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無意識日記々

2017-11-25-Sat

[]2017年11月24日のツイート

2017-11-24-Fri

DREAMing of YOU

鍵は『dreaming Of You』にある。「君の夢を見る」。歌詞としては何て事はないが、この一文で『夢』と『君』が繋がるのだ。

『In My Room』は片想いの歌だ。それは間違いない。『廊下ですれちがったけど 君は気づかない 名前すらきっと知らない』のだから。

その"普通の解釈"には一切疑義を挟むつもりはない。しかし、一歩踏み込むと恐ろしい事に気づく。この歌は『君』が実在する必要はないのだ。そう、居もしないのだから気づく筈もないし、私がその人の名を知る由もない。それでも、この歌は成立するのである。

しばしば、英語の"you"は主語として"消える"事がある。例えば"you might mistake"なんて言えば「人間、誰しも間違える事くらいあるさ」くらいのニュアンスになる。一般論や誰にでもよくあてはまる命題を語るとき主語は"you"が選ばれる。日本語にする場合は「誰か」とか「誰しも」になる。

ヒカルはこの"you"の感覚を日本語の『君』に適応した。ここから先の話はどうやったって来週になってしまうので途中を全部すっ飛ばして答を書いてしまうと、だからこそ一つの歌の中で『君がいるなら同じ』と『君がいないなら同じ』が共存できるのである。実在しない対象に対して『いるなら』も『いないなら』もさほど違いはない。結局いないのだから。いるならそれは夢であり、いないならそれもまた夢なのだ。いる事が嘘になるだけで、いないと言い及ぶ事そのものに意味があるのだから。

この、『夢』と『君』が溶け合った状態について『宇多田ヒカルの言葉』で誰かが書いていてくれれば面白いのだが、それはちと踏み込み過ぎか。他力本願は程々に。そんな人は夢の中にしかいないのだから。

向かうののと夜見るののと

『夢と現実』を対比させかつ『愛とは現実を受け入れる事』という命題を掲げる。ヒカルは、つまり、夢と愛を(一貫して)対となる言葉の組として捉えている。

更に、夢には向かうのと夜見るのの2つがある。愛と対になっているのは向かうのの方だが、ヒカルの詞には夜見るのも出てくる。更に「眠る」という行為を通じて夢の世界というものも描く。『Beautiful World』などを思い出してくれれば。

ヒカルにとって夢の世界とは悪夢の世界でもあり、あなたにとってそれは「現実の方がイージーモード」な事を意味する。ヒカルがエスケープするのは耐え難い苦しみと恐怖の世界に満ちた悪夢の世界ではなく、冷徹だが理路整然とした現実の方なのだ。世界は空間を隙間無く埋め尽くしては消滅し次の時刻に進むテトリスのようなものだから。

そのヒカルが『夢にエスケープ』と歌うのだから皮肉というか何というか。

実際、この歌での現実の描写はそこまで惨たらしくはない。『戦うのもいいけど疲れちゃった』『街のざわめき心地いい程冷たく優しく包んでくれる』『泣いて笑って傷つくのもいい』という風に、色々あるけどまぁなんとかなるかな、くらいのニュアンスだ。

現実はここまで惨いものなのか、といいながら夢にエスケープするならわかりやすいが、そうでもないのに『夢にエスケープ』と歌うのはなぜなのか。君がいたりいなかったりするから、だ。ここまで踏まえた上で、漸く前回の日記の続きが描ける。次回、その話から、になるかどうかはまだわからないけれど。気まぐれなんだよね自分。

[]2017年11月23日のツイート

2017-11-23-Thu

唐突に『In My Room』の歌詞の話

『In My Room』の歌詞は構成的だ。サビの歌詞、一番も二番も三番も『夢も現実も目を閉じれば同じ』は『夢も現実も目を閉じれば同じ』だが、繰り返しに対応する歌詞はそれぞれ、

一番:『ウソもホントウも口を閉じれば同じ』

二番:『ウソもホントウも君がいるなら同じ』

三番:『ウソもホントウも君がいないなら同じ』

となっていて、総て変化している。

一番は対応が最もわかりやすい『夢も現実も』に対して『ウソもホントウも』、『目を閉じれば』に対して『口を閉じれば』がそれぞれ応じている。

何が夢で何が現実なのか、幾ら見たってわからない、見れば見るほどわからない、ならば最初っから見なければいい、夢か現実かの判断をしなければいい。目に入らなければどうという事はない。

これと同じように、言われた事がウソかホントウか、幾ら考えてもわからない、ならば最初から何も言わなければいい。口を噤もう。耳に入らなければどうという事はない。


ここまではわかりやすい。が、二番と三番はちょっと捻ってある。二番。『君がいるなら』なぜ『ウソもホントウも』『同じ』になるのか。これはすぐにはわからない。なのにすかさず三番で『君がいないなら』『ウソもホントウも』『同じ』とくる。いたら『同じ』、いなくても『同じ』。一体どっちなんだと聴き手は戸惑い、そのまま歌が終わる。まるで、のちに『なぞなぞは解けないままずっとずっと魅力的だった』と歌うのそのままにこの歌は去る。そういやこの2曲、『In My Room』と『日曜の朝』って曲の雰囲気似てるね。作曲者同じだからさもありなんだけれど、両方とも収録アルバム発売当時ヒカルが「アルバムでいちばん好きな曲」として挙げた一曲である、という共通点もある。この何ともいえないけだるさがいいのだろうか。

で話を戻すと、ちゃんと『いるなら同じ』にも『いないなら同じ』にも理由があって、それもしっかり曲の構成の中に埋め込まれているのだ―って話をしたかったが時間が足りないのでまたいつかのお楽しみ。次回かな?

書き方の肩書き

英語でのインタビューやメッセを知っていると、Hikaruが言語によって人格自体がちょっと違う事も頭に入ってくる。それが英語圏今様の風潮や文化によるものなのか、普遍的な言語の違いによるものなのかは自明にはわからないが、少なくとも「なんかいつもと違うかな」と思わせる程度には違っている。

人生自体変わるだろう。普段の生活の中で2つ以上の言語を駆使するのは、かなり大袈裟に言えば2つ以上の人格を使い分けるに等しい。勿論、多重人格のようにパキッと割れている訳ではなく、日本語の会話の中にふらふらと英単語が紛れこんだりするのはよくある事だ。特に日本語はカタカナによって外来語をそのまま取り込む術があるから馴染み易い。そしてそれ自体が他の言語との差別化となっている。

表記に関して言えば、そうやって表音文字表意文字を使い分ける事で自言語の文化の堅守と他言語との融和の両立を達成している日本語はかなり特殊だともいえる。話し言葉の上でも、頭の中で表音と表意を無意識的に区別している風にもみえる。

宇多田ヒカルの言葉』は、最初音で入ってきた言葉たちを文字に変換する作業を経た結果であるともいえる。無意識の中でゆらゆらと別れていた表音や表意が、文字になる事でくっきりはっきり区別されるようになる。この度初めて文字になった歌詞を見る歌も人によってはあるかもわからない。そう、そこは「Don't worry, baby.」ではなく「ドント・ウォーリー・ベイベー」なんですよ、えぇ。

ヒカルの歌詞は、ひらがな・漢字・カタカナ・アルファベットが駆使されている。また、『ULTRA BLUE』の収録歌詞などは表記自体にちょこっと一工夫が施されていたりする。「歌詞を見る」ってのはそれだけで発見なのだ。一旦歌詞を読んでからまた歌を聴くと違うものですよ。

[]2017年11月22日のツイート

2017-11-22-Wed

キメラ日記

ヒカルがレッド・ツェッペリンでいちばん好きな曲は"Since I've been loving you"だがこちらがカバーして欲しいのは"Babe I'm gonna leave you"で、トレボヘでの"Stairway to Heaven"の披露未遂に終わったようなものだ…という話は前にしたな。省略しよう。

Hikaruに「ニューヨーカーとしての自覚」みたいなものが今でも根強くあるとしたら面白い。ニューヨーク東京を行き来してきた人間がイタリア人と結婚してロンドンで息子と暮らしている…とするとアイデンティティって何?状態になりそうだが、半ば無意識に放送禁止用語を連発して「あらあたしって意外とニューヨーカー」と思ったのだとしたら、ふむ、こそばゆいな。

物事の「何がどうなっているか」には大変興味を持つ私だが、そうして得た知識に感情は伴わない。自分のルーツを熱心に調べたとしてもそのルーツに誇りを持ったり逆に卑下したりという発想がない。その意味においては、興味がないともいえる。

自分の発する言葉や生活習慣がいつどこの誰達から受け継いでいるか、という事実とその知識に対しては感情が喚起されるが、特定されたその人たちに対して個人的に思う事はないのだ。その壮大な仕組みや成り立ちには大いに感動するけれども。

確かに、自分でどこかブレーキをかけているのかもしれない。アイデンティティにこだわるとロクな事にならない、という逸話しか聞いて来なかったからだ。ナチスの優生思想などは最たるもので、ユダヤ人かどうかなんて本来心底どうでもいい事で命の峻別を行うなどおぞましいとしか言いようがない。史実として教えられてきたとはいえ、未だに嘘だったらいいのになと思っている。

国や人種、血統や家柄。そういったデータをつまびらかにするのは自己や他者を理解するにあたって極めて重要だが、ひとたび理解すればそれはもう「便利な時に取り出してこれる道具」でしかない筈なのに、どうしてこんな事になるのか。大体こういうのは途中からただの諍いの種にしかならなくなっていく。便利なものを崇めるなかれ。道具は道具なのだ。

なので、ヒカルが日本語の歌のルーツを求めて熊野古道を歩いたりするのは怪我や病気でもしない限り大いに結構だが、そうして見いだせた情報に対して、誇りを持つ所までは許せるが、崇拝したり絶対視したりするようになると「やだなぁ」と私は呟く事になるだろうな。まぁそれでも愚痴を言いつつ目は決して離さないのだろうけれど。

人の闘争本能ってそろそろ要らないのだ。発揮したら億単位の個体を殺せる程技術とエネルギーを得てしまった。国をはじめとして、旧千年紀の価値観の多くは戦争惹起装置である。今の新千年紀には絶滅して構わない。

話が大きくなった。まぁたまにはいいか。究極的には興味がないのだ。そういう話が好きな人はできるだけ邪魔をしないで、という意味だろう。自分事ながら。

話を元に戻すと、「親はこどもが汚い言葉を使い始めたらショックなのか?」という設問に突き当たる。まぁ大体答は「イエス」か。特に女親が息子に対して、とか男親が娘に対してそう思う気がする。ヒカルの今回の"反省"の根底にもそのような思いがあったのではないか。然し知る事と使う事は別なのだと教えれれば一歩前進だ。いい風に捉えよう。

総て私のくーそーです。

『日本語だと/そもそもそれほど悪い言葉が存在しない』というので思い出したんだが。その昔Utadaさんがインタビューであれやこれやと質問を受けていまして。その中の「好きな日本語は何?」という問いに対して『KUSO!』とお答えあそばされていた。「空想」ならまだよかったんだが英語でいうと"shit!"にあたるそうなのでこれは100%「くそ!」だろう。なるほど日本語は上品だな。(皮肉)

口癖、とかならまだわかるがこの言葉を英語のインタビューで日本語の代表格みたいな雰囲気をもってして語るというのはなかなかにハイセンス。いや、本音はきっと「なにくそ!」精神の事だと思う。悔しさを糧に頑張る心、という。でもだからって好きな単語に選ぶかね。

一方でヒカルさんは『「やけくそ」が大っ嫌い』とも発言している。なんだかさっきから随分とくそまみれだが、これも真意は漢字で書いた「自棄糞」の方にある。別に肥料を燃やす訳ではなく、「自分を棄てる」行為に我慢ならないだけだ。如何にもプロフェッショナルな感性だが、この発言をした10年近く後に『"ギリギリ"フォルダに"ヤケクソ"ファイル』を作って名曲『Celebrate』を完成させるのだから人生本当に何が起こるかわからない。

前回考察した通り、自分も使うべきではないと感じる単語は実際使わなくなるので、英語で"放送禁止用語"を使って話すのは現実に不都合が少なく且つ幾らか都合がいいからだろう。ドライな結論としては3歳前後であっても"悪い言葉"を覚えるのはそこまで悪い事じゃないんじゃないかと感じる。

新しく言語を覚える時にまさに教科書に載っていない大事な事があって、それが隠語をはじめとした「不適切用語」の取り扱いだ。英語を覚えてトークセッションプレゼンテーションを、という立場に立った時に大事なのは何を喋るかより「何を喋ってはいけないか」だ。公の場に相応しくない言い回しなどは案外さり気なかったりするので注意が必要だ。「Making Love」を「愛を育む」とかで覚えてて人前で喋っちゃったら赤面ものですよ。他の単語でも、時と場合によっては社会的地位を危うくする。なので、新しく言語を覚える時は文法や気取った言い回しよりまず隠語なのだ。それを言ってはいけない、という意味で。

まだ分別のない小さなこどもは耳に入った言葉をそのまま言う。だからこそ、少しずつでいいから、「言葉は文脈を選ぶ」事を学んで貰う為にも、"悪い言葉"を覚えていった方がいい。そればっかり言ってると人格に影響が出そうだから少しずつでいい。大体、小さなこどもが人前で放送禁止用語を連発して恥をかくのは「普段そんな会話をしてるのね」という目で見られる親の方である。自分が恥をかきたくない、という理由で悪い言葉を自重するのならこどもには何の責任もないのである。

[]2017年11月21日のツイート

2017-11-21-Tue

何故か放送禁止用語に噛みつく私

日本語と英語、日本語詞と英語詞について語らせたらヒカルの右に出るものはいない。そんなヒカルが「英語の方が放送禁止用語を言い易い」と指摘したのだから、某かの真実がそこにあるのだろう。

ただ、なぜ"放送禁止用語"なんていう用語を使ったのか。考え始めると難しい。確かに、他にうまい言い方、指し方ってないのよね。英語圏なら、一昔前でいえば"PC(Politically Correct)"なんて言い方もしたが、厳密に言えば日本に"放送禁止用語"なんてものはない。誰が誰に禁止をさせてるかわからないし、言ったからといって罰則が待っている訳でもない。しかし、現実としてうっかり発言したら謝罪があるし、テレビ出演自体を封じられる事態まである。実質的には放送禁止用語は存在していると言わざるを得ない。機能しているのだから。

歌詞だって例外ではない。放送禁止用語が歌われていれば放送に乗らない。また、用語自体は大丈夫でも政治的な色合いが濃いと敬遠される。地上波は、自由な表現を求めるには余りにも力が大きすぎるのだ…

…って脱線してしまったが、「こどもに使って欲しくない不適切な表現」をヒカルがついでもふとでもなんでも使ってしまうのは何故なのか。多分、それで支障がないからだろう。だったら別にダヌパが使ってもいいような気がするが。冷静に考えて、何を気にしているのか。寧ろその点こそが日本語と英語の違いなのではないだろうか。自分で使っているのに他者には使って欲しくない言葉、それは自分も使うべきではない言葉?自分に使って欲しくない言葉?そこを詰めないとこの妙なツイートのポイントが掴めない。日本語に存在しないのは"悪い言葉"ではなくて、自己と他者に使用を要求したり禁止を要求したりする際に差異があるかないか、なのだ。そこを掘り下げたら面白そうだな。

昨夜の呟きはどこから?

ニューヨークの人は口悪くて有名』なのか。知らんかった。あれかな、日本だと江戸っ子が「てやんでぇ」口調なのと同じ感じで、生粋の都会っ子は歯に衣着せぬ物言いになるのだろうか。なお「てやんでぇ」は「おまえは何を言ってやがるんだい?」の省略形だそうな。「ありがとうございました」が「っしたー」にまでなる事を考えたら大して不自然でもない、かな。

言葉遣いと街の気質について妄想を繰り広げてみるのもいい。都会だと近所付き合いが希薄で村八分もないから、躊躇い無く言いたい事が言える分口が悪くなる、とか。田舎だと周囲との今後の関係に気を遣って言わないような事までも。

古都京都はTwitter等でしばしばネタにされるが、同じ都会でも住んでる区画でステイタスが決まるような土地柄ならそうそう移住を選択肢に入れないだろうから、多少不都合な事があってもその土地に留まろう、というバイアスがはたらく。となるとそれで日々溜まる不満や鬱屈を慇懃無礼な皮肉にくるんで表現しているのではないか、とか。いやちと言い過ぎたかな。

そんなこんなでその口の悪いニューヨーカー気質が伝染ってついつうfuckin'と呟いてしまうヒカルお母さん。ダヌパも自然に真似するだろう。ずっとニューヨークに住むならばそれでもいいが、上述のように、言葉遣いが時と人と場合を選ぶという特性を考慮に入れると、ダヌパがニューヨークで覚えた言い回しを他の土地で披露して顰蹙を買う、なんて事態も想定できてしまう。耳から言葉を覚える時期に聴かせる言葉は、確かに慎重になっていいだろう。

しかしこのタイミングでニューヨークって何やってんだか。レコーディング、ミックスマスタリングニューヨーク在住のゲストミュージシャンと接触、なんてのもありえる。ひとまず記憶に留めておくか。

[]2017年11月20日のツイート