書評:重田園江『ミシェル・フーコー 近代を裏から読む』ちくま新書、2011年。


重田園江『ミシェル・フーコー 近代を裏から読む』ちくま新書、2011年。



 フランス現代思想家の入門書の中でも類書が最も多いのはミシェル・フーコーだろう。このことはそれだけフーコーの思想が注目されていると同時に、単純化や歪曲されて受容されていることの証左かも知れない。もちろん優れた先行研究があることを全否定するつもりは毛頭ない。
 本書が注目するのは、中盤の労作『監獄の誕生』だ。これをフーコーのひとつの到達点と見なし、議論を配置する。初期の『言葉と物』が認識構造を問うものだとすれば、周到な「まなざし」を丁寧に分析したのが『監獄の誕生』であり、それは後期の『性の歴史』へ展開・応用を予告する周到な準備でもある。通常『言葉と物』ないしは『性の歴史』が重宝されるという受容状況があるが、認識と実践が交差する『監獄の誕生』抜きには、フーコーの関心や実践(例えば「監獄情報グループ(GIP)」の立ち上げ)を理解することは不可能だ。
 権力はどこに存在するのか−−。
 彼岸に存在するのではない。フーコーは可視化された権力よりも自ら服従していく規律権力こそが問題だと喝破した。読んでいてすがすがしい一冊だ。後に展開される統治性や生権力との関わりについても丁寧に著者は描写する。フーコーの権力論は、フーコー自身がその実存として関わったという経緯を情熱を込めて描く手法には感動さえ覚えてしまう。

 まなざしの網の目から抜け出すことは現実には不可能だろう。そしてひとつの網から抜け出したとしても十重二十重に再構成されるのが世の中の常なのかも知れない。しかしそうした不可避の権力性にどのように対峙し“続ける”ことが可能なのか。
 一見すると取り囲みに無力になってしまう自分が存在する。しかし著者が読み直すフーコーの足跡を辿ると希望を見出すことができる。フーコーの入門書はあまた存在するが、まずは本書を最初の一冊としてすすめたい。






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覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 「孤立死」をなくすには 湯浅誠」、『毎日新聞』2012年4月13日(金)付。

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くらしの明日 私の社会保障論 「孤立死」をなくすには
湯浅誠 反貧困ネットワーク
アウトリーチ」専門職の創設を


 今年に入り、一家全員が病死・餓死で発見される「孤立死」が相次いでいる。報道に出たのは、札幌、釧路、さいたま、東京・台東、同・立川、横浜などの自治体だが、そこだけで起こっているわけではないし、今に始まった話でもない。
 多くの場合、亡くなった家族には障害者や要介護の高齢者がいて、一家は「支え手」と「支えられ手」で構成されていた。そして、支え手がたおれたことで、支えられた手もたおれた。
 支えられ手の家族以外の支え手はいなかったのか。家庭の内情までは関われない、というのがすべての関係者の答えだ。確かに、家族以外の者に家族並みの関わりを求めることは、口では言えても実際には困難だ。職員を減らし続けてきた行政に、もうその体力はない。ましてや、地域住民が連日、エンドレスに関わることなどできない。
 しかし「一家まるごと死んでいくのをなすすべなく見送るしかないのが、私たちの社会です」とは、誰も言いたくないだろう。


 できることから考えたい。まずは情報共有。困窮世帯は、住民税を滞納し、国民健康保険料を滞納し、家賃、公共料金と滞納が深刻化していく。こうした滞納情報を、今は自治体のそれぞれの部局がバラバラに持っている。役所内で情報が迅速に共有される必要がある。特に、命に直結する水道料金の滞納情報は重要だ。行政機関の個人情報共有には、国の関係機関の後押しも欠かせない。
 情報の共有によって「心配な世帯」が分かれば、そこに出かけていかなければならない。誰が行くのか。「役所の誰かが行けばいい」では、物事は動かない。彼らに手を伸ばす「アウトリーチ」専門のソーシャルワーカーが必要だ。地域によっては、民間団体にノウハウが蓄積されていることもあるだろう。
 出かけていっても、相手にドアを開けて話してもらう必要がある。だが「自分たちで何とかしなければ」と固く信じている家族は多い。「まだ大丈夫」と自分に言い聞かせているうちに、限界を超えてしまう。限界を超えるとSOSも出せなくなる。


 支えられ手の人々に「まだ大丈夫」ではなく「『助けて』と行っても大丈夫」と思ってもらうには、SOSを叫ぶハードルを提げる必要がある。
 今は支えられても、すぐに「支え手」に回れる、と思える場を、地域社会の中に目に見える形でたくさん作る必要がある。そのためには支えられ手だけでなく、支え手に対する公的支援も欠かせない。私たちがそれを負担する覚悟も問われている。

アウトリーチ 英語で「手を伸ばすこと」の意味。福祉分野では、潜在的に援助を必要とする人の元に援助者が直接出向くことを指す。生活に困窮していても、自ら福祉サービスの利用を申請できない人を支援し、サービス利用につなぐ。
    −−「くらしの明日 私の社会保障論 「孤立死」をなくすには 湯浅誠」、『毎日新聞』2012年4月13日(金)付。

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書評:ジョン・キム『ウィキリークスからフェイスブック革命まで 逆パノプティコン社会の到来』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2011年。

ジョン・キム『ウィキリークスからフェイスブック革命まで 逆パノプティコン社会の到来』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2011年。

従来のメディアの概念を根底から変えるソーシャル・メディアの眼差しを精緻に分析


 ジョン・キムこと金正勲さん日本語での初めての単著が本書。
 本書は、外交公電の大量公開で注目を浴びた「ウィキリークス」に見られる「情報」を媒介に国家と市民の力関係を、思想と現実の文脈から読み解くもので、類書のなかで群を抜く一冊だ。
 「ツイッター」「フェイスブック」をはじめとするソーシャルメディアを媒介とする情報共有の動きがどのように世界を動かすのか−−。アラブの春ウィキリークスの衝撃は、情報革新による新しい可能性を見せつけてくれた。
 権力が民衆を支配する。この事実は否定できない。しかし民衆が権力を監視することも可能であろう。筆者は、象徴的な「パノプティコン」の眼差しを逆さまにしてくれる。
 「パノプティコン」(一望監視施設)とは、イギリスの思想家ジェレミーベンサムが発案した監獄のモデルのこと。監視塔の周囲に監獄をめぐらし監視を一望するシステムで、ミシェル・フーコーが名著『監獄の誕生』で権力が民衆を支配する仕組みの象徴として紹介したことで有名だ。円環状の建物(監獄)の中央に監視塔を配置する。監視者の姿は見えないように設計されているのが特徴的で、仮に塔が無人であっても、囚人たちは常に監視されている可能性を感じつつ生活せざるを得なくなる。目に見えない監視によって監視される者は、内面から自身を縛っていく構図を、フーコーは近現代の規格化された社会全体として論じている。
 本書で著者は、ネットを舞台に現在進行している状況をパノプティコンの反対、つまり市民が権力を普段に監視する構図としてとらえている。ネットメディアが権力に対抗しながら情報を不断に監視する逆転の構造だ。
 著者はウィキリークスに連携した欧米のメディアやジャーナリズムの役割を評価し、「情報を分析、検証、説明する能力を有するマスメディアの価値はさらに高まる」と指摘しているし、日本のメディア界の動向に関しても好意的に評価している。
 従来、メディアは国家と民衆の中間に位置し、「中立性」をその特徴と「称した」。しかし実際のところ「中立性」などは存在しないし、メディアに要請される中立性とは、その本質が民衆の権利を守るという立場でならなければならないはずだろう。日本では「リーク」とは、何等かの「秘密を暴露する」というスキャンダラスな受容がその殆どだ。しかし、その根柢には、国家や共同体といった枠組みを超えた、人間そのものを保障するという眼差しが存在することを本書は想起させてくれる。
 全体として未来へのスケッチとしては秀逸なものの、評者は、震災以降、実際には逆パノプティコンとして機能した日本のメディアの動向を全否定することはできないものの、恣意性や権力との癒着構造、また反権力ならば何をやってもいいというスタイルや受け手のネットリテラシーの問題を勘案すると楽天的に受け止めることには躊躇してしまう。








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