覚え書:「戦後70年へ 特攻、強いられた大義 『死にたくなかった』本心記す元隊員」、『朝日新聞』2014年10月23日(木)付。

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戦後70年へ 特攻、強いられた大義 「死にたくなかった」本心記す元隊員
2014年10月23日 

(写真キャプション)特攻隊員だった桑原敬一さん。「死ななくていい人間がたくさん死んだ」。今も戦友たちの顔が浮かぶ=神奈川県大和市

 太平洋戦争の末期、劣勢を打開しようと日本軍が編み出し、約5800人が命を落とした特攻。海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊が最初にフィリピンで米艦に突入してから、25日で70年になる。なぜ若者たちは、自らの命を兵器にかえなければならなかったのか。元隊員はいまも問い続けている。▼17面=特集

 今月11日、鹿児島県鹿屋市の公民館。海軍串良基地の戦没者追悼式の会場に大きな花輪が捧げられた。贈ったのは横浜市の桑原敬一さん(88)。海軍飛行予科練習生(予科練)の乙18期出身だ。「生きている限り花を贈り続けたい。死んでいった戦友たちの顔が浮かぶ最後の世代だから」

 1945年5月4日朝。19歳の桑原さんは、3人乗りの艦上攻撃機の操縦員として串良基地を飛び立った。米軍が上陸した沖縄をめざし、敵艦を見つけ次第体当たりする任務だ。薩摩半島の南端の開聞(かいもん)岳が、朝もやの中に消えていく美しい風景を見て母の顔が浮かんだ。涙がぼろぼろ出て止まらない。「この美しい国を守るため俺は死ぬんだ。そう思うしかないと必死だった」

 練習航空隊で訓練を受けていた同年2月、「特攻隊を編成する。志願者は誰にも相談せず、紙に書いて提出せよ」と指示された。志願したくなかったが、「命令のまま」と書いて提出した。2日後、特攻隊員に指名された。

 岩手の寒村の実家は貧しかった。前年末に父を亡くし、母と4人の弟、妹の暮らしは、姉と桑原さんの仕送りが支え。「国が勝っても、家族はのたれ死にしてしまう。私の死は何なのか。苦しくて気が狂いそうだった」と振り返る。

 やりきれぬ思いを抱えた出撃。しかし、途中でエンジンが故障し、種子島に不時着した。1週間後に再び出撃したが、再び故障で種子島に降りその翌日に解散命令が出た。

 ■「生かされた私」 

 戦後、岩手県の金属工場に就職。仕事ぶりが認められ、これからだ、という24歳の時、肺結核で倒れた。右肺の大半を失い、呼吸困難の病床で死を覚悟したが、怖さはなかった。「自然な死だ」と納得できたからだ。

 それから特攻を見つめ直した。乙18期は、特攻に出撃した最も若いグループだった。命じられた死。強いられた大義。こわばった笑顔で出撃した戦友たち。「私たちは、理不尽に捨て駒にされた。みじめだった。生かされた私は、それを言わなければならない」。そう考えた。

 軍人として恥だとしても、本心を書き残そう。退院後、サラリーマン生活の傍ら、特攻についての資料を少しずつ集め、メモを書きためた。約30年かけ、58歳で手記を自費出版した。「本当は死にたくなかった」。自分の心に正直に向き合った末の記述に、予科練の先輩から「お前は軍人になるべきではなかった」と批判された。一方で「おれも同じ気持ちだった」と言う同期もたくさんいた。

 「国家の大義を受け入れた人もいれば、国より家族が大切という私のような人間もいた。思いを胸にしまい、鉛をのみこむ気持ちで死んでいった人もたくさんいる。だから、特攻をひとくくりにして、通り一遍の美談にしてほしくない」

 数年前、故郷の公民館や大学のゼミで講演した。日課は、健康のためのウオーキング。「精いっぱい、生きる努力をしています。幼くて世間も分からない時に、いきなり死と向き合ったから。特攻は二度と繰り返してはいけないんです」(上遠野郷) 
    −−「戦後70年へ 特攻、強いられた大義 『死にたくなかった』本心記す元隊員」、『朝日新聞』2014年10月23日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S11416423.html





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