった」と書いたことに対して、廣瀬浩司さんからお返事を頂きました。▼大事なヒントを頂いたので、引用しながら少し連投します。2014-06-09 17:50:14

    • QT @parergon2 >《[自然=人工的制度]を逸脱する「意味」 がなんらかの形で「記号」となるためには、 それに立ち会う(個人的ないしは集合的な)「誰」が必要なのですが、》

  →ふつうは「自分」とか「主体」と言って終わる 2014-06-09 17:53:05

    • QT @parergon2 >《その「誰」は、超越論的主体ではなく、 「超越論的領野」として時空間的に開かれた広がり(と境界)を持っている》

▼名詞形当事者に基づいた「自分語り」← 超越論的主体(カント)

▼動詞形の「当事化」← 超越論的領野(ラボルド的?)

2014-06-09 17:59:17

 「超越論的主体」ではなく、「超越論的領野」と言えばいいのだ――こうした言葉づかいは、これまでにも廣瀬さんのご論考で読んでいたかも知れないのですが、今回初めて、《当事者/当事化》というモチーフとの関連で整理できたと感じました。2014-06-09 18:06:02

 記号を、主体ではなく、領野との関係で語る。

 ――これだと、「記号のあり方そのものがすでに支配的様式に従っている」という Guattari 的モチーフにも直結します。▼いま支配的な言説では、ここがさっぱり語られないがゆえに、《語る営み》それ自体の傾向が帯びる政治性に気付かれない。2014-06-09 18:11:27

 語る営みについて、当事化的に――つまり、超越論的領野を開くあり方で、論じ直すことをしない。語りの態勢が固定され、調子に乗って「うれしがる」ような語りが蔓延している。▼傲慢きわまりない、語りの態勢の固定。2014-06-09 18:14:32


《自分》という、超越的に見える纏まりの地位と条件を問い、やり直しを迫られるという意味で、ここに「超越論的」という言葉を持ってきてよいはず(Wikipedia)。


ただし現状が迫っているのは、主体化のありようそのもののやり直しだから、

カント的な超越論的主体を前提に話を進めることはできない(参照)。


    • 誰かを「当事者」と名詞形で措定することは、(1)名指された側を超越化すると同時に、(2)名指す側の言説をも超越化する。ここではいつの間にか、どちらへの批判も許されないことになっている。これは最悪の欺瞞。*1
    • 必要なのは、対象者と言説をどちらも超越化する「超越的な振る舞い」ではなく、対象の条件を問い、論じる言説をも考え直さざるを得ない《超越論的な》振る舞いである。
    • 「体系的な哲学理論 vs 政治実践」と分けてしまっては、哲学理論と政治実践は、どちらも超越化されてしまう。これもひどい欺瞞だ。▼哲学体系は、ある主体化の方針を超越的に固定している。また、無-理論的に見える政治実践も、ある固定された主体化方針を生きているゆえ、超越論的吟味の対象にならざるを得ない。
    • 主体化のスタイルをめぐる格闘や、そこでの具体的な当事化は、そのままで政治活動となっている。
    • 必要とされる主体化の方針を、「超越論的領野-化と、動詞的に言ってみたい。時間的に展開される、おのれ自身と関係づける空間化。ここで「検証」と、検証フィールドを開く活動そのものは、同時に生成せざるを得ない。*2――このような顛末を、私は「超越論的当事化」と言いたい。



*1:ひとりの論者が、自分で自分を《当事者》と名指す場合、(1)「名指された側」の超越性と、(2)「名指す側」の超越性を、都合よく使い分けることになる。当事者としてふるまうことが都合よければ「私は当事者」と名乗り、学者としてふるまうことで権威ぶれるときには「私は学問的訓練を受けている」と言う。「当事者」と「学問言説」のどちらもが、条件づけの検証を受けない。▼貴戸理恵の「Nさん問題」に生じていたのはこれであり(参照)、今も複数の研究者が、この使い分け(超越性の同居)を悪用している。

*2:検証フィールドを条理的に固定された時空間では、それに合わせた検証しか出現しない。作業にふさわしい時空間の生成と、検証作業の生成は、同時に起きざるを得ない。

2014-06-07 逸脱運動の素材的必然と、それを抑え込む記号の慣性 このエントリーを含むブックマーク


この本に掲載の三脇康生氏の論考「被災と分裂性分析」に、

    • 「記号の制度の分析」
    • 「時間の制度から《はみ出す》こと」

という節があり、先日引用したトスケイエス論への訂正が記されていた。*1

関連する箇所から、少し長めに引用しておく(強調はすべて引用者)。


 schizoanalyse という言葉に〔…〕分裂分析、スキゾ分析、分裂者分析のどの訳語を選ぼうとも、「記述から運動を生む」ために「記号過程に現れる解釈体」を、既存の制度からどうはみ出させるのか、それがガタリの分析の課題となる。


 「記述から運動を生む」意識のことを、ガタリの「図表的意識」、

 この際の記号過程を「図表化の過程」と考えてみたい。


      • これに続けて三脇氏は、グァタリ邦訳書『精神と記号 (叢書・ウニベルシタス)』掲載の「図表的意識」という論考から、直接の訳文引用を行なっているのだが、三脇氏の文意との関係が全く分からず、訳文そのものとしても意味を理解できない*2。そこでブログ主が、引用された箇所のフランス語原文を抜き出し、自分で訳し直してみる。


グァタリ「図表的〔ダイアグラム的〕意識 La conscience diagrammatique」の原文】:

 Le vide de la conscience se transforme en perte d'inertie positive du signe qui est alors en mesure de fonctionner dans un processus de diagrammatisation. Peu importe que les signes a-signifiants aient été engendrés dans les affres et les douleurs conscientielles ! Ce qui compte, à présent, c'est que des systèmes d'inscription aient acquis une vitesse de déterritorialisation, une capacité de décollement qui leur permet de doubler, de simuler, de catalyser les processus de déterritorialisation des flux matériels, de telle sorte qu'à la puissance de la déterritorialisation matérielle soit conjointe la surpuissance des déterritorialisations machiniques signe-particule. ("La révolution moléculaire", p,487)


〔拙訳〕「意識の空虚は、記号の積極的慣性の喪失で変容するのだが、こうして記号は、慣性を失ったことで、図表化のプロセスのなかで機能できる。非シニフィアン的な記号が、意識的な苦痛や恐怖のなかで生じたのは大したことではない! いま大事なのは、登録のシステムが、脱領土化の速度を獲得し、剥離の能力を獲得することだ。脱領土化の速度および剥離の能力は、登録のシステムが素材の流れの脱領土化のプロセスを倍化し、なり替わり、触媒することを可能にする。つまり素材的脱領土化の力に、記号-粒子の機械状の脱領土化の馬鹿ぢからが結びつく――こうしたことが大事なのである。」【※】


以下、【※】の箇所につけられた三脇氏による「註7」より:

 François Tosquelles : De la personne au groupe -- À propos des équipes de soins, Érès, 1995 の pp.207-236 に掲載された Note sur la séméiologie des groupes という発表を参昭のこと。『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』に掲載した拙論「精神医療の再政治化のために」において séméiologie に記号学と訳をつけたのは不十分であったと思う。制度をいかに病んだものにしないかを考えたトスケイエスは、制度の、グループの症候をつかみ取る必要があったはずだからである。すくなくとも症候学=記号学ぐらいの訳をつけるべきであった。さらに『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』の註ではトスケイエスの De la personne au groupe -- À propos des équipes de soins という本を(ぺージ数は該当しているが) L'enseignement de la folie *3 というトスケイエスの別の本に私は誤記している。ここに誤りを訂正し、長年の放置に対して、各位に謝罪申し上げたい。(p.131)


三脇論考の地の文戻って:

 ガタリは記号制度における「あらゆるはみ出し物」性を重要視した。

 この「はみ出し物」性は、ラボルド病院をはじめ全精神病院と精神病院外の(セクター制度)施設での、あらゆる制度から「はみ出し者」であることを要求したガタリが、記号論においても要求したものであると言える。(『現代思想2011年9月臨時増刊号 総特集=緊急復刊 imago 東日本大震災と〈こころ〉のゆくえ』pp.128-129)


メモ

    • たんに逸脱すればよいのではなくて(それでは逸脱のナルシシズムになる)、逸脱運動が素材レベルの必然性を帯びていて、それを記号と切り離すことができない、という話。グァタリはここで、記号独特の機械状の慣性を「馬鹿ぢから surpuissance」と呼んでいる。
    • 逸脱を最初から反体制イデオロギーに回収し、その支配下で意味づけて終わるのではなく*4逸脱運動の素材的必然を解放する努力、あるいはその環境整備として、記号論というジャンルが選ばれている。
    • 東浩紀的なデリダ論、つまり「記号断片の確率性や郵便性」という議論では、逸脱の《運動》そのものを話題にすることができない。いっぽうグァタリでは、逸脱そのものの時間的な動き、不定詞的な展開がモチーフになっている。▼イデオロギー的な意味づけの支配を逃れ去るのは、断片だけではない。《闘争≒漏洩》は、記号の運動そのものにすでに生じている。ここを内在的にモチーフにすること。
    • 【6月8日早朝の追記】「déterritorialisations machiniques」を「機械的脱領土化」と訳していたのだが、「機械状の脱領土化」にした。ここでは、悪い意味での「記号の慣性」のニュアンスと、記号がかかわる形で内発的な結びつきの創発があるという良いニュアンスがきわどく同時に語られている。▼記号が関わるから、慣性がないというわけにはいかないのだが、わざわざ「記号-粒子」と言うのは、シニフィアン的な自動性ではなくて、バラバラに断片化したうえでそれをもう一度やり直すことを語ろうとしている。



*1:『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』掲載の三脇論考のタイトルは「精神医療の再政治化のために」だが、訂正文では「精神科の再政治化のために」と誤記されている。

*2:いちおう邦訳書の杉村訳を引用しておく。「意識の空白は記号の肯定的な惰性に変容して、そのとき図表化の過程のなかで機能することができるようになる。非シニフィアン的諸記号が意識の苦痛や苦悩のなかで生み出されたものであっても、それはたいして重要な問題ではない! いま、重要なことは、この記号の登記システムが脱領土化の過程を追い越したり、それになりかわったり、その触媒として機能すること――したがって、物質的脱領土化の力に記号-粒子の機械的脱領土化の超力が結びつくということ――を可能にするということである」(邦訳『精神と記号 (叢書・ウニベルシタス)』p.113)

*3:ちょうど今年の4月に再刊されていた。肝腎の『De la personne au groupe -- À propos des équipes de soins』のほうは品切れのままだが…。

*4:それでは、逸脱者を反体制イデオロギーのネタにして終わる。これでは「漏洩線 ligne de fuite」から、唯物論的な漏洩性が失われる。

2014-06-05 フランソワ・トスケイエスと記号学(メモ) このエントリーを含むブックマーク

以下の引用は、三脇康生「精神医療の再政治化のために」より。*1


 トスケイエスドーメゾンの求めに応じ、1961年のパリ13区の巡回診療所で開かれた集会で、サンタルバンで実践している集団内の記号学(séméiologie)について重要な発表をしている。


 この中でトスケイエスは、治療グループで起きる出来事を、

  • (1)患者自身にとって意味のあること
  • (2)医者にとって意味のあること
  • (3)同じ集団の、あるいは同じ病院にいる他の人びとにとって意味のあること

に分けている。


 そして、この第三番目の出来事を考察するために、厳密な記号学を用いることの重要性を指摘している。これにより、

    • 医療的に、精神病理学的に、意味のある出来事であるのかないのかを決定する理論を持つ前に、まず出来事に向きあい、解釈することになる。
    • さらに、一番目、二番目、三番目の出来事を比較することで、スタッフだろうと患者だろうと、どのようにして集団に統合されているのかを考えることができるようになる。


 さらに集団を開かれたものにし、健全なものに保つためには、「治療者側が用いる記号学の種類をかえること」をトスケイエスは進言している。しかしそれは記号学を「がらくた箱にしてしまうこと」ではない。そうではなく、

  • 記号学の種類を変えることで、異なった種類の出来事を解釈することができるかもしれない

ということである。


 つまり、トスケイエスの制度=ソフト分析は、サンタルバン病院での記号学として発明されたと言えるだろう。(pp.147-148)



    • 《決定する理論を持つ前に、まず出来事に向きあい、解釈する》――出来合いの解釈フレームに当てはめて終わりではなく、分析をやり直す。「メタモデル化」が生じるとすればここ。
    • 《どのようにして集団に統合されているのか》――全員にとって課題となる(つまり当事者性のある)分析テーマ。


【つづき→「逸脱運動の素材的必然と、それを抑え込む記号の慣性」】


*1:改行や色変え・太字などの強調は引用者による。また、原文では Tosquelles が「トスケル」と表記されているが、スペイン語の原音やラボルド関係者の用いる発音に近い「トスケイエス」に改めた。

*2こちらの定義だと、séméiologie は「病気と健康の指標となる徴候(諸記号 signes)を扱う医学の一環」。

2014-06-04 「私は完璧だ」――メタな規範談義のナルシシズム このエントリーを含むブックマーク

この事件をめぐる議論が、あまりにズレている。

女性嫌悪と人種差別を規範的に説教し、

「良心的な知識人」のポーズを誇示して終わっている。*1


私はこの容疑者の言動を容認も肯定もしない。しかしみずからの規範的優位を示したところで、状況改善には役立たない。


容疑者の女性嫌悪と人種差別は、自己救済の回路として持ち出されている。他者からの性愛的承認に絶望し、そもそも他者を必要としない承認の回路をでっちあげること。――こういう回路を始めてしまえば、もはや説教には意味がない。それどころか説教は、断念と殺意の温床になる。*2


ドヤ顔の規範談義は、弱者を見下す文化を強める。それで環境を変えようとするのは、「自分だけは正義の味方」というナルシシズムを、問題への取り組みと勘違いすることにすぎない。



つまり

「女性嫌悪や人種差別はいけないことだ」――こんな、メタ命題それ自体としては正しいことが分かりきった話を反復しても、自意識をこじらせる環境要因を悪化させることにしかならない。メタ命題はさっさと確認して終わらせて、あとは「うまく行っている」と自称する人たちも含め、関係性や自意識のやり直しが必要になる。


100%のメタ命題を連呼することは、規範的に相手を見下す態度を量産する。それ自体が防衛機制であり、主観性と関係性の技法としては、幼稚なままにとどまる。


女性嫌悪と人種差別をドヤ顔で糾弾する人が、身近ではいじめの加害者であるケースがいくつも見られるのは、どういうことか*3主観性と具体的な関係は、規範命題を反復してもうまく行かない*4 命題を連呼するだけでは、取り組んだことになっていない。


日頃から「童貞」をバカにしていた人間が、環境悪化への責任を取ろうともせず、弱者のバカげた犯行を嘲笑し、したり顔で説教する。「俺はモテるから」と、できない者を見下してふんぞり返る。――このマッチョ思想をやり直すつもりのない言説環境は、今後も殺意を増幅させる。


今回の容疑者を罵倒する人は、自分は容疑者とは違うタイプの人間であると思い込んでいるが、「メタな規範視点から相手を見下す」というスタイルにおいて、批判者たちとこの容疑者は、思考のスタイルを共有している*5 いずれにおいても、規範的見下しによる攻撃的嫌悪だけがあって、言葉ごと関係を作り直す作業は見られない。*6


「メタ的に正しいがゆえに私は正しい」という、ひたすら抽象的に自分を救済するタイプの正義論は、それ自体が自閉的・威圧的なナルシシズムとなっている。議論をここからやり直さねばならない。


これは、「弱者も愛してあげなくてはならない」などという話ではない。主観性と関係性のマネジメントを、メタ的威圧とは別の試行錯誤に置きなおす努力だ。



*1:女性による規範的説教には、何より事件への「恐怖」を感じるので、無理もないとは思うものの――説教という反応は、状況改善に役立つわけではない。▼男性フェミニストの言動は、もっとあからさまなヒーロー気取りを含む。「お前らみたいな人間のクズと違って、俺は女性の味方なんだ」というわけだ。

*2:PC的な規範命令は、奴隷的に屈服させようとするものでしかない。

*3:反差別の論者たちの、マッチョないじめ体質。この集団体質は、学問言説に直結しているように見える――それを検証できる議論ジャンルが必要だ。「メタで自閉的なナルシシズムの再生産装置としての学問言説」という嫌疑。

*4:規範命題を連呼することで維持される、そういうスタイルの関係性や中間集団があるにすぎない。左派系の全体主義がまさにこれに当たる。

*5:左派系の規範意識は、20世紀に数千万人規模の大量虐殺を生み出した。これはナチズムの10倍以上にもあたる。

*6:容疑者は「過去にアスペルガー症候群と診断されていた」という報道もあったが(参照)、今回の容疑者のような発想のあり方は、医療的診断など受けていなくても、何も珍しいものではない。またもし「診断名」で終わらせるなら、女性嫌悪や人種差別うんぬんの議論に意味がない。▼私はそもそも、DSM の診断枠の恣意性に懐疑の目を向けている(参照)。

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