Hatena::ブログ(Diary)

無意識日記々

2017-05-27-Sat

[]2017年05月26日のツイート

2017-05-26-Fri

dance pop song の"踊り場"

歌の名前と人の名前、どちらが有名かというのは大きなテーマだ。昔「唯一、宇多田ヒカルという名前の大きさを越えて生き残る歌があるとすれば『ぼくはくま』ではないか」と書いた事があるか、これを例にとれば「『ぼくはくま』の名は「宇多田ヒカル」という名より大きい」という言い方になる。

卑近な風にいえば、歌は知ってるんだけど誰が歌ってるかわからない、みたいな状況だ。「プライベート・アイズ」という歌は知ってるけどホール&オーツって誰?みたいな。彼らはそうでもないけれど、世に言う一発屋、ワン・ヒット・ワンダーの皆さんは大体そんな…と思ったけど、日本の場合大事マンブラザーズバンドの「それが大事」みたいに、一発屋ネタって人名と曲名が大抵セットだね。まぁ兎に角そんな話だ。

ヒカルも、宇多田ヒカルという名より有名な名曲をまた書けるようになれればそれは凄い事になるだろう。何しろ、名曲を生み出し続ければ更にヒカルの名が轟いて歌の名前より有名になってしまうのだから。差しつ差されつ抜きつ抜かれつ。そうやって有名になった自分の名前より更に、となれれば永遠に成長を続けられる。今から日本でそれをやるのは至難の業だが、ライバルの居ない今の状況だとそれ位の目標を置いてちょうどいいのではないか。


2010年に『Goodbye Happiness』を発表した時、私はこの曲を「最後のJpopソング」と言って絶賛した(余談だが、勿論Jpopの象徴的であるZARD名曲「Goodbye Loneliness」を念頭に置いて、ね)。しかしそれとともに「ヒカルが熟れ落ちる直前まで来ている」という話もした。つまり、ソングライターとしてのピークをこれから過ぎていく予感を、この曲から感じ取ったのだ。(だから人間活動に移るには絶妙のタイミングだったと今でも思う)

後日、ヒカルはこの曲について「Aメロにうまく歌詞を載せられなかった」と珍しく口にする。まさにその部分が、私が「熟れ落ちる寸前」と思った根拠だったのだ。作曲家が熟れ落ち始めると、曲の魅力的な部分は最高に魅力的(『Goodbye Happiness』でいえばSynergy Chorusやサビのメロディーや中間部のヴォーカル・ソロや…って楽曲の大半やな)になるのだが、一方で楽曲を細部まで完璧に整えられなくなっていく。まさに実が熟して甘さが最高潮になる一方でそろそろ腐り始めるように…。(また余談。それと対比して細部までガチガチにコントロールできているが甘さはまだそこまで行っていない、即ち"青い果実"の代表例といえば『traveling』ですね。あれはまさに"完全無欠な"ポップ・ソングでせう。)

…と、当時は「作曲者であるヒカルの立場に立った」見解を書いた。しかし今振り返ってみると、歌の側から見る視点が欠けていた気がしてきたのだ。つまり、『Goodbye Happiness』という歌の側からみれば、「宇多田ヒカルという音楽家は私を完璧に捉えるだけの"器"ではなかった」という事だ。たかが曲が何を尊大な、という気がするが、そう言って貰った方が作曲者としては、傷つくけれど"腑に落ちる"のではないか。『traveling』クラスならヒカルの力量を持ってすれば完璧に捉えられたが、『Goodbye Happiness』クラスだと、熟れ落ちる寸前の最高潮になった瞬間に手は届いたけれど全てを掴み取るまではいかなかった、と。

つまり、有名無名とはまた別の次元で『Goodbye Happiness』の名は宇多田ヒカルという名前より"デカい"のだ。今、7年前を振り返って、そう捉え直した方がいいのではないかと考えている。

というのも…って随分長くなったな。続きはまた次回だな。…あれ? もしかして来週になっちゃうかな。…暫し待たれよ。

elaborate silly messages

今朝も11年前のメッセふんどしで寝不足】を読んできた。タイトルからしてもう無意味でバカバカしい内容しか想像できないがその期待に違わぬどうでもいい本文である。

嗚呼、めっちゃ楽しい。楽しそう、か。11年前だもんなぁ。今もこんな文章書けるんだろうか。随分落ち着いちゃったなぁ。

でもその11年前ですら「Hikki随分落ち着いたねぇ」と言っていた気がするから、10代の頃はどんだけハイテンションだったんだという話に。

もしかして10年後に今を振り返ったら、「30代の頃のHikkiも随分ハシャいでたな」って言い合っているのだろうか。なくはない。

ちゃんと歳をとってるんだなぁ。顔は相変わらず童顔だけど。もうそれは一生変わらんかな。ネオテニーみたいなもんだろ。

10年以上の前のメッセを読んでたら、Webの流行もかなり動いてたんだろうなと感慨に耽ってしまった。昔はテキスト系サイトといって筆力だけでアクセスを集める"ホームページ"が沢山あった。今も変わらず続けている人もいれば、はてな民やアルファブロガーを経てツイッタラーやらメルマガ執筆やらに拡散している。

一方、端末性能の向上と無線ブロードバンドの普及で動画系サイトが次々と立ち上がり人気を博した。YouTubeが2005年からだからその頃以降だ。それでアウトプットの幅が一気に広がり昨今は動画の広告収入が本業になっている人まで居る。いやはや、年寄りな言い方になるが、時代は変わった。

ヒカルの方も別に手を拱いて見ていた訳ではなく、メッセに写真添付はそれこそ2006年以降常用になったし(それ以前は滅多になかったのだ)、UtadaではMySpaceに動画を上げる事もした。くまちゃん会社訪問も動画コンテンツだわな。今ではいつのまにかちゃっかりインスタグラム常習者になっている。いやまだ動画はあげた事はないかな。それなりに時代に対応してきているのだ。

それでもやっぱり、テキスト系としての『Message from Hikki』のスタイルは恋しい。今はただの御本家ニュースリリースページになってしまっているが、昔はふんどしクラシックパンツと呼ぶ事に延々憤慨するだけのテキストが掲載されて皆楽しんで読んでいたのだ。アホかと思うが、アホになれる時間が生活の中にあるって豊かですよそりゃ。

コンテンツ消費はますます性急になっている。私なんかツイッターに貼られたネタ動画のランニングタイムが20秒を超してるともうクリックしない(笑)。それは極端にしても、確かに、パッと見パッと聞きで消費できない"冗長な"テキスト系は最早今の僕らの生活リズムに合わない。とっとと結論を出せ、てなもんである。

しかしそこで、日々の忙しさを忘れて夢中で読み込むようなテキストがあってもいい。前回述べたように、だからといって「『Message from Hikki』の"復活"を!」と声高に叫ぶのもまた違うかなとも思っている。自分でもじれったいが、ヒカルだって書きたくなったらまた書くだろう。自然にそう思えるようになるまで、気長に待っているしかないんじゃないかな。

[]2017年05月25日のツイート

2017-05-25-Thu

emulate h(e/k)r strangely

最近日記でヒカルの話をしてない(時々漏れてるけど)のには明確な理由がある。私今完全に「『Message from Hikki』欠乏症候群」なのだ。毎朝昔のメッセを読み返していると「この人はこういう出来事をこんな風に捉えるのだなぁ」というのが次々と流れ込んできて、「今の(34歳の)ヒカルはどういう考え方をするんだろう?」という疑問が浮かんでくる。いや昨年沢山(でもないか)インタビューに触れて、創作に対する感覚やスタンスはある程度頭に入っているのだが、ほんのちょっとした事についてどんな風に感じているのか、や、世の中の出来事について何か言いたい事はないのか、とかそんな風な発言はめっきり減ったように思える。

そういうのが無い分、自分で「オピニオンめいた日記」を暫く書いてみたのだが…似合わねー(笑)。やっぱあんま得意じゃないみたい、この人。そういうのは。

でも、確かに、時代が違う。スマートフォン世代は絶対数が多い。即ち、発言者の発言内容の平均は確実に質が落ちる。従って炎上が増える。書いてある事をまともに読み取る人が相対的に減るからだ。誤解に基づいた炎上を防ぐのは極めて難しい。何しろ、何を書いても効果がないのだから。

だから、今の、たまに思い出したように出てきて一言呟いてまた居なくなるスタイルは、ちゃんと時代に合っている。インスタグラムの拾ってみたシリーズも、炎上からはもっとも遠いアイデアだ。本当にうまくやっていると思う。今昔のメッセのような生々しいオピニオンを書いたら炎上必至だ。いや当時ですら、随分と抑制的な書き方で、誰よりも巧く書き、多くの尊敬を集めていた。より経験を積んで物事の見極めも正確になった今、昔のような手法選択しないのは、やはり極めて正しい。

しかし、メッセ欠乏症は、なんというかこれはこれで仕方ないのだ。宇多田ヒカルという人をずっと追い掛けているコアなファンというのは、その音楽性のファンではない。ただ人として好きなのだ。あれだけ毎曲々々音楽性の変わるミュージシャンを好きで居続けるのは至難の業だ。自分のように好きが高じすぎてヒカルがその時々に聴いている音楽をチェックしながら消化・吸収してきた人間なら、どの作品もそのまま愛せるようになるのだが、それもこれも、「この人を追い掛けたい」と最初の最初に思ったからだ。つまり、メッセ欠乏症とは、「今のヒカルが見えない」というシンプルな"叫び"なのである。

なので、今は逆から攻めている。今日こんなニュースを聞いて、自分はこう思った、ヒカルはどう思っているだろう?という順番だ。ただおろおろうろうろしているだけでは、ヒカルの思考や感性をトレースできない。自分が『Kuma Power Hour』を繰り返し聴く事で"ヒカルの最近の音楽的な趣味の傾向"を自分の感覚と融合させながら身に付けていけたので『Fantome』での音楽的な変化にも抵抗が無かったのと同じように、まず自分の感性や考え方と向き合う事で今生きている「宇多田ヒカルという人」の思想信条をトレースする下地になる力をつけておきたい、とそう考えている。灯台のように光を発する事は出来ないまでも、灯台がどこに向かってどれ位の光を出しているかを的確に読み取れるようにしておきたい、っていう比喩で通じる?(笑)

本当はもっと色々思った事を素直に発言して欲しい、という本音と、いやいや、炎上して活動に支障が出てはどうしようもないから不用意な発言は避けて音楽に集中しようよ、という建て前が自分の中に同格として存在している。生きていく上では本音と建て前の間に価値の貴賤は無い。どちらももっともだからだ。そしてそれこそが本当の価値観である。あとは、何がやりたいかという話にしかならない。特に何も、というのなら、思った事をそのまま書けばいい。何がどうなるか見てみよう。ここは「迷子になろう」とエミリーみたいに言えばいいのかな。

escalate=段階的に拡大、上昇する

タバコアルコールだと影響力の大きいものの他に、最近「これは今後どっちに転ぶのだろう」と注目してるイシューがある。「エスカレーター歩くか立つか問題」だ。

都会の、特に鉄道駅のような急ぐ人々が行き交うエスカレーターでは、基本的に片側(東では右側、西では左側)を空けて、急ぐ人たちがエスカレーターを歩いていけるように配慮するのが常だ。もう片方は棒立ちで、エスカレーターで歩くのを休みたい人と、エスカレーターを使ってちょっとでも早く移動しようという人々が棲み分けをしている。実際、過密ダイヤの都会の鉄道では、数秒の違いが後々大きく響いたりするので「一秒でも早く」という気持ちはよくわかる。

しかし最近、少しずつではあるが、まずその鉄道会社の方から駅の中に「エスカレーターは歩くな」という主旨の掲示がなされるようになってきた。要は危険なのだと。おそらく、耐久性テストの折には積載物が移動する事を考慮に入れていないのだろう。安全基準に照らし合わせて「責任もてませんよ」という訳だ。

そもそも、「歩く人々の為に片側を空ける」という習慣も、利用者の自主的な配慮でしかない。目下急いでいない人が急いでいる人の為に片側に寄っているのだから行為の主体にはなんらメリットはない。非常に公共性の高い行動だとは思う。

ここらへん、「常識」がどちらに揺らぐかを観察したいところなのだ。今のところ圧倒的に「片側を空ける勢」が優勢で、歩くサイドを誰も利用していなくても律儀に並んでエスカレーターの片側だけに次々と乗り込んでいっている。片側にばかり荷重がかかりメンテナンスが大変になるんじゃないかと要らぬ心配をしてしまうところなんだが、それは置くとしても、長年培われた習慣はそうそう簡単には消えない。

タバコの場合も、似たような風に思っていたのだ、昔は。幾ら健康被害が露わになっていこうとも、長年、いや数千年以上をもつ人類の習慣がそうそう変わる事がないだろう、と。それが一世代分の時間も待たずに今こうやって追い詰められている。

エスカレーターにも、同様な事が起こるだろうか? 今は過去の習慣の圧勝だが、徐々に歩く事の危険性が浸透していくにつれ、皆二列に並んで棒立ちで乗るようになるのだろうか? これはまだまだわからない。しかし例えばエスカレーターで人身事故がありそれが全国ネットのニュースになれば、流れが変わるかもしれない。或いは鉄道会社をはじめとしたエスカレーターの設置者側の地道なキャンペーンが奏功するかもしれない。エスカレーターの効率的な利用法についての画期的な論文が突如登場するかもしれない。ただ、今は、ほんの少し揺さぶり始めている、という段階である。常識と、常識を覆そうとする動き。その間にどのような力学がはたらくか、傍観者はこれからもつぶさに、思い出したように無関係そうな顔をして眺めていこうかなと思ってます。

[]2017年05月24日のツイート

2017-05-24-Wed

黒い渦から離れて昼寝をしようよ

私の考える「テロリズムに屈しない」精神とは、憎悪と報復の連鎖に絡め取られない事だ。彼らに煽られて、彼らと同じように暴力による報復を選ぶのは、まさに彼らと同じ思考になる事そのものだろう。実際に近しい人たちが"闇堕ち"してしまうのはある意味当然で、誰もそれには抗い切れない。人が人を殺めた時、周りで生き残った人間も同じ修羅の世界に落ち込んでいく。だから悲しい事なのだ、避けるべき事なのだ、人が人を殺める事は。昨日まで素直に世界平和を祈っていた人たちが、生きる誰かの命を殺す事をだけ願って生きる人生を歩み始める。これが悲しくなくて何が悲しいか。そしてこれこそが、真のテロリズムの効果なのだ。悪循環の連鎖の中、皆がテロリズムの思想に染まっていく。

踏みとどまろう。せめて、近しい人を喪っていない貴方だけでも、正気を保とう。遺族の皆さんが抱く無念と憎悪に同情する事はあっても、共感が過ぎてどこかの誰かを憎悪しその死を願う自分にならないで欲しい。人間の共感力や想像力が道を踏み外させる大きな一例である。想像力を制御して、憎悪から身を守らねばならない。

テロリズムは絶対に許せない」と言えば確かに受けた心理的衝撃の受け皿にはなる。裏を返せば、青天の霹靂過ぎて心の準備が出来ていなかったのかもしれない。この意味では、日々テロリズムのニュースを目に耳にする事で慣れるのもまた重要である。常に世界中のテロリズムの話題に触れ続けていると「またか」という具合に感覚が麻痺してくる。「いやいや、それではいけない。」とかぶりをふる人も多いだろうが、それでいいのである。麻痺しないとやっていられない程世にはテロリズムが溢れている。そうなっていれば、心構えが出来ているともいえるのだ。これもまた、世界観に絡め取られているうちのひとつに数えられるのかもしれないが、自覚がある分、退ける。何もしない、何も変えない事もまた大きな抵抗、強い意思表示なのだ。報復を賞賛する悲劇に陥るくらいなら、麻痺してそっぽを向いて昼寝している方が、世界平和に貢献できるかもしれない。

お前はそんな事を遺族の前で言えるのかと質されるのだろうか。言えない。だからこそ悲しいのだ。誰かを喪えば世を恨むのも道理。だから喪う事は悲しいのだ。何度でも言おう。憎しみに基づいて動く位なら後ろを向いて昼寝しておこう。大きなマイナスよりゼロの方がまだプラスなのだから。

屈しない、屈まない。

昨日のマンチェスターでのテロリズムイスラミック・ステイトから犯行声明が出たらしい。狙われたのがアリアナ・グランデという世界的に有名な歌手であった為もあり衝撃度はことのほか大きい。夏場には来日公演も予定されている。中止にならないか、とかセキュリティー強化は、とか種々の心配事が増えた。

どうにも対策をとりようもないのが現状である。テロリズムに遭ったら「運が悪かった」としか結論できない。いや、悪いというのなら犯行グループではあるのですが。どのような思想信条が背景にあろうとその手段は許されるものではない。許せない、と言った後、しかし、我々は短絡的になり過ぎる。ただ潰せば済む問題であればいいのだが、今世紀に入ってから途切れる事のないテロリズムの波を思い起こすと、それもなかなかに望み薄だ。庶民からすれば絶望的としかいいようがない。

しかし、であるならば、いつも以上にいつも通りに過ごす必要がある。至上最悪のかまってちゃんであるテロリズムモチベーションを下げるには、テロリズムの影響が実社会に皆無だと実感させる事だ。かといってイベントの主催者たちは何もしないという訳にはいかないから難しい。確かに、何の答もないのだが、何も対処方法が見いだせないのなら開き直って普通に過ごすのがいちばん合理的だ。なんら解決方法を見いだせない時点で、何もしていないのとそうかわりはない。気分だけでも、いや気分こそ、テロリズムに屈しない事が求められる。テレビから流れてくる凄惨な様子に惑わされる事なく、そんなニュースなんてなかったというくらいの態度を心掛けたい。失われた生命は、何をどう足掻いても戻ってこないのだから。

[]2017年05月23日のツイート

2017-05-23-Tue

マンチェスターで爆破テロ

イギリスマンチェスターで行われたアリアナ・グランデのコンサートで爆破テロがあり、現時点で20人以上の死者と50人以上の負傷者を出しているとか。如何にテロのニュースが21世紀、ありふれているとはいえその衝撃度に些かも変わりはない。本当にいたたまれない。

イギリスといっても、アリアナ・グランデならロンドンでもコンサートを開くだろうからもし仮に観に行きたいと思ってもわざわざマンチェスターまで出向くような事はないだろうとはいえ、ヒカルファンの皆さんはイギリスのコンサート会場で爆破テロ・死者多数というニュースを目に耳にした瞬間はドキリとした事だろう。非常に心臓に悪い。既に20人以上の方々が亡くなっているというのに不謹慎な書き方になってしまうが、知る人の無事を確認したいと思うのもまた人情だ。

自滅型のテロリズムは誠に如何ともし難い。人間同士の駆け引きというのはそもそもからして各々が生き残りたいという欲望を持っている事を前提として成立している。そこを突き破られるのだから交渉も何もない。何とかして彼らを突き動かす「生き残る以上に大切な事」にアクセスして説得や交渉に望まなくてはならない。即ち、生き残りたがっている指導者の説得である。

日本も20年以上前にカルトによるテロリズムを経験している。若い人は知らないかもしれないインターバルになった。「テロリズムには断じて屈しない」とまず声明を出すのが通例になっているが、戦略的な意図がどれほど存在するかよくわからない。まぁ、そう言っとかないと騒ぎ立て始める人たちが居るのなら、口先だけでも合わせておけばいいのかもしれない。が、上記のように組織から発生する自滅型テロリズムは、その宗教的熱狂をコントロールできる立場の人間を動かす以外ない。そこの所をどう考えているのか…専門家たちに任せるしかないのか。くれぐれもよくわかってない素人が口を挟まないようにしよう。911以降の21世紀型テロリズムへの対処は、極めて難しい。それだけは伝わるわ。

こういった事が頻発していけば、コンサート会場でのセキュリティーチェックはますます混迷を極めるだろう。マニアックなバンドとかなら注目度も低いから狙われないだろう、とか油断してたらイーグルス・オブ・デス・メタルだったときいて「なんでもよかったのか」と愕然としたのがあのパリでのテロだった。

まだ日本は海外からのテロの標的にはなっていないかもしれない。国内の犯罪者の方がずっと恐怖かもわからない。こういうのは一般人にとってはどうにもならない。交通事故と違って、気をつけていたら防げるケースがある訳でもない。ただもうひたすら平和主義を貫いて八方美人と謗られようが全方位に対して「あなた方の敵ではないですよ、共に生きましょう」と言うしかないんじゃないかと、理想論ではなく思う。単純に他の方法論が思い付かない。20世紀までのように「あそこを敵に回したら怖い」と恐怖に訴えかけるやり方では自滅型テロリズムには太刀打ちできない。死の恐怖を凌駕した連中に効果的とは思えない。寧ろ「あそこを敵に回したら損だ」という価値観に訴える戦略の方がまだ実効性を見いだせるのではないか。生き残る戦略。見栄や沽券や面子なんて余裕のある時にみれる夢でしかない。21世紀は生きるのは楽なのに生き残るのは大変だ。ヘンな時代になったものだが、兎に角感情に流されず、打算的なまでに冷静にテロリズムを避ける方法を実践してい

かねばなるまい。


…と、威勢のいい事言ってたってさ、庶民レベルで出来る事なんてないよね。せめて、テロリズムを起こした人たちと同じ人種や国籍だからといって何か言うような極めて短絡的な言動だけは注意深く避けるよう自制する、くらいかな。できるだけそういうのに巻き込まれないように、心身を理性的に保って自衛を心掛けよう。あとは祈る。どうか人による残虐な殺戮がこの世から消えてなくなりますように(;人;)

話半分以下

「本丸」の話までは余計だったかな。まぁいいや。これで書き手側のスタンスは定まったように思うのでそれを前提としていきますよっと。

ミュージシャン稼業なんぞをやっていると、そういった嗜好品の数々に対する心理的抵抗は各段に低くなる。特に、飲酒をしないミュージシャンを見つけるのは、少なくとも30代以上のミュージシャンでは極めて難しい。飲まない、という人も居るが大抵「若い頃に暴飲し過ぎて身体を壊した」為断酒せざるを得なくなった、とか反対側に振り切れている人ばかりだ。

勿論、「ミュージシャン」という括りが乱暴なのはわかっている、が、業界全体としてそういう体質だというイメージは共有できるんじゃないかなとは思う。

喫煙に対しても似たような感じではあったのだが、昨今の急進的な嫌煙主義の台頭に対して些か鈍いんじゃないかと思わされる事もしばしば。逆に日々追い詰められているという実感から過剰に反発する人も中には居るけれど、やっぱり油断してるんじゃないかとも思える。

特に、国会(っておおざっぱな括りだな我ながら)で議題になった「未成年者喫煙店入店禁止」は音楽業界にとってボディブローのように効いてきやしないかと危惧すべき問題だ。

ライブハウスの多くは、飲食店としての営業許可で経営している。チケットの他にドリンク代を請求するライブハウスは軒並み飲食店である。勿論ソフトドリンクも売っているので今までなら未成年者もそれなりに気軽に入店できたが、果たしてそういったライブハウスが全面禁煙を打ち出せるだろうか? まず無理だ。ミュージシャンが来たがらない。では、となる。喫煙OKの飲食店としてライブハウスを経営していくとなったら「未成年者入店禁止」となるのだ。これってどうなの。

些か議論を端折り過ぎてる自覚はあります。が、ライブハウスに未成年が来れないってのは特に若いファンを相手にするミュージシャンの場合致命傷になるだろう、という危惧は先に共有しておいた方がいいのではないかと思いまして、こうして記しているのであります。

ただでさえ若年層は音楽ソフトを買わず、ライブやフェスが生命線だ、若い人を惹き付けるには現場主義だと言っている昨今、その基礎ともいえる飲食店型のライブハウスから未成年が締め出されては大変だ。こういう法律の話は「大山鳴動して鼠一匹」である事が大半なので、杞憂といえばその通り。付帯決議ひとつくっつくだけで「実質的には骨抜き」になる事も多いのだ。それはそれで怖いもんだが。そんななので話半分以下で聞いといとくれ。

[]2017年05月22日のツイート