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[語句説明]

2015-03-29 「わかりやすすぎる現実」にいかに抗うか このエントリーを含むブックマーク

リンク先は美術の話ですが、モチーフとして共有できる点を感じたので、

引用しながらメモします(強調は引用者)。


「触れられていない事象や側面」

 それとは別に、本当に語られていないことや触れられてこなかったことはたくさんあるはずです。これまで特権的な語り手が、〔…〕 実はこの大雑把な構図の下には、触れられていない事象や側面がある。その、我々に届かなかった歴史(デッドストック)をどう考えるのか。


「デッドストック」という言葉からは、東浩紀氏の『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』を思い出す。これは、情報断片としてのエクリチュールが届かずにいる、という話だったが――「触れられていない事象や側面」という永瀬氏の言い方では、《当時その場にあった、状況に対する引き受けかた、制作スタイル》に照準する視点も感じる。私はそっちをむしろ考えたい。

東氏の議論では、「どのように引き受けるか」というのは、その人の資質の問題でしかなく、それは確率的に身に帯びてしまう運命的なものであって、技法的にどうこうする主題ではない。各人の資質も、情報断片も、確率的に論じるだけで、集合的な試行錯誤のモチーフではない。東氏には、《引き受け方》に照準したモチーフがない。

東氏にとって、知的分析の作業過程は、確率的(運命的)に付与された資質として自明の前提であって、「東浩紀はこのようにしかやりようがない」という話にしかならない。東氏にとって、分析というのは彼が遂行するようなメタ理解を描き出すことであり、彼が作り出す集団は、その彼のスタイルを受け入れる形をしている。――だから東氏には、《集団がどのように営まれているか》という当事者的な分析が動きにくい。「合うか、合わないか」が全てになってしまう。そこには、集合そのものの技法論を考える余地がない(少なくとも焦点になりにくい)。


これは東氏にかぎらない。アカデミズムも含め、《論じる自分がどのような知的態勢をとっているか》、つまり《どのような集合的あり方をしているか》というのは、ほとんどモチーフになっていない。であれば、どのような作品が評価されるかも、自覚されないままに決まってしまっているだろう。



「なんでもあり」になった結果、かえってシンプルな権力が

 相対的に、やはり美術館は強いということになる。しかし、その強さの実態は、近代美術という理念とか哲学に裏付けされた「権威」ではなく、予算とか設備とか、あるいは人的ネットワークといった要素によってなのですね。〔…〕

 動員予測や行政への説得テクニック、スポンサーの獲得力を含めた「使い勝手」の分かりやすい所に決定権がより一層偏重していくのではないか。象徴的なので美術館を挙げていますが、大学、あるいはアートマーケットの内部だって同じだと推測します。〔…〕

 「なんでもあり」になった結果、すごくシンプルなかたちでの「権力」、かつてのような理念性を盾にした「権威」ではない、金額や予算として数値化されている分抗うことが難しい「権力」を持っている場所や人や企画に、いろんな決定権がすうっと持っていかれてしまう


強力な権威づけが誰にもできなくなったぶん、ぎゃくに「わかりやすい回路」がすべて持って行ってしまう――これは私は、精神薬理学のエビデンス談義や、名詞形《当事者》概念の周辺で、嫌というほど味わっている。頑張ってイレギュラーに分析しても*1、行政の仕事に乗りやすい名詞形カテゴリ(診断名と役割固定)のほうが、人を説得しやすい(≒予算を取りやすい)。*2


 大事なのは美術館かオルタナティヴ・スペースか、という話ではなく「結局はお金」とか「結局は人事(人脈)」といった、あまりに貧しく単純な“現実の反映”に美術の可能性が落ち込むことなく、いかにそのような即物的決定権、自分自身を規定して行く諸条件に抗うかではないか。


集合的な生活に参加すること、働くこと。

それを、「わかりやすすぎる」話で終わらせてしまうのか。

それでは、絶望のあり方も、わかりやすく終わってしまわないか。



*1:動詞的に、つまり当事化的にあれこれやり直しても

*2:ありていに言うと、「これは《○○》の《当事者》が頑張ってる話なんです」みたいにすれば、「社会的に意義のある活動」と見做されやすい。私はそういう「わかりやすさ」が孕んでしまう問題を論じているが、この抵抗は、人を説得する活動を一からやり直さねばならなくなる。

2015-03-25 芸術の趣旨と臨床の趣旨は、お互いに単に外在的なのか このエントリーを含むブックマーク

以下の公開研究会に参加してきました。

関連:*1


臨床には臨床の趣旨技法があり、

芸術には芸術の趣旨技法がある。


芸術を志すかたは、芸術の趣旨と技法に従ってご自分を追い込み、身を捧げるのだと思います。それは、「患者さんを元気にする」という臨床事業とは、ひとまず別の趣旨であるはず。結果として患者さんを元気にすることはあるとしても、アーティストの趣旨や技法は、患者さんを直接目指すわけではない。


では、「患者さん」の枠内に置かれた誰かが作品活動をするとき、

あるいはアーティストが「患者さん」と一緒に何かをするとき、*2

その営みは、どう位置づければよいでしょうか。


――芸術と臨床は、それぞれに自律的で、お互いに外在的なのか。

患者さんと取り組む活動は、「芸術の本道」からは外れているのか。*3


そういうことなら、この協働にはたいした言及価値がありません。「アートセラピー」というのは、いわば筋肉のリハビリみたいなもので、福祉的な臨床事業ではあり得ても、批評にとっての意義はゼロ。


いやそれとも、病気との格闘を続けるかたの制作活動や、そういう方々との共同作業には、芸術それ自身にとっての内在的な意義があるのでしょうか。


芸術が「危険な」何かを追究するなら、むしろそういう活動からは患者さんを遠ざけ、安全な「セラピー」に徹するべきかもしれません。――しかしそうではないとしたら――つまり、患者さんが芸術活動に取り組むことが、臨床内在的な意義を持ち得るとしたら、芸術は、臨床そのものにとって内在的な契機であるはずです。*4


アーティストは、みずからの趣旨に従うだけで、自動的に臨床活動の一部を担っていると言えるのでしょうか。また逆に、患者さんが施設で取り組むアート活動は、「趣旨としてはアーティストと同じだ」と言ってしまって良いのか。


研究会に参加しておられた服部正氏(『アウトサイダー・アート (光文社新書)』著者)によると、アールブリュットやアウトサイダーアートに関して、

 あそこはセラピーだから

という評しかたがあるそうです。つまり、「だからつまらない」と。


これは、患者さんであっても、その活動にはセラピーを超える趣旨があり得るし、その認識がすでに、業界内の批評として動いている、ということでしょう。*5



【参照】practica〈2〉アート×セラピー潮流 (プラクティカ (2))

ラボルド病院の院長ジャン・ウリ(Jean Oury)の発言より(p.149):

 アートセラピー? それは何だ? ああ、あのアメリカ流の?

 そんなものはここには存在しない。


「アートセラピーはない、芸術があるだけだ」というジャン・ウリの言葉は、しつこく取り上げ直す必要があると思います。簡単には賛同できないことも含めて。



*1:東浩紀氏が tweet に貼りつけたリンク先は文面が改変されたようですが、言及の際に問題にしていた文面は、以下だと思われます参照。→《5. 芸術の価値を福利厚生の一つとして社会に根付かせる》《地域アートと国内外の企業、行政組織、研究機関等を連携させ、組織のなかに「総務部アート課」をつくり、福利厚生の一つとして芸術を社会に根付かせることを目指す。》

*2:音楽、絵画、彫刻などのほか、演劇という集団芸術も

*3:「メインストリームでの真っ向勝負ができないから、病人と一緒にやってお茶を濁しているんだろう」などと、陰口をたたかれる類いのことなのか。

*4:三脇康生氏の発表によると、ひたすら真剣に芸術活動に取り組むことを、自覚的な臨床活動としてやっている施設もあるらしい。

*5:斎藤環氏がアールブリュットに接するに当たり、批評を禁止すべきだと言ったのは、まったくトンチンカンということになります。実際に動いている批評の事情を知らずに、ポーズを取っただけではないでしょうか。

2015-03-24 「福祉専門職の統合を検討」 メモ このエントリーを含むブックマーク

 すでにある資格を持つ職員が別の資格を取り直したりしなくて済むような方策を検討する。フィンランドの保健医療の基礎資格「ラヒホイタイヤ」などを参考に、職種の統合も視野に入れる。

これに関連し、

緊急雇用対策本部推進チームの活動状況」(首相官邸)ページ下部、

「介護プロフェッショナルワーキング・グループ」の、

第2回(平成22年12月20日)「議事次第」「議事録」より。




 介護人材の確保、資格間の流動化を進めるためには、対人援助資格の統合化が有用と考える。


ラヒホイタヤ lähihoitajaとは

  • フィンランドの社会・保健医療共通基礎資格
    • 保健医療分野と社会サービス分野の日常ケアに関する、様々な中卒レベル資格を一体化し、一つの社会・保健医療基礎資格としたもの。
      • ※ lähihoitoとは、英語 near care(日常ケア)に相当
      • 資格の英訳は、practical nurse
      • 養成教育期間は3年間、120単位


ラヒホイタヤ資格の前身10資格

  • 保健医療部門における7つの資格
    • 准看護婦、精神障害看護助手、歯科助手、保母/保育士、ペディケア士、リハビリ助手、救急救命士−救急運転手
  • 社会ケア部門における3つの資格
    • 知的障害福祉士、ホームヘルパー、日中保育士


2015-03-22 「当事者」は、政治活動の主体であって、意見はお互いに対立する このエントリーを含むブックマーク

私が斎藤環氏に反論したのは、まさにこれの実演です。

しかしその結果生じたのは、仕事の場からの排除でした(参照)。*1

もちろん抗議は続けますが――紛争そのものは、意見表明にはつきものです。


《自ら環境を変えていく権利と義務》――これは政治活動への誘いであって、「何を言ってもチヤホヤされる」というような、子ども扱いの局面ではありません。


不登校や閉じこもりの「当事者」を特別扱いするのに、いざ大事な議論が始まると、権威者である医師や学者への反論は許さない。そういうことが繰り返され、けっきょく、介入が許される話題は極端に限られています*2。――このままでは、欺瞞的なダブルスタンダードにすぎません。


逆にいうと、発言を試みる限りは、それに応じた勉強や訓練が必要です。読書も議論もせず、試行錯誤も重ねない「当事者」に、何ができるというのでしょう。*3――そもそも「当事者」は、お互いに言うことが食い違いますし、「当事者」どうしの間で、意見は常に対立しているのです。


支援者や学者は、この当たり前の事実に見て見ぬフリをします。

ご自分たちの「仕事のやり方」に抵触しない声のみを取り上げ、

それをやたらと尊重するポーズをとる…



*1:オフラインの会話で気づいたのですが、「上山が怒って降りた」と勘違いされるかたも多いようです。これは、私が行なった批判に対して、斎藤環氏が往復書簡そのものを投げ出した事案です。私による批判趣旨は、その後もずっと続いている大事な話です。▼斎藤環氏は、私と同じ趣旨のことを岡崎乾二郎氏(著名な美術家)に言われたときは黙認し(参照)、それどころか、岡崎氏への個人崇拝的な解説文まで捧げています(『ルネサンス 経験の条件 (文春学藝ライブラリー)』)。――斎藤氏が雑誌『ビッグイシュー』で私に向けた怒りは、「ひきこもりのくせに俺に反論した」というような、差別的な見下しであったことは明らかです。

*2ひきこもり大学と名付けられた活動は、医師や学者の仕事に本気で介入するつもりなのでしょうか。それとも、(幼稚園の砂場で砂山を作って褒められるように)子ども扱いで満足するのでしょうか。▼こういう「美談」は、ジャーナリストの業績にはなるでしょうが、取り組んだ本人たちの業績にはなりません(業績扱いされるとしても、あくまで「別枠」でしょう)。

*3:難しいのは、ここで勉強することの中身です。既存のアカデミックな議論は、主観性や身近な関係を扱うスタンスを持たないために、それ自体が問題事情の加担者になっています。▼不登校や閉じこもりの経験者が、アカデミックな議論に触れた結果、極端な体制順応者として官僚的な物言いを始めるのがよくある光景です。――「ひきこもりはネトウヨ」という決めつけをよく見ますが、むしろ閉じこもる人の多くは、「ナイーブな左派」になりがちです。

2015-03-15

必要な問題意識と、業績の問題意識 必要な問題意識と、業績の問題意識を含むブックマーク

事態改善のためには耳目を集めなければならないとして、

しかしいつの間にか、注目を集める動きが自己目的化する。


ジャーナリストもアーティストも、一時的に耳目が集まれば自分の業績になる。

しかしそれは、事態を改善することとは(ひとまず)別の動きであるはず。

下手をすると、ジャーナリスト本人、アーティスト本人の都合が優先される。


業績のロジックが独りよがりな暴走をするのは、医師や学者も同じ。

そして「当事者」も。*1


承認をめぐる環境が、たんに身勝手なだけの「問題」を作ってしまう。

詰め将棋のようにそれを解いていれば、「問題に取り組んでいる」ことになる。

規範言説の暴力も、ここにある。



「思い」という抑圧 「思い」という抑圧を含むブックマーク

 「大川小の校舎を残したい」

 そんな思いから、

 こう思いを明かした。

 強い思いが伝わる内容となっていた。


「思い」という語は、そういう語でまとめる自分の態度が生んでしまう問題を無視する。(「当事者の思いに寄り添っているのだから、無敵の正義を担っている」と思い込む傲慢さ)*2


耳目を集めるフックとして、「子供」「当事者」を前面に立てる危うさ。

私自身もつい、こういう態度に流れる。

しかしそれは、必要な分析生成をかえって抑圧する危険を伴う。



*1多くの報道は、深刻さを強調する感情論やセンセーショナリズムに終わり、その人を含む集合的事情は改善されない。注目される「当事者」も、メディアに消費されて終わる。

*2:「ひきこもり」に関する池上正樹氏の記事は、つねにこのスタイルを反復している。

2015-03-04 いまは、理論言説を現実世界に引きずりおろす途上 このエントリーを含むブックマーク

規範から技法

  • 不登校・ひきこもり・依存症――これらにとって規範言説は有害。必要なのは技法の試行錯誤。*1
  • 「私は健康とされているから再検証の必要はない」では困る。《集合的な場》の技法論的醸成に、加担責任がある。*2
  • 知的言説が規範論に終始しているために、オタクや引きこもりについては、「全肯定か全否定か」の不毛な対立に落ち込む*3。しかし技法論の立場からは、それぞれを技法のありようと見たうえで、「改善の余地は残る」と言えば済む。(改善の余地の残らない技法などない)
  • 論じる自分が、有限な効能を持つ具体的技法を生きていることを忘れる議論は、有害になる。
  • 規範言説それ自体の、全体主義的な性質。相手を善悪に色分けし、差別する。――必要なのは技法だというのに。


理論は技法の一形態

  • 物質科学も数学も、それをやる私たち自身が時空の一部である以上、いわば《時空を営む技法》の一部にすぎない。
  • 理論だけがニュートン的な絶対時間・絶対空間を生きるわけではなく、言説と記号も、時空連続体を生きる。私たちは、集合的に生きられる形での時空の技法を考えざるを得ない。
  • 事実命題と規範命題を分けて終わってしまうのでは困る。あるスタイルでの事実理解と、あるスタイルでの規範理解は、技法内部の要因にすぎない。場面に応じてそれぞれを位置づけなおす必要がある。
  • 「脳と体が矛盾している」というより、脳そのものの集合的身体性が問われる。▼「脳と体が矛盾する」とよく言われるが、そう論じるのも脳なので、この表現じたいが矛盾してしまう*4。また「脳」を孤立的に位置づけてしまうと、身体性それ自体が記号的・社会的に生きられることを忘れてしまう。――これはけっきょく、《身体》を神秘化して終わりがち。つまり、記号的要因への理解をメタに回収して終わる観念論になってしまう。必要なのは、記号の生それ自体を身体的・時空的・集合的に生きなおすこと。


努力の設計図

  • 規範言説は、事業としての自分じしんに傲慢に言及する。つまり、「規範理論をやらねばならない」がメタに固定される。これでは、規範言説そのものが技法論的吟味を逃げられないことに気付けない。
  • 規範言説は、自分の技法論的前提を知らない。研究する必要性にすら気づいていない。(メタ言説は、私たちの時空的・集合的身体を監禁してしまうというのに)
  • 探求フォーマットを規範言説に固定した時点で、最初の第一歩を間違っている。そのフォーマットのままいくら続けても、間違い続けたまま。*5


時空の試行錯誤

  • この社会でうまく生きられない状態をめぐっては、(1)物質科学、(2)政治や政策の状況、(3)背景となる技法的フォーマット、(4)アクセスできる個人の事情、(5)いま同席している場でのタイミング――など、さまざまな要因に具体的に配慮する必要に迫られる。
  • これを芸術領域を参照して「キュレーション」と呼んでも、さほど外してはいないはず。→対人支援にとどまらず、現実生活そのものが、さまざまな領域やレベルにおよぶ《総合的なキュレーション活動》であるほかない。*6
  • 身体臓器の医学なら、物質科学「だけ」でもそれなりに機能する。しかし時空間のやりくりは、居丈高な理論や規範だけでは成り立たない。


      • 【追記】:「理論言説を現実世界に引きずりおろす」――これではまるで理論言説が現実世界にないみたいで おかしいのですが。言葉と世界の関係の作り方がおかしくなった状況を問題にしています。



*1:「厳しい話をしてはいけない」のではなくて、厳しい話も、技法という視点から位置づけなおす必要がある。この《位置づけ直し》のスタンスの話をしている。

*2:物象化のもんだいは、放置してもよいと思う側と思えない側で、利害が対立する。

*3:全肯定できなければ「差別的に否定しているんだろう」と責められるというわけだ。

*4:「脳と体が矛盾している」と指摘するだけで、いきなり身体側に加勢できるわけではない。――これはマイノリティ論に似ている。

*5:リベラル系の規範言説が、間違いの再生産様式になっている。

*6:むしろキュレーションを、身体性をともなった集合的時空間の試行錯誤として位置付け直せる。

2015-03-02

【Asia Insight「中国 捨てられた子供たちを救え!」】(NHK)参照【Asia Insight「中国 捨てられた子供たちを救え!」】(NHK)【参照】を含むブックマーク

再放送をぐうぜん視聴。

 中国では捨てられた子どもが毎年10万人に達する。多くは難病を抱え、医療費を払えない親が手放すケースだ。


取材されていたある一例(画面に映し出された大まかな経緯)

 父親に置き去りにされた2〜3歳ぐらいの女児。自分が捨てられた事実を理解していない。ケーキを食べさせると、「弟にも食べさせたい」という。

 末期のガンが左腕の骨にまで転移しており、激しい痛みがある*1。父親が残したらしい置き手紙には、「治療費がすでに300万円にもなり、妻もいなくなった。息子もいるし、とても娘の治療の面倒を見られない。やさしいかた、どうか助けてあげてほしい」(大まかな趣旨)

 病院の掃除係の女性(Aさん)が、痛がって泣く女児の腕を、その子が眠るまでずっと さすってやる。Aさんは笑顔だが、涙を流している。

 子供の腫瘍専門の病院に転院の日、スタッフは「もうすぐお父さんが迎えに来るからね」とウソを言って女児をあやす。この子は1か月後に亡くなった。



*1:骨に転移したガンには、大人でも耐えられないほどの激痛があるという。

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