無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

SMILE OF A SUN

『30代はほどほど。』と「MUSIC HUB」を視聴をしていて印象的だったのは、ヒカルが「自分のおかれた状況を戯画化して笑い飛ばしていた」とこだ。鶏団子鍋と腕鳴らしの場面、といえば通じるかな。あぁ、あと3DVR眼鏡を覗いて『誰が得するんだ』と言ったとことかな。

もう癖になっているのかもしれない。どんな窮地やピンチになったとしても、そういう状況に置かれた自分を外から眺めたら滑稽に映る。そういう風に自分をみる事で余裕が生まれ、何でも笑い飛ばせるようになる。悪くない。

そこらへんの「センス・オブ・ユーモア」は、曲作りにも少しずつ反映されてきているようにも思える。毎度言っている、『Fantome』の熱くなりきらない感じ、な。『ともだち』はもっと派手にパーカッションを鳴らせばもっと賑々しくなるし、『荒野のおおかみ』はもっとストレートな構成と編曲にすれば爆発力が上がる。それをしなかったのが『Fantome』の個性だった。

もともと、ヒカルは音楽にセンス・オブ・ユーモアをあまり持ち込まない人だった。歌うとどうしてもシリアスになるからで、『traveling』のようなアゲアゲな曲ですら『少しだけ不安が募ります』と言ってしまう。98〜99年にヒカルが登場した時に自分がこう呟いたのを覚えている。「コイツ、マジやん。」

日本の邦楽市場というのは、どこか真剣になり切れないところがあった。途中全部すっとばして原因をいえば、それは音楽性とアイデンティティが結びついていないからで、どんなスタイルの音楽をやっても、自らの根源を危機に曝さないのだ。音が借り物だから、それに対するリアクションも自分の魂に響き切らない。従って日本の邦楽はいつもどこか無責任で、「憧れ」と囁いて済ませる傾向があった。

ヒカルの音楽は、この国では異質な、血肉から出た音楽であった。故にそれをリリースするのは魂を丸裸にして傷に曝し続ける事を意味した。音楽によって自身を開示するといっても「○○風」「…というジャンルの」という表現手法を用いた時点でそれは魂の叫びになりえない。例えば尾崎豊などはそういった「自分の声で」歌う人種でありながら一定度の知名度を得た希有な例だが如何せん不器用過ぎた。途中で死んどるからね。

ヒカルには魂があり、アイデンティティと音楽が結びついていて、その上技術も身体(喉!歌声!)もあった。

今でもシリアスに振り切った時のヒカルは凄まじい。『桜流し』『真夏の通り雨』。しかしその『真夏の通り雨』ですら、2つの異なった解釈を重ね合わさせる"俯瞰の視点"をもつ。各々のストーリー自体は至極シリアスなのだが、その2つを並べてみた時には「これは何だ」という気分になる。笑うところまでは行かない。即ち過渡期である。

本来なら徹底した俯瞰は手法の徹底を生む。今日もKING CRIMSONを聴いていて、彼らのセンス・オブ・ユーモアの深さと幅が、20世紀最高のシリアスさと直接結びついている事を実感した。まだまだヒカルには笑いが足りない。女子にどこまで出来るかわからないが、今「おばさん」として開き直れるのは途方もない武器かもしれない。もっと笑い飛ばそう。そして誰よりも泣かせてくれ。どちら側からも、涙を搾り取ってくれ。