無意識日記々

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イヤホンの方とヘッドホンの方

で『壊れたイヤホン』で長年のファンが思い出したのが『For You』の歌詞だ。いや若い(という形容を時々使うが、意識としては"日の浅い"という感じで、実年齢とはちと違う、かな)ファンも目下熱心に過去作を聴いているならば寧ろ古参よりも反応が早かったかもしれない。イヤホンに対して、ヘッドホン。

ヘッドホンの方は、壊れていない。ただ、人混みの中に紛れていくので、『溢れる大通り』と似た風景を想像させる。更に音楽を実際に聴いていると想定してよい。『もう自分が消えてしまったんじゃないか』とそう思うのは、身体はそこに在っても自分はその人混みの雑踏の"一員"ではない、心は別の所に在る、からだろうか。

この、イヤホンの人とヘッドホンの人を同じ風景の中に溶け込ませる事で対比は鮮やかになる。一方はただ耳を塞いで大通りから逸れていき、あてもなくさまよう。もう一方は人混みの中に紛れていき、家路について部屋に帰る。イヤホンの方はヘッドホンの方をみやって「あの人もまた"確かな足取りで家路につく人"のうちの1人なんだ」と解釈するだろう、仮に目にとまったとすれば。「自分とは違うんだ、帰る場所があるんだ。」と。

しかしヘッドホンの方は、確かにこのあと自分の部屋に帰るのだが、まず人混み溢れる大通りを通っていてもそこは自分の居場所じゃないし、更に、たとえそうやって自分の部屋に帰ったとしても「君の存在(不在)で自分の孤独を確認する」だけなのだ。実は、イヤホンとヘッドホンは異なる道を歩みながら自らの孤独と向き合う事になるという意味において同じなのである。

しかし、決定的な違いがある。ヘッドホンの求める『君』は、どこかでまた会える―何だったら今すぐ電話すれば会えるような距離で描かれている。ただ今は自分の部屋には居ないというだけで。しかしイヤホンの求める『あなた』は、『You're in my soul』という言い回しからも察せられる通り、もう二度と会えない(かもしれない)相手なのだ。この違いはとても大きい。この差を指して『壊れた』イヤホンだと解釈すればストーリーは繋がる。イヤホンが壊れていれば、もう歌は聞こえてこない。『あなた』が歌う歌を耳にする事はもう二度とない、という比喩として、だ。


ならやっぱり『君』や『あなた』は母の事なのか、となるのだが、そこから先は各自が思い入れで補完していい領域だろう。それもまた歌の求める所であるだろうから。

その見地に立つとあの超有名バラードの歌詞に対する印象も変わって―という話からまた次回。