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The Useless Journal of CHINA このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-03-30 トンデモ抗日ドラマ設定に一石を投じた、ある女性兵士のドキュメント

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【はじめに】

「中国のハリウッド」と呼ばれる横店映画城がエラいことになっているのはご存知でしょうか?。既に「KINBRICKS NOW」でもいくつか紹介され、拙ブログでもいくつかネタを出していますが、中国共産党宣伝部によるテレビドラマへの数々の容喙(刑事物はダメ、裁判ものもダメ、歴史ドラマは全体の1割まで、など)により、横店で撮影されるドラマの大半が「共産党的に清く正しく美しい」抗日戦争をテーマにしたものとなっているのです。

《参考》「クリエイターの逃げ場となった中国の「抗日戦争ドラマ」=“抗日”というビジネス」

そんな後ろ向きな理由で増えたと言われる抗日ドラマですから、自然とドラマのクオリティも下がり、ただの無双ゲーム実写版だったり、笑っちゃうようなトンデモ設定がまかり通ったりして、中国ドラマ関係者をいたく嘆かせているのです。

《参考》「【写真・動画】SFで何が悪いのか?!リアリティ・ゼロの“SF”抗日戦争ドラマを弁護する―中国」

安直な勧善懲悪的抗日ドラマやトンデモ設定の抗日劇が氾濫し、もう日本人へのイメージが「ミシミシ」「バカヤロー」程度じゃ済まないような不安すらしてきた最中、中国青年報傘下の雑誌社である「冰点」に、注目すべき特集が掲載されました。タイトルは「女勇士」。抗日戦争で殺害された女性兵士・成本華の足跡を、日本軍が撮影したたった2枚の写真から追い求めるというこの特集記事は、どうやら安徽省電視台により取材されたドキュメンタリーが元になっている様子。

「美女四人組の暗殺集団が、日本軍に天誅を下す!」「女兵士が一射で数十人の日本軍兵士を射殺する」なんて抗日ドラマを作るかの国ですから、どんな妄想が暴走するのかと思いきや、この特集は地道に聞き取りを重ねて史料にあたり、ついには日本の防衛研究所に眠る兵士の手記なども渉猟しながら、この女兵士の真実の姿へとアプローチしているのです。抗日というテーマであればどんなトンデモ設定でも許されるような状況で、このような骨太な内容で抗日英雄の姿に迫る記事が出た意味は、決して小さくないと考えます。

そういう訳で前フリから長くなりましたが、冰点による特集記事「女勇士」を紹介したいと思います。これでも大分内容を削ったんですが(特に成本華が所属していた軍を特定するくだり)、かなりの長文となっています。お時間がある時にご覧下さい。

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四川省安仁古鎮、建川博物館内の「不屈の虜囚館」は、抗日戦争中、日本軍に捕われた俘虜を紀念している。出口近くには、一人の若い女性兵士の全身写真が大きなレリーフとなり、くすんだ銅色の壁面を背に展示されている。館長の樊建川によると、不屈の俘虜を象徴するこの女性の名は、成本華。「成本華はこの100万人の俘虜の中でも最も尊敬すべき、鮮烈で深い印象を我々に刻み付ける人物なのです。」と樊建川は語る。彼が収集した何百万枚もの中国の抗日戦争の写真の中で、成本華の写真はたった2枚。しかし彼に言わせると、これは中国抗日戦士の、侵略者に対する「最も素晴らしい」写真なのだという。

2005年4月、山東画報出版社が出版した「古写真」第40集に、樊建川が収蔵していた2枚のモノクロ写真が掲載された。その後、その写真と名前がネット上に流れ、ネットでは「美しすぎる抗日女性兵士」と称えられた。

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写真は、小柄な成本華が戦闘服に身を包み、耳までのショートカットは少し乱れており、幅広のベルトをしめ、ズボンの上から脚絆を巻いているのが見て取れる。日本軍に対し、彼女は腕を旨の前で組んで昂然と立ち、何ら怯えることなく、口にはうっすらと笑顔すら浮かべている。この写真については、敬意と好奇心がいくつも入り混じり、人々はこの抗日女性英雄の境遇と運命を気にしている。しかし日本軍が残したこの2枚の写真と簡単な説明文以外に、中国国内に成本華に関する史料や記載は一切存在しない。



「もし死ぬ前に成本華のことがはっきりわかるのであれば、私は本望ですよ。」安徽省和県の89歳の引退幹部・王耀恕は私たちの前で箸を止めて、目は潤ませながら語った。2005年、成本華の写真が人々の目にする所となった時、和県現地の関係者は驚愕した。彼らはこれまで成本華のことなど一切知らなかったからだ。そして”和県の生き字引”と呼ばれた王耀恕も同様に、「関係史料も見つからない、噂の類いは多いけれど、どれも確証のないものなのです。」と途方に暮れていた。我々取材班は、写真が撮影された場所である和県を取材の起点として、まずは写真の入手から始めることにした。


和県文書館には一冊の日本の古い写真集、『支那事変画報』臨時増刊第16集が収蔵されている。史料館副館長の耿三和は、この写真集は成本華の事蹟がインターネット上に流れた後、安徽省六安のある郷鎮の引退幹部から手に入れたものだという。「2000元も使いましたよ。でも館にとってはそれだけの価値があった。なぜなら成本華が載っているのですから。」この写真集は日本で昭和13年、つまり西暦1938年5月20日に、日本の朝日新聞が発行したものだ。成本華は古びた家屋の前に立ち、4人の日本軍兵士に囲まれ、何か話をしているように見える。現場にはまた二名の中国人らしき男、一人は長い袍をまとって両手を袖に入れている老人、一人は背の高い若者が成本華の側に立っている。写真の下にある日本語説明文は非常に短い。「和県城門の上にただ一人踏み止まって捕虜となった敵の女兵士成本華。 中国女童軍と刻んだ止金のついた革をしめ、肝腎のことは一つも自白しない抗日のガリガリである」(写真集の説明文より)


このページには5枚の写真があり、上の標題には「和県攻略」とあり、下には「渡辺特派員撮影」、撮影日時は1938年4月24日とある。また説明文には「4月24日海軍の協力のもと、中野部隊は南京長江の上游新河口陣地前で河を渡り、当日午後に和県を占領。」とある。

続いて安徽省文書館で、我々は日本毎日新聞出版した「支那事変画報」第28集の中に、成本華の2枚目の写真を発見した。この写真集は昭和13年5月21日出版で、一枚目の写真が掲載されていた写真集とはたった一日しか発行日が違わない。成本華の表情と腕組みをしている姿は、一枚目の写真とそっくりだ。彼女の後ろの壁の前には、4人の日本兵士が同じベンチに腰掛け、あるものは手に軍刀をもち、またある者はタバコを吸っている。日本語の説明文には、「和県で捕虜となった中国女童軍成本華」と書かれている。



「こんな偉大な女英雄が現れるとは思わなかったよ」和県政協の73歳の引退幹部である陳其才も、成本華に注目している。彼は成本華が和県出身の人物であると考えている。なぜなら和県には「成」姓が多く、その主要な場所は、歴陽鎮大西門外の高巷村に集中しているからだ。和県は安徽省でも長江沿いにある小さな県城で、南京からわずか70キロしか離れていない場所に位置する。考証では、成姓の祖籍は山東省寧陽・聊城一帯の地域で、成永通がかつて”武徳将軍”としてこの地に封じられたことより始まる。清朝の初期、成克敬が和州に遷ったという。

現在の和県は大規模野菜園で知られ、「長江中下流最大の野菜生産地」と賞されている。高巷村は都市化の波が押し寄せ、古いムラ社会の容貌を見いだすことはできない。村人は野菜の生産と出稼ぎで富を貯めている。この辺りを見渡せば3階建ての自宅や自家用車などもちらほらと目にする。

2009年、和県政協の手になる「文史資料」は日本の写真集の説明文とメディアの報道を元にした、成本華の簡単な紹介をした。陳其才はその編集者の一人であったが、彼はそれで満足せず、自分で2枚の写真を印刷し、周囲を調査しはじめた。彼は高巷村の最高齢の老人であった、当時92歳の許仁珍という老婆を見つけた。思ってもみないことに、許仁珍老人は写真を一目みて、写真の抗日女性兵士が義姉(夫の姉)である成本華だと言ったのだ。老人が言うには、成本華の家は高巷村にあり、父親の名前は成持和、母親は梁氏の出身で、兄弟が4名いたという。兄は成本林、次兄が成本◯、彼女は三番目の子供で「三姑娘」と呼ばれていた、さらに下には弟の成本貴と成本江がおり、成本華は1914年生まれ。犠牲となったのは僅か24歳の時だと判明した。

許仁珍の記憶では、成本華は当時和県駐留部隊で柏承君という家の使用人、いわゆる”女中”だったという。成本華の夫だった劉志誼は役所に勤め能書家と知られていたが、アヘン中毒が原因で殺されてしまった。その後、成本華は柏承君部隊の周という男と一緒に生活していたらしい。1938年の初め、日本軍が和県に侵入してきたあと、成本華は最後に一度家に戻り、許仁珍と一緒に街に野菜を売りに行き、そしてそれから消息は途絶えたらしい。王耀恕は私達とともに成家の族譜を発見し、そこに許仁珍の夫である成持和と、成家の”本”字を持つ兄弟達を発見した。しかし「女性は家譜に記載しない」という風習が理由で、成本華の名前は見つけられなかった。

陳其才はその後、和県文書館で大量の文献史料を調べた。彼のメモにはこのような記述がある。「1938年、和県県長の趙永智が抗日人民自衛軍を組織、趙永智が司令を兼ねた。柏承君は特務大隊長」また当時の名簿には、周洪旺という名前も見つかった。情報を総合すると、許仁珍の言っていたことは符合するのだ。

しかし、許仁珍の記憶には、成本家は柏承君の家の女中でしかなかったのに、その後どのようにして抗日戦争に参加し、そして捕虜となったのだろうか?成本華の身分について、いくつかの疑問が残ったままだった。



日本軍の写真集では、成本華を「女童子軍」と説明している。これは腰に「智仁勇」と刻まれた童子軍のベルトがあったためだろう。童子軍というのは一種の社会軍事教育組織で、近代では1912年に湖北省厳家麟が導入し、瞬く間に全国的な組織になり、国民党政府は高度に重視することになった。1934年11月1日には「中国童子軍総会」が南京で成立し、蒋介石自らが総会長を務め、何応欽が副会長兼総司令となった。

抗日戦争が激しくなった後、童子軍は積極的に活動し、救護や宣伝、慰労などの仕事に従事した。淞滬会戦の時、謝晋元が部隊を率いて四行倉庫を守った時、11名の童子軍が弾丸が行き交う中を台車3台分の慰労品を持ち込み、女童子軍の楊恵敏はただ一人で蘇州河を渡り、”八百人壮士”の旗を献上した。これらの壮挙は当時の国民を多いに奮い立たせるものだった。王耀恕の記憶では、当時の和県中学でも童子軍1194団が成立し、正規部隊の補助として宣伝、慰労、弾薬の補給、食料の送付を行っていたという。

しかし、許仁珍の記憶では、成本華は小さい時から学校には通っていなかったという。陳其才も成本華は童子軍ではなかったと考えている。腰に巻いたベルトは、「当時はざらにあったもの」で、彼自身「小さい時にしていたことがある」という。そうなると、基本的に成本華が女童子軍であったという説は排除してもいいようだ。また陳其才は、かつて尋ねた和県の古老から、その一人がかつて日本駐在部隊で通訳をしていたことを聞いた。陳其才ははっきりと記憶しており、その老人は成本華の写真を見るとしっかりと頷き、「これは柏承君の部下の格好じゃよ」と言ったという。


成本華は当時は正式に軍に参加をしていたかどうか、現在までの史料では証拠がない。しかし色々な情報をまとめると、このような推測が出来る。1938年4月24日の成本華は、当時柏承君の抗日部隊の中にいた、と。




成本華の足跡を探し出すためには、1938年4月24日に発生した和県での戦闘を再現しなければならない。「和県志」にはわずか数語で「民国27年(1938年)4月、和県への第二次侵入をした日本軍、第6師団坂井支隊、約1000名」とだけあり、他の戦闘の記録はなかった。


このころ、65歳になる黄明忠さんが、我々に日本から持ってきた珍しい史料を提供してくれた。黄明忠は武漢市政府の引退幹部で、以前は紅軍に所属し、元武漢市市長の劉恵農の秘書を務めていたこともある人物だ。長男が日本で働いていたこともあり、黄明忠は自ら日本へ渡り、抗日戦争時期の日本の古い写真集や文字資料を収集した。その中には少なからず東京の古書街で手に入れたものもあった。彼の家で、我々は「日本の戦歴」「支那事変写真全集」「歴史写真」など様々な資料を目にした。そして、これらの周囲が黄ばんだ紙の中から、我々は発見したのだ。成本華の写真以外の、当時の安徽省での作戦の写真や戦闘序列図を。これらの史料から、(成本華が死んだ)1938年4月24日この日の、侵入者の顔がようやく明らかになってきた。


1937年11月11日に上海が陥落し、日本軍は華中方面に軍を3路に分けて南京に進攻した。一路は滬寧路に沿って北進し、一路は京杭道を塞ぎ、一路は太湖南側を西に攻撃しながら進んだ。11月29日に安徽省広徳を攻撃し、12月10日に蕪湖を占領し、寧蕪路をに沿って南京に進攻した。12月13日南京は陥落する。日本軍大本営は当時安徽省蕪湖に駐留していた第六師団に任務を与え、速やかに支隊を和県ー巣県ー盧県に沿った地区に派遣し、盧洲方面の敵を攻撃することを命じた。1938年4月23日、日本軍第6師団に新設された坂井支隊は蕪湖から出発し、和県、含山、巣県を続けて落とした。5月13日には合肥に向かって進攻し、合肥で防衛していた第26集団軍徐源泉部隊は守りきれず、14日合肥は陥落する。6月2日、坂井支隊は安合行路に沿って南下し、安慶に向かって進攻する。8日に舒城を占領し、13日に桐城を占領、17日に潜山を陥落させる。


第6師団は別名熊本師団と呼ばれ、仙台師団と並んで日本陸軍最精強の部隊として知られ、最も戦闘力のある2支隊があった。そして坂井支隊は歩兵13連隊、騎兵第6連隊、野砲1個大隊により成っていた。当時の日本の戦闘序列図の中で、坂井支隊は当時の第六師団歩兵第11旅団の旅団長・坂井徳太郎少将が率いる部隊であることが判明した。成本華の写真がある写真集の中にある説明には「4月24日、中野部隊・・・当日午後和県を占領する」とある。中野とは、坂井支隊歩兵第13連隊の連隊長・中野英光大佐のことである。我々はついに和県に侵入した日本軍を突き止めることができた。では、この支隊は当日和県で戦闘に遭遇したのだろうか?

日本防衛省防衛研究所戦史研究室編集の「中国事変陸軍作戦史」の中で、我々は1938年4月24日当日の日本軍の和県進攻の記録を発見した。しかしその中には、はっきりと当日の日本軍が「敵の抵抗なく和県を占領す」と書かれていた。これが真実なら、成本華のこの2枚の写真はどこで撮られたものになるのか?




成本華の調査、そして2枚の写真の真実性を探ることは袋小路に陥った。一縷の望みをかけて、当時の日本軍部隊兵士を見つけるのか。しかしそれはすぐにできるようなことではない。史料によると、第6師団はその後太平洋戦争に参加、死傷者は甚大で全師団で3万人近く、最後に羅門群島で投降した時にはわずか1000余りの数になっていたという。当時兵士だった人物がまだ生存している可能性はごくわずかだ。


我々は日本に滞在している友人に、関係史料の調査を依頼した。2012年9月のある晩、突然かかってきた国際電話から聞こえる声は、喜びと驚きに満ちていた。それは、日本陸軍が1940年、第六師団の退役兵に回顧文章を作成させ、それを手写しで装丁して「第6師団転戦実話」という題で本にしたものがあり、日本の防衛研究所に保管されているというものだった。そしてその友人は、ついにその史料を発見したというのだ。歩兵13連隊の回顧録には、1938年4月24日和県に進攻した詳細な記録が残っていた。上等兵・東斉明による「和県含山巣県占領」という文章に、このような記述を発見した;

「首都南京を占領した後、蕪湖で力を蓄えた我が部隊は、新たな作戦命令を受け、昭和13年4月23日に5ヶ月にわたり滞留していた蕪湖を離れた。長江の上で艦艇と綿密な連携をとり敵前渡江に成功し、24日黄昏に蕪湖西北の和県を占領した。道路は尽く遮断され、車両部隊の通行には苦労一方ならぬものがあった」


「和県に進入した我が軍が最初に見たものは、女戦士の戦死体であった。彼女の年齢は22、3歳くらいであろうか、袖章には「中国女童子軍」という文字があった。なんでも、彼女は銃を持って勇敢に最後まで戦ったという。蒋政権が煽る間違った抗日の熱狂は、このような柔弱な女子を前線に駆り立てる。このような非人道的な行為は憎むべきである。」


この「第六師団転戦実話」には、日本軍の回顧録以外にも、毎回戦闘ごとに詳細な地図があり、さらに行軍経路と毎回の戦闘ごとの負傷・死亡者の状況が克明に記されている。この和県での戦闘では、「増田利」という上等兵が負傷したという。この詳細な記録により、我々がそれまで調べていた情報と完全に一致した。東斉明の回顧録の中には成本華という文字はなかった。しかし、写真集の中にある説明文にある「和県城門上で捕えた唯一の敵軍捕虜兵、女俘虜の成本華」は、東斉明が目にした女戦士が、この写真の成本華であると推定できる。また東斉明の回顧録の中で、我々はいくつかの鍵となる情報を得た。「1938年4月24日当日、日本軍が和県を占領したのは、無血占領ではなく、中国軍隊の抵抗に遭遇した。」東斉明が成本華を目にした時、彼女は既に殺害されていたのだ。


或る人は不可解に感じるかもしれない。第六師団の上等兵であった東斉明は、おそらくはあの「南京大虐殺」を目にした当事者である、そのより残酷で凄惨な光景を目の当たりにした者が、小さな戦闘のこの女遊撃隊の記憶を、ここまで強く持つのだろうか?と。それについては、黄明忠も強く同じことを感じている。時間があればいつも収蔵している日本の戦争写真集をめくっているが彼が気づいたのは、成本華のこの正面を向いた写真は登場数が非常に多く、また長期間にわたってもいるのだ。


彼が収蔵している「日本の戦歴」は毎日新聞社が出版したものだが、昭和42年(1967年)4月5日にも再び成本華のこの2枚の写真が登場している。昭和54年(1979年)8月25日には、同じ出版社が発行した「日本の戦史ー日中戦史2」写真集にも、「盧洲を攻撃する坂井支隊」の欄で、3度目の同様の写真が登場している。「日本の戦歴」の中にある図版の注釈にはこのようにある。

「昭和13年4月、中国戦場で俘虜となった中国軍隊女戦士成本華、24歳。日本軍の調べにも、不敵な笑みを浮かべていた。彼女もまた祖国のため、その青春を捧げた。」


黄明忠は、日本の写真集が何度も成本華のこの写真を掲載したのは「彼らも敵方の英雄に対しては、同様に崇敬の念を持ったのではないか」と解釈している。この考えは、樊建川とは少し異なる。彼はこの日本語の注釈に対し、こう考えている。「行間から感じられるのは成本華本人に対する敬意であり、これは日本軍の「尊敬すべき敵に対する敬意」が表れているのではないでしょうか。」




我々はついに成本華を探し出すことができた。より正確に言えば、最も真相らしきものに近づいた、というところだろうか。樊建川の元を訪れた時、彼は「いつか、成本華が犠牲となった場所で、数十メートルの彼女の彫像を作りたい」と言った。その後聞いた話では、図らずも現地の政府が同じようなことを準備しているのだという。

いま、和県西梁山の革命烈士記念館には、成本華の写真と事蹟が陳列されている。紅い壁の上に、たった2枚の写真と簡単な文章で紹介されている。しかし毎日全国各地からちらほらと、この一度は忘れられた抗日女性兵士の元を訪れる人がいるという。

成家の家族は、できれば成本華を一族の祠堂に入れたいと考えている。一族の女性としては、これは最高の栄誉と待遇だ。

2012年12月25日午後、和県ではいま、成家の当主である成乃福が一族を伴い、手には成本華が捕えられた時の写真を携え、一族の安息堂に迎え入れようとしている。安息堂は県城から5、6キロ離れた広々とした田野にあり、黒白の安徽式建築が夕日に映えて、ひっそりとたたずんでいる。空をつんざくような爆竹の音が黄昏時の静けさを破り、空には紙銭のこげた匂いが漂っている。

参列者が低頭黙祷した時、地上では一陣の風が舞った。空を飛び交う紙銭の灰の中、成乃福はポンポンと一族の肩を叩き、低い声でこう言った。「祖先伝来の言い伝えでは、参拝の時に風が吹く時、それは天におられる祖先の霊が、我々に応えて下さったということなのです。」


いま、成本華の英勇から75年を迎えようとしている。

中国青年網

varietevariete 2013/04/11 09:14 この写真を見ると日本兵と一緒にいますね。しかも日本兵は笑っていますけど。この写真は、作られたものということは無いですよね? 例の「百人斬り」の記事と同様に。

ujcujc 2013/04/16 10:22 varieteさま;こんな長文読んでいただき、コメントまでわざわざありがとうございます。それと、返事遅くなって申し訳ありません。写真が合成かどうかについては技術的見地を持ちませんが、少なくとも本写真の初出が日本の戦争写真集であって中国の一方的な「こんなん出ましたけど!」ではないこと、また本写真について合成や捏造の類いである指摘をした記録は(日中双方)ない旨だけ確認してます。

varietevariete 2013/04/17 11:58 あ、写真は捏造ではないと思います。しかし、記事はそうではないのでは無いかと。

ujcujc 2013/04/20 14:49 varieteさま;またまた遅レスですいません。記事の信憑性についてですが、元日本兵というじいちゃんの「輪姦して殺したよ」という回想だけを元に「悲劇的な女性兵士」「優しい主人とダンスを踊るのが好きな少女だった」というような内容でドキュメンタリーを作ることに比べて(実際に国営放送CCTVで成本華を紹介した番組の内容はそんなんでした)、非常に全うな取材方法であると、個人的に評価しています。

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