無意識日記々

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遠・々(えん・とお)

桜流し』から幾らか年月を経て『真夏の通り雨』を端緒にアルバム『Fantome』が構成されていった様は、『COLORS』から年月を経て『Be My Last』を皮きりに形作られていった『ULTRA BLUE』のそれに準じると考える事が出来る。いずれも、ひとつだけ時期の違う楽曲がまるで予言のように未来に生まれる楽曲たちの「核」となった。

『COLORS』が『ULTRA BLUE』の「核」と呼べるかどうかは、勿論議論があるだろう。しかし、『ULTRA BLUE』は、その前作『DEEP RIVER』と比較して、線より面、流れより広がり、詩より絵、モノトーンよりカラフル、と解釈されてきた。その色彩豊かな感覚はまさに"カラフル"であり、それまでの楽曲より大きな広がりを感じさせる『COLORS』はまさに『ULTRA BLUE』の主要なテーマを曲名からして体現している、と言っても構わないように思うのだ。

桜流し』はもっと、こう、図抜けて"異様"である。『Fantome』は"母への弔い"が主要なテーマのひとつと言っていいとこれまた構わないように思えるのだが、まるで仕向けられたかのように、幾ら震災があったとはいえ、内容もまるで知らされていない映画の主題歌として斯様な鎮魂歌を歌ったのか。魂を鎮めると言っても生者死者問わずだが。決まり文句でしか言えないが、「運命とはいえ余りに非情」である。

『Single Collction Vol.1』の表紙詩は、この状況を"嘆いている"ともとれる。そんなに言った事が叶うのなら理想や希望ばかり歌えばいいのにと思われるかもしれないが、実現するのはただひたすら無意識の階層であって、自覚的な希望や願望は寧ろ避けられているとすらいえる。願いや祈りは届かない。

この事態をどう潜り抜けるかは難しい問題ではない。自覚的な詞だけを書けばよいのだ。しかし恐らくそれはヒカルにとって作詞ではない。24時間脳を作詞に支配させて辿り着く境地から、最早逃れられないのだ。1ヶ月で別れる歌を歌ったら別れたし、大切な人を喪った歌を歌ったら喪った。しかし次に別れる歌を歌っても別れないだろうし次に喪う歌を歌っても、何も関係がないだろう。起こる事は常に一期一会なのだ。何かに対して対処するしないの問題では最早ない。それでも願わずにはいられない、祈らずにはいられないと歌うのが宇多田ヒカルなのであるし。


さて、今。『大空で抱きしめて』や『Forevermore』は未来へ向けての使者なのだろうか。この続きはまたいつか。