無意識日記々

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The Great HUG In The Sky

金曜日に新曲『大空で抱きしめて』が発表になった。いやはや、素晴らしい。60秒足らずだが、複雑に入り組んだフックラインの組み合わせをきっちりPopsといえる領域に落とし込んでいる。『Fantome』の時にはやや混沌としていた感覚もかなり"スッキリ"した。慣れてきたというか、順調なのだろう。

タイトルのてにをはに未だに慣れていなくて「大空に抱きしめて」だったか「大空を抱きしめて」だったかすぐわからなくなってしまっていたが、聴いてみると『抱きしめて』の『めて』と母音を揃えている事がわかった。これで混乱する事なく『で』を導き出せる。

タイトルをパッと見た瞬間「あぁ、日本語タイトル曲継続か」となった。『桜流し』からこっち、総ての曲は日本語タイトルだ。オフィシャルがリニューアルに合わせて英語ページを本格的に稼働(復活)させ始めたので、もしかしたら英語タイトル曲、或いは英語曲が来るかな、と頭をよぎったが、そんな事はなかったぜ。引き続き日本語タイトル曲が連なっていく。

ヒカルの事だから今、気持ちの流れが日本語を大切にする方向に向かっているのでたまたまこうなっているというだけで、計画的ではないだろう。結果こうなっているというだけで。とはいえ例えば『道』のタイトルは『A Lonely Road』や『I'm Not Alone』でもよかった訳で、ある程度のわかりやすいこだわりはあるのかもしれない。…いやダサいっつっても『道』も相当なもんだからね!? 曲が抜群にいいから格好がついているだけで。

少し違うかな、と思うのは、前作にはなかった"動詞"をタイトルにもってきた点。いつ以来だこれ。『誰かの願いが叶うころ』以来かな。他には『幸せになろう』『蹴っ飛ばせ!』『言葉にならない気持ち』くらいかな。もともと日本語タイトル曲が少ない為特別感があるかどうかはわからないが『抱きしめて』は過去最高に詩的情緒に寄った感が強い。この『て』をどう解釈すべきかは2番3番を聴かないとわからない『抱きしめて(ほしい)』でもいいし『抱きしめて(眠りたい)』とかでもいい。前後の文脈で違ってこよう。ほんに、タイトルだけでも色々と考えさせる人なのだヒカルって人はね。

作詞家宇多田ヒカルに"怯える"私

『大空で抱きしめて』の略称ってどうなるのかな。『traveling』なら「トラベ」、『First Love』なら「初恋」、『Movin' on without you』は「むびのん」、『Can You Keep A Secret?』は「キャンシー」、などなど。えとせとら、えとせとら。いろんなパターンがあるものだな。

SAKURAドロップス』は長年「桜/さくら」でよかったが、『桜流し』ができたので今はちょっとそれだけではわかりづらいかな。でもまぁ今のところ『桜流し』は「さくらながし」と言い切ってるか。ふむ。

書くのというのも違う。『誰かの願いが叶うころ』は口でいう通称は「ダレカノ」だが、時で「誰かの」って書く人あんまりみない。私なんかは『誰願叶』って漢字に縮めて書くし。これなんて読むんだろーね。皆アタマん中で音読してんのかな。

『二時間だけのバカンス』はまだまだ定着しないけど「ニジバカ」に落ち着きそうだし、『花束を君に』は「花束」、『真夏の通り雨』は「真夏」か「通り雨」、『荒野の狼』は「おおかみ」、という風な感じか。『俺の彼女』は「おれかの」になるんだろうか。聞いたことないな。『俺の彼女』から『誰かの願いが叶うころ』を歌ったら「オレカノ」から「ダレカノ」、みたいな言い方するんだろうか。なんだかよくわからなくなってきた。

こういった傾向からすると『大空で抱きしめて』は「大空/おおぞら」で定着するかな。無理に縮めなくても、他と単語かぶらないし困りもしないし言いやすいし書きやすい。まず間違いないだろう。


さて、そうなると大空の歌詞について立ち入っていきたいところだがもう私はそれはそれは慎重になっている。『真夏の通り雨』のような"叙述トリック"(本来の定義からはハズれた使い方だが、私の衝撃を表すのに最適なので敢えてこう言っている)がこの60秒の外にありはしないかとビクビクしているのだ。「通り雨だったらすぐ止むじゃない」と油断していたところへの『ふりやまぬ』で世界がひっくり返った。これが言葉の怖いところで、文章は全体を通して全部見ないと何がどうなるかわからない。現実には90m飛んできたボールは必ずあと10mで100m飛ぶ位置まで来ているが、文章は最後に「ではなく」とか「という気がした」「だったらよかったのに」「なんてな」と幾らでも否定が利く。否定こそ言語の最大の機能であり、現実には一切無いファクターなのだ。精密機械を鉄屑にするには必ず連続的に変化させねばならないが、「精密機械かと思ってたらそうじゃなかった」と書いてしまえば文章上では一瞬にして精密機械は鉄屑に"なる
"。それが想像力であり飛躍であり言葉の本質だ。本来バラバラなのだ。


宇多田ヒカルという作詞家はそういったあれやこれやを究極まで究める人だ。だから『Can't Wait 'Til Christmas』のように、クリスマスが好きな人にもクリスマスが嫌い・無関心な人にも両方の共感を得る歌詞を書く事ができるし、『ふりやまぬまなつのとおりあめ』のような大胆な"仕掛け"をエレガントに為す事もできる。まぁ、最初に白旗をあげて、今聴こえている歌詞だけでどう感じられるかを書いておくか。次回から多分歌詞の話になります。