「東洋か、西洋か」「どっちが偉いのか」などという発想しかできないようでは「近代の超克」を繰り返す




twitter連投のまとめで恐縮ですが一応のこしておきます。


「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」。

確かに高校古文は「ゆく河のながれは……」は日本人の「無常観」の代表的表象と定義する。しかし、無常観の原点ともいうべき原始仏教の「諸行無常」に立ち返ると、「もののあはれ」のような表層的・美意識的な理解とは異なる力強さが浮かび上がってくる。

「物事はすべて移ろい行くものであり、不変な存在などない」と釈尊は喝破した。
「諸行」を「無常」と覚知することは、感傷的・耽美的・厭世的シニシズムとは全く異なる、いわば、時間軸で対象を完全に相対化してしまう認識の出発点であろう。

その意味で冷徹に災害の様子を綴る『方丈記』は、リアリズム文学のひとつといえるかもしれない。

さて……。
仏教の流布が「壮大な伝言ゲーム」だし、俗に「三国仏教」と言われるように地域的な展開や受容(土着化)が現象としてあることは、不可避の現象であることと承知している。

そして、原点が偉く、展開が歪曲だ……などと言及するつもりもありません。

ただ、「美しい書き出しは中世の特徴である無常観……」という定型句で、物事を理解したつもりになってしまう、そこで思考が止まってしまうことには警戒的であるべきではないかということだ。

これは『方丈記』や『無常観』に限らず、幅広く流通している「定型句」で理解したつもりになってしまう落とし穴。だからこそ読んで目から鱗は大事だろう。

震災以来(そして震災以前からもそうですが)、ナショナルな方向へ舵が切られる場合、かならず「日本の卓越性」として「無常観」が、鳴りモノ入りで登場する。

確かに、現実世界が「無常」であることを理解し、「捕らわれず」(=執着しないで)生きていくことは大事だとは思う。

しかし、鳴りモノ入りで喧伝される場合、「命に執着しないでよい」という言説として体制に利用されることがあまりに多いから、「警戒」した方がいいと思う。
※そして背景には東西対比という思惑からの一方的な持ち上げが潜むわけで、それはおるずな噺です(「絆」の連呼も同じですが)

諸行が無常だから「執着しない」。

しかし国家は「命に“執着”しないで、“お国”のために散華しろ」って文脈で「利用」する。この接続されると、違和感が増幅されるということ。

私人として「もののあはれ」を大切にしたり、原始仏教式のストロングな認識論から世界を認知(=絡む訳でもある)するのは大賛成だ。

太平洋戦争を振り返るまでもなく国家は若者たちを「桜の花びらが一斉に散る」ように、お国のために“死ね”という。そしてメディアに都合のいい文化人たちが、(反西洋というルサンチマンから)安易に日本の伝統的な文化や日本の精神的風土を「万歳、万歳、万々歳」などとやり始める……。

「ああ、それはアナタがキリスト教に関する研究者だから東洋的なるものを貶めて、西洋的なるものを大事な舶来品のように礼讃しているンだろ!」と難癖をつけられそうですが、本意はそうではありません、まあ勿論ディシプリンとして準拠するのはシカタガナイ部分もありますが。

ただ「東洋か、西洋か」と紋切り型で迫ってくる二者択一の言論構造を退けながら、改めるべき点は改めたり、学ぶべきことは学ぶことが必要なんだろう。いつまで経っても「東洋か、西洋か」「どっちが偉いのか」などという発想しかできないようでは「近代の超克」を繰り返すだけだと思う。




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覚え書:「今週の本棚:中村桂子・評 『鴨長明 方丈記』=浅見和彦、校訂・訳」、『毎日新聞』2012年3月11日(日)付。

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今週の本棚:中村桂子・評 『鴨長明 方丈記』=浅見和彦、校訂・訳


 (ちくま学芸文庫・1050円)

 ◇災害を見据えた古典が示唆するもの
 「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」

 高校の古文の時間に、この美しい書き出しは中世の特徴である無常観の表現と教えられたまま時は過ぎた。それがなぜか、東日本大震災後しばらく思考停止となり、積極的な読み書きができない中で、「方丈記」という文字に惹(ひ)かれたのである。読んで予想との違いに驚いた。みごとな「災害ルポルタージュ」であり、今何を考え、何をしたらよいかへの示唆が次々出てくるのだ。たった二〇ページの中に。解説に「災害を正面から取り上げた日本で最初の記録」とある。

 長明が二十三歳からの九年間(一一七七〜一一八五年)に大火、辻風、福原遷都、飢饉(ききん)、大地震と天災人災合わせての事件が続いた。今と似ている。安元の大火を見よう。「風にたえず、吹き切られたる焔(ほのほ)、飛ぶが如くして、一、二町を越えつつ移りゆく。その中の人、うつし心あらむや。」火元の樋口富の小路から末広に燃え広がり、京の三分の一を焼いた。公卿(くぎょう)の家十六が焼け、死者は男女合わせて数十人、馬牛は無数に死んだとある。焼跡を歩き現場調査をした記録である。

 辻風も起き不安の中、反平家の動きに対し清盛が福原遷都をする。思いつきで「世の人、安からず、憂へあへる、実(まこと)にことわりにもすぎたり」である。新京の建設は難航し、結局還都となった。巨大な浪費と空しい結果だ。「いにしへの賢き御世(みよ)には、あはれみをもつて、国を治め給ふ」。煙の立つのがとぼしいと租税もゆるしたのに、今の世はなんだと長明は嘆く。天候異常で飢饉も来る。元号を「養和」、「寿永」と改めるがそんなことで救われるはずもない。いたいけな幼子が亡くなった母の乳房を吸っている様が描かれる。長明は、京都下鴨神社の神官の子として生まれたエリートだが、庶民、女性、子どもなど、人々の生活を確かめ、その視点で社会を見ている。

 更に地震だ。「おびたたしく大地震(おほなゐ)振ること侍(はべ)りき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて、河をうづみ、海はかたぶきて、陸地(ろくぢ)をひたせり。」「おそれの中におそるべかりけるは、ただ地震(なゐ)なりけりとこそ覚え侍りしか。」震源地は京都の北東、マグニチュード七・四と推定されている。最後に、「人みなあぢきなき事をのべて、いささか、心の濁(にご)りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後(のち)は、言葉にかけて言ひいづる人だになし。」とある。風化である。恐(こわ)い。

 長明は都の生活を捨て、里に方丈、つまり一丈四方の庵(いおり)を建てて暮らす。縁者の妨害で下鴨神社の神官になれなかったという個人的問題もあったようだが、都の大きな家で暮らすことの儚(はかな)さを感じたのだ。この庵は組立て式、移動可能で事実最初の大原は寒過ぎたのか、伏見に移っている。庵内は寝床、法華経、普賢と阿弥陀絵像、琴、琵琶があるのみだ。のみと書いたがこれで充分なのだ。外をよく歩き楽しんでいる。

 無常という言葉の受け止め方は難しいが、自然は常ならずは事実だ。長明は、それを受け入れ自律的に生きている。科学技術時代に生きる私たちも、天災・人災の重なった被害から立ち直るには、自然と向き合い、その中にいることを確かめながら、なお自律的に生きるしかない。一人一人が自らを生き、支え合い、地域に根ざし、自然を活(い)かした社会をつくることだ。これができなければ私たちは何も学ばなかったことになる。
    −−「今週の本棚:中村桂子・評 『鴨長明 方丈記』=浅見和彦、校訂・訳」、『毎日新聞』2012年3月11日(日)付。

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http://mainichi.jp/enta/book/news/20120311ddm015070014000c.html


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