無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

2017年04月06日のツイート

ふらふらふしぎ

文化の中でも衣食住に関する分野は強い。"生活必需"というキラーパワーワードの前には沈黙せざるを得ない。このワードが使えない分野は、いつもなかなかに厳しい。

しかし、だからこそ逆に、文化的な側面での発展に自由がある。特に日本に住んでいると顕著なようだが、栄養摂取という意味での食文化はここまで百花繚乱である必要は全くない。衣服も、身体防護や体温調節の機能の為にこんなにまで多種多様になる必要はない。建築については現代はコストや土地の問題があるからピンと来ないかもしれないが、その気になったらピラミッドのような"どうでもいい"事に一生を捧げたりするのが人間なのだ、と思えば想像もつくのではないか。"生活必需"という隠れ簑を得て皆自由に"遊んで"いる。羨ましい。

絵画とか音楽とか小説とかはそういうのがない為、どうしたってぞんざいに扱われる。「なくてもいい」もまたキラーワードだ。更にこれをインターネットが"潰した"。コピー可能なコンテンツの価値は下がった。

とはいえ、こと西洋化された社会に関していえば、どんな建築物よりどんなメニューよりどんなファッションより、聖書と原論という二冊の本が影響力をふるっている事もまた事実だ。じゃがいもや小麦とどちらが影響力として大きいのだろう。流石に負けるか。しかし、原論なくしては三角測量すらまともにできないのだからそこらへんの威力は推して知るべしだし、聖書のお陰で起きた戦争(と、恐らく"防がれた"戦争)は枚挙に暇がない。強力だ。

その気になれば"書物"のような"非・生活必需"も力を得れる。読み書きと情報伝達としての"信書"の類は必需とはいえるが、聖書って"お話"が書いてあるだけだからね。


音楽に関しては、「そういったあくせくから離れたところで自由に在りたい」という人と、「音楽を通じて社会に貢献できれば」と考える人の両方が居る。非・生活必需だからこその悩み、という訳でもないだろうが、人間売れると「俺にも何か出来るのでは」と考える。ただ、その場合も「曲を売って得た知名度で影響力を行使する」ケースが大半で、音楽そのものに期待する事はほぼない。

「人の心を動かす」力というのは、個々の資質に大きく依存する。必須アミノ酸のように必ず人体に必要なもの、という概念は通用しない。毛皮を着れば必ず暖かくなるが、心が暖かくなる音楽は人それぞれだ。だからこそいい、というのは予め用意された結論だが、それが常に人を惑わせる。正しい間違いとか、良い悪いとかいった基準で居ると、そこらへんを総て塗り潰してしまう可能性がある。あなたの代わりは居ない、というのは、間違っているからこそ正しいのだから。

アメリカさんがまた戦争ふっかけてるのか。相変わらず野蛮な国だ。こうやって国単位で話してしまう事自体、まだまだなんだろうな。本当はA国vsB国なのではなく、A国の戦争クラスタの人間とB国の戦争クラスタの人間がどんちゃかやっているに過ぎない。A国でうんざりしている人とB国でうんざりしている人を分断するから始末が悪い。どっちが正義か悪かとか先とか後とかそういうの全部どうでもいいから全員一旦手と足を止めろ、というのがこちらの本音なのだが、当然夢物語だわな。

ヒカルもたまには何か言いたくなってるんじゃないかなぁ、と昔のメッセを思い出しながら想像する。昔より今の方が政治に関心があるそうだからわかるだろうが、世の中には戦争をしたがる人というのが実際に居るらしいのだ。会った事ないから知らないが。でも、でないとこんな風にはならないよねぇ、確かに。仕方なく戦闘行為をしてる国なんてある? 何あの高揚感。落胆のもと武器を取ろう!って言う場面、お話でも一度もみた事ない。復讐とか正義とか託けて自身の闘争本能を正当化しているだけですわ。

家族や友人を殺されればそうなるのは痛いほどわかる。我慢しろ、とは言わない。実際に復讐に行ってみればいい。果たして現実に、純粋に「仇をとる」事ができるか? 身近な人を殺したヤツだけをピンポイントで殺せるか? 違う。現実は、身近な人を殺された訳ではない人間が憤って戦いを煽り、誰も殺していない人が殺されるのだ。だから途轍もなく始末が悪い。これは感情の問題ですらない。ただひたすらに、人間のやる事が「雑」なのである。

現実にはほぼ不可能だが、身近な人を殺した相手に復讐を遂げる事を許しても、戦争は起こらない。よく「それが悲しみの連鎖を呼んで復讐が復讐を呼び…」なんて事をいうが、冷静に考えろ、普通はすぐに「あいつは人を殺すような酷いヤツだったんだから殺されてもしかたない」って段階が来るんだ。そうならないのは、やり方がみんな「雑」だからだ。常に関係ない人間が絡んできて関係ない人間が絡まれる。そうやって戦争を面白がる人間が居る限り戦争はなくならない。もっとも、21世紀の今になっても実状はもっと野蛮で、そもそも戦争がいけない事だと思ってない人間がたくさん居る段階なのですが。そこをクリアしてもまだまだだよ、というのが今日の話だよ。

「雑」なのがいけない。しかし、もっといけないのは「暇」である。他にやりたい事がないから戦争なんぞやるのだ。必要に駆られる戦争だったらやりゃあいい。食糧がなくて餓死者が万単位で出るとかだったら隣の国を攻めて奪えとなるわな。どうも、世にはそんな段階でもないくせにドンパチやる輩が居る。何が楽しいんだか。他にやりたい事のある人間にとって、戦争ほど邪魔なものはない。人の人生に土足で踏み込んでくるからだ。

彼らの意志すら尊重して「だったら戦争していいから、戦争したい者だけ集めてやってください。火星にでも行って。」と言いたいところだが、戦争の本質が「雑」であるならそんな気の利いた選別なんて土台無理なのだ。本当に………っ、始末が悪い。

世の中のあらゆる人間が「他にやりたい事があるから戦闘行為なんて辞めよう」とならない限り戦闘の連鎖は無くならない。我々は徹底的に「人生で魅力的な事」を喧伝し続けなければいけない。「こんな事をしている場合じゃない、家に帰って宇多田ヒカルのTV出演を観るんだ!」と世界中のあらゆる人間が思える位の歌を歌えれば世界は平和になる。1人の人間では無理だが、そういう関係を限りなく増やしていく事は出来る。平和の為には、雑になる隙を与えない事。それがとっっっっても大事なのだった。