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2015-12-31 「政治を生きるのは、成果主義なき実験台となること」(廣瀬浩司氏) このエントリーを含むブックマーク

廣瀬浩司氏のツイートより:*1

    • ラボルド病院の同僚として、Félix Guattari とジャン・ウリは、常に比較されます。その場合、「政治運動の直接行動に出た Guattari は政治的だったが、病院内で医師をやっていたウリは政治をやっていなかったと言われるのが普通です*2。ところが上記ツイートで廣瀬氏は、それとは別のことを言っています。
    • 「政治的なものに身を委ねるたやすさ」というのは、わかりやすい評価軸(≒党派性)が期待できるフィールドで、それに合わせて振る舞うこと、でしょう。就労が難しい昨今は、ほとんどの人がこういう配慮に迎合せざるを得ません。
    • それに対して、実態を暴露してしまうような、生成的で内部告発的な分析については、それを口にしたところで、評価されるとは限りません。なにしろ、《評価してもらうフィールド》そのものの成り立ちを問題にすることにもなるので。▼勇気をふりしぼって本当のことを言っても、誰も反応しない(あるいは追い出される)――かもしれない。(この「かもしれない」に《実験》がある)
    • 自己検証である以上、《何をどう評価するか》から、原理的にやり直す必要があります――そういうよく分からない時間に、自己検証的な試みを晒してみる。「成果主義なき実験台となる」とは、そういう底の抜けた時間を生き、他者からの検証を待つことでしょう*3。これは、被害者や弱者を意味する名詞形「当事者」になるのとはまったく違った意味で、自分の当事者性(≒関与責任)を検証する、動詞的な動きです。
    • 体制や反体制の動きに順応し*4、《実験台》をやらずに済むなら、それはそれでいいのかもしれません。しかしどうも、「このままじゃ、まずいんじゃないの」と言いながら、どんどん追い詰められる。何かほかのやり方を、探すしかない。


「生きてしまった」という微妙な言い方。

この、受動と能動の織り交ざったようすは、メタに立って一方的に相手を断罪するヒロイズムではないはずです。何か見てしまって、何か生成してしまった――ここには、理念と対象を同時に扱わざるを得ないような混交があります。それを引き受けなおす動きには、根幹からやり直さざるを得ないような、いわばその都度オリジナルにならざるを得ない、《政治を生きる》がある。(そういうことをやらなければ、《政治を生きる》にならない)*5


批評というものが、ひたすら自分だけがメタに立つ《診断》にすぎないなら、

それはメタに見えて、じつにベタな党派性であり、そこに《実験》はありません*6。メタを気取る語りでは、語りのスタイルにおける自らの加担責任は、なかったことにされます。技法や関係スタイルについてのベタな関与責任が、メタの装いのもとに抑圧されるのです(言説化が禁じられる)。実験をやっていないが、「実験をやっていない」という事実そのものが忘却される。言説が初めてそこで生成されるようなあり方が禁じられる(禁じられていること自体が忘却される)。そして、卑劣きわまりない「客観性」の装いで、事態が進んでいく。


このあたりについて、廣瀬氏は先日こうも語っています:

語りにくいことを語るには、それにふさわしく、問題意識をやり直す必要が生じてきます(ベタな告白語りというのは、じつは出来合いの、パターン化した、「語りやすい」語り方にすぎません)。そして、追い詰められたからと言って、必ずしも必要なモチーフは削り出せないわけで、ここにも《実験》があります。*7


今の状況においては、

危険を冒してでも《実験》に乗り出さざるを得ない側と、そういう動機づけを抱えない側との間に、紛争状態があると言えそうです。――左派が必ずしも実験をしているわけではないし、いわゆる弱者が、必ずしも実験の動機づけを抱えているわけではない。そういうことをつぶさに見てゆくことに、《政治を生きる》がありそうです。



*1:トスケイェスについては、こちらを参照。

*2:左翼系では、つねに繰り返される論評だと思います。

*3:評価の環境が硬直していれば、「バカじゃねーの」と遺棄されて終わります。

*4:反体制というのは、たいていそれ自体が全体主義的で、官僚的であり、つまり順応主義にすぎません。反体制をやっているご本人は、「逆らってる」つもりなんですが――その「さからい」がイデオロギー的に固着し、自分の条件づけを検証するような柔軟な言動ができなくなっているわけです。

*5:オリジナルになるというのは、あんまり嬉しくない、苦痛と痛みに満ちたものかもしれない。

*6:《実験》には、党派的確信そのものをやり直すという契機すらあるはずです。

*7:名詞形の「当事者」に居直ってしまえば、語りのパターンは安定しますが、必要なことはもう語れなくなります。

2015-12-25 政治的な武器としてのセクハラ冤罪は、なぜ可能か このエントリーを含むブックマーク

2015年は、これまでにも増して、左派のおかしさが剥き出しになったと感じました。当事者論に関連して決定的だったのは、セクハラ冤罪バリケードの件です。

D

 民主参院幹部は「女性が前面に出れば手出しできない。女性による安保反対は絵にもなる」と解説した。(毎日新聞


関連記事


全国の注目が集まる場で、しかもTVカメラがたくさんあったからこそ、「セクハラだ」の訴えは、相手にされませんでした。しかしカメラも録音もない状況で、政治的悪意をもって「セクハラだ」と言われたら。女性の嫌悪感を神聖視しがちな現状では、男性側からの反論は難しいでしょう。*1


左派系メディア『LITERA(リテラ)』は、「セクハラ作戦という報道はデマだ」と、露骨なウソを書きました参照。証拠映像がある場合にすらウソを書くとなると、詳細な記録が期待できない場合には…。*2


以前からも話題になってはいましたが、

 相手を政治的につぶすための武器として、《セクハラ冤罪》が使われる

そういう方針が実際に機能していることを、(おおやけ)の場で確認できたわけです。


ここには、《絶対に批判してはならない枠組みとしての当事者》という、硬直した政治フレームが動員されています。――右であれ左であれ、名詞形《当事者》概念が、どれほど卑劣で暴力的な使われ方をするか。これをまず自分自身について検討しなければならないのですが、

みずからの言説のありようへの分析を拒絶する勢力は、おのれにおいてどういう方針が採択されているかに気付けないがゆえに、みずからが信用を失っていく理由についても分析する能力がありません。自分たちの狂信性を解体的に検討する、自己検証の能力を持たないわけです。


これについては、簡単にメタに立って「私は正しいがあなたは間違っている」と言うことができません。それどころか、メタに立つことを原理的に出来なくするような問題設定であり、それが私たちの言説の条件になっている。――これを検討できている言説事業が、ほとんど見当たりません。


まずはこの言説事業そのものを、社会的に基礎づける必要があるのです。



*1:男性が女性に話しかけて嫌な思いをされた場合は、いっさいの事情検証は許されず、いきなり「セクハラ」として糾弾されます(参照)。――《女性の嫌悪感》が絶対視され、反論はいっさい許されないわけで、そのことが政治的に利用されています。

*2:今年夏の安保法案反対・国会前デモでは、主催者発表による「参加人数の水増し」が問題になりました参照。▼「歴史修正主義」は、以前はもっぱら右派を指す用語でしたが、じつはそれが左派の問題でもあることが、パブリックイメージとして(ますます)定着したように思います。

2015-12-16 映画『ハッピーアワー』観てきた このエントリーを含むブックマーク

5時間17分に3900円はハードルが高かったが、地元神戸で作られていること、そして監督・濱口竜介の発言が興味深く、足を運んだ(@元町映画館)。結果として、重大な示唆をもらうことになった。この件はずっと考えたいし、知人たちと話し合ってみたい。*1

    • 以前には読み合わせという方法論を考えたが――対人の支援が、演技指導や演出論と重ならないだろうか。「自分で自分への演出をする」ということも含め。
    • 《当事者》という名詞形には、《演じる》という動詞形の要因がある。「役割を押し付けられて利用される」「それを当事者側も利用する」「自分の役割を考え直す」といったこと。
    • 昨今の言説においては、表向きの看板と論者の実態がかけ離れている。つまり言説そのものが、「演じる」という形をしている。
    • 冗長に見える場面も、現実そのものの時間の感覚に近い。『ハッピーアワー』という作品に付き合うことで、自分の時間の感覚を取り戻せるところがある。ヴィム・ヴェンダースがどこかで、「小津安二郎は私の目を治してくれた」と言っていたことを思い出した。
    • いわゆる「アイドル」とは別の、生活に密着した存在感。→有名人の演出のされ方に私が強いストレスを感じていることを思い出させてくれた。
    • 一部の素人っぽい演技にもかかわらず、作品世界には説得力があり、5時間17分を長すぎるとは感じなかった(むしろもう少し顛末を追いたかった)。
    • この映画を観終えた帰りの電車で、女性たちの顔が違って見えた。


書籍

カメラの前で演じること

カメラの前で演じること

出版社の書籍紹介ページより:

 演技経験のない4人の女性たちがロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞し話題となった映画『ハッピーアワー』。【拙ブログによる補注:その後さらに、ナント三大陸映画祭で銀の気球賞(準グランプリ)および観客賞を受賞(参照)、シンガポール国際映画祭・アジア長編映画コンペ部門では監督賞を受賞(参照)】

 市民参加による即興演技ワークショップ in Kobeから誕生し、ほとんどの登場人物を演技未経験者がつとめるという本作は、総尺5時間17分という驚くべき大作となった。

 これまでにない試みで映画をつくりあげたのは、映画学校の生徒たちを起用した4時間を超える大作『親密さ』や、トータル7時間を超える東北記録映画三部作(『なみのおと』『なみのこえ』『うたうひと』)など、常に挑発的な作品づくりを続けてきた濱口竜介。

 カメラの前に立つ者は皆、本人が思う以上のことを為す。カメラの前で為したあなたの振る舞いが、これから日々、この世界の価値を支える、もしくは貶める。(濱口竜介「はじめに」より)



関連情報


制作資金は、クラウド・ファンディングで集められた参照

『KIITO』「成果発表:『BRIDES(仮)』公開本読み」より:

 「濱口竜介 即興演技ワークショップ in Kobe」は「カメラの前で演じること」をテーマに、2013年9月より5ヶ月間のワークを重ねてきた。ワークショップ終了後、有志による長編映画制作に入る。

 ワークショップ参加者全員で、シナリオ『BRIDES(仮)』*2の本読みを全編通しで行なう。シナリオはワークショップ参加者によるブラッシュアップを経て完成したもので、今後制作される映画を「テキスト」の側面から予告する。台詞・ト書きの読み上げは、テキストに内在する「声」を聞き取るようにして、行なわれる。



*1:とりわけ『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』の関係者には、この映画を(制作過程の経緯と合わせ)知ってほしい。

*2:のちに『ハッピーアワー』に改題され正式発表された。

2015-12-06 「その体験は、完全に無駄だった」のか このエントリーを含むブックマーク

髭男爵・山田ルイ53世「引きこもりは完全に無駄

 人生の豊かさという意味で完全にロス。みんなと一緒に楽しく勉強して遊んだ方が絶対にいい。人生設計的にも苦境に追い込まれますからね。美化するのは違うと思うんですよ。

 引きこもったら、不登校になったら、後々どれだけしんどいことになるかがよくわかります。ツケは自分で払うしかないんですよ。よく歌詞で「歯車になりたくない」ってありますけど、歯車、親の敷いたレール、めっちゃいいですよ。ドロップアウトすると、こっちは純正の部品じゃないから組み込まれるのはなかなか難しい。


《その体験は、完全に無駄だった》――

病気・貧困・事故・犯罪被害・障害・医療過誤など、

「あるよりは、ないほうがいい体験」について、つねに問われ得るモチーフだと思う。


安直な美化は、弱さゆえのイデオロギーであり、必要な問題意識をかえって抑圧してしまう*1。その逃避的な態度は、じつは体験を受け止められていない。


むしろ重要なのは、周囲に迷惑をかけてまで追い詰められたことから、どういう闘争のモチーフを持ち帰ってくるか。それは、より根本的な《肯定》でありつつ*2、体験のたんなる「全面肯定」ではない。

以前の自分からは思いもよらないテーマでも、今の自分にとってあまりに自明で、必然性の強さに満ちたモチーフ。それをどう再構成できるか*3。これについては、《体験の内側から》やり直してみるしかない。既存の言語には、ここで生産される、イチからやり直される問題意識は書き込まれていない。


ここの部分を描き出せる学術や報道の言語が、なかなか見られない。これも自分で作り直すしかない。



*1cf.『引きこもり狩り』について▼たんに全面肯定するのでは、これからも「ひきこもることしか出来ない人」はどんどん増えてよいことになる。また引きこもり状態は、あくまでご家族の犠牲の上に成り立つのだから、「全面肯定」論者は、この負担コストを考えず、中央政府のような命令で「ご家族への強制労働」をさせようとしているに過ぎない。

*2:ニーチェ的な《肯定》を、私はこう理解している。

*3:単に独善的なワガママには、必然性の強度はない。

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