Hatena::ブログ(Diary)

Freezing Point このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

トラックバックは受信しておりません。また、メール・リンクには基本的にお返事しません
が、無視しているわけではありません。 いつも励まされています。
いただいたメールは、公開する可能性があります。
コメントを書き込むことはできませんが、過去のコメントは読めます。
[語句説明]

2015-02-28 逸脱的に生きざるを得ないと、常態的な希死念慮との戦いになる このエントリーを含むブックマーク

順応的になれない、所属を持てないのは、あぶない*1

しかし、そういう境位でのみ為せることがある


私が死ぬことで喜ぶ人への怒り

私のために待ってくれた人への申し訳なさ


希死念慮は、誰にとっても珍しくない

→むしろヒトを、希死念慮との関係で位置づける


死にたくないのに死んだ/殺された人たち



*1:特定の学問言説に順応し、「問題」を所与通りに引き受けることができれば、《仕事をする》の土壌ができる。ところが、問題意識そのものを変えざるを得ない必然性に取り憑かれてしまうと、いわば自分は問題の実存であり、「自分を殺せば問題はなくなる」。問題意識のありようを変える必然を説得的に形にできなければ、思いつきでどうでもいいことを喋り散らしてるだけになる。→生きた火である問題意識、その改編を必然的な作品として提示できるか。

2015-02-27 悪意やデタラメに対処できる集合的な状態とは このエントリーを含むブックマーク


この案件では、2ch の当該スレッドを長々とリアルタイムで読み続ける、という初めての経験をした*1。本書は本当にありがたい出版で、まずは関係者に感謝。*2


読みながらずっと考えていたのは、

 悪意の人が現れたときに、泣き寝入りをせずに、

 しかし自分が犯罪者にもならずにいるには、どうすればよいか。

孤立した人が突発的に対処しようとすれば、犯罪に手を染めるしかなくなる。

必要なのはその逆で、《集合的・持続的な》対処。

これを実現するための環境整備や技法が要る。


本書を読むかぎり、「相手の良心を期待しながら、好意的に対処する」ような努力は、すべて後妻側に利用され、踏みにじられている。*3


やしきたかじん氏のワンマンな――というより、はっきり言えば DV 的な体質も描かれているが、そこに形成された人間関係が、悪意の人を利した可能性はないか。あるいはその悪意は、どんな環境要因を利用したのか。*4


虚言とその加担者が周囲にかけるコストが不当極まりないのは当然として、

そういう人が現れた時に、適切に手を打てる《集合の状態》が、準備できないだろうか。



トラブルを通じて、環境の前提や設計実態が明らかになる

阪神・淡路大震災の時には、消火栓や防火水槽が機能しないことが判明した(参照)。それと同じく、耐え難いトラブルに直面して、はじめて「そうだったのか」に気付くことがある。


《出版社やメディアは、自分たちの企業利益を優先して、人気作家の社会的不正を黙認する》――このいわゆる「作家タブー」は、今までは都市伝説みたいに言われるだけだったが、百田尚樹氏の言動を通じて、実際にあることに疑いがなくなった。


今回の『殉愛』事案は、関西タレントの遺産問題というだけの意味では小さな事件かも知れないが、剥き出しになった《問題の事情》は、しつこく究明する価値がある。ゴシップとして消費するためではなくて、私たち自身の今後のために。



*1:読んでいたのは昨年11月〜12月。いま確認したら、すでに 225 スレにもなっている。

*2:私はこの事案と STAP 細胞事件とで、ネット経由の集合的検証および従来型メディアとの連携プレーを、これまでになく重視するようになった。

*3:素朴な愛情に基づいた関係は、たった一人の悪意で破壊される。本書 p.129 の写真に現れた、柔和な雰囲気…

*4:私がずっと問題にしている名詞形《当事者》のフレームも、この事案では利用されている。 ex.「ガンが移った」→「私は被害者だ」

2015-02-26 アートや支援と《生活》は切り分けられるのか このエントリーを含むブックマーク

芸術活動と生活については、

 物象化に支配された世界で、素材をどうするか

→人事権、人脈、マーケット的影響力を持つ人に抵抗しにくい。

「逆らったら生活できない」


私たちの世界において、圧倒的な主体は《価値≒資本》であって、

素材レベルをどうこうしたがる問題意識は、決定権を価値に握られている。


以下、佐々木隆治『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』より引用。

  • 資本のもとへの労働の形態的包摂と素材的編成(p.362)
  • 形態による素材的世界の編成は素材的世界からの様々な抵抗を呼び起こさずにはいない(P.395)


私が芸術を必要とするのは、言語そのものまで物象化に支配された状況から、その条件を問い直し、自分でやり直すチャンスや技法を取り戻せるかという話であって、

物象化に迎合したまま耽溺したり、すべて諦めて順応的な計算「だけ」にするのであれば、それは芸術というより、シニカルな嗜癖にすぎない。


さらに厄介なのは、

こうした問題意識を持つ左派の人間関係は、それ自体が人治的な支配を及ぼす。「反資本主義」でまとまる人脈では、人事の決定権者の党派的支配が大きく、素材レベルの問題意識はつぶされる。



対人支援との比較

アートの領域については、

 作品活動と商品生産は違うのか

 芸術というのは、値段のつく「作品」だけか

 アーティストという自己規定は何に基づいているか

――こういう「線引き」が気になる。同様に支援については、

 支援事業と、労働力商品の生産は違うのか

 支援というのは、有料で区切られたものだけか

 支援者という自己規定は何に基づいているか


現代アートは、文脈を整えないとガラクタにしか見えないことが多い。そうすると、何かを「作品」として成り立たせるための環境整備やキュレーションも、芸術活動の一環ではないのか。

→同様のことが、支援事業にも言える。何かが「支援」として成り立つためには、環境整備が要る。それは人に会うことだけではなくて、言葉の環境を整えることであったり、行政との交渉だったりもする。「支援」というイメージを狭く固定しすぎると、かえって支援は成り立たない。――しかし、「支援」の固定イメージに合った事業にのみ予算がおりやすく、そこに人や意識が流れてしまう(生活しやすいので)。*1


2004年には「ニート」という言葉が流行し、数百億円規模の「支援」が組まれたが、悩む人は9割以上がそうした場所を利用しなかった(参照)。支援といっても、失業者が何十万円も払って、対人的にも技能的にも蓄積のない無償労働をさせられたり、けっきょくは元気な人にしか届かない活動だったり(参照)。*2


生活者として私たちの間に紛れているアーティスト(参照)は、こういう行政的硬直においてこそ真価を問われるのではないだろうか。いっぽうにロマンチックな「アート」があって、もう一方に予算枠があるのではなく、私たちの生活への対応を規定してしまうあれこれそのものに切り込んで、柔軟なやり直しを提言して見せること。その意味で、私たちの生活環境の改善者そのものであること。物神化された置物としてではなく、現在進行形の、活動形の何かとして。生活世界そのものの酵母として。


「生活がたいへんだから、私もみずからを物神化しなければ」では、順応者にすぎない*3。同様に、物象化や党派に迎合するだけのひとを、支援者と呼んでいいものかどうか。*4



*1:同様のことが芸術領域にもあるのではないかと推察する。

*2:私もスタッフとして、事情の一部を目撃した。――環境世界が硬直したお題目に終始するなら、弱者は「シニカルな狡猾さ」でサバイバルするしかない。

*3:労働力市場においては、みずからの物神化に成功した者が雇用を獲得する。「アーティスト」が同じことをしているとしたら、それは労働力商品として自分を売ろうとしている形になる。

*4:人をモノに還元する「キャラ消費」はここに関係する。斎藤環の特大のブーメラン:「キャラ消費で免責するな」

2015-02-25 斎藤環の特大のブーメラン:「キャラ消費で免責するな」 このエントリーを含むブックマーク

この記事は、斎藤氏じしんにとってブーメランとなっています。*1

斎藤環氏は、

  • 上山和樹を「ひきこもり当事者」というキャラに監禁し、それを消費することでしか関係を作れなかった(参照)。*2
  • ご自分自身が「キャラの立った精神科医」として差別発言を免責され(参照)、マーケット的に消費されている。

7年前に私が斎藤氏から受けた排除は、じつは「アパルトヘイト」だったわけです。

――曾野綾子が、斎藤環への批評の回路になるとは。



*1:これほどひどいダブル・スタンダードが歓迎される悲惨さ(参照)。

*2:リンク先の核心部分を引用しておきます。>【斎藤さんは、支援の場に発生する本当にグロテスクな中間集団の問題を、役割固定や言説のプログラムで回避している。「役割固定=観客席」への居直りは、支援される側まで含めてどの立場にも生じており、シナリオ順応的なナルシシズムの共同体を形作っています。〔…〕 8年前、当事者役割で社会参加のチャンスをいただいた私は、今は《素材化=当事者化》の要求によって、逆に排除を受けるようになっています。】(2008年10月

2015-02-22 その議論は、快適な時空間を生み出すことに貢献しているか このエントリーを含むブックマーク

 私たちは、何かが生じられる空間を集合的に作り出す必要を強調する。

 〔…〕 特別な領野を定義する必要がある。

 nous insistons sur la nécessité de créer collectivement des espaces où quelque chose puisse se produire. [...] Il faut définir un champ spécifique.


病院にかぎらず、私たちの生きる場所は、

放っておくと物象化(相互的なモノ化)に支配される。

言葉そのものや、時空間の体験のあり方まで含めて。



ドゥルーズの時空間?

以下のツイートで言及される多様体論や理念*2は、ウリ的な領野づくりに関係するでしょうか。――というのも、ドゥルーズの研究者で、上のような《集合的領野の臨床》に相当する問題意識を持つかたが、あまり見当たらないので。



数理的な言語を参照することが、言説の物神化や硬直に向かうだけなら、

《自分たちの生きる場のモノ化を、言葉ごと解きほぐす》

という趣旨には そぐいません。


そもそも、物象化を批判するはずのマルクス系の議論すら、

理論言語そのものを物神化したわけです。*3


私たちが生活する時空間の改善にとって、

《言語そのものの物神化》が、厄介な問題となっています。



今は転移は、《言う空間》ではなく、物神化によって維持されている

マーケット空間や雇用で成功しているのは、

  1. 崇められた言説の空疎な反復
  2. 「信者たち」の獲得
  3. 当事者ポジションのゲット

こうした事例ばかりに見える。いずれも、自己や言説の物神化です。


であれば、言説の多くがみずからの物神化を目指すのは、

フィールドの方針に従っていると言えます。


→そのような領野を、ドゥルーズ的な言説はどう扱うのでしょうか。


数理系の言説を参照して多様体や理念を論じるとしても、

「たんにメタに立つために」難解な話をしているなら、それは既存の、生活圏を硬直させる言説様式を反復しているだけなので、苦労して理解する意味がない――というより、有害ですらあるでしょう。



*1【2015年2月23日早朝の追記】 この《言う空間(espace du dire)》というジャン・ウリのモチーフは、精神科医の三脇康生氏のお仕事から学んだものです。▼言葉としては以前から目にしていたはずなのですが、本当に切実にモチーフとして腑に落ちたのはここ最近のことです。

*2:小林卓也氏のツイートで言及されている論文は、Martin Calamari,「Riemann–Weyl in Deleuze's Bergsonism and the Constitution of the Contemporary Physico-Mathematical Space

*3:権威化された言説である「史的唯物論」と、ひとり一人の実存の関係はどうなっているでしょうか(→「主体性論争」)。あるいはマルクスの理論は、その語り手と周囲との関係を、どのようにデザインしているでしょう。――歴史的経緯としては、マルクスの言説は大量虐殺に結びつきました。

2015-02-20 「ひきこもる」というテーマの焼き直し このエントリーを含むブックマーク

「安倍政権をどうするか」

「ひきこもる○○さんをどうするか」*1

「人事権に居直る○○氏をどうするか」

「学問言説に自閉する学者をどうするか」

これらのモチーフは重なっている。

言説の党派性、マーケット的影響力、肩書きや資産による既得権。

それぞれの場での独善的支配に、どう介入するか。*2


これは《集合的な》臨床課題であって、個人だけを取り上げてもあまり意味がない。

個人はむしろ、問題事情の励起する場として現れる。*3


ひきこもる人が自分の状況を手放さないように、

医師は権益を、学者は学問を手放さない。



*1:ひきこもる人は、家の中で独裁者のように振る舞っていることがある。

*2:それは当事者概念の動詞化と、内在的なかかわりにある。▼「当事者」という名詞形による物象化された時空間から、「当事化」という動詞形による分析的時空間へ。

*3:個人の問題含みの傾向が居座るのは、その傾向で恩恵を得る人や集団が居るということ。▼おかしな論者は、なぜ繰り返しマスコミに登用されるか。その人に喋らせているのは誰か。

2015-02-16 「気持ちを分かってほしい」の暴力 このエントリーを含むブックマーク

「気持ちを分かってほしい」とかいうのは、感情的同一化を要求する暴力です。

これに共感を示すのが誠意ということになってる間は、むしろ権威主義は温存されます。


たとえば引きこもり問題では、「私の気持ちを分かってほしい」と言う人が、自分以外の「気持ち」を考えることは、ほとんどありません*1。それに迎合する臨床家や学者は、ひきこもり問題をめぐる「当事者性」の話をするとなると、「自分も引きこもりたくなる」という話しかできません。


これでは、ひきこもる場と就労の場、あるいはその両方を縛りつける「権威化された学問言説」という、自分たちの状況そのもののフォーマットの問題、それに伴う各人の当事者性については*2、まったく論じられないのです。


そもそも、「気持ちを考えてほしい」というなら、生活費を自分で稼ぎだす必要に疲労困憊する人たちの「気持ち」を優先すべき、という話にしかならないはずです*3。どうして、当事者ポジションを手に入れた途端、なんでもかんでもワガママを聞いてあげなければならないのか。そして逆にいうと、比較級で「より恵まれてる」と判断された側やそれをめぐって生じる問題については、もはや対応の必要はないのですか。*4


「どっちのほうがしんどいか」という比較級の話にしかならない《気持ち》論は、その議論のフォーマットそれ自体が暴力です。



*1:そういう人は、私が自分の名前を公開して以後の15年間に何があったのか、といった話にまったく興味がありません。▼彼らは、当事者ポジションに居直った「自分の気持ち」しか考えないので、「ほかの当事者の気持ち」を考えるスタンスは持っていないのです。――名詞形「当事者」に依拠するかぎり、こんな話ばかりになります。

*2:動詞形の「当事化」で扱いたいのはこれです。

*3:ひきこもる人より、それを支えて憔悴するご家族の「気持ち」を考える必要を優先させるべきでしょう。ご家族が破綻すれば、ひきこもる状況そのものを維持できません。▼「ひきこもりを全面肯定すべき」というなら、そのご家族が引きこもりたいと言ったときには、どうするつもりなのか。――それを認めないというなら、ご家族を引きこもり支援の強制労働に監禁するだけです。(これは、左派に典型的なダブル・スタンダードの構図です。じつは「ひきこもりの全面肯定」でもなんでもない)

*4:そこで言う「対応」というのが、(1)頭ごなしのお説教か、(2)ズルズルべったりの全面肯定か――その両極しかない、と思い込まれています。▼問題設定が《規範》にとどまるかぎり、そういう話にしかなりません。規範ではなく、《技法》の議論が必要です。

2015-02-13 知性の体質みたいなもの このエントリーを含むブックマーク

みずからの事情を含む制度論的分析(≒当事化)については、私と似た体質の人は、最初からそういう話をなさっている。その人の言うことを聞いていると、こっちもスーッと楽になったりする。

あれこれ説明しなくても、異様に話が通じる。ふつうならいちばん難しいはずの「論点の共有」が、比較的スムーズに進む。


しかし、

《メタな学知→患者》という目線しかない人とは、話題を共有するのはほとんど無理。いろいろ説明しても、有名理論で自説を権威づけないと、「そんな話をして何の意味があるんだ」と機嫌を悪くされる。

こういう人は、ベタな臨床論が大好き*1。つまり、「理論」と「現場」を明確に分けている。だから自分の所属大学*2の状況は何にも分析できないし、一緒にいる場で知性と関係性のありかたを考え直すこともできない*3

自分の参加している《場所》こそは自分の現場であり*4、そこをどう運営するかは、重要な「臨床課題」でしょうに。



*1:病院や施設のエピソードを聞きたがる。

*2:同僚や学生や職員との関係性

*3:物神化された言説でふんぞり返り、人事権を握る人に媚びるだけ。

*4:閉じこもっている人なら家族内

2015-02-09 自分の生きる制度への分析は、自他への臨床活動になる このエントリーを含むブックマーク

このレポートを拝読するかぎり、山森裕毅氏は『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』という本を乗り越えたと主張した形なのですが、では山森氏の説明に新機軸があるかというと――正直なところ、何もありません。むしろ、後退しているように見えます。


書籍『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』で示された「制度分析」や transversalité は、《論じる自分の生きる制度》を問題にしていたはずです。――私はそうであるからこそ、興味を向けました。つまりそこでは、アカデミックに見える言説や、病院・大学という環境そのものの当事者性が問題にされているのです。*1


私はあの本に、文献研究者や臨床専門職として参加したのではありません。――《個人的な経緯で立つことになった「当事者」というポジションに悩み、そこで問題意識を抱える個人》として、異様なほど論点を共有できた、そのことを通じて参加したわけです。


その論点の共有は、とりもなおさず《制度》という概念の理解に懸かっていました。

上記リンク先にある山森氏の発表では、そういう《みずからの生きる制度》への視点が、さっぱり見当たりません。


「従来とは異なる観点から、横断性概念の真価を再構築する」*2というなら、まずは《自分の制度》が問題になっていることを踏まえたうえで、そこからどういう新機軸を出せるのか、という話にならないと。


《主体集団》《隷属集団》というのも、「主体集団であるべきだ」という規範命題である限りは、つまらない話でしかありません(参照)。難しいのは、「ではどうすればよいか」という技法であって――そこで追い込まれての試行錯誤があるわけです。


制度論の照準は、《みずからの生きる制度》であり、そこでの技法である

――ここから、「制度」と「臨床」を分けることはできない、という論点につながります。



これは以前にも、山森氏との間で問題になった点でした(参照)。

 この本は制度精神療法の「制度」の考察に重点を置き過ぎ、「精神療法」の側面には深く踏み込んでいない。

山森氏は、「制度」と臨床とを分けて説明しています。

これは制度論の根幹なので、この理解では話になりません。


たとえば山森氏は、病院でフィールドワークをするより、

哲学研究をしている自分や所属機関の実態について研究するほうが、

psychothérapie institutionnelle を実践する分析を生きられるはず。


これは冗談ではなくて、本気で言っています。――というか、そういう理解をする以外に、ラボルドや Guattari を参照する意味がないと思うのですが。▼自分の生きる場所で、分析性や臨床性をどう生きられるか、という話です。


自分の職場を当事者的に(当事化的に)分析できて初めて、その分析が、病院環境の内在的分析と出会うこともできる。――私が理解する transversalité(横断性、ななめ性)というのは、そういう話です。*3

それぞれが自分のフィールドの当事化分析をしていなければ、transversal な出会いも生まれない。▼視野を開けばよいと言っても、《自分のフィールド》を分析できていなければ、「開く」と言っているそのこと自体がすでに制度論的に硬直していたりするわけです。*4


みずからへの分析を欠いた「開放」*5 や「臨床」は、かえって有害になるでしょう。



上記「第1回DG-Lab研究会開催報告(その2)」より:

 この横断性概念の再構築を踏まえた上で、山森さんは『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』から読み取れる限りでの制度精神療法/制度分析が実践すべき医療行為のプロトコルを提起されました。

 本発表の元となった論文は近々雑誌媒体にて公表されるそうですので、詳細はそちらでご確認ください。


レポートを拝読する限り、「横断性」概念の説明に新規性が見られない(それどころか、すでに提出されていた核心への理解を欠いている)ので、それで「医療行為のプロトコル」だけが新しい、ということがあり得るのかどうか。



*1:それが「わかりやすく提示されていたか」というと、もちろん批判の余地はありますけれど

*2:上記レポートより

*3:自分の所属先への分析もできないままに病院フィールドに入っても、それは自分の業績のために、物神的に区切られた「フィールド」を利用する形にしかならないでしょう。(あるいは、「利用し/利用される」という、相互にモノ化した扱いの関係。)

*4:ある硬直したパターンにおける「開放」を量的に拡大するだけ。《歓待》の欺瞞はその典型です。

*5:イタリアの精神科病院廃止の経緯も、「素晴らしい」と語るだけでは、欺瞞的なイデオロギーで終わってしまいます。

2015-02-03 論者たちじしんの、労働の技法は? このエントリーを含むブックマーク

先日の拙エントリが参照されているのですが、

通りすがりにひどく罵倒されています。

 このブログの人は、「思想研究」の対語を「実学」などと言っているので、その時点で話にならないのですけど、


私が引用した議論の場には「実学」「実定法学」「経営学」の語が出ていますよ。

そしてこれを言った稲葉振一郎氏は、これらの語を「思想」にぶつけています。


濱口桂一郎氏の側に、ジャンル区分をめぐってのバイアスがあるようです。



既存ディシプリンでは扱えない問題状況があること

私は先日のエントリで、

  • 身体医学のような意味での「実学」を目指すこと
  • 指標とされるさまざまなデータを調べること
  • 重大な影響力をもった過去の文献を調べる「思想研究」

――こうした区切りへの安住を自明視することはできない、と言ったのです。


既存のディシプリンを自明視しては、労働を論じる側が、

《みずからの労働のあり方》について、論じなおすことができません。


これでは、論じる側も、論じられる側も、《技法》の試行錯誤ができません。


集団的に陥っている《働きかた》――それは、濱口氏ご自身のおっしゃる「メンバーシップ」*1にとっても、重要な要因でしょう。


私の議論には、

 メンバーシップの現状を分析し、そのつど組み替えながら集団を営む

という、技法論的な趣旨が含まれています。*2


逆にいうと、議論のジャンル分けや、一つ一つのディシプリンをあまりに自明視しては、言説の生産様式が固定されることの有害性も、見えてきません。*3


私の議論をバカにした濱口氏は、

思想研究にも実証科学にも、ありきたりな精神医学にも対応できていない、《働くことができずにいる人たち》について、どんな議論を提出できるのでしょう。



「思想研究の外に出る」という思想

先日の論争で、「思想系」のおひとりである佐々木隆治氏の反応:


たしかにマルクスは、当時ドイツで隆盛を誇っていた哲学的な思想潮流について、

「思想研究をすることで思想に反論する」という形を採らずに、

端的に経済研究にのめりこんだのでした。


佐々木氏が「hamachan も指摘しているような皮肉」とおっしゃるのは、↓これですね。

 私の目からは、ここで思想系をdisっているようにみえる稲葉振一郎氏こそ、一番現実社会の「思想」よりも思想家の「思想」にばかりかまけている人に見えるからで、ここでの稲葉氏の発言自体、一種の近親憎悪というか、同じ思想系同士の「そのブドウは酸っぱいぞ」に響くところがあります。(濱口桂一郎『労働と「思想」』)


思想系を批判する稲葉氏じしんが、現実社会を無視しているじゃないか、と。

「学説オタクではダメだ」ぐらいの意味でしょうか。


カール・マルクスは、「思想家の思想」を研究して終わらせるつもりがなかった、という意味では、「思想研究をしていた」とは言えません。しかし、経済学説に現れた思想については、しつこく問題にしていた――とは言えそうです。


関連して、濱口氏の発言で興味深いのは以下の部分でしょう。

 私にとって思想家の「思想」が興味をそそるのは、それがケインズの言う意味で、後代の現実社会のプレイヤーをその思想の奴隷とし、現実社会を動かしてしまうことがあり得るからです。労働の世界はとりわけそれが顕著であるだけに、思想家の「思想」抜きに現実社会研究もあり得ないのですが、その限りということになります。「本当に正しいマルクス解釈」なるものに関心が持てないゆえんでもあります。


数理科学のようにテクニカルな学問に見える経済学も、

その基礎づけにおいて、何らかの《思想》を生きている。


であれば、稲葉振一郎氏を《思想家の「思想」にばかりかまけている》と批判する濱口氏も、すでに何らかの「思想」に毒され、それに気づかないまま、自分の正当性を構築しているはずですから――そこを分析する必要がある。


そういう分析を目の前で共有する技法が、労働参加において《臨床的に》機能するのです。少なくとも、そういうことを話題にできる言説環境が要ります。



結論より前に、議論の方針そのものの問題

ある議論が、

  • 状況の悪化に加担している努力なのか、それとも、
  • 状況を改善するほうに回っているのか。

それが、議論の結論部分ばかりでなく、議論方針そのものの問題だとしたら。

――このモチーフに気付けている人が、今のところほとんど居ません。



【2月4日の追記】

自分たちのディシプリンに凝り固まって、それをやっていれば「業績も雇用も確保できる」「大事なことはこれですべて」と思い込んだ人たちは、それでは対応できない現実については、まったく考えようとしません。――この人たちにとっては、実際に生じている事態というのは、存在しないことになっている。

労働を専門に研究している人たちですら、こんな状態となると――どこに攻め込むべきか。ふつうに議論を続けても、誰も聞いていません。



*1:cf.『日本の雇用と労働法 (日経文庫)

*2:技法論的な趣旨は、たんなる実学でも、たんなる思想研究でもありません。むしろ実証科学まで含めて、すべての議論には技法論的な前提や実態があるので、それを分析しなおす必要があります。

*3:ディシプリンを「無視しろ」とは言っていません。議論のフレームを固定すべき場面はあります。

1968 | 08 |
2000 | 09 | 11 |
2003 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2004 | 01 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2005 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2010 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2011 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2012 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2013 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2014 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2015 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 10 | 12 |
2016 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 07 | 08 | 10 | 11 |
2017 | 01 | 02 | 03 | 05 | 06 | 07 |