Hatena::ブログ(Diary)

無意識日記々

2017-04-26-Wed

イヤホン型ウォークマンのほぼ完成型が発売

やっと新しいイヤホン型のウェアラブルウォークマン、NW-WS620シリーズの日本発売が決まったか。6月10日。まだちょっと先だな。

これで漸く、早送り早戻し、外音取り込み機能、Bluetoothの3つの"後付け機能"が揃った機種が登場した訳だ。WS410には早送り早戻しと外音取込機能はあったがBluetoothがなかった。WS610にはBluetoothはあったが他は、という感じで。これで取り敢えず"一息吐いた"感じですわ。

出るのは二種類。WS623とWS625。

623:1.5万円、3色、4GB。

625:2万円、1色、16GB、リングリモコン付き。

というラインナップ。うーむ、悩ましい。

このウォークマンの最大の売りは、単体で音源を再生出来る点だ。無線を受信する訳ではないので雑音や音飛びは皆無。この快適さは使ってみないとわからないかもしれない。日常生活の中で「音楽を聴ける」時間が劇的に増える。行動パターンは全く変えていないのに、これをつけている日とつけていない日で1時間位差が出る。つけていない日もしっかり有線のウォークマンは身に付けているのに、だ。

とはいえ、画面がないので選曲は結構過酷だ。従って、正直16GBも容量は要らない、と今までは思っていたが今回からFLACに対応した模様だ。するとハイレゾ音源が再生できるのだろうか。それなら16GBは持て余さないが、その音質に見合うイヤホン部でないならばMediaGoの転送設定をMP3の128kbpsに固定しておけば4GBでも持て余す位だ。

こちらの生活習慣からすれば、バッテリーのもちが4時間とか8時間とか12時間とかであれば毎日充電する訳で、その都度次の日に聴きたい音源を内蔵メモリに放り込めばよい、という風に捉える。如何にも面倒だが、自分の場合「では2万曲放り込んでどうやって選曲するのか」となる。やはり基本的な「今聴く曲」を毎日内蔵メモリに放り込んで、アーカイブス扱いになっている曲を聴きたくなったら都度Bluetoothで接続して聴く、というスタイルになる。まぁ、そうなるとやっぱり16GBは要らないかな。

リングリモコンは既にWS610でお馴染みなのだが、どうせなら、別売りでいいからほぼ同じデザインで液晶タッチパネル搭載のリングリモコンを出してくれれば嬉しい。何しろネックは最早選曲だけなので、そこさえ改善されればこの機種は最早生活必需品の域に達するだろう。ひとまずは、今回の新機種を購入して使い心地をみてみたいと思います。いやぁ楽しみだ。

[]2017年04月25日のツイート

2017-04-25-Tue

おざぴゅあ+た

ミサイル? 本気で怖がっているとしたら阿呆だ。いやあなたがひきこもりならいい。今日も学校や職場に出掛けたくせにミサイルを怖がっていたのであればいい加減にしろと言いたい。交通事故のリスクの方が遥かに、遥かに高い。危ない。戦争が始まって戦闘機が大挙してくるというのなら別だが、馬鹿も休み休みに言えとしか。飛んできてあなたに当たる確率は、日常言語でいえばゼロだ。紛れもなくゼロだ。たとえ飛んできて日本国内で1万人死んでもゼロである。日本の人口は1億人。おまえら普段1万分の1のリスクに怯えているのか? なおミサイルで1万人死んだら普通は戦争状態っていうわな。

わざわざ極端な事を書いているのは他でもない。またメディアに煽られて騙される人がたくさん出るのが不愉快だからだ。煽られようが騙されようがあなたの人生。勝手にすればよいがこのブログは私がここで勝手に書いているだけなので思った通りに書く。

今朝もトップニュースからミサイルミサイル。俺らにそれ聞かしてどないせぃっちゅうねんという話題である。その途中で地震速報が入った。なんでもチリ沖でM7.1の地震が起こったとか。なぬ。未だ撃たれていない、撃たれるとしても極めて低い可能性しかないミサイルの話題より、実際に起こってしまった地震の方が遥かに怖い。津波は来るのか!? どうなんだ???

驚いた事に、第一報では津波の津の字も言いやがらない。数分後にやっと「なお、津波の心配はありません」ときた。ふむ。

本来なら、「これくらいでちょうどいい」のだ。淡々と、起こった事を伝えてくれれば。私がいらっと来たのは、あるんだかないんだかもわからないミサイルの話を延々聞かされたからだ。同じテンションで言ってくれればいいんだよ。「北朝鮮からミサイルが発射されました。」、数分後に「なお、日本国土に着弾する心配はありません。」―こちらにはそれだけで十分だ。政治的な駆け引きなんぞ知るか。地震みたいなもんだろそんなん。津波台風みたいなもんなんだよ、政治に興味のない一般人にとっては。なおミサイルより津波の方が遥かに怖いのはまだ6年しか経ってないんだから皆大体覚えているだろう。

ミサイル云々で騒いでいるのは総て政治的な駆け引きの話なのだ。我々の身の安全を案じてくれている訳ではない。案じてくれているとしてもチリ沖で今朝起こった地震に対する報道と同程度で事足りる。ひたすら我々の不安を煽って自らの政治的な意図を通そうという人間が国内外に居るのかもしれない、とまず疑おう。大山鳴動して鼠一匹出てこないのが現実だ。そして虎や熊は物音ひとつ立てずに貴方の背後に忍び寄る。本物の恐怖は予告なんかしてくれない。静かに淡々とあなたの後ろに周りこんでくるだけだ。

またミュージシャンって人種がこの「煽り」に弱いんだ。雰囲気に流され易い、その場のノリや高揚感で行動する。音楽の演奏に携わっている時には極めて有効なその才能が、政治的な人間に触れた瞬間に体よく利用される使い捨ての道具に成り下がる。なんとなくクールだ、とかイケてるからとかで国際政治についてコメントするとか危なっかしくて見てられない。勿論世の中には音楽家としての才能と政治家としての才能の両方を持ち合わせている人も居るかもしれない。そういう人はしっかり使い分けて生きていってくれればいいが、そうでもない"ミュージシャンに特化した人たち"は是非政治からは距離を置いて欲しい。あの人たちの才能を侮ってはいけない。今こうしている間にも、我々は彼らに幾つも騙され、印象操作の罠にハマっているのだ。それに自発的に気がつくのは極めて難しい。もうひたすら距離を置くしかない。

でも、距離を置きすぎてちゃんと政治家の人たちの生態を学習しないと、これまたあっさり騙される。「はぁ、世の中にはオレオレ詐欺みたいなものがあるのか、自分も気をつけないと。」と思うのと同様に、テレビや新聞から流れてくるニュースにも気をつけなければならない。毎度繰り返し言っているように、テレビは娯楽の王様であって、報道や情報には不向きな媒体なのだ。バラエティーを見て笑って過ごすのがテレビとの健全な付き合い方である。あなたが普通に生活しているのであれば、天気予報と交通情報以外の報道番組は基本的に害であり毒であると自覚をもって接して欲しい。なおタイトルと本文は全く関係ございません。私にとっても今日は祈る日なのですよ、というだけの為の、個人的なしるしでしかないのです。

made in ... ?

アジア選手権韓国オープンから帰ってきた選手にファンの出迎えとか記者会見とか…時代が変わり過ぎてついていけないぜ(*_*) 昔は結果だけを伝えるマッチ箱サイズ、いや切手数枚サイズの記事を新聞で見つけるのすら苦労したというのに。遠い目。たった20年前はBSを合わせてもテレビでの試合放映時間が年間3〜4時間の年もあったというのに…ってこの話前もしたな。

この20年というのは誠に変な期間で。インターネットの普及を成長率に変換できなかった唯一の先進国、というイメージが日本についた。不思議なような、当然のような。若い人には想像もつかないかもしれないが、20世紀の日本の大人たちはパソコンとパソコン通信というものを小馬鹿にしてまともに取り合っていなかった。勿論我々70年代生まれくらいになってくると80年代の時点で「パソコン通信が進化すれば遠くの友達ともゲーム(例えば将棋とか)で対戦ができる!」と盛り上がっていたのだが、予算執行権限をもつ世代ではマイノリティであるばかりかオタクだなんだと言われてバカにされた。したがって、今の先進国から脱落しつつあるこの国をみても「そらそうだろ」という気分にしかならない。勿論2010年代以降ともなれば話は違うのだが、東日本地震が出鼻を挫いた。まぁそんな話はいいかしらん。

先進国、か。たぶん駄目だろうな、とは随分昔から感じていた。アジア隣国を下に見る発言が増えていたからだ。自分の目にはそれは80年代にアメリカ人が日本人の事をジャップイエローモンキーだと蔑んでいた姿とダブった。本当に差がついていたら、視界にも眼中にも入らず従ってそれについての発言もしない。アメリカ人たちが日本人たちを見下す発言が増えたのは即ちアメリカが「Made in Japan」に席巻されつつあったからだ。危機感の表れである。

今の日本にも「Made in 日本以外」は溢れ返っている。それによって職を奪われた人たちが恨むのは当然といえば当然で、恨み節のひとつも吐きたくなるのは人情だろう。最初は「安かろう悪かろう」だったからプライドが傷つく事もなかったが、いよいよ品質が上がってきた昨今ではもうそれも言えなくなるだろう。

7年前の2010年に「Made in Japanだ」と言って誇らしげにWILD LIFEのグッズを売っていたが、自分の勝手な実感としてはもうその時点でギリギリだったように感じていた。今同じ事が宣伝文句として使えるだろうか。こちらとしては最初っからブランディングは国単位より個人単位にするべきだと思っていたので、昨今のように普通のスーパーの軒先でも個々人のブランドで野菜や肉を売っている様子をみるにつけ、そっちの方向にしっかり進んでいるなぁと感慨深いが、全体の趨勢としてはまだまだ「Made In Japan」のブランドの方が個人ブランドより遥かに威力があるだろうな。

どうせ「Made In Japan」を謳うなら、海外のツアーの時のマーチャンダイジング(グッズ販売ね)で大々的に喧伝してみて貰いたい。果たして皆その高額に見合うだけの価値を感じて貰えるだろうか。横浜一ヶ所で「Made In Japan」を謳っても滑稽なだけかもしれないが、国と国の境を超えていくならまだまだ面白いだろう。その時になったら、でも、時代は更に進んでて状況が変わってるかもしれないけどね。

[]2017年04月24日のツイート

2017-04-24-Mon

140字はいつでも無限の入り口に

@utadahikaru : 子供の頃、コーヒー牛乳をご飯茶碗に注いで、ロールパンを小さく千切って浸して食べるのがすごく好きだったのを急に思い出した 今食べてもおいしいのかな

こういうツイートには私本当に弱い。宇多田さんと言えば歌に「切なさ」を込められる事で有名だが、そこには常に分厚い悲しさや愛しさを伴う。胸を締め付けるような、と。しかし、こういう呟きの時に来る切なさは何も伴わない。悲しくもないし嬉しくも愛しくもない。ただただ懐かしく、そして今、私(たち)が失っているものがそこに表現されている。「もう、ない。」―ただそれだけの感慨である。それについて悲しくなる事もできるし落ち込む事もできるし、楽しかったこども時代を思い出して微笑む事もできる。でも、その何れをしなくても、ピュアな切なさだけは残る。「あぁ、もうないんだ。」という、ただそれだけの感情。

小さい頃の感覚を思い出して、『今食べてもおいしいのかな』と問う。読点は使っても句点は使わないんだな。ヒカルもまた、それが失われた感覚である事を知っている。

歳をとると、はたと困るのだ。今感じている感覚が、たった今生まれた感覚なのか、ただ過去の感覚を思い出して、記憶から取り出し直して味わっている感覚なのか。つまり、今在る私の感情は既に思い出に過ぎず、私の心にはもう新しい感情は生まれないのか、と。

「たった今生まれた感覚」に、小さい頃は疑問なんて持った事はなかった。常に出会うものは新しく、どれも初めてなのだから、心に生まれる感情や感覚もまた常に新しく初めてのものばかりだった。

今はもう、何に出会っても、そうやって生まれた昔の記憶を参照しているに過ぎないのではないかと不安になる。要するに既に自分は哲学ゾンビなのではないかと。

クオリアの味は変わらない。今記憶を取り出しても同じ味がする。ヒカルがロールパンの欠片をコーヒー牛乳に浸して食べようという時の高揚感を、ヒカルもたった今しっかり感じ取る事が出来るだろう。それが、今コーヒー牛乳とロールパンを目の前に持ってきても何らその高揚感と関連性がない可能性が存在する事も、ヒカルは知っている。一方で、その時と同じように美味しく感じ、こうやって食べるのが好きだと感じれるかもしれない可能性が存在する事も知っている。しかしそれは、本当に「今」の感情なのだろうか。ロールパンの欠片をコーヒー牛乳に浸す事で小さい頃に感じた感情をただ思い出しているだけではないのか。

3歳の誕生日の時にナカムラ屋(そういうおもちゃ屋さんがあった)で1500円のプレゼントを買ってもらって大層喜んでいた自分の気持ちを、今でも克明に覚えている。そのおもちゃは、買う前からも買った後も大層お気に入りで、ビスをなくそうが縁が磨り減ろうがセロテープで止め輪ゴムで縛ってこれでもかと遊び倒した。何がそんなに気に入っていたのか今となっては、いや、当時から既にわかっていなかったが、その度を越した愛着だけは記憶に刻まれている。そのおもちゃを今目の前に提示されたとしても多分全く遊ぼうとしないだろうが、その愛着という感情の記憶の想起には大変な助けになるだろう。それはもうただただひたすら、懐かしい。

もしかしたら人は、ここまで来てしまうと、感情を取り戻したいが為に記憶を消し始めるのかもしれない。記憶が蓄積されていく一方では、「今」の感情が、もうどこにも無くなってしまうから。「今」やる事が、過去の感情の想起だけになってしまうから。「今」を取り戻したい。無意識の下の下で私がそう思った瞬間に、私は老い始める。


それに対して「怖い」と感じていると、思ってくれていい。だから、私は常に新しく楽譜を書きたがる。もっと恐ろしいことに、ごくたまに、まだまだ「今まで感じた事のない感情」を楽譜から与えられる事がある。勿論一方で、「全く忘れていた幼い頃の感覚」もまた、楽譜は与えてくれている。ちょっと、未だに信じられない。知っていたけど忘れていた事も、未だに知らなかった事も、あそこには両方埋まっている。それはもう、楽しくて仕方がない。私はおもちゃを買ってもらった3歳の誕生日にも生きているし、2017年の今草臥れたおっさんとしても生きている。それは、涙が出るほど嬉しい事だ。

ヒカルが次の次に出す新曲と、それを収録したアルバムは紛れもなく傑作である。期待して待ってていい。私はコーヒー牛乳に浸したロールパンの欠片から、その事を教えて貰える人なのだった。

昨夜のツイートを読んでこういうモード

世の中には「他人の人生を邪魔する事に自分の人生を賭けている人」というのが一定数居て。特に創作物の規制などは傍目から見ていて「ほっときゃあんたの人生に一切関わりないよ」と思うようなものでも踏み潰しにかかる。こちらからすると「よっぽど暇なんだな」以上の感想が出て来ないのだが、本人達は至極真剣そのものだ。

なぜあんな事ができるのかとふと立ち止まって考えてみると。恐らく彼女たち彼らの人生自身が、「他の誰かから介入されて生きてきた」からに他ならないのではないか、と気が付いた。つまり、そもそも人生の生き方として他の生き方にピンと来ないのだ。「人生とは他者妨害するものだ」という観念が、聞こえないくらいの低い周波数の通奏低音としてずっと人生に鳴り響いているのではないか。

アニメやマンガやゲームは、昔からずっと規制のやり玉にあげられてきた。まずそれを支持する者たちが「大人しくていじめやすい」人種であったから、というのも基底としてあるのだろうが、そうだったらもっと享楽的にいじめるのではないか。あの、攻撃する方の必死さは、まるで親の仇のようだ。

小さい頃、親なり誰かなりから、「アニメやマンガやゲームは害のあるもの」として遠ざけられて育ってきた人種を想像する。そういう人たちがそれによって空いた暇で必死に勉強して高学歴を手に入れ、何かを規制する側に回れるほどの財力なり権力なりを持った時、「昔年の恨み」とばかりにアニメやマンガやゲームを叩いているとすると…あの必死さも合点がいく。

困った事に、彼ら彼女たち(が仮に実際に存在したとしても)にそういう自覚がほぼ全く無い事である。親なりの言いなりになってやりたい事もせずにやらなければならない事ばかりを押し付けられるのが人生だと、もう最初っから決められてしまっている。勿論そこから途中で脱却できる人も居るが、そういうののキッカケって自由に生きているアニメやマンガやゲームの登場人物たちだったりするものだ。彼女たち彼らには、そういう機会すら封じられていた。今更自由な生き方と言われても、言われのない怒りと嫌悪感しかわいてこないだろう。アニメやマンガやゲームに携わる人たちが楽しそうな表情をしているのも癪に障る。その上、自分たちの方が社会的立場として有力だから、彼らを見下すのは造作もない。賤民の賤業だとして断罪するのに躊躇は要らないだろう。

問題なのは、その言われのない怒りというものが、彼ら彼女たちにすら生まれるという事実である。生まれた時から抑圧される人生を言前の基底として生きてきても尚その人生を肯定できず、自由謳歌に対して怒れる、即ち嫉妬できるというのは、人間の自由に対する希求力が教育や環境では抑えられないほどの根源的な力として生得的に備わっている事を意味する。それをみると、彼女たち彼らもまた自分と同じ人間なのだなと実感して、どうしても彼ら彼女たちの事を嫌いになれないのだ。でも規制の力がこちらにも実際に及んできたら、きっと私は隠さずに嫌悪感を示すと思うけれど、なんだかそれがとてつもなく悲しい。自分よりずっと社会的立場が上の人間たちに憐れみをかけざるを得なくなるというのが。


憂鬱な月曜日の朝に相応しい憂鬱な話題でした。こういう時はルー子さんの一言で脱力するのですっ。さぁリツイートしてこようっと。

2017-04-23-Sun

[]2017年04月22日のツイート

2017-04-22-Sat

[]2017年04月21日のツイート