覚え書:「今週の本棚:川本三郎・評 『ひみつの王国−評伝 石井桃子』=尾崎真理子・著」、『毎日新聞』2014年08月03日(日)付。

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今週の本棚:川本三郎・評 『ひみつの王国−評伝 石井桃子』=尾崎真理子・著
毎日新聞 2014年08月03日 東京朝刊

 (新潮社・2916円)

 ◇現実の先を見るファンタジー感覚

 これまで児童文学というと大人の文学に比べて軽く見られることが多かった。それをくつがえしたのが童話『ノンちゃん雲に乗る』の作者であり、ミルン『クマのプーさん』の翻訳者である石井桃子だった。

 著者は言う。「彼女が送り出した作品によって、日本の子どもの本はいつしか教訓から自由になり、まぎれもない文学の域に達した」。そう断言するのは、一九五九年生まれの著者の世代にとって、石井桃子の訳書、文章は子供の時に最初に接する日本語だったから。

 「私たちの日本語のリズム、情感、表現力に、石井桃子が与えた影響ははかりしれない」。著者にとって石井桃子は「幼稚園に入る以前から日本語の基礎を授けてくれた、最初の先生だ」と言う。

 石井桃子によってそれまでの世代とは違った言語感覚を養われた昭和三十年代生まれには、際立って物書きが多いとも言う。この新しい言語感覚とはとりあえず、現実の向こうにもうひとつの世界を見るファンタジーの感覚と言っていいだろう。題名の『ひみつの王国』とはそれをあらわしている。

 二○○時間に及ぶインタビューと厖大(ぼうだい)な資料、綿密な取材によって書かれた本書は、子供時代に石井桃子によって日本語の良さを知ったこの新しい世代による最初の本格評伝。実に読みごたえがある。少し気が早いが、今年の大きな収穫。

 石井桃子は明治四十年(一九○七)、埼玉県の浦和に銀行員の子として生まれた。経済的にも知的環境にも恵まれて育った。著者は二○○八年に百一歳で逝った石井桃子の生涯を「幸福」と表しているが、確かに子供の頃から大事にされている。

 浦和高等女学校から日本女子大学校英文学部に入学。当時のエリート女性である。大学を卒業後、昭和五年には菊池寛の主宰する文藝春秋に入社、編集者として活字の世界にかかわってゆく。昭和初期、ちょうど東京が関東大震災のあとモダン都市として生まれ変わってゆく時。新しい時代をさっそうと生きるモダンガールだった。当時の断髪の写真が掲載されているが実にチャーミング。

 文藝春秋に入社した昭和五年といえば林芙美子出世作『放浪記』が出版されベストセラーになった年。現在とは比較にならないが、それでも着実に女性の社会進出が広まっていた。そのなかで石井桃子は堅実に編集、翻訳の仕事を続けてゆく。『クマのプーさん』の原書に出会い、魅了されるのもこの頃。

 石井桃子は最先端を生きるモダンガールといっても決して浮ついたところはない。常に勤勉で実直。時代に流されない。浦和という東京から少し離れた町に住んでいたのがよかったのかもしれない。

 著者は実によく調べ、石井桃子が関わった人間たちも丁寧に紹介している。一種、群像劇の面白さもある。

 菊池寛をはじめ、山本有三藤田圭雄(たまお)、さらに吉野源三郎ら。のちに『ドリトル先生』を訳す井伏鱒二とは若い頃から親しく、井伏を通じ太宰治とも知り合った。井伏は石井桃子に「太宰君、あなたがすきでしたね」と言ったという。

 さらに著者は、戦時中、石井桃子がある青年のことを好きになったこと、『ノンちゃん雲に乗る』はその青年への私信のような形で書き継がれていったことも記している。

 一九九四年に出版され読売文学賞を受賞した自伝的青春小説『幻の朱(あか)い実』の、石井桃子自身を思わせる主人公の恋愛には実体験の裏づけがあったことになる。

 大正から昭和にかけて青春を送った世代にとって最大の試練は言うまでもなく戦争。「戦争中の石井桃子の仕事については、ほとんど不明のままだった」

 著者はそこに踏みこんでゆく。本書の最大の山場は戦時下から戦後にかけてだろう。戦争の時代、どんなにリベラルな人間も何らかの形で戦争と関わらざるを得ない。

 石井桃子もまた情報局直属の「日本少国民文化協会」という組織に加わった。時局に押されて『菊の花』という童話を書いた。決して戦争賛美の作品ではないが、戦後、これを書いたことを悔やんだに違いないと著者は推測する。戦争中の状況を質問した時に、石井桃子は珍しくきっとなったと言う。

 戦時中から戦後の混乱期、東京を離れ、女友達と二人、宮城県の山奥で開墾を始めた。この思い切った行動には驚く。8月15日をそこで迎え、戦後も畑を耕やし田で稲を作った。やはり戦中から戦後、岩手県の山奥の小屋で暮した高村光太郎を思わせる。著者はその暮しに石井桃子の戦争責任への贖罪(しょくざい)意識を見ている。このくだりは胸を衝(つ)かれる。

 石井桃子は生涯、結婚しなかった。敬愛するアメリカの作家ウィラ・キャザーと同じように単身者として生きた。だから女性友達が大事になった。著者はこの女性との友愛が、石井桃子のたおやかな日本語を作っていったと見ている。『ひみつの王国』とは、男性が立ち入れない女性だけの秘密の花園かもしれない。 
    −−「今週の本棚:川本三郎・評 『ひみつの王国−評伝 石井桃子』=尾崎真理子・著」、『毎日新聞』2014年08月03日(日)付。

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ひみつの王国: 評伝 石井桃子
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