覚え書:「発言 春から新しく働く人に=都村記久子」、『毎日新聞』2014年04月03日(木)付。


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発言
春から新しく働く人に
都村記久子 作家

 今まで生きてきて、もっとも不安だった時期というのは、最初の会社に入社した頃だったと思う。3月の終わりから4月にかけての研修期間中はずっと、これからしばらく死んだと思うことにしよう、と息をひそめながら、帰りの電車に乗っていた。これから二度と明るい日は来ないと思っていた。
 研修は、やたら厳しい顔をした会社の人事の人が「軍隊式で行う」と言いつつ、新入社員全員で近所の関連の工場を訪ねたり、なんだか小学校みたいなプログラムが続いた。倉庫みたいなところに新入社員が集められて、毎日、「会社の幸福は社員の幸福」というものすごいフレーズがある社是を読み上げさせられた。当時もたいがい、えらいことを言わせるな、と思っていたが、同期にそんなことを話せる人はいなかった。みんな社是が妙だということより、飲み会の計画や、この中で誰がいちばん人気があるのかに関心があった。
 要するに、びっくりするぐらいつまらなかったのである。それこそ学校みたいだった。その後配属された、ほとんど女子が30人ぐらいの支社も、高校を卒業してすぐに入社した人が多かったせいか、雰囲気はほとんど学校だった。支社じゃない方の、研修を受けた本社の方は倒産して、今はもうない。
 それで、それからわたしに二度と明るい日は来なかったのか? そんなことはなかったのだ。二つ目の会社に入って、根気強い年下の先輩に仕事を教えてもらい、比較的まともな人たちに囲まれて仕事をするうちに、会社員でいることも悪くないな、と思うようになった。むしろ不安的な学生の身分でいるとか、学校っぽい職場で、同期になじめないことに悩んでいるよりは、当たり前のように年齢にも職位にも上下関係があって、いちばん下のほうで言われたことをこなしているうちに時間が過ぎていくような状態は、たまにつらいことはあるものの、おおむね気楽だった。会社員に向いていないのではないかと悩んだ時期もあったのだが、そこまでひどくはなかったということに気付けたのだった。友人たちも、最初に入った会社をやめることになったりして、それぞれに転機を迎えた。そして話を聞くだに、会社もそれぞれの家族のようにいろいろなんだな、と思うようになったのである。
 だから、この春から新しく働く皆さんには、先のことはわからない、としか言いようがない。最初は一様に暗く、自由がないように思えるかもしれないけれども、働くようになって初めて得る自由もある。仕事という、人生で最大の、できればやりたくないものの中に、小さく光るものを見つけたら、それはもうこっちのものだと言える。しばらくは、手応えを感じなくて当たり前と思いながら、将来の自分を楽にするためと考え、粛々と仕事を覚えればいいと思う。その後苦しい時期も経て、ある時、その日の仕事を手放した時に思うのである。自分はうまくやった、と。それこそが光で、おそらく不意に訪れる。どうかそれを、目ざとく、つかんでいただきたい。
つむら・きくこ 小説に「ポトスライムの舟」(芥川賞)、「ワーカーズ・ダイジェスト」など。
    −−「発言 春から新しく働く人に=都村記久子」、『毎日新聞』2014年04月03日(木)付。

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