書評:長谷川修一『聖書考古学 遺跡が語る史実』中公新書、2013年。

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 「聖書に書かれていることって本当に起こったことだろうか?」
 「歴史的に証明されているのか?」
 「考古学はそれを裏づけしているのか?」
 本書ではこうした疑問に対して、最新の歴史研究の成果と考古学的調査の成果を使ってできるかぎり答えていく。途中からは聖書の中に描かれているいくつかの具体的な事件を取り上げて、その史実性について、現段階で言えることを論じる。
 著者はキリスト教、あるいは他のいかなる宗教に対しても中立的な立場からこの本を書いたつもりである。そして本書が、聖書にまだ触れたことのない人にとっては聖書への興味を増すきっかけに、信仰をもっている人にとっては聖書に対するより深い洞察へといたるきっかけになることを願っている。
 ただし、聖書に信仰を置いている人には、ここから先を読むにあたり、一度頭を柔らかくしていただきたい。なぜなら最初に言っておくが、この本は聖書の物語に書かれたいくつかの出来事の史実性を否定するからである。そういった本なら読むのをやめよう、と思うなら、残念だが、ここで本を閉じていただく方がいいかもしれない。著者個人としては、本書に書いた事柄は本当に信仰を強めこそすれ、弱めることはない、と信じているが、著者の講義を聞いたクリスチャンの中には「背教的」という感想を寄せた人もいる。しかし、本書では今日の学界で主流となっている意見を中心に紹介し、そうでない場合でも少なからぬ研究者が認めていることを述べているつもりである。仮にそれが信仰と相反すると感じるならば、この本はその人に向いていないのだ。だが、考えてほしい。今日の学問的研究の成果を知らないままで、「聖書に書かれたことは歴史的にもすべて真実」と信じることが、本当の信仰だろうか。真の信仰は必ずしも科学による証明を必要としない。
    −−長谷川修一「まえがき」、『聖書考古学 遺跡が語る史実』中公新書、2013年、ii−iii頁。

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人部科学は文献精査が基本となるが自ずから限界がある。本書は、現地調査に従事する研究者の手による考古学的知見と旧約聖書の記述内容を照らし合わせる一冊。「その時、何が起きたのか」。

信仰の有無を問わず知見を深めるきっかけになる一冊である。

聖書の記述はそのままの形で受け入れがたいものが多い。著者は遺構調査から、記述と歴史の実際の描き出す。アブラハムは実在したか、イスラエルはカナンを征服したか等々……。加えて、エピソードのみならず聖書学・考古学・古代近東学に目配りをきかせた一冊である。

まえがきが素晴らしい。「本書に書いた事柄は本当の信仰を強めこそすれ、弱めることはない」。聖典の記述が荒唐無稽だから信じずるに足らずというのはナンセンスである。しかし同時に、著者の挑戦を「背教的」と断ずるのも勇み足であろう。加えて、記述が「歴史的にもすべて真実」が果たして本当の信仰だろうか。

「今後の考古学発展のためにも、古代イスラエル史研究の発展のためにも、そして聖書記述のより一層深い理解のためにも、中東に平和が訪れることを願ってやまない」。

(以下は蛇足)

しかし、さきの『聖書考古学』のような矜持というのは大事だとは思います。記述が歴史的実在という意義で???だから信じるに足らずと退ける悪しきプラグマティズム近代主義もどうかと思いますが、捨閉閣抛して引きこもるっていうのもどうかという話です。もちろん、どの宗教でも同じ話ですけどね。

個人的には、大学入学の際、歴史学を選択するか(そして、その選択肢の選択肢の一つとして考古学を選択するか)で悩んだことがありましたので、刺激に満ちた一冊ではありました。ま、今は、流れ流れて日本基督教思想史という誰もが省みない分野だけど、まあ、それはそれでよし。

「信じること」に対しては二つの脊髄反射のアプローチがあると思う。ひとつは近現代に特色的な現象である「それ、科学的やないけ」という表層批判(もちろん、トンデモがいい訳ではない)。もう一つはそれと一つものの裏と表といってよいファンダメンタルな態度。この両者が「信仰」を毀損するなあと。

そういうものを踏まえた上で、どう自身の信仰を深めていくか。そして人間社会に住まう一員としての共通了解とか公共世界で生きていくという接点も忘れずに、どう振る舞っていくのか。この両方が、多分、大切なような気がします。高等批評で「転ぶ」のもどうかだけど、先の通り耳をふさぐのもどうかとね

なので、まったく異なる信念体系としての基督教を日本人がどのように理解したのかは大事なテーマだと思うし、それは着目点をかえてみるならば、仏教を受容したアフリカの人々にとってそれは何か……なんていうのも後日の課題としてみると面白いと思う。手前味噌ですいませんが。

だから、その意味では、信仰か、学知かという、そもそもの「設定」そのものがナンセンスなのだとは思う。こういう枠組みってホント、誰が設定したンだろうね。



聖書考古学|新書|中央公論新社





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覚え書:「書評:明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち 山田詠美著」、『東京新聞』2013年04月14日(日)付。




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【書評】

明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち 山田 詠美 著

2013年4月14日

◆喪失を抱いて生きる家族
[評者] 伊藤 氏貴  文芸評論家。著書『告白の文学』『奇跡の教室』など。
 夫に去られ少年と少女を抱えた女と、妻に先立たれ幼い少年を抱えた男が再婚し、そこに新たな女の子が生まれる。想像するだに困難なこの新しい家庭の問題はしかし、家族同士の軋轢(あつれき)ではなかった。むしろ驚くべきほど互いを思いやるなかで、自分の実子である長男の夭逝(ようせい)によって女の心に空いた穴から全員の苦しみが始まった。他の成員たちにとっても悲しい経験ではあったが、母たる女の喪失感は全くレベルが違った。女は生きる意味をさえ見失った。アルコールに溺れた。そしてそのことはつまり、家族の他の者たち全てにとって、自分が死んだ長男ほどには女から愛されてはいなかったのだという事実を突きつけるものだった。
 あまりに辛い現実ではある。特に子どもたちにとって。長男を別格に扱う「家」の時代は過ぎ、公平を建前とする「家族」の時代に、親が子どもたちに注ぐ愛情に格差が存在しようとは。
 母に悪気は全くない。しかしそれでも、親も人間であり、子も人間であるかぎり、好みや相性というものは厳として存在してしまうのだ。いかに辛くともその現実を受けいれ、あるいはいなすことによって、子どもたちは生きる力を養う。自分も辛いが、アルコールに浸らねば生きていけない母の方がもっと大きな喪失を抱いているのだ。「人を賢くするのって、絶対に人生経験の数なんかじゃないと思う。それは、他人ごとをいかに自分ごととして置き換えられるかどうか」だという一種の悟りは、母の辛さを共に分かち持とうとすることにより得られる。
 「家」だろうが「家族」だろうが、あるいはこの後に来る新たな関係だろうが、他人と共棲(きょうせい)するにはこうした悟りを実践することが必要だ。タイトルのように、死を想(おも)うこととは、自分にとっての自己の消滅だけでなく、他者にとっての自己、自己にとっての他者の消滅を考えることでもあり、それが真に「人を賢く」するのだろう。
やまだ・えいみ 1959年生まれ。作家。著書『風味絶佳』『ジェントルマン』など。
幻冬舎・1470円)
◆もう1冊
 山田詠美著『ベッドタイムアイズ』(河出文庫)。日本人の少女の「私」と黒人米兵の恋と別れを新鮮な感覚で描いたデビュー作。
    −−「書評:明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち 山田詠美著」、『東京新聞』2013年04月14日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013041402000186.html








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覚え書:「書評:閉経記 伊藤比呂美著」、『東京新聞』2013年4月14日(日)付。




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閉経記 伊藤 比呂美 著

2013年4月14日

◆体の衰えを面白がる
[評者] 井坂 洋子 詩人。著書『嵐の前』『はじめの穴 終わりの口』など。
 ぶっちゃけトークはとてもむずかしい。まず度胸がいる、技術もいる。相手を敵に回さない自信がある。伊藤比呂美は宝塚風にいえば、我ら“現代詩組”のトップスターだが、組を卒業して広い世界へ飛び立った。残された者はさみしいような誇らしいような気持ちだ。
 ぶっちゃけトークなのに俗っぽくなく品性を感じさせるのは、肩書とか学歴とか略歴に記されるようなハードな部分ではなく、いちずに人間性に由来する。文中に「独学とは、なんとアナーキーなことであることか」という一文があったが、好きなように生きてきたというだけではない。生きることを修整しながら考え考えやってきたという感じがする。
 「シャイ」な自分が、「ぱかんと自分をあけっぴろげられるように」なった。そうしたら世界が広がったという、その秘密というか秘策がここにある。
 熊本の両親をみとり、自分が巣作りしたカリフォルニアの家も娘たちが次々に独立して、年の離れた夫と残され、やがて一人になるだろう予感がある。誰もが味わう無常と老いる肉体に目をこらすが、それが“新鮮で面白い”という。
 「漢」と書いておんなとルビをふり同胞たちに語りかけるこのエッセイ集は、フェミニズムということばの観念や知的装いをくだき、実質を見せつけている。
いとう・ひろみ 詩人・小説家。著書『河原荒草』『ラニーニャ』『女の絶望』など。
中央公論新社・1470円)
◆もう1冊
 平田俊子著『きのうの雫』(平凡社)。詩人兼小説家のエッセー集。記憶の中の情景を繊細かつユーモラスにつづる。
    −−「書評:閉経記 伊藤比呂美著」、『東京新聞』2013年4月14日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013041402000183.html






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