無意識日記々

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自前の他者目線を再構築する方法

「他者の目線」「外からの視点」の第一はプロデューサーである。作詞作曲総て自前で賄えるシンガーソングライターやバンドでも外部の人にプロデュースを依頼する事は多い。制作の様々な局面で判断を下す役割が必要なのだ。どうしても内輪だけでは判断が偏り易く、契約相手であるレコード会社の希望との乖離も著しくなったりする。そこを縮めるのがプロデューサーの役割だ。もっとも、レコード会社の希望が消費者のニーズに合ったものかどうかはまた別の話。

Hikaruの場合昨今はセルフ・プロデュースに近い。自分自身である程度「他者の視線」をシミュレートする能力が備わっているからだが、それを大きく育んだのは幾多のファンからの、一般人(だから誰なんだそれは)からのリアクションである。他の誰よりも多くの反応を受けられる立場に居たからこそ見えてくる事もあったろう。

しかし5年である。自らのアウトプットが無ければ、反応も返ってきようがない。その間にどのように皆の心理や心境が変化したのか、Hikaruは捉え切れているだろうか。

例えば、In The Fleshのようなクラブツアーをするのであれば、そんな心配はさほど無い。10年も待ってたロイヤルなファンが多数訪れたのだからそこからまた5年かそこら待たされたからといってどうという事はないだろう。問題なのは、日本の移り気な大衆の方である。こっちは結構捉えどころがない。

それをシミュレートするには、自分の中に「大衆の一員としての私」を見いだす事が有効だろう。この5年でどう興味や関心が変化し、交流する音楽はどこらへんになってきているか、食生活は、交友関係は、社会との関わり合いは…それは、自身に特有のものと、周囲に流されたものと、両方あるだろう。

さて、Hikaruに「大衆としての私」は、あるのだろうか。日本に住む人間としての"普通の感覚"という概念が、今あるのだろうか。よくわからない。あるのであれば、シミュレーションはまずそこから始めればよいのだが、それがないとすると、結構難儀である。

そこらへん、デビューアルバムは奇妙なバランスであった。邦楽は殆ど聴かない、当時はソウル/R&Bにハマっていた、しかし、女学生として(って言うのかあれ)都心での青春を満喫していた。つまり、普通の女学生としての視点をもちつつ、しかし自分がリリースする邦楽市場にそれほど親しみはなく。なんだこれ、というバランスだった。何故それが売れたのか、なんだかんだでようわからん。

なので、本当にどんなバランスであれば"売れる"のかは事前にはわからない。出来れば、ある程度予測できればいいのだが、ウダウダ悩んでる隙があったらとっとと作ってリリースしてみればいい―もっと無責任な立場でならね。今のHikaruは、いや今も昔もHikaruはEMIの浮沈を握る1人である。幾らUMGに吸収されたからといってレーベル自体は存続している訳だから、そういった過大なプレッシャーの中でどんなバランスの作品を仕上げてくるか、楽しみだ。相変わらず、いつになるやらですがね。