日記:日本の国際的地位・名誉を毀損する曽野綾子さんと産経新聞という愉快な仲間たち

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例のごとくですが、『産経新聞』掲載された曽野綾子大先生の手によるコラムですけど、福祉の現場を小馬鹿にして、労働力がたらないから外国人労働者を「アパルトヘイト」という環境で受け入れて充足させてはどうかという珍説を繰り出し、国内のみならず世界中から批判にさらされております。

2月11日付産経新聞掲載の曽野綾子氏の発言が「日本にもアパルトヘイトを」論として英語圏に伝わっている - NAVER まとめ

曽野綾子さん「移民を受け入れ、人種で分けて居住させるべき」産経新聞で主張

ご自身は珍説を取り下げないご様子ですが、自分の認識や立ち位置に無自覚な特権階級の歪んだ世界理解と鼻で笑ってクローズさせてはいかんでしょうねえ。

1995年以降、こうしたトンデモやインチキが勢いをつけてきてる現状をみると、もはや「鼻で笑って」看過するではすまされないというのが現代日本ですから。

道徳の教材でも「誠実」を代表する偉人として取り上げられ、安倍内閣の教育関係の審議会の委員もつとめているということ。こうした、人種というそもそも学問的にも世俗的にもインチキな概念を根拠に人間の値打ちをはかって恬淡と恥じることのない人間が、国政中枢と親密で、次代の教育をデザインしている。

この「さかまさ」な状態をきちんと受け止めることからはじめるほかありません。
彼女の差別思想は異常なものであり、人類が長年かけて手に入れてきた良識に対する言わばテロリズムであるという認識を広く共有することが必要だと思います。その意味で、今回の批判が契機となり、なんらかの責任をとってもらうと同時に、ああいう手合を放置してきた日本という社会の異常さを自覚するためにも、放置してはいけませんね。

そいやあ、その『産経新聞』ですけど、今度は、南京大虐殺「そのもの」がなかったというキャンペーンをはじめたご様子。

日本の国際的地位・名誉を毀損することになった云々というキーワードが罵声の如く連呼されてますけど、アパルトヘイトを礼賛しながら未だに差別を区別とシラを切る曽野綾子や、そのコラムを載せ、南京大虐殺「そのもの」が無かったと捏造する産経新聞こそが地位や名誉を毀損してるのじゃあございませんかねえ。




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覚え書:「加藤周一と丸山眞男 日本近代の〈知〉と〈個人〉 [著]樋口陽一 / 学問/政治/憲法−連環と緊張 [編]石川健治 [評者]杉田敦(政治学者・法政大学教授)」、『朝日新聞』2015年02月08日(日)付。

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加藤周一丸山眞男 日本近代の〈知〉と〈個人〉 [著]樋口陽一 / 学問/政治/憲法−連環と緊張 [編]石川健治
[評者]杉田敦(政治学者・法政大学教授)  [掲載]2015年02月08日   [ジャンル]社会 

■個人・社会・国家、あるべき姿探る

 自民党改憲草案では、現憲法の「個人」という言葉が「人」に差し替えられている。些細(ささい)な違いとも見えるが、個人を基礎とする国家という近代の基本枠組みの否定となりかねないというのが、樋口陽一憲法学者たちの見解である。
 戦後日本を代表する知識人たちと自らとの関係を述べた『加藤周一丸山眞男』で、樋口は若き丸山の「弁証法全体主義」という謎の概念に注目する。国家が個人をのみ込む全体主義と、欲望追求だけの個人主義との双方を批判し、個人は国家をつくるが、「しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持」すべきだと丸山は述べた。樋口は、これを、自らが重視するルソーの思想と結びつける。
 単なる欲望の担い手たる「人」は、「市民」となって国家を構成することで、宗教や経済などの社会的圧力から解放される。しかし、その一方で市民は、国家に吸収されないように、国家への距離感も持ち続けなければならないというのが、樋口の立場である。
 同書では、加藤周一が「雑種文化」論で、「個人の尊厳と平等の原則」にもとづく民主主義の普遍性を認めつつ、伝統が異なる日本では「西洋と同じ形にならない」とし、「外来」と「内在」の接合を図ったことが引かれ、日本の文脈で思考する意義も強調される。
 樋口の薫陶を受けた学者たちの論集『学問/政治/憲法』も出た。樋口の師、清宮四郎の理論的背景をハンガリーまで辿(たど)る石川健治など、興味深い論文ばかりだ。山元一は、状況に合わせて力点を移す樋口理論のしたたかさを描く。国民主権の理解をめぐる杉原泰雄との1970年代の論争の際には、権力への対抗を論じた樋口だが、90年代には、市場主義への対抗上、国家の重要性をより強調するようになったという。
 蟻川恒正は、太宰治の「走れメロス」等を素材に、近代的な個人の尊厳とは、古代ローマ以来の身分的な特権の普遍化であることを示す。人びとが名誉を重んじて行動する限りで、尊厳は成り立つ。とすれば、尊厳を強調する樋口は、実は権利だけでなく、市民に義務をも厳しく要求しているのでは、というのが蟻川の示唆である。
 大学の教職を擲(なげう)って釜ケ崎に入り、労働者たちの弁護を務める遠藤比呂通(ひろみち)は、いわば地べたから師に問いかける。野宿者の生存の権利を認めず、申請するまで保護対象としないような法の運用は、「個人の尊厳が強調する自己決定の論理」の帰結ではないのかと。
 現実の権力を監視しつつ、理念としての共和国を遠望する樋口と、それに連なる人びとは、法解釈学の枠を超え、個人・社会・国家のあるべき関係という根本問題に取り組んでいる。
    ◇
 『加藤周一丸山眞男』 平凡社・1944円/ひぐち・よういち 34年生まれ。憲法学者。東北大、東京大などで教授を歴任。国際憲法学会創設委員を経て、現在、名誉会長。 『学問/政治/憲法岩波書店・4104円/いしかわ・けんじ 東京大教授(憲法学)。
    −−「加藤周一丸山眞男 日本近代の〈知〉と〈個人〉 [著]樋口陽一 / 学問/政治/憲法−連環と緊張 [編]石川健治 [評者]杉田敦(政治学者・法政大学教授)」、『朝日新聞』2015年02月08日(日)付。

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学問/政治/憲法――連環と緊張

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覚え書:「営繕かるかや怪異譚 [著]小野不由美 [評者]佐々木敦(批評家・早稲田大学教授)」、『朝日新聞』2015年02月08日(日)付。

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営繕かるかや怪異譚 [著]小野不由美
[評者]佐々木敦(批評家・早稲田大学教授)  [掲載]2015年02月08日   [ジャンル]文芸  
■ひとの想い解放する「建築小説」

 この連作短編集の主役は「家」である。いや、すまいと言った方が正しいかもしれない。全六編、いずれの物語でも、それぞれのすまいの中で、或(ある)いはそのすぐそばで、ふと妙な出来事が起こり始める、そこをすまいとする者たちは、最初は気にしないようにするのだが、出来事は次第にエスカレートしてゆき、ある時を境に、紛れも無い怪異としての姿を露(あら)わにする。祟(たた)りではなく障り。何かが、誰かが障っているのだ。そこに営繕屋が登場する。尾端(おばな)というまだ若い男で、名刺には「営繕かるかや」とある。つまり彼は家を修繕・改築するのが仕事だ。だが尾端には不思議な評判がある。彼はすまいに手を入れることで、障りを直すことが出来る。かといって彼は霊媒師ではない。障っている誰かの想(おも)いを推し量り、そこに宿る無念や悲哀を慮(おもんばか)って、営繕によって介抱/解放してあげるのだ。
 冒頭の「奥庭より」では、亡くなった叔母から相続した町屋に独り住まいの女性が、奥庭に面した狭い廊下の向こう、開かずの間と化した奥座敷の襖(ふすま)が、閉めた筈(はず)なのに開いていることに気づく。何度閉めてもいつのまにか開いている。そして或る日、そこから女が出てくる。ものすごく怖い。怪異がぬうと顔を出す瞬間の切れ味は、この作家ならではである。だが、かるかやの処置は、あくまでも家に、すまいに対するものであり、従ってこの種のお話にありがちな理屈抜きの神秘性とは一線を画している。尾端は文字通り、すまいを直す/治すだけなのだ。それぞれの主役である家の構造や設計は、緻密(ちみつ)かつ明晰(めいせき)に書かれている。かるかやが施す営繕もきわめて具体的だ。この趣向が本書に凡百の怪談、心霊、ホラー小説とは全く異なる新しさを与えている。いわばこれは一種の建築小説である。しかしそこでは同時に、ひとの心も建築として、すまいとして扱われている。
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 角川書店・1620円/おの・ふゆみ 作家。「十二国記」シリーズ、『屍鬼』など。『残穢』で山本周五郎賞
    −−「営繕かるかや怪異譚 [著]小野不由美 [評者]佐々木敦(批評家・早稲田大学教授)」、『朝日新聞』2015年02月08日(日)付。

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ひとの想い解放する「建築小説」|好書好日










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覚え書:「地球科学の開拓者たち 幕末から東日本大震災まで [著]諏訪兼位」、『朝日新聞』2015年02月08日(日)付。

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地球科学の開拓者たち 幕末から東日本大震災まで [著]諏訪兼位
[掲載]2015年02月08日   [ジャンル]科学・生物 
 
 幕末から現代までの地球科学の開拓者24人(外国人4人を含む)の足跡をたどる。幕末を生き延びた榎本武揚は、駐露特命全権公使を終えての帰途、シベリアを横断しながら砂金場やバイカル湖の地質を調べ、のちに、東京地学協会や気象学会の会長も務めた。地球科学の揺籃期(ようらんき)を牽引(けんいん)した自然科学者でもあったことがわかる。
 また、福島第一原発が建設される地方の地質調査をした関陽太郎は着工前に東京電力に警告していた。自然を軽視することの愚かさを伝えるとともに、過去の大地震をこえて発展してきた地球科学は、東日本大震災についても必ずや乗りこえて「一層発展するであろう」と書き、地球科学者の思いをこめている。
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岩波書店・2484円
    −−「地球科学の開拓者たち 幕末から東日本大震災まで [著]諏訪兼位」、『朝日新聞』2015年02月08日(日)付。

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自然軽視の愚かさを伝える|好書好日


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覚え書:「表現のまわりで:豊かな風刺のために 矛先は権力、必要な庶民の共感」、『朝日新聞』2015年02月10日(火)付。

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表現のまわりで:豊かな風刺のために 矛先は権力、必要な庶民の共感
2015年2月10日

(写真キャプション)「絶対王政時代のフランス国民」(作者不詳、1789年)=『諷刺図像のヨーロッパ史』(柏書房)から

 フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」の風刺画が、世界中で議論を起こした。風刺は人々の意識を映し出す鏡。歴史をひもときながら、風刺と社会の関係を改めて考えた。

 フランスの風刺の歴史は長い。フランス革命が起きた1789年に絶対王政時代の虐政を描いた戯画は、手かせ足かせをつけられた国民に、貴族や宗教者が馬乗りになっている。

 教会や教皇はたびたび風刺の対象とされてきた。ただ、「宗教を利用する権力者は批判するが、神やそれに次ぐ存在に風刺は向けられなかった」と風刺画研究家の清水勲さんはいう。

 清水さんが考える風刺の原則は「風刺は権力に向けること。弱者に向けてはいけない」。もう一つは「庶民の共感を得ること」。

 「市井のイスラム教徒の気持ちを傷つけては、良い風刺とはいえない。イスラム教を利用する権力者やテロリストが題材だったら、受け止められ方は違ったと思う。本当の敵と戦うために、もう少し工夫が必要だったのではないか」

 ■弾圧の時代に

 日本の風刺にも長い歴史がある。鎌倉幕府が倒れた翌1334年に掲げられたとされる「二条河原落書」の「此比(このころ)都ニハヤル物 夜討強盗謀綸旨(にせりんじ)」は乱れた世相を皮肉った。天保期(1830〜44年)には浮世絵師、葛飾北斎の風刺画がベストセラーに。「北斎漫画」収録の「くそ別所」は武士が用を足す厠(かわや)の外で、こっそり鼻をつまむ従者らを描く。

 明治期には風刺専門の新聞が登場した。1877年創刊の「団団珍聞(まるまるちんぶん)」は似顔絵による人物風刺のパイオニア。1901年に宮武外骨(みやたけがいこつ)が創刊した「滑稽新聞」は毒を含んだパロディーが得意だった。伏せ字だらけのように見せた論説は、検閲制度を皮肉っている。

 「言論の自由が制限されていた時代の方が、風刺の表現は豊かだった」と早稲田大学講師の文芸評論家、楜沢(くるみさわ)健さんはいう。

 川柳は1930年代に盛んだった。各地で結社や吟社が生まれ、日中戦争が始まる頃に川柳人口はふくらむ。川柳作家の鶴彬(つるあきら)は「手と足をもいだ丸太にしてかへし」「タマ除(よ)けを産めよ殖やせよ勲章をやろう」と詠み、1937年に治安維持法違反で逮捕。翌年、留置されたまま亡くなった。

 ■ネットの影響

 戦後、日本国憲法の下で言論の自由が認められた。ところが、「最近は風刺を嫌がる人が増えたように思う。風刺を汚いもの、空気を読まないものと見なし、口にする人を見下す。風刺の強さは、権力や同調圧力に対する抵抗の強さの現れなのですが」と楜沢さん。

 上智大准教授(比較文学)の河野至恩(こうのしおん)さんは、「ネットが風刺画の受け止め方を変えた」と指摘する。検索すれば瞬時に画像を見られるようになった。国境も文化の壁も越え、イメージは際限なく広がる。

 「風刺とは、正しいとされる価値観や絶対的な権威をひっくりかえすもの」。作り手の意図を正確に読み取るには、その背景にある社会や文化の文脈に則して解釈することが必要だが、文脈を知らない受け手もいる。「作り手は、想定していない読者にどう読まれるかを考えねばならず、難しい時代となった。受け手の側にも『良き読者』であることが求められている」

 (中村真理子

 ■善意や愛情あってこそ 美輪明宏さん

 風刺の根底には、善意や愛情がなければなりません。恨みだとか、商売のためだとか、品性下劣なところから発せられたものは認められない。言論の自由を振りかざす人がいるけれど、自由と放埒(ほうらつ)とは違います。

 私も皮肉を言うことはよくありますが、根底に善意や愛情、正義があれば、少々辛辣(しんらつ)でも、相手は「そうか、参ったなあ」と納得します。

 選挙演説を聞いて、共産党が一番まともなことを言っていると思ったことがあります。でも「共産」という、レーニンスターリン毛沢東といったマイナスのイメージがつきまとうネーミングを使い続けている。

 「愛の讃歌(さんか)」にちなんで「共讃」(共に讃〈たた〉える)とすれば明るいイメージになるんじゃないかしら、と方々で言ったり書いたりしていたら、共産党志位和夫委員長から「お心遣いありがとう」って手紙が来ましたよ。

 皮肉を利かせるのは、直截(ちょくせつ)に言うよりも、気が利いているし、スマートでおしゃれ。楽しいものですよ。

 (聞き手・中島耕太郎)

 ◇表現をめぐる「事件」が相次いでいる。大衆文化の作り手と受け手の間で何が起きているのか。その実相を見つめ直す「表現のまわりで」を随時掲載。明日は「サザン騒動」の予定です。
    −−「表現のまわりで:豊かな風刺のために 矛先は権力、必要な庶民の共感」、『朝日新聞』2015年02月10日(火)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S11593694.html





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